◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 18.琥珀の目は誤魔化せない  

 

 第28連隊、小笠原総合基地。中隊が6隊ある。
 南の要塞なので、連隊長は大佐クラスではなく、将軍クラスが任されることになっている。
 連隊長は、細川正義少将。父親はこの基地で元中将で、空母全般指揮、空部隊の指揮官だったとのこと。
 息子の少将殿は、横須賀でも恐れられたやり手の業務隊長だったことで有名。シビアで手厳しく、あのミセス准将が恐れていると言われている男の一人。
 南の果てにあるこの街のような基地を取り仕切るのだから、余程のやり手ではないと連隊長に就任できない。
 整備と待機を目的としている空母艦を1艦、管理している。それをまた訓練目的で使用している。空母付きの基地で、アメリカ人隊員と日本人隊員が大半で、そこで御園大佐のようなマルセイユ航空部隊出身の隊員も少しずつ混ざっている。
 基地の隣はアメリカキャンプ。さらにその隣が日本人官舎となっていた。

 そんな大基地の中だから、右も左もわからない心優は、ただひたすら御園大佐の後をついていくだけ。
 御園大佐の後を歩いていると、すれ違う隊員の誰もが大佐に会釈なり声かけなり、なにかしらの挨拶をしていく。
 それを御園大佐は、あのにっこり爽やか笑顔で返していく。時には若い女性が嬉しそうに挨拶をして行くのも印象的で、その後ろにいる心優にも快い挨拶をしてくれた。横須賀転属の際、すぐに痛い視線を向けられた時とは随分と違う空気……。
 御園大佐、どうも慕われているようで意外だった。お腹の底でなにを考えているかわからない、いざとなったら手厳しくて奥様のミセス准将ですら真っ青になっていたのに。それとも誰も、そんな御園大佐の本性を知らないのかとさえ思ってしまう。
 中央に近い棟舎の三階へと、心優は連れてこられる。
「ここのフロア全体が、空部隊大隊本部だよ。会議室に、ミーティング室、本部事務所、そして戦闘機で訓練をしたデーターを一括管理している『空部隊システム管理室』――」
 そのフロアにはざわめきがあった。隊員達が大きな事務室で活気づいた様子が一目でわかり、そしてその大隊本部の一室が大きいこと。そこに、心優が知っている横須賀の大隊本部以上の人数がひしめきあっている。
 ここはなにもかもが『海外サイズ、アメリカサイズ』だと初めて圧倒された。
 しかもフロアが綺麗で広い。そこを御園大佐が通ると、一時だけ事務所のざわめきが静かになったのも印象的。遠くから『澤村大佐、お帰りなさい』という声まで聞こえてきた。
 大きな本部事務所を通り過ぎると、今度は木彫りが立派な大きな扉の前に――。壁の札には『空部大隊本部 大隊長室』とある。ミセス准将の部屋。
 そこに立つと、御園大佐が背筋を今まで以上に伸ばし、神妙な横顔でノックをした。
「工学科の澤村です。ただいま戻りました」
『どうぞ』
 聞き覚えのある声が聞こえて、御園大佐が扉を開ける。
「失礼致します」
 いままで威風堂々としていた御園大佐が、急に腰が低くなったので心優は戸惑う。
 彼の背について入ると、いきなり潮風に心優は包まれる。目の前にはエメラルドグリーンの海が広がっていて、開け放たれてる窓からさあっと風が――。そして、そこはかとなく『ジャスミンの匂い』。あの人の匂い。
 そこは、黒い気配など感じることもない『風の部屋』。
「准将。お連れ致しました」
 御園大佐が大きなデスクに向かって、恭しくお辞儀をしている。
 彼の向こうへと、心優は視線を馳せる。
「いらっしゃい。園田さん。待っていたわよ」
 扉と同じような木彫りがしてある木製の大きな机。壁にはずらっとバインダーが並べてある資料棚。そこに、白い夏シャツ、黒いネクタイを風に揺らしているミセス准将が悠然と立っていた。
