◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 14.初めまして、工学科大佐殿。  

 

 雷鳴の中、その人はゆっくりと心優の部屋に入ってきた。
 しかも一人ではない。その後ろにも黒スーツ姿の外人、栗毛の男性がいた。
「園田さんですね」
 眼鏡の男性と初めて目が合う。
「はい、そうです。初めまして、御園大佐」
 心優から敬礼をして、一礼をする。
「初めまして、御園です。妻が迷惑をかけまして、申し訳ありませんでした」
 また誰もが知っている上官に頭を下げられてしまい、心優は当惑するしかない。
「葉月は……」
 心配そうに彼が暗がりの部屋のどこに妻がいるのかと辺りを見渡した。ベッドを見つけ、ほっとした顔をしている。
「いつから眠っていたのかな」
「ここに来た時から、目を覚まして暫くお話ししたら、また眠ってしまうことを繰り返しております。夕食は召し上がりませんでした」
「そうですか」
 眼鏡の旦那さんが、呆れたため息をついた。
 黒いスーツにドビー織りの水色のシャツ、そして揃えたのか同じくドビー織り無地の白いネクタイという、とても爽やかな出で立ちの大佐だった。
 いつも地味目で、よくいる理系の眼鏡男。と思っていた心優だが、目の前で御園大佐を見ると爽やかな品の良さがそこはかとなく漂っていて上流社会の匂いをまとっているのを感じていた。
 普通の男性に見えていたけれど、やはりこの人も御園家の男だと感じざる得なかった。だから、心優はその人を初めて目の前にして、なにも言葉を発することができなくなった。
 なのに、そんな心優のことを知ってか。御園大佐が優しくにっこり、眼鏡の顔で微笑んでくれる。その目が、どこか臣さんに似ていると思った。爽やかなんだけれど、どこか情熱的で、そう見せかけて腹の奥では冷徹なことも秘めている。雅臣がシャーマナイトなら、この人はホークアイの目。遠くまで見えている鷹目石のような青黒い眼差し。
「妻の不始末で、早退扱いになるようなことをさせてしまって、本当に申し訳なかったと思っています。しかも駐車場から、ここまで運んでくださったとか」
「鍛えておりますので、大丈夫でした。ですけれど、奥様はここに到着された時、幾分か吐いています。それから眠ったり目覚めたり……、その間も数回、吐かれました」
「あの症状が出た後、葉月は吐いたり、めまいを起こしたり、酷い時には熱を出します。急激に精神を疲労させるせいか、回復させるためなのか、眠りに落ちます」
 『エド、頼む』。御園大佐は背後に控えていた栗毛の男性にそう告げると、栗毛の男性が『かしこまりました』と一礼をした。そして、颯爽と准将が眠っているベッドへ向かった。
 その男性を見ていると、片手に持っていた鞄から、医療道具が出てきたので心優は目を丸くした。
 『エド』とは、御園准将のプライベートボディガードではなかったのか。眺めていると、彼はテキパキと『点滴』の準備を始めてしまった。
「彼は医師でもあります。これで妻の容態も安定するでしょう。今夜はすぐ近くに住まう御園の両親の元へ連れて帰ります。点滴を終えるそれまで、ここにいさせてください」
「それは構いません。でも、安心いたしました……。ご主人の御園大佐がいらしてくださって……」
 緊張が解けたのか、つい心優は涙を浮かべてしまった。
「本当に助かりました。事情を理解してくれている長沼さんの秘書室の方で。他の隊員に知られたら、大変なことになるところでした。いえ、もしそうだったとしても、『どんな手を使っても』伏せたと思いますが……。貴女で良かったと安堵していたところです」
 穏和な笑顔と眼差しを心優に向けながら、『どんな手を使っても』と優しい声で言い放つ御園大佐。心優の涙が瞬時に止まる。先ほどの大ボスが基地では許されない行為を平気で使おうとしていた思考と似ているとゾッとした。
「……隼人、さん?」
 ベッドからか細い声が聞こえ、心優の目の前で穏やかに微笑んでいた大佐の表情が固まった。
 彼がゆったりとベッドへと向かう。『エド』という男性が、ミセスの腕に点滴の針を刺し終えたところ。
「来てくれたの」
 ミセスが夫を見つけて、静かに起きあがった。
 眼鏡の横顔が凍っているように心優には見えた。物腰の柔らかい静かな人で、そして、動揺しない人。穏やかそうな微笑みが印象的な人。じゃじゃ馬嬢様のミセス准将を包みこんでくれる人。そう思っている。そんな旦那さんが迎えに来てくれたのだから、これからミセスは優しく抱かれて安心することができるだろう――、そんな心優の安堵。
