◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 13.泣かないで、ミセス准将  

 

 霧雨。柔らかい雨でも、二人の女を少しずつ湿らせていく。
 気を失っている人を背負って、心優はゆっくり前進する。
 雨、勤務の中心である棟舎が離れているのもあるが、幸いにして人がいない。でもあと三十分もすれば、ランチタイムで人が動き出す。
 その前に、その前に、宿舎へ――! 重い一歩を、心優は繰り返す。腕も鍛えているので、他の女性よりは腕力がある。でも、重い……。

ごめんなさい

 耳元でそんな声がして、心優はハッとして立ち止まる。首筋に温かい息を感じた。
「ごめんなさい。降りて自分で歩きたいけれど……、力が入らないみたい……」
「准将! 気が付かれましたか」
 ああ、良かった。と力が抜けそうになった。
「大丈夫です。寄宿舎のわたしの部屋までお連れします。そこへ内密で、長沼准将が来てくれますから」
「ありがとう……、園田さん」
 力無い息だけの声になったので、心優はまた不安になる。でも気が付いて、彼女が心優の肩にしがみついただけで、少し軽くなった気がする。
 寄宿舎が見えてきた。あと少し……。もうちょっと!
「あそこね、私が死にかけた場所なんだよね」
 心優の首にしがみついているミセスが、独り言のように呟き始める。
「知っていますよ。最近、城戸中佐から聞きました。秘書官として知っておくこととして」
 心優は息みながら、一歩を踏み出す。
「刺された日。澤村と初めての休暇旅行にいった帰りだったの。彼と、結婚しようと北海道の雪の中で約束してきた帰り。どんな恋も上手くいかなかった私の、ほんとうの……」
 首筋にとても熱いものが触れた。それが心優の首筋を伝っていく。
 衿から胸元に落ち、そこが濡れて染みた。それは涙だった。
 心優の身体の体温が急に上がる。『嘘、女王様が泣いている!』、あり得ないものに遭遇して、心優の血が驚きで沸騰している。
 しかも彼女が哀しんでいるのは、『やっと好きな男性と愛しあって結婚をしようと約束した旅行の帰り、幸せの絶頂で殺されそうになった』という絶望に突き落とされた惨いもの。女性なら誰もがわかる話。ただの一人の女性として泣いている!
「准将……。泣かないでください」
 彼女を背負い歩きながら、心優も感化されそうになる。いま自分も狂おしくなる恋をしているから?
「もし、あの場所に立ってもフラッシュバックもなく平気なら……。あの場所で、幸せな気分だった自分だけを残せると思って……」
「そうだったんですね。御園大佐との想い出の場所でもあったんですね」
「あの場所に建物が建ってしまう前に、なくなる前に、記憶を上書きしたくなったんだけど……。誰もが、あそこには行くなと。当然よね……」
 寄宿舎の玄関が見えてきた。今のところ、霧雨の中、誰にも会わなかった。問題は、入り口玄関で番をしている警備室に常駐している警備員。そして、休暇や代休で寄宿舎でくつろいでいるだろう女性隊員。
 でも心優の部屋は、一階奥にあって、何とかなると思う。……思う。
「もう降ろして。歩けそう」
「無理しないでください」
 心優は意地でも准将を降ろさなかった。
「ごめんね、園田さん」
「いいえ。気が付いたのが私で良かったです」
「本当ね……」
 やっとくすりと笑ってくれた息づかい。そして心優にそっと抱きついてきて、同じ女なのに心優はその柔らかさにドキリとした。
 いま、まったく思ってもいない『女性』と一緒にいる。心優の頭の中はどうにかなりそうだった。『冷たい無感情なロボットのような人』と雅臣が崇拝している人が、こんなにも一人の女性として崩れるだなんて。
「もう平気かもと思ったけれど、全然駄目だった……。すごい強烈なフラッシュバックが来て……」
「そうでしたか。先日、駐車場のことを気にされていたのは、そう思われたからなのですね」
