◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 30.夢で逢いましょう

 

「英太。話があるから、艦長室まで来て」
 ミーティングが終わると、御園准将も席を立ち、鈴木少佐を伴って艦長室へ戻っていく。
 心優もその後をついていった。
 艦長室へ戻ると、准将は気が抜けたのか、疲れ切った様子で艦長の椅子に座った。
「葉月さん。大丈夫かよ。また眠っていないんだろ。何日目だよ……」
 それでも御園准将は、弟分の彼にはそっと微笑みを見せる。
「私が貴方と橘さんを競演させようとした訳なんだけれど。ついに、橘さんが引退する決意をしたの」
「マジで」
 鈴木少佐も信じられないと黙り込んでしまう。
「快く、送り出して欲しいの」
「もちろんっすよ。……でも、無理だと思うんだよな。いまの俺と橘大佐がシンクロしたように飛ぶだなんて」
「どうかしらね。そう思っていて、痛い目に遭わないように」
 そんな余裕でいると、かえってやり返されるわよ――と言われ、鈴木少佐がムスッとした顔になった。
「あの『トレース』するって言い方が気になるのよね。おそらく、英太が言うとおりに『体力、持久力、耐久性』には自信がないと思うの」
「どういうこと、それって」
 相手のおじさんは、英太の予想通りに体力がないことは認めているとわかると、鈴木少佐の態度が軟化した。
「英太の飛び方を見極めて、一発勝負でトレースしようと思っているんじゃないかしら。私も、もし橘さんと同じ立場だったらそうすると思う」
「い、一発勝負!? つまり、撮影の本番のみ俺と飛ぶってこと?」
 『そうよ』と御園艦長が頷いたので、側で黙って聞いていた心優も驚いてしまう。
 それってつまり、鈴木少佐との『リハーサル』はナシで、本番で同じ飛行をしようと考えているってこと? そんなこと出来るの? 心優もそれは無理のように思える。
 だが御園艦長は真剣だった。
「英太とリハーサルするたびに体力は消耗するし、下手すると気絶して事故にもなりかねない。だから、貴方の飛び方を見極めて、それをコピーする。橘さんなら出来るわよ。彼がどれだけの後輩と部下に、スワローが得意な演目を指導してきたと思っているの。誰よりも多くアクロバットをこなしてきたのよ。いま、彼に足りなくなったのは、若さと体力。それだけ。英太、貴方は他のものではどれも橘さんには勝らない」
 そこまで言われ、ついに鈴木少佐ががっくりと項垂れる。
「わかってるよ。俺の隊長だったんだから」
 御園准将も弟分の気持ちに同調するように、深い息をついた。
「だからこそ、手加減しないこと。英太、貴方、橘さんにスワロー部隊を追い出されたでしょう。ここでしっかりと仕返ししてやりなさい」
 今度は鈴木少佐も『はあ?』と目を丸くする。
「敵わなかった隊長に勝ってこそ、卒業というものじゃない。しかも、協調性のない悪ガキできかん坊だった貴方の素質を育て上げれなかった口惜しさをもって、橘大佐は貴方の前途を思って手放してくれたのよ。隊長の目に狂いはなかった。俺は最高のパイロットになった――。それを知らせることが出来て、初めて恩返しになるでしょう。シンクロのために手加減されるだなんて、それなら俺は現役エースの最大Gに敵わず気絶して墜落した方がマシだと橘さんなら怒るわよ。英太の飛行でシンクロが出来なかったなら、橘さんから今回の撮影を辞退すると思う。それならそれで私は良いと思っているし、それも彼への餞だと思っている」
 『餞』はなにも記念撮影を成功させることではない。心優は艦長の想いを初めて知った。それは彼女にも雅臣にもきっと通じること。それは『コックピットと綺麗に別れる』、『未練を残さない』こと。だから徹底的に『いまの全力でやらせること』。
 それは鈴木少佐にも通じたようだった。
「わかった。それなら遠慮なく俺のいまの力で飛んでみせる。そして、隊長ならきっと出来ると信じる」
 御園艦長が、鈴木少佐には優しくにっこりと微笑む。
「そうね、英太。私も信じている。きっと、青空に二本の綺麗なループとコイル雲が出来るって」
「やってみせますよ。艦長。そして、葉月さんに絶対に見せてやるからな」
 悪ガキが変な対抗心で熱くならないよう、ミセス准将が上手くクールダウンさせた手際に心優は唸る。
 艦長も、聞き分けのよい悪ガキエースを確かめて、ホッとしたようだった。
