-- エースになりたい --

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7.可愛いパイロット

 

 もう辞めてやると決め込んでいたのに。
 週明けの月曜日、英太は叔母のマンションから意気揚々と横須賀基地に戻ってきていた。

「おはようございます」

 向かったのは、空部隊本部。そこの一角が今の英太の居場所だった。

「おはよう、鈴木。今朝も早速で悪いが、今日と明日の各所ミーティングの……」

 書類を一束にまとめたり、コピーなど。パイロットであるはずの英太が何故かそんな事務仕事を、いや『雑用』をこなしていた。

 雑用だなんて、まっぴら御免……だったはずなのだが、今、どこにも身の置き場がない英太の為に、長沼がこの仕事を与えてくれたのだ。
 こんな事務官がひしめき合うデスクワークの世界に放り込まれたは初めてだった。しかし、だった。

 朝の始業ラッパが基地中に鳴り響き、英太は隅っこに与えられたデスクで黙々と事務作業……もとい、新人がやるような雑用を黙ってこなしていた。
 それだけじゃない。『何故かパイロットの若者が紛れ込んできた』ことを遠巻きに見ていたこの部署の男達。その彼等が様子伺いに、または、興味本位で英太に近づいてきて、ちょっとした用事を言いつけてくる。だいたいはファックス送信だったり、メールの確認だったり、他部署とのコンセンサスの確認連絡だったり。他の男達のちょっとしたお手伝いが、始業するとざあっと集中したりする。

 だけれど。『コックピット』に一度は別れを告げようとしていただけに、今はまだ『俺の最高の場所』だったはずの空へのシートへの信頼感が戻らず。そして、まだ何処かで躊躇いつつ。そんな迷いと向き合ったり、そして深みにはまりそうになったら無我夢中で、幾つもやってくる小さな仕事にがあっと集中してみたり。それで結構気が紛れていた。

 午前中の仕事の波が取り敢えず収まると、班長の少佐が英太の元にやってきた。
 今、英太を指示してくれる少佐は、英太の手元を見て、とても満足そうだった。

「要領良いね。意外だったよ。長沼さんに頼むと言われた時はどうしようかと思ったけれど──」
「俺だって必死っすよ。事務なんかしたことないんですから」
「コピーが出来て、キーボードが打てて、メールが出来て。簡単な書類が作れて、適度な電話応対が出来る。それだけできればなんとかなる」
「ちょっとのことなら、パイロットだって班室で書類作成しているんですから。これぐらい。でも、他の皆さんはもっと集中しているし、見ていると俺、気が狂いそうですよ」

 『外勤現場の男にはそう見えるか』と、少佐が笑った。
 だがそんな彼がその機嫌のまま、何かを探るようにただ微笑んでいる。英太は訝った。少佐がそっと英太に近づいて小声で聞いた。

「それで。今後、長沼さんはどういうつもりなんだろう?」
「はい?」
「鈴木を、うちにくれるのかくれないのかって話、出ていないか?」

 英太はぎょっとした。

「それって。俺を、ここに置いてくれる……ってことっすか?」

 少佐はウンとは言わなかったが、ただ英太をニコニコと見ているだけ。しかしそれは充分な答だった。
 とんでもない……! ちょっと珍しい業務に関わった新鮮さも手伝って今はこの仕事を黙ってしているが、英太にその気はまったくない。

「でも、前の部隊には戻らないのだろう? それなら今度はどこのパイロットになるというのか? ……まあ、良くいるよ。コックピットは過酷だし、精神的な事も手伝って続ける続けられないはそのパイロットによりけり。パイロットの現役引退適齢期まで全うしてもコックピットにいられる年月は割と短い。空部隊にいれば、この本部に事務官へ転向した空から降りてきたパイロット隊員は沢山いる。だから、鈴木も……」