 同じ准将で大隊長でも、横須賀の長沼准将隊長室の倍以上ある広い部屋。立派でゆったりと置かれた応接テーブルに白いソファー。そして珊瑚礁の海に、戦闘機が遠く見える空。ここはもう日本ではない、本当にアメリカのようだと心優はまた圧倒されていた。
「お久しぶりでございます。御園准将」
 心優も背筋を改め、ピシッと敬礼をする。
「この度は、こちら御園准将秘書室への転属をわたくしなどに申してくださいまして、ありがとうございました。まだ未熟なわたくしですが、准将の側で今まで以上に精進したく参りました。どうぞ、よろしくお願い致します」
 深々とお辞儀をする。声がかかるまで頭を下げていた。
「本当にきちゃったのね……。姿を確かめるまで、澤村の悪戯じゃないかと半信半疑だったけれど」
 悪戯? そこで心優は頭を上げてしまう。正面で目があったミセス准将は、心優がよく知っている静かな微笑みで、妙にほっとしてしまう。
「悪戯とは酷い疑いをかけられたものですね。彼女を引き抜くのに、長沼さんの条件を飲まなくてはならなくて、その各所説得に私が走り回ったというのに」
 御園大佐が、ここでは本当に『部下』の姿に変貌した。心優が初めて知った御園大佐は、奥様を頭ごなしに叱りつける怖い旦那さんだったのに。
「よく言うわよ。貴方なら、私を驚かすための悪戯をする時なんて、如何にもそれらしいことを本気で平気でやって、最後になって『あれは嘘でした〜』なんてお手の物じゃない」
「心外ですね。私、そんなことをしたことありましたか」
「あったでしょう〜。基地中を巻き込んで、大騒ぎになったでしょう」
「そうでしたか。私としては、あれは本部の気を引き締めるための荒療治と思っていましたけれど」
「そうだったの。あら、ありがとうございました。その為なら、隊長の私に迷惑かけるのも平気ってことが、あの時よーく解りましたからねえ」
 またここでも。奥様のミセス准将と、旦那さんの御園大佐が、『あはは』『うふふ』とやり合っている。
 あの長沼准将にミセス准将が互角の口でやりあえるのは、まさかこの食えない旦那さんと毎日こうしてやりあっているから? そう思えてしまった。
「来てくださって、ありがとう。そして、先日は私の不始末でしたのに、助けてくださってありがとうございました。本当に助かりました」
 あのミセス准将が、今度は心優へと深々と頭を下げてくれた。
「いえ、そんな。おやめください。出来ることをしたまでです」
「でも」
 ミセスが頭を上げると、もう准将という上官の冷めた目に戻っている。その目で心優は真っ直ぐ見据えられる。
「ここでもう一度、問います。本当に、この秘書室の護衛官としてやっていく決意なのね」
「はい」
 間を空けずに、心優ははっきりと答えた。もう後戻りをするつもりはない。真っ直ぐそこに行くだけ。
 そんな心優の目を、ミセス准将がじっといつまでもいつまでも見つめている。その目は、明るく深く、でも温かみはなく硬い眼差し。長けた能力を秘めたアンバー(琥珀)のよう。これが本当の氷の女王の目。
「わかったわ。では、こちらからも言っておきますね。貴女のような素直な女性が側にいれば安心できるかもしれないと何度も思ったのも確かです。だからって、部下になった以上、いままで私が部下にそうしてきたように務めて頂きます。よろしいですね」
 さらに後戻りは出来ないことに念を押されている。戻るなら今。どんなに請われて来たからとて、御園の一員になったからにはそれ相応の厳しさをその身に受けることは、もう当たり前になったのだと――。
「勿論です。精一杯、務めさせて頂きます」
 ここで、わたしは本当の護衛官になる。これからもう、ただそれだけの為に――!
