◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 12.緊急事態です、大隊長!  

 

 『あの人』は、本当に秘書室をかき乱してくれる。
「また空母もんが来たぞー」
 長沼准将の隊長室に呼ばれていた城戸中佐が、秘書室に戻ってきた。
 彼の手にひと束のレジュメ。
 それを秘書室メンバーのデスクが集まっているど真ん中に、ぱさりと置いた。
 塚田少佐に、先輩達が一斉に覗き込む。そして皆がまたどよめく。
「またミセス准将が『艦長』に任命されているぞ」
「来年の二月か。この人、一年に何度も任命されるな。もう超ベテランの域に来ているんじゃないか」
 心優も最後にそっと覗いた。レジュメの内容は、海域空域のパトロール強化と実戦的訓練を目的とした国内海域周回航行任務の決議内容だった。
「いつもの如く最終決議までは、長沼大隊本部でとりまとめ、出発前の最終会議までを取り仕切ることになった。よろしくな」
「イエッサー、室長」
 皆が息を合わせ、志気を高める。
 それでも、いつも静かで無駄口を叩かない兄さん達は、まだひそひそしていた。
「何回、あの人ばかり行かせるんだよ。他にも艦長クラスの大佐、いっぱいいるじゃないか」
「嫌がらせにもほどがあるな。御園派を敵視している副師団長が、自分のところの大佐が失敗しないよう出し惜しみして、若い将校のミセスはいつ失敗しても切り捨てられるように差し出して、毎回候補者にしているんだろう」
「でも、あのミセス准将は、ご自慢の雷神を引き連れて、『雷神のためになる』と喜んでいくんだろうな」
 うんうん。と、先輩達が頷きあっている。
 兄貴達の話に、最年長の親父さんが少しだけ違う話し方をする。
「嫌がらせと言うよりは、嫌がらせで何度も行かせていたら、彼女以上に任せられる艦長がいなくなってしまったのだろう。ここ横須賀にいる副師団長なんて壁を越えて、御園准将は既に司令の絶大な信頼を勝ち得てしまった。あちらの派閥さんも、彼女の首を絞めようとしたのに、逆に育て上げてしまったというところかね」
 もう嫌がらせではない。『彼女しかいなくなってしまったのだ』と親父さんはため息をつく。
 そして塚田少佐も。
「仕方がないでしょう。いま、日本海と東シナ海の海域を巧みに航行できるのは、ミセス准将ぐらいです。他の艦長ですと、保守的になって内側を航行して済ましてきてしまうので、副師団長の人選というよりかは、総司令からの希望かもしれませんね」
「そうかもなあ。ここ数年、防空識別圏の摩擦でほんの数分でも不明機の侵犯を許してしまった艦長が続出。小笠原のミセスと岩国にいるベテラン高須賀准将ぐらいか、侵犯せず、侵犯をさせず、パイロットを駆使して抑えられるのは。とにかく、彼女に頼りきりだよ。そして彼女が航行に出ると『海上現場はミセス担当、陸からの現場補佐は長沼担当』というタッグを組まされて、航海に出ていなくても、うちもサポートで忙しくなる……と」
 秘書官になって二年目の心優には、何となくわかるようになった話でも、中に入っていけない話だった。
 それでも、ミセス准将がここ数年で日本側の総司令官から信頼される艦長になってしまったことだけはわかる。
 そして、今の心優はいままで思わなかったことにも気が付いてしまう。
 本当だったら。この絶大なる信頼を得ている女艦長と一緒に、臣さんもエースのキャプテンとして雷神のパイロットとして任務に勤しんでいたはずなんだと。
 それが彼が思い描いていた望んだ将来だったはず。心優は室長のデスクで、もう仕事を始めている彼を見た。
 あの冷徹な眼差しで、部下達の囁きも意に介せず、まっすぐに書類とデーターに向かっている。
「第一回目の顔合わせの会議に出すレジュメをつくるぞ。それぞれ担当させるからな」
「イエッサー」
 そろそろ無駄話はやめろよとばかりに、彼の強い声が秘書室に響き渡る。
