◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

TOP BACK NEXT

 12.恋は全敗ですか? 室長殿  

 

 ギュウン――ゴゥ――! もの凄い音速飛行音で心優は起きあがる。
 素肌にタオルケット、心優の乳房の上を滑り落ちていく。
 そんな自分の有様を見て、はっと我に返る。タオルケットを肌に引き寄せ、胸元を隠した。
 夜明け。海が近いこの官舎の窓は、葡萄色に染まり明るくなってきている。
「……うん、いまの……ホーネットだなあ」
 心優の直ぐ側に、熱い身体を横たえている人が目を覚ました。
 寝たまま黒髪をかいて、ベッドテーブルに置いている腕時計に手を伸ばしている。パイロット用の腕時計をまだ愛用しているよう……。
「スクランブルか、……気をつけていってこいよ……」
 窓に向かって敬礼をして、また寝息をたてている。
 心は傷ついても、パイロット。コックピットを降りてもパイロット。他のパイロットを見たくないと拒絶した時期があったとしても、いま彼は陸からパイロットを守っている。
 彼も裸のまま眠っていて、心優は素肌の逞しい背を見て静かに微笑む。
 大丈夫。いまはもう、この人はちゃんと大好きな空と向き合っているから。
 あとは、ミセス准将とのわだかまりを完全に消せたら、本当の笑顔になれるんだろうけれど……。
 雅臣のパイロット腕時計は、朝の五時を示している。心優はそっとベッドを降りる。
 昨夜、『御園のタブー』の話を聞いて、いろいろと解釈しようと雅臣に質問したり、丁寧に応えてもらっているうちに夜が更けた。
 大変重い話で、気が沈んだ……。その後、寄宿舎に帰ろうとしたけれど、まだ気が済まなかったのか『お猿さん』に捕獲され、ベッドという名のお猿の住処(すみか)に連れ去られる。
 また彼がふざけて、心優の服を脱がして。でも、真っ直ぐな熱い睦み合いに、心優も帰るという意志をなくしてしまう。
 この前よりも、心優は大胆だったかもしれない。恥ずかしいと思っていたこと、この人になら見せてもいい、やってみせてもいいと思えた。
『大丈夫。心優は、かわいい女だ』
 はち切れそうな塊を三度、彼は心優の中で放った。
 そこまで至るのに夜中になってしまい、もう心優は帰ることが出来なくなった。
『いやー、流石に疲れたー』
 三十半ばにして、なんというタフな人なんだろうと感心してしまった。
 やっぱりお猿だ、お猿さんだと思った。でも、そんな自分も意外と平気。疲れたというより……、もの凄い充足感で気が抜けたといった方がいい。朝になったいま思い出しても顔が真っ赤に熱くなるぐらいに、彼に抱きついてあんあんしていたし、夢中になっていたし、すっごく気持ちよかったから。むしろ、もう一回ぐらい平気そう?
 最後に、彼が心優の背中に抱きついて眠りに落ちた。そんな先に寝付いてしまうのは、三十半ばの男らしい気がした。
 彼の寝息が心優の背中をくすぐった。心優の腰に巻き付いた逞しい腕、ぐっと自分の身体に抱き寄せてぴったりとくっついて彼は眠った。
 まるで心優を帰さないかのような、そんな抱きつきかた。夜中でも寄宿舎には帰れるけれど……。なんとなく彼の寝息を大切に感じていたら、自分も眠ってしまったようだった。
 目覚めると、彼の腕はほどけていた。だから、心優はそっとベッドを降りて、寄宿舎に帰ろうとする。
「帰るのか」
「はい」
 背を向けて眠っていた彼が、タオルケットに下半身を包んだまま寝返った。鍛えている肉体が朝の光を受けて、筋肉の陰影が色濃く刻まれる。腹筋は心優より割れていた。
「中佐はまだ、寝ていていいですよ」
「あ、中佐といったな」
「あ、臣さん、でした」
 でも彼が致し方ないように微笑む。
「でも、もう園田の顔だな。……昨夜も、楽しかったよ。また来いよ」
「はい」
 下着を拾って身につけていると、また官舎の上空に音速の飛行音。
「御園のタブーのこと、気をつけてな」
「わかっています」
 気が沈んだ重い話を思い出しながら、心優はシャツのボタンをとめる。
 雅臣も起きあがって黒髪をかき上げている。ベッドヘッドにもたれて、彼がまた基地で見せている寂しそうな目をしている。
 その視線の先は、また『あの人』だった。
 恋とか憧れているとか、そんな『恋する女性という対象ではない』のに、心優の胸につきんとした痛みが走った。
 恋とか、欲しい女性とか、そんな対象ではなくても、敵わない存在ってあるんだ――。心優は初めて、女の苦さを噛みしめていた。

