-- プロローグ/恋するパイロット --

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5.彼女の翼になる

 

 この前、春らしいシーツに変えたばかりだった。
 淡いグリーンの、優しい色合いの。妻が選んだシーツ。

「……なにか怒っているの?」

 いつもと変わらないさざ波の音が妻の声と一緒に、隼人の耳に届いた。
 この季節になったら小笠原なら、夜でも窓は空かしている。
 汗ばんだ肌でベッドに横たわっている隼人の隣にいる妻は、そんな窓辺に身体を向けて寝そべっている。彼女の肌はもう、冷めていた。

「怒ってはいない」

 先ほど、壁に彼女を押しつけて強引にものにした。
 彼女の両手を壁につけさせ、そして隼人も葉月の両手を壁に貼り付ける為に、自分の両手で押さえつけ……。いつもと違うと、戸惑う為に微かな抵抗で突っぱねる妻の腕と一緒に、隼人も腕を突っぱねた。同じような格好の立ち姿で重なり合って、愛し合う。違った。夫が奪う。そんなこと、隼人はあまりしない。いつもベッドの上で柔らかく激しく熱く愛し合うのに……。こんなこと。
 その後、なんとかベッドの上にもつれこんだのだが、隼人の執拗で一方的な勢いは収まらなかった。

「怒っていない。ただ、無性にお前を……」

 その先が、言いたいのに言えない自分がいた。

「無性に何?」

 滑らかで美しい背を見せていた妻が、やっと夫の方へと振り返る。アンニュイな眼差し。ゆったりとした動作で静かに隼人の胸の上に肌を寄せてきた。
 隼人の素肌に、濃厚な女の匂いを纏っている妻が寄りそう。触り慣れた乳房は、昔ほどの張りは無くなったが、以上に明らかに熟した妖艶な形と手触りになっていた。もしかすると、今の熟している乳房の方が、彼女が若い時のそれより柔らかいかもしれないと隼人は感じていた。
 またその乳房へと、隼人はふいに手を伸ばす。葉月がその手つきを眺めている。

「無性に、なに? ねえ……」
「無性に、奪いたくなった」

 なんだか照れくさかった。
 若い時よりずっと照れくさい。
 もう言葉など必要もなくなった夫妻だからこそ、改めて言葉にするのが照れくさいのだ。
 でも、今夜は言っておかないといけない気がした。なにせ、隼人の方が暴走したのだから。

「そうなの。驚いたけれど……でも、嬉しかった」

 照れくさい事を、口にしただけ……。
 なのに妻は幸せそうな微笑みを見せ、頬を紅潮させている。その熱っぽい眼差しで、今度は隼人の唇が塞がれた。しかも、長い……。

「む……っ、は、葉月……」

 長く熱っぽく、甘く妖艶な熱気が隼人の舌先にまとわりつく。

 困るなあ。困る。普段は冷たい顔ばかりのお前が、本当はどれだけ情熱的になれるか知っている夫の俺でも。今日のそれは困る。
 今夜の隼人は駄目なのだ。戻りたい、戻りたい。あの頃、苦しくて哀しい思いも散々味わったのだけれど、でも、あの頃が無性に懐かしい。この妻と前を向くだけのことで必死だったあの頃が。そんな妻に未だに熱っぽく愛されてしまう事は……。

 あろうことか、妻の指先がもう事を終えたはずの男の先に触れた。……あろうことかとは言っても、夫妻になってからはそんな妻の仕業は当たり前の仕業ではあるのだが。出会った頃、男を、隼人という男すら妙に拒んでいた若くてそして変なところだけ幼いままだった葉月を思い返すと、あの頃には有り得ないようなスキンシップを今の葉月は平気で挑む。

「ば、馬鹿。やめろ、無理だ……って……」

 先ほどの仕返しか。妻に文句を言う口を塞がれてしまう。
 そして、妻の指先に流されていく……。

 口では拒む夫だが、でも……実際には妻の指先が誘うのを、しっかりと堪能していた。 
 ただ、申し訳ないが。もう自信がないのだ。若い時なら一晩で二度三度、彼女と二人くったりとなるまで夢中になれた。だが、隼人もこの歳になるとそれほどタフでは無くなったのが現実。だからこそ、近頃の妻との睦み合いは『たった一回をじっくりと堪能する』為に、時間をかけてゆっくりじっくり焦らしながら愛し合うスタイルが確立されていたのだ。だから、もしここで隼人の根っこが欲しても、きっと……最後までは……。

