■ 奥さんに、片想い 番外編 ■

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落合編 【 お局様に、片想い 】
 
 イニング3 九回裏◇念ずればヒットする!

 

 雨……。ついに本格的な梅雨の時期に入ってしまった。
 蒸し暑い上に湿気も多く、通勤では雨に濡れ、朝から気合いを入れた身だしなみをあっという間に乱される。
 スーツのジャケットも裾もなんとなく湿ったままで、デスクに向かう。
 ただでさえ湿っぽくなっている気分が余計に落ち込む。

 コンサル室の窓を見れば、しとしととした雨が降り続いている。今日も外でランチは出来そうにない。非常階段も同じく――。となると、何処かのカフェか街角の老舗喫茶に入るしかなさそうだった。
 息が詰まる。風を感じる場所で十分でもいいからぼうっとしたい。
 溜め息をつきながら、千夏は顔をあげればそこに見える男性を見つめた。彼は今日もパソコンモニターを目の前に書類をめくり黙々と仕事をしている。窓の前にある課長席。一番陽射しがはいる場所だからどの席よりも明るいのだが、その背後にある窓には無数の雨の滴。
 ここ最近、彼がヘッドホンをして誰かの席で対応するという姿をあまりみなくなってしまった。本当の意味で彼はデスクワークを主とする管理職になってしまったのだなと思う。もう現場監督ではないのだ。
 この人のために頑張っていく――。そう決めていた。彼が『僕と本部に行こう』と誘ってくれる前からだった。こういう人にこそついていこう。初めて千夏が職場で心底信じられると思った人だった。
 今春、彼と転属してその気持ちは益々高まった。沢山の諸問題を残されたまま引き渡されたコンサル室だっただけに、とても困難な処理ばかりで心痛むことも多々起きる毎日だったが、だからこそ、それを彼と乗り越えられた時、または自分の力で彼が『助かった、有り難う』と言ってくれた時の喜びはひとしおだった。そういう充実感最高潮の日々だったのに……。彼が現れるまでは。
 きっちりケジメをつけたのだから、元通りになったはずなのに……。
 今日もいつもと変わらぬ淡々とした表情で、書類とデーターをチェックしている佐川課長の横顔を見つめる。なにか見つけたのか、眉間に皺を寄せ難しい顔。時に険しくなる鋭い眼差しは、穏やかな彼だからこそ途端に男っぽくなる瞬間。つい、千夏は全てを忘れて見とれてしまう……。いまだけ、この一瞬だけ。許して、と。
「落合主任、ちょっといいかな」
 仕事モードを捨て去っていただけに、ドキリとする。厳しい横顔に変貌した瞬間を見つめていただけに余計に。
「はい、課長」
 深呼吸、気合いを入れ直し、『落合主任』の心構えを整え課長席に向かった。
 誰かが何か失敗していたのだろうか、私の指導不足だろうか。そう構えながら、課長の正面に。あの険しい顔のまま、佐川課長がひとつの書類を千夏に差し出した。
「これ、どうしたの」
 いつもと変わらぬ起伏がない言い方だけど、怒りを抑えているのが千夏には直ぐに感じ取れた。こんな様子の佐川課長も滅多にない。心して彼が指さしている計算表を眺めてみると……。
「これ、主任が作ったんだよね。これ、僕がスルーしていたら僕も首が飛ぶけど、主任も完全に飛ぶよ」
 一気に凍り付く。営業だけでなくコンサルで受注したものも合計した発注計数表。ある箇所からゼロが一桁分すべて違っていた。ある意味ケアレスミス、でもこのまま通っていたら大損害。
「も、申し訳ありません。直ぐに作り直します」
「いや。いい」
 佐川課長が怒りを込めた口調のまま、千夏が取ろうとしたその書類をさっと引っ込めてしまう。
「僕が見つけるべきミスだから、もしこれで損害が出たら僕の責任。僕がスルーした物がこれまたそのまま営業本部や経理でスルーされたら、これまた会社の責任。だからこそ、どこかでこのミスは見つかったと思うよ。でもね、これは酷いよ」
「お……仰るとおりです」
