-- メイビー、メイビー --

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31.いつか花道

 

 ひっそり話し合うなら『ここ』と決まっていた。
 特に仕事のことも勿論だが、それ以上に腹を割って話したいオフタイムには彼は『ここ』だと決めていた。
 だから、葉月はここ『玄海』に予約を入れて、彼を待っている。

「細川様がお着きになりました」

 着物姿の若女将が、すっと襖を開け、顔を覗かせた。
 葉月は隣の男と頷き合い、『細川正義連隊長』がこの部屋に来るのを待っている。

「待たせたな」

 いつもの如く、夏シャツの上にきちんと長袖の制服ジャケットを着込んだ眼鏡の男が入ってきた。
 そして、その後をいつもの如く、側近の水沢啓中佐も後からついてくる。

「お忙しいところ、私の申し出を聞き入れてくださって有り難うございました」

 同じく、葉月も夏だとは言え、夏シャツの上にきちんと長袖のグレージャケットを羽織ったままの姿。連隊長が脱ぐまでは自分も脱がない心積もり。そしてここは和食料理店の座敷、正座にてきちんと指を揃え、彼に深々と頭を下げた。
 彼の満足そうな笑みがちらりと見えた。彼はこうしたきちんとした行儀に礼儀の『美しさ』をとても好んでいる。
 特に。日頃は男の中で対等に張っては、時には男達を振り回す元祖じゃじゃ馬嬢の葉月が、あるいは栗毛のクウォーターの異国的な顔を持つ女部下が丁重にしているのを見ると、とても気分が良さそう。自分からもそう言ったのだ。『葉月がそうして楚々としているといいねえ』なんて。『お前にいつもハラハラさせられているかと思うと、気分がよい』とまで言った程。
 すると、葉月と共に一足先にこの料亭にやってきて待っていた隣の男が、少しばかり可笑しそうな声を漏らしたのだが。その男も黒いジャケットを着崩すことなくきちんと着こなした姿のまま、こちらもミセス准将に習うように、丁寧に正座にて深々と細川正義連隊長に頭を下げた。

「本日は、私もお邪魔致しております。連隊長」

 こちらの黒いスーツの男、『義兄』もきちんとした綺麗な礼儀で連隊長を義妹と共に迎えた。
 だが、今度の正義はちょっと渋い顔。

「谷村の義兄さんが一緒だなんて、ろくな誘いじゃなさそうだな」

 流石の義兄でも、正義の物言いには頬をひきつる程。それを横目で見て、葉月は笑いたい気持ちが込み上げるが、ここは『楚々』として……。

「ろくな話ではないことは確かだな。この義妹から誘われたとなれば、なあ」
「言えてる。そうだ、そうだ。お前が元凶だ、葉月」

 揃いも揃って。意地悪な兄様方を自ら揃えてしまった自分を葉月は呪いたくなった。
 二人ともそんなところ、ちょっと似ているかもしれない。葉月に意地悪を言って楽しむところなど。
 だが。と、葉月はそんな兄達の楽しみなど意にも介さない姿を保ち、さらに正義に頭を低くして先へ進めようとした。

「連隊長。先日のレポートをご覧頂けましたでしょうか」

 ひとつの座卓を挟み、葉月の目の前に正義、そして義兄の前に水沢中佐が並んで控えた。
 正義が座り落ち着くと、早速、側近の水沢中佐がアタッシュケースからファイルされている書類をひとつ、上司へと差し出す。

「うん。見た」
「ご意見を賜りたく存じます」

 さらに正座にて、頭を低く下げると、あの正義がちょっと食傷気味に苦い表情を一瞬だけ。だが直ぐにそのファイルを開き、暫し黙って眺めている。
 それは数日前に、葉月がどの部下にも相談せずたった一人で仕上げ極秘に連隊長に提出したものだった。
 しかし『この件』については、既に正義と水面下で話し合いを始めたところ。今日の『オフの食事会』も本題は『この件』についてだった。

「もしこれを実行することになるならば、これで良いとは思う。特に欠落的な、訂正すべき点はないと見ている」

 そこで葉月はやっと顔を上げる。

「安堵致しました。が……」

 いったん葉月はそこで言葉を濁し、黙り込む。
 目の前では、正義がグレーの制服ジャケットを脱ぎ始め、それを水沢中佐が受け取ったところ。
 正義は、さらにレポートに目線を落とし眼鏡を目元から動かぬよう、眉間の下にて指で押さえ眺めている。