 だが、哀しいかな。 
 そこまでその気に誘われて、しかも出来上がってしまったなら、最後がどうなろうと構わない気持ちにさせられる。

「このっ」

 夫の胸の上に寝そべって、誘っていた妻を今度は隼人の胸の下へとねじ伏せた。

「貴方。さっきのようなのはもうなしよ。いつものようにゆっくり、うんと愛して……」
「分かっている」

 葉月の勝ちだ。巧みにその気に持ち込まれた隼人は、それをお返しのようにして妻の中へと再び。

「あ、うん……」

 急に色めいた悩ましい顔つき。やんわりと切なそうに顔を歪め、甘ったるい声を漏らし葉月がそっと背を反る。隼人も、先ほどは勢い任せだったが二度目はいつもどおりにじっくり柔らかに丹念に妻の中へとさらに奥へと押し入った。
 年々、隼人の手の中で柔らかに熟した乳房を愛でながら、隼人は寝そべってよがっている妻を静かに見下ろし、ゆっくりじっくりと腰を動かした。

「あ……、隼人さん」
「な、なんだ……」
「う、ん……そのまま、そのままよ。おねがい」

 妻のどこを愛せば良いかも、熟知している。だけれど、実のところ今夜は余裕がなく、危なかしい。集中していないと、男としての敗北感を味わいかねない状態だった。
 こんな日は、それは勘弁して欲しい。何故なら……。今日は隼人の中には、今や体力や勢い、そして真っ直ぐな情熱では勝てないかもしれない若者がいるからだ。あの青年がどれだけのエネルギーを、隼人が知らない女の子にぶつけてきた事か。それが全て妻へとぶつけられていた事はきっと間違いない。

「貴方……隼人さん、はやとさ、ん・・・はや・・」

 葉月の指先がもどかしそうにシーツを握りしめ放しては、かき混ぜている。

 夢中になって夫の名を呼び続けている間は、間違いなく妻のピンポイントにヒットしていると確信できる。
 しかしそんなことも今やヒットできて当たり前。なにもかもが『出来上がってしまっている』のだ。そしてそれをこれからも続けていく。そして決して手放したくないもの。
 今、隼人の胸の下で従えている妻は熟した女。この女は今や、昔は決して見せる事のなかった淫らな行為を見せ、妖艶な顔になって、その熱気と匂いで隼人を虜にする。
 だけれど、この日の隼人は目をつむって妻を懸命に愛しながら思う。マルセイユの、髪の長い、煙草をくわえた、冷めた目の彼女。今の隼人の脳裏に映っているのは、あの頃の妻。いや、女の子だった。何を考えているか解らなくて、なかなか思い通りにならなくて……。でも隼人の胸の中を狂おしい想いでいっぱいにしたウサギ。今こうして愛している妻の向こうに揺れている、あの日のウサギへと隼人は手を伸ばす。そして若い頃は決して使いたくなかった言葉が今は平気で浮かぶ。
 ──ああ、あれは俺の中で永遠なんだ。
 どうしてだろう。何故、あの苦しかった若い日々が尊く思えるのだろう。二度と味わいたくない苦渋を噛みしめてきた日々の方が圧倒的に多かったのに。今は本当に、あの時に胸を焦がすほどに『恋を続けている』。マルセイユの潮風の中、空の色の中、初夏の光の下、ほんのりと僅かに浮かべた微笑みが愛らしい栗毛のお嬢さんに。いつまでも、いつまでも──。

「葉月、葉月……」

 妻が自分の名を何度も呼ぶから、それに同調するように隼人もいつの間にか、妻を呼び続けている。

「ああん、もう、もうっだめ……隼人さん……!」

 妻の両腕が隼人の首に固く巻き付く。ふとすれば、締め付けられているようにも感じるが、それほどに今妻が力一杯に俺の事を感じて、俺を抱きしめているのだと。

 この瞬間。葉月の中は俺だけ。

 それを感じて、隼人はやっと果てる事が出来る。
 しがらみ。それはどんな時だって無くなる事はない。夫妻の間でも。
 それでも、今この瞬間。二人の間にはなんにもない真っ白な気持ちに洗われる。