 先輩達も、いつもどおりの真顔でデスクについた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 心優が担当したのは、搭乗するクルーの一覧だった。
 横須賀の隊員、小笠原の隊員、そしてフロリダ本部から派遣されてくる隊員。
 それぞれの部署を担当するクルーに分け、パイロットの飛行部隊の編成別に一覧をまとめ、トップの補佐官チームをまとめる。
 その頂点に、あのミセス准将。右腕の副艦長は、橘大佐。艦長になれる者は、海軍飛行士(パイロット)か海軍航空士(航空機搭乗員)に限られる。
 こんな時、心優はミセス准将が本当に女性とは思えなくなる。優秀な補佐官を多数従えていても、空母艦で海に出ると言うことは、ひとつの要塞基地を動かす長であって、多数のクルーという市民を乗せて生活を総括する市長みたいなものでもある。フロリダ本部から大型艦船での任務指令が下れば、その時は五千人を収容することになる。
 それで国境付近を航行し、昼夜を問わず、スクランブルに対応する。
「はあ」
 これが臣さんの『あの人』。壊れた夢そのものを、空母に乗せて海の彼方へ往く人。一緒にいるはずだった人。
 女性としてもとても敵いそうにないけれど、この人が男性でも、敵わなかった気がする。
 雅臣にとって、心優はカラダだけ。合間の安らぎだけ。彼が本当に欲しいものを心優はひとつも持っていない。ため息がでる。
「クルー全員となると、たくさんだな。手伝おうか」
 定時のラッパが基地中に響いたのに、いつもの如く事務作業はもたついている心優を見て、隣の塚田少佐が声をかけてくれた。
「いいえ。大丈夫です。これぐらいさせてください」
 そうでなければ、ミセス准将なんて程遠い。勿論、まったくなれっこないのはわかっていて、心優は見比べている。
 秘書室の誰もが一時間ほど残務をして片づけを始めた。心優はまだ集中してまとめている。キーボードを打っている。
「おい、園田さん。あんまり根詰めるなよ。顔合わせはまだ先なんだから」
 最年長の親父さんが心配して声をかけてくれる。他の兄さん達も『そうだぞー』と笑いながら帰り支度をしていた。
 彼等が『お先に失礼いたします』と帰宅しても、室長の城戸中佐はまだデスクに。そして塚田少佐も片づけを終えたのに、心優のそばで見守ってくれている。
「塚田、もういいぞ。俺が彼女を見ているから」
 気心知れている塚田少佐だけになったせいか、雅臣からそう声をかけてきた。
「そうですか。……では、室長にお任せしますね」
 いつも笑わない眼鏡の少佐が、妙にニンマリした笑みを見せて帰ってしまった。
 また、デスクで一人、雅臣がちょっと頬を赤くしてバツが悪そうな顔。
 でも心優はまだまだ、パソコンの画面に集中している。臣さんと二人きりだなんて『ときめき』は今はどうでもいい。
 彼も暫くは、室長デスクで自分の仕事を続けていた。
「まだ、頑張るのか」
 はたと我に返ると、いつのまにか城戸中佐が隣の塚田少佐の席に座っていた。
「はい。あの……。横須賀のこの甲板要員の役割と、フロリダ本部のこの役割が同じなのか、よくわからなくて」
「どれ」
 元パイロットの彼が心優の手元にあるクルー隊員の名簿を眺める。
 和名の部署名と英語の部署名がよくわからない。
「これとこれが同じ役割のポジション。甲板では黄色のジャケットを着用するポジション名。これとこれは緑のジャケット。あとでジャケットの色とポジション名の早見表をつくってやろう」
「ありがとうございます。……わたし、まだ甲板をみたことがないので」
「あー、そうだったか。今度、長沼隊長が監察に行く時に一緒に船に乗るか」
 初めて、空の世界に? 心優の頬が一気に緩む。
「はい。是非!」
 心優が喜ぶと、彼もにっこりと爽やかな笑顔を見せてくれる。そしてほっとしたように心優を覗き込んだ。
「どうした。力んでいるな。空母航行のアシスト業務は初めてではないだろう」
