◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 27.お許しください、大佐殿  

 

 艦長が、夜行性になる。暗闇に神経を尖らせる野生動物に。

 灯りを落とした艦長室。心優は応接ソファーで読書をさせてもらったり、格闘技の録画DVDを見たりして時間を過ごした。
「ミユ、資料室に行くから手伝って」
「はい」
 潮騒だけが柔らかに漂う夜半。御園艦長は資料室に準備させていたいくつものファイルを探して抜き取って、それを延々と再生させたり、記録を眺めたりして過ごしている。
 時々……。栗毛が垂れるその中に顔を隠して、じっと俯いている時がある。その時は、少しだけうとうとしているのだとわかって、でも、感が強くなっている彼女には触れまいと心優はそっとしておく。こんな時は逆に、心優が神経を尖らせて警戒をしている。
 夜中の三時に、一度だけラングラー中佐が様子を見に来てくれた。
 その時に彼が気遣ってくれたのか、是枝シェフを呼んでくれていた。シェフもよく心得ているのか、ハーブティーをそっと艦長のそばに無言で置いていく。それだけで、御園艦長は気配を読みとって、ハッとした顔になり目を覚ましてしまう。
「園田さんはこちらがよろしいですよね」
 心優には目覚ましのカフェラテを持ってきてくれた。そしてちょっとした夜食も。
 ラングラー中佐と是枝シェフが去ると、艦長の目がまた薄闇の中輝き始める。本当に夜行性の生き物のように。
 資料室からかき集めてきた過去の航海日誌を眺めたり、戦闘機の飛行映像や、過去にあったスクランブル時の対応を幾つも幾つも眺めている。
 なのに目が生き生きとしているのが、心優には空恐ろしく感じてしまう。
 そこに彼女の生き様が現れているようで。こんな時に、彼女が強く生きているオーラを凝縮させているようで。本当に、自分たちとは異なる感覚の持ち主だと思わざる得なかった。

 ラングラー中佐に言われたとおりに、だからこそ心優は夜勤明けの非番にはぐっすりと眠らせてもらい、また翌日に備えた。
 朝方の交代から少し眠って、眠りすぎないよう午前中には一度は起きて、洗濯をしたりしてすごす。
 今回は艦長専用のランドリーを使わせてもらっているので、初航海なのに心優は随分と優遇された環境で、身の回りを整えることが出来ていた。
 それでも『現実』が気になるので、女性隊員が過ごしているエリアに出向いて、本当の共同ランドリーを覗きに行ってみた。そこでは、女の子達がベンチに座って、雑誌を眺めたりして楽しそうにお喋りをしていた。匂いも柔軟剤の香りが漂っていてほんわりとしている。まさに女の子サロン。
 彼女達も心優に気がついて『アロー』と声をかけてくれる。非番の日は、彼女達はここでお喋りをしているとのことで、心優も少しだけ仲間に入れてもらえた。艦長付きの護衛官という立場は、そんな意味でも心優を助けてくれる。
 ランドリーのサロンの帰り。アメリカで流行っている柔軟剤がコンビニでパウチで売っているよ――と金髪青眼の甲板要員の女の子に教えてもらい、探してみる。
「准将にも買っていこうかな」
 十代はアメリカで過ごしたのだから、なんとなく懐かしく感じてくれる匂いかもしれない。そう思って、心優はいくつか選んでみる。
 開いているレジにカゴを置こうとして、同じ事をしようとした背が高い人とぶつかった。
「sorry…」
 お互いがそう口にして、お互いの顔を見て、一緒に驚く。
「心優」
「大佐」
 紺の指揮官服姿の雅臣だった。
「お先にどうぞ、園田少尉」
「いえ、大佐がどうぞ」
「女の子に気遣っている男にしてもらいたいんだけれどなあ」
 レジにいる赤毛の可愛い女の子がニンマリと眺めていた。
 お言葉に甘えて心優から先に会計をする。雅臣もちょっとした生活雑貨の買い足しのようだった。
 先に会計を済ませてコンビニを出た心優の後を、雅臣が追いかけてきた。いつのまにか隣に並ばれる。
