-- メイビー、メイビー --

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16.オフィス夫妻

 

 夫が帰って来るなり、突然の『(嘘の)愛人紹介』。でも奥さんはそんなことで動じはしなかった。
 拍子抜けした華子。これでは奥さんをからかおうとした旦那さんもガッカリだろうと御園大佐を確かめた。

「なーんだ。お前ってつまんないなあ」

 その通りのようで、大佐も残念そうに溜め息をついている。だが奥さんは。

「用事が済んだなら出て行ってちょうだい。もっとマシな悪戯を考えてくることね。貴方の前後の行動を考えればわかってしまうような嘘なんて、馬鹿馬鹿しい」

 これまた冷たくバッサリと切り捨て、奥さんはすぐにまた書類に戻ってしまった。

 仕事の鬼――。華子の頭にそれがすぐに浮かんだ。
 こんな冷徹な人に英太は夢中なわけ? なんだか違うような英太のツボではないような気がすると、華子はマジマジと冷たいミセスを見てしまう。

「いや、お前じゃないと出来ないことをお願いしに来たんだよな」
「お願いに来て、随分と妻を馬鹿にした悪戯を最初にやってくれたものね」
「ちょっとはお前が慌ててくれたら面白いなーって」

 奥さんの鋭い目が書類から離れ、反省なしで笑った旦那さんへと突き刺すように注がれた。

「違うでしょ」

 ぴしゃりと言い放った奥さんが、今度は本気で怒っていた。
 だけど何が『違う』のか。なにを旦那に言い放っているのか、ここは華子はすぐに判らなかった。なのに、夫の大佐には通じたようで、あんなに飄々と奥さんをからかっていた彼の顔が真剣そのもの固まったのだ。

「そうだったな」
「どうせ、ここに来るまでもすれ違った本部員にも嘘を言って驚かせたんでしょ」
「その通り」
「まあ、いいでしょう。澤村大佐にもなにかお考えがあってのこと。いつもの大佐ならではのお手並みを私も拝見させて頂きます」
「はい、よろしくお願い致します」

 会話が夫妻になったり、上司と部下になったり、華子はただ見ているだけがせいいっぱい。『恋人です』と、大佐の手に乗って協力したけどその後は一切、入る隙なし。

「准将にお願いがあります。彼女を明日明後日と空母での訓練を見学させたいのですが、申請が間に合いません。准将から申請をしていただけませんか。彼女との行動は私が責任を持ちます」

 夫であり、あれだけ奥さんを手のひらに乗せようと必死だった大佐が、まるで降参したように頭を下げていた。
 なんだか、大佐と一緒に華子も敗北した気分。こんな冷たそうな奥さんに頭を下げてまで、別に空母まで行きたいなんて思っていないっ。頭を下げている大佐の後ろで、華子は密かにむくれていた。

「英太にはどうすればいいの」

 だけど。奥さんは華子が空母に行くことは、家族同然の英太を見に行くことだとちゃんと理解してくれていた。

「いま、英太は大事なところに来ている。家族が見ていると知ってペースを崩しても困る。彼女が無事に見届けてから、彼女が来ていることを知らせたい」
「そうね。そうしてくれると私も助かる。いま、英太は空に出るとかなりピリピリしているから」

 大事な時期? それに空に出ると英太が過敏になっている? いったい今の英太はなんの訓練をしているのか……。華子の中で、今まで知ろうともしなかった彼がもう見えてきて不安になってきた。
 そんな華子の様子にすぐに気が付いてくれたのも、奥さんだった。

「大丈夫よ、華子さん。鈴木大尉は今、空高く上り詰めようとしているところ――。明日、甲板での、いえ……空での彼を見たら貴女の心も空へとさらわれていくほどの衝撃に出会うことでしょう」

 ミセスがその時、やっと優美な笑みをみせてくれた。

「時間がないわ。すぐに統括に申請をださなくちゃ」

 すぐさま腕時計を確かめ、彼女が准将席を立った。すぐ背後にある壁に組み込まれた木造の書類棚へ向くと、沢山並んでいるバインダーからその書類を探しているようだった。

「華ちゃん、お疲れ様。そこに座って休んでいてくれ。秘書からお茶を持たせよう。珈琲かな、紅茶かな。ジュースかな」

 将軍室の立派な応接ソファーへと大佐に促され、華子はそこに座らせてもらう。『さっき機内で紅茶を飲んだから、じゃあジュース』と言うと、大佐もいつもの穏やかな微笑みを浮かべ『待っていてくれ』とミセスのデスクがある側のドアへと向かっていった。
 ミセスがひとつのバインダーを手にした時、彼女のデスクの電話が鳴った。ミセスはバインダーを手にしたまま、席に戻って受話器を取った。