 だが、遠く光る稲光と共に、彼の黒い眼鏡のフレームが光り、部屋に『パシン』という乾いた音が響いた。
 御園大佐の手が、妻の頬を叩いて空を切っていた。そして、起きあがった御園准将の栗毛が宙に乱れ、彼女の身体が傾き、頬が赤くなっている。
「隼人様……、そこまでされなくとも」
 栗毛のエドが御園大佐の足下に跪いて頭を下げている。忠誠を誓っている家臣のように。ボディガードという雰囲気ではなかった。
 だけれど、御園大佐は眼鏡の冷たい眼差しで、栗毛の男を鋭く見下ろしている。
「エド。これ以上、葉月を甘やかさないで欲しい。部下の秘書官を困らせるのも大概だが、エドにここまでするのは俺は許せない」
「私はなんとも思っておりません。むしろ……、この私に、お嬢様がそこまでのことが出来るようになったのだという感心すら」
「なんだと。もう一度、言ってみろ」
 御園大佐らしからぬ、ドスの利いた重い声色に、エドという男がさらに頭を下げて黙り込んでしまった。
 ミセス准将は、迎えに来た夫にいきなり張り倒されて呆然としてる。
「葉月。俺はあそこに行くなと何度も言ったよな。こうなることは目に見えていたよな。まあいい、おまえはどうしても行きたいなら行くと思っていたよ。ただし、その時には、せめてエドも一緒に付き添わせてだと思っていた」
 ベッドでうずくまる妻に、背が高い夫が上から見下すような威圧感。心優はこの部屋から出て行きたくなった。
 こんなのミセス准将ではないし、まさか、あの御園大佐が……、こんな恐ろしいゴッドファーザーみたいな人だったなんてショック。でもよくよく考えれば階級は大佐でも、唯一ミセス准将を飼い慣らしていると言われている男性であって、御園家の婿養子でもあって、跡継ぎ娘がいるとしても彼も『当主』と同等になる。エドという男が、あれだけ傅(かしず)いているのは、御園大佐がそれだけの威厳と権限を持っているからなのだろう。
「隼人様。私がお嬢様の願いを拒否したからいけなかったのです。隼人様がおっしゃるとおりに、私さえお嬢様に付き添っていれば」
「いいや。これだけ横須賀の様々な隊員に迷惑がかかることも、長沼さんに負担がかかることも、そしてなによりも! これから空母に乗らねばならぬ責任があるのに、それを無にするかもしれないリスクを忘れて、その垣根を越えた『身勝手さ』について、考えが及ばない『お嬢ちゃん気分』が許せないと言っているんだ」
「ほ、本当にごめんなさい。反省しています」
「どうだか。今までも、そうして何度も自分の思い通りにしたいことには、周りの心配も迷惑も顧みずに、独走していったよな。今回ばかりは、俺も怒りが収まらない」
 すごい気迫の旦那様で、あのミセス准将が震えている。
 でも、心優はそこで『違う』という気持ちが渦巻いていた。
「もう、二度と致しません。あそこには行かない。もう……、駄目だとわかったから」
「秘書官を弄ぶように姿をくらますのも、そろそろ控えて欲しい。それと同様のことを、エドに対しても二度とするな。今度同じ事をしたら、エドをボディガードから外す。おまえの為に日本に残って、おまえの都合に合わせていつだってそばにいてくれる。本来なら、ジュール同様に大きな事業を抱えて活躍できる男なんだぞ。日本に残るために、その事業も全て部下に譲って単身で仕えてくれといるというのに」
 そして、御園大佐は、言い返せずに項垂れている妻に最後のひと言を投げつけた。
「俺も、そんな妻の面倒は見きれない。御園を出て行く。わかったな」
 それってつまり……。『離婚』ってこと? 冷たい男に言われるだけ言われて、あの女王様が小さくうずくまっている。その時、心優には『霧雨の中の熱い涙』が湧き上がっていた。
「お待ちください。御園大佐」
 他人など入れそうもない切りつめた空気の中へ、後先考えずに心優は飛び込んでいた。
 まるで、理不尽な夫から、無抵抗な妻を守るが如く。御園大佐の前へ立ちはだかっていた。
「園田さん?」
 彼も不思議そうだったが、心優の心も恐ろしさに震えながら、でも口を開く。
「そんなにお叱りにならないでください。少しは奥様の気持ちもお聞きください! 御園准将があの場所にどうしても行きたかったのは、御園大佐のためでもあったとわたしは思っています!」
 それまでキリキリとした鋭さをまき散らしていた御園大佐の表情が、一気に緩んだので、意外すぎて心優は驚いてしまう。
「い、いいのよ。園田さん」
 ミセスが止めたが、心優は女性の彼女を守るかのように立ちはだかって続ける。
「結婚を約束して帰ってきた幸せな場所。その記憶だけを残したかった。嫌なことがあった場所でも、その想い出が勝っている。あの場所がなくなる前に、記憶を上書きして、ご主人との素敵な想い出だけを残したかった。そんな奥様のお気持ちは、ご存じなのですか」