 まだ若いが、コックピットに見切りをつけて事務官として新しい道を進み始めようとしている『元パイロット』だと思われていたようだ!
 しかし、英太は否定できなかった。確かに……。コックピットに見切りをつけてあの研修で滅茶苦茶な飛び方をして追い出してもらおうとしていた。だからとて、コクピットを降りて事務官になってでも軍隊の世話になろうとは思っていなかった。英太にとって『軍隊』はイコール『コックピット』。コックピットがなくなるなら、軍隊にいる事など意味はないのだ。

「鈴木なら歓迎だ。見込み有る。うちに欲しいねえ」
「あはは。……長沼さんと相談してください」
「そうしよかな」

 少佐には適当に今何を考えているか誤魔化し、困る事は全て長沼に流れていくように逸らしておく。

(まずい。春美と約束したとおりに、今日中に長沼さんに返事をしよう!)

 目の前に用意された雑務を取る手が、今日はいつもより焦っていた。
 そんな本部の片隅でこなしていると、どこかの会議から帰ってきたのか、長沼が姿を現した。
 英太は早速、手元の仕事をそれとなく手放し、少佐にそれとなく離席の許可をもらってそっと秘書室へと向かおうとしたのだが……。デスクを立ち上がると、そんな長沼と目が合った。

「鈴木。ちょっと来てくれる?」

 いつものにこやかな穏和な微笑みで、彼が英太を手招きしていた。
 彼の笑顔が実は怖い事を知っている英太は、ちょっと緊張した。中佐の長沼がそう言えば、受け持ってくれている少佐も二つ返事で英太を送り出してくれた。

 なんだろう? このタイミング?
 英太が動こうとしたら、長沼がそれを知っているかのように……。

 

 長沼に促され、英太は彼の仕事場である本部隊長大佐を補佐する秘書室へと入った。
 長沼は秘書室長ではないが、補佐官としてそこにデスクを持っている。秘書室には誰もいなかった。彼は自分のデスクに座ると、そこに立たせている英太に早速尋ねてきた。

「そろそろ、迷いも吹っ切れた?」

 いつものにこやかな笑顔。
 最近はなんだかその笑顔が妙に胡散臭く見えてきて、彼がその笑顔の下で何を推し量っているのかと英太は構えてしまう。
 なによりも、そんな優しい笑顔を見せながらも、長沼がそんな質問を今の英太に投げかけてきたそのタイミングがまたあまりにも素晴らしすぎて、英太は絶句したいぐらいだった。

「はい。決めてきました」
「そう。辞めるの、辞めないの?」

 なんとも単刀直入な質問。
 きっと彼はそうして穏やかな顔を見せているが、実際はなんとも冷徹にシビアに割り切る心を持っているかだった。無駄が一切ない……。英太にはそう感じた。だから英太も単刀直入に答えた。

「はい。腹を決めました。小笠原に行かせてください」

 さて、長沼の反応は?

「そう、分かったよ。小笠原のミセスにそう伝えておく」

 いつもの微笑みでそう言っただけだった。

「いいよ。ミセスからの返答が来たらすぐに伝えるから、それまで束の間のデスクワークを全うしておいで。意外と良くやっているみたいで驚かされたよ」
「いえ、本当は苦手なんですが」
「橘がちゃんと仕込んでくれていたんだって、よく分かったよ」

 はい……。俺も、こうなってみて身に染みています。
 そう言いたかったが、長沼には既にそれも見抜かれているようで、英太は口をつぐんだ。

「ミセスからの返答は、一週間ほど待ってくれるかな」
「はい……」

 ひとつだけ心配な事があった。
 それはこの日、返答するまでに半月ほど経っていることだった。
 だが長沼には『もう鈴木は橘の下ではなくこの長沼の配下にいるから、暫くは事務仕事をしながらゆっくり考えろ』と言われていたのだ。その間、返事を急かされる事はなかった。それを……英太は気にしていた。あのミセス准将はもうとっくに気が変わっているのではないかと。

