◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 21.頑張りましたね、少尉殿  

 

 今夜も心優はダイナーで、食事を済ます。
 アメリカンポップなネオンに彩られた店の外に出ると、バイクにまたがっている金髪の男がいる。
「食ったのか。いくぞ」
「うん」
 金髪にアクアマリンの目をした男が黒いヘルメットを被り、心優も渡されたヘルメットを被る。
 バイクの後ろに乗り、金髪の男の背に掴まった。
 彼がバイクのアクセルを回し、アメリカキャンプの警備口を出て、夜の海岸線を飛ばしていく――。
 いくつものカーブを曲がると、彼がいま住んでいる『丘のマンション』が見えてくる。御園准将が独身時代に住んでいたという御園家所有のマンションを通り過ぎる。
 彼の自宅だけれど、そこを訪ねたことはないし、彼も心優を連れていこうとしたことはない。
 シド=フランク中尉と行くところは、毎回決まっている。二日に一度、彼とそこに行く。彼がバイクで迎えに来てくれる。
 アメリカキャンプ、日本人官舎、丘のマンション、島のリゾート地区、マリンハーバーを通り過ぎると、一気に人気がなくなり海岸線だけが暫く続く。でも、そのうちにカーブの向こうにまた住宅地が見えてくる。海沿いに白や青い家が並び、灯りがキラキラと揺らめいている。夜の帳に沈んだ海の向こうには、漁り火――。
 シドが飛ばすバイクに乗って、心優はその住宅の灯りへと向かっている。
 いつもの場所に到着した。南ヨーロッパを思わせる白に青を基調にした一軒家が二つ並んでいる。
 白や黒のファミリーワゴン車の他に、トヨタの真っ赤なスポーツカーが駐車してある。その広い敷地内の片隅に、ちいさな道場があった。
「はじめるぞ」
 訓練着に着替えた二人は、腰に訓練と同様の装備をして向き合う。
 だが基地と違うのは、心優の腰に装備しているのは『本物のナイフ』、真剣だった。
 それを抜き取り、構えてくれているシドへと振りかざす。
 彼の構えているところを狙って、持っているナイフを振り落とす。ガチンと静かな道場に刃と刃がぶつかる音が響く。
「遠慮するな。思いっきり来い」
 力強く受け止めてくれる彼の腕を信じて、心優はナイフを振るスピードを速める。徐々に本当に戦闘をしているかのような打ち合いになる。
「いいぞ、ミユ。じゃあ、こちらからも行くぞ」
 ナイフを持っている手を、シドはシュッと素早く突き出してくる。それを心優はナイフで受け止め、シュッと切り返して跳ね返す。
「そうだ。その動きだ」
 まるでフェンシングのように、突き出される刃を剣で受け流し、弾き飛ばし、または突き返して威嚇する。それが徐々に息が合っているようにリズミカルになる。息が合っていると言っても、揃えているわけではない。兵隊としてプロのシドが手加減をしてくれた上で彼が決めてくれたペースに、心優が付いてこられるようになっただけのこと。シドがペースを上げて、どこまで心優がついてこられるか。または阻止できるか攻撃できるか、いまの彼は真摯に心優の実力に向き合ってくれている。
 そのうちにシドは本気になるのか、心優が敵わない手つきになってくる。その時、彼が繰り出してきた一手、ナイフの刃先が、受け止めようとしたタイミングが合わず手の甲をかすった。
 ――っ痛! 心優は顔をしかめたが、シドは構わずに攻撃を続けてくる。こういう彼の冷徹さは見習いたいところ。そして心優もここで怯むような彼なら、こんな時間外訓練を頼んだりしない。
 この夜もナイフとロッドの訓練を終える。
 一汗かいて、持ってきていたスポーツドリンクで水分補給をする。彼も同じく。
 道場の真ん中で、二人で向き合って座った。
「手が傷ついた。貸せよ」
「いいよ。これぐらい」
「いいから、貸せって」
 本当にうっすらとかすっただけ。でも血が僅かに滲み出ていた。
 シドが黒い訓練着のポケットから、絆創膏を取り出す。心優の手をとって、それを丁寧に貼ってくれる。
「おまえ。こっちの手の動きが少し鈍るな……。仕方がないけどな」
 引退をすることになった怪我をした方の腕だった。酷使すれば痛むことがある。それがわかっているから、かばいがちになってしまう。
 シドもそれはもうよく知ってくれていた。