「いままでは、皆さんのお手伝いばかりだったから。今回は初めて、わたし担当のお仕事をくださって、ありがとうございました」
「いつまでも新人でもないだろう。やる気があって室長としては嬉しいけれどな」
 それでも、彼の大きな手がそっと心優の手をとって握った。
「今日はもういいだろう。一緒に帰ろう」
「は、はい……」
 彼の眼差しが、切ない男の目になった。夕暮れの二人だけの秘書室、静かな夕の視線は心優の心を甘く苦しめる。
 二人だけで歩いていても、上司と部下だから誰もおかしな目線は向けない。それでも二人でにっこりと目を合わせて歩く帰り道は、また心優の心を優しく包む。
 葉桜の道を、今日も警備口に向かって歩いている。上司と部下の顔で、でも、二人の間ではもう臣さんとミユ。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 御園のタブーを聞かされてから、一ヶ月が経とうとしていた。
 梅雨の季節で、しとしとと雨がよく降る。
 今夜も彼の熱い肉体に寄り添って、心優は眠っている。
 でも、セットしたアラームが鳴って仕方なく、ベットの上で起きあがる。
 雨が降っていても、外の街灯の明かりでほんのり明るい『パイロット部屋』。
 薄明かりの中、彼を起こさないように帰ろうとベッドを降りようとしたら、窓の外から眩しい光がフラッシュし、それと同時に大きな音が轟いた。
 バリバリと夜空に響きわたる『雷鳴』。それが合図だったかのように、ザアッと激しい雨の音。それまでしとしと降っていたのに、どしゃ降りになった。
「泊まっていけよ」
 ベッドを降りようとしている手を、掴まれていた。雷鳴で彼も目が覚めてしまったらしい。
「こんなどしゃ降りの中、びしょ濡れになるだろ」
 掴まれた手首を、雅臣がさらに自分のそばにと引っ張っていく。
 結局、心優はまた彼の隣に寄り添うように横たわってしまう。
 また、彼の熱い肌に抱かれる。雅臣が心優の素肌にもタオルケットを掛けてくれる。そしてまた窓に閃光が瞬き、大きな雷鳴。
「雷神様のお通りか」
 彼がぎゅっと心優を抱き寄せる。だから心優も、彼の胸に頬を寄せて抱きついた。
 ぴたりと抱き合って、その『雷神』を窓から見上げている。
 バリバリと響き渡る音、素早く走る稲妻――。光の尾を引いて、飛行音を轟かせて飛び去っていく白い戦闘機。『ネイビー・ホワイト』。それが空を飛んでいる時は、こんなかんじなのだろうか。
 横須賀にも数機配備されていて、心優もたまに青空に見つけることがある。艦載機として空母に配備しているので、いつも沖合から基地に向かって飛んでくる。
 彼は、この軍が造り出した新機種の『ホワイト』、現在は航空マニアに『ネイビー・ホワイト』と呼ばれるようになった白い戦闘機に乗っていた。
 それも『雷神』にだけ配備されている新機種。紺ラインがある白い戦闘機《海軍の白》という名づけをされたエースの証となる戦闘機に一番最初に乗っていた。
 ビカビカと激しく瞬く閃光が、壁にいるもうひとりの男『空を飛ぶ男』を何度も浮かび上がらせた。
 こんな、雷神が通るような飛行機に乗っていたのかな。心優は雷の夜に思いを馳せる。
「なにを考えているんだ、ミユ」
 ただ黙って抱きしめられている心優の顔を、雅臣がどこか不安そうに覗き込む。頬にかかっていた黒髪の毛先を、彼の長い指先がそっとのける。
 心優の顔も、稲妻の光があたった。すると、彼がくすりと笑う。
「猫の目が光った」
 心優は笑わなかった。雅臣は笑っているけれど『雷神様のお通り』と言った時から、彼の心も空を飛んでいると思ったから。
 そんな時の彼は笑っていてもそっとしておく。なんの言葉も挟まず、でも、そばにいる体温だけは離れないように彼の隣で寄り添っている。
「どうした。機嫌の悪い猫みたいだな」
「そんなことないですよ」
 少し当たっている。彼の邪魔をしないよう、じっと息を潜めてそばにいるだけ。