 もうすぐ夜が明ける。その前に心優は人目を避けるようにして、官舎を出て行く。基地の中にある寄宿舎へと帰る。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 水平線からすっかり太陽が顔を出して、明るくなった道を歩く。
 警備口でIDカードを出して、基地の中に戻る。
 寄宿舎は基地敷地内の端にあって、そこからは官舎の団地群も見えるし、例の『駐車場』も近くだった。
 直行便ゲートの駐車場。そこで、十数年前、御園葉月准将は傭兵に胸を刺され、危篤状態に陥った。
 犯人の男は、この連合軍の本部がある『フロリダ本部』の中央で、何度も指令を受け任務をこなしていたフリー契約の傭兵だった。
 その男と、ミセス准将の間に、どのような関係があるのか。その話はとても長かった。
 だけれど、心優が聞いた限りでは、城戸中佐が説明してくれた通りに、ミセス准将にはなんの非もなく『完全たる被害者』だった。なのに何故、彼女がターゲットにされたのか。御園という軍人一家がもたらした栄華の影を、彼女が、小さな葉月さんがその身に受けていた。まるで悪魔に気に入られた生け贄のように思えるほどに。
 とても酷い話であり、そして……その事件が何故起きたかを聞くと、『タブー』と呼ばれる理由も頷けるもの。
 御園のタブーは、イコール、『面白半分に噂で話したものは、横須賀基地に害するもの』と認定されるほどのものだった。
 つまり『基地にとっては、都合の悪いもの。出来れば波風を立てたくないもの』であった。
 そこに『横須賀訓練校の不祥事』が絡んでいた。横須賀訓練校が学生の不祥事を隠そうとしたが為に起きた事件。その不祥事に遭遇し正当な裁きをと立ち向かったのが『御園皐月』という女性教官。御園葉月准将の、姉上だった。

 