「いい目ね」
 どうして誰もがそういうのか。心優は不思議に思っている。雅臣も、御園大佐も、そしてミセス准将までもが。
「選手時代の貴女の目が好きよ。すごく惹かれた」
 心優がいちばん燃えていた時の目のことを、人々はそうして讃えてくれる。その目を取り戻したというのだろうか。
「そこにいる夫の澤村にも何度も貴女のことは話しました。でも夫は貴女のことはよく知らないし、長沼さんが審査をして見つけた女性だから簡単に欲しいと言うなと何度も諫められてきたほど。貴女のことは私も気にしていましたよ」
 ――『妹のように話す』という御園大佐の話は、まったく嘘でもなく。そしてこの准将が心から心優が欲しいと思っていたのも確かだと知ることができ安心はした。
「ですが、澤村は貴女とたった一度会っただけで、私が何故欲しいと言い出したのかも瞬時に理解してしまった。そこからは、彼の名の如く【隼のように】です。狙った獲物は逃さない、素早く捕獲する――よね」
「うわー、准将が私のことをそんなに褒めてくださるとは嬉しいですねー」
 御園大佐が大袈裟に驚いて喜んだので、奥様の准将が白けた顔で呆れている。
 なのに。彼の顔つきがセスナで厳しいことを言い放った時の真剣な表情に変わった。
「暫くは、私の教育隊、工学科で預からせて頂きます。明日から講義に付きますので」
「お願いします。澤村大佐。業務については、私のところで。ラングラー中佐とハワード大尉にそれぞれついてもらいます」
「つきましては、最後に、准将より許可を頂きたいことが1つ」
 准将が『なに』と問うと、御園大佐が告げる。
「園田海曹に、射撃訓練をさせてください。貴女のいちばん傍にいる護衛になりますので、必要になりますでしょう」
 ミセス准将が驚き、心優を見た。この子に銃を持たせる? そんな反応。
 だが心優は覚悟していた。射撃訓練は訓練校で触りだけ指導してもらい、それ以来だった。事務官には関係のないもの。しかし心優はもう事務官ではない護衛官だ。『小笠原に行けば、傭兵の訓練を必要とされる』。秘書室で先輩が案じていたことそのままが始まろうとしている。
「よろしいでしょう。事故のないよう、お願いします」
「海野副連隊長直々の指導をお願いしております」
「へえ、そうなの。ふうん、いいんじゃないの」
 副連隊長直々と知ると、どうしたことかミセス准将が素っ気なくなる。そして御園大佐はそんな奥様を見て、ちょっと笑いを堪えているようにも見えた。
 『失礼致しました』。准将室を退室する。またざわめきの本部廊下を御園大佐と歩く。
「園田のデスクは、今日のうちに准将室に置かれると思う。朝はまず御園准将と室長のラングラー中佐に顔を見せ、それから俺が居る工学科の講義室で待機していること」
「承知致しました」
「なにか質問は」
 ひとまず、すぐに頭に浮かんだことを心優は聞いてみる。
「射撃訓練の心積もりは整えてきたつもりです。ですが、教官が副連隊長直々というのはどうしてなのですか」
「海野准将は、フロリダの海兵特攻隊だった時から、射撃の腕は誰にも負けなかったからだよ」
「そのような方からわざわざ……?」
「海野は、俺よりも先にミセスの側近だった男だ。彼女の側近であること、またライバルであることで、彼女と誰よりも長く歩んできた同志だ。その彼女の横に常にいるべき女性護衛官を採用する。その話を聞いた時から、彼が射撃は自分が指導すると言いだしていたんだよ」
 副連隊長にとって、ミセス准将は大事な同志。側にいる女にはとことん仕込むという意気込みに、心優は改めてたじろぐ。
「彼女が大佐に昇格した『マルセイユ航空部隊、岬管制基地奪還作戦』の時、テロリストに捕らえられたミセス准将が『私ごと、テロリストを撃て』と命じた狙撃手は、海野准将だった。俺も側で見ていた。道を挟んだ建物と建物の間、海野准将は彼女の身体を傷つけることを躊躇いながらも、彼女の心臓を避け、今後の活動に支障がない見事な箇所を貫通させ、なおかつ、テロリストの心臓を一発で撃ち抜いた。それほどの腕前だから、彼から直々に指導されることは光栄なことだと思うよ」
 そんな凄腕の狙撃手から直々に――。でも、心優は震えた。
「わたしが、銃を……」
 ただ空手でやっていけると思っていた横須賀とは違った。