 

 真っ白になって、二人はなににも囚われずに固く結ばれた事をやっと実感する。

 

 いつになく連続した睦み合いだった為、隼人も葉月も揃ってそのまま眠りについた。
 どちらが早く寝付いたかは分からない。でも、気が付けば翌朝で裸のままの隼人の隣には、素肌で眠っている妻もいた。
 彼女の寝顔。年齢を重ね始めている女の顔になりつつあるが、やはり……マルセイユで隼人の前に忽然と現れた輝きに面影は、ちゃんと残っている。

 彼女が目覚めないうちに、隼人はそっと口づけを施す。
 お前は俺の所に、また帰ってくるのだと──。

 本日も快晴。妻はまた海と空の中へと挑んでいく。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 強い潮の匂い。どこまでも青い空の下、今日も真っ白な飛行服を着て直射日光が突き刺す甲板へと出る。

 

 やっとこの瞬間がやってきた。

 白い飛行服に身を包んだ男は今、小笠原の空にいた。
 襟と袖口をネイビーのラインで縁取り『水兵』をイメージした真っ白な飛行服は『ホワイトスーツ』と呼ばれている。
 フライト雷神のシンボルだ。シアトル湾岸部隊と小笠原の空部隊で選ばれたパイロットしか着られない特別な『エースの飛行服』。それが着たくて、湾岸部隊と小笠原を目指してやってくるパイロットが近年増えているという。

 英太は今、その『フライト雷神』のパイロットの一人。
 自分がまだ生まれていない頃に活躍していたという伝説のエースチーム。一時は解散させられたが、元祖雷神のパイロットだったトーマス准将が復活させ、今、パイロット達には憧れのフライト。

『ホワイトサンダー 6、7のコンビ。次は貴方達よ。位置につきなさい』

 ヘルメットから待ち望んでいた彼女の声が聞こえてきた。

「イエス、マム! 総監」
『イエス、マム!』

 英太は7号機。この機体を与えられた時、『ラッキーセブンだ』と喜び勇んだら、皆に白い目で見られた。勿論、憧れのミセス准将にも。このチームに関わっている者達は無邪気な冗談も通じないほどシビア。いつでもテンションがピンと強く張られていて、ちょっとでも横道に逸れたらピリピリしかねない。そんな気迫をいつでも維持している。そんな現場だった。
 6号機は、英太と共にフロリダから引き抜かれてきた『フレディ』。彼はほんの少し年上だが、英太とパートナー機、僚機として雷神2に入隊した時に組まれた『相棒』だ。

『英太、行くぞ』

 ほんの少し先輩と言う事で、いつでも彼が手綱を握りたがるのだが。

「aiaiさー」

 最初は取っ組み合いの喧嘩も良くやったが、今は軽く流す事を覚えた英太と、英太というどうしようもない暴れ馬の手綱の握り方を覚えたフレディのコンビは、互いを認め合うと途端にその飛行に磨きがかかるようになった。そして英太も、『この男と組んでもらって正解だった』と思う日がやってきたのだ。
 ただ、フレディとは親交を深めるようになっても、かなりライバル視されている。

 何故なら──。

『さあ、今日の准将は俺達にどんな喧嘩をふっかけてくれるのかね』
「しらねー。あのおばさんがなにを仕掛けてこようが、知ったこっちゃねーよ」

 英太は強がる。
 するとフレディの呆れた溜息が聞こえてきた。

『素直じゃないな……。ハヅキサンの仕掛けをゾクゾクして待っているのはお前の方だ』

 僚友の彼にも、既に見抜かれていた。
 だが英太はここでも決して自分から暴露した事はない。

「勝手に言っていろ。俺はただ、やってくる物をはね除けるだけさ。それが俺達、防衛を使命にしている守人のやるべきことだ」

 ただ、それだけ。
 いつも口ではそう言っている。

 だけれど、僚機であるフレディには気が付かれている。
 英太とミセス准将が空ではどんな関係を見せつけるか。
 そして英太はそれを毎日毎日待っている。そう、彼が言うとおりにゾクゾクして待っているのだ。