「柔軟剤? 女の子らしいな」
「女の子達がいるランドリーに行ったら、アメリカンの子達が国で流行っていると教えてくれたんです。御園准将はアメリカにいらしたから、もしかしたらお気に召すかもと思って」
「へえ。俺も使ってみようかな」
 臣さんが。柔軟剤。男臭いばかりのお猿さんが、柔軟剤。心優はちょっと頬を緩めてしまいそうになる。
「似合わないと思っただろう」
「い、いえ」
「誤魔化しても無駄だからな。俺、心優のそんな顔はよく覚えているから」
 心優は表情を止めてしまう。でも、胸の奥はものすごく大騒ぎ。『いま隣にいるのは大佐殿じゃなくて、お猿さんだ』。久しぶりに彼に出会ってしまったという、ときめき。そして、戸惑い……。
「臣さん……、柔軟剤なんか使っていなかったもの」
「だろ。でもそれは興味あるな」
「使いますか」
 いくつか買ったうちのひとつを差し出した。
「いいのか」
「臣さんなら、これが良さそう」
 グリーンハーブタイプのものを差し出した。
「ありがと」
 大佐殿がにっこりと受け取ってくれた。その笑顔、あの頃の愛嬌ある彼の笑顔で、やっぱり心優は澄ました顔を保っていてもドキドキしてしまう。
 あの頃を思い出す。雅臣と恋仲になる前。ただ憧れの上司だった彼にドキドキとときめくだけだったボサ子だった頃を。あの頃も心優は懸命に澄ました顔をしていた。雅臣はそんな心優のことを『笑わないんだな。試合をしている時の心構えでやってくれているんだよな』と言ってくれた。
 今だって――。ここは生活をしている場でもあるけれど、どうあっても職場。そんなになし崩しになれるはずもない。
 でも雅臣はずっと心優の横にいて、おなじ歩幅で歩いてくれて、離れていく様子がない。
 ここでも雅臣はすれ違う隊員に挨拶をされては、愛嬌あるあの笑顔で手を振っている。でも心優も同じく。もう顔が知れてしまって、知らない人にも声を掛けられる、挨拶をしてもらえる。
 そのうちに、やっと指令室へ向かう途中の通路で二人きりになった。
「心優も有名になったもんだな」
 雅臣がため息をついた。
「あの広報誌のおかげです。葉月さんだけかと思ったら、ご主人の隼人さんまで巻き込んでしまって。さすが、じゃじゃ馬さんて感じでした」
「そうだったんだ。最初からご夫妻で撮影する企画ではなかったんだ」
「はい。でも。御園大佐は、奥さんが華やかになるならなんでもやってやるという顔で、嫌々いいながら、すぐに着替えて一緒に並んでくれたんです」
「すごいな、その話。あの撮影にそんな裏話があるだなんて」
「はい……、でも……」
 どつきあいのような会話でさえ、軽快に交わす息があったご夫妻。でもそのご夫妻の道のりには……。
 ―― ちゃんと産んであげていたら、最初の子が心優ぐらいの年齢。
 裏話なんてありすぎる。人には言えない過去をたくさん乗り越えてきたご夫妻。なのにたくさんの隊員の目が向けられているご夫妻。心優はため息をついてしまう。
 そんな心優を雅臣が静かに見つめてた。
「なんだよ、そのため息。やっぱり御園夫妻のそばにいると、いろいろありそうだな。俺も小笠原にいた時に思っていたけれど、誰も間に入れない強いものがあるよな。そして、誰も踏み入れられない、触れさせてくれない、お二人だけの辛いもの。あるみたいだったし……」
「大佐も、感じていたんですね。そうなんです。いろいろあったみたいです。でも、私は秘書官だから、ラングラー中佐がそうしてきたように、空気のようにして知らないふりをしようと思っています。だから……」
「あの日のことは、俺にも言えないと。そういうことなら、もう別にいい」
「別に、もう話せるんですけど……。でも……、極秘も極秘の話で……」
「いいよ。また話せそうな機会に聞かせてもらう。俺も知っても良いような許可も出ていたし、極秘なら大事に話したいし聞きたいから」