 面食らっている御園大佐の顔がそこにある。青みがかった黒い鷹目石と目があって、心優は自分が大それたことをしたのだと我に返った。
 眼鏡の奥の目が、妻を睨み付けていたように険しくなった。心優は蛇に睨まれた蛙になる……と思ったのだが。どうしたことかそこで、御園大佐が意味深な笑みを浮かべている。
「ふうん」
 ニヤリと怪しく微笑みながら、御園大佐が顎をなぞる。そして一歩踏みだし、心優の顔を覗き込み、右、左と値踏みをするようにあちこちを眺められた。
「なるほどねえ。長沼さんが選んだだけあるなあ。なるほどねえ」
 それまで恐ろしい君主のようだった御園大佐が、いつも心優が遠くから見ていたにっこり優しい理系男子の笑顔に戻った。
「園田さん、ありがとう。妻が言いたいことが良くわかりました」
 といって、心優の肩を優しく掴むんだ。でもそっと、でも優しく目の前から除けられてしまう。つまり優しいけれど『どけ』と言われたのと同じだった。
 しかも、笑顔が怖い。長沼准将も得体が知れないけれど、臣さんもお腹に冷たさを備えているけれど。御園大佐の笑顔はもっと怖い。でも掴まれた肩への優しさには労りがあった。不思議な感触。
 心優も素直に、また後ろに控えた。御園大佐が泣いている奥さんへと、また向き合う。今度は、ちゃんと彼も彼女の目線に合わせて床に膝を落として。
「馬鹿だな。俺と一緒に洞爺湖に行った想い出もあるだろう」
 そこにはもう、恐ろしい君主のような男も、怒っている夫の横顔もなかった。
「帰ろう。葉月」
 大きな手が、淑やかな栗毛をそっと撫でた。それだけで心優の胸が急にドキドキし始める。
「はあ、心配させるなよ。なにやっているんだ……。でも、わかった。おまえが、どうしてあそこに行ったのか、わかった。ごめんな、俺が一緒に行ってやれば良かったのに」
 その男性の手に、心優は愛おしさを見てしまったから……。男の人が大事な女性を、夫が妻を労る優しさが滲み出ていた。
「でも、貴方だって、あんなところ行きたくなったでしょう」
「……そうだな。俺は、さっさと建物が建って消えてしまえと思っている……。おまえが、死にそうになった顔なんか、思い出したくない」
 そうか。そう言うことにもなるのか――と心優はハッとした。ミセス准将がご主人に内緒で、自分だけあの場所に行ってしまったのは何故か。旦那さんにとっては、結婚を約束した帰りに妻にしようとした女性が血を流して倒れていたのを見てしまった場所になる。旦那さんにとってもトラウマに決まっている。奥さんがそこで悪魔の顔を刻んでいるなら、旦那さんは今にも死にそうな彼女を脳裏に焼き付けている。
「ごめんなさい。隼人さん」
 あのミセス准将が、夫の首にぎゅっと抱きついて離れなくなった。
「帰ろう。海人が心配して待っているから」
「うん」
 抱きついている妻を、御園大佐もぎゅっと抱き返して、何度も栗毛の頭を撫でている。
 まるでロマンス映画のようなムード。先程まであんなに恐ろしい空気でキリキリしていたのに、急に甘い雰囲気が漂っている。
 もう唖然とするしかない。上から突き落とされる恐ろしい目に遭ったと思ったら、最後はこんな『のろけですかっ』と突っ込みたくなるような終止符にぐるぐると振りまわされるジェットコースターに乗せられた気分。
 でも、心優はそんなミセスを見て、ちょっと涙ぐんでいたから困ったもの……。お騒がせなんだけれど。なんだろう。理解できない女性上官だと思っていたけれど、違うみたい――と、彼女を近く感じている。知っている女性が、思い悩んでいた気持ちを愛する人に伝えて通じた。その姿を見届けられてほっとした『女の気持ち』だった。
 やっぱり。二人は最強の夫妻だと初めて心優は感じていた。奥様はお嬢様で上官で、ちょっと我が侭なじゃじゃ馬台風。それに振りまわされているけれど、そのじゃじゃ馬をうまく乗りこなせてしまう旦那様。国防の最前線に出て行くミセスが、いまや信頼される艦長であるのは、きっとこの人が影で支えていることがとても重要で大切なことなのだと感じられた。
 栗毛の妻を抱いて安心させると、御園大佐はミセスをもう一度横に寝かせた。
「エド。少し出てくる。葉月を頼む」
「かしこまりました。隼人様」
 黒いジャケットの裾を翻し、御園大佐が背を向ける。その律した姿は、もう『御園大佐』だった。
 旦那さんが出て行くと、ミセス准将は安心したのかまた眠りに落ちた。
 エドという男性はじっと黙っていて、決して心優に話しかけることはなく、お嬢様のそばから片時も離れない徹底振りだった。