「もう感じていると思うけれど、横須賀はいってみれば『治安ある国内』であって、小笠原は『法が曖昧な国境、国外』だと思った方が良い。銃なんて必要ないと思っていただろう。しかし、国内でそうして穏やかな時間を当たり前のように思っているその裏側で、実は銃を握りしめて国境でその危機と隣り合わせである護人(もりびと)がいる。それを知って欲しいわけでもないし、忘れて欲しいわけでもない。ただそこに知られなくても、そこにいる人間も確かにいるということだ」
 それは解っていたつもりであって、でも、心優はそれが自分ではないと今まで他人事であったのも事実。これからは、自分がそこに行くことになるのだろう。
 小笠原は横須賀とは違う。心優、気をつけて――。雅臣の言葉が蘇る。彼の心配が今になって身に沁みる。そして小笠原になんか行くなと吠えた父の怒り顔も。
「銃の使用を正当化したいわけではない。無闇に使うのは間違っている。だが、今の世では、どうしても哀しみを生まないために必要なこともあるんだ。わかってくれるな」
「はい。勿論です。特に、ミセス准将はお母様でもありますから。お子様の為に、還ってこなくてはなりません」
 そのひと言は御園大佐の『哀しみを生まないために』という言葉から出てきたのだが、それを聞いた御園大佐が嬉しそうに微笑んでくれる。
 そして優しく、心優の背を撫でてくれる。
「園田もだ。園田も、お父さんとお母さんには大事な娘だ。それも忘れずに……」
 怖いようで。この人は優しいお父さんなのだと心優は初めて感じている。
「任務の最高の出来は、全員無事の帰還だ。御園准将のいちばん目指しているところだ。覚えておいてくれ」
「はい」
 ここは本当に任務で動く基地。今日から心優は、その任務に向かうための隊員としての訓練を受けることになる。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「おはようございます」
 朝はまず、准将室へと出勤する。
 まだ誰もいない准将室を掃除する。そのうちに、栗毛のラングラー中佐が出勤をする。
「グッモーニング、ミユ」
 綺麗な英語での挨拶。彼がまだ秘書官モードになっていない証拠。秘書室の標準語は、ミセス准将に合わせてだいたいが日本語。ラングラー中佐は秘書室では日本語を使う。なのに挨拶が英語なのは、まだ家庭から出てきたパパモードということだった。
「おはようございます。中佐」
「今日はいよいよ甲板だって?」
 心優の頬が自然にほころんでしまう――。
「そうなのです。やっとです。この一ヶ月、御園大佐のスパルタ講義でついていくのが大変でしたが、知りたかったことがいっぱいで夢中でした」
「あはは。毎日、張りきって御園大佐の講義に向かっていたもんなー」
「でも、テストばかりで毎日緊張です」
 『毎日テスト? 澤村大佐らしいね』と、ラングラー中佐も笑っている。
 その日の業務に合わせて、ラングラー中佐が御園准将のデスクに資料や書類を揃える。心優はその手伝いをする。
 秘書室にも、御園准将秘書官メンバーが集結する。大きな准将室と秘書室は、ドアひとつで連結している。それは横須賀の隊長室秘書室と同じだった。
 でも、ここの秘書室の空気は、そこはかとなく優雅。毎朝、准将が出勤する時間になると、扉の向こうから珈琲の匂いが漂ってくる。
 その頃になって、御園准将が出勤する。
「おはよう」
「おはようございます、准将」
 ラングラー中佐と共に、心優も御園准将に朝の挨拶。
 彼女の声は柔らかいのに、いつも朝の挨拶だからってにっこりと微笑んでくれるわけではない。固めたような真顔で『おはよう』と返される。なのに、ちょっと砕けた敬礼をかーるく返してくれる仕草はどこかお茶目で、それが彼女の愛嬌なのかもと心優は感じている。
 彼女が笑わないのは、もう既に准将として気構えているから。
 それでも彼女が来ただけで、隊長室がとてもいい匂いになるから不思議だった。トワレを沢山ふりまいているわけでもなく、さりげないのに。あまりメイクもしていなくて、きっちりと制服に女性の身体を包みこんでいるのに。女性の甘い、でも清々しい匂いが朝の潮風に混ざって隊長室に広がっていく。
