■ 奥さんに、片想い 番外編 ■

TOP BACK NEXT

落合編 【 お局様に、片想い 】
 
 イニング2 後攻◇お局主任はおひとり様 

 

 彼はいわゆる『技術者』で、『システム管理部』に所属している。
 各部署のシステムメンテナンスにシステムチェック、トラブルが起きた時の対処、サーバーの管理などなど。毎日、どこかの支社支局へと飛び回っているので、本部の事務所にいることはほとんどない。
 千夏と佐川課長がいた支局時代でも、彼はそこの担当ではなかったので会うことはなかった。だが本部法人コンサル室のデーター管理、インアウトバンドなどのコール回線システム管理を担当しているチームの一人だったので、メンテナンスの日にコンサル室にやってきたのが彼との初顔合わせ。おそらく、佐川課長と彼が親しくなったのも、この時からなのだろう。千夏のことも。もしかするとこの時に……?

『俺、落合主任が格好つけずに本気でガミガミ叱りとばしている姿に惚れたんですけど』

 見られていたんだ。そう思うと頬が熱くなる。勿論、彼が言うとおり『格好つけている場合じゃない』と思ってなりふり構わずやる覚悟をしていたから見られていて当然のはずなのに。
 でも、そこが『惚れた』なんて。そんな男、いるの?
 昨夜は雨だった。それでも朝には薄黒い雲の切れ間から青空。いま千夏が立っているアスファルトには水溜まり。風でゆらゆら揺れる小さな波紋に青空が映っている。
 なんだかんだ悩んだ末、千夏は彼が指定した電鉄の駅に来てしまっていた。

