■ 奥さんに、片想い ■

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 エピローグ 【 お椿さん 】 

 

 椿祭、『お椿さん』。この祭が終わると春が来ると言われている。
 それまでは雪山から吹き下ろしていくる鋭い風に吹きさらされる寒い日が続くが、それから急にふわりと花が咲くように暖かくほころぶ日がやってくるのだと――。
 参道は沢山の出店で賑わい、とっぷりと日が暮れ暗くなっても燦々と照らされる灯りの中、人混みで溢れていた。
 僕達家族は出店から漂う美味そうな匂いにつられながらもぐっと堪え、境内へと向かう。
 参拝客で賑わう境内で、僕は賽銭を取り出し美佳子にそれを差し出した。
「私も準備したわよ」
「だめ。これを投げて」
 どうして? と美佳子。それを横目に僕から賽銭を投げた。
「厄落とし。貧乏くじを引いてその報いを受けたので、もうこれっきりになりますように」
 柏手(かしわで)を打つ僕を、美佳子がきょとんと見ている。
 そんな妻に。僕は緩く微笑みながら、小さく告げた。
「今日、断ってきた。本部への話」
「え!」
 どうして! 美佳子が一瞬だけそんな顔をしたが、でも次にはなにもかも諦めた顔になってしまう。どうしてかなんて……。美佳子が一番よく分かっているだろうから。
「ごめんね、徹平君」
 俯く妻に、僕は賽銭を握らせる。
「美佳子も」
 彼女が小銭を握る。僕の手から渡した賽銭を、美佳子は暫く見つめていた。
「ママ、パパ。まだ?」
 先へ先へとはしゃいでばかりの娘も、とうに参拝を終え階段を下り待ちかまえている。
 娘が待っているのを見て、美佳子が笑顔になり、ついにその賽銭を投げた。
 二礼二拍一礼。僕の横で妻がきちんと参拝する。
「終わったわ」
 厄を落とす。その意味を美佳子もわかってくれたのか。やっと僕が好きな笑顔を見せてくれた。
「もう、これで終わりな。僕たちは二度と沖田に関わらない」
 今日、僕が妻をここに連れ出した意味。小雪がちらつく夜空の下、春を告げる祭で終わりにする。引いたくじの貧乏はもう受けたんだから。美佳子も疫病神なんかじゃない。貧乏くじをひいただけだ。僕のその言葉に美佳子がまた涙をこぼした。
「パパ、いこうよ。お腹空いたよ!」
「うん、いこう」
 時間は夜の八時をとうに過ぎていた。それでも参道の参拝客の賑わいは続き、人混みも終わらない。
「いこう。今まで通りの僕たちで充分だよ」
 美佳子は泣いたまま、そうねとも言わず、頷きもしなかった。本当だったら自分も再就職をしていただろうし、夫は昇進していた。それを諦めることになる。でもそれも、平穏に過ごしていく為。頑張っていく人達もいるだろうが、僕と美佳子は穏やかで質素な道を選ぶ。
「ほら、梨佳があんなに先に行ってしまった。見失ってしまう。急ごう」
 力無く歩く妻の肩を抱いて、僕達は歩き出す。
「……時も、そうだった」
 僕の胸元で美佳子が何かを呟いた。
「え?」
「初めてボンゴレを食べさせてくれた夜も、徹平君はそうして私を楽にさせてくれた」
「うん……」
 そこで美佳子はポケットからハンカチを取り出し、急に涙をごしごしと拭いて毅然とした顔を懸命に整えるべく乱れた髪も手で整え、しゃんと背筋を伸ばし、僕の胸から離れていった。
「好きよ。徹平君。あの時からずうっと好き」
 人混みの参道で僕は思わず立ち止まり呆然としてしまった。
「なななな、なに急に、こんなところで」
「徹平君って真面目だったじゃない。きっと私みたいに男性とばかり噂になっている浮かれた女なんか興味ないだろうなとは思っていたの。結婚もそう……なんだか沖田と落合さんに追い込まれて逃げ込んできた女がたまたま目の前にいたから、お互いに適齢期だったから結婚しようかなんて流れだったし」
「え、僕は適齢期で目の前に美佳子がいたから適当に結婚した訳じゃあないよ」
「うん、わかっている。でも最初は『結婚がしたかったからどの男でも良い女』だと徹平君は思っているだろうと。そう思っていた」
 確かに。そう思うことはたまにあった。だから僕の様子をよく見て敏感になっていた美佳子も『僕なんて都合良くそこにいた男なんだ』なんて思っていた夫の姿を察知していたのかも? 結婚十年目になって妻の気持ちを初めて知る気分だった。
「でも。私、違うから。本当はボンゴレを食べさせてくれた時に、もう一気に恋していたんだから」
「そうだったの?」
 そうよ。と、美佳子が笑う。
