◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 10.そんなお猿も愛おしい。  

 

 初夏の夕は、いつまでも空が茜色で心浮き立つ。
 鍵を持ち、心優は初めて合い鍵で好きな男性の部屋に入った。
 この前と違って、夕に染まっている優しい空気。でも男の匂い。
「おじゃましますー」
 靴を脱いで、リビングまで。あまり使われていない様子のリビングには、よくあるローテーブルとソファ。そしてダイニングテーブルセット。家具は一般的で拘りがないようだった。
 散らかってもいないし、汚れてもいない。強いて言うなら、やはり仕事をした痕跡がどちらのテーブルにもある。
 キッチンも一般的で、普通に男の独身暮らしといったところ。でも、この3LDKの官舎にたくさんの隊員の家族が所狭しと暮らしているだろうに、独身の中佐が一人で借りられているのはとても贅沢だと思った。
 でもだからといって、若い隊員ばかりの寄宿舎では中佐ともなると気を遣わせるだろうし、外で民間の賃貸に住むよりは、基地の直ぐ側にある官舎にいる方が緊急時はすぐに動けるという利点もあるようだった。
 リビングからは、芝の団地群が夕に綺麗に染まる景色が見える。心優も沼津では官舎育ち。父が一軒家を建てるまでは、こんな官舎に住んでいた。
 でもこの独身男性が住まう官舎は、心優が兄達と暴れ回った家庭の雰囲気とはまったく異なる。
 ソファーに座って、しばらくその夕日を静かに眺めていた。ここで一人、城戸中佐は過ごしてきたんだと。一般的な味気ない独身男の部屋、でも彼のベッドルームはパイロットの部屋。
 もう一度見てみたいけれど『未練たらしい部屋』と言うだけあって、彼が自宅に留守番させているもう一つの心に勝手に上がり込むようで気が咎める。
 キッチンから、湯気がしゅこしゅこと噴いている音が聞こえてきた。誰もいないのになんだろうと覗きに行くと、炊飯器が動いている。
 予約炊き――している。急に生活感が見えて、一人で笑ってしまう。
 あのシビアな完璧室長が、ご飯を予約炊き。で、家に帰ってくると、体育会系のお猿になって食べているんだ――と。
 そこで鍵が開く音がした。
 お、来てる。
 そんな声が玄関から聞こえた。
 玄関廊下からリビングへのドアが開く。制服姿の中佐が現れる。
 アタッシュケースを片手に、立派な中佐の肩章、胸には色とりどりの階級バッジのキリッとした制服姿。黒いネクタイを弛めることのないシビアな男の顔で帰ってきた。
「先にお邪魔しておりました。お疲れ様でした、中佐」
「うん。お疲れ様。えっと、来てくれてありがとうな」
 室長の顔が、ちょっと崩れた。柔らかに笑ってくれる。――と、見とれていたら、もう真っ正面からぎゅっと抱きしめられていた。
「あの、……」
 もしかしてもうお猿さんスイッチが入った? 男臭い匂いがする制服ジャケットの胸元から中佐の顔を見上げようとしたら、彼の方が切なそうな目で心優を見下ろしている。
「あれから、ミユのことまともにみられなかった」
「そう、なんですか」
「裸のミユばっかりちらついて」
 えー、あんなシビアな出来る男の顔をして、頭の中では部下を見るたびに『裸にしていた』?
