◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 34.レッドクラウド、紅の朝  

 

 暫くしてから、艦長室へと心優も戻る。
 広報撮影大成功の歓喜の中、一人そっと静かに姿を消してしまった御園艦長。
 そろそろ良い頃合いだろうと思いながらも、心優は艦長がまだ泣いていたらどうしようとドキドキしながらドアを開ける。
「ただいま戻りました」
 でも、いつも通りだった。御園艦長はいつもの涼やかな横顔で、サインをすべき書類にもう向きあっていた。
「疲れたわ。よく冷えたアイスティーをつくってくれるかしら」
「かしこまりました。チェリーの紅茶でよろしいですか」
「そうね。お願い」
 先程まであれほどの大技を指揮していた人とは思えないほど平坦な反応だった。
 言われたとおりに、心優はアイスティーを作る準備を始める。
「橘さん、まだ飛んでいるのかしら」
「はい。城戸大佐が、最後のフライトだから気の済むまで楽しんで欲しいと橘大佐に伝えていました」
「そう」
 また淡々と、栗毛の中にその琥珀の眼差しを隠して、ペンを動かしている。
 もうそれだけ落ち着いているってことは、泣くことが出来たからなんだなと心優には思えた。
 ミセスお気に入りの紅いアイスティーが出来上がり、艦長デスクに置いた。
「良かったら、貴女も」
「有り難うございます。いただきます」
 心優もいただいて、同じようにデスクにつく。昨日の艦長日誌のデーターの入力準備をする。
 一時間ほど、女二人だけの通常業務。先ほどの賑わいも歓声も、感動も。もう何処かに行ってしまった。
 暫くすると、静かな艦長室なのに御園准将が何かに気がついたように、ふっと陽差しが射し込む丸窓を見つめた。
「心優、開けてくれるかしら」
「はい」
 窓を開けると、いつもの潮の香と油の匂いが混じった風。
 そして、戦闘機のキーンという甲高いエンジン音、さらにこれから着艦するための轟音も聞こえてきた。
 やっと御園艦長が白い飛行服姿のままデスクを立った。
 心優がいる丸窓へやってきて、彼女も甲板を見下ろす。
 彼女の目線の先には、燕と朝日がペイントされているホーネットが着艦するところだった。
 とうとう橘大佐が最後のフライトを終える。着艦フックを降ろしているホーネットが、ついに甲板に張られたワイヤーにフックを引っかけて着艦した。
 ――耳がいい。そう言われていたことを心優は思い出す。ホーネットの飛行音が、ミセス准将には聞こえていた。そしてそれは、艦の相棒が最後の着艦をして、コックピットを降りる瞬間を迎える時が来てしまったことになる。
 御園艦長が静かに丸窓を離れ、艦長室を出て行く。心優もその後を追った。
 艦長室を出ると、ドアが開いている管制室からまだ指揮カウンターで監督をしている雅臣の姿がある。彼と目が合ったが、心優は今度は艦長優先で甲板への階段を下りる。
 いつもの甲板へのドアを出ると、甲板要員達が同じ方向を見て騒いでいる。
 ―― スワロー、エンブレム、おかえり、お疲れ様! 橘大佐を迎えるコールが起きている。
 その中を、真っ白な飛行服の栗毛の女性が、スッと静かに早足で歩いている。
 騒いでいた甲板要員達が、彼女の姿を見つけた者から口をつぐんでいく。だから徐々にせっかくのコールがやんでしまう。
 冷たい女が、なんの熱気もまとわず、冷気を漂わすようにして、甲板の熱気を冷ましてしまう。彼等は、彼女の冷徹なところを知っているから、畏れ多くて静かになってしまう。
 もったいない光景だった。でも、心優はもうミセス准将の後はついていかず、『なにが起きるかもう判る』から甲板出入り口のドアのところで佇んで見守っている。
 白い飛行服の女が、燕と朝日のペイントがあるホーネットへと突き進む。凍ってしまった甲板の空気。でも、甲板の男達の心が徐々にほどけていくのを心優は見る。
 彼等も気がついた。『ミセス准将は、エンブレムを迎えに行くのだ』と。
 ホーネットのコックピット、キャノピーが開く。そこから浅葱色の飛行服姿の橘大佐がヘルメットのまま現れる。コックピットに梯子を掛けた甲板要員が登っていき、ベルトやヘッドマントディスプレイなどの装備に固められているパイロットをシートから外す手伝いをする。
 パイロットがヘルメットを取り去ると、橘大佐がシートから立ち上がる。
 彼も最初に見下ろしたのは、梯子の下にいる白い飛行服の女だった。
「おう。どうだった。ティンク」
「感じたわよ。サイクロン」
 あのミセス准将がにっこりと微笑んだ。それだけで……。橘大佐が泣きそうな顔になり、もう堪えきれないとばかりに梯子を下りてきた。
 まだ二人の様子に固唾を呑む甲板の静けさ。白い飛行服の栗毛の女と、浅葱色の飛行服の男が向きあったかと思うと、その女性に彼から思いっきり抱きついた!