「やっぱりね。徹平君、私があれからすごくドキドキしているの知らなかったでしょう。もう徹平君のなにもかもがすっごく格好良く見えちゃって。クレームで困っている女の子を助ける為に頭にヘッドホンをつけた真顔も、どんなにあちらが荒れ狂っていても冷静にお客様と話す徹平君の声も素敵だし、淡々とデーター入力をしているワイシャツネクタイ姿の徹平君とか。大好きなマツダの車のエンジン音を聞いてご機嫌にハンドルを回す徹平君とか。……さりげなく、ワインを頼んでくれた徹平君とか。あの時の白のグラスワイン。あれが私の中で一番キラキラしていてもらった指輪の宝石より綺麗なの。あの優しさに包まれて眠れた夜は、まるで徹平君に抱きしめてもらっているみたいで目が覚めた朝もすっごいドキドキしていた。こんなにときめく恋が三十歳過ぎて到来するなんて信じられないって毎日が幸せだった。でも、徹平君は相変わらず真面目で淡々としていて。それに私ももう……恋で浮かれて痛い目に遭いたくなかったから、抑えて抑えて徹平君の迷惑にならないようにしていたの」
 ええ! 美佳子からこんなにべた褒めされたのは初めて。しかもそんなそんなずっと前から僕のこと! 僕の頬が冬空の下でも、一気に熱くなる。
「嘘だー。僕が格好良いだなんて。嘘だ」
「いいのよ、嘘で。私だけが知っていればいいの。誰も見ちゃ駄目。徹平君が格好良く見えた女の子は、絶対に徹平君のことあっという間に好きになっちゃうはずだから」
 なにそれ。と僕は益々困惑。でも今度は美佳子が余裕でにっこり笑っている。
「決めたの。私の恋、これが最後。死ぬまでずっと徹平君に恋していくって。他にも恋をしたけど、あっちの方が全部嘘。私の本当の恋は徹平君だけよ」
 はあ、なにこれ。なんなんだこれ? どうして、今日は僕が妻を励まそうと思っていたのに? なんで僕がこんなに掻き乱されているんだろうか? 
 それも、こんな甘く疼く恋する彼女からの、恋の告白。僕の胸もずっと前のようにドキドキと早鐘の如く胸を打つ。
「私は辛かった時に徹平君の胸に逃げ込んできた女だから。口で『好き、愛している』と言っても、徹平君はきっと『言ってくれているだけ』と思っちゃうだろうから、私、『言葉じゃなくて、毎日一緒にいること』で何年もかけて徹平君に信じてもらおうと思っていたの。ずっと、私の片想いでいつか徹平君に『美佳子は本当に僕を心から愛してくれているんだね、嬉しいよ』て感じてもらうよう毎日少しずつ積み重ねていこうと誓ったの。だから、私の最後の恋なの」
 嘘だ! 僕は再度叫びたかった。美佳子が片想い? そんなとんでもない。だから僕も負けずに妻に言った。
「なに言ってるんだよ。僕が美佳子を先に好きになっていたんだから」
「え、そうなの!」
 とてつもなく妻も驚いた顔。僕もそれが意外でびっくり。っていうか……もしかして、僕……。
「僕が美佳子のことずっと好きだったてこと、コンサルに来た時から片想いだったこと。僕、言わなかったっけ?」
「ええ、そんなこと徹平君、一度も言ってくれていないわよ。嘘、そっちが嘘!」
 美佳子も仰天したようで、あまりの驚きに途端に頬を真っ赤にして否定の顔。
「本当だよ。僕のようななんの取り柄もない地味で目立たない男なんて、美佳子さんには対象外だっただろう」
「そ、そうだけど。若い時の女の子はそんなものよ」
「だから僕はずっと……対象外だと思っていたけど。それでも美佳子に片想いをしていたから、あの日、泣いた美佳子をあの店に……」
 嘘、嘘と二人で顔を見合わせた。僕の目と美佳子の目がいつまでも合わさっていた。人混みの賑わいの中、僕たちの黒目が夜明かりに輝いてあの日に戻っていくよう……。もしここが人混みの中ではなかったら。僕はそんな思いで妻の手をそっと握った。美佳子も静かに握り返してくれる。心で僕たちは抱き合って、目の奥では裸になって愛し合っている。そんな胸焦がすひととき。
「あ、梨佳は。梨佳はどうした」
「本当、やだ。あんな大きくなって迷子とかやめて!」
 ハッとした僕たちは甘く漂った空気を振り払い、人混みの中慌てて娘を捜した。
「もう〜。なに二人でその気になっているのよ。パパがママとデートしたかっただけじゃん」
 両親が見つめ合う現場を遠くからしっかり観察していたおませの娘に、僕たちが見つけてもらうハメに。
「いこう。お寺の近くにあるパスタ屋さん。梨佳、ボンゴレを食べるんだー」
 僕たちの『好き』は、娘にも伝わっている。
 大人の店だから、たまに連れて行くと梨佳はちょっと背伸びで楽しんでいる。
 パパとママが独身時代にデートをしたお店。いつもそう言う。
 結婚十年目。僕たちは変わらぬ店で変わらぬ毎日の中、変わらぬ好きなメニューを頼んで、変わらぬ笑顔で過ごしていけばいい。
 あんなもの、疫病神にくれてやる。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 本部人事がどうなっているか、何を考えているか僕にはわからない。
 僕が辞退した後、もう少し年配の地方支局のコルセン課長を本部コンサルに据え置いたようだった。そして沖田も念願通りにコンサルの係長として異動したとのこと。