 やっぱりこの人、表と裏のギャップが激しいような気がしてきて、心優はまた呆気にとられただ彼を見上げるだけに。
 そんな心優の顔を見下ろしている中佐が、面白そうに笑った。
「このエロ上官と思っているだろ」
「そんなダメですよ。中佐ほどの秘書官が職務中にそんな妄想」
「でも、それって健全だろ」
 そういって、彼が心優の小さな顎を掴みあげた。そしてまた、有無を言わせないキス。
 彼の舌先を感じると、もう心優から唇をそっと開いてしまう。少しだけ彼がふっと笑った。この女、すっかり俺に墜ちたと思っているのかもしれない。それでもいい、その通りだから、心優も入ってきた舌先を受け入れて、小さな舌先を絡めた。
「いいな。この前より、甘い」
 この前は、この人にされるまま。ただ受けれて抱かれたから。これからは、心優も好きだってことをわかってもらいたい。
「もう、駄目だ」
 中佐から離れていった。お猿さん、今日は大事な話があるから我慢してくれたんだ――と思ったのに。また心優のカラダがふわっと宙に浮く。あの日とそっくり。また中佐殿に抱き上げられていた。
「俺のスイッチ、あれから入ったままな。もう頭から離れなくて離れなくて、」
 ああ、お猿さんになっちゃってる。心優はそう思った。しかもせいいっぱい仕事中は抑えて、室長の顔を必死で整えていたんだって。
 そんな中佐殿の目を見て、抱きかかえられたまま彼の首に抱きついて、心優からキスをした。
「中佐の腕の中にいると、わたし、本当に女の子みたい」
 長身で体格の良い元パイロットの腕の中、女としては少し大きめの背丈で鍛練されてきた心優のカラダは小さく華奢に見える。しかも、密かに憧れていた『姫様だっこ』をしてくれている。この前の夜だって本当に嬉しかった。お願いしてやってもらうのではなくて、ほんとうに軽々と彼から抱き上げてくれて――。
「なにいってんだよ。すっかり女の顔になっている」
 彼からもキスをしてくれる。ああ、もう……わたしもダメ。中佐の首にぎゅっと抱きついてしまう。
 だからまた、お猿さんにパイロット部屋に連れて行かれてしまった。

 夕闇のパイロット部屋。時々、上空を過ぎっていく飛行音。
 またお猿さんが心優のカラダの上を陣取って、ネクタイをほどき、シャツの前だけをザッとはだけさせたところで、もうシーツに寝そべっている心優に抱きついてきた。
「スイッチ切ってからだ」
 すっかり発情しているお猿さんは、もどかしそうにして心優のシャツのボタンを外している。
 胸が開くと、すぐに彼は肌に唇を押し付けてきた。
「あ、中佐――」
 幾つも落とされる柔肌へのキス。ミユの肌を愛撫しながら、男の手がブラをめくりあげ乳房を包みこむ。劣情を露わにした大きな手が柔らかに揉んでいる。
「はあ、これだよ。これ。やっと触れた」
 お猿の目が『おっぱい』を目の前にして、きらっと輝いている。
 ヤダ。そのきらっとした目は、格好いいパイロットの顔をしている時に見せて欲しいのに……。でもお構いなしにまた『いただきます』と、お猿がバナナを頬張るが如く、心優のピンクの胸先はぱっくり食べられてしまう。
「……っあ」
 やってることお猿で三枚目みたいな顔をして、でも、心優に与えてくれるその愛撫は大人の男だから成せるもの。ふざけた顔をしないでと言いたくなっても、カラダはじんじん感じさせられるので愛撫に溺れて許してしまう。
「あん、あっ。や、中佐……」
「ここで中佐は禁止な」
 ツンと尖るばかりの胸先を舌先で舐めながら、彼が言う。
「俺のこと、心優はなんと呼んでくれる?」
 はあはあと吐息を弾ませながら、心優も考える。『雅臣』だから……。
「ま、まさ……」
「却下」
 強く吸われて目をつむった。そんなに責められたら考えられない。そのまま喘いでいたい――のに。
「まー、君」
「やめろ、却下な」
 『マサ』も『まー』もダメなら、残っているのは。
「お、臣さん。オミさん……」
 残っているものだからとやっと呟いたのに、今度は返答がない。
「いいな。それ」
 にっと満足そうな城戸中佐が心優のベルトを外して、スラックスとショートを一緒に引き下ろす。
 彼もベルトを外している。お互いに制服の白シャツをはだけさせたまま重なり合った。
「心優」
 女を抱くのに真剣になった時の声が、そんな時は秘書室で聞いているクールな男の声で、心優はまた甘くほどけていく。
「臣さん……」