「お疲れ様です。空部大隊本部准将室、御園です。……はい、お疲れ様です。連隊長」

 『連隊長』の一言で、秘書室へ向かおうとしていた御園大佐が立ち止まった。
 連隊長といえば、この基地で一番偉い人だろう。ミセスがその隊長直々からの連絡のためか、急いでいる申請書類を作ろうとしている手を止めてしまった。

「はい。初秋に予定しております当部隊着任の巡回航行は、横須賀の海部隊との打ち合わせで『通常通り』のコースを予定しておりますが……」

 『初秋に航行』――。彼女の口からそれが出て、華子は英太がまた一年に一度か二度の航海に出てしまうことを知る。
 あちらの連隊長さんがずうっと何かを喋っているのか、ミセスは相槌だけを繰り返していた。話が長くなると予測したのか、彼女が受話器片手にバインダーを開ける。相槌を打ちながら、バインダーから書類を一枚、二枚、三枚……片手で引き出している。
 するとそこへ、様子を窺っていた御園大佐が、ミセスのデスクにやってきて、彼女の手伝いを始めた。
 受話器を持っている彼女の代わりに、彼女が揃えた書類を彼女の手前に綺麗に並べ、彼女の手元にきっちりとペンを置き直した。
 夫の、いや、大佐のアシストを得て、ミセスがその通りにペンを握り、相槌を打ちながら申請書に書き込み始める。

「お待ち下さいませ。現行中の空母艦と、前任空母の海路図を確認します」

 受け応えるミセスが、御園大佐に向かって指一本で何かを指図した。御園大佐もそれを受けて静かに頷き、彼女がなにを望んでいるか聞かずとも動き始める。
 大佐が向かったのはミセスの背後にある書類棚。そこから迷うことなく探しているものを見つけ、そのバインダーを手にミセスの目の前に広げ始める。

「確かに、前任、現在任務遂行中の艦もほぼ同じコースを。……ええ、存じています。先日、東シナ海で起きた事件のことですね。はい、連隊長の指示もあるだろうと、既に海路の変更と警備日数強化の計画変更があった場合のシミュレートを……」

 聞いているとさっぱりわからないが、ミセスが英太と共に出かける航行の際の海路を変えるかどうか……という話のよう? 私が聞いちゃっていいのかなと華子は緊張した。
 だが御園大佐は止まらない。ミセスがそこで受話器片手にどっしりと腰を据えているのに対し、彼は妻の周りを慌ただしく動き、彼女が望んでいるだろう書類に資料を片っ端から取り出し、彼女の脇に積んでいく。挙げ句に――。

「連隊長から要望が来ている。手伝ってくれ」

 秘書室のドアを開け、秘書官を呼んだ。ドアから大佐より若い男性が二人ほど准将室に入ってくる。さらに御園大佐は、ミセスの側にあるもうひとつの内線電話を手にした。

「澤村だ。クリストファーと木田にミセスのところにすぐに来るよう伝えてくれ」

 暫くすると、このミセス准将の部屋に金髪の男性と日本人男性が急いだ様子でやってきた。

「予想通り、連隊長から航路変更と巡回警備日数の強化についての打診だ。まだ途中だろうが、大まかでいい仕上げてくれ」
「イエッサー」

 御園大佐の指示で、彼がミセスの脇に揃えた資料や書類を男性隊員達が次々に手にして何かの作業を始めた。
 『五分でファックス出来る』。ミセスに囁く御園大佐。奥さんのミセスもうんと頷き、『数分でファックスいたします』と電話で応える。
 だが御園大佐は忘れてはいなかった。まだ電話で連隊長と話している奥さんに、先程握らせたペンをもう一度差し出した。彼女が頷き、大佐が綺麗に並べてくれた書類を再度書き込み始める。
 ミセスの周りに、男が数名。慌ただしく海図やコンパス、小さなノートパソコンを側に集中的な作業。そしてミセスの側に御園大佐。華子が来て数分でわあっとした熱気。

「後ほど、わたくし自身もそちらに伺います。いまラングラーが出ておりますが直に戻って参りますので、三十分後ということで、よろしいでしょうか」

 連隊長との話が終わりそうになり、そこで御園大佐が妻の書類を書き込む手元を確認し、またアシストするように最後に印鑑を手渡している。彼女がその印鑑を押し終わると、御園大佐がさっと書類をまとめ動き始めた。