 一瞬、甲板の男達がざわめいた。でも、それは男と女ではなく、同じ釜の飯を食い同じ時代の空を飛んできた同志の抱擁。……だと思いたいのに、どうしてもそう見えないのは、どちらも男と女を意識してきたからなのだろう。甲板要員達もそれを嗅ぎ取ってきたから『ええええ』とざわめいている。
 なのに。あのミセス准将も、いつにない優しい顔で、そして少し涙をこぼして、抱きついてきた男をその両手で柔らかに包みこむ姿――。
「お疲れ様でした、橘大佐。素敵だった」
 やっと心優にも感動の涙が浮かんできた。
 不思議。橘大佐がミセスに抱きついた時は、隊員達がびっくりしたのに。ミセス准将が労るように彼を抱きしめると、急に空気が変わって甲板から拍手が響き渡る。
 最後に、ミセスと大佐が見つめ合って微笑むと、今度は本当に同志のようにして手と手を握りあい、空へと繋いだ手を掲げる。競技を終えて称え合うスポーツマンのような清々しさ。甲板要員達もやっと、元の『大佐、お疲れ様コール』で湧いた。
 燕のエンブレムを守ってきた男を讃えるコールは、いつまでも続いた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 海が茜に滲む夕。心優は溜め息をついて、艦長室を出る。
 管制室には、もう紺色の指揮官服に着替えてしまった雅臣が、官制員と一緒にレーダーを監視しているところ。
 そこへと心優は思いきって足を運ぶ。
 雅臣も心優が一人で管制室に入ってきたことに気がつく。
「お疲れ、園田。もしかして、あれか」
 インカムヘッドホンをしたままの雅臣が、展望窓の向こうへと視線を向ける。
 心優も『そうです』とうなずいた。
 夕の茜に染まりはじめた甲板。海の波が見渡せるキャットウォークには、紺の指揮官服に着替えたミセス准将と橘大佐が背中を並べている姿がある。
 雅臣が官制員が監視しているレーダーの側に手をついて、展望窓へと身を乗り出す。
「あそこで、いい雰囲気で、一時間半。そりゃ、語り尽くせないことばかりだろうけどさ――」
 雅臣も溜め息をついていた。撮影が終了し、指令室でのお祝いのランチも終え、通常業務に戻って暫くすると、橘大佐が艦長室を訪ねてきて、今度は正式に御園准将への感謝の言葉を延べにやってきた。
 それから『ちょっとでかける』とミセス准将と橘大佐が艦長室を出て行った。二人は、甲板へ。そこで笑顔でいろいろと話し始めてから動かなくなってしまった。
「珈琲の一杯でも持っていけばどうかと俺達も思っているんだけどな。そうすれば話をやめてしまうだろうし、でも、そろそろ戻って欲しいし」
 艦長と副艦長があの状態なので、いまは雅臣が一人で空母周辺を監視しているということらしい。
「なあ、園田。どうかな。珈琲を持っていったらどうだろうか」
「もうすぐ日没ですから、そろそろ帰ってきますよ。お二人が安心して今日のことを語り合っていられるのは、城戸大佐が管制室にいれば安心と信用して任せてくださっているからなのでしょう」
 どうしてか雅臣が、目を丸くして心優を見下ろした。
「え、あの。なにか?」
「いやー。本当に園田は、艦長付きの秘書官になってきたなあと思って。いまのラングラー中佐ぽい言い方だったからさ」
「え、そうでしたか?」
「艦長の行動を大らかに捉えている余裕ってやつだなあ。あの人に慣れてきたんだな、すげえよ」
 雅臣があまりにも感心してじろじろと見下ろすので、心優はちょっと気恥ずかしくなって頬を熱くしてしまう。
「あ、では、大佐に珈琲をお持ちしますね!」
「お、サンキュ。いいな、秘書官に労ってもらえるって」
「ですよねー。いままで労る側でしたものね、城戸大佐は。元部下として、恩返しで労らせて頂きます」
「口の利き方も、切り返しも、上官に負けない秘書官らしくなってきて」
 どうあっても雅臣が立派な秘書官になりつつあるといいながらクスクスと笑ってばかりいるのが、逆にエリート秘書官だった先輩にからかわられているようで、心優はちょっとだけふて腐れながら『珈琲を持ってきます』と雅臣から離れた。
 雅臣に珈琲を届けて、夕の業務の準備をしていると、空が薄暗くなる前に御園准将と橘大佐が揃って戻ってきた。
「心優。今夜は橘さんと一緒に夕食をとろうと思うの。シェフには前もって私から伝えているからね」
「では、わたしは本日はカフェテリアで食事をさせて頂きます」
「あら、心優も一緒でいいのよ」
 でも心優は首を振る。
「お二人でごゆっくり。そろそろ私もカフェテリアの食事が恋しくなったので一度行かせてください」
「そう? それなら……」
「悪いな、心優ちゃん。艦長と今後の打ち合わせも兼ねているんだ。だから居ても良いんだけどね」