「頼んだわよ、英太……、楽しみにしているから……」
 ひと安心したせいか、力無く俯くとそのまま顔を上げなくなってしまう。
「葉月さん……?」
 心配そうな鈴木少佐の声に気がつき、心優も御園艦長の側へ赴く。
「艦長、御園准将、大丈夫ですか」
 俯いたままの彼女の顔を覗き込むと、もう今にも気を失いそうと言いたくなるほどの目つきで、そして顔色だった。でも、彼女の意識ははっきりしていて『大丈夫』と案ずる心優を制した。
「英太、ごめんね。ランチはまた……明日……」
「いいよ、またいつだって。眠いんだろ、いま眠っておいたほうがいいよ」
「……英太、少しの間でいいから、話し相手になってくれる? 側にいてくれる?」
 いつになく弱々しい声に、心優は当惑する。いつものミセス准将ではなかった。でも、鈴木少佐は当たり前のようにして慌てていない。
「もちろんだよ。俺が側にいてやるよ」
 そういうと、鈴木少佐は本当にお姉さんを労る弟のようにして、皮椅子に座る御園准将の側へと跪いてそっと彼女の顔を見つめている。
「眠ると、あいつが笑うの。おまえが艦に乗っていたせいで、非常事態が起きて、大惨事になるって……」
 その言葉を聞いて、心優は青ざめる。准将がいうところの【あいつ】が誰か判ってしまったから。それはきっと、彼女を殺そうとした『幽霊』と呼ばれていた男のこと。
「そんなの幻想だ。葉月さんと何度も空母に乗ったけれど、なにもなかった。むしろ葉月さんは完璧だ。だから海東司令が葉月さんを一番に使うだろう。俺も、雷神の兄貴達も葉月さんだから飛んでいけるんだ、帰ってこようと思って飛んでいる」
 肘掛けに力無く乗っている手のひらを、鈴木少佐が臆面もなく握りしめた。
「眠った途端に、あいつが空母を襲う気がして」
「もしあいつが本当に襲ってきても、葉月さんが眠っていても、俺達がいるだろ。橘大佐もいる、ラングラー中佐もいる。葉月さんとずっと一緒だったクリストファー兄さんもいるじゃないか。それに俺も、城戸先輩も帰ってきたじゃないか。ほら、葉月さんがいて欲しいと願っていた園田さんだって今回はいる」
 知らなかった――。艦長が眠らないのは、空母が正常に運航されたことを確かめるまで敏感になってしまうからだと思っていた。それもあるだろうけれど、奥深いところではもっと深刻なこと。
 あいつが襲ってくる。あいつが、おまえがいたせいで空母に大惨事が起きる。そう暗示をかけられてしまっていたから?
 心優も意を決して、御園の家族しか触れなかったところへと踏む込む。
「艦長。鈴木少佐と少しだけお部屋ですごされたらどうですか。お二人に飲み物を、是枝シェフに頼んで参りますから。小笠原のように、お姉さんと英太さんでお話ししてきてください」
 心優もそっと艦長の手を握った。
「わかった……、そうする」
 これで眠ってくれるかも。心優も必死だった。鈴木少佐と頷きあい、皮椅子から立ち上がった御園艦長は鈴木少佐に預けることにした。
「葉月さん。俺、海人と晃と杏奈から、預かりものをしているんだ。准将ママが眠れなくなったら、渡してくれって――。あいつらも心配しているからさ。もっとリラックスして。あとで持ってくるから」
「そうだったの? 楽しみ」
 ベッドルームに向かう二人を見ていると、ほんとうに『姉弟』だと心優は思った。鈴木少佐がミセス准将に叶わない恋をしていたのは、もう遠い日になったのだろう。

 艦長専用のベッドルームは、ホテルの一室のように広くて綺麗に整えられている。
 鈴木少佐も悪ガキではあっても本質は大人。艦長室で二人きりになるからと、ドアを開け放している。心優はそれもきちんと確かめ、あれこれと手配をする。
 まずは冷たいミネラルウォーターを持っていき、是枝シェフに内線連絡をして『眠りそうなんです。もっとリラックスできる飲み物をお願いします』と頼んだ。
 あとは艦長室に入ってきた幹部がきたら、静かにお引き取りしていただくこと。そう思って、心優はドアの側に椅子を置いてそこで待機する。
 ドアからノックの音。さっそく誰かがやってきて心優は構える。
「艦長、いるか」
 橘大佐だった。
 心優は小さな声でそっと告げる。『いま鈴木少佐が付き添っていて、もうすぐ眠ってくれそうです』と。すると橘大佐も驚いて『わかった』と静かにドアを閉め出て行ってくれた。
 暫くすると、ノックの音なしでドアが開く。
「お待たせいたしました。艦長と鈴木少佐の飲み物です」