「あの、自分が答を出すまで半月ほど経っているのですが。御園准将はそんなに長く待ってくださっている人なのですか」

 このシビアな世界で生きている人達。そんなにゆったりしているものだろうか? ましてや、偶々目に付いただろう一介の若いパイロットの為に。

 するとどうしたことか、長沼がふと……いつにない不敵な笑みをこぼしていたのだ。

「ああ、待っているだろうね。あの人はね。面白い人なんだ」
「面白い?」
「そうだよ。彼女と付き合って行くには、常識を信じていたら駄目だ。あの彼女は人が当たり前に思っている物事の裏を上手く読む人なんだよ。うっかりしているとなにもかもひっくり返される。鈴木も、これから彼女の訓練を受けるだろうけれど、彼女の戦略を知るなら、彼女のその手を知っておいた方が良いよ」

 ミセス准将の戦略──。
 英太はその言葉を耳にして、初めて彼女と向き合った面談の日を思い返していた。
 長沼が言う『彼女のやり方』で英太も思うところがあった。きっと初対面の英太も既に裏をかかれていたのだろう。あのふてぶてしい態度で英太に不快感を与え、そうすることでまるで英太の価値観を試しているかのようだった。もしかすると、あんなふてぶてしい態度を見せつけておいて『腹が立たぬ従順な青年ならいらない』、彼女はそんなところを見定めようとわざとあのような態度をしていたのではないかと──後でそう思ったほどだ。その上、彼女は素知らぬ振りをして退屈そうにしていたのに、側近の中佐が英太に繰り返した質問をどう答えているかちゃんとメモをして英太の心の奥まで見透かしていた。

 そんなミセスの戦略。それを空で知る事が出来る日が来る?
 そう思うと、どうしたことか英太の胸が騒いだ。何とも言えない高揚感が襲ってくるのだ。

「長沼さんは、ミセス准将とは空を飛んだ事は?」
「あるよ。彼女が戦闘機乗りになったばかりの若い頃ね。彼女はあの頃から独特の雰囲気もあって、とても可愛かったよ」
「可愛い?」
「うん。可愛かったよ。彼女が甲板に現れた時、男達が騒いだ事騒いだ事──」

 いつになく長沼が楽しそうに話してくれた。彼にとってはそれは良き思い出のように……。

 しかし英太は想像に困る。初めて会ったあの人は既に『落ち着いた大人の女性』だけれど、この長沼が『可愛かった』と言うほどに、若い頃もかなり男達の目を引いていたようだった。
 しかもパイロットでありながら『可愛い人』と言わせる。あのミセスの若い頃を英太は懸命に想像したけれど、どうしてもあの冷たい優美さしか思い描けなかった。
 懸命にそんな想像を馳せていると、また長沼が彼女の事を教えてくれるのだが、今度の彼はとても神妙な顔に変わった。

「こんな可愛い女の子が乗るのかって他のフライトメンバーとちょっと小馬鹿にしていたけれど、それは間違いだったね」
「間違い? どんな飛び方をしていた人なのですか?」

 可愛いと男達に思わせたあの人が、これほどの男達を『唸らせた飛行』ってどんなものなのだろう?
 英太の胸が騒ぐ──。
 すると長沼の顔が強張った。

「俺は彼女とは二度と飛びたくないと思ったね。他の男達も同じで、彼女と空に出ると誰も彼女の側には寄りつかなかった。一緒にいると俺達も地獄に落とされる──。彼女の飛び方はそういう……」

 そこで長沼がいつにない渋い顔で黙り込んでしまったので、英太は驚いた。
 そんなに──? あの華奢に見える優雅な女性が? 同世代の男共に『二度と御免』と言わせるほどの飛行を!? 英太の血がまたザワザワとしてきた。
 しかし長沼も思わぬもの思いをしていることに気が付いたのか、はっと我に返った顔。