 ――と、言いつつも。今日は妙にいい雰囲気の二人は、やっぱり二人きりになりたそうだった。
 いけない、なんか錯覚を起こしそう。二人が大人の女と男の顔をしているから。でも、違う違う。葉月さんはいつだって隼人さんをそばに感じて、意地悪なメールに怒る女の子みたいな心を旦那さんに持っているし。橘大佐だって、あの一番最後の大事な瞬間に心においてその名を呟いたのは、陸で待っている結婚を約束した彼女。彼女を胸に上空へ駆けていったほどなのだから。
 なにも、起きないよね? ご主人と恋人を裏切るようなこと。ないよね? そんな心配をしてしまいたくなるほど、いままで以上にいい雰囲気。
 それでも心優は食事の時間になると、艦長室を出てカフェテリアに向かった。

 空母には食事をするカフェテリアがいくつか存在する。各部署に隣接させて業務に滞りないよう点在させている。
 鈴木少佐がいるパイロットエリアのカフェテリアで食事を済ませた。
 雷神のパイロット達が心優を見つけてくれ、鈴木少佐もいたので、賑やかな男達の食事の輪に入れてもらえ楽しく過ごしてきた。
 艦長室に戻ったが、御園准将と橘大佐が、是枝シェフのフルコースのようなご馳走をまだ楽しんでいた。
 もうデザートも終えて、お互いに紅茶と珈琲を楽しんでいたが、心優がでかけた時と話し合っている雰囲気が異なる。
 もう艦長と副艦長の顔で、なにか真剣に話し合っている。心優はその空気を見定めて、艦長室には入らず、そのまま指令室へとお邪魔する。
 雅臣はまだ、管制室で監視を続けている。
「大佐。お食事は済みましたか」
「あ、うん。是枝さんがつまめるものを持ってきてくれたよ。艦長達の食事が終わったら、俺も夕食に行こうとは思っているけど……」
 雅臣も二人の長い夕食に少し待ちくたびれているようだった。
「わたしも入りづらくて、まだ戻れません」
「そうか。でも、いまからだもんな」
「警備のことですか……?」
 雅臣が無言でうなずいた。
「なにか持ってきましょうか」
「いいよ。いまは。今日はどこで食事をしてきたんだ」
「メインホール以外のカフェを体験したくて、パイロットのカフェテリアに行って来ました」
「へえ。懐かしいな。俺も一緒に行きたかったなあ。俺があそこで、いちパイロットとしてガツガツ食っていたのが数年前でも遠い昔に思えるよ」
 もう現役パイロットを思い出してしまう様々なことも、雅臣にとっては過去として受け入れられているようで心優も安心する。
「これからの大佐は、キャプテンですものね」
「うん。俺も、感じた。ここに立っている時、コックピットと同じものを感じた。ミセスが事故後の俺にいってくれた言葉。今日、すごく良く判った」
「そうでしたか。新しい世界ですね――」
 『うん』とうなずいた雅臣の顔が、急に可愛いお猿の愛嬌を醸し出したので、心優も微笑み返してしまう。
 心優はそこで、大佐殿ではなくなった雅臣にいい雰囲気になりすぎている准将と大佐のことを話した。
「ああ、大丈夫だよ。今までなら橘大佐が熱くなっている時は、葉月さんから警戒して近づかないようにしていたみたいだからさ」
「そうなんですか。でも……。今日はどうしても男性と女性の二人に錯覚してしまって」
「わかんないけど、もしかするとあれぐらいの年齢になると、男と女を越えたら『親友』みたいになるんじゃないか」
 ――『親友』!? 思わぬ表現だった。
「男性と女性って友情は成立しないってよく聞きます。経験が少ないわたしには、それが本当かどうかわかりませんけれど。でも……。もしそれが出来るなら、本当の親友ですね」
「今日の撮影で、フライトで。あのお二人は本当の意味での『信頼関係』を仕上げたんだと思った。大丈夫だよ。いままでの男と女の駆け引きも、あの夜で終わったんだよ」
 あの夜とは、ミセス准将が『いいパイロットには感じる』と仕掛けた晩のこと。
「なんか、いいですね……。親友だなんて」
 四十を超えた男女が最後に得る尊い関係なんて、心優には到底届かない世界。
「でもさ。独身の俺達が『もし、恋をしたなら』、男と女で絡まりあっていけばいいんだよ。あの人達のような達観した男女関係は、そのまた向こうの話な」
「絡まりあって……て」
 またお猿が急激に色めいたことを言いだしたと心優は眉をひそめる。しかも一般論のような言い方をしていたが、心優に向けて『俺とおまえは、これから男と女で絡まりあっていけばいいんだ』と心優に投げかけて楽しんでいるのもわかってしまう。
「あー、こうして仕事ばっかしていると、艦を降りたら女を抱きたくて抱きたくて仕方がなくなるんだよなー。俺、若い時は空母を降りたら、先輩達とナンパばっかしてたし……」
 ナンパばっかしていた――と?
