◇・◇ 猫と隠れ家 ◇・◇

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1.アイツに似ている?

 

 『ネコ』と呼ばれていた。

「ふらっと人んちに寄って美味い飯食ってとことん眠ったら、ふらっと出て行く。猫みたいだな」

 だから『ネコ』。
 アイツの意地悪な声が、まどろっこしいほど耳に絡みついたまま。
 彼の匂いが消えて何年だろうか。彼はもう帰ってこない。

 

 週末の夜。婚約者と食事をして別れたところ。『美々』は細い路地に入って二軒目にあるカフェの扉を開ける。
 ここへ通うようになって二ヶ月ほどになる。最初はなんとなく入った。特に驚く一杯ではなかったが、なんだか気になった。次に来た時にもホッとしたのでまた来てしまう。そんな不思議なカフェ。
「いらっしゃいませ」
「グランマルニエコーヒー」
「かしこまりました」
 いつもオーダーを取りに来る無精髭の男性に美々はにっこり笑顔を見せて付け加える。
「ちょーっとだけ。グランマルニエ多めに入れてくれる?」
「よろしいですよ」
 彼もにっこりと微笑み返してくれる。そしてどこか可笑しそうだった。
 すっかり顔見知り、でもオーダーと支払い以外に会話をしたことはない。
 ざっくりとラフに着込んだ白シャツ、足首まである長くて黒いソムリエエプロン。たぶん、マスター兼バリスタ。
 ちょっと好きな顔なんだよねー。
 落ち着いた物腰、寡黙な職人。でも懐が広そうな、どっしり感。そして響く低い声。でも、と美々は窓の外を見る。でも『アイツ』じゃない。アイツはたった一人だけ。似ている男でも彼にはなれない。
 
 このカフェは中心街にあるがとても狭い店。一階はテーブル席なしカウンター席のみ、すぐ後ろの壁際に二階席へ向かう階段。二階にはテーブル席が四席。最上階の三階は大きなテーブルをひとつだけドンと置いた団体客用フロア。
 美々のお気に入りは二階の窓際席。この店は角を曲がって路地に入ってから二軒目にある。そんな店の二階窓際の席に座ると、角のビルとビルの隙間から夜の繁華街を行き来する人々を眺めることが出来る。
 賑やかな夜の街を行き来する人々は、どこか妖艶な気を放っているように感じる。週末の夜、一人でも二人でも集団でも。誰かが危なげな願望を抱いて歩いている。それをこっそり、ここから眺める。ビルの隙間にひっそりと組み込まれているのコンクリートのカフェ。奥行きはあるけど縦長三階建て。目に留めないと通りすがって終わってしまいそうな小さな存在感。そこでこうしてど真ん中の道を行ったり来たりする人間の世界を、秘密の特上ドリンクを片手にひたすら眺めるのが好き――。
 
「お待たせ致しました」
 マスターの彼がいつも通りに美々の前へと珈琲カップを丁寧に置いてくれる。ビターな珈琲豆の香りをさらにふわりと包み込む、胸焦がすオレンジリキュールの香り。あっという間に美々を心地よく誘う。だが今夜は少し違うことが目の前で起きていた。
「チョコレート?」
 カップの横に手のひらほどの小さなソーサー。そこにちょこんとサイコロのようなチョコレートが二つ。いつもはコーヒーだけなのに。
「十日ほど前から、スタッフにパティシエを入れたんです。日替わりケーキを限定で置くようにしました。こちらは手作りの生チョコで夜ご来店くださった女性のお客様にサービスしております」
「えー、そうなの。手作りの生チョコ!」
 小さなソーサーを手にとって眺めた。小さな小さなキューブチョコ。二個なんてちょっとしたプレゼントみたいで嬉しい。
「このお店で今度はパティシエが自ら作ったケーキも食べれるってわけ。なんか贅沢!」
 だがマスターは申し訳なさそうに会釈をした。
「残念ながら日替わりケーキは製造に限界がありますので日中になくなってしまうんです。パティシエが一人だけで製造、そしてこんな目立たないカフェに寄るお客様も限られていますので、多くは用意しない方針でして」
「ううん、わかっています。売り切ることが大事だもの。それに……夜にここへ来る客は、だいたいは飲んで胃が疲れているか、食事を終えてお腹一杯だからケーキは商品としてはあまり動かないでしょうし。チョコレートの方が合っていると思うな」
「その通りです。なんだか良くおわかりですね。もしかして……」
「いえ。単に私がいつもそうなので」
 思わず自分の考えを語っていたことに驚き、美々は慌てて口をつぐんだ。
「頂きます」
「ごゆっくり」
 マスターが去っていく。美々も満足げにリキュール入りのドリンクと手作りの生チョコレートを味わった。
 本当、いい店。なくなって欲しくない。ここはなんだか、『帰ってきたー』という気にさせてくれるの。丁寧にきっちり妥協なく淹れられた珈琲に紅茶。その上、こんな丁寧に作られたスイーツまで仲間入りしたなんて。しかも沢山じゃなくてさりげない一口だけのプレゼント。押しつけがましくない控えめな気配りが本当に嬉しい。
 