 なにかの飛行機がまた官舎の上を飛んでいく音。シャーマナイトの眼差しの男に抱かれている。
 まだ心は空を飛んでいる人が、写真の中にある眼差しで、心優を愛してくれている。
 今日はあの壁からこちらを見ている空の男と、臣さんは、心優の中ではひとつの男性になっていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 少しだけ微睡んでいたようだった。心が、忙しかった心も休息を求めていたのかもしれない。
 目が覚めると柔らかいタオルケットに包まれていて、心優は白いシャツだけを羽織った裸だった。
 部屋はもう暗がりの中。窓から街灯の明かりが、ほんのりと部屋を浮かび上がらせている。
 お猿さんが、臣さんは、もう隣にはいなかった。
 シャツの前を閉じて、心優はベッド降りて部屋のドアを開ける。
 リビングには灯りがついていて、彼もシャツと制服のスラックスの姿に戻っていて、ダイニングテーブルで書類を眺めていた。
「中佐」
 彼が振り返る。目が覚めた心優を見て、また優しげに微笑んでくれた。
「なんだよ。さっきまで、俺に抱きついて臣さん臣さんて呼んでくれて嬉しかったのに」
 まだちょっと恥ずかしい。抱き合っている時は、夢中になっていて、気持ちが高ぶって言えてしまうのに。
「やっとスイッチが切れたよ。またすぐに入りそうだけどな。そんな恰好でいられると」
 書類を閉じて束ねると、城戸中佐は椅子から立ち上がった。
「夕飯にしよう。服を着てこいよ」
「はい」
 お猿の欲望が消えたせいか、秘書室の男にすっと戻っているようにも見えてしまった。
 パイロット部屋に戻り、心優は服を着る。リビングに出ると、ダイニングテーブルにはもう夕食が用意されていた。
 いい匂い。カレーライスとサラダ。
「これ、臣さんがつくったの」
「おう。今週の作り置きな」
「自炊もされているんですね」
「少しぐらいは作れるようになっておかないと。いざという時の役に立つこともあるだろう」
 さあ、食べよう。城戸中佐に促され、心優もテーブルに着いた。
 『いただきます』。二人で一緒に向き合ってカレーライスを食べる。
「わー、辛い! でもこれぐらいの辛いの大好きです」
「そうか、良かった。男基準のカレーなんで、心優の口に合うかどうかちょっと心配だった」
「おいしいですー。臣さん、おいしいです」
 食堂の海軍カレー並のおいしさだった。
「飯五合炊いたから、いっぱい食えよ」
 いっぱい食えよ――なんて、笑っていってくれる男の人、初めてかも。心優は密かにきゅんとしてしまっていた。
 でもここでちょっと我に返る。
「わたしったら、本当に色気がなくてすみません。ホルモン焼きの次に、男性につくって頂いたカレーをおかわりできると喜んじゃって」
 目の前でカレーを頬張っている彼が笑ってくれる。
「どうして。俺はおまえの食いっぷり気に入っているよ。気持ちいいじゃないか。俺も遠慮なく大食いできる」
 こういうところ、確かに同じ感覚で気兼ねがない。
 だから心優も遠慮なく平らげて、遠慮なくおかわりをしてしまった。
 臣さん、『雅臣』は食後のコーヒーまで、心優に淹れてくれた。
 テーブルの上で優雅な手つきでコーヒーを淹れる姿は、基地で見せている秘書官の佇まいだった。
「秘書官になったら、お茶入れが厳しくなった。休日に練習したな。特にロイヤルミルクティーはうまく淹れられるようになっておかなくてはと思って」
 『ロイヤルミルクティー』。そのひと言が出ただけで、それまで心も身体も気持ちよくほどけていたのに、一気に心優は硬直した。
 そのお茶を好んでいる人が、うちの隊長室に良く来る。しかも、臣さんの様子を変えてしまう人が好きなお茶。
 心優を受け入れてくれた彼ならと信じて、思い切って尋ねる。
「ロイヤルコペンハーゲンのティーセットは、臣さんが揃えたんですよね」
 彼が黙ってしまった。でもカップにコーヒーを注ぎながら、今日は微笑んでいる。
「うん。あの人が本当に紅茶が好きで、夕方の終業時間を迎えて残務の時間になると、必ずラングラー中佐が淹れているそうだ。どこにいっても紅茶を飲みたがるらしい」
「……でも。臣さんは、いいえ、城戸中佐はミセスに会うと辛そうです。避けているようで、なのに、丁寧にもてなそうとしている」
「どんな客でももてなすのは常識だろう」
 でもそういって、彼が致し方ないように口元を曲げた。
「そうするしか、あの人に応えられなかったからだ」