「目が覚めたな……」
 まだ雷鳴轟く中、彼が機嫌を窺うようにして心優のくちびるをふさいだ。
「っん、う、ん……オミ……」
 目覚めたばかりの気怠さの中、男の匂いが心優を覆う。そしてくちびるには、甘くくすぐる男の舌先。心優もすぐに、彼のくちびると舌先に溶けていく。
 もう幾夜も重ねた肌、慣れてきた睦み合い。彼のくちびる、舌先、そして心優の身体の奥で溶けてしまいそうな彼の指先。そして。ひとつになった時の体温と、男の形に馴染んでいく女のカラダ。
 覆い被さった彼はもう心優の真上。心優の猫の目をいつまでも楽しそうに見つめながら、その手先はもう心優の足と足の間にあって、また心優の中に入ろうとしている。
「っんく」
 大きな男の塊がゆっくりと心優の中を通るように入ってきて、そっと心優は背を反った。背を反ったら反ったで、彼が中に入ってきただけで感じてツンと尖ってしまった胸先をお猿さんも見逃すはずもなく、すぐにそこに吸いついてきた。
「も、もう……っ、臣さんたら、ほんと……」
「わかってる。何度もやらせろと迫る猿だっていいたいんだろう」
 乱暴じゃない、荒っぽくない。でも熱くて重い身体で抱きついてきて、絶対に離してくれない。じっくりと愛してくれる。
 心優にとっては、初体験のドラッグのよう。身体は疲れているのに、もういいと満たされているのに、与えられるとまたそれを食む。
 そして、喘ぐ声が自分の知らない声になっている。『湿った女の声』だった。
 稲光が、女の肢体を青く浮かび上がらせる。女の裸体に抱きついて、男が貪っている様は淫らで動物的。猿が猫を啼かして犯している。
 だけれど。心優は女としての熱に浮かされながらも、最近、少し思っている。
 身体だけ愛しあえば、なにかが見えると思ったけれど『違った』。
 そして、中佐殿もきっとそう。波長があった女をそばに、体温を分け合う穏やかさに癒されても、でもだからって『彼の空は戻ってこない』。
 肌の体温が溶けあっても、心は溶けあわない。彼が欲しいのは、心優の身体や体温にはない。こんなの彼の満足ではない。
 でも、彼の大きな手が心優の細い腰を掴んで激しく揺らす。心優も彼に抱きついて、夢中なその人の首筋や顎にキスを繰り返した。
 ぎこちないセックスしか知らなかったのに。男の人に任せきりで、女らしいことも知らない自分から余計なことをしない方がいいといつもじっとしているだけだった。
 なのに今は――。彼の膝の上に腰を落として、二人で向き合って座って腰を振り合う。
「臣さん、臣さん……。あん、オミさん……」
「ミユ、気持ちよさそうだな。こんな、足、開いて」
 そんなにねだられると、俺もどうしようもなくなる。そういって、彼が遠慮ない強引さで押し込んでくる。こすってくる。
 彼に言われなくても、心優から差し出している。心優から求めてしまう。それはもう中毒。初めての愛欲を覚えた中毒だった。
「あ、んっ、あぅ……」
 小刻みに震えて、彼の腕の中に落ちる。男に不慣れなボサ子じゃない。もうあられもない欲情した女。
 ミユなら、すぐにイケる。初めて抱き合った夜にそう言ってくれた通りに、ここに通い始めて直ぐに、雅臣の巧みな指先舌先で初めて果てることを覚えた。
 それからはもう、それが欲しくて心優も必死になってしまう。お猿の女は、発情した牝猫。そこだけが上手く釣り合っている気がする。
 俺の猿行為に、翌日もなんともない顔をしているのは心優だけだなあ。なんて、彼も言っている。
 若い時は、デートの時間内で三回いけたから、いまの一晩でやっと三回は衰えた方という、体力有り余っている元パイロットの性欲は驚くばかり。でも、これでは小柄な可愛い女性は保たないかもしれないし、最初はその激しさにうっとりする熱愛の夜が続いても、やがて疲れ果ててしまうのも彼と普通の女性が釣り合わない原因だったような気もする。だから別れた女性が『ただの猿』と言ったのかも……?