「テッドが戻ってくるまでにファックス頼んだぞ」
「イエッサー」

 書類片手の御園大佐がそれだけ部下達に指示を残し、最後はソファーに座っているだけの華子にちゃんと優しい笑顔をみせてくれた。

「申請交渉してくる。十分ほどで戻ってくるから待っていてくれ」

 それだけ言って、出て行ってしまった。

「訂正航路を見せて」

 連隊長と話し終えたミセスが電話を切ると、部下達が群がっているデスクへとすぐさま向かった。

「だめ、そこのラインでは浅いわ。連隊長は慎重だから『危険な航路だ』と少しでも東に戻そうとする、でも強化のため西にも寄っておきたいと葛藤されるでしょうから……。すこし行きすぎぐらいに西に寄せておいて――」

 ミセス自らの訂正、その指示で管理官達が仕上げていく。

「ファックスして」

 大佐が残した指示通り、数分後には連隊長が望む通りの資料が出来上がったようだった。

 それが終わるとミセスは『大事なお客様よ。ジュースを差し上げて』と去ろうとする秘書官に指示してくれていた。管理官も出て行き、あっという間に静かになる。

 ミセスもデスクを片づけている。全てを言わずとも夫が瞬時に理解し準備をしてくれた書類を片づけている。
 そんな妻の背を見て、華子は思った。
 ――『駄目よ、英太。いくらこの人を好きなっても、この夫妻には隙がない』。
 見事な連携だった。あのたった十数分の間に、夫妻二人がこなしていた仕事と呼吸を目の当たりにさせられたら、『仕事だけじゃない。きっとプライベートでも同じようにして生きている二人』と痛感させられたのだ。
 こんな華子が大佐の悪戯程度で荷担したって、あんなの小手先だったということ。
 そして英太も、きっとそれをまざまざとみせつけられてきたはず。

(いくら鈍感な英太でも、こんな夫妻が目の前にいて目を逸らさずに二年も見てきたんだから解っているはず!)

 なのに、英太は彼等の側にいたがるのは何故?

「来てくださってすぐに慌ただしくなってしまって、ごめんなさいね」

 柔らかに微笑む女性が、いつの間にか華子の目の前に座ろうとしていた。
 先程の鋭い冷たさも何処へ行ったのか。緊張を解き、微笑みを浮かべ、ふんわりと優雅にソファーに座った彼女から清々しい香りが漂ってきていた。

「大事な任務のお話のようでしたが、私のような一般人の目の前での打ち合わせ、よろしかったのですか」
「大丈夫よ。本当に極秘なら、ここから出て行ってもらっていますから」
「それなら、よろしいのですが……」

 そんな手抜かりがあってはミセス准将とは言われないだろうし、大佐もそこは誰よりも心得ているだろう。

「ご主人の御園大佐は工学科の方、ですよね。空部隊の情報もかなり把握していらっしゃるみたいで驚きました」

 華子の質問に、ミセスがちょっと驚いた顔をした。
 なによ。可愛いだけの女の子で、ビジネス事情などからっきしと馬鹿にしているのだろうかと構えたのだが。

「このフロアにある空部隊本部、そしてシステム管理室、そして大隊長である准将室を隣接させ構成したのは、全て夫の澤村です」
「工学科なのに……?」
「工学科というのは、彼の隠れ蓑みたいなもの。彼がこうして空部隊に深く関わっているのは、連隊長からも暗黙の了解であって。つまり……あの人は影では今でも私の側近みたいなものなの。私の直接の部下ではなくなってもずっと、ね」

 どうしたことか。あんなに冷徹にみえたミセスが、今は華子の目の前で穏やかな妻の顔で素直に華子に話してくれていた。

「見ていらっしゃったでしょう。澤村の指示で隊員達があっという間に動く。隊員達もわかっているの。連隊長の御墨付き、工学科科長の御園大佐は空部隊大隊長ミセス准将の『影武者』。暗黙の了解を得て、工学科科長の夫にも情報を開示する。ただしこの私の判断で」

 それを聞いて、華子の頭にすぐに浮かんだのは。――ただの工学科を管理しているだけの大佐かと思ったら。『結構な権力も握っている男』だったということ。
 でも彼はその影で手にしている権力を持っているように見せず、うまく使っていた。それも奥様のために使っている。夫であり男でもあるはずなのに、あの人の何がそこまでして奥様を立てているのか。それでも奥様一筋『私は貴女の忠実な部下まっしぐら』という感じでもなく、奥様の困った顔が見たいと、嬉々として悪戯をする余裕もある。それが華子には不思議だった。