「が……。なんだ」
「そちらはあくまで『レポート』であって、『結論』ではございません。私の結論をまとめたものでもなく、あくまで前提をお知らせしたまでです」
「わかっているよ。そんなこと」

 全てを説明せずとも先をきちんと見通してくれる上司というのは、時には厳しく畏怖を抱くが、こんな時は非常に安堵するもので葉月は満足の笑みを浮かべていた。

「それで。このレポートについて、そちらのお義兄さんを付き添わせてくる意図がわからない」

 『テッドはどうした』とでも言いたそうに、まだそこにテッドが控えてるのではと信じ切った顔で、あの正義が彼を探す目。
 それでも葉月は表情を変えずに伝える。

「これから私の『結論』についてのお話になりますが、少し長くなります。細川少将、お聞き頂けますか」
「なんだ。改まって。このレポートと、そこの兄さんが関係あるとでも」
「あります」

 きっぱり答えたミセス准将と、シビア一徹の冷たい眼鏡男が真っ正面から視線を交わす。

「そこの兄さんが、軍人のお前と絡んだ時。俺の中で思い浮かぶ言葉はひとつだけだ。それが『今になって、どうして』と聞きたい」

 流石、私の連隊長。葉月はあまりにも素晴らしい推察を持っている上司に、本当に満足の笑みを隠しきれない。

「正義兄様なら、お話が早そうで嬉しいですわ」

 意地悪をされた仕返しに『兄様』と、彼が嫌がる言い方をしてみたのだが。だが、彼の顔がいつになく強ばっていたのが、葉月には意外だった。

「……鳥肌、立ちませんの?」
「通り越して、俺の目の前を『黒猫』が過ぎっていった方がゾッとした」

 葉月は益々笑みを浮かべた。本当にこの兄様は鋭くて話が早い。そしてもう……その向こうに待ちかまえている危機感に『震えている』。その推察力の素晴らしさは、見抜かれる時はこちらも散々だが、共になり向こうを一緒に見て欲しいと願った時はこれほど心強いものはなかった。

「葉月、お前はこんなとき笑うんだな」

 そして彼が真顔で言った。

「怖い女だ。俺はお前にもゾッとする」
「お褒めの言葉として頂いておきます」

 どこか不満そうな連隊長と、微笑みのミセス准将が向き合う中、最初の酒が運ばれてきた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「では、説明してもらおうか」

 それぞれのガラス製の猪口に冷酒が満たされた。それを合図に、正義から先を急かす。

「では。純一義兄様、よろしくお願い致します」

 まだジャケットを脱がない義兄が、襟を正し背筋を伸ばした。

「いま連隊長が感じられたとおり、あまり良くないものをこちらでも感じている。この義妹、いや、『ミセス准将』の噂があちこちで流れているのをご存じかな」

 黒いスーツの義兄、そして准将の肩章を持つ義妹が今宵は並んでいる。だが今宵は義兄妹ではなかった。葉月はミセス准将として、そして義兄は……。

 何かを察した様子の正義が片眉をぴくりと上げた。

「そちらの『庭』で、なにか」
「まだそちらでも拾い切れていないようだな、安堵した」

 情報通で有名である元エリート秘書官だった正義がまだ知っていない、でも、裏世界にも通じている『黒猫の義兄』が掴んでいること。それを知って、正義がらしくない驚愕の表情に凝固している。

「そんなに悔しがらずとも。情報通の連隊長が拾いきれない程に、まだそんな小さな動きで留まっているという証拠。『手遅れにはなっていない』、『まだ打つ手はいくらでもある』ということだ」

 それでもある程度の悔しさもあったのか、正義は飲み干した冷酒の猪口をかつんと強く座卓に置いた。

「うちの葉……、いや、ミセス准将がその闇でどう噂されているというのですか」

 正義の顔色が一変した。そして葉月はそんな顔をしてくれた昔なじみの細川の兄様に申し訳ない気持ちで項垂れる。そして彼のその形相が語っていた。『そういうことは、俺が予想していた中で一番あってはならないと怖れていたことだ』と。
 そして黒猫の義兄がついにそれを口にした。

「連合軍の、小笠原日本基地、そこに女艦長がいる。空部隊での絶大な支持を得るその女は元パイロットでもあり、そして資産家の娘で父親はフロリダ本部の元中将。その女がここ二〜三年、艦長となって日本周辺を航行する」
「女だからとでも言うのですか!」