「ここのところ、調子が良かったのよ。だから、もう大丈夫かも。もう……心配させなくていいかも、気を遣わせなくていいかも、迷惑をかけなくていいかも……と思って……」
 心優の首筋に、蕩々と熱いものが流れる。甲板の冷たいロボット、女王様が、女として妻として熱い涙を流している。
「駄目だった、全然、駄目だった。むしろ……強烈すぎた……」
 この人は、完璧じゃないし、なんでも出来る女王様でもない。この人も、一人の男性を好きなために、迷って落ち込んで戸惑う一人の女性。
 ついに心優の目にも涙が浮かんでしまう。ミセスは深い愛を長く紡いできた上級者かもしれないけれど、それでも、今の心優にはその気持ちの切なさが響いて響いて仕方がない。
「どうしよう、うんと怒られちゃう……。旦那さんにいちばん怒られそう。長沼さんにもすごく怒られる……」
 旦那さんや同僚の男性に怒られる、どうしよう――と、まるでお兄さん達にいつも叱られている妹のように困っている。
「わたし、大隊長が真っ赤になって怒ったところを見たことがないので、それなら見てみたいですね」
 涙をぽとりと落としながらも、心優は笑って見せた。
「長沼さんも根をもつタイプでやっかいだけれど、うちの旦那さんは、しつこいの。ほんと、いつまでもしつこいの」
 本当に可愛い女の子みたいな言い方だったので、心優はびっくりしつつも、笑ってしまっていた。
 ああ、初めて。この人が『じゃじゃ馬の末娘』と言われているのが、わかった気がして――。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ついに玄関に来て、そこに来ると流石に御園准将が背中から降りたがった。
 そっと背中から降ろして、まだおぼつかない足取りで立った彼女を心優は支える。やはりまだ力無い……。
 よろめくミセス准将の肩を掬い抱き、心優はついに玄関を通る。ドアを開けた直ぐそこに、警備室がある。そこで女性の警備隊員が交代で二十四時間詰めている。
 男性の侵入を防ぐ為でもあって、部外者を入舎させないためでもあった。
 そこを、ミセス准将と並んで歩いて通る。
「待ちなさい」
 ミセス准将と同世代ぐらいのベテラン警備員が、ガラス窓を開けて顔を出した。
「園田さん、お客様は前もって入舎手続きをして許可が出てからですよ」
 この寄宿舎にいる若い女性隊員は、このお局様のように口うるさい彼女を煙たがっている。まあ、どこにでもある関係性であって光景でもあった。
 その警備女性が、険しい眼差しで、力無く立っている栗毛の女性を覗き込む。
「ごめんなさい、少し……休ませて頂けますか……」
 准将のいつにないやつれた顔のせいか、眼鏡の警備女性は一目では『ミセス准将』とはわからなかったようだ。
「具合が悪いのですか。歩けないのならそこの『面会場』でお休みになられて、医務室から軍医をお呼びいたしましょう」
「それは困るの」
 きっぱりと拒否する言い方は、既にどんな隊員も口答えをできなくなるミセス准将の物言いだった。だが、警備女性はそれに気が付かない。しかも、これは職務だからとますます眉間に皺を寄せ、険しい顔に。
 だから心優も焦って、彼女に告げる。
「長沼准将の指示です」
 そこでやっと……。警備女性が顔色を変えた。しげしげと御園准将を眺め、青ざめた顔になる。
「み、御園准将」
「宮下さん、お願いします。誰にも見られないように、ミセス准将をここで休ませてください」
「わ、わかりました。お手伝いいたします」
 彼女が警備室から出ようとすると、ミセス准将が止めた。
「結構よ。ありがとう。貴女の職務はここから離れてはいけません。ご迷惑をこれ以上かけられません。あの、長沼さんが来たら私のところへ内密に案内して頂けますか」
「しょ、承知いたしました」
 園田さん、お願い。
 また御園准将の顔色が悪くなってきた。寒そうに震え始めている。心優は彼女を抱きかかえ、先を急いだ。
 ランチタイムで人が動き始める前に、なんとかして心優の部屋に辿り着いた。