 雅臣なりに、心優が言いづらい事情は噛み砕いてくれたようだった。
 その雅臣が、心優が歩く目の前に急に立ちはだかった。
「俺、思っていたんだけどな……」
「はい」
 その眼差しはもうやわらかくて、微笑んでくれていて、いつかのような冷たい痛さは向けられていなかった。
「ここぞという時に、心優ははっきり言ってくれるんだよな。雄々しく、逞しく。怒っていたじゃないか。わたしのことをなにもできない女の子ぐらいにしか思っていないって……。意味がわからなかったけど、後で痛いほどわかったんだ」
 そうなの? と、心優は目を丸くする。決して、臣さんには自分の言いたいことは通じないと思ったから、離れてしまったのだから。
「ボサ子だってバカにしていた奴等と、俺も同じだったんだなと。これぞ強敵という格闘に何度も身体を駆使して立ち向かってきた子なのだから、いざというときに力を発揮できる、行動が起こせる、その実力を持っていたのに。俺は、事務仕事が劣っている、大勢の人間に慣れていないだけのことで、心優を見くびっていたんだ」
「いいえ。それも本当のことなんです。わたしの不徳なんです。御園大佐がわたしを迎えに来てくれたその後直ぐ。厳しく指摘してくれました。なにもしてこなかった、人の好意と今までの経歴にただ助けられて流されてきただけだって――」
「そして。俺は、園田という人材を手に入れながら活かせなかった。逆に御園大佐は、たった半年で園田という人材を叩き上げて空母に乗せる准将付きの秘書官に仕上げ、なおかつ少尉まで昇格させた。……敵わないよ。俺も計画はしていたけど、そんなこと出来なかった」
 あの頃。見えていなかった自分達。自分がやっていることが恋人から責められるはずもないとお互いに思いこんでいて、安穏としている二人だからこそ外界から揺さぶられた途端にひずみ出来て、あっという間にヒビが入り壊れてしまった。
 そんな脆い関係だったのだ。それを心優だけではない、雅臣も噛みしめてくれていた。
「やっと、心優に言えた」
 あのお猿さんの微笑みで笑ってくれる。
「わたしも……、こうして大佐と話せて良かったです。あの、本当に申し訳ありませんでした。大佐に酷いことを言いました」
 心優はやっと告げることが出来ると、どうしてか微笑みながら雅臣に頭を下げている。
「お許しください、大佐」
「どうして」
「大佐がたった一人で傷ついて、たった一人で立ち向かっていただろう傷に素手で触って無頓着に荒らすようなことをしました」
 頭を上げて彼を見上げると、今度の雅臣は哀しそうな目をしている。
「いつか、俺は心優にエンジンなんかかかってないと言ったことがある。覚えているか」
「あ……、はい。ホルモン焼きを食べに行こうとなる前に……」
「エンジン、おまえがかけたんだろ」
 雅臣が心優の真ん前にそっと寄ってきた。もう彼の胸が目の前……。
「俺を置いて、俺が行きたかった場所に行ってしまう。まさに『あの人』の隣に。なにもできないと思っていた部下に先を越された。その部下に、痛いところつかれた。誰もが、可哀想なパイロットだからそっとしておこうと大事にしてくれていた中で、俺はぬくぬくしながら、うじうじと膿んでいる傷を一人だけでいじくりまわして四年。あの人が、それほどに俺を信じて待っていてくれたなど知らず。あの人が来いと言うはずがない。俺が子供のように拗ねて避けていたんだから。あんな恥ずかしい俺になって合わせる顔がないと逃げていたんだから。それを、正面切って言ってくれたのは……」
 シャーマナイトの澄んだあの目が心優を見つめてくれている。あの大きな手が心優の黒髪にそっと触れる。
「俺を歩かせたのは、心優だろ」
 懐かしい手の感触に、心優は泣きそうになる……。
「でも、臣さん……。許さないって……」
「……バカな男だから。そういってでも心優に覚えておかせようとした。もちろん、あの時はまだ頭に血が上っていて、気持ちの整理もついていなかったけれど」