「まあ、小笠原に行けばいろいろと噂話も身近に聞く事が出来るだろうけれどね。……むしろ。お前から、准将に直接聞いてみな。彼女、お前なら、いろいろと話してくれるかもしれないよ」

 英太は『まさか』と苦笑いをした。
 彼女がいるポジションと英太のいるポジションは開きすぎている。彼女はお偉い将軍だし、英太は一介のパイロットだ。そんなに距離があるのに、彼女が個人的に話してくれるはずなんかない。

 それにあの冷たい顔──。
 英太には彼女のあの冷たい顔がどうしてか忘れられない。
 怒ったり、妬んだり、泣いたり、調子良く笑ったり。そんな人間の顔ばかり見てきた。
 なのに。あの女性はそれらのどの表情も顔には宿さなかった。あの冷たい顔がとても印象的だった。
 そんなあの人が、気軽に話してくれるとは……。

 でも何故だろう。
 長沼がそう言うように、英太は彼女の何かを既に気にして、何かを知りたいと欲しているような気がしてきた。
 それは何故なのか。

「ミセス准将は、何故、俺……だったのでしょう」
「そりゃ。あの飛行が気に入ったんだろう?」
「上官の命令に反して──。そんな飛び方だったんですよ」

 すると長沼が笑った。

「小笠原に行ったら分かるよ」

 どうしてですかと、英太が聞き返しても、長沼はもう、いつもの穏和な笑顔を見せるだけで答えてはくれなかった。

「まあ、返答が来たらちゃんと報告するから。暫くまた少佐の班で待機していてくれないか」
「はい」

 でもと、英太はもう一度、長沼に問うてみた。

「……断られたら、はっきりと教えてください。あまりにも時間が経っているのでそれも覚悟してますから」
「だから。それはきっとないと。ただ……あと一週間程、待ってほしいんだよね。そこは焦れても我慢してくれるかな」

 英太にはちょっと理解しがたかった。
 ミセス准将は半月も英太の答を待ってくれ、尚かつ、シビアなはずの長沼までもが、ミセスとの答を出すのに『一週間も待ってくれ』と言う。こういうのってもっと迅速に判断し、決断を下して急いで次に行くのかと思っていた英太には意外だった。

 そこで長沼がまだ不思議そうにしている英太に気が付いて、なんだか今まで以上に楽しそうに微笑んだのだ。

「いやあ、鈴木のお陰で、小笠原との交流も上々だよ。彼女の旦那が関わってきたようで……『しめたもん』だよ。大丈夫。鈴木のことを彼女は小笠原で待っているよ」

 まるで独り言のように言っている長沼の言葉が理解できず、英太の周りには沢山の疑問符がふよふよと舞うだけだった。

「まあまあ、本当に近々、返事をする。ああ、そうだ。叔母さんは大丈夫なのか?」
「はい。叔母に行けと言われました」
「そう。じゃあ、叔母さんの為に頑張らないとな」

 いつもの笑顔で、長沼にそこで『もういいよ』と終わりにされた。
 なにか腑に落ちないが、英太はこれで『返事』はした。後は小笠原からの返事を待つだけになった。

 その数日後だった。
 また長沼に呼ばれ、彼に言われた。

「明後日、甲板に戻って相原の訓練を受けてくれるかな。一日で良いんだ。お前も乗っておかないと腕がなまるだろう?」

 コックピットと別れを告げようとして半月程。
 英太は再び、コックピットに戻る。

 本当に戻れるのだろうか?