 ひたすら頭を下げた。それでもいつもは穏やかに流す佐川課長が、今日に限っては容赦なく千夏に向かってくる。
「落合さんらしくない。どこかでフォローしてもらえるだろう単なる桁違い打ち間違いのミスでも、これは仕事に身が入っていない証拠だと僕は思うな」
「仰る……とおり、です……」
 謝るばかりの千夏を見て、そこでやっと佐川課長が一息ついた。ぴったりとくっついていたデスクから椅子を少しだけ離して、腕を組みじいっと千夏を見ている。千夏は頭を下げるだけ。
「やっぱりね。落合さん、頑張りすぎたね。僕も頼りすぎていたか」
 ハッとして顔を上げた。今度見えた課長の顔は、なにもかもを包み込んでしまいそうないつもの穏やかな笑顔。しかし千夏はその彼の笑顔を見て愕然とする。許してもらえた? とんでもない! 『落合さんが出来る仕事はここまで。もう頑張らなくて良いよ』と諦められた笑顔だと思った。
「頑張ってなんか、いません」
 もっと頑張れる。ここまでの女だなんて見限らないで。
「どうかしていたんです。私」
 いつものように言って。『迂闊だったね。以後気をつけて』と。冷たく言った後、でも以後気をつけることで次に期待していると思わせるあの寛大で厳しい声を聞きたい。
「いや。このままじゃ駄目だと思うな、僕は」
 また致し方ないような笑顔を見せられる。この人の為にやってきたのに。この人に見限られたら、私、私は……。
 気が付くと、自分でも信じられないことが起きていた。涙が、熱い涙が一筋頬を伝っていたのだ。それは目の前にいる課長も意外だったのか、途端に困惑した表情に固まった。
「あの、直ぐに直しますから。それをこちらにください」
 しかしまた彼の顔が強ばる。
「いや、駄目だ。これは僕が責任を持って直しておくから」
「私がします!」
「駄目だ!」
 辺りがシンとしたように思えた。そして当然、千夏も呆然としている。あの佐川課長が怒鳴った。背後のスタッフも業務をしつつも誰もが一瞬だけ息を止めたのが伝わってきた。
「今日はもういいよ」
「え……あの」
 もう課長は千夏の目を見てくれなかった。失敗している書類に残念そうに伏せた眼差し。険しい声で課長は容赦なく告げた。
「帰っていい。ここ数日の落合さんはいつもの落合さんではない。一回リセットしよう。今日はもう帰って休むんだ」
 真っ白になる。彼の側にいて、彼の役に立つことが千夏の生き甲斐だというのに。その彼に『要らない、帰れ』と言われている。だが次にはいつもの穏和な彼の、千夏を優しく案じる眼差しが向けられる。
「だからって、もう来るなとか言っているんじゃないよ。いなくちゃ困るから言っているんだ。ここで頑張り続けても、今の落合さんには良いことはない。そう言っているんだ。一度、ゆっくりして明日でも明後日でもまた戻ってきてくれ」
「私、大丈夫です」
「大丈夫じゃないと僕が言っているんだよ。じゃあ、こう言えばいいのか。『課長命令』だって」
 そこまで言われたら千夏はもう言い返すことはできない。千夏にとって課長としての彼の判断が全てなのだから。
「わかりました」
 自分で諦めた途端だった。先に少しだけこぼしてしまった涙が、今度は溢れて止まらなくなった。
「落合さん……」
 黙って泣きさざめく千夏を哀れむように見つめてくれる佐川課長。
「大丈夫です、私。あの、課長が言うとおり少し休んで、また、また、ちゃんとやりますから」
 止めどもなく溢れてくる涙を流すまま、千夏はひたすら呟いていた。
「待っているから。もう、いいよ」
 最後は優しい声の『待っている』。嬉しいはずなのに。
 もう堪えきれなくなり、千夏はそのまま自分のデスクに向かい、ろくに片づけもしないでバッグを取り出しコンサル室を飛び出してしまった。
『主任――』
『落合主任』
 今にも追いかけてきそうな後輩達の案ずる声が背中に聞こえたが。
『そっとしておくんだ』
 またそんな佐川課長の声……。
 彼の何もかもが切なく胸に突き刺さる。優しさも厳しさも、全てが愛しいから余計に哀しい。千夏を思っての叱責と労り、嬉しいのに哀しい。