 彼が連隊長秘書室に半謹慎状態になっていた頃。心優からミセス准将を通じて『フランク中尉と手合わせを続けたい』と願い出た。ミセス准将は驚きもせず、いつもの平坦な様子で『そう、わかったわ』と答えただけだった。なのにその後すぐに、連隊長からも許可が出たということで、そこでシドの半謹慎が解け『時間外で二人で責任を持ってやれ』と連隊長にいわれた。つまり、『勤務時間や訓練時間に特別な枠は用意しない。やりたいならプライベートで二人の合意の元やれ』ということだった。
 その許可が出たら、御園准将が『うちの家の道場を使っても良いわよ』と。それでいま二人で居るちいさな道場に二日に一度通うことになった。
 シドも『おまえのおかげで、やっと秘書室の外に出られるようになった』と言ってくれ、『ミユの素手での取り組みは、いい練習相手になりそうだから。訓練に付き合ってやってもいいぜ』――と、いつもの上から目線な言い方だったが引き受けてくれた。
 御園家と海野家の自宅。南ヨーロッパ風の白い壁、青い屋根とテラスがある家。そこの敷地内に、『息子達のために建ててしまった』というちいさな道場を借りている。
「よし。今度は組み手をやるぞ」
「イエッサー」
 武器を装備したまま。二人は向き合い、そして互いに呼吸を整え互いに構える。
 ――ハッ! ――ヤァッ!
 気合いの声を張り上げ、二人は男も女も関係なく拳に蹴りを繰り出し、それを跳ね返し、時には身体にヒットして吹っ飛ばされる。でも軍人の訓練はそこで負けではない。転んでも、床に腰をついてしまっても、そこから起きあがってまた敵に向かう。
「……っく」
 シドの表情が苦々しく歪む。たとえ力で心優を抑え込もうとしても、心優には『技』がある。シドはそれに興味を持って、互角の相手にしてくれる。
 幾分かして、シドが畳に膝をついて心優に言う。
「参った。いまの……、俺にも教えてくれ」
「いいよ。立ってみて」
 彼と向き合って、今度は心優が『技』を教える。そんな時のシドはきかん坊の王子ではなく、そんな時こそクールな中尉殿だった。
 訓練を終え、着替えをする。ちいさな道場の片隅にちいさな収納部屋があってそこを更衣室にしていた。
「なあ、俺の部屋に来るか」
 ドア越しにそんな声が聞こえ、心優は驚いて、彼が見えないのに振り返ってしまう。
 汗でびっしょりになったスポーツブラという姿だったので、心優の心臓が余計にドキドキと跳ねるように鼓動が早まった。
 でも心優は冷静を装って言い返す。
「疲れたから、寄宿舎に帰りたい」
「そっか。なんか女を抱きたいんだよな。ミユならいいなっと思っただけだよ」
 誘い方がものすごいストレート。まるで普段の気兼ねない会話をしているような空気のままさりげなくて、しかも嫌味じゃない。
「他にシドの部屋に誘われたい女の子いっぱいいるでしょ。そっちで探してよ」
「でも、俺。ここにいるの今だけだし……」
 いつも俺が一番と自信過剰な王子の言い方ではなかった。
「どうせ、俺は素性も明かせない私生児だからさ。そういうの興味もたれるの、面倒くさいんだよ」
 ――私生児。素性も明かせない『訳ありの養子』。心優もなんとなく、彼の素性は探ってはいけない空気を読みとっていたから避けてきたが、本人から告げられてまた固まってしまう。
 いま、扉を隔てた姿が見えない状態で良かったと心優は思った。いろいろと動揺している。それでも平静さを努める。
「シドの素性がどうでも、本当に好きになったならそばにいてくれるよ」
「おまえじゃダメなのかよ。御園の一員になったんだろ。触って良いとこ悪いとこ良く見極めて、知らん顔もうまいもんだよ。『奥さん』と『旦那さん』が気に入るわけだ。だからさ……。俺のこと、どこにいても待っていてくれるような気がしたんだよ」
「そんな立派な女じゃないよ」
 心優は制服のシャツを羽織り、スラックスを急いではいた。でも、シドは『俺と今夜、抱き合おう』と男として誘っているのに、確実に肌を露わにして着替えていることが判っている更衣室には押し入ってこない。
 そんな冷静さを持って、または、心優を大切に扱ってくれている男らしさと優しさを初めて感じてしまっていた。
 そんな男性に、心優も真摯に向かうべきだろう。
「わたし、忘れられない人がいるの」
 ドアの向こうの息づかいが、消えたように思えた。
「なんだ、そうだったんだ」
「良くない別れ方したから、心残りがあってね。だから、その人とケジメつけたいんだよね。いつか」