 いきなりあの正義が激高したので、葉月どころか水沢中佐も驚きを隠せず硬直した。だが義兄の純一だけが、この中の誰よりも落ち着いて取り乱した連隊長に告げた。

「そうだ。正義。裏取引をするのに、女という弱点を逆手に取り女将軍を誘拐する、あるいは艦隊ごと占拠するのはとても良い手立て。航行中に葉月が艦が狙われてみろ。どれだけ利用されることか」
「ミセスの警戒が強いところに俺は定評を置いている。時には大胆だが、そんなところは慎重でもある。故に、人選には特に拘りを見せる。俺が赴任してきてから、部下を躾るために多少の注意や『本当にそれでよいのか』という念押しはしてはみるが、ミセスの人選に異議を持ったことはほとんどない。そんなミセスが持っている組織と護衛陣にぬかりはない」

 ミセスの布陣は、連隊長である自分の布陣でもある。欠点があれば俺がとことん直すのだから、今の布陣でパーフェクトだ。正義はそこまで言い切ってくれた。
 その言葉に、葉月は逆に涙がでそうだった。この細川元中将の長男である正義が赴任してきてから、彼にはまた一から叩き上げられるような手厳しさでやられてきた。でも、それもまた葉月のステップに繋がったことは言うまでもない。ロイという奔放に甘えさせてくれた義兄が悠々自適にのびのびと葉月を育ててくれたあと、最後に残っていた『引き締め』をこの細川の兄様が仕上げに手がけてくれたと思っている。
 その手厳しいお兄さんが『俺と葉月がやってきたことだから、今は完璧だ』と言ってくれたことが……。

 『しかし』と、葉月は唇を噛んで正義に告げる。それも小さな声で、言いたくないことを。

「連隊長、私の布陣は完璧ではありません……。いちばんの中枢が。それが完璧といえましょうか」

 正面にいる彼を見ると、あの正義がおののいた顔で固まっていた。よもやミセス准将から『それを言うのか』と言いたげに。
 それなら、葉月からぶちまけてしまおう。そう決めていた、今夜は。

「リスクを一番に怖れる連隊長らしくありません。今の連隊長の一番のリスクは『わたくし』でございませんか」

 さらに。らしくなく、正義が葉月の目線から逃れ、手酌で自分のガラス猪口に冷酒を注ぎ落ち着きがなかった。

「勘違いをしているのでは。俺は『リスク』を考慮し覚悟するのは当然のことであるから、まずは『リスクを考えろ』と常に言っているだけで、『リスクあるなら、全て切り捨てる』などとは思ってはいない」

 確かに。正義という連隊長は、赴任当初こそ何でも切り捨てる恐ろしい男と言われてきたが、今となっては『なんでも切り捨てるわけではない』という一面を見せるようになっていた。

「ですが連隊長。私の『発作』は大変なリスクです」
「そのリスクをカバーするだけの力はあるし、組織力もある。それにお前がもたらすメリットは大きい。『リスク』を遙かに超えている」

 『ここ』だから基地では絶対に言ってくれないことを、今夜の正義は誰に憚ることなく葉月に言い切ってくれた……。勿論、葉月は驚きを隠せない。嬉しいことだった。それでも……。

「それは、今までの話です。義兄の組織が拾ってきた噂通り、航行中に女であるという理由ひとつで、機密的な艦内をテロリストに占領されてはひとたまりもありません。今までの私ならば、そう『大佐嬢』という名誉を戴く切っ掛けとなった『岬任務』の時のように、どのようにしてでも屈しない燃える心で向かって行けたことでしょう。ですが……気持ちはあっても、私がコントロールしきれない身体と精神になってしまったのです。どんなに優秀な護衛と側近が付いていても、彼等は私の命令で動きます。もし、私が判断できない状態に追い込まれたら……」
「だから。その訓練を極秘にすればよい。これが俺からの提案だ。ミセス准将が機能しない場合、テッドに全ての権限を与えよう。そして護衛のアドルフにも緊急時の判断を任せる。そして最後の全責任は――」

 葉月が知っている正義に、それ以上を言わせてはいけない!