 応えられなかった。そこに、彼を苦しめた事故が見え隠れしてくる。
 辛いところに、いまの心優はどこまで入っていいのだろう。それがまだわからない。
「事故で実家近くの病院に運ばれ、三日ほど意識が戻らなかった。目が覚めて足を見て愕然とした。すぐにわかった。『もう乗れない』と……」
 出来上がったコーヒーを彼が心優の前に置いてくれる。穏やかな食後を迎えそうな気持ちでいたが、心優も覚悟を決める。この人がどこまで話してくれるか、話せるのかわからないけれど、聞きたい。でも辛そうだったら、すぐに引こう。そう決めて耳を傾ける。
「意識が戻って直ぐに、忙しいだろうに御園准将が小笠原からすっとんできてくれた。嬉しかったよ。でも、辛かった。彼女も俺の足を見て、愕然としていて。まるで母親か姉貴のように俺にすがって泣き崩れた」
 雅臣も自分の目の前にコーヒーを置いた。深いため息をつきながら、額を抱えている。足をひょっこりと動かしながら椅子を引いて座ろうとしていた。
 やめた方がいいかな。心優は迷ったのだが。雅臣は椅子に座ると、心優を見ている。顔色がいつもと異なるが、目は心優が知っているシャーマナイトの目だ。
「甲板の無感情ロボット、若い頃からあの人はそう呼ばれている。空を飛んでいる時、無線から聞こえるあの人の声は抑揚がなく冷たい。感情を一切抑え込んだその声は、時にこちらの迷いを払拭させてくれる、気持ちをなくしてどんな過酷な判断を強いられてもその指令に従うことこそが『最大の使命で、それが防衛だ』と信じさせてくれる。俺達にとって、あの人の声と指示は最大の『後ろ盾』だった。もうその時、あの人の声はどんなに女性の声と違わなくても、女性の声には聞こえなくなる。機械にインプットされた声のようなもの。そして俺達も空の上で『戦闘機』という機械の一部になれる。それが、俺達を守ってくれている。そう思わせてくれる『無感情』。でも、彼女が誰にもできないほどに、機械になれるのは、それだけの感情と向き合ってきたからだ。そのロボットが、決して俺達に美麗な笑顔もみせず、泣き崩れもしない人が――」
 臣さんの目に、涙が滲んだのを心優は見てしまう。その男の涙は、心優の胸を貫いた。
「あの人が、俺達には甲板のロボットだったあの人が、俺を見て、ぼろぼろ泣いた――」
 彼が目の前で顔を覆った。その手の下から一筋の涙が落ちてきた。もう、心優も堪えられない。目頭が熱くなってきた。それだけ、この人の身に起きたことだと思うと哀しくなってしまうから。
「でも。それが俺の感情を余計に逆撫でした。……言って欲しかったんだ。いつもの甲板の冷たい女上官の顔で、『なにやってんの。こんなところで寝ていないで、早く帰ってきなさい』――と。なのに、あの人がパイロットの目の前で感情を露わにするってことは、『もう俺はパイロットじゃない。この人の部下でもなくなった』と思わせるに等しかった」
 徐々に見えてくる彼と、彼が心を預けて任せていた彼女との『決裂』が。心優は息苦しさを感じてきた。聞きたくないことを聞いてしまいそうな、そんな予感……。
「意識が戻って最初に側にいたのは実家の母親だった。戦闘機に乗れなくなると確信しても、まだなにもしらない母親といる方が良かった。でも、あの人は駄目だ。あの人が泣いたのを見たら、どうしようもなくなって……」
 そこで彼が口ごもる。微かに聞こえたのは『手のつけようがないほどに暴れた』だった。
 いつも冷徹に仕事をしている室長がそんなになるだなんて想像も出来ない――といいたいところだったが、心優にはわかる。暴れたくなるその絶望感。心優がそのベッドにいたのなら、沼津の母に泣かれるより、いつも厳しいことばかり言うコーチがやってきて涙を流してショックを受ける顔を見せられる方が『ショック』だ。それと同じ。空と甲板で結ばれていた関係だからこそ、そこで母親か姉のような人に子供のように癇癪を起こす。
「その時、御園准将が言った。コックピットは戦闘機の中だけではない、私と一緒に甲板で空を飛べばいい。私もそうだった。私も戦闘機に乗れなくなるとわかって、いまの貴方のように暴れて癇癪を起こして、夫を困らせた。空への感触はなかなか抜けない、私もいまだって抜けない。でも、いまは雷神のパイロットが私を空に連れて行ってくれる。甲板にいても同じ、コックピットと同じ緊張感で空に挑む。私の隣に来なさい――そう言ってくれた」
