◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 28.愛してる、大佐殿  

 

 雅臣がドアを開けると、赤み帯びた水平線が丸窓から見えた。
 オホーツクは日本国内でも日の出の時間が早い。もう電灯をつけなくても、部屋はそれとなく明るかった。
「心優は、この展示飛行の資料をさがしてくれ。俺は、過去十年の艦長日誌データーを探す」
「わかりました」
 もらったサンドは窓際の本棚に置いて、二人はファイル棚の種別プレートを見上げ、それぞれの棚へと向かう。
 艦長のご希望は、十年以上前の横須賀基地航空祭、展示飛行のものばかりだった。それをデータとして収めているディスクを探す。
 見つけた。でも、ものすごく高い位置にあった。背丈がある心優が手を伸ばしても届かないところ。どこかに脚立があるはずと心優は探し始める。
「どうした」
 逆に雅臣は低いところに見つけたようで、既に何枚かディスクを取り出していた。
「脚立はどこですか。手の届かないところにあって」
「わかった。俺が取ってやるよ」
 臣さんならきっと届く! と、先を行く雅臣の後を心優は嬉しくなってついていく。
「あそこなんです」
「あー、あれか。よし」
 背の高い人だから、手を伸ばしたら簡単に取れてしまう。
「お、隣のも艦長が欲しいとメモしている航空祭のものだな。ん、隣も?」
 探していたものが並んでいてごっそりと取ってくれる。
「ごめんなさい、臣さん」
 手分けして探すはずが、結局、心優が担当するはずだったものは雅臣が一度に見つけてしまった。
「いいよ。別に」
 心優の胸に、束ねたファイルを差し出してくれる。心優もそれを胸に抱いた。
「それ。俺がいたスワロー部隊のものだ。ずいぶん前のものだな。橘隊長がエースだったころじゃないか」
「え、そうなんですか」
 でもそれを聞いて、心優ははっとする。昨夜の話……。橘大佐がコックピットを降りるという話を思い出してしまう。艦長はそれを思って、彼の最盛期の映像を見たくなったのだろうか。
「どうした。なにか気になることでも?」
 きっとまだ内密だろう。雅臣も知ったら驚くだろう。
「いえ、別に……」
 でも雅臣はため息をつきながらも、穏やかに微笑んでくれている。
「またか」
 言えないことがたくさん生じる。雅臣に話したくても話せないことばかりになっていく。
「あの、言えたらわたしだって、臣さんには教えたいですよ」
「秘書官らしくなったな。ボスの言葉は、軽々しく人に話したらいけない。心優はもう立派な秘書官だ」
 彼の指先が、心優の頬に触れる。ファイルを胸に抱いたまま、心優はそっと彼を見上げたのが、雅臣の眼差しが今度は切なく揺れているように見えてしまう。
「それに、大人っぽくなったな。綺麗になった」
 どうしたことか。雅臣が一歩、心優に迫ってきた。大きな身体の大佐殿とファイル棚との間に、心優は挟まれてしまう。
「お、臣さん」
 彼の男の指先が、心優の頬からくちびるに触れる。
「いい男、もういるのか」
 一瞬、心優は『シド』を思い浮かべてしまう……。すぐに否定しなかったせいか、雅臣が哀しそうな目をした。
「だよな。あれだけ華々しく昇進したら、どの男も放っておかなかっただろう」
 そうして、久しぶりだった彼の熱い指先が離れてしまう……。しかも、彼の肌の熱さが伝わりそうだったほどに近づいていた身体も離れていく。
「引き留めなかった俺も馬鹿だった。一度、別れたんだから、他の男に獲られても仕方がないと……覚悟してきた」
 他の男に獲られるかもと、案じてくれていた? 心優は驚いて、密かに目を見開いている。
「だが、引き留めていたら心優をここまでステップさせてもやれなかった。だから、これで良かったと……」
 雅臣が背を向けてしまう。
「良かったと……、諦めがつく……」
 突然。心優の足下に、ファイルディスクのケースがバラバラと音を立てて落ちていった。それは抱えていた心優自身が、手から離して落としてしまったから。
 その両手は、もう雅臣の身体に抱きついていた。
「イヤ、臣さん。諦めがつかなかったのは、わたし……なんだから! イヤ、臣さん。こっちを向いて!」
 もう二度と離さない。あなたが私を求めてくれていたのなら、わたしを愛して。わたしはずっと愛していたよ。夕日を見て思い出していた。心の隙間に入りそうになった人がいても、そこは臣さんしか入れなかった!