 今までとは少し違う感覚を英太は感じ取っていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 海原に反射する日射しが、真っ白に跳ね返ってくる。潮風も初夏の匂い。
 その日、隼人は横須賀の空の下にいた。
 横須賀の海の上──。連絡船に乗って、空母艦を目指している。

 いつものネクタイの制服に、今日は特別にサングラス。上着は脱いだ。日射しが強くなる季節になってきた事もあったが、気持ちは『どこの人か分からないようにしたい』為だった。

「長沼さん。うちのミセス准将が見たものと同じものを見せてくださいよ」

 隼人の目の前には、長沼がいる。
 彼と船室で向かい合って座っていた。

「たぶん。見られると思いますよ。ただですね。あの青年も少しばかり不安定で浮き沈みが激しいというのでしょうか」
「ふうん。つまり『気まぐれ』ですか? それは益々もって、興味が湧きますね。うちのミセスも、現役だった時はそれは不安定で──」
「それで、奥さんはあの飛行が出来ていたというのですか? さらには鈴木まで? その情緒不安定がパイロットとしての栄養剤だったというならば、私のような平和な男には到底、あの域には辿り着けなかったということですよね」

 いつも穏やかな長沼がいつものにこやかさで隼人に向かっているのだが、言葉の端々に妙に刺を感じ、隼人は彼をふと見つめてしまった。
 そして長沼も、目の前にいる『御園大佐』には他の誰にも見抜かれない何かを知られたかのようにはたと我に返った顔。

「いえ。私にもまだ、パイロットとしてのプライドというものが残っているんですよ。私だけじゃない。コックピットにいた男達はいつまでもコックピットに乗っているような気持ちで居続けたいのですよ。それなら、同じ男として『澤村さん』も分かってくれるでしょう?」

 少し前の隼人の通称で呼ばれた。

「ええ、多少なりと。うちの奥さんもそれですからね」

 つまり……。引退したパイロットではあるが、葉月の現役の才能を認めていた男が、その若者の才能にも嫉妬をするほど。『鈴木英太』というパイロットは、どうも妻だけじゃなく、コックピットを降りた男達の心も掻き乱すほどの飛行をするのかと、隼人は密かに息を呑んだ。

 

 この日、隼人は『鈴木英太』の飛行を見に横須賀に来ていたのだ。

 

 なんとか、長沼が納得してくれそうな条件を整え、隼人は横須賀に乗り込んできた。
 長沼も首を長くして待っていたようだ。ミセス准将が自ら『手土産』をひっさげてくるよりも、工学科で航空機に関わっている隼人が『手土産』をひっさげ交渉に来た事を彼は待ち望んでいたようだった。つまり、それだけ彼は『新機種ホワイト』を欲していると言う事だった。

(やはり。彼の狙いはそこだったか)

 隼人は心の中で舌打ちをした。
 雷神のパイロットをよこせとか、ホワイトの整備士をよこせとか。葉月と隼人にしては手放したくないものを要求して困らせ、代替えを考えさせる。長沼の戦略に乗らざる得ないところに持って行かれていたということだ。
 しかし隼人としてもその道を選ぶしかなかった。機体はこれからいくつも製造していくことになるだろうし、いずれは横須賀にも配置予定。だが『人材』はそうはいかなかった。雷神もホワイトのメンテナンサーも、どちらも葉月と隼人が時間をかけ足を使って吟味した男達だ。簡単に手放すことなど出来ない。
 そして長沼に『手放せない人材を手放せるほどに、鈴木という未知数のパイロットが必要かどうか』を突きつけられていた。
 見つけた本人である葉月も多少の迷いがあるようだったが『もし彼を引き抜かなくても、私の心にはあの子がずっと残ると思う』とそう言いきっていたのだ。
 しかし、隼人としてはまだ見ぬ青年パイロット。妻の感覚を信じているが、失敗はしたくない。