『来たぞ、英太!』
「俺が後ろ行く。そっちは前に行って空母を狙ってくれ!」

 いつもの演習が始まった。
 先ほどまでは、同じように先に行く二機を追いかける役をしていた。
 今度は、6、7機。フレディと英太が空母を狙う番。そして先輩達がそれを阻止しようと背後から防衛に回る番。
 防衛組を指示しているのは、空母甲板でレーダーと新しいシステムでパイロット達の飛行を眺めているだろうミセス准将。

 フレディが空母艦へと直進飛行、英太のレーダーにずんずんと空母艦へと向かっていく点を眺めながら、英太はレーダーの四方に映し出された小さなディスプレイを眺める。『ホワイト』の方々に取り付けられているカメラ。この手のひらサイズの四方のディスプレイには、英太が搭乗している機体の上方、下方、右方、左方に配置された特殊な小型カメラが撮影するコックピットや機体外部の空の映像を実際に映し出す。
 ただまだテスト段階。画像は安定しないし、カメラ自体が回転をしないから、ある程度の撮影しかできず、僅かな情報しか映し出されない。それでもこのディスプレイに映し出された事で、目視では確認できない死角を把握する事も出来ることもある。逆に、勘で動く感覚を覚えてしまっているパイロットには、判断を鈍らせる原因になるとのクレームも現役パイロットの声であがっている。それでも、開発部はそのクレームを取り入れつつも、まだこの新機種の機体からカメラを取り外さない。つまり、英太は実験中の機体に乗って訓練をしている。雷神のパイロットは皆、そう。実験しつつ、訓練をしているテスト飛行のパイロットでもあるのだ。

 その四方カメラがそれぞれ追ってきた機体を捉えた。
 上方に一機、下方にも一機、当然のように右方、左方にも!

「こんのやろうっ。俺、7号機一機狙いかよ!」

 葉月の作戦は、前方を行った6号機は無視。先ずは殿を買って出た英太の機体を確実に撃ち落とし、それから全速力で6号機を追うという物らしい。
 なにも彼女は英太と勝負をしているわけじゃない。他のパイロットにもあの手この手で攻めてくる。こんなパターンもある、あんなパターンもある。彼女はそれをどんどんと突きつけてくる。如何に状況判断力を高めるか。そんな訓練をしっかりとやらせてくれる。

 ……彼女の意図が分かるまで、英太も時間がかかった。
 だが、今は彼女を信頼して、パイロットとしての精神も身体も預けていた。

 そんな彼女が英太に突きつけてきた状況。
 四方を包囲される。フォローをしてくれる機体は一機もいない。フレディが戻ってきてくれたとしても、その間に英太は撃ち落とされるだろう。

「くそ。最近、葉月さん……難易度、あげてきたな」

 にっちもさっちもいかない状況を押しつけてくる。
 先週も何度も撃ち落とされた。だからこそ、英太は燃える。
 そして彼女の声が、英太の心の中で響いた。

『どう、英太。もうこれぐらいじゃないと、貴方は満足できないはずよ』

 きっと、そう思っている事だろう。だから、こんなむちゃなフォーメーションで英太一機狙いで強行に攻めてきた。

 でも。この時、英太は操縦桿を握りしめて、にやりと笑っていた。
 そして、血が騒ぎ始める……。

『英太、大丈夫か! お前、囲まれているぞ!』

 前方、空母艦狙いで飛んでいるフレディの声。

「ちっとも。平気だ。そのまま行ってくれ!」
『分かった。信じているぞ』

 僚友との息の合方はばっちりだ。
 心配だろうが、英太ならと任せてくれるフレディはずんずんと前に行く。
 だが実際には英太は窮地。もしフレディが任務完了の空母艦ロックオンを成功させても、英太は捨て駒で犠牲になるだろう。……これは訓練だ。だから撃ち落とされる=ロックオンをされてもどうってことはない。しかしそうはいかない気持ちで訓練をするのがトップパイロットだ。ロックオンをされるということは、英太には『死』を意味する。これが本番なら、瀬戸際だ。

 レーダーの四方ディスプレイには、徐々に幅を狭めてきている先輩達のホワイトサンダー。
 操縦桿を握りしめ、英太は深呼吸。敢えて──カメラ画像を映し出す四方ディスプレイのスイッチを落とした。
 つまり『今からは勘でやる』という判断。これは英太と同じように『こんなの邪魔なだけ』と思っているパイロットは、必要なければスイッチで画面を切る事ができるように隼人のチームが作り直してくれたもの。