 そう叫んでいたのかどうかわからない。でも心優はもう泣いていた。
 彼が振り向いてくれる。あの大きなお猿さんの身体が心優にぶつかってくる。彼の胸に深く抱きしめられる。
「ほんとうか心優。ほんとうに誰のものでもないんだな」
 大きな手が心優の顔を探すようにして包みこみ、雅臣は心優の目を覗き込む。
 心優も力無く頷く。
「臣さんのことしか考えていなかったよ……。忘れられなかった……」
 そう告げると、心優のくちびるに熱いものが押しつけられた。
「心優、ミユ……」
 雅臣の熱い唇が、心優の口元を激しく何度も吸っていた。
「臣さん――」
 心優も深くくちびるを重ね、懐かしい男の舌先を求めた。
 朝焼けの水平線と、朝靄の海。その潮騒の中、二人は長く長くくちづけを繰り返す。
 そのうちに、雅臣が心優が着ている紺の上着のボタンに手をかけた。
「え、え、臣さん?」
 あの手際で、どんどん外されている。上着の前が開いて驚いているうちに、今度はタンクトップの裾を引き抜かれあっという間に素肌に彼の熱い手が――!
「だ、だめ。臣さん、だって……、いまは任務中……」
「我慢できるわけないだろ」
 顎を掴まれ、背が高い彼の目線に合うように上を向かされる。
「俺のこと、忘れたか」
 心優はそっと首を振る。
「気が気じゃなかったよ。絶対に誰かのものになっていると思っていたから……」
 だから。素っ気なかったの? 心優は初めて気がつく。自分はどんなになっても、いままでと変わっていないと思っていても、周りの人々が心優を見る目が変わったのは確か。雅臣から見ると、心優はもう手が届かないところに行ってしまったように見えていたのかもしれない。
「だから……。冷たかったの?」
「他の男のものなのに、欲しい顔できないだろ。俺、我慢できない質だし」
 その言葉通りに、彼の大きな手が心優の乳房を包むように触れた。でもまだブラの上。
「俺は覚えている。なにも知らない無垢な顔をしていた心優が、どんどん女らしくなって、俺の部屋の中だけで淫らになって――。喘ぐ口元とか、短く切り揃えた毛とか、」
 イヤらしい心優のこと、覚えている――なんて、平気で囁く彼の顔はもうお猿さんになっている。
「エッチなことしか覚えていてくれないなんて、いやっ」
 本当は嬉しいくせに。お猿さんに食べられそうになるほど襲われて、激しく抱かれたこと、心優だって忘れていない。それだけ愛してくれたから、忘れられなかった。いま胸にふっくらと置かれている手が、あの頃のように少し乱暴に揉んでくれたらと思っている自分を心優は否定しない。
「エッチ以外に覚えていることを言って欲しいのか?」
 そう言いながらも、お猿さんの手は待ったなし。心優の訓練着ズボンのベルトを外しにかかっていた。でも心優も抵抗が出来ない、出来ないけれど、『任務中』という理性だけがあって、ただただ『ダメダメ』と首を振るだけ。
「ほら、そういう顔……」
 くすっと笑った顔が、あの頃のお猿さんの愛嬌ある笑顔。その顔で、彼が心優の鼻先にキスをする。
「処女でもないのに、なんでも俺が初めてって顔をして、反応をして。もう臣さんだけと抱きついてきて、俺のことばっかり考えてくれていたんだろ。それが行きついちゃったのが、臣さんは嘘をついている。だったんだろ」
 ベルトを外したお猿さんの手がそこで止まるはずもなく……。ついに彼は心優のスポーツショーツの中へと手を突っ込んでしまう。
「……や、ダメ、いまは……」
 彼の指先が、心優の足と足の間に入り込む。薄く整えている黒い茂みをかき分けている……。
「いいよ。あれは心優からの最大の想いだと俺は思っているから。だから、今度は俺が心優を取り返すんだ」
 そんな勢いのお猿の指先が、少しだけ心優の奥へと挿しいれたので、つい『あっ』と喘ぎ声を漏らしてしまう。
 もう頬が熱い……。心優のカラダは一気にあの夏に戻っている。抵抗なんてできない。あの狂おしい中毒の感覚と感触がまた覚醒する。狂おしく、灼けつくよな甘みと熱さと、痛み。
「俺のこと……、忘れていないみたいで……」
 そんな時だけ、お猿が野性味じみた真剣な目を見せる。