 

 夜半になって、御園准将はご主人の御園大佐と、付き添いのエドと共に、静かに寄宿舎を出ていった。
 こんな夜中にどうやって基地から出て行ったのかはわからないけれど、あの人達なら、出来ないこともあってはならないことも、出来てしまいなかったことにしてしまうのだろう。そう思った。
 翌朝、今度は心優が体調を崩した。そんなことは滅多にないのに、熱を出してしまったのだ。
 その時、心優は思った。あの人達の強烈な夫妻愛を目の当たりにして、知恵熱みたいなものが出たのだと。本気で思った。
 実際は、訓練後に汗をかいたまま雨に湿ってしまい、自分よりもミセス准将のことにばかり気遣っていたことが、本当の原因だろうけれど。心優の頭の中は、あれから何度も、御園准将と御園大佐が残した夫妻のやり取りが繰り返されている。
『園田。大丈夫か。悪かったな、ミセスの世話を任せてしまって。この一年半、園田は皆勤だったな。疲れも出たということにして、ゆっくり休めばいい』
 大ボス自ら心優に連絡をしてくれて、そう労ってくれた。
 心優はそれから三日休むことになった。その間に、雅臣から何度も連絡があった。
 でも心優は電話には出ずに、SNSのメッセージに『大丈夫です』と応えることしかできなかった。

 秘書室に行かない日なんて、気が抜けてしまいなにもやる気が起きなかった。それほど、今の心優には休暇は退屈。
 でもその退屈な隙間に、嫌なものが入り込んでくる。雅臣の『あの人』の本当の姿を知ってしまった。そんなことも知らずに雅臣は『女王様であるあの人』を追いかけている。
 ミセス准将を身近に感じられたのに。それと引き替えに、今度は雅臣を遠く感じている。
 雅臣はきっと、いまもミセス准将の隣にいる。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 復帰してから、心優は仕事の遅れを取り戻すためにがむしゃらに、担当の仕事に取り組んだ。
 出勤をすると、デスクに雅臣が約束してくれた『甲板要員、ジャケット色分け早見表』が置かれていた。
「熱が出たんだって? 大丈夫だったのか」
 隣の席の塚田少佐も心配をして待っていてくれた。
「面目ないです。体調を崩さないのが自慢だったのに。もう若くないってことなんでしょうかね。やっぱり十代のピークの時のようにはいきませんね」
 それらしいことを言って、自分の身に起きたことは仄めかすことも許されないと心優は心を堅くした。
 秘書室にいる限りでは、雅臣は心優のことなどちらりとも見てくれない。勤務中は、すべてを教育係の塚田少佐に任せているから、心優が知っている穏やかさで雅臣が向き合ってくれるのは二人きりの時だけ。
 ここのところ、心優の心には翳りがある。雅臣が二人きりの時には、とても可愛がってくれることは良くわかっている。でも、どうしても、どうしても。雅臣の奥底にしまってある『本心』が、心優をそれ以上にしてくれない。
 まだつきあい始めばかりだから、将来的なことなど心優も考えられない。それでも、彼の中で最愛とも感じられない。
 女として今はいちばんでも、彼の人生の中でいちばんではない。そんなジレンマに襲われている。
 もしかして。他の別れた女性達も、この壁にぶつかったのだろうか。そう思ってしまうほどに、心優の心はかき乱されている。
 それでも好きだから。やっぱり、雅臣を見たら笑って欲しいから。心優も、お猿さんになった彼を抱きしめたいから。だから、その日も官舎に行ってしまう。