 彼がいないと頑張れない自分は、まだ大人じゃない。そう思った。『貴方がいなくちゃ、私、頑張れない』、千夏の頑張りは彼への依存に過ぎなかった。まるで愛を受け止めてもらえなかった少女のようにあっという間に崩れて泣いているだなんて……。
 足早に下りる階段。涙を拭って、なんとか人に見られないよう会社を出ようと思った。
「落合主任……?」
 下から聞こえてきたその声にハッとし千夏は階段の中腹で立ち止まる。見下ろすと、そこにはあの河野君が……。
「ど、どうしたんすか。なにか、あったんですか」
 千夏の泣き顔を見て、困惑した顔。彼らしい心底心配してくれているとわかる目と合ってしまう。
 こんな時、彼と話す気なんかない。説明する気もない。もう彼とはケリをつけたんだから、いちいち話したくない。ただすれ違うだけのただの同じ会社にいる人間同士に戻ったんだから。
 なのに彼が長い足で階段を駆け上ってきて、千夏の前に立ちはだかった。
「千夏さん」
 名前で呼ばれた。そして彼がとても緊張した顔で千夏を見下ろしている。身体が大きいからそんなに真っ正面に立ち塞がれると千夏なんか隠れてしまいそう。そんな大柄な彼の手が千夏の目の前に……。
「あの、あの」
 その手が震えている。でもその両手が最後にはがっしりと千夏の両肩を掴んだ。すごい力、肩が痛い。でも大きな手が千夏を捕まえて放さない。
「どうしたんですか。主任が会社でそうなるってよっぽどでしょう」
「……けい、ないじゃない」
「そりゃ、関係ないけど。でも、やっぱそんな顔見せられたら放っておけないですよっ」
「……な……してよ」
「いいえ、放せません」
 涙声でくぐもっていても、何故か河野君はしっかりと千夏の呟きを聞き取っていた。
「帰りたいの。放して」
 河野君の大きな手が、千夏の肩から離れる。そして彼自身も千夏の前から引き下がった。
「帰るんですか」
「うん、大失敗しちゃって。課長に帰れて言われたの」
「あの佐川課長がそこまで言ったんですか」
「そうなの。でも、一番何が悪かったか自分で判っているから。課長の言うとおり、頭冷やすために今日は帰る」
 どうしてか急に千夏は微笑んでいた。顔もあげて涙を拭う。そして河野君の顔を見上げていた。
「大丈夫……そうですね」
「うん、有り難う。なんか……失敗しちゃったて自分から言ったらなんか変だけどスッキリしちゃったかんじ」
 本当に涙が止まってしまった。濡れた顔をハンカチでも拭って、もう一度彼の顔を見て『大丈夫よ』と微笑むことさえできてしまう。そして彼からも微笑みが返ってきた。
「俺の電話番号、まだ持ってくれています?」
「……うん」
「なにかあったらいつでも。話し相手ぐらいなれますよ。勿論、無理強いはしませんけどね」
 それだけ言うと、彼は『じゃあ』と言って階段を上がっていってしまう。
「有り難う、河野君」
 なのに。返事はなかった。彼の大きい身体もあっという間に階段の影に隠れてしまった。
 おかしな気分だった。他人に『失敗しちゃった。課長に帰れと突きつけられた』と言葉にして聞いてもらった途端、すとんと落ち着いたあの感触はなに?
 それに……。階段を下りながら、千夏は肩に触れてみる。まだ、太い指の跡が残っているかのような感触。じんじんして痛い感触。そしてそこがなんだか熱い?
「もう、馬鹿力」
 加減、わからないのかしら。彼の大きな手に包まれた自分の肩がすごく小さくか細く感じた。肩肘張って生きているそんな女の、華奢で折れそうな骨格。自分自身でそう感じてしまうなんて初めてだった。それを彼が力の加減も知らないで握りつぶすかのように……。女の子に触ったこともないような、ぶきっちょな触れ方。でもその力が熱く残っている。
 会社を出て近くにある路面電車の停留所に立つと、濡れた緑の城山から天守閣。曇天に小さく切り取られた青。傘も要らない帰り道になりそう。
 小さな路面電車に乗り込み、がたごとと揺れる中、千夏は家路を辿る。その間、千夏がずっと感じていたのはしょっぱい涙の味ではなく、肩にある痛みだった。

