◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 20.つきまとわないで、ジュニア君  

 

「空母艦の仕組みに、甲板要員の役割についてはこれにて終了する。では、今回から空母艦が艦載機を搭載した上での任務の必要性と、社会情勢について説明していこうと思う」
 工学科での講義は新しいテーマに移った。
 眼鏡の御園大佐が、ホワイトボードを目の前にして、スラスラと概要を書き込む。
「以前は『東方重視』と呼ばれる国防だったが、現在は『西方重視』の傾向になりつつある。東方とは――」
 東方は『最北の大国』を表す。心優が子供の頃は、その国が西側諸国と対していた為、西側の軍隊を置いているこの日本国内の防衛力偵察のために、毎週決まった曜日に北方から東京首都を目指して戦闘機を飛ばしてきた時代がある。そのことを毎週その曜日にやってくる『急行』と呼んでいたとか。その頃が『東方重視』。
「現在は西方大陸国との軋轢のため、西方重視の国防傾向にある」
 ホワイトボードに貼り付けた日本地図。御園大佐は先が白い銀色の指し棒で、日本海と東シナ海を指した。
「こことここで、本国と大陸国が主張する『防空識別圏/ADIZ(アディズ)』が重なっていて、スクランブル発進が両国頻発している。こちらが領空内あるいは相手国指定の防空識別圏外だと思っていても、あちら大陸国側が独自に定めた防空識別圏内に日本国の航空機が出現したためにスクランブル発進をしたと主張するし、逆に本国もいままでは入ってこられなかった防空識別圏内に出没されたためにスクランブル発進をする。その小競り合いが続いている」
 御園大佐は溜め息をつくと、日本海から東シナ海へと線を描くように指し棒でなぞっている。
「数年前はこの航路でいけたが、」
 いま描いていた線から内側、日本の領土側へとなぞり直す。
「いまはこの線をギリギリに航行しないと、空母艦ごと侵犯されたと問題になりかねず、またはこの辺りを航行すると防空識別圏内でなくとも、あちらは警戒しスクランブル発進をかけてくる。二月に御園准将が艦長となって航行するコースもこのあたりの防衛が重要となってくる」
 心優も懸命にノートに記す。
「聞いていると思うが、御園准将はどちらかというと押し気味の航路を行く」
 つまり、保守的な線を行かずに、許されるギリギリの航路を辿って『ここは私達の領土、領海、領空だ』と示す意志を持って航行するという意味だった。
 ここから、御園大佐の説明が難しくなっていく。
 ADIZ(防空識別圏)とは――。ホワイトボードに大きく題され、御園大佐が箇条書きにしながら口頭でどんどん解説していく。

■ 領空(領海200海里上空)の外周(国外)に、その国が独自設定しているもの。

■ 領空線を侵入されてから領土に到達するまで、民間旅客機なら1分程度、超音速機なら数秒。なので、国内に侵入されてからスクランブルを発令しては、有事の際(たとえば領土内の都市爆撃など)には迎撃接触が間に合わない為に、領空国境線を越えられる手前で警戒と迎撃ができるように、その国独自の『ADIZ』というエリアを設けている。

■ ADIZは、領空線の外周(国外)に設置される。ここで何かを確認したら、迎撃に備えスクランブル発進をするタイミングを判断するエリアとなる。

■ なのでADIZに戦闘機が確認されたからとて、まだ対象機は『国外(相手国戦闘機はまだ自国内に存在)』にいるため、侵犯にはならない。

■ どの国でも、このADIZを通過する時には飛行計画を提出することになっている。(そしてその了解を得なくても良い。そちらの警戒されるエリアを通りますよとお知らせはしておく)

■ 自国で独自にADIZエリアを設定してはいるが、ADIZエリアに航空機を探知したからとて、全てがスクランブルにはならない。

■ このエリアに侵入を探知した際、漏れずにスクランブルをすることで、その国の迎撃能力が判明してしまうからだ。

■ そこで、どこからADIZ侵入、探知、スクランブルのタイミングとするか知られない為に、ADIZに出現されても知らぬ振りをしたり、アラート発進で脅かしたりの駆け引きをする。

