◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 8.本気だよ、黒帯ちゃん  

 

 玄関のそばにあったシャワールーム、そこで扉の音がして、心優は『雷神』の写真を元に戻した。
 カラダがほてっていて熱くて、中佐が触れたところ全部、甘い疼きが残っている。こんなに女として満たされたのは初めて……。そう浸りたかったのに、いま心優の頭の中を占めているのは『彼とミセス准将の間になにがあったの』ということばかりに。
 部屋のドアが開き、バスタオルを腰に巻いた姿の中佐が帰ってきた。濡れた黒髪をかき上げながら入ってきた彼は、もう汗や男の匂いが薄れていて、あの肉体からは石鹸の香り。
 そんな彼が帰ってきて、心優はベッドの縁で何事もなかったように座って待っていたふりをする。
「それ。俺が好きな格好」
 彼がにぱっと笑う。素肌に制服の白いシャツだけを羽織っている心優を見つけて、とても嬉しそうだった。
「あ、男の人はそういうの好きっていいますよね。これしかなくって、それだけです」
「じゃあさ。今度は裸ジャケットしてくれよ。あ、ノーパンタイトスカートもいいな」
 心優の隣にどっかりと座ってきて、落ちていた制服のジャケットを心優の目の前につんつんと突き出してくる。
 この変態上官と、心優はムッとした。
「もう、これこそセクハラですからね」
「プライベートなのに?」
「プライベートだからお断りします」
「上官命令なら絶対やってくれるよな」
「だから、そうなると完全にセクハラですから!」
 『は、そうか』と本気でいま気がついたかのような顔をした。なんなの、その憎めない愛嬌。普段は仕事で使っているだけの愛嬌だったと思っていたのに、ちゃんと彼の素質でもあるのだと思うと本当に憎めなくなって困ってしまう。
 なのに急に、ぎゅっと抱き寄せられ、心優は戸惑う。その顔がもう、基地で見せている憂いある眼差しになっている。ドキリとした。
 城戸中佐の腕がさらに心優を抱きしめようとする。石鹸の匂いがする皮膚、逞しい胸元に抱きしめられ、優しい手つきで黒髪を撫でてくれている。
「中佐」
「写真、みたんだろ」
 心優は黙った。見たのが自然だろうし、でも見たと言えば『雷神にいた』ことを知って驚いたと言わなければならない。
 黙っている心優を知った中佐が、溜め息を落とした。
「塚田はなにも教えてくれなかったのか。俺が小笠原にいたこと」
「はい。雷神にいたなんて、小笠原にいたなんて……知りませんでした」
 今度は彼が黙り込む。心優を抱き寄せたまま、黒髪を何度も撫でながら、彼は写真立てへと視線を向けている。そこに彼がいつも避けているミセス准将がいる。
「あの人が、一度は消滅した伝説のフライトチームを再興させた。消滅はしても、海軍の飛行機乗りになったなら崇拝するフライトだ。最高のドッグファイト、コンバットのテクニックを持った『雷神』のことは本当に伝説で憧れの存在。消滅したフライトチームを復活させてくれたあの人がパイロットを捜している。騒然としたよ。誰もが『俺を選んで欲しい』と目論んでいたと思う」
「その最高のエースチームに、中佐は選ばれたんですね。御園准将がそれだけ実力を認めてくれたんですね」
 そこで彼が辛そうに笑った。笑っているのに泣きそうな顔を心優は初めて見た。
「そう。俺を、一番最初に選んでくれた」
 それを聞いて、心優はまた驚いた。
「それって、ミセスが城戸中佐を誰よりも一番最初に相応しいと、欲しいと選んでくれたってことですか」
 すごい! 本当にすごいパイロットだったんだと改めて、彼のパイロットとしての資質と才能がどのようなものだったのか痛感する。
「しかも、若い世代でまとめたいからと、まだ中堅と言い切るには未熟な俺を『1号機、キャプテンで』という好条件で引き抜いてくれたんだ」
「雷神の、キャプテン――」
 それ以上の言葉を心優は失う。この人は、連合軍に二つしかないトップチームの『キャプテン』として選ばれていた。それだけあのミセス准将に、彼の技術も人望も実力も認められていたということ。一握りどころか、湾岸部隊のフライトと併せても、本当にパイロットの頂点にいた人ということになる。
 だから、空から陸の職務になっても、彼は秘書官としてやりこなせたのだと知る。ただ空を飛べなくなっただけで、仕事の駆け引きは上等だし、部下からは慕われる。もともとそんな素質も人より突出していたのだろう。
「雷神のキャプテンとして、雷神のために開発されたばかりの新戦闘機の第一号パイロットとして小笠原に転属した。御園准将がチームになるまでのパイロットを集めるまで、新機種戦闘機のテスト飛行が俺の仕事だった。どこにもない新機種の戦闘機を飛ばせることも、飛ぶことも、本当に嬉しかった。なによりも……」
 そこで彼が苦々しい様子で俯いた。
「あの人の指揮で飛べること、あの人と航行任務に行けること。もの凄く期待していた」