「いつかって……。いつなんだよ、それ」
「わからない。今度……、会ったらかな」
 短気なシドらしく、ドアの向こうから『チッ』という舌打ちが聞こえてしまう。
「鬱陶しいな。今すぐ会ってケジメつけて来いよ」
「わたしが……、まだ、ダメなんだ。今は会えない」
 今度は呆れた溜め息が届いた。
「あー、そうかよ。待ってられねえー、俺が!」
 ドアをゴンと彼の足が蹴った音――。
「ありがとう、シド。でも、わたしみたいなボサ子に、よくそんな気になるね」
「その『ボサコ』て、おまえが自分の事をボサコだっていうからさ。日本語でなんていう意味か、マジでオジキに質問して恥ずかしい目に遭ったんだからな」
 誰に聞いたの? と、スラックスのベルトを締めた心優は荷物をまとめて、やっと収納部屋の扉を開けた。
 夏の白シャツ、黒い中尉の肩章がついている制服姿に戻ったシドが、ちょっと恥ずかしそうにそっぽを向いているところだった。
「ボサ子なんて、誰に聞いちゃったの?」
「ジュールっていう御園の執事みたいなことしているオヤジ」
「ああ、あの金髪の……」
「母親と幼馴染みなんだよ。若い頃からなんでも一緒に仕事をしてきたみたいでさ。俺も一時、本当はこいつが俺のオヤジじゃねえかと疑ったことはあったんだけれど、どうも俺とは血の繋がりはないらしい」
 そうなんだ。あの綺麗なおじ様とシドが並んだら、金髪の王族みたいなのに――と心優はふと思ってしまった。
「そのオジキに、『ボサ子』て日本の女の子が気にする意味を教えて欲しいと聞いたらさ……。すんげえ笑って『それって園田心優さんのことだろう』って、一発で言われてさ」
 心優は目を丸くした。アメリカから来た彼(でもシドはフランスの血筋)から見たら、『ボサ子』はごく一般的に使われている日本語だと思ったらしい。
 今度は心優の頬が、かつての劣等感を思いだし熱くなってくる。
「その、ボサ子って――。わたしが横須賀に転属してきた時に、あまりにも女性として無頓着で女らしくなかったから、ボサボサの女の子って意味でつけられちゃったの……。ボサ子って言えば、わたしのことなんだよ」
「……らしいな。てっきり日本語の『かわいい』とかさ、『やまとなでしこ』とかさ。その逆の『ぶさいく』とかさ、そういうごくごく一般的なもんだと思っていたから。まさかニックネームだったとはね」
「それで、御園のジュールおじ様はなんいっていたの」
「別に。なにも言わなかったけれど、ずうっと嫌な笑みを俺にみせていたよ。たまに目が合うと笑ったりしてさ。おまえのこと気にしているって、ばれちゃっただろ」
 そんなこと言われても……と、心優はむくれた。
「どこがボサ子なんだよ」
「横須賀に来たばかりの頃は、こんなメイクもしなかったし、ほんとうに眉もぼさぼさにしていたんだって」
「俺、おまえみたいな女。いいと思うけどな。日本人にはボサ子に見えるんだろうけど、俺みたいな西洋人からみたらアジアンキュートにしかみえないけどな」
 わー、やっぱり根っこはフランス人だと心優は思った。ううん、イタリア人? 俺は絶対におまえが喜ぶこと言わないぞ、という顔をしておいて、いざとなったらこんな甘いこと言ってくれるんだ――という驚きだった。
「シドって、フランス生まれなんだよね?」
「生まれはな。でもフランスとイタリアを中心にヨーロッパ中を行ったり来たりしていたかな。俺の母親、起業してから駆け回っていたから。あ、ガキの頃は何度か日本にも来たよ。御園の家の関係で――」
 いままの話しぶりからも、シドは完全たる『御園ファミリー』だった。
 まだ御園夫妻から詳しい説明は受けていないが、エドやジュールに、シドの母親のナタリーといった、西洋人を中心とした関係者からはどうも『裏方仕事』をしている雰囲気を感じてしまう。
 エドが若い時に諜報員並だったということは、エドがそのような仕事をしていたということになる。ということは。心優と同じく、シドも生まれた環境の影響で幼少から鍛えられてきて腕もあるということは、そのように育てられた『諜報員的役割』を持っているのかもしれない。
 軍に籍を置いているが、実際は御園のために育てられた男……。そんな気がしている。
「シドはいつまで、小笠原にいるの」
「さあね。おじさん達の意向によるかな」