 若い時の話でも、それは心優を目の前に言って良いことなのかと、再び眉をひそめてしまう。
 だからなのか。雅臣がはっと我に返った。
「えーっと。だから、そのー。若い時、園田がまだ小学生か中学生ぐらいで、俺がめちゃくちゃ若い時。今より更に猿……」
 と自分でそこまで言って、また雅臣が周りを気にするようにすぐさま口を閉ざし、慌てる姿。心優が大人には届かない子供の時の話だから見逃してとでも言いたそうだが、見逃さない。
「いまよりお猿――だったんですね。大佐」
 『それ言うな』と、流石の雅臣も他の官制員達に聞こえないかと小声になった。
 もうそうして慌てる次期艦長がおかしくなって、心優は許してしまう。が、ちょっとだけお返し。
「はあ。わたしも艦を降りたら、恋でもしたいです。他のカフェに行けば、出会いもあるかと思って……」
 雅臣のやり方を逆手にとって、心優も『一般論的』にお返しをしてみた。
「へ、へえ〜。園田なら、付き合って欲しいって男、今はいっぱいいるだろうなあー」
 お猿の頬がちょっと引きつったのを見てしまう。
「大佐みたいに、たくさんの異性とお付き合いした方が、勉強になりそうですしねえ」
 とうとう雅臣が黙ってしまう。ものすごく不機嫌な顔になってしまった。
「なんか最近、生意気だな」
「そうですか? ボサ子のままですよ」
「駄目だからな。絶対に駄目だからな」
 拗ねた顔が大佐ではなくて、またお猿になっていた。
「艦を降りたら……、一緒になるんだからな……」
 心優にしか聞こえない小声で雅臣が呟いた。管制室の大事な場所で指揮をしている大佐殿が、心優の前ではお猿になってそう言ってくれる。
「はい……、大佐……。ごめんなさい」
「俺もふざけすぎた。ごめんな」
 雅臣の大きな手が、心優の頭をポンポンと撫でてくれる。
 そこはもう官制員がいても、自然になってしまっていた。
 艦を降りたら、一緒になる――。
 その言葉だけで、心優の胸は熱く焦がれて、切なさで泣きたくなる。
 愛してる、大佐殿。私のお猿さん……。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 翌朝、艦長室に指令室のメンバーと、警備隊隊長が呼ばれて集まった。
 今朝の艦長デスクには、御園准将の側に、橘大佐も控えていた。
「おはようございます。昨日は広報撮影、お疲れ様でした」
 昨日の労いをすると、御園艦長が橘大佐と顔を見合わせて、厳しい表情で頷きあう。
「広報撮影を終えたらと、橘副艦長と決めていたことがあります」
 昨夜、二人だけで『ラストフライト』のお祝いの夕食をしていたはずなのに、やはり長い食事時間は『今後について』を話していたようだった。
 そして艦長が、唐突に告げる。
「本日より、警備隊と護衛官には『警棒』の所持を命じます。さらに、警備隊の一部には『拳銃』の携帯も許可します」
 指令室の幹部と警備隊長が一気に緊張感を露わにした。
「さらに、明後日より、空母電波の遮断を決行します。一般隊員には極秘で実行。ここにいる者だけに周知になります。口外はしないように。その際に、航路の変更をするので、関係者をミーティング室に本日の十四時までに招集するようにしてください」
 ――イエス、マム。
 空母の電波を遮断して航行をするのは、業務上よくあることだった。そうして、空母の位置を不規則なものにして外周へ情報を把握させずハッキングなどの防御も兼ねており、航海を守る業務のひとつだった。
 電波が遮断されると、外との連絡が取りづらくなる。外部からの攻撃を守るメリットもあるが、隊員達は家族への電話も出来なくなるし、メールも送れなくなる、届かなくもなる。それを艦長の一存でやられるので、隊員もびっくりする。しかしそれも事前に承諾されていることで、隊員達はそれも仕事の内と承知している。
 一般隊員にも知らせないのは、情報を漏らされないか、或いは既にスパイがいないか、万が一の防御策でもある。
「警備隊長、かねてより、許可をしている隊員数名に拳銃の所持を指示してください。そして、それは極秘で、周囲に悟られないようにお願いします」
「了解です。艦長」
 幹部達は驚きながらも落ち着いてた。それは空母が航行する中ではたまにある指示でもあって、でも、それがいつ発令されるかわからない。しかし、その指示が出たならば、そこからこの空母は『機密の箱』となって動くことになる。
 幹部達が解散をすると、ミセス准将はいつもの冷たい顔になって心優に言う。
「心優、アドルフのところに行って、警棒をもらってきなさい。貴女はまだ拳銃を携帯しなくても大丈夫よ」
「はい、艦長」
 久しぶりの警棒。三段ロッドを腰に付けることになる。
 雅臣が言っていたとおりになった。これからは警戒区域。これからは本当に艦長の護衛として集中しなくてはならない。
 でも。腰にロッドをつけた心優を見た雅臣が、ちょっと心配そうな顔をしたのが意外だった。
「ほんとうに、そういう姿になっちゃうんだな」
 雅臣が側に来た時に、そう話しかけてきた。
「小笠原ですごく訓練をしたんですよ。艦長を絶対に守ると、父とも約束しています」
「そ、そっか……」
「そんな顔……しないで。これがわたしの仕事ですから」
「そうだな」
「わたしが本当は強いって、知っています?」
 心優は安心してもらうためにここで自信を持って、笑って見せた。
「知ってるよ。俺を簡単に投げたもんな。塚田もだよ」
 懐かしいことをお互いに思い出して、やっと一緒に微笑んだ。
 でも。フロリダから来た『若き傭兵王子』にめちゃくちゃ鍛えられた――。それを言いたいけれど、雅臣にはシドのことが言えない。
「そうだな。あるわけ、ないよな。ないようにしなくちゃな」
 でも警戒はしなくてはならない。だから、このスタイルをしているだけ。雅臣はそう飲み込んでくれた。
「電波を遮断するって言っていただろう。他の隊員達には知らせないで実行する指令部しか知らない極秘の業務だけど、その前に親父さんにメールをしておけよ」
「わかりました。そういたします」
「俺も母ちゃんにメールしておかないといけないな。久しぶりの航海ですごく心配していたんだよ」
 初めて雅臣が家族のことを話したので、心優は密かに驚く。
 でも彼の母親が事故に遭って以降、どれだけ心配していたかを心優も思う。本当はパイロットだった時から心配だったかもしれない。
 そんな雅臣が、心優の耳元に密かに囁いた。
 『母親にも紹介したいから、考えておいてくれ』――と。
 彼の本気。それを日に日に感じている。でも、まだなんとなく実感が湧かない。心優の腰にあるロッドが重く感じる。まだそこで喜ぶことが出来ない。
 心優は久しぶりに握りしめる。この艦に乗ってから首に下げている銀色のID認識票、ドッグタグ。
 お父さん、絶対に帰るからね。
 雅臣もきっと母を思うから、心優の父のことも思ってくれたのだろう。
 心優も帰ったら、父に紹介……? お猿さんとデカい親父さんが対面? いまはちょっと想像できない!