「お待ちください、連隊長。テッドに権限が与えられた時、また護衛官のアドルフがその判断を迫られるというのは『決してあってはけいないことが起きた時』です。それが起きたあとの責任がどうなるなんて状況も、決して連隊長には巡ってきてはいけないことなのです」

 そしてそれは、葉月自身にも起きてはならないことだった。
 基地では見せない熱くなる自分に我に返ったのか、正義が一呼吸。眼鏡を眉間で直し、暫く黙っている。そしてまた溜め息をこぼすと、葉月が提出したレポートを手に取った。

「それで。『それを起こさないための対策』がこれなのか……」
「左様でございます、連隊長」

 そして葉月はまた、正座にて畳に手をつき、細川少将に向かい頭を深々と下げる。

「空部隊幹部組織の再編成をお願い致します。そして……それに伴い……」

 ……言うべき、言おうと決してきた一言が。頭を下げてもなかなか出てこなかった。
 正義もその心中を察したのか、『頭を上げろ』と言ってくれたのだが。葉月はさらに、さらに、額を畳に付ける程に頭を下げた。別に、心底願っていることでもない。これは自分に対しても心を改める思いを込め、頭を下げている。

 そして葉月は、声を絞り出すように告げる。

「わたくし、御園葉月は空部隊長を解任、そして後継をお決めくださいませ」

 隣に寄り添ってくれている義兄の、膝の上で握っていた拳が僅かに蠢いた気配を感じ取った。だが、義兄は義妹の決意になにも言わず、なにもせず、ひたすら黙ってそこにいるだけだった。それでも彼の拳が徐々に強くぐっと握られていくのも目の端に映る。その心中は如何に。

 そして正義も、ただ大きな溜め息を。そして彼も諦めたように言った。

「それを受け入れたとして。お前が考えている後継空部隊長、そして新しく立てる幹部大佐、レポートでよく分かった。この人選にも異議はない。だが問題は、後継の空部隊長。『誰にする』とはこれには書かれていないが……」

 レポートには、その後継にふさわしいのでは……と、葉月が見定めた三人の大佐の経歴と特徴と性質を。そして気になるエピソードも添え、彼等がどのような時にどのような行動をする男なのか。正義も既に知っていようが、改めて見比べてもらうためにその人となりをまとめたものだった。

「俺は、やはりミラーが一押しだな。落ち着きも抜群で私情揺れることも少ない。ミセスの意志も継いでくれそうだ。ただ、気になるのは他候補として挙げられている『この男』。さて、ミセスはどのような判断を下したのか。それを今夜伝えに来たのだろう?」

 連隊長自ら『ミラーが一押し』と言い切った。それでも『気になる男』がいて、そして改めて葉月に問うたということは、つまりは『迷いは晴れたのか』と遠回しに聞いているのだろうと葉月は感じ取った。

 今度の葉月は頭を上げ、正義を正面に捉えた。……そう、迷いはもうない。

「身内だからと、当初から候補としては除外しておりました。その上での選出です。ですが、やはり……」

 正義の目が、連隊長室にいるあの険しさで光った気がする。彼もその腹を決めた葉月を真っ向から受け止めようとしている姿勢だと……。だから葉月は躊躇わずに告げる。

「私の後継は、工学科科長の御園隼人大佐しかいません」

 ミセス准将の背中で影となり、ミセス准将の影の側近、そしてミセス准将の夫。葉月の『空女房』の最後の思いを継いでくれるのは、やはり夫の御園大佐しかないない。

 そして、正義は。

「そうだな。あの愛人騒動で、俺も心を決めた。嘘だろうがなんだろうが、あれだけ、そうミセスのお前すらも大袈裟に動かした程の男でなくてはならないだろう。隼人なら、雷神も大事にしてくれるだろう」
「ですが澤村は操縦者ではありません。操縦者の感覚から指揮をすることだけは、元パイロットではないと。ですから、雷神の指揮官の強化をしたいと思っております。つまり、甲板での私の後継人を」
「ミラーとコリンズ以外に、もう一人。ミセスが見定めた男が、この横須賀の……元パイロット」

 レポートをめくる正義にも異論はなさそうだった。

「彼なら、雷神を牽引してくださるでしょう。わたくしが航行から離れても、パイロットを理解してくれるのは彼しかおりません」

 『うん、いいね』と、正義も納得済みのようだった。

「彼なら、『エース』にとっても良き指揮官となってくださるでしょう」

 そこで含みを持たせて微笑んだ葉月を見て、正義もやっと微笑み返してくれた。

「わかった。この男あっての『許可』としておこう。この男を説得できるか、ミセス」
「必ず」

 確信の笑みに、さらに正義も勝ち誇ったように共に微笑んでくれる。

「話はそれからだ。引き抜きに成功したら俺のところにもう一度来い」

 『もうこれはいらない』とばかりに、ミセス准将の極秘レポートを正義がばさりと葉月の前へと返してきた。
 だが、葉月はそれを受け取らずに『ありがとうございます』とただ頭を下げる。