 でも雅臣は、そんな心優の様子にちゃんと気がついていた。
「熱を出してから、元気がないな。隊長がいうように、疲れでもでたのか。心配だな」
 二人で簡単な料理をして、一緒に夕食をとることも多くなってきた。
 独り暮らしをしている彼のダイニングテーブルで向き合って食べていると、長い腕が伸びてきて、心優のおでこを優しく触ってくれる。まだ熱があると思っているようだった。
「大丈夫ですよ、臣さん。ほんとうに、体調管理を怠っただけだから」
「そうか? 仕事もなんだかずうっと力んでいるだろう。この前も言っただろう。まだ提出は先なんだから、もうちょっと慎重にゆっくりやってほしいんだよ。その方が覚えられるから」
 上司の厳しさでもなく、先輩としての優しさを感じる言い方だったが、それでも心優は『臣さんはわかっていない』と密かにむくれてしまう。
「心優、ほんとうにどうしたんだ。ほんとうは、他になにかあったんじゃないか。長沼准将が妙に気遣っているようにも見えるし」
 どっきりとする。秘書室長にまで上りつめた男、元エースパイロットの目は、やっぱり節穴じゃないと心優は硬直する。
「皆勤のわたしが熱なんか出したから、びっくりされたのでしょう。なんですか、皆さんで、わたしが熱を出したらこの世がひっくり返ったみたいに、大丈夫大丈夫って」
「心配しているからだよ。それに……。心優がいない秘書室が、急に男ばかりになって、女の子の柔らかさをそばに仕事をしていたのが、いつのまにか当たり前になっていたんだなと、皆で話していたところだよ」
「そう、なんですか……」
 そんな話を聞くと、ちょっと申し訳なく心優は思った。雅臣の心を占めたいと思うと、『わたしなんて』と苛ついてしまうのに。秘書室では大事な一員だと教えられると、それだけで力無くとも頑張ろうとも思わせてもらえる。
「俺だって、寂しかったんだからな。いつ心優が会いに来てくれるのかと……。俺も、当たり前になっていたかな」
 一緒に食事をしながら、彼がそう言ってくれただけで、心優は泣きなくなってしまう。これでいいんだよね。これで……。別に雅臣はあの人に恋をしているわけではない。手の届かないところに行ってしまった過去を大事にしているだけ。
 それぐらい、なんともない……。なんともないと、思えば大丈夫。
 食事を終えて、二人で片づけをする。なんでも二人でしているこの時間が、心優以上に雅臣はご機嫌になる。鼻歌を唄いながら、心優が洗ったお皿を綺麗な布巾で拭いて、小さな食器棚に返す。秘書官をしているせいか、一般的な家事はだいたいこなせる。そして心優だけに押し付けない。
「俺が選んだ食器は味気ないから、心優が好きな女の子らしい食器を持ってきてもいいからな」
 シンプルな白い食器しかない。彼にインテリアのこだわりはない。
 それは心優も一緒だった。でも、心優は違うようだった。『女だなあ』と思うことが多くなってきて、女性雑誌を覗くことも多くなったし、こんなものが欲しいと思う気持ちがいっぱい芽生えていた。
 食器棚に向かっている雅臣の背中に、心優から抱きついてしまう。
「ありがとう、臣さん」
「あれ? 心優から抱きついてくるって珍しいじゃないか。なんか変だなあ。本当は心配なことでもあるんじゃないのか」