 御園准将はその『アラート発進とされるポイント』をデーターとして集計するために『押しの航路』を取るとのことだった。
「御園准将のその集計が、国防に大いに貢献されている。その為、総司令官に覚えめでたく、信頼されている由縁でもある。今回の航行もおなじデーターを収集すると共に、スクランブルに備える防衛任務が中心となると思う」
 任務に行く目的と、その役割。そしてその最前線がどれだけ緊張していて、ミセス准将がなにを目的とし、どのような戦略で航行するかを叩き込まれる。
「今日はここまで。お疲れ様」
「ありがとうございました」
「また朝イチでテストをするので、復習をしておくように」
 毎朝ずっとだった。まず前日の復習テストをやることになっている。時にはもう何日も前に終えた講義内容を忘れた頃にぽんと出題されるので気が抜けない。

 

「午後からは、護衛部の訓練だね」
 今日のスケジュールを確認しながら、工学科フロアの階段を下り、中央にある空部大隊本部、隊長室へと帰ろうとする。
 その階段を下りていると、一番下に辿り着いた時、金髪の男が壁に背をもたれて立っていた。一目見て、心優は立ち止まる。『シド=フランク中尉』だった。
 相変わらず、彼は心優を睨んでいる。そんなに怒っても、心優がミセス准将の側にと置かれたことは変わらないというのに。いい大人なら、ましてや『優秀な秘密隊員』なら、そんな感情を露わにするような未熟な態度は見せないと思うのに。
「お疲れ様です」
 いつまでもそこにいて心優を睨んでいるので、こちらから挨拶をしてやり過ごそうとした。
「今日、護衛部の訓練に行くからな。覚悟しておけ」
 それだけいうと、サッと通路に身を翻して行ってしまった。すらりとした長身で、身体も細身だけれど鍛えられた肉体だと心優にはわかる。それを制服の下にきっちりと忍ばせ、綺麗な金髪を南国の太陽にきらめかせて美しい姿勢で歩いている。
 カフェテリアでは既に女の子達が『フランクジュニア』と呼んで、クールな水色の瞳の王子様が来たみたいに騒いでいる。
「どこが王子様よ」
 子供っぽい怒り顔で感情を露わにして。実際に年齢も心優より二つ年下だった。
 でも、彼の方が軍人としては実績もあって、階級もあって、逆らえないのは事実だった。
 そう思うと、心優の気持ちも燃えてくる。この肩に、絶対に星付きの『少尉』の肩章をつけてやると――。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 その王子様とかいう彼は、本当に護衛部の訓練に姿を現した。
「本日は、転属してきたばかりのフランク中尉も参加を希望されたので、共に訓練をしたいと思う」
 部長を務めている中佐からの紹介に、護衛部の男達が驚きで顔を見合わせた。
「遠慮は要りません。本気で訓練をしたいので、よろしくお願い致します」
 殊勝な挨拶をしているが、彼の視線はすぐに心優を捉えた。いつもの憎たらしい険しい目線を突きつけてくる。
 だがその苛立ちに腹立たしさは心優も同様。彼に睨まれる前から、もう心優から睨んでいた。
 その互いの『敵対心』から滲み出るものが、訓練に参加している先輩達にも漏れ伝わっている。二人から漂う悪い空気が、護衛部の男達を囲い始めていた。
「そこまで気になるのなら、フランク中尉と園田海曹で手合わせをしてみるか」
 少し戸惑った様子の部長だったが、二人で組み合うことを許してくれる。
 ――やってやる。どれだけの腕前か知らないけれど。
 できないことはない。女性同士の試合でも、相手も心優も、練習をする時は男を相手にするともあり、強豪の男子トップと手合わせをしたこともある。
 男と女でも、男が負けることもある世界だった。