   

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 よく『愛しているから、貴方のために頑張っている』という愛情を見ることもある。
 でも違った。どれだけ佐川課長という存在を頼りにしていたことか。自立した大人の女? 自立した愛? 自分のことは全て自分でやっている、愛さえも、一方通行でもひとりだけの愛でも、充分満足納得している。このまま生きていける……? とんでもない。どこも自立なんかしていなかった。彼への頑張りをなくしたら、あっという間に崩れ落ちてしまう自分。そんなの彼への愛じゃない、独りぼっちの弱い自分を奮い立たせるための思いに過ぎなかった。それをまざまざと思い知った。
『もう大丈夫です』
 帰された日の翌日だけ休ませてもらった。次に出勤した時には完全に今までの自分に戻れるようにしたいと、結局は佐川課長の言葉に甘えてしまったのだ。だが課長はそれでも構わないと許してくれた。その代わり、出勤したら今まで通りの完全たる『落合主任に戻る』ことを千夏自身固く決して。
 その通り、千夏はあれから元の『落合主任』に完全復帰していた。
 そろそろ梅雨が明けようかと言う頃には、千夏もいつも通りの『鬼ババ』に戻ることができ、日常を取り戻していた。
 堀端でのランチも再開。たまに河野君が堀の向こうを通って手を振ってくれる。もう千夏のところに駆けては来ないけど。でも、今の千夏は素直に彼に手を振り返している。そんなちょっと何かがしっくりしなくなった日常。
「お疲れ様でしたー」
「佐川課長、終わりましたか?」
 若い彼等が仕事が終わるなり課長のデスクにやってきた。
「うーん、ちょっと一時間かかるかな」
「じゃあ、俺達は外で時間潰していますね」
「一時間したら戻ってきます」
 佐川課長が『わかった』と笑顔で答える。若い彼等となにか約束をしているようだった。
「珍しいですね。彼等とおでかけですか」
「まあね。男同士の約束」
「部下とコミュニケーションを図れるのは良いことです。特に若い彼等に慕われることも」
「新鮮なんだよね。コールセンターでは女性ばかりだったから」
 『ああ、なるほど』と千夏。男性社員同士で戯れる機会がなかったことに納得。そんな課長が窓の外を見て微笑んでいる。どこか遠い目ででも優しかった。女性からのプレッシャーが多い職場だっただろうけど、彼が歩んできた全てがそこにあるからなのだろう。
 そんな佐川課長の穏やかな横顔に、やっぱり見とれている自分に気が付く。……駄目だ、すぐには前に進めそうにない。たった独りで前に進めない。やっぱりこの人の存在が必要だ。痛切に感じる。また……手元が頭の中が散漫とし始める。砕け散りそうな何かをそうならないよう必死に握りしめて束ねようとしている。以前通りの『落合課長補佐、主任』に戻ろうとする。日常が戻ったと言っても、なんとか維持しているだけでそんなすぐにもバラバラになってしまいそうな日が続いていた。
 息が切れそうだった。こんな毎日……。『彼を愛している私』として、頭の中クリアに突き進んできた日常は既に終わっている。いつまでこのままでいられるだろうか。胸が押し潰されそうな中、こうして淡々と業務を続けている。これでは近いうちにまた重大なミスを犯してしまいそうな不安。
「ただいま。課長、終わりましたか」
 外に出て行ったはずの彼等の声がまた。だけど、腕時計を確かめるとかなりの時間が過ぎていた。窓の外は初夏の夕暮れが滲み始めている。
「おまたせ、終わったよ」
 課長の席ももう綺麗に片づいていた。若い彼等二人がホッとした顔を見合わせている。
「落合さんも、もういいよ」
「はい、課長」
 まだ残っているけど、今日はほっとする。このまま続けられそうにはなかった。
「美佳子、僕だけど。うん、今日はコンサルの彼等と河野君と……そう、またバッティングセンター。あはは、うん、上手くならないけどはまってる!」
 え、また河野君とでかけるんだ。いつもの愛妻コールを聞いて知った途端だった。
「おつかれーっす!」
 ビリッと身体中が震撼する程のあの元気な声。
