■ 奥さんに、片想い 番外編 ■

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落合編 【 お局様に、片想い 】
 
 イニング4 延長戦◇奇跡がおきれば決められる 

 

『貴方が投げた球を私が捕ったら、結婚してください』
 胸にミットを抱えた女は、躊躇うことなく彼に告げる。

「きゅ、きゅ、急に何を言い出すんですかっ」
 大柄な男の声が事務室に響き渡り、彼の同僚に上司までもがこちらへ視線を集める。
 法人コンサルティング課の二階下に事務室があるシステム管理課。その入り口ドアで彼を呼び出したが、さすがに人の目が気になり、彼を廊下へと連れ出す。そして廊下窓際で、彼と向かい合った。
「私、本気だから」
 唖然とした河野君の顔、びっくりしすぎたのか少し赤くなっているので、千夏も思い切り言ったことに今になって頬が熱くなってきた。
「あの、なんですか。この急展開。ちょっと突っ走りすぎちゃうこの感じ、イメージ通りすぎて逆にびっくりすよ」
「私らしいって感じたなら、いま言ったこと解ってくれるでしょ」
「でも。なんて言うか。そりゃ、俺は……」
 今度は彼が照れた顔で口ごもり、俯いてしまった。どんなに俯いても、彼を見上げてしまう千夏からは、その表情が丸見えなのが可笑しい。
「河野君にはわからないかもしれないけど。一歩先に踏み出そうと思えるようになっても、長く立ち止まっていた今の私には駄目なのよ。つまり『きっかけ』。ここまで足下が雁字搦めになっちゃっていると、馬鹿馬鹿しいほど簡単なきっかけじゃないと、きっともう駄目なの。それが欲しい」
 告げると、やっと河野君の顔が落ち着き、千夏を見つめていた。
「それって。俺に、望みがあったと考えていいんですか」
「いいから、言っているんだけど……」
 ほぼ告白に近かった。だけれど、もう『好きです、好きになりました』の言葉を交わしただけで、喜べる年齢ではない。ただつきあうだけの関係は、もういらない。それは、つまり。それをそのまま彼に告げる。
「ただの好きじゃ、もうだめなの。ただつきあうことも、そして結婚することも、今の私はどっちも『怖い』の……。わからないでしょう」
 だが彼は真顔で言った。
「いえ、わかりますよ。俺なんか誰を好きになっても、片思いで終わっていたから。今までの俺は振られてばっかりだったし、もし付き合えたとしても直ぐに別れたりするんじゃないかと自信がなくて、結局は告白できずじまい。他の男のところに行ってしまうのを見送ってばかり。でも好かれていないことを面と向かって突きつけられることが、ずっと怖かったんだと思う」
 驚いて、千夏は彼を見上げる。また彼が本気になったときの怖い顔がある。本気になるほどシビアな顔になる男。バッターボックスで140キロの球を打ち上げる男の顔。
「だから俺。今度こそ、黙って見ていないで俺から行って、俺の気持ちを素直に言って、千夏さんに知ってもらおうと思った。振られること覚悟だったから、なりふり構わずぶつかっていった」
 いつもめいっぱいの笑顔で千夏が怖じ気づくほど突進してきた彼とは違う。本当にバッターボックスにいる男の顔で彼が言う。その顔に、千夏はもうどきどきしていた。だけれど、すぐに彼特有のにっこり目がなくなってしまう笑みに崩れる。
「だから。加減を知らない男で、すっごく鬱陶しかったかもしれないけど」
 うん、鬱陶しかった。心でだけつぶやき、でも千夏は笑っていた。
「お願い。きっかけが欲しいの。ここに立っているきっかけはなんだと思う?」
 彼が首をかしげる。
「この前、打てそうにない球を打てたから。河野君が打たせてくれたから。意地っ張りの私がどうすればうまく打てるか、黙って見て黙って……」
 黙って騙してうまく乗せて。これだったら出来るよと体感させてくれたから。
 でもあと一つ、あと一歩、大きなきっかけがあれば……。
「わかりました。俺もその賭、乗ってみましょう。でも投げて捕るって。ルールはどうするんですか」
 そして千夏も決めていたことを、彼に教える。
「奇跡のバックホームをやるの」
 そう言っただけで、商業野球部出身の彼が仰天した顔になる。
「無理、無理っすよ……」
 思わずつぶやいた河野君――。だがそれも一瞬。
 『そうですね。それぐらいじゃないと、結婚は』と言った。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 日が長くなった夕。晴れたその日。千夏は佐川課長の車に乗せてもらい、約束の場所へと向かう。
「河野君、今日は外回りだって?」
「はい。郊外コルセンのメンテナンスへ。なので直接、公園へ向かうそうです」
 と、彼からメールが入っていた。
 申し込んでから二日後の約束。場所も千夏が指定した。会社からそれほど遠くはない、河川敷公園。
 そこから城山も見え、春は桜並木でも有名な河原だった。公園の真ん中には電鉄の駅まであり、駅の名前も『公園駅』。郊外電車がのんびりと公園と河を横切っていくと、なんだかのどかな情景。
 その河原へと、課長と向かう。助手席でミットを抱えて黙っていると、運転をしている佐川課長の方が落ち着きがない。
「やっぱり、無理だと思うよー」
 この男性も。河野君と同じ事を繰り返す。
「奇跡のバックホームで結婚を賭けるって、なんなんだよ。それって」
 気持ちに踏ん切りをつけるなら、もっと他に方法がいっぱいあるのではないか――と、佐川課長に何度も言われたが、千夏は譲らなかった。
「あれは甲子園でも語り継がれている、名ファインプレーじゃないか」
「だからですよ。河野君も球児だったなら、あのプレーが如何に『奇跡』だったかわかっているはずですから」
「それで? それが成功したら結婚……?」
「そうです。もう決めているんです。成功しなかったら、もう結婚しません!」
 課長がまた絶句している。そして運転しながら、額を抱え唸っている。
「あー、もうー。どうしてそうなる? うーん、でも、そうだね、そうだよな。うん、落合さんらしいよ」
 でしょ。だからもう心配しないでくださいと、千夏は返した。
 