「こちらで横になられてください」
 ベッドにひとまず彼女を座らせる。持ち直したと思ったのに、座った途端に、御園准将が口を覆ってうずくまった。
 もの凄く気分が悪そうで、額には汗を滲ませている。
「吐きたいのですか。お待ちくださいね」
 急いで入浴用に置いている洗面器をベッドの下からとりだし、准将の前に差し出す。
 本当に彼女が吐いた。嗚咽が部屋に響き渡る。見ていると心優も汗が滲んでくる。あのミセス准将が、こんなにも無様な姿を晒している。
「大丈夫ですか」
 畏れ多いことも忘れ、彼女の隣に座って背をさすった。
「……あ、ありがとう、」
 少し収まったのか、彼女はとても美しく上品なハンカチをとりだし、口元を拭いた。
 また寒そうに震えている。そして心優に構わず、自らベッドに横になった。
 でも、ハアハアと苦しそうで見ていられない。
「雨でお洋服が湿ってしまいましたね。わたしのものになりますが、着替えを出します」
 背負っていて感じていたが、御園准将の体格は心優に近い。身長は彼女の方があって、でも、体のバランスが似ている。そして背負っていて感じた彼女の腕は、以前に鍛えた痕跡が窺えた。初めて『元パイロット』だと実感した。
 クウォーターだから、日本人の女性よりは体格が良い。ともすれば、日本人男性の標準体型と違わないほどの。そこに持って生まれた身体能力と鋭い感性が加わって、女性ながらにパイロットをやってこられたのではないかと思えた。
 備え付けのクローゼットにしまっている着替えの部屋着を取り出す。トレーナーとスウェットパンツという、優雅なミセス准将には似つかないもので、非常に躊躇った。
 そこでノックが聞こえた。『園田さん、いらっしゃいましたよ』。警備の宮下さんの声だった。『どうぞ』と声をかけると、勢いよくドアが開き、そこから制服姿の男性がずかずか入ってきた。
「葉月ちゃん――」
 長沼隊長が到着した。彼はベッドで苦しそうに横たわっているミセスへと一目散に駆け寄っていく。
 しかもベッドに跪いて、心配そうに彼女を覗き込んだ。そんな長沼准将も初めて見る。
「ごめんなさい……、長沼さん……」
 さらに御園准将がもうしわけなさそうな情けない顔で彼を見上げている。涙まで浮かべて。
 いつも狸と狐の化かし合いを全力でやっている若き准将二人の、威風堂々としている姿はどこにもない。
「どうして、いつ横須賀に来ていたんだ」
「……実家に……、ひとりで、いいえ……、いつもの彼の付き添いで、父と母に会いに……」
「その彼はどうした」
 御園准将がまた申し訳なさそうに黙り込んでしまう。でも、長沼准将は『読めた』ようで、呆れかえる様子で顔を覆い大きな溜め息をついた。
「まさか! あの彼まで、小笠原の秘書官を困らせるように、まいたのか!」
「向こうはプロだから難しいことだとはわかっていたんだけれど……、その、できちゃったので……」
「できちゃった、じゃないだろ!」
 どんなことでも、得体の知れない笑顔で受け返す長沼准将が、本当に顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ご、ごめんなさい。本当に……」
「今すぐ、いつもの彼に連絡しろ! 君がいなくなって、とても困っているだろう。滅多に失敗しないベテランのプロ、しかも当主である御園のお父さんの命を受けて懸命に君を護っていたというのに。彼のプライドを傷つけたことになるんだぞ!」
「わ、わかっている」
 心優は目を丸くするだけ。いつも『張り合っているライバル』で互角の会話でやられたらやり返している対等の准将二人ではない。
 それに、大ボスがあんなに怒りを露わにして怒鳴っているのも初めて見た。
「園田!」
 大ボスに突然呼ばれ、後ろに控えていた心優は『はい』と飛び上がる。
「彼女のバッグを貸してくれ」
 そこはいつもの大ボスの怖い目で迫られた。
 女性のバッグなのに。しかもプライベートの……。心優はミセス准将をちらっと見たが、彼女がもう申し訳なさそうな表情で苦しそうにしているだけでなにも言わない。