 そこでだった。隼人は長沼にコンタクトを取り願い出た。
 『その青年の飛行を一度、見せてください』と。長沼は『まだ本人から返事をもらっていないのですよ。彼の返事を待ってからでも良いのでは? 彼は軍隊を辞めるか辞めないかというラインで今迷っているんですよ。コックピットに戻る気がないかもしれませんし』。と言う事だった。
 そうか。鈴木という青年が軍隊を辞めてしまうなら、こんな交渉も意味がない。前もって聞かされていたとおりに、彼が発病した叔母との闘病生活に専念するというのならば、この青年との縁はなかったものと隼人は思うし、妻の葉月も『家族を取ってしまったら、私も諦める。それがあの子の人生だったのだと』──と、気持ちの整理をつけていた。
 だが、数日前。ついに長沼から連絡が来た。『鈴木をもう一度だけコックピットに戻してあげようと思っています。彼がまだ迷っているようなので、コックピットにもう一度乗り込めば、心もはっきりするかと……』。──そんな連絡だったが、まだ鈴木という青年は小笠原に行くかどうか、妻の誘いの返事を出していないとの事だった。

 そうして隼人は『手土産』を持参して、鈴木というパイロットの飛行をこの目で確かめにやってきたのだ。

「でも彼はそれほどに、元パイロット達の心を掻き乱す飛行をしてくれていたのに、あっさりとコックピットへの情熱を捨ててしまったということなのでしょうかね」
「たった一人の肉親である家族が長い闘病生活を強いられるならば、離島に行くか行かぬか迷わずにはいられないでしょう。精神的なこともあります。じっくり返事を待ってあげる事にしたんですよ」

 それらしい長沼の返事だったが、隼人は眉をひそめる。
 妻が雷神へとスカウトしたというのに。パイロットなら飛びついてくるだろう話なのに。その鈴木という青年は『スカウトから半月経っても、返事をしない』というのはどういう迷いを持っているのか? その時ふと、隼人は長沼を見た。『もしや。鈴木本人は既に答を出して返事を長沼に伝えているのに、この男は知っていて返事を隠していないだろうか』と。隼人の出方を見るまでは、ほいほいと『彼が小笠原に行きたいと言いました』だなんて言うつもりはない、そんな切り札的な戦略を秘めているような気にさせられてくる。この目の前の男はそういう男だ。

 妻も、長沼も。元パイロット達が心の中にどうしてか気に留めてしまった青年。
 それは隼人も益々気になる。妻が彼を見つけるちょっと前から彼の空への情熱に変化があったようで、妙に焦る気持ちが生じた。彼がコックピットを捨ててしまう前に、なんとか妻が見たものと同じ飛行を見る事が出来ないだろうか? 妻があれだけ気にするパイロットに出会ったのは久し振りではないだろうか。ここで逃したら大きな損失か。それとも、単なる胸騒ぎで大したことはないのか……。
 早く見たい。妻が久し振りに心を動かされたような衝撃を俺も味わいたい。感じたい。それを確かめねば、『大きな手土産』を切り札に乗り込んできた隼人も、横須賀策士にひょいと差し出す訳にはいかないのだ。

 なのに。まだ手土産がなにであるか匂わせたくない隼人に、長沼が探りを入れてくる。

「最近は、元パイロットである奥さんの『夢』が、引退したパイロットをも活性化させていますよね。ホワイトの開発は、あの『大佐嬢』だった准将の夢がそのままトレースされている。私はそう感じているし、早くそれを『こっち』にも見せて欲しいんですよ。橘も相原もいつかいつかと待っているのですよ」

 『分かっていますよ』と、隼人はすこしたじろぐ。
 穏やかな顔と口調でも、今日の長沼は攻めの一手で隼人がなにかを喋ると、なにかと『そちら』へと畳み掛けてくる。
 雷神のパイロットも渡したくない、ホワイトのメンテナンサーも手渡したくないはず。だったら、なにを用意してきてくれたのか? 出来れば、新機種に関わるなにかだといいなあ……。長沼は遠回しにそう言っているのだ。
 隼人も長沼に負けぬにこやかな笑顔をなんとか作る。