「そうでしたか。でも、あの、臣さんは……甲板に残らなかったのですね……」
「うん。甲板に行けなかったんだ」
 こんな時に、彼があの愛嬌あるにっこり笑顔を見せた。でも心優は逆に哀しくなった。その笑顔って、こんな時にあなたを隠すための笑顔だったのだと初めて知ったから。
「甲板に、行けなかったのですか?」
「うん。情けない話だが、怪我が治って小笠原に戻って、あの人と一緒に『指揮官』を目指そうとしたんだ。だけど基地から沖合にある空母へ届けてくれる連絡船に乗って訓練に向かう時、その船内で異様に吐くようになった」
 吐く? 海軍の船乗り飛行機乗りが、吐く? もうそれだけで『精神的なもの』だと心優にも察することができる。
「俺は飛行機に乗れなくなったショックで、他のパイロットを見るのが嫌で嫌で、そんな甲板になんか行きたくない――と心の奥で嫌がっていたんだろう。後でわかったことだ。その時は、甲板から絶対に離れてはいけない、准将の隣で俺も指揮官になって空を護ろうと気持ちを切り替えたつもりでいたはずなのに。心は体は嘘をつかなかったということだ」
 もう心優から言葉は出そうになかった。心優を現役から引退させた怪我では、そこまでのショックにはならなかった。心のどこかで『これで辞められる』と思って肩の荷が下りたと少しだけほっとした記憶が残っている。
 でも、過酷な飛行で三半規管を酷使するパイロットが、コックピットでは吐かないのに、小型の連絡船で吐く。それも毎回吐いて、甲板には立てなかったと雅臣が付け加えた。
「そして少ししてから、御園准将に言われた。『横須賀に帰りなさい』と。その時も、もう、……なんていうんだろう。あの悪ガキみたいな英太のことなど言えないほど、あの人につっかかたんだ。ありったけの暴言を吐いていたよ。でもそんな時こそ、あの人は怒りもせず、取り繕う笑顔も見せず、涙も見せず、甲板にいる無感情の真っ白な顔でただ俺の暴言をじっと受けていた。最後の通告も甲板にいる指揮官の声で言った――『いまの貴方には無理だから、陸に上がりなさい』と。つまり、空の男として生きていくことをあの人に止められたんだ。そして、切り捨てられた。冷たい目で俺を見て、あの人は背を向けた。横須賀の長沼大佐の補佐官として辞令がでて、俺とあの人の半年が終わったんだ」
 切り捨てられた。期待に応えられなかった。
 やっと、この人がミセス准将が来ると、どうにも割り切れないような頑なな態度になる訳がわかった……。
 いままでのあの人のミセス准将に対する不可思議な接し方を思い出しても、すべてがそんな哀しい出来事を挟めば理解できるものばかり。
 秘書官として、あの人に上等のミルクティーでもてなすことで償っているの? 空部隊本部の秘書官として、陸から空の男達と准将を守るために『室長』を目指したの?
 もうそうとしか思えなかった。そして、やはり心優は涙を流していた。
「ほらな。そうして、泣かれると……ちょっとな、辛いんだ。俺も。俺が辛いんじゃなくて、その彼女にも重いものを感じさせてしまうのが、辛いんだ」
「どうして。知らなくちゃ、臣さんと一緒にいられないじゃないですか。隠されても、臣さんはどこかで一人だけで泣いていただろうし。そんな時、そこにわたしの存在がないだなんて、嫌――」
 もう泣いているのは心優だけで、彼は穏やかに微笑んでいるだけ。でも目は悲しみに暮れている。
「だから。心優に近づけずにいた。きっと心優は俺の気持ちをわかってくれると思っていたから、女として抱いた後、これからもずっと俺のことを知って心優は俺に共感して泣いてくれるだろうけれど、ぐずぐすしている俺を見て辛く思うことも多々あるだろう。そう思ったら、『また俺と一緒にいて欲しい』なんて甘えているようで言えなかった」
 それがあの夜から近づけずにいた訳だったと、心優も初めて知る。
「わたし、そんな不格好な男の臣さん、嫌いじゃない。室長の城戸中佐も素敵だと思っているし、お猿さんも『けっこう好き』……」
 『お猿さんも好き』と言ったところで、彼が目を丸くしている。
「臣さんのそばにいることで、重荷になっているだなんて思わないでください。あの、一人になりたい時は言ってください」
「ありがとう、心優……」
 やっと彼がほっとした微笑みを見せてくれた。それだけで、心優も嬉しくなる。
 完璧な室長になるまで、たった一人で彼はそれだけのことを抱えて目指してきたことがわかった。これでは、なかなか恋人もできなかったのではと思う。