 この人は、やっぱり大人。一人だけ抱えてしまった秘密が自分になにを起こすか心配で不安で、でも言えなくて。甘えたい気持ちがある。その甘えたい気持ちを見抜いてくれている。いままでは甘ったるい自分など似合わないと思っていた心優だったが、最近はもう雅臣が頭を撫でてくれたら、その胸にすっぽり埋まって溺れてしまう。
 この晩も心優は雅臣と夜遅くまで肌を貪って、寄り添って眠った。
 こうして彼と幾夜も愛しあっていけば、三ヶ月以上愛しあっていけば、必ず、彼は心優をいちばんに見てくれるはず……。そう願いながら、彼の肌を心優も愛す。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ミセス准将に乱された日常を取り戻した頃だった。
 寄宿舎の食堂で朝食をとっていたら、女の子達がざわざわと噂をしていた。
 同じ護衛部にいる女性先輩を見かけたので、心優は隣の席に座って『どうしたのですか』と聞いてみた。
「警備の宮下さんが、急に転属になったんだって」
 え! 心優も当然驚く――。だが心優の驚きは、他の女性隊員とは異なっていた。戦慄すると言った方が良い。
「ど、どちらに転属に……」
「どこか詳しい部署はわからないけれど。小笠原みたいよ」
 お、小笠原! 今度は血の気が引いた。
 間違いない――と、言いたいけれど、そうとも限らない? もうすぐ夏の異動時期。長年、横須賀で警備に勤しんできたお局様が、それに合わせて何処かに辞令が出ただけの話。でも時期が早い――。だから皆が『なにかやっちゃったの』とひそひそと囁きあっている。
「仕事に厳しすぎて口うるさいところはあったけれど、悪い人じゃなかったよね。むしろ、宮下さんならこの寄宿舎を守ってくれたのに……と、惜しく思うほど。皆も、ウザイウザイと言っていたけれど、本当は宮下さんを頼りにしていたこと今頃気がついたんじゃないの」
 宮下さんぐらいの年齢を目の前にしている女性先輩だかこそ、そこは口惜しく思っているようだった。
「でも、宮下さんなら……。ここだけじゃなくて、他でもいい仕事しますよね。きっと」
「そうそう。小笠原は離島で島流しみたいに言われる時もあるけれど、はっきりいって、独身女性なら、あそこで働いた方が良いポジションをもらえることもあるからね。横須賀は日本社会寄りだから男性が優位なところがあるけれど、小笠原ではミセス准将もいるせいか、アメリカ寄りで女性事務官の起用も活発だしね。ご主人の御園大佐は毎年一人新人の女性隊員を引き取って、立派に仕込んで各部署に送り出すことも有名じゃない」
「え、そうだったんですか」
「そうよ。確か、小笠原連隊長の、細川少将に頼まれてやっているみたいよ」
 わー。あの旦那さんなら『女性もきちんと扱えます』となんなく育て上げられるイメージが易々浮かんでしまう。
 それと同時に、あの御園夫妻のことを思い出すと、また熱が出そう……。強烈だったあの夜を思い出してしまう。
 それから暫くは、宮下さんがどうして――という話題で持ちきりだったが、それも一週間もすれば立ち消えていった。それもそのはずで、また宮下さんのような口うるさいベテラン女性警備隊員が配属されてきたからだった。
 それが安心できるくせに、また新しいオバサンはウザイと若い子達が影で言う。それも、日常で、繰り返し。宮下さんでも、新しいお局様でも、誰が警備しても同じ事だと誰もがわかった安心から話題にならなくなったのだろう。