「きたきた、河野さん」
「課長も終わったところですよ」
「わあ、丁度良かった。俺も慌てて片づけてきたところ」
 若い彼等と河野君が和気藹々。大きな身体の彼に、いまどきスリムな彼等が輪になっていると、少しばかり年上の河野君が妙に頼りがいありそうな兄貴に見えたりして不思議。
「またせたね。行こうか」
 綺麗に片づいたデスク、椅子にかけていたジャケットを手に取った佐川課長も、もうすっかり満面の笑み。どうやら河野君と二人だけで行っていたバッティングセンターに、若い彼等も連れて行くことになっているようだった。
 男四人、本当に楽しそう。河野君も違う部署なのに、すごく馴染んでいる。
 四人が仲良くコンサル室を出ていこうとする背中を眺めつつ、男同士の時間に水を差すと躊躇ったのだが千夏は決する。
「待って! 私も連れて行ってください!」
 手を挙げて彼等を引き留める。一斉に振り返った彼等が、河野君ですら目を丸くして驚いている。
 なのに。佐川課長だけが意味深な笑みをニンマリ。何もかも見透かされているようだった。それでもいい。千夏はそう思っている。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 古ぼけた黒いバッティンググローブ。それがあの大きな手にはめられる。太いけど長い手が銀色の金属バットを握った。白いシャツ姿のままなのに、そこに立つ男は会社員ではなく既にアスリートの横顔。
 バッティングフォームが整うと、目にも止まらぬ物が彼へと向かってくる。その時、いつも笑っているにこやかな細い目がぐっと険しく強く前を見据えられ、彼がバットを豪快に振る。『カキーン』と空高く鳴る音。ナイター照明の煌めきに吸い込まれていく白い球。もの凄く力強く返されたはずなのに、まるでふわりと軽く宙に浮いたように見えた。
 それから彼こそがマシンのように、乱れないフォームでバンバンと打ち返していく。ピリリと高まる気迫の横顔も崩れない。
「すっげー、河野さんやっぱ格好いい」
「あのスピードを連打かよー。やっぱ商業野球部出身はスゲー」
 コンサル室の彼等もすっかり魅入っていた。
「俺、さっきやったけど全然ダメだったもんな」
「俺も。フォームを教わってもさっぱり。やっと打てたと思ったら小学生エース級の速球レベルだってさあ」
 既に打席にてチャレンジした彼等は、緩やかなスピードに落としてやっと打ち上げられた。
 何球か打った河野君が緑のネットに囲まれた打席から帰ってくる。
「よーし、今度は僕だ」
 最後は佐川課長。彼も意気揚々とバッティンググローブをはめようとしていたので、千夏は驚いた。
「課長まで、それをするんですか」
「うん。やっぱ、格好良いもんな。僕もやってみたくて。こうやって、ぎゅっとはめるの」
 経験もないのに、河野君と通っているうちにかなり嵌ってしまい、ついに自分専用のグローブまで買ってしまったとのこと。
 さて。その佐川課長の進歩やいかに。彼がバットを持ちフォームを整える。さっきの河野君のようにざっと男らしく力強い姿で綺麗に白球を光の中へと打ち返す姿を期待し……
「あ、くそっ」
 バットを振ったのに、球は佐川課長の背後、床に転がり落ちていた。
「うーん、このやろっ。それっ、よっしゃー、当たった!」
 ヒットしたが手前に球が飛んだだけで地面に落ちコロコロ。飛距離はそんなにない。だいぶ遅いスピードの球のはずなのに、佐川課長のヒット率はかなり低い。まさに『運動出来ない男』の姿が本人の自覚通り、嘘偽りなくそこにあった。
「……やっぱ、課長は俺らといっしょだったな」
「うん。なんか河野さんが簡単に打っているから、いっしょに通っていた課長も出来る絵を想像していたけど。元球児と同じようにはできないわな」
 若い彼等のホッとしたような、ちょっと呆れたような顔。
 オフィスでは手際よく頼りがいある穏和な男性だが、向かうところが違うと本当に『ただの男性』に見えた。なのに……。やってみたかったのひとつで、あのバッティンググローブを買ってしまったのかと。なんだか少年のようで、千夏はつい笑ってしまいそうだった。
「はー、駄目だ。全然、上手くならない」