 ミセスが基地内で刺されたという事件は、当時、新人隊員だった城戸中佐もリアルタイムで耳にしていた世代で、基地内が騒然としたことを良く覚えていると教えてくれた。
 新人隊員も驚くその事件。その時、大勢の隊員が御園葉月大佐が刺されたことを、記憶している。
 人の口に戸口はたてられない。上官から部下へ、そして先輩から後輩へ。どうしても『事件』として語り継がれていく。だが問題は、『何故、御園准将が傭兵に狙われたか』。御園家の令嬢だから、大佐嬢だったから、その若き権威を恐れてというものではない。なのに狙われてしまったその『原因』を探ると、横須賀基地のタブーに触れることになる。
 淡々と話してくれる臣さんの言うことを、心優も心を乱しながらも静かに聞き続けた。
 傭兵の犯人は逮捕され、裁判も終え、死刑が確定し、その刑も執行され事件は完結したとされている、ここまでは誰もが耳にしていること。
 頬が冷たくなる。血の気が引くとはこのことか。あの優雅な女王様は、やはりただ事ではない人生を生きていた。
 危険を顧みず、フロリダの傭兵部隊の危機を救うために、単独潜入をしたとか。そのテロの主犯格である男を討ち取るために、自らが的になり、犯人ごと撃ち抜くようにスナイパーに指示をしたとか。そんな噂は心優も聞いている。
 でも、それらは遠い映画の世界のように実感が湧かない。でも、この基地内のすぐそこで、そんな血なまぐさいことが、よく会う女性の身の上に起きていたという衝撃。
 初めて、自分は『軍人なのだ』と思わされた。軍人である以上、なにかの責任を負えば、命の危機も伴う。そんな職業なのだと。
 だが、それは少し違っているようだった。青ざめている心優を宥めるように、雅臣がそっとおかわりの珈琲を入れてくれた。
『これは箝口令がでているので、園田にもその心構えで、この話を知り、気を付けて欲しい』
 彼はそう付け加えて、続けた。
 箝口令が出ているのは、御園准将を刺した傭兵が、元は横須賀基地の本部員であって、軍人だった当時の横須賀訓練校で起きた『不祥事』の調査に絡んでいたからだった。
 元々を辿れば長くなるので――と城戸中佐は詳しくは省略するとしたが、御園准将が刺されたことを紐解くと、どうしても横須賀基地にとって探られては痛いところに辿り着くのだと言った。
 だから、ミセス准将が刺された事件については話題になっても『深入りはしない』というのが、基地の中では鉄則になっている――とのこと。
 恐ろしいタブーだと解った。でも心優は冷たくなった手先をぎゅっと握りしめ、思い切って尋ねる。
『准将がおっしゃられていた、駐車場までもが、私を一人にするのか、というのはどういう意味だったのでしょうか』
『あのような酷い事件現場を知っている人間は、もう私一人になってしまった……と、准将はよく言っている』
 城戸中佐は辛そうに続けた。
『その傭兵は、ミセスの姉上も殺している』
 心優の心臓が大きくゆっくり動いた。それはとても痛いもの、苦しく感じるもの。そのフロリダ本部が契約していた傭兵の残酷さを目の当たりにした気分。
 しかもそれだけではなかった。
『ミセスの姉上は横須賀の訓練教官だったそうだ。祖父と父親譲りで武道に長けていたようだ。その時に、上層部が隠そうとした不祥事を挟んで、御園の長女と調査命令の密命を受けていた傭兵の間で、不祥事の扱いに行き違いがあったらしく、対立することになったそうだ。そのせいで、傭兵が上から受けていた調査が失敗した。仕事に汚点をつけた姉を貶めようとしたその傭兵は、横須賀基地の学生をそそのかし、姉を襲わせた。その時、御園准将も監禁されている。彼女が十歳の時だ。姉は……男達に弄ばれたようだが、葉月さんは姉にいうことをきかせるための『人質』に使われたらしい。姉をいたぶることで報復を楽しんだ傭兵は、最後は姉の目の前で妹を刺殺するという冷酷な犯行も実行している。御園准将はその時に、一度、その傭兵に殺されかけている」
 また、とんでもない話が出てきて、心優は気が遠くなりそうになった。十歳の少女が監禁? しかもお姉さんが酷いことをされるための人質になって、それを目撃して、最後は姉をより哀しませるために、妹を目の前で殺そうとした?
『その時のショックが大きく、御園准将は主犯格だった傭兵の顔をすっかり記憶していなかったらしい。長い間、姉を襲った学生がいちばんの悪だと思って生きてきたそうだ。なんの因果かわからないが、恋人だった御園隼人大佐とでかけた旅行先で、その男に遭遇してしまったらしい。だが、ミセスはまったく彼のことを覚えていなかった。でも、男は記憶を取り戻す前にと口封じに、再度、大人になった彼女を襲ったのだと――』
『二度も、同じ男にミセス准将は襲われたということなのですか』
 そうだ、と、城戸中佐が重苦しく頷く。
『傭兵が敵視した姉は殺され、悪だと思っていた学生達も口封じに傭兵に殺され彼等も被害者だったと知り、そして傭兵を御園家が総力をあげて確保して警察に突き出した。そして真っ当な償いの道を行かせた先で、真っ当な償いとして、男は死刑執行され、御園准将より先にこの世を去った。だからなのだろう。長沼准将にも彼女は時折言うそうだ。いちばん小さかった子供の私だけが、あの悲惨な事件を記憶していると。自分が刺殺されそうになった現場であった駐車場がなくなる。現場までもがなくなる。姉と監禁された別荘もいまは取り壊されて更地になっているとか。だから、『一人にするのか』と言っているのだと思う……』