「はあ。もうどうしてこうなっちゃったんだろうねえ」
 毎度の如く、田窪さんが僕の目の前で、今日もコーヒー片手に溜め息をこぼしている。
「でも、佐川係長らしいですよね。私も是非、沖田を蹴落として課長になって欲しいと押しましたけど、今となっては私達のコンサル室に佐川さんがいるのはほんと安心ですから」
 僕がコーヒーを飲む傍らには、あの落合さんもいた。
 いつもの昼下がりの中休み。僕と休憩の時間が合うと、この女性二人は僕のところにすっ飛んでくる程、よく話す同僚に。
「てっちゃんの為によく言った、落合ちゃん! でもねえ。やっぱり私達、てっちゃんがいなくなったら心細いわ」
「せっかくの適材適所の昇進だったのに。残念でしたね。佐川さん」
 もう桜も散ってしまった。透かしている窓からは暖かな春の風。会社の人事異動も落ち着いた頃だった。
「しかもあの沖田が係長が行くはずだった法人コンサルに、ちゃっかり紛れ込んで。腹立つったらっ、もうっ。この会社の本部、いったい何を考えているの?」
 落合さんが我が事のように怒り出し、僕と田窪さんは彼女の気性のスイッチが入る前に『まあまあまあ』と諫めた。
 だがそこで田窪さんが何故か『ふふ』と笑う。
「でもさ。これって沖田君にとって最後のチャンスだと思うよ〜。あの子もう背水の陣だからねえ。踏ん張れば今度こそ本物の男、でなければ……」
 落合さんもそこで『ふふ』と不敵に笑う。
「踏ん張れないに賭けます、私。そういう男です、アレは!」
 女二人でまるで呪いでもかけているかのような恐ろしい笑みを見せ合っている。それを間で見ている僕も苦笑い。やっぱり女は怖いわ。
 そんな彼女達が『大丈夫、大丈夫。絶対にまた係長にもチャンスが来るって』と宥めてくれるので、僕もにっこりとひとこと。
「えっとー。違う意味でめでたいことが……」
「なあに。美佳子ちゃんが仕事を始める気になったとか言っていたけど」
「美佳子さん、いいところ見つけたんですか?」
 補佐の二人に詰め寄られつつも、僕はもう笑みが抑えられずにこにこにこにこして彼女達に告げた。
「じゃなくて。美佳子の身体がおめでた」
 妻がおめでた。
 目の前の女性二人、目を丸くして固まっている。そして瞬きせぬ目でずうっと僕を凝視している。
「夫妻共に四十過ぎているけど、えっと、頑張ってもう一人育てていくことにしました」
「えーーー! なにそれ、てっちゃん!!」
「え、え。み、美佳子さんも、頑張って産むってことですか、それ!」
「うん。高齢出産だけど現代医学を信じて、頑張ることにしました」
 なんなのそれーー! 本当の『おめでた』じゃないーー!!
 彼女達の驚きは、休憩の後あっという間にコンサル室にも広まってしまった。

 うっそー。係長が二度目のパパになるんだって!
 おめでとうございます。おめでとうございます!