 『奇跡のバックホーム』。ある夏の甲子園。
 地元商業高校野球部が、決勝戦へ進出。古豪対決と言われたその対戦。三対三の同点にて地元野球部は延長戦へ突入する。
 延長十回裏、相手高校が1アウトの状態で満塁となる。まさにサヨナラ勝ちのチャンス、地元野球部はピンチの場面を迎えていた。
 そこで監督が、ライトの選手を交代させる。
 試合再開。地元商業高校のピッチャーが投げる。相手校のバッターがバッドを振る――。それがなんと大飛球ヒット、ライトまで飛んでいった。
 ――これで落とせば、三塁走者が戻って1点。負ける。
 その場面で、なんとライトの選手がそれをノーバウンドでキャッチ。
 しかしライトという遠い位置にボールがあることから、相手校の三塁走者がタッチアップを狙ってダッシュ開始。
 80メートルほど離れた遠い外野、ライト。交代したばかりの彼が、そこから思い切りホームをめがけ、キャッチャーへと球を投げる――。
 三塁走者がホームへ滑ってくる。キャッチャーは果たして? その球を捕れたのか、タッチできたのか。走者とキャッチャーが激しく交差する。
 アンパイヤの一声は――『アウト』!
 
 絶体絶命の満塁ピンチ、交代直後、たった一回の送球。ライトという80メートルも離れた場所からの強肩がなす技、バックホーム送球。
 すべてが重なった奇跡にて、この試合、地元高校が延長戦を制し、夏の甲子園優勝をした。
 いまでも高校野球の名場面として、または名プレーとして語り継がれている。
 
「僕もあの試合は観たけど、あのバックホームは鳥肌だったからね。後から出てきた選手のエピソードがまたね。ライトの選手はノック練習毎の最後に行われる外野からの一本バック-ホーム、実はこれが一度も決まったことが無く、だからこそ毎日毎日その練習をしたがそれでも一度として決まったことがなかった。この土壇場の本番で決まった1球が最初で最後の成功したバックホーム送球。後に人々は、『どんなことがあっても努力を忘れず諦めず、毎日毎日練習した結果、神が彼に微笑んだ』とも言っている」
 佐川課長の解説通り。課長もよく覚えているお気に入りのシーンらしく、とても詳しかった。
「で。その80メートル送球をしようってわけなんだね」
「はい。河野君がライトの距離から投げた球が、私のミットに収まったら――」
「結婚する……か。一発勝負?」
「はい。二度目はなしと河野君にも言っています。一球のみ」
「それはまた、ある意味『奇跡』。そうでなければ、結婚など踏み切れないって?」
 ハンドルを握っている佐川課長が、大きなため息をつきながら首を振る。
「河野君の肩なら届くと思うよ。試合中の差し迫った判断がない、整った状態での送球ならね。ただね。問題は送球を受けるキャッチャーだ。一度も野球の球を捕球したことがない女の子が、大男が遠くから思いっきり投げた球を一発で捕れるとは思えないんだよ。一発勝負なんて無理だ」
 わかっている。だが千夏は引かない。
「たった一球に賭けるから、奇跡なんじゃないですか」
 怯まない千夏の意固地は毎度のこと。『ああ、そうだね。そうかもしれない』と、佐川課長も何も言わなくなってしまった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 空の向こうは夏らしく空高く上る真っ白い雲、ほんのりと茜色でふちどられ染まっていく。
 ハンドルをゆっくり回す課長が、暮れる夏空を見ながらつぶやいた。
「さあ、ついた」
 葉桜の並木、土手、そして河原の公園。ちょうどその真ん中を走る線路には、ガタンコトンとオレンジ色の電車がゆっくりと過ぎていったところ。
 そして公園土手の脇にはすでにあの4WDの車が停まっていた。
「彼も落ち着かなかくて、さっさと仕事を切り上げてきたのかな。もう来ているよ」