 やがて、一台のSUV車が駅前駐車場に停まった。4WDの大きめの車の運転席から、河野君が現れる。
 千夏が立っている姿を見て、彼が慌てて走ってくるのも、いつもと変わらなかった。
「す、す、すみません。俺から誘っておいて!」
 もの凄く焦った顔。大きな身体でどっしり見える彼が、うっかりしたと動揺している姿はちょっとおかしかった。
「時間より少し早いし。遅刻でも何でもないじゃない」
「そーですけどっ。だって……まさか……」
 誘ってくれた時はとても落ち着いた男の横顔を見せてくれていたのに。まだ待ち合わせの時間でもないのに誘った女性より遅く来ただけで慌てているから、ついに千夏は微笑んでしまう。
「やっぱり『来ない』と思っていたんでしょ」
「……来ると信じていましたよ。一日中、待っている覚悟だってありましたよっ」
「あー。それでこの駅なんだ」
 その駅は千夏が電鉄で来るには数駅で、しかも大きなスーパーと隣接していた。お腹が空いても買い物が出来るということ。
「いや、そういうわけじゃ……っ」
 思わぬところを見抜かれて益々焦る河野君。でも彼の良いところは、
「いえ、その通りです。だって俺、腹を空かしては無理です」
 千夏も同じことを彼に返したい。彼の良いところは、格好つけないで正直なところだと思う。だから信じられる――。彼に声をかけてもらうようになってからずっと感じていることだった。
 そんな男女の駆け引きも知らなさそうな自分より若い彼。だからこそ、千夏はちょっと意地悪を言いたくなる。
「なんにも食べないで一日中待っていてと言ったら、ダメなんだ」
「いやいや、決して、そういうわけでは!」
 待っていてくれるの? そう言いかけ、やめた。彼の気持ちを知っていて見透かした問いかけは、他愛もない意地悪を通り越して卑しい気がしたから。そう思って飲み込んだのに……。
「もしここが無人駅で腹が空きまくっても待っていますよ。俺」
 千夏は唖然とする。聞こうとしてやめてしまった問いかけの答え。それを彼から真顔で言ってくれた。まるで千夏の心の中が見えているみたいでびっくりする。それに。本当に正直で真っ直ぐすぎる男の人って……一歩間違えればキザだと思ってもおかしくないこと平気で言う。のに、キザじゃないから困ってしまう。つまり憎めなくて、嫌な気が起こらなくなってしまうのだ。だから千夏も笑顔になってしまう。
「これからどうするの? どこか連れて行ってくれるの」
「勿論、勿論! そっちが目的ですよ!」
 さ、車に乗ってください! 嬉しそうな彼の誘いに、千夏は素っ気ない顔を保って車に向かう。
 そう、彼と楽しもうと思ってきたんじゃない。今日こそ、ハッキリ言わなくちゃ。佐川課長のことを誤魔化すのではなく、本気で好きだって言ってしまおう。
 眠れぬ夜、雨音の中、決めたこと。だから今日、ここに来た。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 彼の車が国道を走る。市内を抜けて東部地方へと向かっていた。
「海道方面へ行ってみようと思っています。大橋を渡って島にも行こうと思っているんですが」
「いいわよ」
 どこでも――。と、心の中で付け加えている。
「途中の海岸沿いの店で食事をしましょう。和食ですけどいいですか」
「いいわよ」
 彼にお任せ。特に希望はない。
「嫌なことは嫌と言ってくださいね」
「はい」
 何でも良かった。とにかく、自分のこと……どうやって話そうかと考えあぐねている。そればかり。
 言ってしまおう。全部、全部。いつまでも『素敵な女性』なんて持ち上げられても……嬉しいけれど、自分が嫌になってくるし。彼と気まずい関係になりたくない。彼は本部の人間だし課長とも仲が良いだけに、互いの職場での関係が負担にならないよう断らないと。それってどうすればいいのだろう。
「落合さん? 大丈夫ですか」
「え、ええ」
「それならいいんですけど」
 ホッとした笑顔を見せる彼。彼も彼なりに緊張しているようだった。