「期待、ですか」
 彼はあの女性指揮官から、なにを得たかったのだろう。
「先輩も、他の上官も、そして長沼准将も。横須賀にいる空の男達は口を揃えてこう言っていた」
 『御園葉月准将。彼女の土壇場の判断は、神懸かっている』
 彼が大切なものを大事に教えてくれるかのように、そっと囁いた。そしてその頬に高揚を見た気がする。この中佐殿がそんなに心昂る、そんな指揮官のそばにいた日々。栄光の日々と言うべきなのか。
 心優にもわかる。そこは彼にしてみたらミセス准将の雷神にいたことは、世界へ挑む権利を握りしめて選手団にいた心優と同じ誇らしさを持っていた離れがたい場所だったのだろう。
「それを見てみたかった。でも、あの人のそばにいられたのは、たった半年だった」
「それで。中佐は怪我をされて……小笠原からまた横須賀基地に戻ってきた、ということなのですね」
 また彼が黙った。思い出したくないのか、先程まであんなにおちゃらけていたのに、眉間に深い皺を刻んでいる。
 彼がベッドから立ち上がる。
「つまんない話だったな」
 素肌にバスタオルを巻いただけの姿で、彼はローチェストに向かうと、心優が見ていたあの白い飛行服の写真立てをぱたりと伏せてしまう。
 少しだけ足を引きずって、彼はまたベッドの縁に腰をかける。でも、今度は心優に背を向ける形だった。
 中佐殿は、時々足を引きずっている。先ほども、心優を軽々と抱き上げて奥の部屋まで連れてきてくれたけれど、右の方が少し下がり気味で足をひょっこりとたまに不自然に動かしてバランスをなんとか取ろうとしていたのが、抱かれている心優にも伝わっていた。
 その足になって、万全の体制で搭乗せねばならないコックピットのシートに座る権利を返還せざる得なくなったのだろう。
 栄光の日々を手放す。どんなに辛かっただろうか。彼がミセス准将から目を背けるのは、その為? それにしては大人げない気もする。ミセス准将も上官として妙に彼に気遣っている気もする。
 そしていま背を向けている男の人は、心優を猿の勢いで抱いた男でもなく、基地で見せているシビアな上司でもなかった。
 そっと静かにベッドにあがり、心優は城戸中佐の背に近づいた。
 湯上がりでほてっているその皮膚に、心優からそっと頬を寄せる。その背に、心優は優しくキスをした。
「帰りますね、中佐」
 もうそっとしておいてあげよう。今日は彼から初めて聞いた話は充分すぎるもの。まだまだ隠されていることがあると予感しても。今夜はもうこれで充分。
 城戸中佐も、そんな心優のキスを感じているはずなのに、振り向いてもくれない。なにも言ってくれない。
 心優はベッドを降りると、下に落ちている自分の衣服と靴を集め、胸に抱えて『パイロット部屋』を出た。
 灯りがついてないリビング、そこのソファーで静かに衣服をまとう。暗がりの中、見繕いを済ませた心優は、ドアが閉まったままのパイロット部屋を見つめる。
 本当は、あの人の胸に頬を埋めて、もっと甘い余韻を楽しみたかった。他愛もないどつきあいみたいな会話でもいいから、もっと笑って話せるような気がしていた。
 でもだめだった。あの人が、こうして誰かと一歩近づくには、怪我のことを言わなくてはならないし、部下の心優には『雷神』にいたことが知れたならば、辛いことを話さなくてはならなかった。
 今夜はどちらにしても、こうなるしかなかった気がする。
 それでも心優はがっかりなんかしていない。
 ――きっと、忘れない。ずっと覚えている。
 ちょとふざけたふりをして『俺、猿だから』と大胆に心優を奪うように抱いてくれた人。憧れだった大人の彼に、まさかこんなふうに抱いてもらえる日が来るだなんて思いもしなかった。
 だからって、これで『恋人』とも思っていない。今日、たまたま、あの中佐と波長が合っただけのこと。あの人が、ちょっとその気になって、差し障りのない部下の女を抱いただけ。そう『気分』。
 それでもいい。それでも。多くは望まない。
 そのぶん、憧れている男性に思いきりカラダを愛してもらえたから。
 あんなに狂おしい睦み合いは、ほんとうに初めて。この自分が、彼の腕の中では『可愛い女の子』だと感じることができた。
 いい思い出。それでいい。心優には夢のような、贅沢なひとときだった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 翌日からも、心優は『何事もなかったふり』を決めて出勤した。
 それはあちらの中佐殿も同じだった。あんなに大笑いして、あんなにはしゃいで。最後は憎めない愛嬌のお猿さんになって心優を抱いた男。その影はもうどこにもない。
 心優がそれまで『これがこの人』と思っていた、シビアな大人の上官に戻っていた。
 お互いに過剰に意識する素振りもなく、幾日も過ぎていく。誰も、中佐殿と心優の間になにがあったか、疑いもしない。以前と変わらない職場のまま。