 是枝シェフが訪ねてくる。
「私はここで失礼いたします。園田さん、こちらをお願いしてもよろしいですか」
「はい。預からせて頂きます」
 シェフからトレイを受け取る。心優は深呼吸をして、あそこで『小笠原の空間』を作ろうとしている空気を壊さないようにと、静かにベッドルームへと向かう。
 開け放たれているドアを覗くと、鈴木少佐と目が合う。
 御園准将がやっとベッドに横たわって、そして鈴木少佐をとろんとした眼差しで見つめていた。彼も心優を見たのは一瞬で、ベッドの側に座った状態で准将を見守っている。
「杏奈が、ママに渡す前に良い曲かどうか俺に聴いて欲しいと言うんで、先に聴かせてもらった。杏奈がママのために作ってくれた新曲。すごくよかったんだ」
「そう……。早く聴きたい」
「コーヒーを一杯飲んだら取りに行ってくるな」
 心優も声をかけず、気配を殺して、そっと艦長室のテーブルにホットミルクとホットコーヒーを置いて、静かに部屋を出る。
 このまま、このまま、眠ってくれますように――。
 家族の温かみをそばに眠れますように――。
 一時間じゃない、二時間じゃない。半日でいいからぐっすり眠らせてあげてください。
 悪魔を追い払ってください。
 ひとり待機する艦長デスクの部屋で、心優は祈った。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 一時間ほどして、鈴木少佐がベッドルームから出てきた。
 艦長室の出入り口で、人の出入りに気遣ってきた心優のところまで来てくれる。
「俺と少し話して暫くしたら眠ったよ。また目を覚ますかもしれないから暫く側にいたけれど、ぐっすり寝付いたみたいだから大丈夫だと思う」
「そうでしたか」
 心優はほっと胸を撫で下ろす。
「子供達から預かってきたものを取りに行ってくるから、あとはよろしく」
「わかりました。少佐、ありがとうござました」
「いや、いつものことだから大丈夫。俺、隼人さんにも頼まれてんの。おまえ、葉月が警戒していない男のひとりで、この家の一員なんだから、いざというときは准将ママの側にいてやれって」
 あの旦那さんが、妻に思慕を抱いていた青年にそこまで任せていたことを知り、心優は驚く。しかし、そこはもう『家族同然』なのだろう。
「子供達とも約束しているんだ。ママが、母さんが苦しそうな時は、英太がいちばん側にいるんだから助けてあげてって。俺もパイロットとしてやらなくてはいけないことがあるから、園田さんのように常に側にはいられない。だからこそ、」
 パイロットとなると自信たっぷりふてぶてしいばかりの悪ガキエースが、心優に深々と頭を下げている。
「うちの姉貴のこと、よろしくお願いします」
「そ、そんな。やめてください。まだ新参者です」
 だが鈴木少佐は真剣だった。
「そんなことないよ。俺の方が、園田さんのことよく知っているんだから。隼人さんが、園田さんをスカウトしにいったと聞いた時は『よくやってくれた』と思ったほどだよ。葉月さんも以前から、園田さんのことは気に入っていたみたいだし。ただ隼人さんが興味はないというか、横須賀の人間だからって割り切っていただけで。隼人さんが動いたなら、絶対に小笠原に引き抜いてくれるって信じていた。俺も園田さんが来てくれて、ほんと嬉しかったんだ」
 鈴木少佐は、未だに少年のようなところを残している。大人としての彼もいるけれど、御園准将が弟のように可愛がってしまうのは、こんな真っ直ぐでピュアな部分を残しているからなのだろう。
「こちらこそ。鈴木少佐が小笠原にいてくださったおかげで、すぐに馴染むことができました」
「うん。帰ったらまたダイナーで大食いしよう」
「そうですね!」
 大食いしように、心優はつい笑ってしまった。
「じゃあ、取りに行ってくる」
「はい、いってらっしゃいませ」
 鈴木少佐が出て行った後、心優の胸が少しだけ切なく疼いた。
「シド、どうしているのかな」
 フロリダで過酷な訓練研修を受けていると聞いている。春になったら帰って来るとも。
 もう、小笠原に帰ってきたのだろうか。今度、彼にあったら言わなくてはならない。
 ケジメをつけなくてはいけなかった彼との思いが通じたと……。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ついに御園准将が、翌朝までぐっすり眠ってくれた!