 新しい命の誕生と共に、僕は祝福を受けていた。
 妻、美佳子のお腹は三ヶ月。つまり、お椿さんの後すぐの子。
 結婚十年目の授かりものだった。

 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 僕は変わらない。変わったつもりはひとつもない。万年係長の道を選んで、四十を過ぎて二児の父親になって邁進していく日々。

「あー。またシャツにミルクがついていますよ」
 主任になった彼女に言われ、僕はシャツを見ろした。
「本当だ。だってさ。吐くんだもんな。ミルク」
「相変わらず子煩悩パパですね。もう、今からお客様がいらっしゃるのに」
 眼鏡をかけている落合さんが、綺麗なレエスのハンカチで拭こうとしていたのでその手を握って止めた。
 あれから美佳子が無事に男の子を出産した。出産して動けるようになると美佳子は明け方のバイトに出て行くようになった。その間、僕が息子の面倒を見る。出勤前、パパが授乳。息子のちいさく丸い背をぽんぽん叩いてげっぷを出してあげると、たまにケホッと甘い匂いのミルクを白いシャツに吐かれてそのまま……。
 朝は慌ただしく、僕と美佳子で時間ギリギリのバトンタッチ。美佳子はそのまま昼間は小さな赤ん坊の息子とぐっすり眠って休めるとのことで、今のバイトを続けていた。
 そして僕は今。
「だめだめ。綺麗なハンカチが汚れるじゃないか」
 慌てて僕は自分のハンカチを出して拭いた。
 そこで眼鏡姿の『落合主任』がにっこり笑っている。
「本当。いつまで経っても佐川課長は変わりませんね」
「僕はいつも通りだよ」
「でましたね。『僕はいつも通り』ってセリフ!」
 キリッと黒いパンツスーツで決めている『冷たいシングルお局様』と言われている落合さんがケラケラと笑い出したので、コンサル室のメンバーが驚いた顔で僕たちを見た。
「課長。北条工業の三浦専務から連絡が欲しいとのことでしたが」
「うん。わかった」
 落合主任からの報告を受け、課長のデスクに座り、僕は電話機へと手を伸ばす。法人コンサル室は規模は小さいが、精鋭のコンサル員を集めたハイクオリティな部署。そこで男女問わず最高のコンサルに磨きをかける社員が法人相手に意欲的に仕事をしていた。
「すみません、課長。冷たい麦茶を切らしていました」
「はあ? 一時間後はもうお客様がいらっしゃるだろ」
 チェック不足で申し訳ありません――と、コンサル修行中の青年が僕に頭を下げる。
「いいよ。僕がそこのコンビニで買ってくる」
 え、課長が! と、アウトコールで各企業に連絡をしていたメンバーがヘッドホンをしたまま課長席へと一斉に視線を集めてきた。
「課長、そんな。私達が行きますよ」
「そうですよ。僕のミスだから僕が行きます!」
「いいから。コールに戻って。コールに集中して。その代わり、僕が買い物に行っている間のクレーム処理はなんとかやってくれよ」
 唖然としている彼等の返答も聞かず、僕は緩めていたネクタイを締め直しコンサル室を飛び出した。
 外は蝉の声、真っ青な空が眩しい。冷房が効いた本部の一室を出ると途端に汗が噴き出す灼熱の国道沿い。僕はコンビニへと目指す。
「課長」
 呼ばれ振り返ると、落合さんが僕を追いかけてきていた。
「やはり私が行きます。課長がコンサル室を空けてはいけませんから」
「いいよ。僕が外に出たかったんだ」
 『まあ、サボりですか。佐川課長らしくない』と、落合さんが意外な顔。
「実は、睡眠時間が減っているから眠いんだ。僕も歳だからさあ」
「そうでしたか。明け方は子守りパパですものね。そういうことなら」
「麦茶を買うついでに、冷たい栄養ドリンクでも飲んで目を覚ましてくるよ」
 もうすぐそこに見えているコンビニエンスストアを僕は指さして笑う。落合さんもそっと微笑んでくれた。
「では、私戻ります」
「十五分で戻るから。その間よろしく、主任」
「なにかあったら携帯に連絡しますから、慌てずに気分転換してきてください」
 彼女が手を振って本部ビルに戻っていく――。
 