 御園のタブーは、横須賀基地の不祥事を原点に、正義を信条とした女教官と、任務の徹底遂行を信条をした有能隊員から起きた軋轢。
 上層部が知られたくないことが含まれ、ましてや『犯罪者』と知らずに任務の要請をし長年契約していたフロリダ本部の落ち度にも触れる。
 なによりも。まだ御園の力を持っていたい本部が、御園姉妹への恥辱的な仕打ちを面白半分に噂する者が、軍のバランスを崩す要因になるのならば排除するという方針らしい。
 大抵の隊員は『ミセス准将は、この基地で傭兵に襲われたことがある。余罪があった傭兵はそれをきっかけに逮捕され死刑となった』とまでは知っているが『でも、どうしてそんな酷いことに。ミセスはどうして襲われた?』という最深部に疑問をもつことを『タブー』とされていた。
 深く知るものは限られている。知った者は、口を閉ざすか、上手く流して気を逸らすことを必要とされる。
 『その話には深入りしない方がいいよ。横須賀基地にいたいのなら。ここから出世をしたいのなら。飛ばされたくないのなら』。そう伝えていくのが、御園のタブー。

 初夏の爽快な光の中、心優が見つめている向こうに、直行便ゲートの駐車場が見える。
 いま、心優の前方にその駐車場が見える。どこでミセス准将は刺されたのだろうかと、遠く見つめる。
 あまりにも身近すぎて、気温が上がってきた早朝でも、心優は少し寒気を感じて震えた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 初めての『朝帰り』だった。まだ宿舎の女性達が眠っている間にシャワーを浴びて、新しいシャツに替え、食堂で朝食をとって出勤をする。
 彼ももう出勤していた。パリッとした佇まいに戻っていて、心優がずっと見てきた大人のビジネスマンの横顔。本当はずっとその横顔に憧れていたんだけど。思ってもいなかった『お猿の本性』が予想外でびっくり、でもあれが心優の前だけだと思うとなんだか愛おしい。
 そのお猿な臣さんを思い出して笑みが滲み出そうになったが、心優はここは秘書室とグッと抑えた。臣さんも、完璧にお猿を封印しているのはすごいななんて、変なところに感心してしまった。
 いつもの事務仕事をする午前。それを終えると、正午のラッパが基地中に響く。
 今日の留守番を残して、事務処理が終わった人からランチタイムに入っていく。
 心優もあと少し。ちょっともたついてしまったのは『朝帰り』のせいかもと、反省しながら仕上げる。
「園田、今日は一緒に行こう」
 心優のデスクが片づいたのを見計らったようにして、隣の席にいる塚田少佐が立ち上がっていた。
 教育係なので良く一緒にいるけれど、今日はそれぞれの仕事をしていたのに……。
「時間がなくなるだろう。早くしろ」
 少しヒヤッとする。塚田少佐の目が、いつもの冷たい顔にぴったりの冷ややかな眼差しになって、上から心優を見下ろしていたから。
 そして、心優もその理由を見つける。『臣さんとわたしのこと』だと――。

 