 だったら。心優は何故――かといえば、境遇が似ていたから、彼の隙にすうっと入って行けただけなのかもしれない。だからボサ子でも、この人が興味を持ってくれた……。それが少し哀しいような気もしたけれど、それでもいい。そんなキッカケでもいい。
「でも、臣さんは時々長沼准将と、横須賀で配備している空母艦へ行くことがありますよね。それは大丈夫なんですね」
 空部隊本部隊長だから、大ボスの長沼准将は時々空母の甲板訓練を監察しに行くことがある。その時、雅臣も付き添いで沖合にでかけている。
「ああ、うん……。それは大丈夫なんだ。たぶん、いまなら小笠原の訓練空母にも行ける。精神的にきていたのも、あの時だけで。いまはもう吐かない」
 それを聞いてほっとする。そうでなければ本当に空をサポートするなんてことは出来ないはずだから。
「ミセス准将にも、酷い態度をとったことは謝罪してある。許してくれたよ。『あの頃の私にそっくりで、痛いほどよくわかる。もう気にしないで、いま出来ることだけに集中しなさい』とね。陸からパイロットを守って欲しい、そう託された。だから……」
 だからこの人は、完璧な秘書官になることで、御園准将に応えていると言いたいようだった。だからロイヤルミルクティーは完璧に淹れたい。そんなことでしか応えられないという彼の気持ち。
 でも、二人はそれからもギクシャクしている。あの奇妙な空気をつくってしまい、周りもそれに気遣っているというのが現状のようだった。
 しかし心優はそんなミセス准将が、彼の気持ちを受け止めてくれている『私もそうだった』という下りが気になった。
「ミセス准将は、結婚でパイロットを引退されたとお聞きしていたのですが。ご自分で決めて、コックピットを降りたのですよね?」
 どのように彼の気持ちを理解しようとしたのか、心優は気になった。自分で降りたコックピットと、突然の事故で奪われたコックピットでは、辞めた気持ちに落差があり過ぎる。心優はそう思った。
 彼の目がまた哀しみに沈んだ気がした――。コーヒーを一口飲むと、彼が教えてくれる。
「女性だから、子供を産みたいと望むようになって、彼女から降りると申告をしたそうだ。その時から、いまのご主人である御園大佐と恋仲だったようだから。女性としての幸せを初めて望んだと思う。十代の時からコックピット一筋だった女が、それよりも女としての幸せを選ぶ。あの人にとって、本当に幸せな時だったのだろう」
「それでは、臣さんがコックピットを降りた理由と正反対の引退理由だと思いますけれど――」
 どこが『私もわかる。貴方の気持ち』なのだろう? 少し酷いと思った。だが心優はそこで、先ほど、彼が話していた中で『私も暴れた』と言ってくれたというミセスの言葉を思い出してしまう。
「正反対ではない。俺と同じだ。故意にコックピットを奪われたんだ、あの人も」
「よく、わからないのですけれど――」
 自分から女の幸せを思い描いて降りたのに、どこが奪われたと? 
「俺は、足。あの人は、胸のど真ん中だ」
 雅臣が、心優の目の前で、胸を拳でドンと叩いた。
 『え?』と、心優は固まった。
「刺されたのは、この基地で。俺達と同じ海軍の傭兵に、直行便ゲートの駐車場で刺されたんだ」
 『駐車場』――。やっとその言葉とミセス准将が結びつく。
「どんなに怪我をしても、コックピットに復帰することが出来る怪我もある。でも、俺とミセスは駄目だった。戦闘機は特に気圧と重力がかかるので、少しのリスクでも持ってしまうとパイロット失格と弾かれる。結婚をして出産をして、子育てが落ち着いて。女性なら一時その場を離れることがあっても、復帰する可能性もあっただろう。ミセスもそうだ。自分の都合で一度はコックピットを降りる。フライトチームの権利を返す。誰かがそこに穴埋めにやってくる。それでもいつかは復帰すると誰もが思っていたと思う。でも、それをあの人は、お家の事情に巻き込まれ一番立場も力も弱い『末娘』として狙われて殺されそうになった」
 それが『パイロットとしての致命傷』だった。そう雅臣に教えられる。
 それが御園のタブーに繋がること? 
 そして心優は大ボス長沼准将の言葉を思い出す。
 『彼女は過酷のひとことに尽きる女性だよ』。

 

 

 

 

Update/2014.12.5
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