 やがて車窓に海が広がる。降雨のおかげで靄が拭われた空は澄んで、とてつもなく突き抜けた青。穏やかな波の海原、ゆっくりと海上を行くタンカーやフェリー。街中でキリキリと働いている日々を過ごしている身としては、故郷のこのような穏やかな色合いの景色を見るのはとても癒される。何か話さなくちゃ……と思うけど。暫く、ずっと黙ってこうしていたい。そう、城山の堀端でぼうっとしてるように。
 そして、不思議だった。彼も黙っている。ふと運転に集中している彼を窺うと、いつもの微笑みを唇の端に柔らかに携えたまま、ずっと前を見ているだけだった。
「静かね」
 話さないと気まずいのかと思って、なんとなく千夏から呟いてみる。男だからリードしてほしいなんて、若い彼に押しつけたくない。彼から誘ってくれたとはいえ、やはりあまり負担になりたくなかった。そっちからムードを作れだなんて、高飛車なオーラを醸しだして純粋そうな彼を困らせたくなかったのだが。
「でも。主任は静かにしている方が好きなんですよね」
 ドキリとした。車の中、二人きりのドライブだからなにか話さないとと思っていたのに、思わぬ彼からの返答。
「どうして」
「だから、昼休みに一人オフィスを飛び出して、堀端にいるんでしょう。午前中はエネルギーを思いっきり人に向けて、主任自身もギリギリの状態まで自分を追いつめてパワーを発揮。そりゃ、昼休みぐらい一人きりになってチャージでもしないとやっていけないでしょう」
 だから、ここでもそっとしてくれているのか。だが千夏は益々彼の気持ちを知って戸惑う。なんだか表面だけじゃない『私』を彼は一生懸命見てくれている気がした瞬間。
「あのー。なにか話して良いなら、俺、いっぱい話したいんですけどー」
「そうなの?」
 そんなにお喋りが得意そうには見えなかったから、黙っているのかと思っていたのに。
「話したいことってなに?」
「え、いいんですか? 俺、落合主任が静かにしている方が心地良いなら静かにしています。だって、すっごい優しい顔をしていたから」
 でた。また……そんな人をびっくり嬉しくさせてしまう一言をなにげなく。しかも嫌味なく。ほんと、困る。顔が熱くなる。心臓も大きく動くし。嘘っぽい男ならここで鼻で笑って済ませられるのに。この子の場合はそれが出来ない。
「堀端にいる時もそうなんですよね。ほっと一息ついて戦闘解除しているくつろいだ顔も、女性らしくって優しいんですよね。だから俺、ついついそんな主任に会いたくなって堀端に行ってしまうんです。えっと、邪魔だってわかっているんですけど、すみません」
 本当に、なんなのこの人は……。なに。なんでこんなに女として嬉しくなってしまうことばかり平気で言ってくれるのかしら。それとも私ってここで既に騙されているわけ? こんな純朴そうなスポーツ青年の顔をして、実は今までもすっごい沢山の女の子をこうして喜ばせて手玉に取ってきたとか? 私、もしかしてすっごい見当違い起こしていない? 男を見る目ナシと自覚している千夏だから、余計に冷静になって振り返ってみた。
「あの、なんで俺をそんなに見てるんですか。いきなり怖い顔……なんか嫌なこと言いましたか、俺」
 眉をひそめながら彼を見ているうちに、本当に眉間に皺が寄ってしまいかなり怪しい顔で彼を見ていたようだ。それだけ千夏には不思議生物に出会った気分。
「ええっと。俺に何か言いたそうですけど」
「未確認生物――UMAユーマって知っている?」
「あの、知っていますけど。なんの話をしようとしているんですか? まさか大橋を渡り継いでヒバゴンが見たいとか言わないですよね」
 困惑しているけど、真顔の彼。ついに千夏は笑い出してしまった。
 さらに困惑している河野君。絶対に、遊び慣れている男なんかじゃない。一瞬でもそんな男と疑った自分のこともおかしくて仕様がない。
「あはは。なんだかわからないけど。主任が思いっきり笑うところ初めて見た」
「あはは。まさかヒバゴンが出てくるとは思わなかった!」
 もう、いい。今日は彼と一緒にいて楽しければいい。