「早くしろ!」
「イ、イエッサー」
 ベッドの端に置いていた、白いクラッチバッグを恐ろしいあまりに差し出していた。
 持ち主の許可も得ずに、長沼准将がバッグを開けてしまう。ああ、女性のバッグなのに……。そんな……。
 彼が見つけたのは、白いスマートフォン。それをミセス准将に差し出した。
「いま、俺の目の前で、直ぐ彼に連絡をしろ。拒否をすれば、もう、君とは二度と組まない。こんな勝手な行動をする人間は信用できない」
 長沼准将が真っ赤になったのも驚いたが、今度はミセス准将が青ざめたから、心優はまた驚きを隠せない。
「わかりました」
 そして彼女はもう、長沼准将に全てに於いて降伏したかのように素直。こんなミセス准将を見ることになるだなんて、信じられない光景だった。
 彼女が『彼』という人に連絡している。ご主人でもなさそうで、でなければ、御園家のボディガードのことだろうかと心優は黙って予測する。
「エド……、葉月です」
 その『彼』に通じたようだった。
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。はい、そうです。基地に……、駐車場に行って、やっぱり……駄目でした」
 あのミセス准将がまた、か弱い女性のようにして泣きさざめいている。そして『エド』という男性に対して、どこか畏れを抱いているかのように丁寧な話し方。
 それだけ言うと、ミセス准将は素直に長沼准将に電話を差し出した。
「お久しぶりです。横須賀の長沼です。この度は、ご苦労様です」
 長沼准将も『エド』をよく知っているようだった。それから長沼准将は、ミセス准将から離れ、部屋の壁に向いてひそひそと小声で彼と相談を始めた。
 暫くすると、その相談がまとまったのか、長沼准将は電話を切って、ミセス准将に返した。
「迎えに行きたいと言っていた。気持ちはわかるが『正攻法』で来てもらうのを条件とした。こんなことで、彼に『裏仕事』をさせるわけにいかないだろう。俺もそこまでリスクは背負えない。そこは承知してくれるな」
「勿論です……」
「まったく。お嬢様は、お嬢様の状態は――とそればかりだったぞ。きちんと謝罪して欲しいね。あんなプロの男を困らせて」
 わかっています――と言うと、また御園准将が涙を流した。もうここにいるのは、家族に迷惑をかけて泣いているお嬢様で、そのお嬢様の我が侭に頭に来た『巻き添えを喰らった知り合いの先輩』という関係しかみられなかった。
「小笠原にも連絡をする。どのように君を迎えに来てもらうかは、後で連絡する。それまで大人しく寝ていてくれ」
「はい。本当に……ごめんなさい」
 だが長沼准将は、最後に呆れた溜め息を落としながらも、彼もちょっと口元を曲げて哀しそうに彼女を見つめている。
「わかっちゃいるけど。駄目だったんだな……。残念だ。もし、君があそこで平気に立てたのならと、俺も思ったよ。その忌まわしさを、俺も疎ましく思う」
 するとミセス准将がまた力無く横たわったまま、涙を流して長沼准将を見つめている。
「……だから、早く、私と替わって……」
 替わる? 心優はその言葉に、嫌な予感を持った。
「わかっている。でも、あと少し……堪えてくれ。いまはまだ、その段階ではない。俺達の準備が整うまで、その為には、君のこの身体のこと症状のことは、誰にも知られてはならない」
 誰にも知られてはならない。このような症状を持ち合わせた『艦長』であることは。そういうことだったんだ――。心優の背筋が凍った。これはとんでもないことを『知ってしまった』のだと。
 僅かな人間が、御園准将の『PTSD』の症状を知っていて、それを隠して『艦長業務』を続けさせているのだと。
 だから。御園准将は『長沼さんしか、知らないから。他は駄目。城戸君も駄目』と言ったのだ。同等の立場人間と家族にしか知らないということ? それを知ってしまった心優はではどうなる?