「待てないから。いますぐ取り返す」
 決意を秘めた眼差しに心優が息を呑んだ時には、いつかのようにまた逞しい腕に抱き上げられている。
 乱れた訓練着のまま心優を抱き上げた雅臣が向かったのは、あのスチールデスクだった。
 その上にそっと置かれると雅臣は心優に有無も言わせずにアーマーブーツの紐をといて脱がしてしまい、そのままファイル棚の通路へと放り投げる。
 あの時と一緒……。彼が男らしく心優を抱いて運んでくれて、靴を脱がされたのはベッドの上で……。そして、雅臣は迷いもなく、緩んでいる紺の作業ズボンもショーツも脱がしてしまう。
 すぐ側にある丸窓からうっすらと茜の朝日。それが心優の卑猥な秘所をやわらかく浮かび上がらせている。こんなに下半身を剥かれるように晒されたのに、心優は雅臣の手先が望むままに従い、デスクの上で両足を開いてしまった。
 こんな恥ずかしい姿にされているのに……。心優は熱く潤んでしまった目で、雅臣を見上げた。そんな彼はさらなるお猿モードに突入していた。自分のベルトを外して、いつのまにか? その口元には丸いゴムが入っている四角いパックを口にくわえていた。
 流石に心優はギョッとして、うっとり従いそうになったのに目が覚めてしまう。
「え、臣さん。なんでそんなもの、持ってるの」
「あったりまえだろ。心優をとっつかまえるチャンスがあるかもしれないから、持ってきたんだよ。正解だった」
 はあ? すごい用意周到! しかも狙っていた……とか! でも、それだけ心優との関係をなんとかしようと真剣に考えてくれていたんだとも思える。
 それに心優がもたもた考えたり、言い返す間も与えない雅臣はもう、その口元でゴムのパックを噛みきっていた。
「そのまま心優の中でとろけたいけど、いま心優には大事な時期だからできない。でもこれ一個だけだから、これきり」
 お猿の股間はもう男らしく膨らんでいる。ベルトを緩めた下を、彼がすこしだけずらすとぴんと硬くなった尖端が見えてしまう。
 うそ、ほんとに、ここで、所謂、お猿が言うところの『イッパツ』を? 本気で、本気で? 
 彼に抱かれたい、あの頃のようにいますぐ愛されたい。でも、任務中で、ここは大人数が乗船している空母の中で、周辺には同僚も上司もいて、職場――。
 でももう遅い……。
 心優を取り戻す――と言いきった雅臣の勢いは止まらない。そのまま心優の足の間へ、その奥にある黒い茂みへと準備万端の男の塊を押し当ててきた。
「やん……」
 自分のものではない熱い体温が窪みに触れる。だけど、それはそこで留まっていた。突然すぎて、いきなりすぎて、状況と場所に戸惑っている心優はまだ心も身体もその気になっていない。彼が押し込もうとしても、睦み合っていた頃のようにするりと入っては行かなかった。
「やっぱり、ダメだよ。臣さん……」
「大丈夫、心優なら」
 心優の足を大きく開いて、彼の身体がデスクの上にいる心優に覆い被さる。乱れた訓練着の上着とタンクトップをめくり上げられ、手際の良い慣れた手が白いスポーツブラまでめくりあげてしまった。
 またやわらかい朝日の中、真っ白な乳房が震えて露わにされる。彼の大きな手がその乳房を優しく包んで、でも赤い胸先はツンと突き出される。
「覚えているなら、すぐだ、心優」
 確信を得ている男の自信たっぷりの微笑み。お猿の舌先がふっと心優の胸先に触れる。
「あっ」
 びくっとデスクの上で背を反らした。
「ほら、な」
 そういって、お猿さんが熱い舌先でなんども心優の胸先を舐めて吸って、ねっとりとした愛撫をしてくれる。
「あ、あん、ああん」
 久しぶりの男からの愛撫。熱い彼の舌先、懐かしくて切ないものが心優の身体の奥で疼く。
 そうして我を忘れそうになって小さく喘いでいる間に、心優の股の間に熱くて硬いものが入ってくる感触。
「嬉しいよ、心優。あの時のままだ……」
「あ……、あん、もう、もう……」
 心優の肌のあちこちにキスをして、乳房を愛しながら、彼が心優のくちびるもお猿のいやらしい舌先で舐め回す。
 ああ、思い出す。クールな上司の顔はどこにいったのかというほどに、無邪気な男になって、欲望のままに彼が動物のように心優を愛してくれたことを。