 そこへ体力もあって、身体もしなやかに鍛えている心優なら、丁度良い『受け皿』だったのかもしれない。
 心優は最近、一ヶ月前の塚田少佐の言葉を思い出している。
 ――女からふるんだ。もって三ヶ月。それ以上つき合えたら本物だ。
 一ヶ月で心優はもう、彼のそばにいる苦しさにみまわれている。
 彼のことは好き。シビアで冷徹な目をした室長の顔もドキドキして好き。二人だけの時は、大笑いをして、すぐに心優に抱きついてきてふざけたことばかりいって、肌を欲しがってくれるお猿の臣さんも好き。
 そして、シャーマナイトの狂おしい眼差しを愛している。でもその眼が、壁にいる男と同じ顔になった時だから哀しくなる。
 真っ直ぐに空を愛している彼の眼を、愛しているだなんて。掴めない夢を追っている彼の気持ちが満たされないのに、その満たされない時に輝いている眼がいちばん好きだなんて滑稽すぎる。
 どうしてパイロットの彼に出会えなかったの? 心優の心が痛く軋む。
 この人の幸せは、ここじゃない。珊瑚礁のアクアマリン色の海にある空を、白い戦闘機で飛ぶことにある。いまも彼の心はそこを飛んだまま。
 わたしを見ながら、彼はそれを探している。ないから、心優の顔を見て、哀しい色の眼で微笑む。
「どうした。機嫌が悪いと思ったら……、なんか、ミユ……激しいな」
 彼の腕に落ちて果てても、心優は彼の腕の中でまだ欲しがっている。心優もそう、彼がそうしてわたしと繋がって私の一部になっている今この時しか、実感できないから。
 涙は出ない。見せない。その代わり、彼と繋がっているそこが熱く泣いている。涙の代わりに溢れる熱い蜜が彼を引き留めている。
 雷鳴と激しい雨音が、心優の喘ぎ声をかき消してくれる。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 雨上がり、束の間の青空、晴天。爽やかな日だった。
 基地の緑が雫できらめき、湿っているけれど柔らかな風は、濡れた葉の匂いがした。
 護衛部の訓練を終え、いつもならまっすぐ秘書室に帰るところなのに、心優は寄宿舎に向かっていた。
 いつも準備していた着替えの下着が入っていなかった。とくに汗をかきやすい季節なので、体調のためにも、エチケットのためにも着替えておきたい。そう思って、寄宿舎の自室に向かってきちんと替えておこうと向かっている。
 寄宿舎の入り口が見えたところで、心優はふと目を奪われる。
 軍制服の隊員ばかりのこの基地敷地内に、濃紺のワンピーススーツ姿の女性が歩いている。
 凛とした佇まいで、見るからに品の良い綺麗な後ろ姿。栗色の髪、優雅なクラッチバッグを片手に、直行便ゲートの通路がある道を歩いている。
 高官の奥様? 私服姿で歩いているのはとても目立つ。
 だが、その奥様の後ろ姿をじっと見つめているうちに、心優は青ざめる。
 ――ミセス准将?
 背丈から、佇まいから、そして、湿った風に吹かれてそよいだ栗毛から見えた横顔は彼女によく似ていた。
 着替えに来たことを忘れ、心優の足はふらりと彼女を追い始める。
 直行便に搭乗するためにチェックインする搭乗口に向かう通路に彼女が入った。まっすぐにその渡り廊下のような通路を歩いて、やがて室内の通路に入っていく。
 綺麗な後ろ姿。彼女の後追っていると、ジャスミンとローズのような色香漂う匂いを残して歩いている。身長は心優とおなじぐらい? 細い足に引き締まったウエスト、モデル並みの体型に歩き方。本当に綺麗だった。ここに男性がいたら、絶対に目に留めて振り返ると思う。
 でも誰もいない。直行便が離陸する時間でもない。でもその人は間違いなく、そのチェックインをする待合室へと向かっている。
 その待合室の前に来て、彼女はそこの自動ドアをくぐって消えていった。
 なんだ。ミセス准将ではなかったかも。彼女なら、必ず付き添いがいるはず。それがプライベートでも付いていると城戸中佐から聞いたことがある。瀕死になるような事件に遭遇したので、横須賀の実家に来た時でも、実家が手配しているボディーガードが同行していることが多いとか……。
 だからあれはミセス准将に似た外国人だったのだと思えてきた。小笠原基地にいるアメリカ隊員の奥様か女性隊員だったのかもしれない。
 また来た道を寄宿舎へと戻ろうとする。室内通路を出たところで、また小雨が降り始めた。
「ああ、せっかくの青空だったのに……」
 基地の棟舎へ向かう渡り廊下を歩こうとした時だった。またあの女性の影を、今度は遠く駐車場に見つける。