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 佐渡島を過ぎて、いま空母は電波をたまに切りながら航行している。
 その間、心優は神経を尖らせていた。電波を切りながら艦の情報を守りながら、警備隊の強化、そして装備の装着。警棒を腰に携帯するようになってから、心優も御園准将の気持ちが良く判るようになった。すごく神経がピリピリしている。
 いてもたってもいられなくて、あいている時間は護衛部の隊員や警備隊の隊員達と、組み手の訓練をするようになっていた。
 ―― 園田少尉はマジもんの空手家。
 艦の中でもそう言われるようになった。艦長の護衛に抜擢されるはずだと、誰もが言ってくれる。
 でも心優の中の不安は晴れない。この艦が無事に横須賀について、小笠原に帰るまでは、艦長の護衛のことしか考えられない。
 雅臣にもそれが伝わっていた。
 急に顔つきが変わった。護衛官の顔をしていて、近づけないよ――と、言われる。
 暫くは、こんなかんじだからごめんなさい――と言うと、雅臣はあの愛嬌ある爽やかな微笑みを見せてくれる。今はお互いにそれだけで、任務に集中している。
「なあ、葉月ちゃんの時はどうだったの。澤村君がさ、お嬢さんと結婚させてくださいって、御園元中将に申し込んだ時ってどんなだったのー」
 ピリピリしている空気の中でも、橘大佐は知ってか知らずか、いつもの調子で暇さえあれば御園准将のところにやってきて最近は『結婚の相談』をしている。
 応接ソファーに橘大佐が座って、ノートパソコンを持ってきて仕事をしているふりをして、御園准将と話したくてそこにいるのは心優もわかっている。
 でも御園准将はいつもの冷めた横顔で、こちらは艦長デスクにてきちんと仕事に集中している。
「なあ、聞いてる? 葉月ちゃん」
 心優から出て行ってください――と言った方がいいのかなと最近は思ってしまう。でもノリが軽いオジサンでも、橘大佐は副艦長。滅多な口出しは出来ない。しかもあのラングラー中佐が放置しているようだから、ご勝手にどうぞか、大佐の扱いは艦長に任せているのかとも思っているから心優は様子見。
「そんなに聞きたい? 私が結婚する時のこと。いままで聞きもしなかったじゃない」
「聞かねえよ。俺が結婚に興味なかったんだから。だからさあ、決意したはいいけどわかんないんだよ。その、余所様の家族に気に入られるさじ加減、とか。だってさ、俺と親父さんとの方が年齢差近いんだもんな。ぶん殴られるよなあ。真凛(まりん)の親父さん、横須賀の海陸官だぜ。空母の警備隊長を何度も歴任してきたほんまもんのネイビーシールズだぜ。それで娘の名前をマリンてつけるほど、根っからのネイビー。娘の真凛もその影響で海軍の事務官になっちゃってさ。俺達が若い時、彼女のお父ちゃんと言ったら、めっちゃ怖い大人だったじゃんか」
「そうね。空母で何度かご一緒だったわね。でも、そういうお父様の愛娘を選んだんでしょ。覚悟決めなさいよ」
「澤村君だって相当な覚悟だったはずだよな。しかも婿養子になっちゃってさ。どうだったのかなあって」
「私が刺されて意識が戻ったら、もう彼と父との間で話はまとまっていたわね。家族が揃って今がその時って整えてくれたから、もう盛大な準備もなく、とにかく結婚しようってなったのよね。彼と婚姻届を書いたことが『結婚』した実感の瞬間かな。入院先で、ベッドの上で彼と一緒に記入した瞬間、いまでも覚えている。私、あの時は本当に命拾いしたからね――、生きてるならもう何も考えずにそうしようって流れだったわね」
 そんなことをサラサラっとミセス准将が話したので、心優はまた絶句してしまう。
 橘大佐も硬直していたし、『しまった』という顔に変貌した。
「わりい……。俺、なんかいっつも葉月ちゃんに余計なこと喋らせちゃうな」