 いつもはカフェテリアで定食+αを食べているはずなのに、今日は塚田少佐が『ご馳走する』といって、売店にある幕の内弁当を買ってきてくれた。しかも『カツサンド付き』。心優の+αという食事スタイルをちゃんと覚えていてくれて、さすが補佐官。
 それを持って、隊員達がバスケットなどを楽しむグランドのベンチに連れて行かれる。
 初夏の緑の風が清々しいグラウンドの片隅で、塚田少佐と幕の内弁当を開けて、静かに食べる。
「悪いな。付き合わせて」
「いいえ」
 冷たい顔をしている冷静沈着な塚田少佐。でも眼差しは柔らかで、言葉の端々に気遣いや優しさを感じる人。もういつもの安心できる先輩に戻っていた。
 でもなにも言わない。『時間がなくなる』という気迫で心優を連れ出したくせに。だから、心優から切り出してみた。
「あの、城戸中佐とのことですよね」
「……ああ、そうだ。いつからだ」
 その問いに、心優も迷わずに答える。
「城戸中佐が、ミセス准将の話をすると、わたしだけ秘書室に残した日です」
「やっぱり。その日か……。もしかして、城戸中佐から強引だったとか……」
 とても聞きづらそうだった。あの塚田少佐が恥ずかしそうに顔を伏せている。ちょっと見ていられない、らしくない先輩の姿だった。でも心優はそんな彼を見なかったふりをして、何事もない顔で続ける。
「いいえ。たぶん、中佐もまったくその気はなかったのに、そうなってしまったのだと思います。ミセスの話をしてくれるといったのに、パイロットだった時の話をしてくれて。それだけで気が滅入ったようで、その気分のまま元上官だったミセスの話はしたくなかったみたいです」
 それから心優は、ホルモン焼きを食べにいって中佐がとても楽しそうだったと話した。それで中佐から心優に触れたから、そのまま……と。
「ごめんな。プライベートの話なのに。あれこれ聞いて。でも、中佐と付き合うにはちょっと気にして欲しいことがあって」
 気にして欲しいこと? 事故のことなのかなと心優は首を傾げた。
 すると塚田少佐が、本当に困ったような顔で暫く唸っていたかと思ったら、やっと意を決したのか心優を見た。
「あの人、絶対にフラれるんだ。もう100パーセントな」
「ひゃく、ぱあ……?」
 目が点になった。でも、塚田少佐は心底案じていると言わんばかりに、心優に詰め寄ってくる。
「いつもそうなんだ。もって三ヶ月。絶対に女から中佐をふる。どうしてかわかるか?」
「わ、わかりません?」
 今度は肩をがっしり掴まれ、もう塚田少佐の眼鏡が心優の真ん前に。もの凄く怖い顔。どうしてそんな力んでいるのかわからない。
「あの人、見た目は男も女も惚れ惚れするほど男前の『元エースパイロット』だけれど、プライベートではめちゃくちゃ『三枚目』なんだよ。女の扱いが悪いってわけではないけれど、女が求める『いい男』と、中佐が思っている『いい男』にかなりの差があるらしくて。女が幻滅するらしい」
 え、そんなこと? というか『それが臣さんじゃないですか』と、笑い出したくなった。でも塚田少佐は真剣で、まだ心優に詰め寄ってくる。
「園田はどうだった。がっかりしなかったか? 秘書室にいる大人の格好いい男の人って思っていただろう? 二人きりの時、あの人は園田の前では、そうして格好いいままか?」
 正直、補佐の少佐がそこまで心配しなくてもとか、そこまで答える義務があるのかと、ちょっと疑問に思った。
 だけど、決定的なひとことを塚田少佐が言い放った。
「猿みたいで幻滅しなかったか」
 もう心優は呆気にとられていた。それが塚田少佐の心配事?
 ついに心優は笑い出す。
「そんなことですか。というか、猿だから猿だから――と中佐から言っていましたよ」
「それだけ気にしているってことだろ。いつだったか。あの人をフッた女の子に、俺からそっと聞いたことがあったんだよ。中佐があまりにもふられるから、顔を合わせた時に何気なく『将来も有望だし、元エースでもてるし、どうして別れたんだ』と。そうしたら、その子が言ったんだ。『プライベートではただの猿』って……」
 あー、やっぱり。過去にいわれた言葉だったんだと、心優はがっくり項垂れそうになった。
「その猿のぐあいがわからないんだけどな? つまり、スマートな秘書官だと思っていたら、二人きりの時は、男臭いというのか、つまりロマンティックには程遠いとか」
「あ、それ。確かにあります。わたしも、そういう空気にはならない女ですから。最初がホルモン焼きですし、わたし、ライス大を二杯食べると言ったら、中佐が引いていたし。それに、昨夜は中佐がつくった男カレーをおかわりしました。米五合炊いているって中佐がいうから、二人で四合食べたと思います」