 そう思えたのだが。いやいや、と千夏は元に戻ろうとする。当初の目的だった『本当の自分』を知らせることだけは忘れてはいけないと、和らぎかけた心にもう一度念を押した。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 海岸沿いにある和食レストランに到着。市内でも有名な企業が展開しているレストランの支店。海の側ということで、海鮮を売りにしている店だった。
 店内は寿司店のようなカウンター席と、オーシャンビューの小上がりの座敷席がある。勿論、彼は海が見渡せる座敷席を選んでくれた。
 早速、メニューを眺める。ちょうど、小腹も空いてきて千夏もすっかりその気で眺めてしまう。
「美味しそう。このレストランの横は良く通ることはあったんだけど、来たのは初めて」
「俺もですよ」
 え、そうなの。だったらどうしてここを選んだのだろうと、千夏は首を傾げた。
「俺が知っている店だと、大食らいが行くような店ばっかりなんで。女性も喜んでもらえる繊細で大人が行くお店ってどこですかと。佐川課長に聞いてしまいました」
「え、ここは課長のオススメなの?」
「そうなんです。佐川課長は美味しいお店をいっぱい知っていると評判だったもんで」
 確かにその通り。車が大好きな佐川課長はドライブも大好き、だから道行く度に飲食店に入っていくうちに自然と美味しいお店を知ることになったとのこと。独身時代からの課長の趣味で、本部の女の子達もしょっちゅう課長に『何処のお店が美味しいですか』なんて聞きに来ているぐらい。
 そういう課長に、美味しいお店を尋ねるのは同じ会社にいる者として当たり前なのかも知れない。でも、彼は千夏が課長を好きだと言うことを見抜いている。それを分かっているはずなのに、千夏が片想いをしている男からデートの行く先を教えてもらった――ということらしい。
 ちょっと腹が立ってきた。
 千夏はついパタリとメニューを閉じてしまう。そして、ここで言いたいことハッキリ言ってやろうと思った。昨夜から用意していたあれこれ。私の過去に、課長への気持ちも。そして今どうしたいかも。さあ、言ってやる!
「あっ。課長に騙された!」
 意を決した千夏より先に、彼が叫んだのでびっくりその口が閉じてしまった。
 彼がちょっと怒った顔で、メニューをばたりとテーブルに強く置いた。千夏が怒る前に、何故か彼が怒っている?
「ど、どうしたのよ。河野君」
「課長から、『鯛飯が美味い店』だと教えてもらったから、ここに決めたんですよ!」
「そ、それがどうかしたの? 美味しそうじゃない」
 メニューには美味しそうな鯛の釜飯と彩り綺麗なお膳のセットメニューが並んでいる。千夏も見ただけで食べたくなったというのに。
「どこが騙されたのよ」
 あの課長が騙すってなに? すると河野君が釜飯の写真を指さした。
「俺にとって、鯛飯ってやつはこういう釜で炊いたやつじゃないんです」
「あ、河野君て。もしかして南部地方の出身?」
「そうですよっ。俺の実家の鯛飯は、刺身に生卵に出汁醤油と薬味を乗っけて食べる飯のことを言うんです」
「こっちの中部地方で鯛飯と言ったら釜飯でしょ。それって『ひゅうが飯』のことじゃないの」
「俺の実家では、ひゅうが飯のことを鯛飯て言うんです。騙された。佐川課長に――。ひっさしぶりに俺の鯛飯食えると思ったのにーーー」
 本気で悔しがっている彼を見て、ついに千夏はお腹を抱えテーブルに突っ伏してしまった。
「やだ。あの佐川課長に騙されたなんて、聞いたことがない! 河野君ぐらいじゃないの」
「えー、おかしいですか? 課長は俺が南部の出身だって知っているから、分かってくれていると思ったのに」
 俺、結構本気で怒っていると真顔で言うので、余計におかしくなってきた。
「おかしいわよ。それにちゃんと確認しなくちゃ、課長だってそこまで気が利くわけないじゃない。でも、釜飯の鯛飯だって美味しいって。ここが課長のオススメなら間違いないわよ」
「よーし、美味くなかったら課長に文句いわなくちゃ」
 あの佐川課長に文句! 美味しいお店を教えたのに文句を言われる課長を思い浮かべただけでおかしい。
「俺、このセット頼む」
 食べることに真剣勝負の顔。もう千夏も笑いながらメニューを指さしていた。
「じゃあ、私はこれ」
 これだけ笑ってしまったら、独りよがりな腹立たしさも吹っ飛んでしまった。