 シートベルトを外した課長から、先に車を降りていく。
 助手席の千夏はミットを胸に深呼吸。それから車を降りる。
「お疲れ様です、佐川課長」
「お疲れ、河野君。なんか、立会人とやらを頼まれちゃってさあ。一緒に来ちゃったんだけど」
 戸惑っている佐川課長。聞き分けない長年の後輩である千夏が譲らないだろうから、まだ柔軟そうな彼に言って『僕って必要ないよな?』と同意を求めている。だが河野君は。
「俺からもお願いします」
 河野君も、神妙に頭を下げお願いしてくれている。
 それでも課長は『え、そうなんだ』と意外そう。それもそうかと千夏は改めてため息。千夏の気持ちを知らない佐川課長は『なぜ、僕が立会人?』と不思議でしようがないのだろう。でも河野君は、立会人をお願いしたのは『これできっぱり佐川課長への想いも断ち切る』ことを意味し、千夏が決意していることを察してくれていた。本当に彼は千夏をよく見てくれていると痛感する。
「じゃあ、早速、始めましょうか」
 彼にも戸惑いはもうないようだった。車の助手席のドアを開ける河野君。そこから使い込まれたグローブが出てきた。
「一発勝負でしたよね。千夏さん」
「そうよ。一発勝負。それで決める」
「大事な一球ですから。先に肩を暖めたいんですけど待っていてもらえますか」
「いいわよ」
 とても落ち着いている。いつもの穏和な笑みを見せ、彼から土手の階段を下り、公園広場へと向かっていく。
 その後を、千夏は佐川課長とともに降りた。
 夕なずみの公園を見下ろしながら、課長はまだ納得できない顔。
「あのさ。せめて三球とか五球とかさあ」
 チャンスをもっと増やせと言いたそうだった。
「いえ、一発じゃなくては意味がありません。私の人生を左右する結婚を決めるんですよ」
「だからこそ。一発勝負って……。あ、うん。もういいや」
 また課長は頭を抱えて唸りつつ、でも黙ってしまった。もうどう言っても『落合さんは落合さん』だとここだけはよく理解してくれている。
 そんな課長が空を見上げている。夏の遅い夕ぐれ。その穏やかで優しい色が課長の目に映っている。
「そうだな。本当に、きっかけてあるよな。ずっとこだわっていたことが、ある日突然、ちょっとしたことで軽くなるんだ」
 課長にもそんなことがあったのかと、千夏は片思いをしてきた男性の顔を見上げる。
「だから僕は落合さんにこう言いたい」
 『なんですか』と返すと、夕の風にネクタイをなびかせながら、葉桜並木を遠く遠く向こうへと辿っていく課長の目線。それを千夏も追った。
「自分で自分がずっと許せなかったみたいだから。それは落合さんらしいと僕もずっと思ってきたよ。だから、どうだろう。河野君にそこまで気持ちが傾いたなら、これからはずっと河野君に許してもらえばいいじゃないか」
 自分でだめなら、選んだ男に許し続けてもらえよ。
 思い続けた人からもらった最後の言葉に思えた。課長には『彼の球が捕れたら、結婚を決意しようと思います』、だからミットを買いに行きたいのでつきあって欲しいと告げていた。だから千夏の気持ちはもう河野君にあると課長は思いこんでいる。でも、そうじゃない。確かに河野君に気持ちが向かっている。それでもずっとずっと何年もこの男性を思ってきた気持ちはそんな簡単に消えない。その男性に……望めなかったことを、僕には出来ないことだから、選んだ男にしてもらえと言われているようだった。
 胸が苦しく一瞬だけ締め付ける。だけれど、もう、一瞬だけ――。千夏は今までの切なさに小さな息をついて目をつむった。だけれど直ぐに目を開ける。
「そうですね。たった一人、そんな男性がいてくれたら。それで私も自分を解放したいと思います」
「うん。たったひとりだけいると、全然違うよ」
 いつもの爽やかな笑み。その幸せそうな笑みは、きっと最愛の奥様と強く結ばれているからなのだろうと千夏は思った。
 