「遠慮されても困るのよ。私と話すとそう言う話は普通に出てくるし、橘さんだから話しているし、上手い言葉を返そうとしなくてもかまわないからただ聞いてくれたらいいのよ。いちいち気にされる方がなにも話したくなくなる」
「ああ、もう、わかった。そうする――。えっと、やっぱ当たって砕けろで、俺も頑張るわ。チクショウ、元隊長さんにどつかれる覚悟決めるか!」
 命あって結婚をした人の話を聞けば、橘大佐も男ならこれぐらいのこと覚悟しろと肝に銘じたようだった。
 でも心優も他人事ではなくなるかも? 父と雅臣が対面して、雅臣がなにか言う時、父はどう反応するのだろう? そこは心優も考えるこの頃。そして、彼の母親に会う時、気に入ってもらえるかどうかも心配……。
 少し話が落ち着いたところで、心優はいつも珈琲と紅茶を二人に出すようにしている。
「もうすぐ日本海ともお別れね」
「だな。また正念場だな。さて、俺はスクランブルの体勢をチェックし直しておくか」
「お願いいたします、橘大佐」
 心優が入れた珈琲を一杯味わうと、橘大佐がやっとソファーから立ち上がり艦長室を出ていった。
「心優。橘さんもいろいろと緊張してきているのよ。ここでのお喋りぐらいは自由にさせてあげてね」
 心優が艦長を思って、この人ここで自由に喋らせていていいのかな――と案じていたことを見抜かれていた。
「私も彼とのお喋りは気晴らしだから。でも、気遣ってくれてありがとう」
「いいえ。艦長がそれでよろしければ、良いのです」
「逆に。貴女と雅臣は、最近はあまり会話をしていないようね」
「お互いの職務に集中しようという約束です。なのでもうお気遣いはなしにしてくださいね」
「そうなの? ちょっとした言葉のやり取りぐらい、あった方が良いと思うけど」
「それはしておりますよ。少しぐらいはプライベートの会話も交わしていますから心配しないでください」
「それならいいけれど……」
 姉心なのか母心なのか、心優と雅臣の関係を常に気にしてくれている。それはそれで有り難いけれど、なにかあれば二人きりにしようとしてくれるのも最近は困っている。
 いま雅臣と向きあっても、お互いに素直に甘くなれない。もし甘くなったとしたら、今度は我慢がきかない。こんなに彼を欲しているのに……。今度、雅臣にキスをされたら、心優から抱きついてしまう。心優からも深いキスをしてしまう。そして……。きっと心優から肌を見せたくなる。『抱いて、臣さん』。わたしのお猿さん。まっすぐに強く、わたしを抱いて。そうして想う火照りを冷ますことが出来なくなる。
 だからいま、二人は任務遂行を誓う。
 雅臣も時々言う。
『艦を降りたら、すぐに俺の官舎に行こう。一緒に眠ろう』
 きっとその夜、わたし達は眠らないほど抱き合う。あのアクアマリンの海の宵、カナリア色の月に照らされて愛しあえる。
 雅臣もその想いを描いていることが心優には通じていた。
 それまでは、彼は『大佐殿』。
 心優は『艦長付き、護衛官』。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 警戒区域を航行中。さらに、警戒を強めるべき海域へと向かう。
 艦は日本海を出て、山口を下り、五島列島、対馬海峡へ――。
 そこでも電波を突然遮断し、ひと晩停泊などを繰り返し、ゆっくりと南下をはじめる。
 艦長も落ち着いていた。鈴木少佐が非番の日は、艦長室に呼んでランチをしたり、二人で子供達が気分転換にと渡してくれたという映画鑑賞をしたりしていた。
 そんな艦長の落ち着きが、艦のクルー達の中にも穏やかな空気として伝わり、滞りないいつもの航行を展開する日々が続いていた。
 ある日、激しい雨が夜中ずっと降った。
「南に来たってかんじね」
 ヴァイオリンを構えてしばし演奏をしていた御園准将が、溜め息をつきながらケースにしまう。