「園田。ちょっと……」
 大ボスに呼ばれ、心優は彼と共に部屋から出た。
「申し訳ない」
 大ボスから頭を下げたので、また心優はびっくり飛び上がりそうになった。
「よく気が付いて、そしてよく俺に直接知らせてくれた。礼を言う」
「とんでもないです。少し前に、やっと城戸中佐から御園家にあった哀しい事件を聞いたところでした。特に御園准将が駐車場を気にされていたことが、わたしの中に残っていましたので」
 さらに長沼准将が心優に近づいてきた。辺りを見渡し、誰もいないことを確かめ、耳元でそっと囁かれる。
「見ての通り。彼女は『PTSD』だ。このことについては、ごく一部の者しか知らない。知られると、彼女が空母に乗れなくなる。それを喜ぶ者がいて、それをキッカケに畳みかけられると国防にも司令にも支障がでる」
 やはり、見てはならないものを見てしまったのだと、心優は青ざめる。
「口外してはならない。城戸にも塚田にも。この基地で知っているのは、俺だけだ。いいな」
「は、はい」
 最後の『いいな』は、冷酷な声色に変貌したので、心優は震え上がる。
「知られると、こちらが数年越しで狙っていたものが総崩れをする。迷惑がかかるのは俺だけじゃない。小笠原の上層部にも迷惑がかかる。司令にもだ」
 司令にも? つまり、彼女のPTSDを知っていて空母の艦長に任命されることに目をつぶっているお偉いさんがいるということになる。
 もし心優がうっかり口を滑らせてしまったら。大ボスを怒らせるだけではない、雲の上にいる司令の上官の怒りをかうということになる。
「悪いが、今日は訓練の帰りに急に体調を崩して早退をしたことにしてくれ。彼女の面倒を見てくれないか。それから、もうそんなことはしないと思うが、勝手に一人で歩かせないように」
「承知いたしました」
「早退については、俺が直接に許可したことにしておく。城戸か塚田から個人的に連絡が入っても、それを貫き通してくれ」
「了解です」
 大変な状態に巻き込まれたと思った。臣さんに、嘘をつかなくてはならないし、隠し通さなくてはならなくなった。
 これは気が抜けない。もしこの軍隊にいたいのならば、絶対に知られてはならないことを知ってしまった。
「警備の宮下隊員については、俺から釘を刺しておく。長年のキャリアがあるようだから、聞き分けも良いだろう。宿舎内で園田だけで手に余るなら、彼女にも協力をしてもらう」
「宮下さんは、職務に実直な方です。きっと大丈夫だと思います」
 うむ。と大ボスが頷いた。
「それから。彼女のIDカードを抜き取ってきてくれ。IDカードで基地に入ってきた記録がいつまでも残っていると、夜遅くまで彼女がどこの誰に会ったわけでもないのに横須賀基地内で滞在していたことが知れると、余計な疑いをかけられる。俺の方で、いったん退出した形にしておく」
 それは明らかな『不正行為』だった。そんなことに協力するのは初めてで……。しかしそんな心優の戸惑いなど、大ボスはお見通し。
「園田。言っておくが、本物の任務に就けば『無法地帯』に放り込まれるのと一緒だ。その無法地帯の中でも、秩序や実直は尊いものであるから『必ず丸く収められるもの』だなんて思うなよ」
 それは『不正行為』も時には使いようだ――と遠回しに言われている。
 確かに、御園准将がこのまま基地に目的もないのに誰にも会いに来たわけでもないのに、夜遅くなっても基地に滞在している記録が残ると言うことは、彼女がどうしてここにいたかを追求されることになる。そうなると、また……空母艦の任務には就けなくなるかもしれない。
「いま、前線に行って『丸く収められる』のは、彼女ぐらいなもんだ」
 それがバランスを保っている。それが秩序を護っている――といいたげだった。でも、心優の頭の中はぐるぐる回って理解不能になっている。
 身近な秩序を守らないことで、国防の秩序を守ることになる? 良くわからない。それでも、きっと、ミセス准将が空母に艦長として出航することが今は大事なのだ、きっと。
 心優も理解した。
 それなら、この秘密は守らなくてはならない。どんな手を使っても。
「持って参ります」
 部屋に戻り、先ほどのクラッチバッグを取りに行く。
 御園准将は、気持ちが少しでも落ち着いたのか、もう眠っていた。薬の作用なのか、精神的な疲労なのか、とても疲れた様子だった。
「准将。お許しください」