 そこで言葉を止めたまま、じっと見つめてくれている。あのシャーマナイトの瞳で。
「大佐?」
「ごめんな、心優」
 急なひとことに、ただびっくりしていると、雅臣が静かに身をかがめる。彼の顔が近づいてきて、心優はどきりとする。
 短くなった黒髪、そこに彼がそっとキスをしてくれた。
 心優の目に涙が溢れる――。
 臣さん――! 彼の胸に抱きつきたい衝動に駆られる。
「大佐、どこにいってらしたんですか!」
 雅臣の背後に、息を切らしたハワード大尉が駆けてくる姿が見えて、心優はドッキリして飛び上がりそうになった。雅臣もハッとして、心優を隠すようにして慌てた様子で振り返る。
「あ、大尉……。えっと……」
「ちょっとだけコンビニに買い物に行くと聞いていたのに、お帰りにならないから、艦長が心配していますよ。スクランブルがないうちに、広報の撮影計画についてのミーティングをする予定でしたよね。お待ちですよ」
「すみません、すぐに行きます」
 レジ袋片手に、雅臣が走り去っていく。
「わ、ミユもいたのか」
 雅臣が隠すようにしてくれていたのに、行ってしまったから心優が急にそこにいてびっくりしたらしい。ということは、雅臣がしてくれた黒髪キスは見られていないようでホッとした。
 でも。それだけでハワード大尉がちょっと困った顔をしている。
「俺、もしかして邪魔した?」
 なんか……。皆さんにもしかしてバレちゃっているんじゃないかと心優は顔を熱くしそうになったが、必死に堪えて澄ました顔に整える。
「いいえ。お久しぶりだったので、懐かしい話をしていただけです」
 なのに、一緒に歩き出したハワード大尉に言われてしまう。
「秘書室チームはもう知っているよ。つきあっていたんだろ、横須賀にいた時」
「まさか」
「准将も気がついているし、ラングラー中佐もそう思っているよ」
 心優は押し黙る。でも決定的なことを言われてしまう。
「城戸さんがさ、連絡船で吐いていたことをミユは知っていた。それだけで充分、それだけの関係だったと知っている者はわかってしまうよ」
 心優はさらに黙り込む。決して、自分からは認めまいと……。
 なのに、ハワード大尉が思わぬことを言い出した。
「もう、小笠原の船に乗っても吐かない。ミユがそう教えてくれたから、御園准将が『雅臣を連れ戻す』と腰を上げたんだから」
 驚き、心優はハワード大尉に詰め寄ってしまう。
「そ、そうだったんですか? あの時……、わたしが話したひとことで?」
「ああ。そうだよ。その少し前に、城戸さん自身が『秘書官を辞して、現場に戻りたい』と言いだしていたようなんだけれど、長沼さんは『感情的すぎる』と保留にしていたらしいんだ」
 感情的すぎる? でも心優には直ぐに理解できた。長沼准将も、心優と雅臣の恋仲を察していた様子だった。雅臣がいきなり秘書官を辞して現場にと、心優を見返すように行動を起こしたことを見抜いていたのだろう。
「保留だから、小笠原にはその情報は伝わっていなかったんだけれど。ミユから届いた城戸さんの気持ちを聞いた御園准将が動き出した。だから長沼准将も手放す覚悟をしてくれたそうなんだ」
 心優もやっと……。雅臣がどうして岩国に急に転属になったのかやっと知る。
 エンジンをかけたのは、おまえだろ。
 心優が彼の痛いところを触ってしまったから。心優と雅臣だけが知る言葉で、あのやり手の女将軍様が動いてくれたから。
 そして、雅臣も半年間。たった一人。岩国で叩き上げてきた、大佐となるまで、空の男に戻るために――。
 離れていた二人は、それぞれの目標を超えて、おなじ艦でまた会えた。
「少しは話せたみたいだな……。葉月さんにもそれとなく報告したらいいよ。准将は、自分のせいで若い二人を別れさせたと思っているからさ」
 いつのまにか心優は、言葉では応えずとも、無言でこっくり頷いてしまっていた。
「非番だったよな。今日は俺が寝ずのお供なんだ。今回は何日目に寝てくれるのかなあ」