「例えばの話。私が倒れて何も出来ない身体になったとしても、すぐに代理になってくれる程の男ってこと。連隊長はそれを考えて、私の影に彼を置いているのよ」

 華子自ら一生懸命になって軍人仕事の話についていこうとしていたのに、そこまで准将業務の周辺について赤裸々に話してくれるミセスに違和感を持った。
 でもそれは裏を返せば、『英太が関わっている世界』ということ。ミセスは華子が来たからには、正面向かって正直に話す――と思ってくれているのだろうか。そうとしか感じられないほど、真っ直ぐに華子を見て話してくれている。
 だがそれ故に、華子は彼女の言葉の端々にも奇妙な噛み合わないものを感じ、それを尋ねてみる。

「あの、連隊長が慎重な方とおっしゃっていたようですが。貴女が倒れるって……そんな誰にもあり得ることなのに、准将に対してだけ二重の対策をしているように聞こえるのですが。それともどの責任者にも影武者を用意するような慎重な方なのですか」

 先程の熱気の中で、『連隊長は慎重な人だから』という言葉を思い出した華子には、『いつミセスが倒れてもおかしくないから、慎重な連隊長はミセスの代理となるよう澤村を暗黙で空部隊に関わらせている』と言っているように聞こえてしまったのだ。
 そこでミセスが急に、寂しそうに笑ったように見えた。僅かな微笑みで、それが笑ったかどうかもわからないような微妙な表情で俯いている。

「貴女、敏感な方なのね。一言喋れば、十を知ってしまう、そんな気がするわ」
「……得意とはいいませんが、職業柄、人の言葉から多くを知ろうとしてしまいますので」
「英太とは正反対みたいね」

 それを言われ、華子はすぐに『ぷ』と笑い出してしまった。やっぱりあの英太、ミセスにも『鈍感な男』と見られているんだって。

「ですよね! 英太って単純で単細胞で、見えることしか見えていないって言うか!」

 華子が一人でケラケラ笑っている内に、ミセスもにっこりと笑ってくれていた。

「安心しました。英太が叔母様を任せているという女性が、貴女のような方で。主人が思いつきで連れてきてしまったようですが、実は私も一度お話をしてみたかったのものですから……」

 しとやかな言葉遣いからは、育ちがよい奥様という印象しか見えなかった。先程とはまったく雰囲気が違う。やはり不思議なオーラを持った人だと華子も見入ってしまう。

「いま、華子さんも聞きましたでしょう。次回の航行は秋、九月中旬を予定しています。その時に、勿論、雷神に所属している英太を連れて行く予定なのですが……ひとつどうしても案じていることがありまして」

 それが何のことかわかった華子も、彼女が心配する痛みを同じように感じることが出来た。

「英太の叔母の、死期が近いことですか」

 ズバリと言ったが、ミセスに怯む様子はなかった。

「ええ。航行中に差し掛かると、間違いなく英太の、いえ、鈴木大尉のメンタルに関わります。次回の航行は隣接国の均衡状態から見ても今までより緊迫した航行になるでしょう。先日の、東シナ海で起きた戦闘機の事件をご存じでしょう」
「はい。対岸国と、その隣接している国の間で起きた、迎撃撃墜事件のことですね」
「そう。何十年か前にもフランスとリビアの間でもそっくりな事件が起きた。まさにあれよ。それだけ緊迫しているということなの。そこへ、雷神に所属している英太は主力パイロットとして着任」
「そんな緊張を強いる任務の最中に、叔母がもし……ってことですね」

 そしてミセスも、以前に大佐が言ったことと同じことを言った。

「空を飛ぶために集中している英太に、こちらから『叔母様』の状態を聞くだなんてことが出来ません。ですけれど、彼が私達上官に心配させまいと、心の中で強く抑え自分自身をも誤魔化し強がってしまうのも困るのです」
「おっしゃりたいこと、良くわかります」

 いつ春美が逝ってしまうかはわからない。一日でも長生きをして欲しい。だが春美に残された道は、一つしか残されていない。
 華子がそうであるように、英太もきっと『その時を考えないようにしている、今は……』という状態だと思う。悲しむのは泣くのは、その時が過ぎてから。二人でそう話したこともあった。
 華子はそのまま素直に、ミセスに伝えた。