 それにいまの心優は『これだけは絶対に負けない』という意識を強めている。職歴が浅いスローなボサ子ちゃんではあるだろうが、『護衛』となったら負ける気はしない。
 ただ、問題は。傭兵的手合わせだと、心優は経験が浅いこと。
 横須賀の『護衛部』は日本のSP(セキュリティポリス)米国のシークレットサービス的な『要人警護』的な訓練だったが、小笠原での『護衛部』は、本格的な『傭兵』的訓練になる。
 銃の扱いから、三段ロッドの使い方、そして、バタフライナイフやサバイバルナイフを扱う訓練もあった。それはどれも心優には初めてのことで、武器を手にして闘う手合わせには戸惑いがあった。
 しかしそこは、天性の身体能力が助けてくれる。『一度教えたら、すぐに慣れる。筋が良い』と部長が褒めてくれた。それでも実戦ではない。武器を持つ訓練であっても、空手で言うなら『寸止めの傭兵訓練』であって、フルコンタクトではない。もしフルコンタクトの訓練をしたならば、『武器が肉体にヒットした』ということは『負傷』となるからどうしても『寸止め訓練』になる。
「今日は、大目に見てやるよ。これで勝負だ」
 彼が手に取り、心優に突き出したのは『三段ロッド』だった。
「実戦ではナイフなんてあたりまえだ。でもおまえの場合、素手でしか闘えないんだろう。いきなり真剣ナイフで対戦しても、切り傷だらけになるド素人だもんな」
 事実だった。ナイフを手に取ったのは小笠原に来て初めてだった。護衛部の部長である中佐がコーチについてくれ、まずゆっくりな動きから習い始めていた。刃と刃をぶつける手合わせは、刃がないダミーのナイフで。まだ真剣の手合わせは許されていない。
 彼がいうとおり、心優はこの護衛部では武道以外は『ド素人』だ。
 ――悔しい。きっと武器を持った訓練をしてきた中尉には勝てないだろう。
 それでも。心優は腰に備えている三段ロッドを手に取る。そして、短くなっているロッドをシャキンと長くする。
 それで構えた。陸部訓練棟にある道場。ここの訓練は道着ではなく、いつもの訓練着。心優はもらったばかりの紺色の、シド中尉は海兵隊の仕事をする者がひとつは持っている黒色の訓練着だった。
 アーマースタイルでの手合わせが、ここではスタンダード。腰に装着する武器を備えての訓練が主。心優はまだ一ヶ月強ぐらいしか、経験がない。
 二人の間に、護衛部長の中佐が立って、『ファイ!』と対戦開始の声をあげた。
 きっと彼に容赦なく叩きのめされるのだろう。
 ――でも。一発ぐらいやり返したい。
 勝てない相手でも、痛手は残す。心優の奥底に沈めていたはずの闘志が、小笠原のこの訓練に参加するようになってから蘇ってきている。
「どうした。もう対戦を始めてもいいんだぞ」
 違う。お互いに動けなくなっている。意外だった。あの彼が心優の気迫に、構えの奥に隠された『技能』を見抜いてくれている気がした。
 そして心優も動けない。相手は若くても経験ある海兵ファイターだとわかるから。構えに無駄がなく、隙がなく、心優がこう行こうと思っているところに行くとすぐに阻止され返されるだろうと予測してしまうような、恐れを抱いてしまう。
「どうしたのですか、中尉。ド素人のわたしなど、一発でしょう」
 こちらから、カマをかける。
「うるさい。おまえからかかってこいよ。一発で叩いてやる」
 金色の短髪に、涼やかな水色の瞳。母親に似た綺麗な顔立ちなのに、目は鋭利な気迫を漲らせて、寄せ付けない。
 あの棒で、鍛えた肉体と鍛練された腕前を持つ男に的確に叩かれたら、ただではすまないだろう。『これが実戦』。心優に初めての緊張が筋肉を強ばらせ、動きを止めている。
 いつまでも膠着状態。そこで心優も意を決した。三段ロッドを背中のベルトに差し込み、なにも持っていない『丸腰』になる。
「なんのつもりだ」