 彼は表では秘書官という役割になっているが、もし『秘密隊員』だったら? でももし本当に秘密隊員だったら、本当のことは決して話してくれないだろう。そして心優もそれをうっかり聞いてしまい彼に答えさせたくない。
「またお腹すいちゃった。帰る前にどこか食べられるところ連れていって」
「はあ? またかよ。ほんっとおまえ良く食うな」
「シドにもご馳走してあげるよ」
「じゃあ、行くか」
 少しだけ色めいた危うい空気になっていたが、シドも踏み切れないなにかがあるのか、強引に推し進めることはなかった。
 道場に鍵をかけたら、副連隊長が住まう『海野家』へ返しに行くことになっている。
 シドと一緒に返しに行くと――。
「おっす、シド。もう終わっちゃったんだ。俺もミユちゃんと一緒にやりたかったなあ」
 黒髪のすらりとした少年が出てきてくれて、鍵を受け取ってくれる。
「晃(あきら)なんか、ミユにはすぐにぶっ飛ばされるに決まっている」
 シドが生意気そうな少年に冷たく言い返す。
「だろうな。シドをぶっ飛ばせるなら、俺はまだ無理。だってシドがやられたんだからな」
「やられてねえよ」
 子供と一緒になってムキになっている。元の子供っぽい王子様に戻ってしまった。
 黒髪で涼やかな目元の海野少年は、男前の父親にそっくりだった。ちらっと心優を見た視線が既に艶っぽいく、ニヤッと笑う仕草とかがいちいち生意気だけど、いつも自信に満ちている彼らしい。
「今日はいつも一緒の海人はいないのか」
「さっき、キャンプで頼まれているシッターのアルバイトから一緒に帰ってきたところ。まずはそれぞれの家に『ただいま』を言っておかないと、親達がうるさいからさ」
 ハイスクール少年のバイトがシッターだなんてアメリカンだなあ――と。時々、ここが日本とは思えなくなって心優は戸惑う。
 そんな海野家長男に鍵を渡して、シドとバイクに乗ろうとした時だった。御園家から、ピアノとヴァイオリンの音が聞こえてくる。
 ヘルメットをかぶろうとしていたシドの手が止まる。口が悪くて、目つきも悪くて短気なシドが、どこか憂うような眼差しで音だけが聞こえてくる白い家を見つめていた。
「奥さんのヴァイオリンと、海人のピアノだな。いつもの『カノン』だ」
「いつ聞いても、うっとりするね」
 この家に来ると、夜はヴァイオリンとピアノの演奏が時々聞こえてくる。
 ミセス准将は元はヴァイオリニストを目指していたお嬢様。事件をキッカケにそれを諦め、戦闘機パイロットへと身を投じた。
 でも今は――。息子と一緒に、その音を楽しんでいるようだった。
 御園家の長男『海人』は、父親の御園大佐が教えてくれたとおりに、母親の准将にそっくりだった。栗毛に琥珀色の瞳、そして母親と同じようなツンとした鼻筋の貴公子のような顔立ちだった。なのに海野家の長男と違って生意気ではなくて、落ち着きがあり何事も淡々としている。晃がやいやいと賑やかに捲し立てても、海人はその横で静かに微笑んで黙っている。どうも雰囲気はお転婆なお母さんに似ずに、どっしり構えて落ち着いている眼鏡の工学お父さんに似たようだった。
 なのに、海野家の晃と一緒だと『悪ガキ』みたいな調子で、いつも兄弟のようにつるんでいる。
 だけどそんな栗毛のジュニアのピアノはなかなかのものだった。
「海人のピアノ、いつ聞いても凄いね。ちいさな時からやってきた音だね」
 そんな音楽にシドはいつまでも浸っている。海辺の白と青の家。そして優雅な夜の音楽――。潮騒と一緒に包みこむメロディ。
「ミユ」
 神妙な様子の彼に呼ばれ、心優は隣にいるシドを見上げる。
 だがシドは見えない潮風だけを見つめているような遠い眼差しのままで、心優を見ていない。
「なにがあっても絶対に奥さんを護れよ」
「わかってるよ」
「おまえも、なんでもかばえばいいってもんじゃないからな。帰還しろよ絶対に」
「うん。准将ともそう約束しているよ」
 心配してくれて、正直嬉しかった。今夜、この凛々しい金髪の中尉殿に誘われるままに抱き合えたら、それはそれで甘いひとときを一緒に過ごして互いに癒せるような気にもなる。
 でも……。きっとあとで後悔する。雅臣を一時でも置き去りにしたくない。どんなにあの人のぬくもりが消えて寂しくても。
 そしてシドも、そんな心優を抱いても虚しくなるだけだろうし、そんな気持ちにさせたくない。
「もし、なにかあっても。どんなところにいても、おまえと奥さんを助けに行くから。最後まで諦めるなよ。なにがあっても」