 寝息をたてている彼女に謝ってから、心優はクラッチバッグを開け、IDカードを探した。
「長沼准将。こちらです」
「サンキュ。では頼んだからな。また後で連絡をする」
「かしこまりました」
 御園准将のIDカードを手に取ると、長沼准将は颯爽と去っていった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 小一時間もすると、御園准将が目を覚ました。
「園田さん」
 空軍のしくみを勉強するために、塚田少佐から借りた書籍を机で読んでいた心優にそんな声が。
「お目覚めですか」
 気になっていた湿った服を着替えさせようと、躊躇っていた心優の部屋着を差し出した。
「ご趣味ではないと思うのですけれど……。そのままでは、体調を崩されます」
 彼女がやっと気怠いまま、『そうね』と起きあがった。
「園田さん、お借りいたします」
「お洋服を簡単に乾かしますね」
 優雅な大人の女性が、下っ端隊員の目の前でも構う様子もなく、ジャケットを脱ぎ、ワンピースのジッパーを降ろした。
 紺の生地に、クウォーターという血筋特有の白い肌が映える。心優から見ても、とても綺麗なしっとりとした質感が目でわかるようなものだった。
 しかも彼女がワンピースを脱ごうとした途端、部屋に芳醇な匂いが広がった。
 直行便ゲートまで彼女の後を追っていた時と似た匂いがした。ジャスミンとローズ……。でも今は微かにムスクの香りも混ざっている。ミドルノートなのだろうか。
 ワンピースを脱いで見えたランジェリーも、とても大人っぽく、上品で優雅なもの。これぞ、大人のランジェリーだった。安物では決して出せないだろう繊細なエメラルドグリーンの色合いと、柔らかいレエス。女物に無頓着だった心優でさえ『こんなものをつけてみたいなー』というものを、スリップドレス、ブラジャーとショーツのお揃いで身につけている。
 本物の大人の女の、色香は強烈。こんな女性、いままで周りにいなかった。というか、滅多にいないのでは? 心優は目眩がしそうになった……が、彼女がスリップドレスの肩ひもを滑らそうとしているそこで、ハッと我に返る。
 息が止まるほど、心優はそこに釘付けになってしまった。目を逸らさなくてはならないと思っているのに、出来ない。そして唇が自然に震えてしまう。
 この綺麗な大人の女性の白い肌に、稲妻のように肩から胸元に走る『傷跡』がある。それだけではない、胸のど真ん中には三日月形の傷跡。
 十歳の時に殺されかけた。俺は足、彼女は胸のど真ん中。雅臣に教えてもらった話を浮き彫りにする現実が目の前にある。同じ男に二度も……。
 心優の様子に、御園准将がやっと気が付いた。
「あ、ごめんなさい。こんなものを見せてしまって」
 脱いだジャケットで胸元を隠してしまった。
「いえ、大丈夫です。お話を聞いておりましたので……その、その、とおり……だった……」
 だめだった。平気ではいられなかった。でもミセス准将は笑っている。
「そう。私から話すのはもうね、疲れるから、それなら良かった」
 そういって、ミセス准将も心優に気遣うようにお揃いの下着の上に、さっとトレーナーを着込んだ。
「乾かします」
 脱いだワンピーススーツと脱がれたエメラルドのスリップドレスをドライヤーで簡易的に乾かすことに。
 准将は上下を着終えると、また疲れたようにしてベッドに横になった。まだつらそうだった。
 気まずい空気だけが、心優という下っ端隊員の個室に充満していく。
 洗濯物が干せるバーにジャケットとワンピースをかけて、ドライヤーで乾かした。
 こちらも品の良い濃紺、そしてジャケットの衿には真っ白なレエス。
「素敵なお洋服ですね。憧れます」
 空気が重いから、なんとなく言ってみただけだった。するとミセス准将は仰向けになってぐったりしたままでも、くすっと笑ってくれた。
「結婚してからなのよね。私が、そんな女らしい服を自分から着ようと思うようになったのは」
「そうなのですか。もう、わたしからみたら、本当に素敵な大人の女性ですよ。いい匂いがするし、ランジェリーも……素敵です」
「それも結婚してから。それまではチェックのシャツに、デニムだったの。下着もスポーツブラか、肌に馴染むベージュかブラウン色ばかり。靴も踵がなかった。足首まで固めるようなブーツを履いていた。すぐに身体が動かせるようにしておきたかったの。でも、大佐嬢と呼ばれるようになってからヒールのある女性らしい靴を意識した。『彼』に綺麗な大人の女性だと見られたくて――」