 

 美味しい昼食でだいぶ肩の力が抜け、河野君とは暫くは他愛もない話をすることが出来た。
 レストランを出て、予定通りに彼の車は大橋へと向かう。その間、互いにどこで育ったのか、家族は何人か、どのような家族か。学生時代はどう過ごしてきたか、何をしてきたか。ありきたりな会話だったけれど、お互いを知る為の話が出来た。
 河野君は南部地方の出身。野球をするために、こちら中部地方の中心地にある商業高校に推薦で入ったとのこと。高校生で実家を出て寮住まい。だから今の一人暮らしも苦ではないと言う。
 一年生の時は身体も大きいこと、ある程度中学でも知られた選手だったとのことで、それだけでベンチ入りができ、たまたま甲子園に行ったと河野君。
「でも、それっきりでしたね。高校二年ぐらいから伸びなくなって、どんどん名もなかった同級生や後から来た後輩に追い抜かれて、二軍落ち。それっきりです」
 致し方ないとばかりに緩く微笑む彼だが、そこでかなりの苦汁を舐める体験をしてきたことが窺えた。三年生になって野球を辞めることを決意。それからもう一つの夢だった理系への進学を目指すが、スタートが遅かったので一浪、いや二浪したと聞いて、思わぬ経歴に千夏はびっくり。
「でも。俺、なりたいものになれましたから」
 そう爽やかに言い切る彼を見れば、二浪なんてものは彼がやりたいことを掴むために黙って耐えて頑張った期間であるだけだと千夏も思うことが出来た。
「努力家なのね。河野君って」
「いえ。野球で負けたから、これ以上負けたくなかっただけです」
 穏和な中にも、芯が強いところがあるよう。これはやはり、野球選手として培ってきた闘争心なのかと思わされた。
 大橋に辿り着き、大きな橋をひとつだけ渡り、薔薇園があるところまで連れて行ってくれた。そこでコーヒータイム。
 綺麗な薔薇の園を眺めていれば、つまんない自分の話などしたくないし語りたくない。ここでも薔薇を眺める千夏を、河野君はそっとしてくれる。
 晴れた初夏の爽やかな青空に島の潮風、優しい海原と島々の景色に、島の花々。ひさしぶりに遠出をした千夏には本当によい気分転換だった。
 そして、いよいよ、日も傾いてきた帰り道。
 海の色が少しだけ青みを増してきた海岸線をひらすら走る車の中。もう夕方も迫ってきた色合いの空に後押しをされるように、千夏はついに助手席から運転席にいる彼に話しかける。
「有り難う。私を誘ってくれて。久しぶりに市街を出て気持ちよかった」
「いいえ。俺もゆっくり話が出来る機会をもらえて。来てくれて嬉しかったです」
 その素直な笑顔にも、千夏は『有り難う』と言いたい。でも……だからこそ。昨夜、決意したとおりにケジメをつける時が来たと千夏は話し始める。
「この前も言ったけどね。私、本当に最低なのよ」
「俺もこの前言いましたよ。そんなの誰にでもあるんじゃないかって」
 先日と同じような会話。ほのめかして言うより、はっきり言わねば千夏の心も前に進まない。
「あのね。私、佐川課長とその奥さんにとても酷いことを言って傷つけたことがあるの。それだけじゃない、私……仕事中に……」
 その昔、沖田という男と付きあっていたこと。そしてその男が邪な心で佐川課長の奥さんにちょっかいを出していたこと。それを知った千夏は『自分が恋人と認めてもらったんだから、私が正義』とばかりに、『正義の制裁』という名目を振りかざし、確かな証拠もないのに酷いやり方で奥さんを窮地に追いやったこと。そして、佐川課長に『奥さんに騙されて結婚した』と仕事中に言い放ったこと――。全て。そして。そんな彼が私を許し、本来の千夏を見極めて実力を認めてくれたこと。そうして彼のおかげで今の本部コンサルの主任という立場を得られたことも、全部。
 やはり河野君は黙って聞いて、ひたすら海沿いの道を運転しているだけ。
「若い時、不倫や横恋慕で横取りなんて卑怯だと思っていた私なのに。『それをしたでしょ。卑怯者』と責めた女性の旦那さんを好きなってしまうなんて滑稽よね」
 ひたすら話す千夏の邪魔をしないようにと思っているのか、河野君は相槌も打たない。
「でも、本当に好きなの。課長と一緒に仕事をして、彼の手伝いをしている時が一番幸せ」