 その日の訓練は、4対2。心優の背後には、護衛すべき指揮官が一人。隣にはバディ役の青年大尉。二人でコンビを組み、一人の護衛対象者を護る訓練。
 正面から四人の先輩が、暴漢として襲って来るという訓練だった。
 基地の中にある畳の道場。そこでいつも『護衛部』の訓練が行われている。

 道着の黒帯をぎゅっと締め、心優は立ち向かう。
「はっ!」
 護衛指揮官を背後に、心優は構える。前から大柄な男の先輩が一人飛びかかってくる。
 右、左、左足、右右! 互いに鋭く素早く突き出し攻撃する手、それを防御する手。手と手の撃ち合いの合間に、足が上がって相手の頬をかすめる。その隙に、心優は相手がよろめいた方に傾くよう不利な片側を突きまくる。同じ空手家の先輩との手合わせは、久しぶりの手応えを感じさせてくれるが、今日の心優は奥底から湧いてくる熱くて重い塊をパワーで粉砕するように、がむしゃらに前進攻撃をするのみ。
 大柄な先輩がついにバランスを崩し、畳に手を突いた。その途端、両隣からまた敵が来る。
 一人はバディの大尉に任せる。心優も飛び込んできた敵に真っ正面から向かい、蹴りを飛ばして脅し、向こうが怯んだ隙に懐に入って――。
「せいやー!」
 熟練の護衛官を、大外刈りで浮かせて豪快に床に落とした。
 つづいた暴漢役の先輩も、同じように床に撃沈させてしまう。
「ま、参った。もう空手も柔道も使われてしまったら、ひとたまりもない」
「兄さんが、櫻花日本大柔道部のコーチだもんなあ。その手ほどきだなんて羨ましい」
 本日の心優、向かうところ敵なしという勢いだった。