「おはよう……、寝過ぎた。頭が痛い……」
 いつもスッとしたクールな佇まいでいるのに、その日、心優が待機していたデスクまでやってきた彼女はもっさりと乱れた姿で現れた。
「変な夢みちゃった」
 心優はドッキリする。まさか、ミセス准将殿が恐れている『幽霊の夢』!?
「旦那が、私がまだ朝ご飯を食べているのに、腕時計を見せて『遅刻だ、やばい。葉月、急げ!』て急かすんだけれど、基地の准将室に行ったら、一時間早いの。『やられた』と思って怒ったら、あの人、眼鏡の顔でケラケラ笑っているの。すんごい腹立ったと思ったら、目が覚めて――」
 え、旦那さんに意地悪された夢? 心優は呆気にとられる。でもでも、それって!
「意地悪な眼鏡のお兄さんに、お会いできたようですね」
 あのミセス准将がちょっとムッとした顔になったので、心優は生意気だったかと焦る。だがムッとしたのは心優ではなく、夢の中の旦那様のよう。
「実は、あの人とマルセイユの航空部隊で出会って、一緒に仕事を始めた頃に、こういう悪戯を本当にされたことがあってね」
 本当にあった話だったようだ。でも、彼女が『あの頃のあの人に会いたい』と思っていたからこそ、その夢を見られたのだと思う。
 きっと、それは彼女には大切な想い出のひとつなのだと心優はちょっと感動……。いいな、奥様になっても『あの頃のあの人に会いたい』と思ったら会えるっていいな――と羨ましくもある。
「もうすぐ始業時間だけれど、シャワー浴びてくるわね。指令室の彼等にもそう伝えて」
「かしこまりました。ごゆっくり」
「ミユ。眠るまで、労ってくれてありがとう」
「いいえ。艦長がどれほどのお気持ちで、この空母を護ってくださっているのか良くわかりました。ですが、くつろいできてくださいませ」
 ミセス艦長はやっと穏やかな笑みを見せてくれ、バスルームへと消えていった。

 御園艦長が会いたいご主人、また彼を思わせる出来事があった。

「お目覚めですか。お顔色良くなられましたね。本日のモーニングはフレンチトーストでございます」
 いつもの艦長と共の朝食だった。艦長室の奥の窓際にあるテーブルで食するのだが、今朝はいまどきカフェのようなモーニングが並んだ。
 だけれど、御園准将はそのフレンチトーストを見ただけで、なんだかいつもと違う妙に強ばった反応になる。
 それでも是枝シェフがちょっと可笑しそうにしながら、にっこりと告げる。
「ご主人の御園大佐からお聞きしたレシピで作りましたフレンチトーストですが、本日は是枝の味として、レモンの蜂蜜付けも添えさせていただきました。トーストに乗せるなり、お紅茶に入れてもよろしいかと思います」
「あ、ありがとう」
 ちょっと照れたような反応は、ご主人のレシピのものが出てきたからなのだろうか?
「そろそろ恋しい頃かと思いまして。ご主人には敵わないでしょうが、少しでも気分転換になれば幸いです」
 いつもの渋い不精ヒゲの顔で楚々とお辞儀をすると、是枝シェフがそっと艦長室から出て行った。
 心優もさっそく、ご馳走になる。
「パンケーキに、フレンチトースト。まさか航海中に食べられるとは思いませんでした。艦長のお側にいること幸運に思ってしまっています」
 どのようなレシピなのかな。心優はひとくち、フレンチトーストを頬張る。
 思いがけず、口の中に爽やかな香りが広がってびっくりする。レモンの香り!