 もうダメだった。心優の下腹の奥はじんじんとしてきているし、胸先はキュンキュン勃ってまうし、お猿の獰猛な舌先に口の周りを舐め回されて、ついに心優も彼の舌先に強く吸いついている。
 彼が押し当てていた塊の尖端が、するっと熱く零れはじめたそこに沈んでいく。少しずつ入ってくる熱い異物が、心優の奥を甘く侵していく。
「はあ、あっあ、ああん……、お、臣さん」
「声、我慢しろよ。俺も久しぶりで、そんなに長く我慢できないから、ちょっとの間、堪えろよ」
 デスクに両手をついた雅臣が、あの頃のように大きな身体の下に心優を折りたたむようにして覆い被さる。
 ひとつになったそこが、とても熱い。それだけで熱い。なのに、口元を真一文字に引き締めた雅臣の力んだ眼差しが心優の目をじっと捕らえたまま、ぎゅっと押し込んできた。
「う、あ……んっ」
 ついもれてしまう声。心優は雅臣に言われたとおりにせねばと、ぎゅっとくちびるを噛んだ。
「心優、みゆ……っ」
 まだ空が明るくなっただけの日の出前。そこで激しくも静かさを秘めた睦み合いが、スチールデスクの上で。彼が強引ともいいたくなるほどの勢いで心優の奥まで愛してくれるので、心優のカラダはデスクが寄せられている窓辺の鉄壁まで押されてしまう。
「や……ん、臣さん、あ」
 奥の鉄壁に手をついた心優は、しっとりと汗ばんできたカラダを雅臣の力で押し込まれるまま反らせた。そのせいで、余計に彼のものが奥までどっぷり受け入れてしまう。その体位がちょうど良かったのか、雅臣も狂おしそうに呻いた。
「カラダ、相変わらず……、しなやか……だな」
 心優の腰を持ち上げ、雅臣が切なそうな掠れ声で愛し続けてくれる。
 あの頃のまま……。でも、久しぶりの切ない快楽、そして、熱。彼とひとつになっているそこが、燃えるほど熱い。もう心優の目には、快楽の涙が滲んでいた。
「あう、ん……。い、いっちゃう」
 まだひとつになってそんなに時間が経っていないのに、それでも心優のカラダはお猿さんの侵入を悦んでいる。心優の理性的なものよりも、カラダの方が素直に反応している。
「あ、あ、あ……ダメ、もう、ダメ……。ああん、臣さん、臣さん」
 デスクの上で、心優は覆い被さる彼の逞しい肩に抱きついて、小さく首を振る。カラダががくがくと反応して、心優の中にいる彼を締めつけてしまう。
「っく……。俺も、だ」
 彼の大きな手が心優の口元を塞いだ。彼の最後の責めはさらに激しく、敏感な女のカラダへと墜ちてしまった心優は涙を流しながら必死に声を堪えた。でも彼の手の下で、どうしようもない喘ぎ声がくぐもりながらも、もれている。
 好き、愛してる。大佐殿。もう離さないで。
 その手の中で、心優は儚い喘ぎ声に混ぜて、そう呟いていた。
 最後の行為に夢中だった彼に伝わっているのか、聞こえていたのかは、もうわからない。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 お猿さんの獰猛な『取り戻す』という勢いに愛しぬかれたカラダがまだ熱い。キスをされたところが、まだあちこちで疼いている。
 ことが終えたふたりは、デスクの上で乱れきった姿で、なにもかもを抜かれたように力尽きたまま抱き合っている。でもお互いの顔と目を確かめるようにして、その余韻を噛みしめながらキスを繰り返した。
 その時、雅臣が乱れた姿で胸の下に抱いている心優を見つめて言った。
「心優。小笠原に帰ったら、一緒に暮らすか。俺の官舎の部屋で」
 寄宿舎を出てこい――と言われる。心優はびっくりして、でも、そこまで彼が心優のことを求めてくれたことが嬉しくて泣いてしまう。
「いいの、臣さん。ほんとうにいいの?」
「猿のような男と暮らせるか」
 心優はすぐに頷いていた。そして、雅臣の首に抱きついて、心優は彼の頬にキスをする。
「お猿な臣さんが好き」
 雅臣も嬉しそうに心優を抱きしめてくれた。
 それから正気に戻った二人は、身なりを整える。乱された訓練着は自分で直したが、アーマーブーツは雅臣が履かせてくれた。