 大柄なハワード大尉は慣れているだろうに、ちょっとげんなりとした顔になった。
「早く安心してくれるといいですね」
「まあ、橘さんも側にいるから、余計に気が立つんだろうけどね?」
「どういうことですか?」
 すると、ハワード大尉がちょっとおかしそうに教えてくれる。
「葉月さんも、橘さんのことは男として見ているんだろうね。側にいると安心して眠れない危険な男と言っているから。もしシャワールームで私が気を失っていても、橘さんには助けられたくない。と言い張っているから」
 わからないでもないなあ。と心優は苦笑いを浮かべてしまう。
「で、どうしてか。男の中で裸の私を助けてもいいのは、アドルフだけだって言うんだよ。これって男として不名誉だと思わないか」
「あ、でも。わたしもそう思います。だって大尉は愛妻家で、優しいパパさんだって皆さんも言っているし、わたしもアメリカキャンプでお姿を見たのでそう思っています。ぜったいに、他の女性は襲わないでしょうって思うほどに」
「本当にそうなったら、勿論、いかがわしいことは絶対にしないよ。でも、やっぱり男として……」
「護衛官として素晴らしい信頼を得ているってことじゃないですか」
 そうだけど……と、熊さんのような顔で首をひねる優しそうな大尉を見て、心優はそっと微笑んでしまう。
 まあ。でも確かに。あの橘大佐は、ちょっと危ないのよね――と心優も彼が夜の艦長室にやってくるとつい警戒してしまっていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 まるで寝台特急にあるような、ベッドだけでいっぱいっぱいの小さな部屋。でも個室。そこで心優は悠々と非番の休暇を堪能する。
 だけれど、ちょっと退屈。しかも外で勤務している先輩達がなにをしているのか気になってしまう。
 時計は、夜の十一時。艦長と食事だけ一緒にして、艦長専用バスルームで入浴をさせてもらって、そろそろ心優も明日に備えて眠ろうかと思っていたのだが。その前に、少しだけ艦長の様子をうかがっておこうと外に出て見た。
 いつも艦長のデスクに座っている准将がいない。もしかして眠ったのかと、艦長のベッドルームを覗こうとしたが勝手に覗けずにしばし考えあぐね、指令室に出向いた。
 今日は寝ずの番をしているハワード大尉が、紙コップに珈琲を淹れているところだった。
「艦長はどちらに」
「甲板に散歩。橘大佐となにか話し込んでそこから動かれなくなったから、お二人に飲み物でもと思って」
「わたしが持っていきましょうか。眠る前のご挨拶をしておきます。大尉はそこでゆっくりしていてください」
「いいのか。では……、お言葉に甘えようかな」
 これから夜通し、艦長の様子をうかがって付き添わなくてはならないから、少しでもゆっくりして欲しいと心優から珈琲のカップを持って、管制塔から甲板へと向かう階段を下りていく。
 出口のドアが開いていた。外に出たところの鉄壁に背をもたれている栗毛の女性の姿が半分だけ見えた。
 階段を下りきった心優はそのままドアが開いているまま外に出て、お二人に声をかけようとしたのだが。
「本気なの、私はまだまだ協力を惜しまないけれど」
 そんな御園准将の、妙に哀しそうな声をかんじた心優は、すぐそこで立ち止まった。
「ああ。もう充分だよ」
 姿は見えないけれど、きっと准将の隣に並んでいるだろう橘大佐の声も聞こえた。
「現役を引退する」
 そんな一言に驚き、心優はそこから出て行けなくなってしまった。
 指揮官になっても、現役のパイロットとしての資格を維持してきたのに、ついにピリオドを打たれる決意をされたようだった。
 当然、心優は驚きを隠せない。パイロット達は、一般的にはもう引退している年齢を超えていても『資格維持』をしてきた橘大佐を、とても尊敬している。出来ればいつまでも、空の現役でいたい男達の希望でもあったんだと思う。その人がついに、そこに自らピリオドを打つ。