 公園広場の壁に向かって、ひとしきり球を投げていた河野君が戻ってくる。
「いいですよ」
「一球だけね」
「わかっています。じゃあ、俺。あのあたりに行きます。ちょうどあそこがライトのポジションだと思いますから。千夏さんも準備が出来たら手を挙げてくださいね」
「わかったわ」
 二人で段取りを決め、うなずき合う。
 ネクタイを外した白いシャツ姿の河野君が背を向ける。ゆったりと歩いて落ち着いている彼を見て、千夏も地面に膝をつき構えた。
 そして佐川課長が千夏の背後に、アンパイヤのようにして控える。
「練習なんてしてないよね、落合さん」
「ええ。見よう見まねです」
 背後からまたため息。よくそれで勝負に打って出たなと、また言いたそうな課長。でも言っても無駄、彼女らしいと呆れているのも。
「あ、でも。落合さんは僕と違って運動神経良さそうだしな。100キロ打っちゃったんだから」
 実際に、スポーツは得意な方だった。だからとてイケルとも思っていない。どんな球が飛んでくるかもわからない。
 勝負勝負というけれど、そうじゃない。勝負するなら練習をする。勝てるように。そうじゃない。これは『きっかけ』。捕れたらよし、捕れなかったら……。
『千夏さーん、行きますよー』
 広場の向こうにたどり着いた河野君が手を振った。千夏も無言で手を挙げる。
 ついにその時が来る――。
 彼のグローブに右手が隠れる。ミットを構え、そこに自分のこれからを決める白球があることをイメージをする。
 ――じっとこちらを見据えている彼。
 たった一球、彼にとっても今までの想いを込めた一球になるだろうから、集中しているのが伝わってくる。どんなに長い間でも千夏もミットを構えて待つ。
 千夏の背後にある公園駅に、ガタンゴトンとやってきた電車がキキーと停車する音。人々が乗車下車するざわめき。やがて。千夏は河野君がその電車を見ているのを感じた。じっと見ている。
 ――ピー!
 小さな電車のドアが閉まる。車掌の笛の音。
 ――来る。
 そのタイミングを彼が計っていたことを千夏もわかっていた。
 遠くの大男が振りかぶる。千夏の意識はミットのど真ん中!
 ――来るよ。少し前でミットを閉じるんだ。
 背後から片思いで大好きだった課長の声。少しでも千夏に幸せを。そんな彼らしい純粋な声が聞こえたときには、真っ白い球がこちらに向かってくるところ。
 少し前、顔に当たるかも? それぐらいで閉じよう! そう思ったのだが……!
 ガタンゴトンと駅を発車した電車が遠のいていく音が、公園に響いている。
 ――『ミットにボールはない』。
 その球は少し手前でバウンドし、千夏の横をコロコロと転がっていっただけだった。
 ――届かなかった。
「……だから、だから言っただろう。一発勝負は無理だって。河野君だってもう毎日練習しているわけじゃないんだから。良い時期に練習を積み重ねて、それでバックホームの成功率も上がるってもんなんだよ!」
 背中にいる佐川課長が、珍しく憤った口調で慌てている。
 なんとかして、この切れそうな勝負をつなげようと必死になってくれているその気持ちは千夏にも痛いほど伝わってくる。
 遠くにいる河野君も、呆然としている? でも見る限り『こうなると判っていたんだ』と達観した哀しい眼差しを伏せているようにも見える。
 千夏もゆっくりと立ち上がる。暮れる夏の夕を見上げ……。
 