「クロウズ社が今、何機か新バージョンで作っているのですよ。フロリダに申請してみてください。何機かは横須賀にも配置してくれるかもしれませんよ」
「機体だけあっても。『経験者』がいないと、困りますよ。そこはホワイトに関しては先輩である『小笠原』からなんとか手を差し伸べてくださいませんとー」

 隼人はまた顔を背けたくなった。
 なんともにこやかな顔で、そしてそれとないやんわりとした言い回しで、でも『ずばり』と突きつけてくる事か。
 人材を手放したくないなら、新機種のなにかをよこせとちらつかせておきながらも、こちらに『物(新機種)』を手渡したなら次は『人材』ですよと、彼はそこまで手を打とうとしているのだ。それでもきっと長沼としても『ダメモト』で言っているはず。しかしそれだけの積極性は横須賀の空部隊を担う策士にはあって当たり前と言ったところか。
 本当にこの男、侮れない……。隼人は心の中で小さく溜息をついた。

「まあ。とりあえず、鈴木を見せてください」
「きっと。澤村さんも『欲しい』と言いますよ」

 すっごい自信だなあと隼人はおののいた。
 妻も、元パイロットで今は策士の長沼もプッシュする男。

 でもその男が隼人の眼鏡に適わなかったら、この交渉は決裂だ。
 だが長沼は自信満々だった。
 そして隼人の脳裏にもっと嫌な予感が……。
 隼人がこの鈴木を欲しいと言いだしたら、この長沼はもっと鈴木パイロットの値を釣り上げて、もっとすごい交渉条件を突きつけてくるのではないか?
 だから隼人はまだ『妻は欲しいと言っているけれど、俺はまだその気はない』と見せておかねばならない。なのに長沼がまた隼人の心情を掻き乱してくる。

「奥様が貴方を送り込んできたってことは、奥様は余程あのパイロットは欲しいと言うことですね」

 奥さんは欲しいようだが、夫の貴方はどうなんだという探り。
 隼人は平静を保って、負けない笑顔を見せつける。

「……のようですね。ただし、うちの『お嬢さん』はいつも勘だけで動くので鵜呑みはできないのですよ」
「部下達が彼女の言いなりになっては困る。だから『ミセス准将の影』である元側近の貴方がなんでも最終的判断を下す。つまり……今回の見学で、今回の交渉も『決着』がつくってことですよね」

 本当にこの男には敵わないなと、隼人はついに苦笑いを……。

「知っている者は、そして見ている者は分かっているのですよ。小笠原の空部隊を最終的に仕切っているのは『御園大佐』貴方だって──」

 彼の顔が急に引き締まった真顔に。
 そうなると隼人もドキリとさせられるのだが。

「かいかぶりですよ。私は小笠原では『ミセスの尻にしかれた甘くてゆるいマイホーム男』と言われているんですから。ご存じでしょう」
「……などと言う男は、物事を見る目がない使えない駄目男か、貴方をやっかむだけの何も出来ない男なんだろうな。分かっていない」

 長沼がいつになく人を見下すような嫌な顔をした。それがどこかもどかしそうで、そして、悔しそうにも見えた。

「と言うか。その男達は貴方にまんまと騙されている訳だ」
「何をおっしゃいますやら」

 小笠原ではそれなりに立ち回っている隼人だが、やはり外に出ると同世代の男の中にはこうした骨のある侮れない男に出会う。
 それはなかなかの緊張感とやり甲斐を隼人に感じさせていた。

 さて。妻の勘は吉か凶か。

 空母艦が近づいてくると、隼人が乗っている連絡船の上を一機の戦闘機がすり抜けていく。

「鈴木が暴れてくれると良いのですがね。奥さんも来るなり腰を抜かしたから、夫妻揃って腰を抜かさないでくださいよ」

 長沼がおかしそうに笑う。そんなに? と、隼人はおののいた。
 空を見たところ、それほど荒れ狂った飛行をしている戦闘機は見えないのだけれど?

 

 

 

Update/2008.5.26
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