「そうでしたか。華子さんがあって、英太も任務に打ち込むことが出来ていたのだと思っています。ですが英太とはもう一度『航行に着任するかしないか』を決める話し合いの場を設けるつもりです」

 そう聞いて、華子の気持ちは『今回は着任して欲しくない』だった。
 春美は一年も持たないだろう。それどころか春の時点で『あと半年』と宣告されている。その航行の時期が丁度、宣告の時期。

「英太一人の決断では、私達上官も許可すべきかどうかを決めかねるだろうと予測しておりました。主人はきっと、そんなことも案じて、貴女と知り合ったのを機に、この島に連れてきてしまったような気がします」

 そしてミセスが、どうしてか華子に丁寧に深々と頭を下げていた。驚く華子に、そのままミセスが静かに言った。

「ご家族でよく話し合ってください。英太が叔母様との今生の別れを曖昧に終わらせないよう、ご家族を置いて出航する意志があるのか、ご家族もそれに同意することができるのか。または今回はご家族と過ごすことを選ぶのか。しっかりと答が出せる話し合いの場を華子さんから上手く作ってあげて欲しいのです。どうぞ、よろしくお願い致します」

 御園大佐の『愛人連れてきた』なんて、本当にふざけた悪戯だって彼女が怒ったのがやっと華子にも解ってきた。
 もしかすると夫は銀座の彼女を連れて帰ってくるかも――。奥さんがそう予測して、夫が連れてきた若い女の子を一目見て『やっぱり、華子さんを連れて帰ってきた』とすぐに解ったのも、結局は――。『ご主人と同じ気持ち』であったからなんだ。夫妻の英太を想う気持ちが揃っていて、それでいて英太が大事にされていることを知り、華子の胸は激しく貫かれた。

「どうして、そこまで……」

 ただの部下ではないのか。それに奥さんに焦がれている若い部下。夫は疎ましく思い、奥さんも迷惑なのではないか。
 だがミセスは静かに微笑んでいる。

「明日、晴れると良いですね。英太を見て頂ければ、きっとわかります」

 それ以上は言葉に出来ない。葉月さんはそう言って黙ってしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 『無事に申請がおりたよ』と満足そうに大佐が戻ってくると、ミセス准将の首席側近で吉田大尉のご主人であるラングラー中佐が帰ってきた。
 緑色の綺麗な目の栗毛の男性。麗しい中にも眼差しに厳しさが宿っていてる人が、同じ栗毛で表情があまりないミセスと並ぶと、まるで姉弟のように見えた。
 そんな彼とも挨拶を交わし、華子はいつも奥様の吉田大尉の優しい言葉で安心して叔母と留守をして英太を待っていられる――と礼を述べた。
 御園夫妻からの『英太を見てもらうために連れてきた』との説明で事情も飲み込んでくれたらしく、ラングラー中佐も華子を歓迎してくれた。

 先程の連隊長との約束があるからと、ミセスとラングラー中佐が准将室を出ていった後、御園大佐と共に華子もまた基地の中を歩く――。

「基地見学をしてみるか。そうだ、管制塔に行ってみよう。少しだけ明日の予習だ」

 華子もすっかり空母に乗る気になってきたので、素直に頷き、ひたすら御園大佐の背を追う一日になった。

 だがこの日。御園大佐は彼のオフィスである『工学科科長室』には連れて行ってくれなかった。

「危ないんだ。うちの事務室に、英太はふらっと訪ねてくることが多いんだ。今日だって来るかもしれない。華ちゃんがいるのを知ったら、明日のフライトが」

 フライト見学が終わったら、連れて行ってあげる――という大佐の言葉。
 どうやら憧れの女性がいる准将室にはなかなか行けないが、どうしてか旦那さんがいる事務室には気易く寄りついているとかいう奇妙な英太。
 良く理解できないが、既にそれでバランスが取れている様子の英太とこの夫妻の日常は、やっぱり見ておいた方が良い。華子もやっとその気になっていた。

 