「そうですよね。奇跡なんて。あるわけないんです」
 
 もどかしそうな佐川課長を見上げ、千夏は笑う。そして後ろに転がっていった球を拾いに行く。
「落合さん?」
 夕暮れに染まる球を拾い、千夏はそれを暫く見つめた。
「課長が言ったとおりです。奇跡は、やはり積み重ねの向こうにあるんだと私も思います。待っているだけでは起こりません。何もない日常になにげなく忘れずに続けてきたことが、ある日なにかの『偶然』が重なって起きること」
 奇跡のバックホームはまさにそれだった。
「私も、やっとわかりました」
 この愛してきた男性が、いつの間にか本部課長という階段を駆け上がっていけたのも、そういうことではなかったのか。そんな彼に憧れて、そんな何気ない男性を妻として愛し支えてきた彼女にも憧れて――。
 ――私もそうなりたい。そうなれる。
 球を握りしめ、千夏は先ほど、この球が自分の目の前で力尽きて落ちた場所へと向かう。バウンドした痕跡があるそこに立ち、千夏は遠くにいる彼に叫んだ。
「河野くーーん。もう一度!」
 叫び、千夏が思いっきり腕を振り上げて球を投げる。
 でも。今度は力無い女の送球。その球は全然遠くに飛ばずに彼のかなり手前で落ちて転がる。それを河野君がこちらに走ってきて拾い上げた。
「もう一度、やってみよー」
 バウンドした位置に千夏は座り込んだ。
 つまり距離を縮めたのだ。それを彼は気がついているようだった。
『そこでいいんですかー』
 河野君の問いに、千夏はOKサインを掲げミットを構える。
 彼がどう思ったか判らない。でも球を持って元の位置に帰っていく。
 そしてまた、次の駅ですれ違いでやってきた反対方向行きの電車が公園駅にやってくる。
 先ほどと同じ。無言で二人で計りあえたタイミング。駅に停まる電車、ドアが開く音、乗車下車する人の気配。そして、車掌の――。
「来るよ」
 背後で見守っているだけの課長にもすでに気づかれている。車掌の笛の音が、この後輩二人が通じ合ったタイミングときちんと見守って気がついてくれていた。
 ――ピー!
 河野君が振りかぶる。
「来た、今度は来る!」
 課長の声に千夏も頷く。明らかに先ほどとは違う速さで飛んでくる球を見た瞬間、もうぐんっと目の前に迫っている。
「そこだ! 落合さん、ミットを閉じて!」
 素直に聞き入れ、千夏はミットを閉じた。
「きゃあっ」
「うわっ」
 手元に鈍い衝撃、さらに千夏の顔めがけ白い塊が襲ってきた。その恐怖で千夏はよろめいてしまった。
 球はど真ん中には収まらず、ミットに当たって跳ね上がったのだ。それは佐川課長にも向かっていったので、二人そろって地面に手をつき座り込んでしまっていた。
「うっわ。いきなり調子を出すな。河野君ったら。でもアウトだ」
 ふうっと速球の驚異から逃れ安堵の息をつく佐川課長。同じくデッドボールを免れた千夏も息を切らしていた。
『千夏さん! 大丈夫ですか!!』
 今度は届いた。でも素人の女にはうまく捕れなかった。だがこれで千夏は確信した。先ほどの第一球、彼は千夏に当たるのが怖くて、手加減をして投げていたのだと。そして今度は最後のチャンスだろうから、千夏を信じて思いっきり投げたのだと。それがこの送球――。ちゃんと届いたではないか!