「ではミセス准将、改めて聞いてみるが。このレポートにある再編成の目処はどれぐらいで」

 勿論、葉月も目処を立て動き出す前。そして正義が願っているだろう感触もわかっているつもり。
 今度は側近の水沢中佐に冷酒を注がれながら、正義も葉月を推し量る険しい眼差しでその答を待ちかまえている。

「一年、お時間をくださいませ」

 冷酒を口に運ぼうとしていた正義の手が止まった。俯き加減のその表情も固まっていた。だが、やがて……その顔も微笑みで解かれていく。

「来年の今頃は、もう空部隊の女王はいない……か」

 寂しそうに笑ってくれたから。葉月もついに、涙を浮かべそうになったが。この連隊長の前でだけは絶対に涙は見せたくないと、必死に堪えた。

「まだ航行任務が数回残っておりますが、こちらはリスクある身体でも問題なく全うさせて頂きます」
「当たり前だ。お前が言うところの『起きてはならないこと』は絶対に阻止し回避すること」
「わかっております。連隊長にご迷惑をおかけしたくないので、私個人の身体を理由にした秘密隊員の警護を発動されるのはお断りさせて頂きます。リスクある女艦長を用いていることが、フロリダ本部にも横須賀本部にもそれだけでわかってしまう恐れが生じますので。その代わり、『我が家の猫』が動きます。暫く連隊長の周りをうろちょろお目触りかも知れませんが、連隊長はこの点はお聞き流しを、お目こぼしを……。今宵の猫のことは明日には忘れてくださいませ。もし猫が捕まっても、知らぬ猫だとおっしゃってくださいませ」

 またもや、ミセス准将が言いだしたことに、流石の正義が呆気にとられた顔。

「リスクは全て前線から去る私に、どうぞ、このまま」

 再度、葉月が正座にて頭を下げると、それに同調するように隣の黒いスーツ姿の義兄も共に正義に頭を下げてくれた。これが今宵、義兄を伴ってきた訳でもあった。

 流石に正義も困り果てた顔。だが黙っているところを見ると、彼も先々の全てを推測しても『それが一番だ』とすぐさま計算できたのだろう。
 恐らく。今まで全て己の実力のみで解決させてきたのだろう正義。ある意味それは『クリーンな実力』と言えた。外の、私設傭兵組織と組むというのは、クリーンではない。自分の手元の駒である秘密隊員を動かすのが一番『クリーン』だった。

 しかし連隊長ともなれば、『それもそろそろ必要』との決意か。素早い推測に計算が出来るからこそ、ミセスの唐突な申し出も黙って聞き流そうとしてくれている。部下が全てのリスクを負うから安心してくれと言う申し出を、まるまま受けてしまうのも彼にとっては情けないの一言に尽きるのだろう。
 だがそれならば。今すぐ葉月を切るのが『今までの細川正義』なのだ。でも彼はもう、それを良しとしてない。だから、葉月から背負う。連隊長のリスクを、リスクそのものである自分が全て持ち去っていく。

「わかった。もう、今夜はいい……。お前と笑って食事をする気分ではなくなった。一人にしてくれ」

 飲みかけの冷酒をぐっと煽ると、正義から帰るよう促されてしまった。
 葉月は純一の顔を見ると、義兄も正義の気持ちを解ってか静かに首を振るだけ。

「それでは。お付き合い、有り難うございました」
「お前の誘いだったのに、申し訳なかったな」
「いえ、ごゆっくり」

 義兄と共に『失礼致します』と座敷の外へと出た。

 襖を閉める時の、正義の暗い顔。見ていられなかった……。葉月は詫びる気持ちで閉め切る。
 締め切り立ち上がろうとしたら、襖の向こうから正義の声が聞こえてきた。

「葉月。俺はお前の中の幽霊を呪うよ。あんなに甘ったれた嬢ちゃんだったお前が、これほどの将校になったのはまた幽霊のせいでもあるのだろう。そうでなければ、お前など……俺の目の前に現れるはずもない『女』で終わっていたはずなのだから……」

 面と向かって言えないことなのか。ひたすら襖の向こうから聞こえてくる声に、葉月も廊下に座ったまま耳を傾けた。

「今日からお前の『花道』、俺が作ってやる」

 彼が言いたいことの全てが、今は葉月にも痛い程通じる。項垂れて聞いている葉月の目には、もう、先程堪えた涙が溢れてきていた。そんな義妹の様子を知った義兄がそっと傍に寄り添い、肩を柔らかに大きな手で包んでくれる。