 夕方近くになり基地見学が終わると、どうしてか華子はまたミセス准将室に戻されていた。

「悪い、葉月。予定が狂った分、俺の仕事が片づかなくて」
「仕方ないわね。いいわよ、私が華子さんを預かります」

 だけどミセス准将はもう冷たい凍った顔は見せず、気の良い笑顔で夫から華子を引き取ってくれた。

「もう……。自分の仕事を優先しなさいよね。いつも自分の周りのことばかり先にしちゃって……」

 ふいについて出たかのようなミセスの独り言。
 でもそれを聞いて、華子も『御園大佐』がどのような人なのかわかってきた気がした。

「では、私達は先に帰りましょうか」

 華子が来てすぐ。ミセスがデスクの書類を片付け、引き出しから携帯電話やエレガントなポーチを取り出しエルメスのバッグにしまう。夏シャツの上に、英太がよく着ているグレーのテーラードジャケットを羽織った。夏シャツより立派な黒い肩章には、英太や御園大佐より煌めく金のラインと星、そして胸には色とりどりの階級バッジ。彼女独特のオーラに、またさらに重みが増した。

「さあ、行きましょう。遠慮はいらないわ。あとは秘書官がやってくれるから」

 言われて華子も帰り支度が済んだミセスと一緒に准将室を出た。

「あの、今夜は……私はどうすれば」

 どこかホテルと取ってくれているのだろうか。それに甘えて良いのだろうか。大佐は『宿泊先も俺に任せてくれ』とだけしか教えてくれなかった。
 するとミセスは仕事が終わったからなのか。先程『英太をよろしくお願いします』と、しとやかに頭を下げてくれた優しい笑みを見せてくれる。

「うちに泊まるのよ。うるさい男の子が二人いて騒々しいかもしれないけれど、遠慮はいらないから。海の側なの。くつろいでくれると嬉しいわ」

 え! お宅にお邪魔しちゃっても!?
 驚かされたが、でも、もう……こちらの奥様に疎まれる心配もなくなっていたので、それはそれで大丈夫だろうから安心なのだろうけど? しかし、この夫妻の日常を見るには一番近い絶妙な場所でもあると気が付いた華子は『では、お邪魔致します』と、すぐにすんなり受け入れていた。

 

 今度はミセスの背をついていく華子を、また本部員が不思議そうに見ていた。

「ミセス、お疲れ様でした」

 こちらも通りすがりの隊員達が笑顔で挨拶をする。だけれど、奥様の方は旦那さんの様なにっこりとした気の良い笑顔はみせず、ほんのりと微笑みを返しただけ。そのせいか、隊員達も妙に厳かな様子だった。
 なるほど。ミセスはどうも仕事の顔になると、かなり表情を抑えてしまうようだった。でもそれを見た華子は、その重みこそ『ミセス准将たるものかしら』と思えた。

「あの、そちらのお客様……」
「澤村が連れてきたお客様よ」

 それでも大佐の『おおぼら』が拭えない隊員がいるようで、挨拶をした一人の男性隊員が、華子を窺いながらミセスに尋ねてきたり。でもそこもミセスは知らぬ存ぜぬの姿勢で、さらっとかわしてしまった。

「七割が彼を信じても、残り三割の動揺の影響を受け、明日は彼の信頼度は五割に減っていると思うわね。『噂』の怖いところは、人から人へ揺さぶられ信用が崩れていくこと。明日のランチは荒れそうね。あの人、覚悟できているのかしら」

 動じない奥様は大佐のいい加減な嘘を改めようとはしなかった。それどころかその『嘘』を泳がせて、夫自身に返るのを眺めるつもりのよう。そんな奥さんの小さなお仕置きに、華子はついに笑い出していた。

「あー、私も楽しみ。明日、御園大佐が慌てるのを見てみたいなー。私も会っていきなり、意地悪されたんですよ」
「まあ、そうだったの。あの人の『挨拶』みたいなものなのよ。いっつもそうなのよ」

 女同士で妙に意気投合してしまう。

 駐車場でミセスの愛車とかいう真っ赤なトヨタ車まで連れてこられた華子。
 ミセスのすすめで、助手席に乗ろうとした時だった。

「義兄様――」

 『にいさま』と上品につぶやいたミセスを見ると、真っ赤な車の数台向こうに黒いスーツを着た長身の男性がいた。一目でわかった。先日、御園大佐と共に銀座の店に来てくれた『谷村社長』だった。

「ちょっと待っていてね」

 華子を助手席に残し、ミセスはどこか明るい微笑みで運転席から飛び出していってしまった。

『にいさま』
『なんだ。お前も帰りか。俺もリッキーに会いに来たところで』

 向こうは真っ黒な車のドアを開けたところだった。

 海からの風がミセスの栗毛をきらめかせながら揺らす中、黒いスーツ姿の社長とミセスが見つめ合って微笑みながら何かを話している。
 そのミセスの目がちょっとだけ甘やかな色に変わったように見え、華子は首を傾げた。

 

 

 

 

Update/2010.5.29
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