「さては。手加減していたな。さっきの――」
 球を拾いに行ってくれた課長も気がついていた。
「千夏さん!」
 河野君が真っ青な顔でこちらに走ってくる。
「来ないで!!」
 千夏の一声に、彼の足が止まった。
「課長、ください」
「うん」
 拾ってきた球を、課長も強く頷いてて手渡してくれる。千夏の一発勝負などもう意味がない。この一球一球に意味があるから、続けるのだと判ってくれている。
「河野君、もう一度ーー!」
 また非力な腕で球を投げる。
 案じて走ってきてくれた河野君が立ち止まっているその位置にさえ、千夏の送球は届かない。力無い女の球がぽてんと地面に落ち、彼の足下に転がっていく。
 そして千夏は再び、ミットを手に跪き構えた。課長も後ろに。
「さあ、こいっ」
 かけ声をする。遠くで河野君もまたボールを握りしめ……。だが彼も夕暮れのボールをじっと見つめている。
 彼は何を今、思っているのだろう? どのような思いをボールに話しかけているのだろう? 
 待っている間、千夏の胸が騒ぐ。男性が何を思っているか、それを考え緊張している自分がいる。彼のことも気にしている自分がいる。
 待っていると、どうしたことか河野君は構えず、ボールを持ってこちらにゆっくり歩いてきた。
 え、やめちゃうの?
 密かに慌てた。そりゃ、一発勝負と言っておいて二度目を要求して、なおかつ三球目も。しかも送球距離を千夏から勝手に縮めた。でもズルをしようと思った訳じゃない。諦めて『これなら出来る』と安易に放り投げた訳じゃない。ただ、ただ……『140キロの球を打ってやるのよ』と無茶ぶりをするあの自分と同じだと判っていたから。100キロに黙って落としてくれたから打てた。そこで自分の力を知った。それなら出来ることを教えてもらった。だから今度も……。
 でもこちらに距離を縮めて戻ってくる河野君の顔が『もうこんな勝負やめましょう。結果は出たじゃないですか。俺、もういいです。終わりにしましょう』と言っているように見えてしまう。
 ボールを持ってここまでやってくる彼がそう言い出すのではないか――。千夏は息を呑み、彼が歩いてくるのをただ見ているだけ。
 しかし、あるところで河野君が立ち止まった。
「行きますよ。千夏さん」
 握ったボールがグローブに隠れ、彼が投球へと構えた。
 その位置は。千夏が投げてボールが落下する距離、位置だった。
「千夏さん。バックホーム並の投球が出来なくてごめん。たぶん俺、いま自信を持って貴女に届けられる位置はまだここみたいです」
 確実に。千夏のミットにど真ん中に届けられるのは『ここ』。本当はもう少し遠くからでも届けられると思う。でも千夏には通じた、伝わった。河野君が投げた球が落ちた位置に距離を近づけたように、河野君も千夏の力で届く距離と位置を選んでくれたのだと。
 通じたことも、気持ちを判ってくれたことも。それだけで嬉しくて、嬉しくて、もう涙が滲みそうになった。
「思いっきり投げますよ。千夏さんは構えるだけ、でもちゃんとミットを閉じて捕ってくださいよ」
「わかった」
 もう叫ばなくても互いの声がよく聞き取れる位置。それほど狭まった距離で二人はそれぞれに構える。
「行きます」