 机の上に座っている心優に、お猿の彼が跪いて優しく紐を結び直してくれる。
 この柔らかなひととき。彼のさりげない女性への気遣い。お猿のそんな優しさ。これからは、心優だけが知っていて、心優だけのもの。嬉しかった。

 その後は甘い余韻をすぐさま断ち切って、二人で残りの資料を集める。最後に艦長に頂いたサーモンサンドを日が昇る中、雅臣と一緒に微笑みながら食べた。
 ようやっと心優は、どうして御園大佐が突然に心優を欲しいとスカウトに来たのか、御園艦長が駐車場で倒れていたことから、告げることにした。
「あの日……。護衛部の帰りに、着替えを忘れて寄宿舎に寄ったんです。そうしたら、私服姿だったけれど彼女によく似た雰囲気の女性が、直行便ゲートから駐車場に行くのを見てしまったんです。彼女だとは確信できなかったけれど、駐車場のことは聴いたばかりだったので、胸騒ぎがして――」
 雅臣の顔が、驚愕の表情に変貌した。
「あの人、ほんとうに駐車場に行ったのか。心優が熱を出したと休んだ日のことか」
「その前日です。小雨の日で、気になってその人の後を追ったら……。おそらく現場だっただろう場所なのでしょう。一カ所だけ芝になっているところ……」
「そうだ。昔はそこに蘇鉄の木があったらしいが、それが影になっているせいで襲われやすかったと判断されて……。あと、けっこうな出血だったらしくて、血跡が酷かったことと横須賀の隊員がそこに駐車することを避けるようになったから、それならと緑地化させたんだ。でも見通しが悪くなる樹林は置かないとして」
「そこで……。痙攣を起こして、ひきつって倒れていたんです……。見つけたのが、事情をよく知っている部署にいたわたしでなければ、大騒ぎになっていたと思います」
 そこで雅臣が、スチールデスクの向かいでサンドを頬張っている心優へと身を乗り出してきた。
「どうして、上司だった俺に報告しなかった」
 それにも心優はきっぱり返答する。
「彼女の希望だったからです。室長ではない、大ボスの長沼准将に報告して欲しい。このことは旧友の彼しかしらないから、城戸君には知らせないでと――」
 血の気が失せたように、雅臣が茫然となった。
「そんなに俺は……、信用ならないと? 頼れないと……」
「見られたくなかったんだと思います。だって、臣さんと彼女にも、あなた達だけの入れない絆があったではないですか。ご自分がいちばんに認めたパイロット、期待をしているソニックには、こんな情けない姿は見られたくない。わたし、あの方のお側にいるようになって半年。今ならその気持ちが解ります。元より、彼女の症状のことはご存じの方も少数で極秘扱いですから……」
 口惜しそうに唇を噛んだ雅臣が、俯いた。
「そのまま、わたしが背負って寄宿舎の部屋にかくまいました。そこでも彼女はずっと吐いていました。強烈すぎるフラッシュバックがあったそうです。でも……、あそこに立てて、なにもなければ……。もう誰にも迷惑をかけなくていい。そうありたかったと……あの人が、あれだけの方が、か弱い女性のように涙をこぼしてずっと泣いていました」
 心優は雅臣を見上げる。
「同じ女性として、通じるものがありました。だから、言えませんでした。たとえ、『臣さん』でも」
 雅臣が大きな息を吐いて、前髪をかき上げた。額にうっすらと汗をかいている。それだけ感情が忙しく動いたらしい。
「一晩、一緒だったから……。俺のメールにも電話にも応じなかったのか。熱は、嘘か。ボスが承知済みの嘘か」
「違います。本当に、熱が出ました……。自分でもびっくりしました。小雨の中、身体が湿って、思いがけない方と一晩一緒にいたから気が抜けたんだと思います」
「熱は、本当に出たのか」
 心優はこっくり頷く。
「夜中に、ご主人が迎えに来ました。ものすごく怒られて……。あれだけの女性の頬を張り倒したものだから、わたし、本当に驚いて。なのに、あの奥様がご主人にすがって安心しきって抱きついて、ご主人も優しく抱きしめたんです。ああ、これが、間に誰も入れないご夫妻というもの。とても強烈なご関係。わたし、子供なんでしょうね。男と女の激しい愛情にびっくりして、知恵熱みたいなのがでちゃったのかと思ったほどです」