「ごめんよ。隼人さん。俺には邪魔なんだ」

 そして操縦桿と握りしめ、英太は前だけを見据えて耳を澄ました。
 自分が乗っている機体の音ばかり。だがやがて、英太の耳には微かな音の違いが聞こえてくる。それを四方、聞き分け、操縦桿を激しく動かす!
 前、右、下、左……! 四方から迫ってくる先輩達をかわす。ロックオンをされない為に機体を揺らしに揺らし、そして時には旋回をしてなんとか包囲網から抜け出そうとする。今、英太の脳内変換は、サッカーのフィールドで執拗なマークを外すミッドフィルダー。だが、四人のマークはベテランの先輩達。ニアミスを起こさない程度の絶妙な距離感で英太の機体へプレッシャーをかけ、圧迫感を突きつけてくる。この狭い空間での旋回は、かなりの小回り。それをやると機体は大きく回転し、そしてかなりの重力『G』が英太にのしかかってくる。

「……くっそ」

 駄目だ。先週もこのパターンで葉月に何度かやられた。
 彼女にこうして甲板からやられている。
 雷神へと引き抜かれた最初の頃は口惜しかった。彼女に妙に苛められているような気にさえなった。
 だが、今は違う! これは葉月から英太への『期待』なのだ。

『英太。これを超えて!』

 英太の脳裏に彼女の声が響く。彼女が英太に突きつけてくる要求は日に日にレベルを上げている。
 だから、フレディがライバル視をする。──『お前は、葉月さんに期待されているんだ』。そして、英太はことごとくその要求に応えてきた。
 近頃では先輩達も必死だ。どんどん腕前を上げてきた下っ端の若僧に、これ以上抜かれてたまるかというプレッシャーを、この訓練本番に、正々堂々とテクニックで向かってくる。

『超えてちょうだい。そして、私の所に帰ってくるのよ!』

 実際に彼女がそう言っているわけではないのに、英太の脳裏にそんな彼女の声がこだまする。
 それが英太の糧。それを胸に、英太は斜め下へと頭が向いている状態の旋回に歯を食いしばる。

「英太。だいぶ、苦戦しているわね」

 英太が勝手に空想させて響かせていた葉月の声が、急にクリアに聞こえてきた。
 先輩達の防衛組を指示していたはずなのに。チャンネルを変えて、英太の機体にアクセスしてきた。

「く、苦戦なんかしているものか!」

 いつもの生意気な声を英太は張り上げる。
 だが次には彼女独特の、どんな時でも平坦な冷めている声が届く。

「上のプレッシャーに騙されないで。いい、横に空間を作るのよ」
「わ、分かっている!」
「カメラ画面を切っているのね。いいわ、そのまま……」

 英太のコックピットではカメラ画面は自ら切って真っ暗にしているが、7号機のカメラ映像は空母艦にいる葉月の元に届いているはず。そんなシステムを通信を隼人達工学科のプロジェクトチームが実現させていた。
 なんでも葉月の当初からの希望で『甲板にいてもコックピットにいるような感触を得たい』という願いを元に開発されたのだとか。
 今頃、空母艦では御園葉月総監の周りにセッティングされた機器に、英太7号機のコックピットが映し出され、さらには英太の機体がどのような状況に置かれているか、四方カメラからの映像も送られているはずだ。

「横よ。やってみなさい」

 いつもの強制的な命令の、冷めた声。
 前は腹を立てていたが、今の英太は彼女の声に耳を傾け……。

 上、上。上への機体へ逆にプレッシャーをかける。突き上げられた上の機体が上昇した分空いた空間で英太は旋回をする。
 英太が機体を傾けると、それと同じように左右を包囲している先輩達が機体を傾けぴったりとくっついてくる。これがやっかいなのだが、上下にいた機体のプレッシャーが解除された。
 そのまま急な角度で旋回をする、どこまでも片翼を海原へと向けながら気流を引き裂き、降下しながら旋回する。やがて緩みが生じたのを英太は見つける。