 その人は、あの綺麗な姿で小雨の中を歩いている。やがて、駐車されている車の影に消えた。
 車で来ていた人? でもそれから暫く佇んでいた心優のが見ていても、動き出した車は一台もいない。駐車されている車も少ない。車が出て行く警備口ゲートは少し遠くになる。
 そこへ向かっていく順路になっている道も通らなかった。
 そして心優はどうして自分がいつまでもここから動けないのか、いまやっと自身で理解した。
 綺麗な女性が、栗毛の女性が、御園准将にそっくりで。そして、ここがあの忌まわしい駐車場で、そして彼女が気にしていたことを知っているから。
『なんで、駐車場を気にしているんだよ』、『俺だったら、あんなに酷い目に遭った現場なんか、二度と近寄りたくない』、『葉月さんが横須賀に来た時には、気をつけておいてください。お願いします』。心優の脳裏に、鈴木少佐の言葉が蘇る。
 心優は走り出していた。小雨の中、駐車場の女性が消えた付近を見渡した。彼女もいなければ、車が動いた気配もない。
「どこなの。御園准将が襲われた場所は、ここのどこなの」
 そこに誰もいなければいいのだ。それさえ確かめれば、その女性の姿がもう見えなくても安心して帰れる。
 なんの目印もない駐車場で、それらしき女性の姿も気配も消えていた。
「やっぱり気のせい?」
 嫌な予感で締め付けられていた息苦しさが、少し緩んだ。小雨の中、心優は走ってきた道を帰ろうとして……。
 目印はないけれど、違和感がある場所を見つけた。一カ所だけ駐車が出来ないように芝が植えられている一角を。何故、そこだけ駐車が出来ないようにされているのかわからなかった。
 でも誰もいない? でも蠢くものを心優は目の端で感じた。黒いハイヒールの靴が、車の影、アスファルトの上でぴくぴく動いている。
 そっと覗くと、ハイヒールには白い足が続いていて……。心優はハッとして、そこへ駆け寄った。
 駐車されている大型ワゴン車の後部を覗き込むと、そこに女性が倒れている。
 小雨の中、濡れ始めたアスファルトの上で、身体中を痙攣させ、そして苦しそうに首を押さえているけれど、もう意識は朦朧としているようだった。
 その栗毛の女性を上から見下ろして、心優の身体中の血が凍った。
 その人は、まさに、『御園葉月准将』!
「じゅ、准将! ど、どうして!」
 彼女のそばに心優は跪く。真っ青な顔で小刻みに震えている彼女が心優を確かめ、なにかを言おうとしている。
「な、なんでしょうか」
 ……く、くすり。
 彼女の指が芝がある方を指さした。心優が違和感をもった芝の上に、先ほど目にした優雅な白いクラッチバッグがあった。
 それを直ぐに手を伸ばして拾い、蓋を開けて中身を探る。本当に『薬』がある。
 とにかくそれを一粒取り出して、彼女の口に入れた。
 すると痙攣が収まった。けど、まだ苦しそうにしている。
「救急隊を呼びます」
 もっている業務用のスマートフォンを制服の胸ポケットから取り出す。救急隊への連絡はタッチひとつで繋がる。
 そのタッチをしようとしたのだが、その瞬間、制服の袖を引っ張られた。止められていることがわかり、『どうして』と彼女を見た。悶絶の顔で、彼女が首を振っている。
「どうしてですか。このままでは……! 准将になにかあったら、大変なことになります!」
『長沼さん……呼んで』
 微かにそう聞こえた。
『長沼さんしか、知らないから。他は駄目。城戸君も駄目』
 それだけいうと、ついにミセス准将は気を失ってしまった。
「嘘。やだ、どうして。じゅ、准将!?」
 彼女を揺さぶったが、返答がなかった。
 どうみたって救急隊に迅速に見てもらった方が大事にならない。
 どう言われても、ここは救急隊――。業務用のスマートフォン、タッチパネルにその指先が触れようとする。でも、震えていた。
 そうだ。ミセス准将がここで気を失って私服で倒れていたことは、やがて基地中に流れてしまうだろう。そうするとどうなる? どうなるの? でも彼女のこんな無様な姿は誰にも見せてはいけない気がしてきた。
「臣さんなら、なんとでもしてくれるはず……」
 やり手の秘書官。不都合なことを、都合良くカバーするプロだ。
 ――長沼さんしか知らない。城戸君は駄目。
 その言葉を反芻し、心優の身体から冷や汗がどっと湧いた。
 つまり。御園准将が薬をもつほどの『持病があって』、それを『長沼准将しか知らない』ということになる。
 これが公になったらどうなるの。まさか、艦長業務が出来なくなる!? いま、彼女のキャリアが国防を担っているのに?