「……た、大佐、じゃない、ご主人が、奥さんを叩いて叱ったということか」
「初めてお会いした男性が、奥様をいつも笑顔で我慢強く支えているというイメージだった男性が、奥様より強かったのでそれもびっくりして。でも、わたしは、迷惑をかけたくないからもう大丈夫だという賭けで、恐ろしい場所に立ち向かった奥様の気持ちを知っていたので、その、叱りとばす旦那さんの前に立ちはだかって、奥様をかばってしまったんです」
 それが、御園大佐に気に入られてしまった理由。それを告げようしたら、雅臣からはたと気がついた顔なる。しかも、心優を指さしておののいている。
「あの旦那に、楯突いたのか! あの人は影にいるけれど、だからこそ恐ろしいと言われているほどの、じゃじゃ馬の手綱を握っている男なんだぞ」
「そうなんです……。でも、後先考えず、とにかく奥様の気持ちを知って欲しくて……」
「それだろ、それ!! だから自らスカウトに来ちゃったんじゃないか」
「はあ、そうみたいです。わたし自身もびっくりで……。でも、本当にあの時は、応じるつもりはなかったんです。ただ……臣さんが、」
「いや、もう言わなくていいから……」
 二人の間に波風が立ったあの日の出来事。その真相をやっと告げることが出来た。そして、その後に起きた絶対的なすれ違いも思い出してしまう。
 しばらく二人は黙ってサーモンサンドを頬張る。お互いに食べ物には食いつきが良いので、あっという間になくなってしまう。
「いいなー。是枝さんのサンドを独占で食べられるなんて。うまかったー」
「そうなんですよ。わたしったら、初めての航海で、艦長同様の優遇をいただいてしまって、本当に良いのかと思ってしまっています」
 雅臣が笑う。
「それだけの素質と実力がもともとあったんだろう。それに、俺にも御園大佐にも、『はっきり言う』ことが出来る女なら、じゃじゃ馬のミセス准将の護衛としてピッタリじゃないか。もう誰も、心優のことをボサ子だなんて思わない。心優は自分で持っていたものを、自分で使いこなせるようになったんだ。全日本三位、一時は止まっただろう栄光だろうけれど、それが心優を何年も助けてくれたんだろう」
 横須賀で心優を励まし続けてくれた年上の頼もしい上司。そんな雅臣の言葉も蘇ってきて、心優は嬉しく感じながら頷いた。
「臣さんだって、戻ってきたでしょう」
 同じだよ――と、彼のことも励ましたかった。それでも雅臣は気恥ずかしそうにして、でも苦い笑みを浮かべて俯いてしまう。
「御園家は独特の世界をファミリーで作っている。その中へ入るには、彼等が示しているボーダーから向こうへ招き入れてもらわないとできない。心優はミセス准将を必死に守ったことで、夫の御園大佐に見初められ御園ファミリーの囲いに入れた。俺は違う。そのボーダーから向こうへとミセス准将が手を引いてくれたのに、自分から振り払い、俺が彼女が近づいてこないようボーダーを引いた。だから彼女は俺に近づけなくなった。なのに俺は……『今度はそっちが俺を取りに来いよ』と傲っていたんだ。そんなボーダー、御園家には見向きもされないものだったのに。だから、俺は己の過ちをとにかく認めて、自分が張りめぐらせた結界を解いて、自らの意思と足で、御園に向かわなくてはならない。そうでなければ、もう二度と心優には近づけない。そう思った」
「臣さんが、長沼准将に秘書官を辞したのは、その為だったんですか」
「そう。心優のためも勿論だったけれど……。心優がなにもかもを振り払って前に行こうと雄々しく決したのに、男の俺はいつまでもうじうじとこのままかと、初めて自分に憤った。もう、いてもたってもいられなかった。でもボスには『感情的すぎる』と、心優との恋仲も見破られていて却下されたよ。だけど……、不思議なんだよな。ボスは小笠原には、俺が秘書官を辞めたがって現場に行く気になったことなど連絡はしていないと聞かされていたのに、まるで俺のことを知ったかのようにして、葉月さんから『やる気があるならこれが最後、現場に戻りたいなら、いますぐ岩国へ転属しろ』なんて言われたんだ」