 護衛訓練を終え、女子更衣室のシャワー室で汗を流す。
『どうした園田。ここのところ、おまえ無敵というより、冷静さを欠いている』
 護衛部を任されている父親ぐらいの年齢の中佐に窘められた。
『自分でも分かっているのだろう。代表選手戦で如何に冷静になって取り組むか。それだけの経験を積んでいるだけあって、護衛部の誰もが園田が来てからその集中力に感心していたというのに』
 日本最高レベルで鍛えてきた冷静さと集中力はどこにいったんだ。そんな注意だった。
 身に覚えがありすぎて、ぬるい湯が滴り落ちてくる中、心優は顔を覆って少しだけ泣いた。
 遊ばれたとも思っていないし、本当に自分には『奇跡』だと思うほどの、憧れの男性とのひとときだった。
 でも、やっぱり胸が痛い。何事もなかった顔をされることなんかじゃない。
 あの泣いている背中は、心優にとっても痛いほど泣けるものだったから。そして、なにもできなかった。
 自分にも覚えがありすぎて、どんな言葉も救いにならないことをよく知っているから、なにもできなかった。
 そして城戸中佐は、あのようにしてこれからも『パイロット部屋』に気持ちを押し込めて、外ではパイロットだったことは一切捨てて、完璧な秘書官になる。本当の彼は『誰にも触れて欲しくない』のが本心に違いない。
 心優は、心の慰めのひとつに過ぎない。大人同士なら、ここで割り切れるはず。
 そんなことばかりが心占めていた。だから、訓練で憂さを晴らすようにして、力加減も技の配分も無視して体当たりの訓練をしてしまう。
 それを部長に悟られていた。