「でしょうね」
 いつもの笑顔で、あっさりと受け入れる彼がまた不思議でたまらない。
「どうして私が課長のことを好きだって判ったの」
「見れば判りますよ」
「絶対に誰にも知られないようにしてきたつもりなのに……」
 運転席でフロントを真っ直ぐ見ている河野君が、どこか呆れたようにふっと笑った。
「俺が落合さんを好きだから判ったのかな。だって、主任。課長と一緒にいると本当に幸せそうな顔をしているから。楽しそうで嬉しそうで、コンサル室でも堀端でも見せない一番良い笑顔をしていますよ」
「嘘」
 自分では気持ちをセーブするのに必死だっただけに、そんなあからさまに見抜かれるほど、幸せボケした間抜けな顔をしているだなんて思いたくなかったけど……。
「他に気が付いている人間がいるかどうかは俺にもわからないですよ。でも俺、主任を見ているうちに、判ってしまったんです。本当は『そうでなければいいな』と……。俺だって、主任がそうして『課長が好き』と正直に言ってくれたこと、悔しいんですよ。俺から見ても、課長は大人のいい男ですからね」
「私、そんな顔。した覚えない」
 でも心の中では、河野君が言ったとおりだと思っているところがある。会社の中では課長の補佐に邁進する鬼ババお局様の仮面に整えても、課長と一緒に外に出てコンビニで買い物をしたり、ランチを取ったりする時は、幸せな顔をしているだろうと――。でもそんなの、休憩時間だとか外回りで外出している合間の気を抜いている顔ぐらいに思ってくれるだろうとそう高がくくっていただけなのかも知れない。
 それにこの河野君。本当に千夏を真っ直ぐに見つめてくれていたんだと判ってしまう。必死にセーブしている女の気持ちを暴くだなんて、細やかに見つめていた証拠。
「俺、この前言った気持ちと変わりません。課長を好きなままでいいから、俺のことも考えてもらえませんか」
「どうして私なの」
「……正直、俺もわかんないんですよ。たぶん、一目惚れってやつなんでしょうね。主任が仕事をしているキビキビしている姿とか、堀端でゆったりくつろいでいる優しい顔とか見ているうちに……。あ、これって一目惚れじゃないですね。いや、一目で気になったから、一目惚れかな」
 またまた、顔が熱くなるようなことを連発していってくれているので千夏も反論しにくくなる。
「それで、いつの間にか落合主任のことばかり考えるようになっていました」
 車が信号で止まる。彼が助手席にいる千夏を見つめる。
「理屈なんかないですよ。本当に気になって気になって仕様がないから『好き』じゃ、駄目なんですか」
「駄目じゃないけど……。その、私がやってきたこと聞いても平気なの?」
「なんだ、それぐらい――て思いましたけど。この前も言ったでしょ、俺。そんなこと誰にだってあるって」
 本当に? こんな気質の女は御免とか思わなかったのだろうか?
「今だって結構、キツイて言われるんだけど。私」
「でも優しいところもあるでしょ。今日だって俺にも気遣ってくれていること、伝わってきましたよ」
「でもね、私。今は自分の心に嘘をついて、男の人と付きあいたくないの」
 はっきり断る。今日の千夏が決めてきたこと。彼がいい人で千夏を本気で見てくれているから、だからこそはっきりとしたケジメを。だけれど、いつも微笑んでいる河野君が、また千夏を誘ってくれた時のように険しい顔で向かってくる。
「一生、佐川課長に献身的に仕事で捧げていくってことですか」
 ものすごく不満そうな言い方。いつも笑っている彼の不機嫌な顔が、徐々に迫力ある怒り顔に変化していく。彼がまた本気で千夏にぶつかってこようとしている。だからしっかり心を構え、千夏も立ち向かう。
「それでも良いと思っている。それに私、男性と付きあうのはもう面倒なの。このまま好きな男性の為に頑張れたらそれだけでいいの」
「そんなの、一生続けられると思っているんですか。寂しくないんですか」
 『寂しくない』。そう言い切りたいのに返せない自分がいた。そしてその一言に、千夏の心はいとも簡単に揺れていた。
 どんなに強がっても、本気で佐川課長が好きでも。やはり報われない思いを一人で抱えていることは苦しいし、そして『虚しく寂しい』ことは確かだった。
 それすらもひた隠しにして『大人の女だから、一人でも充分楽しめる術も分かっている』とばかりの平気な顔で、毎日を乗り切っているつもりだった。決して、『おひとり様』が平気な訳じゃない。謳歌しているわけでもない。
 そうしなければ、心が折れてしまうから、そこで頑張っている。……でも、やっぱり。
「寂しくなんかないわよ。ずっと一人でここまで来たんだもの。かえって一人の方が気楽なの。佐川課長の役に立ちたいから、仕事の支障になりそうなプライベートタイムで起きる男女関係のリスクとかで日常を掻き乱されたくないしね」
「おひとり様ってわけですか」
 あの河野君がどこか馬鹿にしたような呆れ顔。そんなのやめてしまえ――と叱っているようにも見えた。そこまで千夏を追いつめてでも、今の状態から連れ出したいと本気で向かってきてくれている――。
 だから……、もう、これ上。本気でぶつかってくるのはやめて欲しい。その気持ちに、甘えてしまいそう。『おひとり様』なんて格好つけていても、そんなに強くはない。出来れば暖かい人肌に、千夏だって包まれたい。
「もし、ここで河野君に甘えたら。私、頭の中では佐川課長を思い浮かべて、貴方のことなんて見ようとしないと思う。貴方に抱かれながら、課長を思う、きっとね」
 ここまで言いたくなかった。でもここまで二人で突き詰めてしまったから、もう言うことはそれしかなかった。嘘じゃない。きっとそうなるだろうから。
 車はいつのまにか市街に入り、千夏の自宅近くまで来ていた。空は夕暮れ茜の空。また西からどんよりとした薄黒い雲が迫ってきている。また今夜も雨なのだろうか。
「わかりました。落合主任らしいですね。都合良く付きあうことも出来るのに。正直にはっきり言ってくださって、有り難うございました」
 あっという間にいつもの彼の微笑み顔に戻っている……。ホッとするはずなのに、何故か千夏の心が痛んだ。
「……三つ前の駅、でしたよね」
「ええ。そこで降ろして」
 ハンドルを握りながらも、彼が俯いてしまう。
「直球でもダメなんですね。っていうか、俺、全然違うところにボール投げていた気分ですよ。正直、女心ってやつがわかんないです。なんつーか、完敗です」
 その顔が歪んでいた。悔しそうで泣きそうな顔。そんな彼の顔を見た千夏も泣きたくなる。本当に好きになってくれたんだと、ヒシヒシと伝わってくるから。
 それでも千夏は辿り着いた駅で河野君の車を降りた。
 別れ際、運転席の窓を降ろした彼に声をかけられる。
「有り難うございました。千夏さん、頑張ってくださいね」
 ――千夏さん。最後だけ唐突に名前で呼ばれる。
 これで最後。最後だけ貴女の名を呼んでみたかった。そんな気がした。でも河野君はそれも言わず、笑顔のまま去っていった。
 暮れる空の下、またひとり。また千夏はひとりで今夜も過ごす。雨が降っても、雷が鳴っても、ずっとひとり。望んだこと。彼に告げたとおり、仕事で課長と一緒に頑張るのが一番幸せ。
 でも――。彼が言ったとおり。本当は寂しい。
 だからって。好きと言ってくれる男の人に飛び込んでいいの? そんなこと、私には出来ない。

 それから後。千夏が堀端でひとりランチをしていても、彼が来なくなってしまった。本当に諦めてくれたようだった。

 

 

 

 

Update/2011.2.27
TOP BACK NEXT
Copyright (c) 2011 marie morii All rights reserved.