 塚田少佐が静かになった。どうしたのかと、眼鏡の彼を見ると、今度は彼の目が点になったかのように絶句している。
「いつもそんな感じ?」
「いつもって。ホルモン焼きの日と昨日だけですよ、二人きりで会ったのは。昨日も、わたし達はムードがないねと笑っていましたけれど」
 『心配して損した』と、眼鏡の少佐が心優の目の前で、がっくり肩の力を抜いた。
「園田は……。憧れないのか、ロマンティックな雰囲気」
「そりゃ、少しはありますよ。でも、そんなのにこだわって、それがないからと拗ねている暇なんてなかったですからね。まずはどんなに女らしくなくても、目の前にいる上位選手を倒すこと。その為の鍛練のみでしたから。今更、なにがなんでもロマンティックなんて望んでいませんよ」
 食べかけのお弁当を、心優はぱくぱく食べ始める。塚田少佐がやっと『そうか』と、いつものちょっとだけ笑う顔を見せてくれる。
「でも、わたし達、体育会系の女子にだって憧れはありますよ。ただ、優先順序が『世界』とか『優勝』とかより低いだけなんです」
 やっぱり『姫様だっこ』嬉しかった。女子としての気持ちだって本当はある。臣さんだって、女の子への気遣いちゃんとある。
 ほかの綺麗な女の子達って、理想が高いだけなんじゃないの? 臣さんに、そんな高望みを押し付けていただけなんじゃないの? とちょっと腹が立ってきた。
 でもわかってきた! 雅臣が『俺は猿だから』と気にしたり、もてるのに恋人がいなかったり。恋人がいないのに、エッチは情熱的で上手なのも。三ヶ月も保たずにふられて、でももてるから次々とお相手が出来て、でもふられて――。それを繰り返していたら、それはエッチも上手なわけだ! と、納得。
「採用して正解だったな。実は、俺なんだ。園田を面接の候補に選んだのは……」
「え! そうだったんですか? よくわたしなんか見つけましたよね」
 びっくりした。どうして秘書室に抜擢されたのか。でも心優には、まだ選ばれたことは不思議でしかない。
「園田の親父さんは、月に一度、訓練校生以外の隊員向けに道場を開いてくれているだろう。俺、あれに時々お世話になっていたんだ」
「そうでしたか。確かに、第三土曜日でしたっけ? 訓練校の道場で教官仲間と隊員の護衛強化を狙った稽古をつけていましたね」
「その時に、教官に『お嬢様も空手をされていましたよね。現役は引退されたようですけれど、どうされているのですか』と聞いたら、事務官をしていると聞いてびっくりして。まさか事務官を目指して、同じ軍隊にいるとは思わなかったものだから。ちょうど、長沼准将の意向で『女性を採用してみよう』ということになって、城戸中佐と候補を探していたから、直ぐに調べて候補者リストに入れたんだ」
 そんな巡り合わせ。やっと納得した。
 でも……、心優は少し申し訳ない気持ちもある。
「わたし。現役引退をしてから、なにもしていなかったんですよ。護衛官なんて男性の仕事だと思っていたし、仕事も適当にしてきたんですよ」
「でも。道場には通っていた。身体を維持する程度にね。それさえあれば、『生き返る』と思っていた」
 この人が、心優を信じてくれたことから始まっていたんだ――。初めてそれを知る。
「感謝いたします。護衛官としても、秘書官としても、やり甲斐を覚えました。ここにこなければ、本当にただただ毎日を流していくだけで、わたし……どうなっていたか」
「城戸中佐を見たからだろう? そして城戸中佐も、園田にはどこか心を許して癒されている気がする。そんな相乗効果を生む気がしたよ。長沼准将も候補リストの最終チェックで、いちばん気にしていたのが園田だった」
 『ふうん。この子、面白いね。気になるな』。
 あの大ボス殿が、そう言っていたことも心優は初めて知って驚くしかない。
「こうも言っていたかな。園田は、ミセス准将の若い時に似ているってね。俺にはその感覚がわからないけれど、若い時から一緒だった隊長がそうおっしゃるから、どこか似ているのだろう」
「まさか! あんな綺麗な女性とどこが?」
「あの人も、コックピット一筋で、お家柄武道も嗜んでおられたり、『女らしくする』は結婚後から意識するようになったようだよ」
 はあ、でも。あの方は生まれながらにして麗しい雰囲気をお持ちだったようだから、だいぶ違うと思うと心優は真に受けなかった。
「そこで。長沼准将が言ったんだ。この子と塚田を組ませて、塚田をダウンさせることが出来たら最終候補に選んでおくように――ってね」