 美佳子が出産を終え、ひとまず落ち着いた頃。僕はまた支局で課長に呼ばれた。同じ時期、お椿さんの頃、おなじ部屋、同じ穏やかな小春日和、おなじ冠雪の山脈が見える部屋で。課長が『今度こそ、引き受けてくれるな。本部からの強い要望だ』と告げた。
 たった一年。何があったのか詳しくは知らない。だけれど、僕の代わりに課長になった男性がリタイヤしそのまま退職してしまったとのこと。その前に、コンサルと営業の不手際で大きな損害を出したという報告。そして。『沖田はもう本部には戻ってこないと思う。これで心おきなくあっちにいけるだろう』と課長。大きな損害にどのように沖田係長が関わっていたかは、僕が本部コンサル課長に就任して一年の実務実績を確認した時に知った。
 ほらね。沖田がトラブった。
 本部ではあちらこちらからそんな声が聞こえてきた。そして僕の支局でも。『私の賭け、勝ちましたね』とほくそ笑む落合さんがいた。
 沖田は自分のために平気で人を傷つけ、目先の利益の為に簡単に信頼を軽んじる。誰もが口々にそう言っていた。そして彼の姿はもうどこにもない。
 本部に転属するにあたり、光栄なことに『補佐するメンバーを選んでも良い』とまで言われた。『その代わり、損害を取り戻すこと』。コンサルでの損害は『信頼を取り戻すこと』を意味する。本部はその損害に切羽詰まっている状態で、だからこそ『佐川君が仕事をしやすいメンバーにして良い』という異例の許可をもらえたのだ。
 そして僕は『選んで良いメンバー』に、田窪さんと落合さんを候補にした。だが、同じ支局の同部署からの引き抜きはどちらか一人と本部から言われ――。『私は先が見えているから。まだ若い落合ちゃんを連れて行ってあげてよ』。田窪さんが辞退した。その代わり、僕が抜けた支局を支えていくとの決意。『だってさ。この支局じゃもう落合ちゃんに見合う男がいないじゃない。本部に行って見つけてきなさいよ』なんてお母ちゃんらしく言って、気持ちよく若い落合さんを送り出した。
 その甲斐があったのか。落合さんはもうすぐシングルさんではなくなる。本当に本部にいる他部署の男性と結婚することになったのだ。春に転属してきたから、あっという間のことで『電撃婚』と言われている。しかも……年下の男! だが今度は男性から落合さんに熱烈に申し込んできたとのこと。僕を補佐する『デキる綺麗なお姉さん』を見て、一目惚れだったらしい。あの落合さんにも幸せがやってきそうで、僕もほっとしている。
 『私、美佳子さんから勇気をもらいました。もう駄目かなと思っていたけど、出産も頑張ってみます』と落合さん。もう難しいことは考えず、とにかくパートナーと歩んでいく人生も頑張ってみるとのことだった。
 それでも転属してすぐ。僕の仕事は今にも縁が切れそうな顧客に謝罪することから始まった。沖田の置きみやげも大きかった。それでも僕がずっとやってきた仕事だったから、いつも通りに取り組んだ。営業本部も力を貸してくれ連携をして回復に努め、落合さんもとことん協力をしてくれるし、元々いた実力ある他メンバーも頑張ってくれている。
 コンビニまであと少し。横断歩道の信号待ち。欠伸をする僕のポケットで携帯電話が鳴る。
「あ、美佳子。うん、大丈夫。今から眠気覚ましにコンビニに行くところ。え、コンサル室を放置って? 落合さんがいるし……。ああ、うん、わかった。帰りにドラッグストアで買ってくる」
 オムツと粉ミルクを買ってきてくれとの連絡。
『徹平君。今日のご飯、鰹のタタキとぶっかけうどん、どっちがいい?』
「うーん。鰹のタタキ!」
『わかった。冷酒も準備して待っているから気をつけて帰ってきてね』
 うんと頷く受話器の向こう、元気な息子の泣き声が聞こえてきた。
 じゃあねと僕たちは電話を切る。
 信号が青に変わり、僕は歩き出す。
 路面電車がのんびり走る大通りを横断する時、本丸が見える城山からの夏風がネクタイを揺らした。港が見える城下町、僕の生まれ故郷。やっぱり僕はずっと変わらない。
 僕は今日も、いつも通り。
  

◆ 奥さんに、片想い/完 ◆

 

 

 

★ 最後までお読みくださって有り難うございました。 茉莉恵 ★

   
 
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Update/2011.1.29
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