「……わかったよ」
 海に出てしまえば、シドでもなかなか来られないだろうと思うのに……。そこまで言ってくれるから、本当に帰還しなくてはと思わされる。
 星空の下に流れるクラシックメロディ、シドが心優の肩だけを抱き寄せてくれる。
 どうしてそんなに心配してくれるのだろう。心優は不安になってくる。彼はなにかを知っているのだろうか。軍が裏でなにをしようとしているのか――。

 

 小笠原にも、緩やかに家族と営む時間が流れている。
 厳しい訓練をしても、緻密なスケジュールをこなして、哀しい恋を振り返る暇がなくても。
 陽気なアメリカキャンプ、優雅な海辺の白い家。ここは珊瑚礁がある基地街。本島と変わらない日々がここでも培われている。

 

 珊瑚礁の海に降りそそぐ日射しが徐々に柔らかくなって、海の色がまた変わる。
 この島には、本島で感じてきたような秋はない。春のような柔らかな色合いの海がいつまでも潮騒を奏でていて、穏やかなまま。
 心優の昇格試験が近づいてきた頃、急にシドの姿が見えなくなってしまった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 シドはどうしたのか、講義が終わった時に教壇にいる御園大佐に尋ねると――。
「フロリダの研修訓練に行っているだけだよ。連隊長の指示でね。シドぐらいのレベルになると、フロリダ本部が企画している本格的な訓練の方が経験と経歴になるからね」
「そうでしたか。いつ戻ってこられるのですか」
 御園大佐がそこで、ちょっと意味深な眼差しで心優を見つめたまま黙り込んだ。
 その顔が『どうしてシドをそんなに気にするのか』とでも言っているようで、心優はハッとして頬が熱くなってしまった。
「いえ、その……。急に練習相手がいなくなってしまったので。彼は、なにも言わないで行ってしまったのですね」
「春には戻ってこられると思うよ。連隊長もそのつもりで行かせているから、どこかに転属させる気はないと思う」
 春まで――。ワンシーズンいないことになる。
「戻ってくるつもりがあるから、なにも言わずにでかけていったんだと思うよ。それか、ミユの顔を見ると行きたくなくなってしまう……とかね」
 御園大佐が教壇から、にんまりとした顔で心優を見下ろしている。シドのわかりやすい気持ちなど、御園大佐はもう解っているようだった。
「それよりも、園田はそろそろ仕上げだ。帰ってきたシドにきちんと報告したいだろう。少尉に昇格できた――と。できなかったら、あいつ、何やっていたんだとものすごく怒るぞ」
 確かにそうだった。シドには『おまえ、試験に落ちたら承知しない』といつもの怖い顔で威圧されていた。
 でも、春まで会えないだなんて。それって心優も任務から無事に帰ってこないと、シドには会えないということになる。
「では、明日も模擬テストをする。準備をしておくように」
 御園大佐の講義は最終段階に入っていた。毎日、昇格試験の模擬テストを繰り返しているところ。
 訓練では、射撃を集中的に指導されているところだった。副連隊長の海野准将が、わざわざ訓練の時間を空けてくれて、素人の心優に銃の握り方から、撃ち方、狙い方に命中させるコツを徹底的に叩き込んでくれる。
 お手本で銃を持つ海野准将の腕前は噂以上だった。手に持つ小銃から、構えて撃つライフルまで、その命中率に腕前は名人と言われるだけあった。
 ただ、夜の練習をする相手がいなくなってしまった。急に夜が暇になる。だけれど試験前だから今度は筆記に集中しなくてはならい時期。見計らったようにシドがいなくなった。
 それまでの夜は、毎日のスケジュールがきつくてもわりと楽しく過ごしていた。ダイナーで鈴木少佐とシドと一緒になると男同士が悪口を叩きあっていても、最後には三人で笑い飛ばしたりしていたし、同世代の隊員として、軍にいる自分たちの思うところを話し合ったりした。
 そんな心優のプライベートを見知った女の子達が『園田さんは、エースとも王子とも親しくて羨ましい』と近寄ってくるようになった。心優もそんな彼女達には『一緒にダイナーに行けば紹介するよ』と誘って、鈴木少佐とシドに引き合わせたりした。
 鈴木少佐は『かわいい彼女(御園のお嬢様)』がいちばん楽しいお相手なのか、女子隊員達と楽しい会話はしても上手く彼女達をあしらってしまう。