「皮肉だと思うよ。俺の親父もこんな想いで、甲板から空飛ぶお前を見守っていたのだろうな。幽霊がお前を作ったなら、最後にお前を喰って連れて行くのも幽霊だなんて……」

 『呪うよ。俺達は、きっと、空の男達の誰もが幽霊を呪うだろう』

 亡き男は本当の幽霊になった。正義の最後の声が掠れていた。襖を仕切って、決して見せ合ってはならない顔を互いにしているはず。葉月の頬にも涙が流れていた。だが、葉月は襖の向こうに高らかに告げた。

「なにをおっしゃいます、連隊長。幽霊などおりません。私はいなくなりません。私は艦を降りても、まだまだ甲板は降りませんわよ。空部隊長の椅子を去っても、空の男達と生きていく気持ちは変わりません」

 その椅子に君臨する次なる王者を葉月は思い浮かべながら……。

「私は影になっても空女房、ようやっと念願の内助の功が勤められるのですから邪魔はしないでくださいませ。正義兄様」

 もう、何の声も返ってこなかった。

 葉月は、隣りに寄り添ってくれている義兄の手を取って彼を見上げる。

「帰りましょう、義兄様」
「そうだな」

 どうしたことか。純一の黒目まで潤んでいる。

「やあね、義兄様も歳をとったのね」
「うるさい。チビのくせに、生意気なことだけ一丁前になりやがって」

 もう、相変わらずなんだから――と、葉月はもういつもの拗ねた顔を見せていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 二人揃って外に出ると、もう星の夜空だった。
 一杯でも酒が入ったため、義兄が車を呼んだ。玄海の店先、道路際で二人は並んで車を待つ。

「食事にならずだったな。どうする。隼人には『いつもの連隊長との食事』と言ってあるのだろう。腹を空かせたまま早く帰ると、なにかあったのかと思われないか。あれはちょっとでもいつもと違うお前に気が付いたら、直ぐに勘繰ってあちこち調べまくるぞ」
「そうねえ。なかなか気が抜けない旦那様なのよね。Be My Lightに行っても直ぐに目撃証言を拾ってアリバイ不成立ね」
「久しぶりにジュールのメシでも食っていくか。真一もいることだし。口止めをしておけば大丈夫だろう」
「いいわね。ジュールのお料理、久しぶりだわ」

 いま義兄のマンションは、久しぶりに彼のファミリーが滞在していて賑やかなところだった。
 それならばと、葉月はお邪魔することにする。

 タクシーを待っている間も、純一の溜め息が葉月の頭の上から落ちてきた。

「隼人の目を盗んで先回りするのは容易なことではないぞ」
「だから正義さんに手伝ってもらうのよ」

 葉月は、星空を見上げる。

「隼人さんは私がいる限り、どんなことをしてでも私の地位だけを守ろうとする。身体にリスクがあるなら、それをカバーする方法を必死なって探してくれるはずだわ。でも、もうそれじゃ駄目なの。私の身体がもう言うことを聞いてくれないから。完璧な布陣なんてないわ。私がいなくならない限り。でもそれでも、隼人さんはきっと諦めずに私を空部隊の長として必死に守ろうとしてくれる。だから……」

 そして葉月は、ミセス准将の眼で星空を睨んだ。綺羅星に意志をぶつけるかのように。

「だから。気が付いた時は既に遅し、あっという間に彼を担ぎ上げるのよ」

 ミセスの星空への挑発に、純一はまた呆れた顔。だが、最後には共に星空を見上げてくれた。

「ミセス准将と、澤村工学科大佐の最後の勝負かね」

 ずっと向こうに見える道。始まった花道。
 悔しい気持ちはないと言ったら嘘になる。だけれど、これだけは言える。

「私は今日までだって、思いっきりやった。後悔なんてない」

 言い切ると、義兄がそっと肩を抱いてくれた。その胸にはもう頬を埋められないが、それでも義兄の労る柔らかさを葉月は感じていた。

 

 願うは。夢見た雷神のエースの誕生。そして彼等とのあと少しの航海と任務を無事に終わらせること。
 雷神を空の極みまで飛ばしたら、空の彼方で、あの人に雷神を渡すの――。
 それが葉月の花道の向こうにある『夢』。

 

 

 

 

Update/2010.9.20
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