 やる気があるならこれが最後。もう後は手を差し伸べない。御園准将がある意味強制的に雅臣を促していたことを初めて知り、心優は驚いてしまう。
 でも、ハワード大尉が教えてくれたとおり。雅臣が『不思議なことに』と思っていることは、心優がきっかけだった。
「あの……。それきっとわたしです。臣さん……、事故の後に連絡船で吐くようになってしまったこと。本当は小笠原で極秘扱いになっていたのに、横須賀でも長沼准将以外は知らないことだったのに。どうしてわたしに話しちゃったんですか。葉月さんと臣さんの話題になった時に、わたし、うっかり言ってしまったんです。知らなかったから、『城戸中佐が、もう小笠原の連絡船に乗っても今なら吐かないと言っていた』と――。その時に葉月さんもびっくりしていました。小笠原のごく一部の者しかしらなくて伏せてきたことなのに。横須賀でも長沼さん以外は知らないのに。どうして雅臣は心優には教えたのか。それだけの関係だったのね……と、それから准将と秘書室には、わたし達の横須賀での関係はばれちゃったといえばいいのでしょうか」
「マ、マジで……。それが葉月さんが急に動いたきっかけ?」
 『そうです』と心優は応える。
「いや、極秘にしてくれていることはわかっていたけれど、心優なら口も堅いし、俺のこと知って欲しいと思って自然に話せただけなんだけど……」
「それを知って、わたし、臣さんがわたしのことを大事にしてくれて、本気で側にいさせてくれていたんだって知ったんです。臣さんの気持ちを踏みにじって、信じていなかったこと、ごめんなさい」
 また雅臣もバツが悪いようにして『もういいって、俺も独りよがりだったんだから』と言ってくれる。
「では、心優がそれを言わなければ、葉月さんはまだ俺に警戒していたってことか」
「わかりませんが。長沼准将が臣さんにひとまず冷静になるように却下したのに、すぐに葉月さんが動いたことで、少なくとも時は早まったかも。臣さんの決意が固ければ、いずれはその時が来たかもしれませんが。今回、一緒の任務で同じ艦には乗っていなかったと思います」
「うわー、だから葉月さんが俺と心優に気遣っているのか」
「あの日、ご自分が駐車場で倒れなければ、わたし達を引き裂くような転属はさせなかったのに――と思っているようです。そして、つきあっていたこともそれで察してしまったようです」
「マジかよ〜。もうあの人の顔が見られなくなるじゃないかー」
 雅臣が頬を染めて顔を覆った。気遣う年上の女性に、なにもかも見透かされていたことは、たとえ年下で部下でもとてつもなく恥ずかしいようだった。
 でも心優は笑っていた。そんな可愛い弟のようになってしまう雅臣も、姉御肌で澄ました顔であれこれ手を焼いてくれたミセス准将のそんな師弟関係、いまは微笑ましく思える。
「良かったですね。臣さん。葉月さんの側に戻れて――。これから、臣さんは艦長修行ですね」
「うん。そうだな。あの人に安心してもらえるよう、あの人が花道を歩いて陸に戻れるように頑張る」
「わたしは、あの人と一緒にどこまでもついていこうと思います。あの人が陸に帰るなら、私もその時は陸に帰ります」
 飛行隊指揮官と女性護衛官としての道を互いに決意した姿を示す。
「わかった。俺も、心優がそうなれるようこれから一緒に住むようになっても協力する」
「臣さん……。わたしも、陸で待っています。あなたがこれから長く海の男として留守になっても……。陸から、准将と一緒に艦を護れるように」
 燦々とした日射しが丸窓から入ってきて、デスクの上で手を取り合うふたりを照らした。
 そして、まるで誓いのようなキスも――。
 この航海が終わったら、この人のパートナーになって一緒に暮らせる。これから毎日一緒。
 もうそれだけで、心優は満たされてしまう。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 デスクの上には、艦長が希望した資料のデスクが積み上げられ、そして、サンドがなくなった空っぽの皿があるだけ。
 一時間ほど前、このデスクの上で、男と女が淫らな行為に没頭していた跡など、どこにもなくなっていた。