「え! 御園大佐のレシピって、レモンを使うんですか」
「ああ、うん。そうなの。あの人がマルセイユで母親のように慕っていた方から教わったものなの。小笠原の我が家でもすっかり定番になってしまったの」
 さくさくのグラニュー糖とすり下ろしたレモンの皮、爽やかな風味だった。
「えー、御園大佐って、こんな朝ご飯を作ってくれるんですか」
「うん。お料理に関しては、あの人の方が腕が上なの。私は和食専門。あの人、讃岐うどんもパスタ風にして、瀬戸内出身の隊員からいつも文句言われているの」
 讃岐うどんをパスタ風! そんな料理があるなら、食べてみたいと心優なら思ってしまう。
「それも食べてみたいです」
「まさかの、オリーブ味とかトマト味になるからびっくりするわよ。オリーブオイルコレクターかと思うくらいに、各地のオリーブオイルをお取り寄せするしね。ああいうところ、南仏暮らしが長かったんだなと思うわよ」
 オリーブオイルの風味がする料理が良く出てくるらしい。
 そして、そんな夫を思い出す定番の朝食は、レモン風味のフレンチトースト。
「まあ、是枝さんのレモンの蜂蜜。本当に美味しい。ミユも試してみて」
「本当です! 美味しい!」
 紅茶に、トーストに、ヨーグルトに。それぞれに試してみて、女二人できゃいきゃい騒ぐモーニングになった。こんなところ、やはり女同士で心優も気兼ねなくなる。
 それに、今朝の彼女の頬が、ほんのり薔薇色。精気を取り戻し、生き生きと瑞々しい初々しさを心優は感じた。
 眼鏡の旦那さんが、奥さんを襲う幽霊を追い払って、ご自分が夢の中まで守りにきてくれたからなのかな?
 そんな潜在意識を深層心理に忍ばせるほどに、ご主人の御園大佐は妻がいちばん苦しい時に寄り添ってきてくれたのだろう。御園准将の心には、いつも彼がいる。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 オホーツクの流氷が徐々に北上していくのに合わせ、艦も宗谷岬まで到達。
 いよいよ日本海へ。そして、広報の撮影日も決定し、その準備が進められている。
 日本海へ入る時となって、広報撮影の予行飛行も開始する。

 空母甲板には真っ白な戦闘機が、発進準備を始めている。
 甲板はいつもと違って、撮影クルーも幾つものカメラをセッティングしている姿も見える。
 鈴木少佐が真っ白な飛行服で、ネイビーラインの白い戦闘機へと乗り込んだところ。
 心優は御園艦長と共に、管制室の指揮カウンターにいた。でも御園艦長は後ろに控えて、通信をする姿ではなかった。
 インカムヘッドホンを頭にセットして、フライト監視のモニターに向かっているのは、大佐の二人。
 橘大佐と雅臣が紺の指揮官服の背を揃えて並んでいた。
「雅臣。あいつには、怒らせるぐらいにはっきり言ってやれよ。甘やかすな。甘やかすのは、後ろにいる姉貴の仕事になっている。ただし、それはバックヤードの話で、彼女もここに立ったら誰よりも冷静だ。英太は指揮的信頼は御園准将に置いているが、技術としては『彼女は女だったから、俺のように飛びもできなかったくせに』と未だに思っているところがある。しかも彼女は厳しい指示も淡々としていて、あいつが熱くなっている時は効かない時もある。普段、あいつに即効的に脅威を与えるのは男の俺達だ。いいな」
「ラジャー、隊長」
「英太は、おまえの精密的な飛行を目の当たりにしているから、ソニックの言葉は確かなものだと感じるはずだ。自信を持って行け」
「イエッサー」
 コックピットの鈴木少佐が、キャノピーを閉めた。
 戦闘機の噴射口が大きく広がり、真っ赤に燃える。尾翼と翼のフラップをぱたぱたと動かして動作の確認。
 管制員との通信。もう飛び出す準備を終えているカタパルトからも、湯気が揺らめいている。
 黄ジャージの『航空機誘導士官』が跪き、まっすぐに腕を海へ。
 『GO/Launch』、行け、発射!