「今日はなにがあったかしら、テッド」
「ミユが甲板に出ます」
 木造の重厚なデスクに、お洒落なトートバッグを置いたミセスが驚いた顔をする。
「もう、そんなところまで来ることができたの」
「そうですよ。澤村大佐からもお聞きしておりますが、思った以上に早く講義が進んでいるそうです。ミユの意気込みがすごいらしくて」
 驚く彼女に、ラングラー中佐がどこか得意げに返答する。
「すごいわね、ミユ」
 この秘書室では、心優は『ミユ』と呼ばれるようになっていた。御園准将が、半分はアメリカ人である秘書達をファーストネームで呼び分けることが多いので、心優のことも『ミユと呼ぶ』と決めたからだった。
「おかげさまで、念願の空母に初搭乗です。ありがとうございます」
「どこのフライトの訓練の時に?」
 御園准将が率いる雷神以外にも、小笠原には他にいくつもフライトチームがあって、日々、沖合の甲板で訓練をしている。
「今日は、第四飛行隊のビーストームです」
「コリンズ大佐の訓練ね」
「はい。准将が現役の時に所属していたフライトとのことで、楽しみにしております」
「あー、うん。なんていうか。あそここそ、アメリカンの神髄というか。血の気が多い暴れん坊という感じだから、大佐にもパイロット達にも気をつけて」
 え、そうなんですか。と、心優は少しおののいた。
「コリンズ大佐がそうだもの。当時は私のキャプテンね。あの人達と、いろいろ……。ねえ、テッド」
「はあ、当時の自分は事務官見習いだったので、フライトパイロットがどうしていたか良くは存じないのですが。そこらへんの飲食店を食い荒らす――という噂は聞いたことはありますかね」
「食い荒らすってなによ。……うん、でも、そうでした。兄さん達と一緒に、食い荒らしていたかも。夜はみんなで、食べまくるの。港の屋台のラーメンもおでんも、私達だけで空にしたことがあるし」
「つまり、大食いってことなのですか? でも、わたしにも覚えがあります。選手同僚と食事に行くと……」
「わかってくれるの、ミユ」
「わかりますよ。わたし、大食いですから。同僚も大食いばかりですよ。あ、家族もです!」
 ミセスとミユの会話に、普段はミセス共々冷めた表情が常のラングラー中佐が楽しそうに笑い出す。
「参りますね。ここは女性お二人の方がお元気で。おそらく、食べる量はお二人には敵いそうもありませんね」
 そこでお二人の笑い声が響く――。
 思った以上に砕けた人達で、心優もすっかり馴染んでいた。
 この人達が外で人を寄せ付けない冷気を放っているのは、本当に外では警戒をしているからなのだなと思わせられる。
 その代わり、仲間がいるこの部屋と秘書室では肩の力を抜いて笑っている。
 長沼准将秘書室とは、雰囲気がまったく違う。あちらは本当に『男堅気な職人的兄貴達』だった。何事も真剣でシビア。
 御園准将秘書室は、アメリカナイズされているちょっと大袈裟な冗談を言い合って、お腹の底から笑っている瞬間をよく見る。なのに、ひとたび任務の指令が出ると、それについて真剣な話し合いを瞬時に展開する。しかも決断が早い。
 ――彼女の判断は、神懸かっている。
 あの雅臣の言葉を思い出す。彼が憧れていたのは、この空気だったのか。ここにずっと居たかったのだろうか。彼にとても合っている空気だったのだろうか。
 だとしたら。あの横須賀の空気に、彼は無理矢理合わせていたことになる。
 ここでミセスに切り捨てられ、致し方なく、でもあそこで中佐に昇進し、秘書室長になる努力は怠らなかった。『いま自分にできることをする』。雅臣はしていた。なのに、なにもしてこなかった心優は、彼に酷いことを突きつけて飛び出してきてしまった。
 いけない。いまは振り返ったらいけない。
 もう少しで、また雅臣のことで涙に暮れそうになったが、心優は必死に堪える。
「今日はミユに、アイスティーを煎れてもらうかしら」
「だそうだ。ミユ、頼んだぞ」
「はい」
 ここのお茶入れは厳しい。准将もそれを思って、心優に任せることも多い。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 講義が始まる時間までに、隊長のお茶を煎れる。