 汗を流して身支度を終えた心優は、秘書室に戻ろうとした。
 もうすぐランチタイム。まだ勤務時間中の廊下は人もまばらで、静まりかえっていた。
 空部隊本部へと向かう長廊下。備品室や資料室など物を保管をする部屋が多く、あまり人がこない場所だった。そこを歩いていると。
「黒帯ちゃん」
 初めて耳にする呼び方をされ、心優は振り返る。
 そこに、よその部署にいる少佐が立っていた。
「お疲れ様です」
 顔見知りなので、心優も丁寧に挨拶をする。
「訓練の帰り?」
「はい」
 どこかにやついた笑みで、彼が近づいてきた。こんなところで人に会う、声をかけられるだなんて。心優の訓練が終わるのを見計らって待ち伏せしていたとしか思えなかった。
 あまり好きな男性ではなかった。彼は心優をみたら『ボサ子ちゃん』とあからまさに呼んで笑っていた一人。最近は言わなくなったので、なるべくすれ違わないように避けていた。それでも仕事で時々会うと『園田ちゃん元気』と馴れ馴れしい。城戸中佐も塚田少佐もそれを目の当たりにしていて、本人の目の前で嫌な顔はしないが『相手にするな』と心優に釘を刺して嫌っている。
 でもこの男性は、基地の管理をする中枢にある『業務隊本部』の男性。業務隊のトップになると、『基地の情報を握っている男』と一目置かれる。業務隊長の直下にある本部員となるとそこもエリート隊員、将来トップになる卵ということになる。
 横須賀に配属されるだけでも優秀だけれど、『本部』と名の付く部署に配属されることはエリートコースに乗っかっていることを意味している。
 つまり、このにやついた少佐も『エリート』の一員。この男も将来トップを狙うために、どこかに媚びを売っているはず。その為にはやはり『情報』が進物になるとか。
 そんな男が、たまに心優に狙いを定めたように近づくことがある。今日はそれだった。
 その男が、廊下の窓際を歩いていた心優に近づいてくる。
「あ、シャワーを浴びた後だな。いい匂いがする」
 よくわからないけれど、この人がいうとムッとしてしまう。心優が無反応なのもいつものことで、でも少佐はめげずに窓に手をついて腕を伸ばして、心優の前進を阻もうとする。
「園田さん、最近、女っぽくなったな。もしかして好きな男でもいる?」
 ムッとしていたのに。女っぽくなった――というフレーズに、心優は思わず反応してしまい頬を熱くした。
「あー、やっぱりそうなんだ。もしかして、城戸中佐?」
「いいえ」
 心臓がばくばくしてきた。そんな絶対に悟られたらいけないのに、鼓動を抑えようと思えば思うほど、身体が熱くなってしまう。
「わかりやすいね。でも、あの人はちょっとねえ……」
 どうして? そう聞きたいけれど、聞けば城戸中佐を気にしていることになってしまう。
「中佐は他の女の子に注目されているだけあって、素敵な男性かもしれませんけれど。わたしのようなボサ子なんて対象外でしょうし、わたしにはただの上官ですから。あまり話たこともないし」
 この前まではね――と、心で隠した嘘を呟いた。
「急いでいるので、失礼いたします」
 そういって、彼の腕を触らずに彼自身を避けて前へ進もうとしたが、そこで彼が勝ち誇ったようにまたニヤリ。
「どの女だってだめだよ。あの中佐は。過去にこだわっているんだから」
 彼を避けて行こうとした心優の足が止まってしまう。
 この人、中佐の過去を知っている? どこから、どこまで?
 そんな心優の心情を手に取ったことを確信したのか、また彼が心優の目の前に立ちはだかる。
「どう。俺と食事に行こうよ。教えてあげるよ」
 心優の中に凄まじい葛藤が生じる。こんな男と食事なんてまっぴらごめん。しかも、どうして心優に近づいてくるかも見え見え。心優に狙いを定めたのは何故かもわかっている。男慣れしていない心優をどうにかして手懐けて、城戸秘書室の情報を引き出そうとしている、それが狙い。でも、恋にも男にも疎そうなボサ子だかろうから直ぐになびくと思ったが、割と堅かったのが彼の誤算。この男はそう悟ったのか、最近は心優には近づいてこなかったのに。
 今日は心優が気になる、彼の後をついて行きたくなる餌を用意してきた。
 どうする。ついて行けば中佐のことを深く知れるかも。こんな男、襲ってきたら投げてしまえばいいんだし?
「おいしいトラットリアが港にできたんだ。最初に誰と行こうかなと思った時、園田さんが浮かんだんだよ。どう。訓練ばかりじゃなくて、ちょっと息抜きも必要だと思うよ。もう選手時代とは違うんだろう。楽しんだ方がいいよ」
 ものすごーく甘いお誘い。心優だって聞き心地がよくて、どうしてもっと心が許せる男性ではなかったんだろうと口惜しくなるぐらいに、お誘いが上手い。