 やっと事の重大さを心優は理解する。
 スマートフォンの連絡先を、心優は今度こそ迷わず、大ボスの携帯スマホ連絡先へと表示しタッチする。
 心優の業務携帯番号が表示されて、空部隊大隊本部秘書室 園田 と表示されるはず。
 だけれど普段もさほど言葉を交わすことがない『大ボス』が、秘書室のオマケのような小娘隊員からの直接のコンタクトに応えてくれるのか?
 呼び出し音が長い。忙しければ、下っ端隊員からの直通はきっと無視されるだろう……。
『長沼だが――』
 出た!
 心優はすかさず、彼に伝える。
「園田です。訓練の帰りに、私服姿でしたが御園准将にそっくりな方を見かけて、気になって追いましたら。その、本当に私服の御園准将で、直行便ゲートの駐車場で痙攣と呼吸困難を起こして倒れていました」
 なんの返答もない。驚いているのか、それとも、部下の戯れ言だと思っているのか、様子がわからない。
『わかった。少し待ってくれ。外に出る』
 とても落ち着いている声に心優はほっとする。やはりこの人は将軍にまでになられた人だと痛感するほどに。
 長沼准将が扉を閉めた音が聞こえきた。廊下にでも出たのだろうか……。
『園田。よく知らせてくれた。それで葉月ちゃんは!』
 今度の声は慌てている。しかも、ミセス准将を親しげに呼ぶ時の声になっている。
「今、気を失っています。先ほどは意識があったので、指示された薬を一粒だけ口の中に。それで痙攣が収まって、でも、意識がなくなって」
『大丈夫だ。過呼吸の際に起きる過喚気症候群だ。いずれ目を覚ます』
 慌てていたのに、また大ボスは落ち着いている。ミセス准将の身に起きたこんな酷い症状でも、よく知っている口ぶり。
 そして大ボスが心優に言った。
『いいか、園田。誰にも見られないように、今すぐ彼女を隠してくれ』
 え? 隠す? 言葉を返せなかった。
『園田。落ち着いて聞け。いま、そんな彼女を誰にも見られてはいけないんだ。私服だったのが幸いだ。もし誰かに見られても、外から来た一般客だと言え。誰かに見つかって手伝うといわれも、長沼准将が手伝いに来てくれると言って人を避けろ。彼女の顔を見られるな』
 そんな、無茶すぎる! こんな目立つ人を誰にも見られずに、どこに隠せと!? こんな状況に陥ったことがないため、心優はパニック寸前。
「落ち着け、」
 深呼吸をする。そうだ。これは試合前だと思って……。
 心を落ち着ける。心拍マックスの試合前。母が握らせてくれた『シャーマナイト』の冷たい感触を思い出す。
『そうだ。落ち着け。園田』
 心優も目を開ける。
「寄宿舎のわたしの部屋に連れて行きます」
『わかった。十五分以内にそこに行く。遅くても三十分で必ず行く』
「ですが、寄宿舎の入り口には、部外者の出入りをチェックしている警備女性がいます。そこを通過しなくては……」
『俺がなんとでもする。その警備員には見られても仕方がない。なにを言われても構わない。とにかく園田の部屋に連れて行ってくれ』
「ラジャー、准将」
 頼んだぞ。大ボスが通話を切った。
 そして心優も意を決する。
「失礼いたします。御園准将」
 クラッチバッグを拾い、スラックスのベルトに挟んで腰に仕舞う。ぐったりしているミセスを抱き起こし、力無い腕を心優は肩にかける。
 気を失っている人間はものすごく重い。でも、心優は歯を食いしばって、ミセス准将を背負った。
「くっ……」
 小雨が女二人を濡らす。柔らかな霧雨のヴェールが少しでも、この奇妙な搬送を隠してくれることを祈りながら。心優は一歩を踏み出した。
 その場を離れる時、心優は少しだけ『芝』へと振り返る。きっとそう。不自然にそこだけ『芝』にしているのは、この人が血を流した場所だからなのだろう。

 

 

 

 

Update/2014.12.11
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