 ミセス准将お気に入りのお茶は、どれも香りがよい。ミルクティーはアールグレイ、ストレートティーは甘酸っぱい果実の香りがする赤いお茶。
 夏場になったせいか、彼女は冷たいストレートティーを所望することが増えた。
 御園秘書室でのお茶入れは本格的で、ティーサロンにあるようなワゴンに茶器を揃え、彼女の目の前で作らなくてはならない。
 熱いお茶を濃く抽出し、氷水を一気に流し込む。その作業をしている間、御園准将は立派な木造の机で、なにかの書類をパラパラとめくって眺めている。
「ミユ、すごい頑張っているわね。澤村の空母関連のテストの点がすごい良いわね。知らなかった。貴女がそんなに空母に乗りたがっていたなんて」
 どうやら、御園大佐が日々彼女に渡す『教育日誌』を眺めているようだった。御園大佐が心優に対して、なにを教えたか。どのような進歩があったかを記して、准将に毎日提出している。御園大佐はとてもきめ細かい仕事をする人だった。
「横須賀でも空母に連れていくチャンスは幾らでもあったでしょうに……。長沼さんも『ソニック』もパイロットだったんだから」
 『ソニック』? 初めて聞く呼び名に心優は首を傾げる。紅茶がおいしそうに冷えたところで、グラスに注いで准将デスクに心優は持っていく。
「ソニック――とはどなたのことですか」
「あら。知らなかったの? 城戸中佐がパイロットの時の『タックネーム』よ」
 タックネームは、パイロットに付けられるフライト時の操縦者識別ネーム、つまりニックネーム。
「存じませんでした。ソニック、だったのですね」
「そう。ソニック、音速の――という意味。まさにそれだったのにね」
 彼女の眼差しが翳る。多大なる期待を寄せていたパイロットを失った喪失感はいまも鮮明に残っているようで……。
「城戸中佐は、現役時代のことにあまり触れることはありませんでしたから……。とても聞きにくかったところもあります。ですけれど、転属する少し前に、そろそろ空母に連れていってくれると言ってくれていたのですけれど」
「聞いたわ、澤村から。城戸君が大事にしていたから、そのスケジュールはゆったりしていたとか。それで空母はまだだったのね。でも貴女を少尉にして立派な護衛官にするつもりだったらしいわね」
「はい。あちらでお世話になった秘書室の意向も忘れずに引き継いで、こちらで達成しようと思っております」
 頑張ってね――と、彼女が優美な微笑みを心優に見せてくれる。仕事では、真っ白な顔とも言いたくなるぐらいに冷たい顔になる人だから、微笑んでくれると心優も心がほぐれる。
「うん、美味しい。上手になっているわね」
「ありがとうございます」
 今度はワゴンの片づけをしようとする。御園准将はまだ日誌を眺めている。
「貴女、城戸君の事故のことは知っているの?」
「はい……。今年度に入ってから、教えて頂きました」
「誰から。塚田君から?」
「いいえ。ご本人から教えてくださいました。辛そうだったので、塚田少佐が代わりに教えておきます――と申し出たのですが、城戸中佐が自分から話す……と」
 御園准将から聞いておいて、彼女は『ふうん』と急に素っ気ない。彼女は時々、こういうところがある。人の話を聞いているのか聞いていないのか、でも、だいたい聞いている。ご主人の御園大佐とも講義後、良く話をするが、夫である彼も『あいつの反応をいちいち気にしないように。気のない返事をして、もうその時は数々の思いを張り巡らせている瞬間だから』と――。
「城戸君が自分から話すだなんて、珍しい気がするわね……」
 ドキリとした。御園准将が急に素っ気ない返事で、でも頭の中を直ぐに占めたのは『彼から事故のことを話すんだなんて、珍しい』と気になったからなのだ――。
「彼、根っからのパイロットだったから……。すごくわかるんだけれどね。精神的に辛いこと。私もそうだったし、精神がその辛さを受けきれなくなった時に身体も辛くなるからね。それだけが今も心配」
 御園准将も過去に受けた暴虐の傷が癒えず、吐いたり、気を失ったり、呼吸困難になる。心優はそれを目の当たりにしてしまったから、小笠原に来ることになった。
 御園准将のあの痛々しい姿。きっと雅臣も、この小笠原で同じような症状に見舞われたのだろう。