 彼が意表をつかれたようにして、一瞬、怯んだ。心優はそれを見逃さない。それを合図に、心優は彼の構えに隙があるところへと一直線に踏み出す。
 ――『ヤァ!』
 ロッドを構えている利き腕の反対側、脇腹。そこをめがけて、心優は蹴りを入れる。
「っグ……」
 見事にヒットした。護衛部長の驚いた顔が目の端に写り、若い二人の対戦を静かに見守っていた先輩達からも感嘆の息づかい、それが伝わってきた。
 それでも心優は次の攻撃に入っている。ややよろめいて、さらに大きな隙間ができたシド中尉の鳩尾ががら空きになったところに狙いを定めていた。いや、そういう『体勢に崩れるだろう』と予測済み。だから拳を繰り出す構えも既に整っていた。
 そこに一発、真っ直ぐ素早く打てば、重い拳に感じるはず。しかも鳩尾という場所に的確に寸分の狂いもなく打ち込むこと。これはもう心優には自然に身に付いている技術。そこに一発……、見事にあたった!
 彼が小さく呻いた。だが、心優はその拳を打ち込んで初めて気が付く。『すごい、鍛えられている肉体だ』と。硬い筋肉で、それは逆に彼へのガードになっている。だから彼はよろめきはしたが、痛がってダウンする怯むなんてことはなかった。むしろ、心優が驚いている間に体勢を立て直してしまう。
「このっ!」
 向こうも甘くはない。心優の目に黒いロッドが向かってくるのが見えてしまう。
 彼も的確に打ち込む技を持っている。どんなに中心軸が崩れても、向こうも的確な軌道でロッドを心優に向かってぶつけてくる。
 それを心優はもろに、腕のガードで受け止めてしまう。
 ガツンと素の腕にぶつかった。『うううっ!』。ビリビリとした痛みが走った。それと同時に引退に追い込まれた時の古傷にもひびく――。
 今度は心優がその隙を突かれる。痛みに囚われている間に、彼に背後を取られた。後ろから重いものが落ちてくるような重圧を感じたと思ったら、心優は後ろから倒され、床に押し付けられた。
 しかも、背中に馬乗りになられ、首に長いロッドを当てられぐいっと顎ごと上に押し上げられる。その上、彼がロッドと腕を使ってキリキリと心優の首を締め付けてくる。
 喉元に容赦なく食い込む鉄の棒。
「ぐ、うぐっ」
 声が出ない。息が出来ない。
「中尉、そこまでだ。離れなさい」
 部長の声が響いたが、シドは心優の背中に乗ったまま離れない、緩めない。
「わかったか。ミセス准将の目の前に国籍不明の傭兵が現れたら、おまえ、こんなになるんだぞ。これでもう殉職間違いなし。ついでにミセスも傷つくだろう」
 低い声が耳元で小さく呟いている。
 わ、わかった。わかった。わたしが甘いって、よくわかった。
 そして悔しさも湧き上がっている。くやしい。いままで心優の腕前はさすがだと言われてきた。でも、こんないとも簡単に……。『傭兵』として失格。ミセスを護る護衛としても失格だ。これは本当の敗北――。
 ついに心優は崩れ落ちる。
「どきなさい。中尉。このような乱暴な訓練を望んでいたのか。そのような気持ちなら二度とこちらでは受け入れられない。『あちら』の厳しい訓練に帰りなさい」
 護衛部長の中佐がシドを心優の背からどかせようと、腕をほどこうと必死な姿が目の端に映ったが、心優はもう気を失ってしまいそうだった。
 ようやっと冷たかったロッドが心優の喉元を緩めた。ひゅっと空気が喉に入り込んできて、心優は床にうずくまり咳き込んだ。
「金メダルとるのと、空母で護衛は違うって言いたかったんですよ」
「そんなことは、園田海曹もわかっている。ミセス准将にもお考えはあるだろう」
「いえ。気が済みました」
 シドはそれだけいうと、中佐に『お邪魔して申し訳ありませんでした』と深くお辞儀をして、道場を去っていく。