「他の女性の方が喜ばれますよ。わたし、大食いなので」
「牛頬肉の煮込みとか、食べ応えあるし。どんなに食べてもいいよ。むしろどれだけ黒帯ちゃんが食べるのか見てみたいなあ」
 この人、たぶん。女性をいっぱい口説き落としてきた人なんだろうな……と感心してしまった。
 残念。わたしが城戸中佐の部下でなければ、ついていってしまったかも?
「あれ、いま可愛い顔したね。ちょっとはその気になってくれた?」
「いいえ。申し訳ありません。今日は父と会う約束をしているので」
 嘘だった。けど、横須賀のアパートに単身住まいをしている父とたまに会うのは本当だった。
 なのに少佐は引いてくれない。また心優の目の前、窓に手を突いて、今度は心優を囲うようにして押し迫ってきた。
 でも心優はドキドキなんてしなかった。城戸中佐の方が迫力があった。この人も女の子に人気がある少佐なんだけれど、男の色気を漂わせているエリートビジネスマンなんだけれど。でも、やっぱりこんなひょろ長い男はダメ。物足りない。
 少佐もついに焦れたのか、真顔になっていた。それには心優も息を呑む。
「わりと本気だよ。俺」
「ボサ子をからかって楽しいでしょう」
 彼がフンと鼻で笑う。少佐の手が突然、心優の背中、スラックスのベルトがある位置を軽くぽんと叩いた。
「高い位置にウエストとヒップがあって足が長い。上も均整が取れていて姿勢がよくて、身体全体にハリがある。いつもスラックス制服だけど、それが余計に全身を綺麗に見せている。お尻の丸さとセクシーさもよくわかる。肌も健康的で綺麗だ。そういうの男はみてんの、男が感じる色気は見た目の可愛さだけじゃない」
 ダメだ。もうダメ。心優の顔が今度は真っ赤に沸騰した。この人、本気で心優をみていたんだと。だからって『本気で好き』の本気ではなくて、『本気で一度抱く』の意味の本気。
 それでもボサ子ボサ子と笑っていた男が女として認めてくれた瞬間。これには心優も拒否していた心が萎えそうになる。
「猫みたいなツンとした目も可愛いし」
 中佐と同じこと言う!
「最初はボサ子だったけれど? いまは可愛い黒帯ちゃん。彼女ナシの男共が、ちょっと気にしはじめている。ボサ子ちゃんならその気になってくれるかもなんて大いなる期待を抱いてね」
「そ、そんなことはどうでもいいです。どいてください」
 でも少佐はもう心優を抱きしめるように間合いを詰めてきて、近づけてきた顔なんて、もう心優の黒髪にくちづけそう。さすがにドキドキしてきた。
「城戸中佐のこと、なにも知らないだなんてな。ミセス准将とあまり上手くいっていないんだろう? そのこと、秘書室の先輩達が誰も教えてくれないってことは、城戸中佐的『タブー』なのかな。御園の『タブー』のようにひた隠しにしなくちゃいけないことなのかな」
「タブー? 中佐の? 御園の?」
 本当になにも知らないから、そんな話に驚くと、少佐も目を見開いて仰天していた。
 そして急に彼が笑い出す。
「まじかよ! 本当に誰も教えてくれていないんだ! なーんだ、やっぱりボサ子ちゃんは秘書室的に『女性と仕事もできます、採用できます』というアピール的マスコットだったのかな」
 激しいショックに打ちのめされる。秘書室が初めて採用した女性、いままで実績もない事務官だった心優は採用はされたけれども、秘書室では言われるままに仕事をするだけの一年だった。城戸中佐と塚田少佐が中心にいて、あとはベテランの男性達がしっかりサポートしている。時に心優は自分は居るだけと思うことも多かった。護衛官といっても、この日本で上官が危機にさらされることなどほとんどない。なのに女の護衛官を採用し、女性の感性も大事だからとか、ミセス准将が来た時には同性の園田が接客した方がいいとか、それだけのこと。
 そんな心優の様子に井上少佐も気がついてしまう。
「俺が知っているのに、知らせてくれないってその程度なのかもな。可愛い黒帯ちゃんは、ミセス准将にだっこさせて安心させるお人形なのかもなあ。あんまり信じない方がいい。城戸中佐も塚田も、所詮は自分たちの地位を向上させるために誰だって利用するんだ。女の子から誘われて、気のいい顔をして自腹で食事に連れて行って人気取りをしているけれど、あれだって、彼女達のお喋りを利用しているだけだからな」
 まったくその通りだった。熱かった身体から、今度はひんやりとして汗が引いていく。その寒さに微かに震えた。
 そんな心優を覗き込んで、井上少佐は嬉しそうだった。
「辛くなったら、俺のとこおいで。助けてあげるよ」
 呆然としているのをいいことに、井上少佐は、心優の黒髪についにキスをしてしまう。
「また来るよ」
 今日はそれで満足したのか、彼は上機嫌で行ってしまった。