「俺だけは、ジジイになってもみっともなくてもパイロットであろうとしたけれど。毎年の審査と更新で必要な飛行時間を確保するのが難しくなってきたし、俺も……事故を起こさないとも限らない」
「男達ががっかりするわよ」
「そう思ってきたんだけれどな……。おまえ達も頑張れば、いつまでもやっていけると俺が証明をしていきたかったんだけれどな。でもな。誰だっていつかは終わりがある。みっともなくても、と思っていたが、やはり『ケジメ』も引き際も大事だってことも残しておかなくちゃな」
 お二人の会話が止まり、オホーツク海上に停泊している空母甲板には、潮騒だけが聞こえる。
 御園准将の息が白い。春先とはいえ、ここはオホーツク。まだ夜は気温が低い。カップが冷めないうちにと、心優は思いきって甲板へと姿を現す。
「お邪魔いたします。珈琲をお持ちいたしました」
 二人が揃って驚いた顔を心優に見せた。聞かれたと思ったのかもしれない。だがそこは秘書官。なにを聞いても知らない顔。これは塚田中佐の時から言われてきたことだったから、笑顔を見せる。
「おー、ミユちゃん。サンキュー。やっぱオホーツクまで来ると冷えるわ」
 心優の手から、橘大佐が二つともカップを取り去ってしまう。
「ほら。葉月ちゃん」
 橘大佐は、遊び人と言われているだけあって、女性に対してどこか紳士的なところがある。差し出してここまで取りに来い――なんて仕草は決して見せない。御園准将の目の前まで行き、ちゃんと手元まで持っていく。
「ありがとう、ミユ。橘さんも……、ありがとう」
「あはは。葉月ちゃんに御礼言われた。どしたの、なんか優しいじゃん。素直じゃん。葉月ちゃんらしくない」
 指揮官服の上に、紺の軍コートを羽織って寒さを凌いでいるが、二人の息は白く、あつあつの珈琲をすする時も、どうしてか二人で目を合わせて微笑みあっている。
 そこに、共にパイロットとして、または海の指揮官として歩んできた絆を見た気がした。
「やはり残念よ。だって、橘さんのアクロバットはとても美しくて、本当に海上の燕だった。まだ見ていたかったもの」
「もう充分、飛ばしてもらったよ。葉月ちゃんの部下になったからこそ、好きな時に空を飛ばせてもらえて、いっぱい融通をきかせてくれたもんな。資格を維持することが出来たのは、なにをいいだすかわからないけれど、言いだしたらその通りにするじゃじゃ馬さんが例外を認めてきてくれたからだ」
「私や雅臣のように、コックピットに想いを残したまま降ろされることもあるじゃない。橘さんならどこまでも飛んでくれる気がしたから――」
「俺を側に呼んでくれて有り難うな。また、葉月ちゃんと艦に乗れて楽しかったよ。また一緒に航海ができてさ」
「ほっとするんじゃないの。私といると心臓が止まることばかりだったとかいうじゃない」
「かもな! 今回もなにか変なことを航海中に言い出すなよ」
 二人が揃って、北海の星空の下、声高らかに笑っている。
 本当に、戦友なんだな――と思える姿を見た心優は、二人をそっとして艦内に下がった。
「お届けしました。おやすみなさい。ハワード大尉」
「おう、有り難うな。俺は明日は非番だから、よろしくな。グッナイ、ミユ」
 大尉に挨拶をして、心優は艦長室の小部屋で眠りについた。
 すぐに微睡んだはずなのに……。少しだけ目が覚めた時、どこか遠くからアヴェマリアが聞こえてきたような気がした。
 星空のオホーツク。戦歴を重ねてきた戦友と甲板でのひととき。そんな戦友に聴かせているのだろうか。艦長の夜のヴァイオリンが、かすかに聞こえるような夜は深く眠りに落ちて。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 暫く平和だと思っていたが、そうでもなかった。
 何時なのかわからないが、小部屋にもついている天井スピーカーからけたたましい警報音。
 ――ホットスクランブル!