 ドライヤーを動かしていた心優の手が止まる。
 それって……。今のわたしにそっくり? 塚田少佐が言っていたことを思い出す。『長沼准将は、園田はミセス准将の若い時に似ているってね』。いまは優雅な大人の女性でも、この人もパイロットとして一直線だった時は、心優と同じだった? しかも『彼に綺麗に見られたかったから』だなんて。同じ『女の子の気持ち』をこの人も持っていたんだと、急に親近感が湧いてきた。
「彼というのは、ご主人の御園大佐のことですか?」
「うん、そう。彼、私よりずっと大人だったから。仕事は私の方が上官でも、結局、仕事も男としてもなんでも『お兄さん』だったから。女としては背伸びばかりしていた」
 同じだ、本当に今の心優に似ている。どこか共感を覚えずにいられない。年上の敵わないやり手の男性『臣さん』に、いままで女として無頓着だった自分が、この人のために女になりたいとちょっと背伸びをしているところが。
 エメラルドグリーンのスリップドレスを乾かしながら、心優は年上の女性の生きてきた道に思いを馳せる。こんな傷だらけの身体なのに、でもとても綺麗。女っぽくて素敵。こんな魅惑的だけれど沢山の傷を持つ女性の旦那様になった御園大佐は素晴らしい男性だと思う。
 だけれど心優は御園大佐を遠くに見たことはあるけれど、まだ挨拶を交わしたことはない。秘書室の兄さんに親父さん達は『長沼准将の天敵』と呼んでいる。御園准将だって天敵みたいなものなのに、長沼准将が本当に構えて本気になるのは『御園大佐』だと言っている。そのせいもあるのか、『御園大佐は一切、こちらの長沼准将隊長室には訪ねてこない』、もし彼が長沼准将隊長室を訪れたなら、その時は彼が本気の交渉に来た時。ミセス准将以上の爆弾要求をする。奥さんはいつも台風だけれど、旦那さんは一年にあるかないかの爆撃をすると。
 そんなご主人と聞いていた心優は『流石、ミセス准将の旦那様』といつも思っている。でも遠くから見ていると、普通の日本人男性のおじ様にしかみえない。地味目で眼鏡の男性で、如何にも『理系日本男児』というかんじで。華やかなクウォーターの奥様と並ぶと、彼が影になってしまうのではないかと思うほどに。まだお二人が並んだところを見たことがないけれど、でも横須賀基地の誰もが『影の男』と恐れているところがある。
 勝手な物思いに耽っていると、静かな寝息が聞こえてきた。また、眠っている。今度の寝息はとても安らかだった。
 そんなミセスを、心優はそっと上から見つめた。
 この人が、沢山のパイロットを引き連れて、五千人ものクルーの頂点に立つ女性?
 いつもの制服姿の彼女なら、立派な肩章と階級バッジに彩られたオーラに包まれていて女王様に見えるのに。今日の彼女は、心優と同じ男性を想って生きている女性だった。
 ミセスの身体にそっとタオルケットをかける。外から雨の音……。

 

 夜になって、警備の宮下さんが心優とミセスの夕食を人目を避けて運んできてくれた。でもミセスは目覚めては眠ってを繰り返していて、まるで冬眠でもしている生物のようにして、食事はとらなかった。
 雨の音が激しくなる。夜がただ更けていく――。大ボスからの連絡はまったくない。
 どういうつもりなんだろう。こんな体調の人を、半日以上も放置しているだなんて! 本当にここからうまく連れ出すつもりなのだろうかと心配になってきた。
 心優の部屋の窓がまた光った。そして雷鳴が――。また激しい雷雨になる。
 でも、また雷が光ったその時。心優の部屋のドアが暗がりの中開いた。
 そこに、黒いスーツ姿の男性が現れる。稲光に、彼の眼鏡のレンズが鋭く反射した。
「妻の葉月は、こちらですか」
 妻というその男性の顔を確かめ、心優は驚きで息を止める。
「御園、大佐――」
 スーツ姿で一目ではわからなかったが、その人は確かに『御園工学科大佐殿』。ミセス准将の夫だった。
 まさか。小笠原にいるはずの彼女の夫が、本当に妻を迎えに来てしまった。

 

 

 

 

Update/2014.12.16
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