 課長がため息をついて帰ってくる。何球かポクポクとヒットしたが豪快な当たりはナシ。撤退してきた課長は、もう息を切らしていた。
「ちょっと休もうか。あっちで冷たいものでも飲もう」
 早速リタイヤ宣言をした課長だったが、若い彼等はもう飽きてしまったのか『いこう、いこう』と課長についていく。
「河野君は、まだ打つだろう」
「はい」
「落合さんもやってみたら。河野君、教えてあげて」
 いつもの笑顔の佐川課長だけれど、二人きりにしてやろうという魂胆丸見え。
「いや……、でも女性の主任は……どうかな」
 遠慮する河野君の声がとても乱れていた。息切れなんかしない力強い運動をしていたのに……。『無理強いはしない。もう二人きりになっては彼女の負担』。そう気遣ってくれているのがすごく伝わってくる。……今日、私は彼を避けるために来たんじゃない。だから。
「教えて。せっかく来たんだもの」
 きっぱりした千夏の返答に、佐川課長はニンマリとし河野君はやっぱり困った顔をしていた。
「教えて」
 千夏もバットを持った。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 バットを手にパンツスーツ姿の女が打席に立つ。
「ええっとですね、バットを持ったら……」
「どうでもいい。私、さっき河野君が打っていた速い球でやってみたい」
「はい? えっと、あれって140キロなんすけど」
 わかっている。
「いいの。やってみたいんだから」
「まあ、そういうなら……」
 初めてバッターボックスに立つ女の無茶振り。『絶対打てない』ことが許せない元球児には納得できないようだった。それでも渋々とそのとおりにセットしてくれる。
「球、来ますよ」
 ネットの外から河野君の声。
 見よう見まねで構え、千夏は前を見据えた。……来た! ヒュッと言う音を感じて振り抜いたが、やはり背後でバスッと抜かれた音。うっそ、見えなかった。それでも千夏は何度も構え直し、球に向かう。だが同じ事の繰り返し。
「なにこれっ」
「だから言ったでしょ。落合さんはいま、プロ野球の投手を相手にしているようなもんですよっ」
「プロ野球ですって。益々燃えてきたわ。このまま行く」
「もう、なんていうか。……らしいっすねえ」
 河野君の呆れた声が聞こえてきた。さらに千夏の目の前を反応する間もなく高速で過ぎていく白球達。
 だけれど、千夏にはその高速で過ぎていくものにゾクゾクしていた。これを、あの大男は一球も逃さずビシバシと捕らえ打ち上げているんだって。これが彼が追ってきたもの、これが彼の……彼という男を作り上げてきたもの。すごい、すごいわ。打てないのに千夏は打席で微笑んでいた。
「やっぱ無理」
 球がなくなり、千夏はバットを降ろす。だけれどなんだか胸がドキドキして興奮していた。
「相変わらず強気っすねえ。感心しますよ」
「うるさいわね。もう一度同じのやって。打てなくてもスピードを体感したいの」
「了解です」
 もう彼も止めない。千夏の好きにさせようと思ってくれたよう。
 打てなくても、千夏はまた打席で構える。
「来ますよ」
 来る――。あら? 今度は球が見えた!? フォームなんて知らない。とにかく振り抜いてみたら、カキーンという音が自分の耳の直ぐ側で聞こえた。『え』と上空を見上げると緑のネットに囲まれた夜空と照明の輝きの中に白い球!
「わ! マジで打った」
「えー、うっそ!」
 結構飛んでびっくり! 自分でもびっくり!
 河野君も驚いたのか、千夏が呆然と見上げている打席まで駆け込んできた。
「え、うそ。私、140キロ……打てちゃった」
「いえ、今のは100キロです」
 はあ? なんですって――? 千夏は目を見開いて絶句した。
「なに、勝手にスピードそんだけ落としてくれちゃっていたの。それじゃあ、球が見えたはずよっ」
「俺、千夏さんにも絶対に打ってほしかったんですよ。千夏さんがスカッと打てるのはこれぐらいから落としていけばいけると思ったんですよ。でもまさか100キロをあんなに飛ばせたなんて。佐川課長だって一度もヒットしていないのにっ」