 でも、こういう街中の出来たばかりのカフェはどんなに雰囲気や味が良くても一年後には閉店してなくなっていることが多い。
 なるべく通おう。少しでも長続きしてもらいたいわ。今度こそ。本気で思った。
 気に入ったカフェがことごとく美々の目の前から消えていくばかりの近年。不景気という名の北風は、どんなに真面目に丹念に精進している料理人達にも、容赦なく凍えさせ吹き飛ばしてしまう。
 それに比べ、夫になろうかという婚約者の男は太陽に愛された男と言うべきか。彼は界隈でも名が知れたレストランのオーナー、青年実業家。店の味は確かにいいし、経営力も抜群だった。それ故に、冷徹なところもある。たまに店に暖かみが消えてしまう時がある。だが美々は思うところあっても、『夫のお仕事』に介入はしないつもり。そこは彼の世界だから。
 それにしても。夫になる男に関してのこの素っ気なさは何故か。出会ったばかりの頃から凛々しくキビキビした物腰で、仕事がデキる男として隙などどこにもない。それほどの男だって分かっているけど、結局今日までひとつもトキメキが襲ってはこなかった。
 ならばどうして婚約かというと――。彼が男としてどうとか最初から美々には関係なかったが『この男なら逆境に強そうだ。ずっと前を向いて仕事が出来る男だ』と感じたから。しかもそう確信が出来たのは単なる勘で『嗅覚』とでも言おうか。
 何故そんな嗅覚が敏感かと言えば。美々の父親こそが『仕事男』だったから。なによりも、美々の父親こそこの街で有名な珈琲会社の社長だった。
 だからなんとなく。物心ついた時から『珈琲や紅茶、カフェ』なんてものが美々に染みついてしまっている。美々も生まれついての珈琲好き、喫茶愛好家だったりする。
 父のように仕事が出来る男。それこそが自分を愛してくれるより、美々が男に求めていたもの。自分のことはどうでも良い。そろそろ三十が見えてきた頃、家業をなんとか継いでくれるならと初めて結婚を考えてみた。『どうせアイツじゃないなら、結婚なんて。それなら損はしない結婚にしよう。愛してもらうより家を守って欲しい』。それが美々の結婚動機。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「ご馳走様でした」
 二階のお気に入りの席でホッとするひとときを終え、美々は一階で会計をする。
 マスターがレジにやってきたところで、あるものを注文した。
「アールグレイ、百グラム頂いていきます」
「いつも有り難うございます」
 ああ、ほんと好みの声だなあと思う。なんだろう。ここのマスター、ここに来た時からすっごく親しみがあるというか。男なんてどーでもいいと思っていた美々にとって、まったく初対面の男性にここまで好感を抱くことは滅多にない。
 もしかして父親と同業だから? アイツと似ているから? 私、やっぱりバリスタに弱いのかな……。ふとそう思う最近。
 昨今は『バリスタ』と持て囃されるが、そんな言葉が流行る前から美々の父親は『この街一番の元祖バリスタ』だった。
 祖父の代から珈琲豆の卸業が美々の実家の家業。父は二代目で、家業が高じて出した喫茶店が繁盛し、今は市内のあちこちに店舗がある。『真田珈琲』と言えば、この街で一番の純喫茶とも言われている。そんな我が店でも父は先頭に立って珈琲や紅茶を淹れていた。お供に添える菓子やスナックにもこだわってきた。だからこだわり強い頑固者として有名だった。
 婚約者の『相沢雄介社長』との出会いは、父親が参加した飲食業界の集まりの席に美々が同伴した時だった。彼から声をかけてきた。