 それを聞いて、心優は面接の日を思い出した。
「あ、それで。投げるだけの面接で終わってしまったんですね!」
「まさかの一発だったけどな。でも長沼准将はそれを知って見事だと喜んでいた」
 やっとあの時の不可思議な面接の真意を知って安心した。城戸中佐と塚田少佐が思いつきのように言いだしたことだったが、実際は、大ボスの長沼准将からの意向だった。だから心優が一発でダウンさせた後、無言で二人が顔を見合わせ頷いて、すぐに面接が終了してしまったのだと解った。
 でもどうして最終候補から、ただ一人の本採用に決定に?
「城戸中佐だよ。面接で直接、園田に会ってから『俺もあの子が気になる』と言って、それまで『女を採用なんてめんどくせー』とか言って、俺と兄さん達に任せっきりだったのに。最終候補に園田が入ったら、他の女性の経歴もきちんと見るようになって。真剣に話し合いをするようになった。その上で、秘書室全員の総意で園田になった。長沼准将も一発OKだったよ」
 心優の目に、涙が滲む。そして、心が柔らかくほぐれていく。『わたしは、お人形ではなかった。ちゃんと選んでもらえていた』という安堵感が襲ってきた。
「なんだよ。泣くことか。一年間、頑張っていたじゃないか。ボサ子と言われても――。それぐらいのガッツはあると見込んで採用したんだ。実際に乗り越えただろう。自信を持てよ」
 塚田少佐が優しく背を撫でてくれる。それも嬉しい。やっぱりこの人、表情が少ないだけで心根は優しいお兄さんだと心優は思う。
「城戸中佐は傍観していたように見えたかもしれないけれど、俺の前では落ち着きなく心配していたよ。『ボサ子』と呼ばれていることを知った時、いちばん腹立てていたのも中佐だったんだから」
 そうなんですか? と、心優は涙を止めて、少佐を見上げた。
「そうだよ。もの凄く怒っていた。影で言うならともかく、中佐に向けてふざけてでも『ボサ子』と言った人間は、その後は素っ気ない対応に徹していると思うよ」
「そんな、そこまで守ってもらうほどの部下ではないと思うんですけれど」
 いいや――と、少佐が首を振った。
「俺も腹を立てていたよ。それに、長沼准将も同じお考えだ。『ボサ子』という人間は相手にするなと、どうしてかわかるか」
 心優は首を振った。
「秘書室が是非にと選んだ人間を見下げているからだ。秘書室への冒涜でもある。城戸中佐は、『ボサ子』と言った人間を目の前にしたら、きっぱり言い返していた」
 ――『世界が目の前になるまで精進してきた者に、ボサ子と見下げた言い方をされるのはどういう神経なのか。それを教えて頂きたい』。
 それを聞いて、心優は言葉を失う。
 女性達に嫌味を言われたり、影で敵対心を露わにした態度をとられても、城戸中佐は見て見ぬふりをしていた。
 でも彼は彼で、上官として心優を敬ってくれていた。
「だから。そんないつまでも自分のことをボサ子で、なにもできないなんて思うなよ」
 でも、この涙の訳はちょっと違う。
「違うんです。わたしはミセス准将にだっこさせる人形として採用されたと言われたことがあって」
「なんだって? 誰だ、そんな適当なことを言うのは」
 塚田少佐の銀フレームの眼鏡がピリッと光った。そして今度は補佐官としての冷たい目になっている。
「あの、井上少佐が……」
「またアイツか! それで!」
 その時にあったことを、心優は報告する。見る見る間に、塚田少佐の形相が恐ろしく変貌していく。
「アイツのいうことは、絶対に聞くな。信じるな。ついていくな。わかったな!」
「は、はい。勿論です」
 もの凄く怒っている塚田少佐も、ちょっと珍しいなと思った。
「アイツ、人のところの女にばかりちょっかいだしやがって」
 わー、言葉使いも、いつもの塚田少佐じゃないと隣にいる心優はドキドキしてきた。
「アイツ、妻が独身で事務官だった時、弄んだことがあるんだ。許さねえ」
「ええっ。そうなんですか」
 思わず言ってしまったのか、塚田少佐が真っ赤になって残りのお弁当を食べ続けていた。
 塚田少佐の奥さんも、あの言葉巧みな誘いに乗って傷ついたのかな? そんな男。もう井上少佐の上手い言葉に耳を貸さないと誓った。
 ランチタイムの帰り道。塚田少佐に『三ヶ月もったら、本物』と言われた。まだ安心できないらしい。

 

 

 

 

Update/2014.12.8
TOP BACK NEXT
Copyright (c) 2014 marie morii All rights reserved.