 だが、その緩みが生じたのは一瞬だ!
 そのほんの僅かな隙間に英太は目を光らせ、その瞬間を逃すまいと操縦桿と握りしめる。今度は逆旋回。その空間にねじ込む事は『危険度高』。ニアミス覚悟の荒技だ。しかしこの場合はこれしかない! そうでなければ自分が餌食にされるのは時間の問題だ。

 英太がそう意を決した瞬間だった。

「英太。右、3号機の左翼の下方よ!」

 心臓がドクリと動いた! 英太も同じ所を見定めていたからだ。
 英太が飛び込もうとした『ほんの一瞬に出来た隙間』。それを──甲板でカメラ映像を見ている彼女も見定め、感じ取っていた! パイロットにしか分からない、一瞬の感覚を──。彼女も……!

 わかってる! 俺もそこを見つけたんだ、葉月さん!!

 英太の心が嬉々と叫んだ。
 強く握りしめる操縦桿を、がちんと傾ける。

 俺と彼女がシンクロしたその隙間に、俺は行く!

 ゴウと切り裂く英太の右翼。
 操縦桿をめいっぱい傾け、そして自分に襲いかかってきた度々のGに歯を食いしばり、額に汗をにじませる。
 横目に、先輩の3号機の翼が英太の機体の上をすり抜けていったのが見えた。

「そのまま、降下──!」

 分かってる、分かっているよ、葉月さん──。

 斜めの体勢での急降下。心臓が押し潰されそうだが、英太には……まったく……。
 気が付けば、もうかなり高度が下がっていた。

「英太。フレディが仕留めたわよ」

 ……真っ白だった。
 ただ彼女の声だけを耳にして、英太は操縦桿を握りしめている力を緩めた。
 高度を上げ、機体を水平に戻す。激しい呼吸、汗。身体は極限状態に追い込まれ、悲鳴をあげていた。

 しかし。英太にはこれが『快感』。

「よくやったわね。見えたわよ。白昼の稲妻──まさにそれだったわ」

 水平飛行をしながら、英太はただ微笑む。
 彼女に労われて初めて、英太は達成感を得る。

 白昼の稲妻。
 英太の白い飛行服に縫いつけているワッペンは、真っ白な空に黄金の稲妻。元祖雷神は夜空だったから、今度は白昼にしたのだとか。そして雷神2がテスト飛行として乗り込んでいるこの機体が『ホワイト』と呼ばれ続けてきた事から、『白昼の稲妻』と言われるようになっていた。

「いいわ。かなり極限状態だったはずよ。着艦しなさい」

 葉月からの命令に、英太は息を切らしながらやっと言葉を発する。

「……暫く、流してきても構いませんか」
「いいわよ。あまり遠くに行かないで。十分程度で戻ってきなさい」
「ラジャー」

 葉月からの通信が、そこでぷつりと切れる。
 残っている先輩達の指導に戻ったのだろう。

 とてもじゃないが……。
 このまま直ぐに着艦出来そうにはなかった。
 かなり興奮している。アドレナリンが瞬時的に大放出したからか。
 落ち着けば落ち着くほどに、身体中の汗が噴き出てくるのが分かる。

 快晴の空をただゆったりと飛びながら、英太はもう一度思い返す。
 先ほどの、極限の瞬間を──。

 彼女とシンクロした感覚を得た瞬間。
 そこからは、この空の中、彼女と絡まり合って抱き合っているような感覚に落ちる。
 たぶん、彼女はまったくそんなふうには感じ取っていないだろうが、英太にはそんな想像が頭に浮かんでしまう。

 空なら。
 彼女と俺だけの、誰も邪魔できない瞬間がある。
 夫の隼人さんでも、ここには入り込めないだろう。
 だから、それを毎日求めている。滅多に得られない瞬間だが、それが彼女の下で飛ぶようになってから度々得るようになった。

『貴方は私の代わりに飛ぶのよ。分かるわね、私が言いたい事──』

 その意味がようやっと分かった。
 彼女と出会ってから様々な衝突をしてきた二年間。
 二年前の英太は、こんなではなかった。だけれど、彼女も真っ正面から英太に臨んでくれた。その為に彼女は、もう二度と飛べないと言うのに……あんなことまで……。

 でも、今は──。
 俺は飛べなくなった貴女の翼になる。

 英太の揺るがない想いは、そこ一点に集中していた。

 

 

 

Update/2008.4.7
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