 心優はもう悔しくて、悔しくて、起きあがれないし、涙で既にぐしゃぐしゃになっていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 護衛部の訓練を終え准将室に戻ると、御園准将とラングラー中佐があからさまに案じている様子で迎えてくれた。
 それで心優も『護衛部長が知らせたんだな』と察した。
「ミユ」
 准将に呼ばれ、心優は彼女の大きな木彫りのデスクの前に立つ。
「テッド。ミユと二人だけにして」
「イエス、マム」
 ラングラー中佐が静かに秘書室へ通ずるドアへと消えていく。
 御園准将が立派な革張りの椅子に腰をかけたまま、心優を見つめている。
「あの子、子供の頃からきかん坊でね。ごめんなさいね。連隊長にも叱られていると思うわよ」
 だが心優は首を振る。
「いいえ。フランク中尉をお叱りにならないでください。手合わせに負けた時は悔しくて、甘さを指摘されたことも口惜しくて涙が止まりませんでした。ですが、いまは中尉に感謝しております」
「感謝?」
 准将が驚き、首を傾げた。
「はい。覚悟ができました。今まで以上に――。わたしの心は軍人ではなく、先程まで選手でしかなかったのだと。フランク中尉は、わたしのその心構えの甘さを見抜いていたのでしょう。なによりもミセス准将を案じてのことだと思います。ご自分で護りたかったのだと、御園大佐からも聞かされておりましたので」
「でも。あのシドを丸腰で先手を取ってよろめかせた上に、鳩尾に一発いれたんですってね。護衛部長も驚いていたわよ。彼はフロリダの特別訓練校で、特に厳しいと言われている海兵隊や傭兵の訓練をしてきて成績優秀な隊員だから、負けを知らないはずなのよ」
 それは心優も知っている。だから、余計に……勝ちたかった。世界に行けなかった国内三位程度と言われた時から、彼を意識していた。取っ組み合いなら勝てると思った。
「いえ。容赦ない現場では、これは当たり前ということを教えて頂きました。この首の息苦しさに痛み、忘れません。わたしは大丈夫です。気にされないでください。中尉を責めないでください」
「ミユ……」
 准将が席を立った。夏の白い半袖シャツ。肩には黒い肩章。将軍になった者に許された『碇(いかり)の刺繍』、そして金の星と金のライン。胸には色とりどりの階級バッジ。風に黒いネクタイをそよがせ、あの優雅な香りを漂わせて、彼女は心優の前にやってきた。
「心優、勘違いしないで。護衛は傭兵と闘う為にあるのではないのよ。私は貴女に、身体を護って欲しいわけじゃない。言ってはなんだけれど。私、貴女と対戦して勝つ自信があるわよ。オバサンになってしまっても」
 彼女の優しい白い指先が、心優の頬に触れる。
「違うのよ。心優。シドは兵隊だけど、貴女は護衛なの」
 柔らかい手に、心優は包まれていた。
「でも。シドがいうことも本当よ。いままで艦内でそんな者に侵入されたことはないけれど、万が一、そんなことがあった場合は、貴女に護ってもらうかもしれない」
「絶対に護ります。艦長が不在になるのは、わたしの失態を意味します」
「でも……。いい。一緒には逝かない。どちらか片方が生き延びても駄目。二人一緒に還るのよ。絶対よ、わかったわね。貴女が犠牲になっても嬉しくない。私が余計に苦しむのだと忘れないで。逆も同じ。私になにかあったら貴女が責められる。だから『なにか起きても、なにも起こらなかったようにして』還るの」
 最後の意味がよくわからなかったけれど、二人で絶対に還る――というミセスの心情は熱く伝わってきた。
「もう一度、護衛の意味を考えて。兵隊と護衛の違いを」
「イエス、マム――」
 そう答えると、心優はミセス准将にぎゅっと抱きしめられていた。
 芳醇な匂いを放つ花のような女性に抱きしめられ、同じ女性なのに心優はうっとりしてしまう。優しい肌だった。