 雨の滴が伝う丸窓。外はレインコートを羽織っている甲板要員がホットスクランブルに備えて、いつだって準備を怠らない姿。
「冬ではないことが幸いね。西に来て南下をはじめたら、本当に暖かくなったわね」
「そうですね。オホーツクは寒かったですものね」
 あれから一ヶ月が経った。航行任務もあと半分。停泊しながら、ゆっくりと進みながらの航行はとても時間がかかる。ただ一周するだけなら数日で済むところを、防衛を目的とした空母を『基地』と見立てて動かすので航海は長いものになる。
「本州はそろそろ桜の時期ね。今年は花見ができなくて残念だわ」
「小笠原では咲いていましたよね。冬に咲いたので、わたしもなんだか春が来たという実感がなかったです」
「そうねえ。若い時はパイロット兄様達と桜が咲いたらバカ騒ぎをしたもんだけれど。今は両親や叔父がいる横須賀か鎌倉で花見をするようになってしまったわ」
「鎌倉ですか。いいですね」
 艦長はよく『兄様』と言う。たまにご両親のことを『パパ、ママ』と言ってうっかりしたという顔をする。その時のお顔がちょっと可愛らしい。本当のお嬢様なんだなと感じている。
「心優は沼津に帰って花見をしたりするの。お母様とお兄様のご家族、そしてお父様と」
「そうですね。帰省ができた時はそうしていました」
「そう、今年は心優も残念ね……」
「いいえ。帰ったり帰らなかったりその年によります」
 でも、去年は中佐で上司だった雅臣と桜を見ていたな……と一年前を思い返してしまう。随分と時が経った気がする。激変の一年だった。
「貴女、横須賀に転属する前は、浜松の航空基地にいたのでしょう」
「はい」
「雅臣の実家が浜松だって知っているの?」
「はい……」
 浜松にいたから航空機に憧れて入隊したということは、付き合い始めた頃に聞かせてもらっていた。
 でも。雅臣にとって『浜松』は事故と繋がっている場所なので、心優からは話せないし、地元のこともあれこれ聞けない。
「雅臣は、ご実家に帰ることも避けているみたいね。事故のことを、思い出してしまうのでしょう。ご実家に顔を見せたりはするけれど、すぐに帰るとか滞在ができないらしいのよ。心優とだったら帰れるかも……と最近は思っているの」
 心優は硬直する。おつきあいする女性として会うだけでも緊張するのに、そんな大役――とも思う。でも他の人に任せたくないことも本当のところだった。
「はい。航海が終わってすぐは無理かもしれませんが、タイミングを見て、彼さえ良ければそばに付いていたいと思っております」
「ほんと? 良かった。安心したわ。心優がそう言ってくれて……。私も覚えがあるのよ。辛いことがあって、両親に心配かけていることもわかっているし、でも、両親に会うと辛いことがあったということを感じずにいられないから……。雅臣自身が『帰りたい』と思ってくれるようにならないと、このままの気もして……ね」
「わかりました。心がけておきます」
 御園准将が安心したように微笑んでくれる。
「では。今夜はもう休みましょう。この大雨ならなにもなさそうね。こんな日にしっかり眠りましょう」
「はい。艦長」
 御園准将もヴァイオリンケース片手に、ベッドルームに消えていく。ここのところ、睡眠も順調に取れているようで本当に穏やかだった。
 心優も小部屋に入り、ショーツとタンクトップだけになってベッドに横になった。ひとつだけ丸窓がある。そこにも雨の滴、雨音。それを眺めているだけで眠気がやってくる……。
 臣さん、無理しなくて良いよ。でもいつか一緒に浜松に帰ろうね。
 浜松の基地には、戦闘機よりも『練習機』が多い。パイロット候補生を育てる基地でもあった。
 川崎T-4が並ぶ滑走路。中等練習機。自衛隊では広報アクロバットでも使われている機体。臣さんもあの練習機で空を飛んで、パイロットに……。
 ―― ホットスクランブル!