 逆にシドは、彼がその気になれば女の子を連れて先にいなくなってしまうこともあった。
 心優はシドに誘われても断ったのだから。そんなことを目の前であからさまにされても仕方がないこと。シドにはシドの彼が選ぶ恋がある。それだけのこと。でも、本心はちょっぴり寂しかった。
 自分のことを気に入ってくれた男なんてそんなにいない。今年になってからどうしたのだろう。憧れの中佐と愛し合えたり、転属した先で凛々しい中尉に誘われたり。これがモテ期ってやつ? シドに誘われるまま身を委ねられたら、心優も楽になれるのかもしれない……。でも『忘れられない恋に、いつかケジメをつけたい』なんて言えば、待っていてくれないに決まっている。
 そして心優も、中途半端な恋はもういや。自分の心が可愛いだけの恋は二度としたくない。シドに甘えることはそれを意味している。
 夜の窓辺、寄宿舎の部屋。小笠原の寄宿舎はどこの部屋も海が見える。今夜はスーパームーン。母が『お守りに持っていなさい』と送ってきてくれた『シャーマナイト』の石を窓辺において月光浴をさせる。
 月夜の海は浅葱色、黄金色の帯が揺らめく。その光に包まれながら、心優はノートとテキストに必死に向かっている。
 これが終わったら、御園准将と一緒に空母の訓練に付き添う。常に彼女のそばにいる護衛官になる。
 そうしたら横須賀に行くことも増える。その時、きっと……。懐かしい『長沼准将室』を訪問することになるだろう。そこにいる元パイロットから秘書室長に上りつめた彼がいる。
 どんな顔で会えるだろうか。秘書室長のシビアな徹底した眼差しで、苦手な元上司であるミセス准将と一緒にいるということで素っ気なくされるかもしれない。もうお猿さんの愛嬌ある微笑みは見られないかもしれない。
 それでもいい。それでもいいから……。心優は謝りたい。ひとこと。『お許しください』と。なにもかも甘ったれている上に、臣さんの愛に包まれっぱなしで弱い自分だったことを謝りたい。
 傷を負って手に入らないもの、戻ってこないものへの思慕を断ち切れなくても、新たな地位をしっかりと築いた貴方に、いちばん言ってはいけないことを突きつけて傷つけた甘ったれボサ子だったことを謝りたい。
 彼に、星が付いた肩章を見て欲しい――。
 真っ白なノートが黒い文字で埋め尽くされていく。カナリア色の月明かり、そして南の潮騒に包まれて。

 十一月の末、昇格試験が行われた。
 梅雨が明けた頃に突然の引き抜き、転属。そして過密なスケジュールの講義と訓練を経て、心優はついに試験の日を迎えた。
 心優の制服ジャケットの胸ポケットには、シャーマナイト。
 強い相手と対戦する時に、母が良く握らせてくれた石。
 そして――、あの人の瞳。
『臣さん、もうすぐ行くからね』
 試験官の合図と共に、心優は選手時代とは違う世界の『勝負』に向かった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 年が明け、その日が来た。心優は朝からそわそわしている。
 試験前に講義は卒業したので、いまは訓練と秘書室の業務に追われる日々を送っている。
 いつもの各中隊へのお遣いを回ってきて、御園准将室に戻ってきた時だった。
 ラングラー中佐と御園准将が待ちかまえた様子で、心優を待っていた。
「おかえりなさい、心優」
 御園准将の手元に、封書がある。それを見ただけで、心優の鼓動が息苦しく忙しくなる。
「こちら、准将の前へ」
 ラングラー中佐に促され、心優はミセス准将の前へと向かう。
 木彫りの机に置かれている封書はも開けられていた。
 その封書に触れたミセス准将が皮椅子から立ち上がり、硬い面持ちで心優に告げる。
「結果が出ました。園田海曹」
 ひっそりと心優は汗を滲ませている。胸が苦しい……。お願い、どうなったの。
「合格おめでとう、園田海曹。これから貴女は少尉です」
 ほ、本当ですか。
 声にならなかった。
「おめでとう、ミユ。園田少尉」
 ラングラー中佐も嬉しそうな微笑みを見せてくれる。
「あ、ありがとうございます! こんな短期間で昇格できるだなんて、皆様がわたしの為に懸命に指導してくださったからです」
「澤村も貴女ぐらいの年齢の時に小笠原に来て、それまで意欲的ではなかった昇格試験に取り組んで転属三ヶ月で少佐になったわよ」
 初めて聞く話で、心優は驚いて言葉がでなくなる。あの御園大佐も?