 その合図と同時に、鈴木少佐を乗せたネイビーホワイトの七号『バレット』機が甲板から飛び立った。
 弾丸と名付けられた彼は、いつものように上昇して旋回はせずに、そのまま海面と平行する低空飛行のバランスに整えている。
 橘大佐と雅臣が、一緒にモニターを睨む。二人とも無言で、でも、鈴木少佐のヘッドマウントディスプレイに反映されているデーターを読みとっている。パイロットの目だった。
 心優はそんな雅臣を見て、ドキドキ。あのデーターとかレーダー数値ってパイロットじゃないと読みとれないものよね――と、コックピットにいなくても、いまの大佐殿は『パイロット』。あのシャーマナイトの眼差しが、空を司る姿にときめいてしまう。それに先ほど橘大佐が言っていた『ソニックの精密的な飛行』。素晴らしいアクロバットをしていたエースだったとわかる言葉。
 だがそれは猛禽のような目の橘大佐も一緒で、もっというと、彼等の後ろに控えて壁際でじっと黙っているミセス准将の琥珀の瞳もおなじく。パイロットの目線がモニターに集中している。
「行くぞ」
 橘大佐の声。雅臣もモニターに身を乗り出す。
 彼等が見ている映像は、バレット機が急上昇をはじめたところ。広報のカメラから中継されてきた空と大海原を飛ぶ姿も映し出される。
「行け、いいぞ」
 白い戦闘機が低空飛行からループを描くようにして上昇していく。半円のループができたところで、機体が背面になる。そこから急降下しながら、横に二回転半、そのまま急降下。それが『ローアングルキューバンテイクオフ』というアクロバット飛行。
 鈴木少佐の機体も半円ループを描いた頂点で背面になっている。そこから横に二回転半回りながら降りていくところ……。
 春の大空に、白煙を引きながら綺麗なループにダイナミックな横回転をしながらの急降下――。『すごい、もうあそこでどれだけのGがかかっていることか』。心優も息を呑む。綺麗な白煙ループが青空に映え、とても美しい。
 でも隣にいるミセス准将は硬い表情。さらに雅臣も――。
「あー……、ちょい惜しい……」
 雅臣が拍子抜けした声を漏らしたかと思うと、橘大佐も『ドン!』と拳をモニターに叩きつける。驚いた管制員たちが通信ヘッドホンをつけたまま振り返ったほど。
 拳を握ったまま、橘大佐がギリギリとした恐ろしい顔に豹変していた。獰猛な梟のようにぎらついた目。
「悪くはないけれど。スワローだったら、失格ってとこですね」
 雅臣から見ても、目の前にできたループは精度に欠けるという判断のよう。
 橘大佐も空に出来上がった白煙ループを睨み付けたまま黙り込んでしまう。
 やがてインカムヘッドホンのマイクを口元に近づけ、橘大佐が低い声で言った。
「おい、クソガキ。おまえ、やっぱりスワローから追い出して正解だった。スワローの時も教えたよな、俺が雷神に来てからも教えたよな」
 元隊長からの厳しい評価。コックピットにいる鈴木少佐はどう受け止めたのか。
「クソガキ、戻ってこい。もう着艦だ」
 低く響く声に、静かな怒りが秘められていた。
 雅臣も沈痛な面持ちのままだが呟く。
「英太はスワローにいた頃から、こういう『決まり事がある飛行』は苦手でしたね。コンバットでは身体能力とずば抜けた勘で最強でも、精密を求められるアクロバットは苦手――。しかも、他の機体との協調性も欠かせない。そこも苦手」
 雅臣のもっともな見解などもうわかりきったことと言わんばかりに、橘大佐はインカムヘッドホンを取り払うと無言で管制室を出て行ってしまった。
「今日は終わりのようね」
 御園准将も冷たく呟いて、管制室を出て行った。
 艦長の付き添いをしていた心優は、彼女を追いかける前に雅臣に振り返る。彼と目が合う。致し方ない笑みを見せて、雅臣が溜め息をついた。
「これから甲板は修羅場だ」
「え、そうなんですか」
「そう。オヤジと息子みたいな荒っぽい喧嘩が盛大にはじまりそうだな」
 雅臣がそう教えてくれると、キャットウォークに橘大佐の姿が現れる。もの凄い形相で甲板を突き進んでいく。
「うーん。パイロットの中ではレベルが高い演技だけれど。問題は『さらに精密的な橘大佐と飛ぶ』ことになると、不合格なんだよな……」
「わたしから見れば、とてもダイナミックで充分見応えありましたけれど」