 何故か、彼が興奮している。そして千夏も呆然……。確かにあれだけヒットしたらスカッとした。爽快だった。140キロなんて最初から打てるはずはない、そんなわかりきっていること。でも河野君がこっそりと千夏が打てるように速度を落としてくれたから……。
 なんだか。強気で固めた女の意地を、さりげなく除けてくれたようなこの感覚なに? この前からなに、この出会ったことない感覚?
「あのですね、こうしたらもっと打てると思うんですよっ」
 興奮している勢いなのか、彼の大きな手が突然がしっと千夏の腰を掴んだのでビクッとする。でも彼はお構いなしに千夏の腰の位置を決めると、今度は床に跪いて足首を握っている!
「足も開きすぎです。こう肩幅で、それで左右の足の体重移動はこう……」
 真剣な顔。でも素直にそれに従う。
「それでバットは傘を持つような感じで、ぎゅっと脇を引き締めるイメージがあるでしょうが、ゆったりと」
 足下が整うと、次に河野君は千夏の背後に回ってきた。一緒にバットを握りしめると……大きな彼に、後ろから大きくつつまれ……。
「そう、ゆったりと。トップはここで決めて、球が来たらこう……引くイメージで……」
 大きな身体の彼の胸元にすっぽり収まる小さな自分。大きな手が迷うことなく千夏の身体に触れていた。
 あの時、泣いていた千夏の肩を掴もうとしているのに、迷って震えていた手。それを思い出していた。でも、野球となったら迷いがない彼の手。あの震えていた手は……千夏のことを、か細い女に見せてくれたあの手は。
「そのイメージで振ってみてください。」
「わかった。やってみる」
 持ち方、構え方、足の体重移動のタイミング、それを聞いて千夏は次の球へ向けてバットを構える。河野君がネットの外に出て行って、千夏を見守っているのがわかる。
「来ますよ」
 彼の声に合わせ、バッドを振り抜く……!
 『カキーン』とまた鳴った。そして空に高々とあがっていくボール。
「やった。すっごい綺麗なフォームでしたよ。千夏さん、センスありそうだ。たったこれだけでそんなに打てるなんて」
 感動して喜んでいる彼の声に、千夏も微笑まずにいられない。
「また来ますよ」
 また振ると見事にヒット。それから何度振ってもヒットする。
 これってどういうこと? 野球なんてやったことない。でも私、打っている。こんなに高く打っている。
 そしてわかっていた。これを出来たのはどうして? 意地っ張りで強気で意固地な私がこれが出来たのはどうして?
「わっ。主任がバカスカ打ってる!」
 若い彼等が課長と帰ってきた。
「河野さん、あれ何キロなんです」
「100キロ」
「えー、100キロ!?」
 バッターボックス、パンツスーツ姿で連続ヒットを放っている女を見て唖然としている。
 その後、河野君も千夏の隣りの打席で140キロをバンバンと打ち始めた。千夏も打った。
 ベンチで佐川課長が『女の子に越された』と嘆いてムキになっていたとかいう姿はもう、千夏には見えなかったようだった。
 
 この翌日、千夏は会社に出勤した後、佐川課長にあるお願いをした。
「課長、私、ミットが欲しいんですけど」
「ミット? なんで。あ、河野君へプレゼントとか?」
 あのバッティングセンターでのひととき。息が合っていた二人に満足そうだった課長。これで千夏と河野君が上手く行くと確信したような顔をしていた。
 でも、そこのところやはり佐川課長は分かっていない。千夏のなかなか溶けない心の本質を知らない。彼にとって千夏の女心はやはり他人事。
「違います……」
「じゃあ、どうして」
 『どうして』について返答すると、課長はとても驚いた顔をした。
「い、いいけど。僕なんかでいいのかな」
「お願いします。他にお願いできる方がいないので」
「わかったよ。うん、じゃあ……今日、仕事が終わったらミットを買いに行こう」
 願い通りに、千夏はミット購入。それを手にして彼にあることを申し込みにシステム課へ向かう。

 

 

 

 

Update/2011.3.27
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