「だからでしょう。いつかの自分を貴女に重ねていたのでしょう。素質はあるのに立ち止まっている。口惜しかったのでしょう。最初に随分と厳しいことをあの人に言われたと思うけれど、貴女がここまでこれたということは、貴女にはその素質があったということです」
 最初にガンと打ちのめされた時のことを心優は思い出す。自分から恋を破壊して失って荒んでいるところに、それまでの自分を叱咤する御園大佐のあの厳しさに逃げ出したくなったけれど……。あれは遠い日のご自分と重ねての腹立たしさだったのだろうか。
「テッド、あれをミユに見せて」
「イエス、マム」
 ラングラー中佐が、秘書室に行ってしまって暫く。戻ってきた時には黒い漆塗りの大きなトレイを抱えて来た。
 それを御園准将のデスクへと置く。そこには真っ白な海軍正装のジャケットが綺麗に畳まれて置いてある。肩の黒い肩章には『少尉』の金ラインと星がついている。
「気が早かったけれど、私から貴女に着せたくて準備していたの」
 御園准将がそれを手にとって、真っ白な正装ジャケットを心優のところまで持ってきてくれる。
 デスクから出てきて、心優の前に立ったミセス准将が心優の肩にそのジャケットを羽織らせてくれる。
「頑張りましたね、園田少尉」
「准将。ありがとうございます」
「お願いしてもいい?」
 『はい、なんでしょう』と答える。
「私と一緒に記念の写真を撮りましょう。それをすぐに沼津に送りましょう」
 正月休みも帰省しなかった心優を知っている准将からの気遣いだとわかった。
「嬉しいです。母が安心すると思います」
 するとラングラー中佐からも報告が。
「広報から前もって『もしも』ということで依頼がありました。園田海曹が少尉へ昇進した際には是非に、ミセス准将と女性護衛官というテーマで広報誌に掲載したいとのことでした」
「私、あの広報誌からの取材。好きじゃないんだけれどね。今回は即答しておいたから。心優もそのつもりで」
「え! あの、全国の基地に配布される広報誌に!」
「そうよ〜。私、五回に四回断っているの。でも、今回は私も嬉しいし……、親孝行よ。お父様の園田教官も娘が掲載されたら嬉しいでしょう」
 少尉に昇格した途端の、嬉しいご褒美のようだった。気恥ずかしいけれど、それでも勤めているうちに一回でも取材されたらそれも功績と言われている広報誌に掲載されるのは、ここの軍人としては喜ばしいことだった。
「その広報が綺麗に写真を撮ってくれるから、それを沼津のご家族に送りましょう」
「准将とご一緒だなんて光栄です。よろしくお願い致します」
 お二人も揃って微笑みを見せてくれる。
 しかしそれも一時で、ミセス准将はいつもの無表情な平坦な顔に戻ってしまう。もう彼女の目はずっと遠く先を見つめている。
「では。訓練着も少尉のバッジに付け替えて、明日からは私と一緒に雷神の訓練に付き添うように。そして次の横須賀での最終会議に貴女も一緒に連れていくわよ」
 いよいよ、横須賀に――。
 半年ぶりに、横須賀に帰る。
 雅臣はどうしているのだろうか。広報誌を見て、どう思ってくれるだろうか。

 

 

 

 

Update/2015.1.29
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