「単体ならね。でも大丈夫。英太なら、細かく教え込めば一発で調整ができるだろう。でも、まずそこからだな。なんだよ、もう。一発で飛べないなんて、ほんと、スワローを追い出されるはずだ。雷神のエースはコンバット方式で決めることになっているから、英太には最適な戦場だったのだろうけれど、雷神のエースならアクロバットもできて当たり前。これでは駄目だ」
 雅臣も今日は見切りをつけたのか、管制室から出て行く。心優も管制室を出て艦長室に戻ろうとする。
「艦長。失礼いたします」
 だが雅臣も艦長室に入ってきてしまった。御園艦長は今日もデスクでひとり考え事をしているが、雅臣が正面に来て姿勢を正した。
「なに、雅臣。橘さんと英太の仲介ならやらないわよ」
「そんなことわかっていますよ。橘さんへの餞とおっしゃりながら、英太にも試練をお与えになりましたね。師匠から生で指導してもらう最後のチャンスってところ。それをご自分で企画すると英太が貴女に甘えようとするから、俺に任せてくれたのですよね。貴女はノータッチを決め込んでいるのですね」
「そうね。スワローの男だけで揉めてみたら、と思ってる。お父さんと、優等生で完璧パイロットだった雅臣兄様と、手に負えない悪ガキの末っ子英太君」
「そうなるように、俺達をまんまと揃って男だけの舞台にあげられたのですね。なんというか、相変わらず……敵いませんね」
 そういう意図もあったらしい。心優には見当もつかない指揮官達の思考。それを見事に見抜ける雅臣もやはり指揮官だった。
「橘さんは乗り越えなければならないお父さん。雅臣は、英太にとってはもう永遠に敵わない『優等生の兄貴』なのよ。お兄ちゃん、弟のこと頼んだわよ」
「あんなめんどくさい弟なんて要りませんよ。まったく。ですがお任せくださるのなら、安心しました。とことん、たたき直そうと思えました」
「もちろん。撮影のことは雅臣に一任したから、口だしする気はまったくないわよ。撮影の当日は、私は橘さんの機体に付くから。英太のことは雅臣に任せる」
 雅臣が少しだけ黙って。でも言い返した。
「ですがバレットは、貴女の指示だけは絶対的に守ります。力を発揮するのは、艦長がついてこそ。よろしいのですか」
 御園艦長もすぐさま言い返した。
「私はいなくなるの。いまから、私がいないシーンにも慣れてもらわないと困る。やがて、英太も雷神も橘さんが艦長となる艦に乗るでしょうし、雅臣が艦長となった艦にもね。いまから、そうしていくの」
「艦長……」
 陸へ帰る支度をはじめている。やっと再会できた雅臣の雷神隊長殿。でも、彼女は入れ替わるようにして海から去ろうとしている。そんな雅臣の寂しそうな顔。
「日本海に入るから、警備隊の強化を忘れないで」
「わかっています」
 艦長の眼差しが急にピリッとしたように心優には見えた。その警戒してる波動のようなものが、心優にも伝わってしまう。
 せっかく眠るようになって、ゆったりと業務をするようになったのに。今度は違う緊張感を漂わせている。
 でも、きっと。准将殿の側近というものは、常に緊張している上官につていることになるのだろう。これが現実――。

 気になるのは、艦長日誌を隈無く読み返していることだった。気になる出来事は、些細なことでもメモに書き出している。
 彼女の側にいるとひんやりとする。でも、時々微笑んでくれると、とても優しく時には面白おかしい冗談も言ってくれて素敵なお姉様になる。
 お遣いで、艦長室から出ると、雅臣が指令室の外からドアの隙間を覗いているところだった。
「城戸大佐、どうかされたのですか」
「しっ! いま英太が橘さんにこってりしぼられているところ。英太が聞き分けよく説教を聞いているから逆に怖くて見張っている」
 心優はそっと笑う。
「お兄さんも大変ですね」
「ほんっとだよ。急にスワロー家族みたいにされてさ。しかもお母ちゃんは不在で、艦長室で『私、男の人間関係にはノータッチ』って顔なんだもんな」
「御園艦長がお母さん、って……」
 いつのまにか『スワローファミリー』みたいな相関図が出来ているようで、心優も笑ってしまった。
「でも、そう言えば……。御園艦長が、ご主人の御園大佐と一緒に、わたしの親になるって言ってくださったことがあって……。そうですね。この艦のお母さんみたいなものかもしれません」
「へえ、そんなこと言ってくれたんだ。でも三十代の娘の親にしては艦長はちょっと若いかな」
「それが、そうでもなくって……」
「どういうことだ、今度は」