 心優は一瞬にして飛び起きる。タンクトップの上に紺の上着を羽織って部屋を飛び出す。
 艦長室のドアが開けっ放しになっていて、御園艦長が飛び出していったのだと心優は後を追う。
 管制室に入ると、展望窓には朝靄にけぶる海上が広がり、夜明け前の紫苑と茜に染まっていた。美しい朝の海原にうっとりしたいが、それに反して管制室も甲板も緊迫している最中。
 日が昇る前でも、甲板要員が待機させていた白い戦闘機に集結する。出航後のあの光景とまったく同じ迅速な離艦作業が、まだ夜間照明で照らされている甲板で繰り広げられている。
 指揮カウンターには既にインカムヘッドホンを装着した御園艦長。艦長の横顔を見て、心優は愕然とする。眠らなくなって三日か。明らかに目元が疲れ、くまができている。
 それなのにあの琥珀の瞳は、爛々と輝いて海を見据えている。
「雷神1号『スコーピオン』、雷神2号『ドラゴンフライ』行きます」
 官制員からの報告に、御園艦長は無言で頷く。
「再度の牽制でしょう。この艦がこれからオホーツクを回り、宗谷海峡へ向かう。私のクセを知っているなら、押し気味でくることも先日の偵察でわかっているでしょうから。頼んだわよ、スコーピオン」
『ラジャー、キャプテン』
 出航の偵察、そこから暫くは平和で北上の航海を続けていた。ここ数日は、流氷の様子を見てのオホーツク停泊だった。
「艦長!」
 仮眠を取っていただろう雅臣がまず駆けつけてきた。
「大丈夫よ。いつもの北上前の牽制だから」
 雅臣も一夜明けての、ミセス准将のやつれた様子に驚きを隠せないようだった。心優が控えていたことに気がついて、近づいてくる。
『大丈夫なのか、艦長は』
 そっと耳打ちされたが、心優もどうして良いかわからなくて首を振った。
 それでも雅臣も、艦長の隣へと向かっていく。
『不明機を確認』
 雷神のキャプテンを務めている1号機スコーピオンに乗っているスナイダー=ウィラード中佐の声が聞こえてくる。
 カメラ映像がモニターに映し出される。ぼやけた気流の向こうに、前回と同じ機種の戦闘機が見えた。
「またsu-27ですね」
 雅臣もモニターを食い入るように見つめている。
「スコーピオン、低気圧も近づいていて徐々に西から荒れ始めている。直ぐに去るでしょう。退去勧告を」
『イエス、マム』
 いつもの訓練で何度も見てきた措置が行われる。艦長の言葉どおり、ベテランのウィラード中佐の落ち着いた退去勧告一度のみで、今回はレーダーから消えていった。
「夜明けの奇襲ってところね。来ると思った」
 御園艦長はわかりきった顔でインカムヘッドホンを頭から外す。
「嫌な位置に出現して、この空母にスクランブル指令が行くように仕向けたわね。こちらの夜間と早朝の瞬発力を試そうとしたのかしら。慌てた様子を確かめて、笑いたかったの? 残念でした、起きていましたよ」
 いつもは言葉数も少ない艦長が、そんなことをぶつぶつ言いながら管制室を出て行く。
 そんなミセス准将を見た心優は『さすがの艦長もお疲れで、苛つきやすくなっている』と感じたりした。
 心優と雅臣も、その後をついて艦長室に入った。
 深い息をはきながら、艦長の皮椅子に深く背を預けた御園艦長。雅臣が艦長席の前に向かう。
「艦長。お疲れのようですが大丈夫ですか。新人の俺では頼りないとは思いますが、任せて頂けませんか」
 目下が浅黒くなっているお顔は、いつもの優雅で品のあるお嬢様の顔ではなくなっていた。
「雅臣は、私のこの顔を見るのは初めてだもんね。ミユもね……」
 御園艦長がふっと笑う。