「ですが、城戸中佐はもう、横須賀の空母連絡船に乗っても吐かないそうです。いまなら、小笠原の連絡船に乗っても吐かないと思うと言っておりました」
 ワゴンの茶器を整理して、秘書室へと向かおうとする。
 『片づけてきます』と御園准将に告げると、彼女が怖い顔で心優をじっと見据えていた。
「それ。雅臣が言ったの」
 ソニックでもない。城戸君でもない。彼女が、自分の男のように彼を呼んだ。それがここでの本当の呼び名? しかも雅臣から聞いたことをそのまま話しただけなのに、御園准将がここの部下達を一斉に制する時の冷徹な目、アンバーが凍った怖い目をしている。
「そ、そうですが」
「ふうん」
 また気のない返事。でも、准将は心優から目線を外してくれない。
「その、雅臣が『吐いた』という話は、極秘でお願いね」
 心優の胸の鼓動が、どっくりと息苦しく蠢く。『極秘!?』。そのひと言で、他の誰も知り得ないことを心優が知っていたと、いまここで心優は知ったのだから。
 心優を射ぬくように見ていた御園准将が、今度はなにかを誤魔化すかのように目線を逸らしてしまう。心優から顔を背け、重苦しく彼女が言う。
「あれほどのエースだった男が船で吐きまくって甲板に行くことができなくなった、海の男で空の男であることが生き甲斐だったエースのプライドをズタズタににしたのよ。そんなことが面白おかしく噂にされたくなかった。だからあの船に乗っていた者、指揮官チームしか知らないこと。全ての隊員に口止めしていたんだけれど……。横須賀では長沼さんだけが知っているはずなんだけれどね」
 心優は真っ青になる。雅臣が話してくれたから、秘書室の誰もが知っているものと思っていた。それでも心優も彼のプライドを傷つけた出来事だから、たとえ知っている人がいても口にはすまいと心がけてきたのに――。
 どうして今日に限って言ってしまったのだろう。ミセス准将が、彼が心酔する上官で、彼女こそ彼の心をよく知っているだろうからと、つい……心優は気を許してしまった……。
 知らなかった。小笠原のごくごく一部しか知り得ない『ソニックの成れの果て』。それを、雅臣は、心優に……、惜しげもなく告白してくれていたなんて!
「そう。雅臣が、貴女をそこまで信頼していただなんて――。でも、わかる気もする。だって、私も澤村も、貴女に惹かれて連れてきてしまったんだもの」
 御園准将はそう言うと、おもむろに心優が煎れたアイスティーを口に含んだ。
「私、また雅臣の気持ちを逆撫でしちゃったのかな……」
 准将ではない口調だった。逆撫でした。俺の気持ちを――。准将がパイロットの目の前で泣いたら、もう彼女のパイロットではない証拠。あの時のようだと言いたそう……。
「もしかして。ここに来る前に雅臣と、大喧嘩しちゃったりしていない?」
 さすがに心優はドッキリ、汗がどっと滲み出る。あからさまな言葉にしなかったが『恋人だった彼と喧嘩した』と遠回しに言われている!
「いえ、彼は上官です。そんな畏れ多い……」
 嘘をついた。そう言うしかない、雅臣のためにも。
 でもミセス准将は笑っている。
「そうなんだ。ふうん」
 意味ありげなその反応が、いまはとても恐ろしい。彼と恋仲だったと、きっと気がついた。
 だがミセス准将はそこを追求することはなかった。彼女が気になったのはもっと違うところ。
「あの雅臣が、小笠原の連絡船に乗ってももう吐かないだろうと言ったのね」
 心優はその顔を初めて見る。彼女が不敵な笑みを湛え、席を立った。
 これから心優がワゴンを片づけるために行くはずだった秘書室に、彼女の方が先にドアを開け消えてしまった。
『テッド、ちょっといい』
 ドア越しからそんな声が聞こえる。
 きっと……。心優が雅臣から直々に『エースの秘密』を教えてもらっていたことを報告するのだろう。
 心優の頬に、久しぶりの涙が伝う。
「臣さん、ごめんなさい。臣さん……」
 自分の過去を、きちんと心優には告げてくれていた。その気持ちに気がつかなくて……。
 『恋人』として、見てくれていた。でも、それを心優から壊した。

 

 

 

 

Update/2015.1.14
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