 女性なんだ……。母親や姉のような、優しさだった。心優には久しく触れていない柔らかさ。ほっとしてしまう……。
「よかった。やっと、いつもの『ミユ』の顔になったわね。すごい怖い顔をしていたわよ。そう、あのいい目の。でも、怒っていて尖っている……。私、ミユには女性だからこその護衛官になって欲しいの」
 ミセス准将も、優しく笑ってくれる。そんな時は准将ではなくて、本当にお姉さんのような微笑みで『葉月さん』。
「さあて。テッドも追い払ったし……」
 そこでミセスが伸びをして、ちょっと悪戯めいた顔をした。
「行こうかな。ミユもおいで」
 そう言って、ミセス准将はひらりと准将室の扉を開けてあっという間に外に出てしまった。
 え! もしかして、これが!? しかも心優に『おいで』と言ってくれた?
 心優は慌てて、准将室の扉を押して通路に飛び出す。
 ミセス准将がなに食わぬ顔で、通路を歩き始めていた。
 『ウサギが外に出たら、黙って後を付いていく。それだけでヨシ』。御園大佐が『もし妻が散歩に飛び出していくのを目撃したら』どうするべきか。そう教わっていた。
 本当に、ウサギのようにしてミセス准将は軽やかに階段を音もなく降りていく。その後を、心優も付かず離れず後を追った。
 最後に彼女が到着したのは、噂の『陸部訓練棟』の一階にある自販機。そこでレモネードを買うと、心優にも同じものを投げてきてくれた。
「これが准将が大好きなレモネード」
 小さな缶ジュースを片手に、准将はさらに外へと行ってしまう。
 そのうちに、心優の胸にしまっている業務用携帯が震えた。
「園田です」
『まさか。一緒か』
 ラングラー中佐だった。
「はい。レモネード、ご馳走になっています」
『そうか、わかった。十五分で戻ってきてくれ』
「イエッサー」
 心優も彼女の後を付いて、外に出た。海から吹いてくる潮風に、緑の芝が舞うグラウンドの土手まで。
 そこで誰にも囚われずに、おいしそうにレモネードを満足げに味わっているミセス准将を、心優も後ろからそっと見守っていた。
 護衛とはこういうことよ。そう言われている気がした。彼女にもきままな瞬間が必要。それを心優だけが見守っていけるのだと――。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 シド=フランク中尉に打ちのめされて数日が経った。彼はあれから護衛部には姿を見せなくなった。それにみかけなくなった。
 ラングラー中佐曰く『シドは連隊長にかなり叱られ、護衛部訓練の出入りを禁止されたらしい。しかも、出勤はしているが秘書室から出ることは許されず、室内業務の半謹慎状態』とのこと。
 護衛部の訓練に参加することを許したのは連隊長。許可をしたばかりに、まだ新人である心優に乱暴な手合わせを強要したこと、ミセス准将の護衛官に手荒なことをしてしまったこと。『俺の顔を潰す気か』と、あの恐ろしい銀眼鏡の連隊長がかなりお怒りになったらしい。しかも、連隊長直々に、御園准将室にお詫びに出向いてくれた。
 それから彼を見ない――。
 あの鬱陶しい王子様が訓練に来なくなるのは安心だけれど、でも、心優は釈然としない……。
 そう。現実を思い知らされたのは確かだった。心優の中に『また彼と手合わせをしたい』という気持ちが渦巻くようになっていた。
 それから武器を装備した訓練を今まで以上に真剣に取り組むようになった。スローな訓練に甘んじていたし、素人だからと大目に見てくれていた先輩達にも厳しくしてくれるようお願いした。彼等が手加減をしなくなった。
 でも、心優はシドともう一度やってみたい。ロッドにナイフを装備した実戦的対戦を――。
 これはもう武道家としての血とプライドと、熱だった。