 彼がいなくなると、心優の目に涙が滲んでいた。
 他部署の男が、まだ一介の本部員に過ぎないあの少佐が、心優が知り得ない城戸中佐の過去を知っていて、しかもそのせいで『どの女も無理』と断言して、さらに御園のタブーだなんて心優がまったく知らないことまで彼は知っている。
 御園准将がこの横須賀でいちばん親しくしているのは、心優の大ボスの長沼准将だ。その直下にある城戸秘書室。そこの一人である心優が、他部署の男が知っていることを知らない、知らされていない。一年も経つのに。それはなにを意味するのか。井上少佐がいうとおり、ただ女性が一人いれば秘書室的にイメージがいいから? ミセス准将が扱いやすくなるから? それだけのこと?

「いけない。帰らなくちゃ」

 訓練で外に出た分、ランチタイムは秘書室の留守番を任されていた。
 早く帰らないと、兄さん親父さん達がランチに行けなくなる。
 涙を拭いて、その足を急がせた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ただいま帰りました――。
 心優が戻ってくると、兄さん親父さん達がホッとした顔になる。
「訓練お疲れー。留守番たのむなー。なにかあったら、カフェテリアにいるから呼んでくれ」
「はい。いってらっしゃい」
 先輩達が出て行った。城戸中佐と塚田少佐は一緒に会議に出て行ったようで、いまここにはいなかった。
 会議を終えたら、そのまま二人でランチタイムになるのだろう。
 デスクに心優ができる仕事が置かれている。その書類を開いて、整理をする。そしてデーターをパソコンに打ち込む。事務仕事を再開させた。
 たまに内線電話がかかってきて、対応してメモをして、伝言しなくてはならない先輩の机に付箋を貼っておく。
 泣いた後、ひとりでよかった。そう思った。静かな秘書室での留守番――。
 なのにドアが開いた。
「うーっす。お邪魔しますー」
 城戸中佐のように長身で逞しい体つきの青年が現れる。
 彼は制服ジャケットを脱いでいて、黒い肩章が縫いつけてある夏の半袖白シャツに、緩めた黒ネクタイという、ちょっと砕けた姿で現れる。
「あー、ランチタイムか。タイミング外したなあ。今日は園田さんが留守番? 城戸先輩は?」
 あの中佐を『先輩』と呼ぶ彼もまた、『パイロット』だった。
「鈴木少佐、いらっしゃい……あの、中佐は……」
 彼を見ていたら、また涙が出てきた。彼もびっくりして、秘書室のドアを閉め心優のデスクまで駆け寄ってくる。
「うわ、どうしたんだよ。なにかあった?」
 彼を一目見て泣いてしまったのは、訳がある。
 彼とはあることをきっかけに、懇意にしてもらっていた。なんとなく気が合う友人という感覚で、会えばいつも気楽に話せる不思議な関係を築いていた。
 彼は『鈴木英太少佐』。小笠原にある、あの『雷神』の現パイロット。しかも、たったひとりだけが獲得できた『雷神エース』の称号を持っている。
 トップパイロット同士で繰り広げられる『コンバット訓練』にて、誰も撃ち落とせなかった『最強パイロット』。本物のエース殿。
 ミセス准将がスカウトしてきたお気に入りで、弟分。御園に近い男とも言われている。
 そんな彼がやってきて、この人もいつもは親しくしてくれてきたけれど、心優が知らないことをいっぱい知っているんだと思ったら、もう泣けてきた。
「えー、えー、参ったな。俺が泣かしたみたいじゃないか」
 そんな強者パイロットの鈴木少佐が、心優の涙にあたふたしている。
「もう秘密の過去とかタブーとか、わけがわかりません。知らないふりって、知られたくないなら、わたしなんてもう余所に転属させちゃえばいいのに」
 いきなりこんなことを言いだしても、鈴木少佐にしてみたらなにが起きたのかさっぱりわからないだろうに。心優は親しくしてくれた彼だからこそ、つい抑えていた心情を吐露してしまう。
 なのに、彼がそこに反応した。
「タブーって。もしかして『御園のタブー』のこと? 誰かから聞いたとか? それとも聞きかじったけれど、聞きかじっただけだから周りがなにを話しているのか理解出来なくて辛いとか、そういうこと?」
 なにもかも察してくれたので、心優はびっくりして涙が止まってしまった。
 エースパイロットの勇ましい体格でデスクに腰をかけ、彼がため息をついた。
「園田さん、ここに配属されて一年だよな。そろそろだよな。俺も小笠原に行ったばかりの時、そのタブーってやつがチラチラ耳に入るようになってきた頃、すげえもやもやしたもんだよ。なのになかなか『事実』を知ることが出来なくて、『知りたいんだーー』と葉月さんに突撃して、大迷惑をかけたことがあってさ……」
「そうなんですか。鈴木少佐も、そんなことがあったんですか」
「うん。あった」
 もしかして、ミセス准将に近しくなる者が、一度は通る道? 心優は蚊帳の外にされているのではなく、ただその入り口に立つことが出来たということ?
 そういえば。この少佐は、この横須賀にいたパイロット。『城戸先輩』と言うだけあって、彼の現役時代を知っていることになる。しかも雷神! しかも御園に近い男! 彼に聞けば、なにかわかるのか――?

 

 

 

 

 

Update/2014.11.29
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