 心優のカラダも気持ちも落ち着いたので、積み上げているディスクファイルを胸に抱いて立ち上がる。
「大佐。艦長室に持っていきますね」
「うん。わかった」
 お互いに上官と部下の顔で別れる。

 もしかすると、少しだけうとうとしているかもしれない。そう思った心優は、そうっとドアを開け、『ただいま』の声はかけないように入った。
 艦長室に入ると、その通りに、御園准将はマウスを握りしめたまま、じっと俯いているところ。栗毛の中にお顔が隠れていて、まったく動かない。
 心優は気配を殺して、そうっとそうっと艦長席の前を通り過ぎようとしたのに。彼女がまた気配を感じたのかハッと顔を上げた。
 もう、どうしてこんなに感が強いのだろう。それが彼女を准将にまでした才能でもあるだろうに、心優は残念にも思ってしまう。
「やだ、いつの間にかこんな時間」
 はあとため息をついて、麗しい栗毛をかき上げている。その目元が少しだけ疲れが癒されたようにも見えた。
「仰せつかりましたもの、城戸大佐と揃えました。こちらに置いておきますね」
「ありがとう……。雅臣と話せた?」
 デスクの脇にファイルの束を積み上げたまま置くと、さらっと准将が尋ねてくる。
「はい。ありがとうございました。別れた時のわだかまりも誤解も解けました」
 これ以上の気遣いは無用。そうとも伝えたくて、今日の心優はいままでぼかしてきた態度を改めて、はっきりと返答していた。
「そう。良かった。この航空祭のディスクを日付が古い順から並べておいて。それから、雅臣を呼んできて」
 素っ気ない返答の後は、もう仕事の指示。でも心優は返事をして言われたとおりに、いつものアシスタントに徹した。
 ファイルのアシストが終わり、管制室で監視をしている雅臣を艦長室へと呼んだ。
「お呼びですか、艦長」
 デスクの前に立った雅臣に、御園准将が冷めた目つきで告げる。
「これから展示飛行のプログラムを作ってくれる。対象パイロットは、雷神のバレットと、スワロー元隊長のエンブレム」
 雅臣がハッとした顔になる。
「英太と、橘隊長の……ですか」
 『エンブレム』は、橘隊長のスワロー時代からのタックネーム。俺こそがスワローの男という象徴、彼こそがスワローの代表という意味でつけられたらしい。
「そうよ。橘さんがコックピットを降りる決意をしたの。最後に華々しい飛行をさせてあげたいと思っている」
 さらに雅臣が息を止めるような驚きを見せた。
「雅臣、手伝って。広報室が企画した空母艦載機の広報映像撮影で、教え子だった英太と、直属の上官だった橘さんが一緒に飛行しているところを撮ってみようと思っているの。ネイビーホワイトと、F/A18ホーネットの競演よ。弟子と師匠の競演でもある。航空マニアはよろこぶでしょう。そういう『広報的で華々しい展示プログラム』を、スワローの男だった雅臣に作って欲しい。わかるでしょう。貴方なら。スワローの男がどうすれば格好良く見えるのか。飛行マニアが惚れ惚れするようなプログラムを作って」
 そして艦長は、あの凍った琥珀の眼差しで雅臣を貫く。
「これが、橘さんへの餞(はなむけ)よ。彼にはそんなことは相談していない。いきなり企画に上げるから、私と雅臣とで極秘にやるわよ。いいわね」
 雅臣の表情もひきしまった。
「かしこまりました、御園准将。ぜひ、スワロー部隊にいた俺にやらせてください」
 そして艦長は心優も見た。
「心優も手伝ってね。いまから橘さんが飛んでいた時の飛行カットをプリントアウトするから、雅臣はそれを参考にプログラムの企画を二日で作って。次の広報のミーティングでサプライズ提案するからね」
「はい。了解です」
 これぞ『じゃじゃ馬台風』と言われる、『いきなりはじまる彼女の提案』。雅臣のシャーマナイトの目が輝いた。師匠になる彼女と初めての仕事。台風のお仕事にさっそく携わることができて嬉しいに違いない。

 

 

 

 

Update/2015.4.8
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