 雅臣は知らないのだろうか。言えたらいいのに、仕事の役目として、彼が上官でも言えない。
「……聞いたことはある。夫の御園大佐との子供が出来ていたのに流産したことがあるって。それ以前にも何度かそういうことがあったらしくて。『不妊症で悩んでいたこともある』と長沼准将が……。過去の流産についての相手が誰かは、俺には教えてくれなかった」
 元秘書官として、それだけは知っていたようで、先輩の彼になら話しても大丈夫と安心してしまった……。じっと黙っていかねばという心の縛りがほろっとほぐれるような感覚。
「あの、とてもお若い頃にもあったようです。育っていれば、わたしぐらいの年頃になっているはずだったと。だから、余計にわたしのこと、娘のようにして大切にしてくれます」
 雅臣から息引くような、声なき驚き。
「そ、そうだったのか。だからか、だから……横須賀の頃から、来るたびに心優をあんな目で……」
 その頃から目をかけていた、そして最後は自分のところに引き抜いた。突然部下を奪われた形になった雅臣も、やっとその深層にある理由を知る。
「なんていうか、お側にいると胸が痛くなることが多いです……。せっかく眠ってくれたと思ったら、今度は妙に警戒心が強くなってピリピリしていて。当たり前でしょうけれど、気が休まることがないんだなって。辛くなります」
「ま、そうだな。それが将軍様の秘書官のお勤めであって、耐えていくものだからな」
 見覚えのある冷たい上司の顔を久しぶりに見せられる。
「わかっています。その覚悟でお側にいることを決めたのですから」
 秘書官だった元上司の背を見て来た。だからこそ、心優は秘書官がどのようなものかわかっていて、そして今、雅臣が担ってきたことを心優も同じように体感している。
 それを全うするつもり。その決意で心優はかなり顔をしかめていたらしい。
「おっと。今日は怖い顔だな」
 雅臣の指が、心優の鼻先をちょん、とつついた。びっくりして、心優は大佐殿を見上げる。
「そうそう。心優は怖い顔をしているより、初々しい『わたしなにも知りません』という顔をしている方が癒されるっていうのかな。当事者から少し離れているという、無関係さ」
「……言ってる意味がわかりません……」
 いや、本当はわかった。でも、自分の存在がそうして役立っていることは初めて知った気がする。
「でもさ。わかるよ。葉月さんの側にいると、想像も出来ない彼女の過去と隣り合わせだ。心優のように素直に反応する女の子なら、葉月さんがどんなにクールな顔を保っていても感じ取ってしまうんだろう」
 その通りだった。知らないふりをするのも限界がある。
「なあ。知ってるか。昨日、物資補給の輸送機が来ただろう。その中に『オホーツクの塩ソフトクリーム』があって、今日の十五時からコンビニで販売なんだ。艦長にも差し入れで、そして、心優の気分転換でご馳走してやるから行ってみよう」
「でも、」
「そのお遣いが終わったら、コンビニで待ち合わせ。俺、いま外に出されて中に入れないし、心優も艦長に付きっきりばかりではなくて上手く気分転換した方がいいぞ。あ、そうだ。葉月さんに教えて、買い物に行く許可ももらっておこう」
 雅臣はそう言うと、心優が戸惑っている間に、艦長室のドアを開けてしまう。
「葉月さん」
 艦長ではなく、名前で呼ばれたせいか、御園准将が目を丸くしてこちらを見た。
「昨日届いた物資の中に、オホーツクの塩ソフトクリームがあって、もうすぐコンビニで販売開始なんです。俺、差し入れますから待っていてくださいね」
 それまで冷ややかな横顔だった彼女がパッと笑顔になる。
「ほんと? 嬉しい。あ、ミユと一緒に行ってきたら。彼女も連れて行ってあげて」
 雅臣がニンマリとしながらドアを閉めた。まるで、葉月さんならこう言ってくれるとわかっていたかのように……。なんという確信犯。
「許可も取った。じゃあ、待ってるからな」
 あっという間の手際に心優は唖然とするしかない。
 まさか。これが彼が狙っていた艦内デート?
 まさか、まさか。お猿に襲われるなんてこと、もうないよね?
 それが良いのか悪いのか。心優は複雑だけれど、やっぱりドキドキ。

 

 

 

 

Update/2015.5.9
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