 講義、訓練、業務。全てを終え、そろそろ本日の仕事も終了――。
 ラングラー中佐に頼まれたお遣いを、陸隊である第四中隊まで届ける。そこの隊長は『山中大佐』、ミセス准将が中隊長をしていた頃の部下だったとのこと。彼女のことを『お嬢』と呼ぶ同志。いつもお遣いに行くと『お嬢は大人しくしているかな。困らせていないかな』と心配している。
 四中隊は、空部隊本部から離れていて遠い。途中、高官達が揃っている高官棟へと帰る長い連絡通路を通らなくてはならない。
 真夏の夕暮れが、目の前の海に広がっていた。少し高い位置にある連絡通路から見下ろす珊瑚礁の夕凪は、絶対にこの島でしかみられないというほど素晴らしい。
 でも、海の夕は横須賀の官舎を思い出してしまうスイッチ。この夕暮れの中、あの人の部屋へと急いで、あの人の帰りをあの部屋で待っていた。夕の茜が消える頃に、あの人がやっと帰ってくる。
『ただいま、ミユ』
『おかえりなさい、臣さん』
 秘書室でのシビアな眼差しが優しく崩れて、緩んだ頬にちょっといたずらぽいお猿の笑みが広がる。その顔で、心優に抱きついてきて『メシよりミユ』と先にベッドに連れて行かれたことも何度もあった。
「臣さん……」
 必死な時は忘れている。夜も必死になって、御園大佐からもらったテキストに資料を読みあさって、課題のレポートをまとめ、テストに備えて復習をする。クタクタになって眠る。朝までぐっすり。朝、目覚めたら寄宿舎の周辺からアメリカキャンプまでランニング。アメリカキャンプでも顔見知りが増え、朝の挨拶を交わして爽やかな気持ちに整える。最後はアメリカキャンプの芝の広場で空手の演舞をする。それを見てくれる人もたまにいて、基地にいてもアメリカキャンプから出勤しているパパ隊員達が挨拶をしてくれるようになった。
 ミセス准将のところに来た護衛官レディは空手のファイターガール。と、噂しているらしい。その時、心優の頭の中で『ボサ子って、英語でなんというのだろう』とふと考えてしまった。ボサ子と言われていた日が懐かしく、そしてボサ子と言われて嘆いていた自分がいたことが腹立たしい。
 小笠原に来て、髪は短くショートカットにした。でも女らしく前髪は横流し、メイクは薄く、でも睫毛も口紅もナチュラルに手をかけておろそかにしない。今度は品の良いミセス准将のお側にいる女性として、今まで以上に女性をおろそかにしないよう心がけていた。
 ここにきてまだ日は浅くても、心優はもう横須賀を遠く感じている。忙しさに紛れ、陽気なアメリカ的な空気に包まれ 気さくなアメリカン隊員に笑顔をもらっている。
 そうして忘れている、普段は。
 でも。
「臣さんは、まだそばにいる」
 夕暮れを見ると、彼がそばにいるような気持ちになってしまう時がある。肌が忘れていない。くちびるも覚えている。身体の奥に残っているあの人の体温に熱だって――。
 たった二ヶ月。でも、その期間は関係ない気がする。どれだけ濃密だったか。忘れられないか。それならたった一夜だって残る恋もある。心優のいちばんの恋は雅臣だった。きっとずっと忘れられない。
「おい」
 感傷に浸っているところを声をかけられ、心優ははっと我に返る。
 金髪の男が、同じ連絡通路の窓にまた格好つけた姿勢で窓に背をもたれて立っていた。
 まただった。そこに見計らったようにしてシドがいる。横須賀でいうところの、井上少佐みたいで気分が悪い。
「お久しぶりですね。その節は、お世話になりました」
 相変わらず無愛想な顔をしている。ほんとうに、こんな気分悪い男をどうして女性達は王子様と持ち上げるのか。疑問に思う。
 しかもまだ心優を睨んでいる。
「いまから、俺と食事に行くんだ」
 はあ?
「業務が終わったら、警備口で待ってろよ」
 それだけいうと勝手に去っていってしまった。
 なにあれ? 勝手に誘って、返事も聞かないで勝手に行っちゃって!
 心優は彼が消えた通路に返事をする。
「行かないから。勝手にひとりで行けば」
 その通りに、心優は業務終了後、警備口には行かなかった。約束なんかしていないから。