 胸に構えられたグローブ、足を上げ振りかぶる彼。それを見て千夏もミットを構える。
 この距離から始めよう。今の二人はこの距離じゃないとキャッチボールは出来ない。でもそのうちに、遠くにいても何でも分かり合えるほど気持ちがきっと通じ合う。それをこの距離から――。
 熊君の長い腕がぶんっと唸る。それとほぼ同時だった。
 ――ズバン!
 閉じたミットにボールの感触はない。あるのは衝撃的な『しびれ』。ずうんっと千夏の腕から肩、そして首を駆け上がって脳天に響いた気がした。
 びりびりとする手のひら――。これが、河野君のおもいっきり。
「すごい……」
 重くて、そして身体中にびりびりする波動に千夏はもう泣いていた。
「捕れたね」
 後ろから、肩を優しく叩いてくれた男性の優しい声にも泣きそうになった。
「千夏さん……」
 それで。その球を捕ってくれて。じゃあ、俺達はどうなるんだ――。そんな途方に暮れた河野君が佇んでいる。
 千夏もボールを手にとって、ゆっくり立ち上がった。
「河野君。すごかった。ずうんってびりびりって来た」
 あふれてくる涙をそのままにして、それでも千夏はほほえみ、そのボールを彼に差し出した。
「実感がずっと湧かなかったんだけど。人の気持ちに鈍くなっちゃって、実感できなかったんだけど……」
 そっと歩きながら、立ちつくしている彼の前へと千夏から向かう。
 彼の前に来て、千夏はその受け取った球を彼の大きな手のひらに返す。
「河野君、私、貴方のこの直球の重さと威力、このしびれ。貴方の想い、きっとずっと忘れない。すごく嬉しかった。有り難う」
 まだ彼は途方に暮れ、困惑した顔をしていた。でも、白い球を握った途端。
「やっぱり俺、貴女のこと大好きです。これっきりなんて絶対に嫌だ。嫌だ、嫌だ」
 大きな両腕にがっしりと抱きしめられていた。
 だけど、もう千夏も。そっと笑って彼を抱き返していた。
「こんな私ですけど。よろしくお願いします……」
 涙声でつぶやくと、千夏を胸から離した河野君がとても驚いた顔で見下ろしていた。
「俺、良い旦那になれるよう頑張りますから」
 またすっぽりと包まれ、今度は優しく抱きしめてくれる河野君。
 大きな手で初めて頭をなでられ、頬ずりまで。でもそれが柔らかくて優しくて、千夏もその大きな手にいつまでも触れていて欲しくて彼の胸にしがみついてしまっていた。
 
 また市駅から来る電車が公園駅にやってくる。同じ車掌の笛の音。その後直ぐ、車のドアがばたんと閉まる音がした。土手にあったはずの佐川課長の車がない。通じ合った二人を残し、黙って……。
 遠く去っていく電車の音が消えても、千夏はその人の胸に抱きついていた。

 その日の夜。千夏は彼の部屋で一晩過ごした。
 柔らかい肌に、あの直球のような熱さと激しさとしびれが翌朝残っている身体で目覚める。
 本当の夏が始まったと、河野君――いや『孝太郎』の部屋で光を浴びていた。

 

参照→【松山商業:奇跡のバックホーム/第78回決勝(1996年)】
※YouTubeに飛びます。音量注意※
 

 

 

 

Update/2011.4.21
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