「その時が来たら、電池が切れたみたいにどこでも眠ってしまうと思うから大丈夫だって。それに昨夜も一時間ぐらい、この席でうとうとしていたのよ。橘さんといろいろと話して楽しかったせいか、ほどよく疲れたみたいでね。それに昨夜は彼が夜間の担当だったから、安心していたし……」
「俺も頼ってくださいませんか。俺も空母に何度も乗っていた男です。同じコースを航海しました。空にはいけなくなりましたが、どんなスクランブルが来るか、どう対処してきたかわかっています」
「頼りないから眠っていないわけじゃないってば……。どう説明したらわかってくれるの。そういう体質なんだって……」
 流石にミセス准将も少し苛ついた言い方になってきていて、控えていた心優はちょっとハラハラしてきた。
「わ、わかりました。どうあっても眠れないんですね」
「うーん、でもあと少しかな。でも……ちょっと気が立ってる。悪いけど、一人の方が気が休まるの」
 そっといておいて――という意味を、雅臣は突きつけられてしまう。だが雅臣も残念そうな顔をしているが、素直に一歩引いた。
「承知いたしました。はやく眠れますように」
 ミセス准将も今度は、優しく微笑む。
「私が寝付いたら、ぐっすり眠りたいから、その時は本当によろしくね。城戸大佐」
「はい! 勿論です」
 今よりも眠りについたその時こそ頼りにしている。役所を理解したからから、雅臣も笑顔を見せたので、心優もほっとする。
「悪いけど。資料室から持ってきて欲しいものがあるんだけれど」
 御園准将がさらっと手元のメモ用紙になにかを記している。
「俺、探してきますよ。手伝います」
 御園准将が雅臣にメモ用紙を渡そうとする。
「この展示飛行の映像と、過去十年の対馬海峡から東シナ海を航行していた時の日誌のデーターが欲しいの。日時はこの時期のものを、三月中旬のものを集めてきて」
「かしこまりました、艦長」
 すると艦長は、デスクの上にあるラップがされてあるお皿を雅臣に差し出した。そこにはスモークサーモンが挟まれている穀物パンのサンドウィッチがあった。
「なんでしょう……」
「私の夜食。是枝さんが持ってきてくれたけれど、資料に夢中で食べられなかったの。雅臣とミユで分けて」
 そして艦長が心優を見た。
「ミユ。雅臣と資料を探すのを手伝ってあげて。直ぐには持ってこなくていいから。揃えたら、朝食まで二人でゆっくりしてきなさい」
 驚いて、思わず……心優と雅臣は顔を見合わせてしまった。
「これ、資料室の鍵ね。城戸大佐に任せるから。朝食まではひとりにして。艦長室には入ってこないで」
 そうきつく言われ、雅臣は差し出されたあの部屋の鍵を受けとり、サーモンサンドも押し付けられる。
「もう、行って」
 一人になりたいと、素っ気なく艦長室を追い出されてしまう。
 艦長室のドアを閉め、管制室前の通路で二人……。
 でも、心優はわかってしまう。これは葉月さんの気遣いで、あの時のお返しなんだと。
 私の勝手な行動で、若い二人の間に波風を立ててしまった。いつまでも、そんな関係のない顔をしていないで、二人で向きあっておいで――。
 そのチャンスをくれたのだ――。
 雅臣も戸惑っている。そんな彼と目が合った。
「……もしかして、俺達のことばれてる?」
「はあ……、その、えっと、後でお話します。まず、資料を探しましょうか」
「そ、そうだな」
 早朝でまだ静かな通路を二人で歩き、脇道のような細い通路奥にある資料室へ。

 

 

 

 

Update/2015.3.24
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