 その夜。心優は寄宿舎で食事をせずに、アメリカキャンプにあるレストランに向かった。
 アメリカファミリーが住まうアメリカキャンプは本当にアメリカの小さな街といったところで、現在はアメリカンダイナーが何店か出店されている。いま、心優はそこにはまっていた。
 ハンバーガーは勿論、クラブハウスサンドウィッチにパンケーキなど。アメリカンなカフェめしが食べられる。ボリュームもあって心優向きだった。
 ミセス准将のところに来たファイターガール――として、心優が知らなくても向こうが知っていることが多く、ほんとうに挨拶を沢山してもらえる。
 顔見知りがほんとうに増えた。寄宿舎で寂しいなら、ここにくれば賑やかさに紛れる。
 そしてここにはよく知っている男がやってくる。毎日ではないが、週に一度ぐらいは一緒になる。
 背が高い黒髪の日本人が入ってくる。それだけで、店内がまた盛り上がる。
『アロー、エイタ!』
 店内の若い青年達も、中年の男性も皆が彼がやってきて陽気な声かけをする。
「アロー」
 こちらも基地中の誰もが知っている『エースパイロット』。彼が知らなくても、彼を知らない隊員はいない。
 そのエース殿が、辺りを見回して、そして窓際のカウンターで基地の海を見ながら食事をしている心優を見つけてくれる。
「いたいた。園田さん」
「こんばんは、鈴木少佐」
「聞いた。シドにやられたんだってな」
「ああ、あれ……ですか」
「大丈夫? 首をやられたって隼人さんから聞いてさ。隼人さんがちょっと怒っていたんだよな。首に痣ができて心配していた」
「もう消えましたよ」
 すでにネクタイを外していた心優は、シャツのボタンも緩めていたので鈴木少佐にちらっと首元を見せた。
「まだうっすら残ってるじゃないか」
 鈴木少佐が隣の席にどっかりと座った瞬間、もう一つの隣の席に誰かがどっかりと座った。
 鈴木少佐と反対側にいる男を見ると、またそこに怒った顔の彼がいる。しかも彼はカウンターに力を込めた拳をドンと落とした。
「来いって言ったよな。警備口で待っていろと言ったよな」
 ものすごい真っ赤な顔で怒っているので、心優は逆に白けそうになる。
「わたし、OKしていませんし。約束していませんけど」
「おまえ、俺の方が上官なんだぞ」
「プライベートでは部下でもありませんし、わたしの上官はミセス准将ですから。フランク中尉の命令は聞くことはできません」
 彼が『なんだとー』といきりたった。
「もう、つきまとわないでくださいよ。気が済みましたよね」
「済んでいない! おまえ、俺の鳩尾に拳入れただろ!」
 なんだ、けっこう子供ぽい人だった――。やっぱりジュニア殿はまだまだ王子なのかもしれないと、心優は思ってしまった。
 金髪の王子が子供っぽく怒っているのを、鈴木少佐は既に親しい様子で『オマエ、まだガキ』とからかって笑っている。心優もつい笑ってしまっていた。

 

 

 

 

Update/2015.1.24
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