 『真田珈琲は昔から大好きで、学生時代もよく通っていました』という、まあ、真実だろうがありふれた社交辞令で彼から父に近づいてきたのだ。
 『お嬢様ですか。お父様に付き添ってくるだなんて可愛いですね』なんて。『本気で言っているのか』と口にはせずも、あからさまに顔に出してしまったのだが。相沢社長はそんな美々の顔を見て、楽しそうに笑ってこう言った。『お嬢様も頑固で、気が強そうですね』。そう聞いて今度は父が笑い出してしまったのだ。『まったくその通りなんだよ。良く言ってくれた』と……。それからだった。父は相沢を気に入り、やがては男同士で真剣な業界の話になり、最後に商談になっている。彼の目的は、自分の店との間に真田珈琲との強いパイプ。レストランに珈琲は付き物。街一番の老舗に近づいて損はないのだから。
 だが相沢の良いところは、そんな正直なところだけではなく、仕事も全力でぶつかっているところ。勉強熱心で、喫茶一筋の父ととても話が合っていた。イコール、美々とも話があったと言うこと。それが付き合いが進んだきっかけだった。
「お待たせ致しました」
 はっとする。マスターがいつもの茶葉のアルミパックを差し出してくれていた。
「紅茶もお好きのようですが、こちらでは珈琲ばかりですね」
「自宅で楽しんでいます。ここのアールグレイ、私好みの香りで」
「そうでしたか。気に入って頂けて光栄です」
「だってね。気に入った香り付けになかなか出会えなくて。アールグレイと一口に言ってもその会社独自の香り付けがあるんですもの。おなじベルガモットのはずなのに、オレンジぽい香りだけだったり、レモンぽい香りだけだったり。ベルガモットが優しすぎて茶葉の香りの方が強かったり。私、ここのお店のような『パヒューム?』とも思えそうな、本当のベルガモットの香りがする茶葉が好きなの。キツイ匂いって嫌う人もいるかもしれないけど」
「こちらは、うちのオーナーが独自にオーダーをしているものなんですよ」
「え。あの……マスターがオーナーかとずっと」
 すると無精髭の彼がにっこりと笑いながら教えてくれる。
「雇われマスターと言いましょうか。オーナーは別におります。彼も店に来たら淹れたりしているのですが、だいたいが買い付けなどの営業で外を廻っていますので」
「そうでしたか。あの、本当にここのアールグレイが今、一番お気に入りで……」
 この時なんだか、美々は奇妙な気持ちになった。このお気に入りのカフェがあまりにもあまりにも自分に合いすぎていて。
「有り難うございます。オーナーにも伝えておきます」
 会計を済ませると、カウンター奥の厨房から黒髪をひっつめたコックコートの女性が出てきた。
「マスター。こちらよろしかったら、そちらのお馴染み様に」
「そっか。サンキュ」
 彼女が持ってきたのは、透明のセロハンに紺色水玉のリボンでラッピングされた『生チョコ』。それを美々へと差し出してくれた。
「よろしいのですか」
「手作りだから日持ちしないんです。お茶好きのお客様に楽しんで頂けるなら。そちらのアールグレイのお供に是非」
 優しさが滲む大人の女性の微笑み。女性のパティシエ。美々はちょっと羨望の眼差し。心遣いも素敵で……。なんだか子供に返ったような気持ちでそれを受け取った。
「頂きます。きっと今夜中に食べちゃいます」
 マスターとパティシエ姉様が顔を見合わせ、なんだか嬉しそうに微笑み合っていた。
 今日も満足。本当にこの店は美々の秘密の場所。まるで『隠れ家』だった。

 

 

 

 

Update/2013.2.21
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