 

 だが、心優には一抹の不安を残していた。
 もし宮下さんが、御園准将のPTSDを目の当たりにしてしまった隊員として小笠原に転属になったのなら……。
 それはきっと御園の監視下に置くために、小笠原に、手元に来るようにさせられたのだと心優は感じていた。
 だったら。自分は? 御園夫妻のあんな姿まで見てしまった自分は?
 でも。きっと大丈夫。自分は、ミセス准将と親しい長沼准将の部下だから。大ボスの監視下にさえあれば、また心優も誰にも言うつもりもない覚悟を決めているから、御園夫妻も安心してくれているだろうと思っている。

 梅雨が明け、横須賀にも真っ青な空が戻ってきた。それと同時に、蒸し暑い夏の到来。
 白い半袖シャツ、肩には黒い肩章、そして黒いネクタイ。室内では夏服の爽やかさで仕事に勤しんでいる秘書室。
「御園大佐が来られた。お茶を頼む。カフェラテじゃなくて『カフェオレ』だから間違えるなよ」
 電光石火の衝撃が、兄さんと親父さんの間に走ったのを心優は見てしまう。
 ミセス准将が来た時よりも、青ざめている。
「どうして。御園大佐が」
 塚田少佐も信じられないという顔で、城戸中佐に尋ねている。
「わからない……」
 雅臣すら困惑していた。
 そしてどうしたことか、中佐の顔をしているはずの雅臣が、臣さんのような目で心優を不安そうに見た。中佐殿がそうして心優を見ているので、秘書室メンバーの視線が心優に集中してしまう。
「ど、どうかされましたか。中佐」
 どこか心苦しそうにして、雅臣がやっと中佐の顔で心優に告げる。
「長沼准将が隊長室に、園田をお呼びだ」
 驚いた皆の顔、そして視線が今度は心優ではない、雅臣に集中した。
 隣の席の塚田少佐が立ち上がった。
「どういうことですか」
 下っ端の心優が、どうして『爆撃にくる御園大佐』が来た時に、隊長室に呼ばれるのだ――。その理由が見あたらないから、塚田少佐も慌てている。
「園田。御園大佐もお呼びだ。すぐに隊長室に」
「かしこまりました」
 彼が来る時は、『なにか獲物を狙って、長沼准将から捕獲する時のみ』。だから、皆が『今度はなにを捕獲しに来た』と騒然としている。
 心優は嫌な予感に、もう震えていた。
 隊長室に向かうと、本当にあの御園大佐が、この日は制服姿でソファーに座っていた。
「初めまして。園田さん」
 眼鏡の奥のホークアイが、にっこり緩んでそう言った。もうそれだけで、心優の背筋は凍っていた。
 初めまして――と、平然と言いきるその笑顔が、やっぱり怖い。目もちゃんと笑っているけど、どこもかしこも爽やかな笑顔なのだけれど、目の奥が怖い。千里の鷹目。
「は、初めまして。御園大佐。園田と申します」
「お噂はかねがね。妻からも良く聞いております」
「園田。ここへ」
 長沼准将が、隣に座るように心優を促した。大ボスの隣に座るのも緊張するのに、目の前には、掴み所のない御園大佐がにっこりと眼鏡の微笑みを浮かべて心優を見ている。
 雅臣も落ち着かない顔で、長沼准将と心優が座るソファーの後ろに控えている。
「いえね。妻が常々、園田さんという可愛らしい女の子が長沼さんのところにいるのよ。空手をやっていたのよ、どんどん可愛くなってきて、最近、会うのがとても楽しみなのよ――と、まるで自分の妹みたいに自慢するんですよ。だから、僕も一度、園田さんと直接話したくなってしまいましてね」
 うわー、胡散臭い喋り方! と、心優は唖然としてしまった。ちゃんと会ったことがあるのに、挨拶を交わしたこともあるのに。如何にも今日が初めてです――、しかも、奥さんが『妹のように』なんて、絶対にミセスの言葉ではなくて、この旦那さんがそう思わせるために勝手に言っているんだと思った。
「長沼さんからもいろいろと、園田さんのお話を聞かせてもらいました。そこで……」
 心優が恐れていたことを、御園大佐が言い放つ。こんな時だけ、眼鏡の奥の黒いホークアイが、青く光った。
「是非、小笠原に来て頂きたく思っております。御園准将のそばに。御園准将秘書室の護衛官として」
 もう御園大佐は笑っていない。狙った獲物は逃さない男の爆撃は、心優の引き抜きだった。
「御園准将直々の意向です。彼女は園田さんをそばに置きたいと望んでおります。この度は、そのことを伝える使命を仰せつかりました」
 眼鏡の怪しい笑みの男が、心優に恭しく頭を下げた。

 

 

 

 

Update/2014.12.21
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