 ハッと目覚める。どれぐらい眠ったのだろう? でも心優は反射的に毛布をはね除け起きあがっていた。
 すぐさま紺のアーマーパンツをはいて、上着を羽織る。その時、白いはずのシーツが茜に染まっていることに気がついた。
 夜明け前? もう朝? 丸窓に見える雲が真っ赤に染まっている。
 三段ロッドの警棒を手にとってそのまま小部屋を飛び出す。
 小部屋を出ると、御園艦長も白いタンクトップの上に紺の上着を羽織るだけの姿で艦長室を飛び出したところ。
 心優も艦長室を飛び出すが、そこで雅臣と鉢合わせた。雅臣は逆で、夜間のシフト監視をしていた管制室から飛び出して指令室の幹部が眠る部屋へ向かうところ。
「大佐」
「十機の編隊が、二隊。こちらに向かっている。俺は艦長と指揮につくから、橘大佐とラングラー中佐を起こしてきてくれ」
 十機の編隊が二隊? 全部で二十機――!? 心優は真っ青になり震え上がる。身体が動かなくなった。
「心優、しっかりしろ。艦長の側についているんだ。大丈夫だ。あんなの派手な脅しだ。北方の奴等もそうだっただろ。俺達が近づいてきたからの警戒にすぎない。こっちはお国柄派手なだけだ」
 『おちつけ』。雅臣が心優の頬を軽くはたいた。初めての航行で、様々なことが全て『初めての出来事』である心優は、いつだって茫然としてしまう。そんな心優を雅臣が律しようとしてくれる。
「了解です、大佐。起こして参ります」
「頼んだぞ」
 雅臣も御園艦長の側へと管制室へ戻っていく。二人が指揮台で無線のインカムヘッドセットをしたのが見えた。心優も男性幹部が眠る部屋へと急いだ。でもこちらも心優が開けるまでもなく、橘大佐を先頭に飛び出してきた。
「橘大佐。十機編成が、二隊接近だそうです」
 心優の報告に、さすがの橘大佐も『なんだって』と表情を強ばらせる。
 それぞれが持ち場に散っていく。心優とハワード大尉は艦長の下へと管制室へ急ぐ。
「キャプテン、雷神3号、5号、発進OKです」
「侵犯措置対応に行かせて」
 ――ラジャー。
「雷神6号と7号も行かせて。偵察と撮影をさせてちょうだい」
 ――イエッサー!
 艦長が次々と対応に追われる。官制員達の英語の通信で管制室がざわめく。甲板でも甲板要員が忙しく行き来をはじめる。
 艦長は落ち着いて指揮を出しているが、彼女が一時だけブリッジの外を見て喫驚する。
「なんなの、これ」
 あのアイスドールの彼女が、驚きを隠せない顔。そして彼女の白い肌が紅く染まっている。
 それは彼女だけではなく、この管制室も甲板も、海も空もすべてが朝焼けに染まって、薔薇色になっている。
 心優もただただ朝焼けに染まる光景に唖然とするしかない。むしろ、すべてを薔薇色に染めているその色が今朝は禍々しく見えてしかたがない。
「艦長、この空はやばいぞ」
 橘大佐の表情も強ばっている。
「艦長、一面この色はパイロットには……。水平線も雲で隠れています」
 雅臣もなにか危機感を拭えない焦りようだったが、心優にはなんの危機が迫っているのかわからない。
「そうね。この空はまずいわ……」
 真っ赤に染まる不吉な空。艦長が唇を噛みしめた。

 

 

 

 

Update/2015.7.24
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