◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 40.蒼い月が見えた日は  

 

 部屋に散らばっている薬、気を失ってしまったミセス艦長。
「やばい、ミユ。どうにもならない!」
 シドが畏れ多いはずの御園の奥様の頬を、「奥様、奥様!」と構わずに何度も叩いた。
「もしかしてシド……、准将が失神したのを見たのは初めてなの?」
「母親やオジキ達から聞いていたけど、初めてだよ!」
「どいて、シド!」
 御園准将を抱きかかえている彼を突き飛ばし、心優が代わりに腕の中に准将を預かる。いつもの甘酸っぱい花の匂いがする彼女を腕に抱いて、心優はそっと床に寝かせる。
 訓練で習ったように、まずは意識の確認をする。呼吸を確認する。心音、脈――と確認する。気道を確保した状態で寝かせる。
「大丈夫。呼吸はあるし、脈もはっきりしている。気を失っただけ。前もそうだったから」
「そ、そっか。よ、よかった」
 こんな事、フランク中尉も普段なら思いついてやってくれそうだったのに、今回のシドはあからさまに動揺している。そんなところが、黒猫のおじ様達から見て、シドはまだ『チャトラ』でしかないレベルという意味なのかもしれない。
 次に心優は、床に散らばっている薬を見下ろし、胸ポケットに忍ばせいてたメモ用紙を開いて眺めた。床に跪いて、散らばっている薬の名前を確認する。
「たぶん、暫くしたら目を覚まして、もしかすると吐くかもしれないから、私の部屋に行ってベッドの下にある洗面器を持ってきて」
「……ミユ、おまえ……」
 落ち着いている心優を見て、シドが唖然としている。でも喚き散らして慌てていた姿を鎮め、落ち着いた顔立ちに戻っていく。
「わかった。ベッドの下だな」
「そのあと、ミスターエドを探してきて。彼ならなにかしてくれると思う」
「わかった!」
 シドが外に出て行く。心優はラングラー中佐から託されていたメモ用紙を確かめながら、必要な錠剤を集める。
 託された『花のお守り』と呼ばれる薔薇模様のモザイクの入れ物。それは心優のデスクの引きだしに鍵をかけてしまったまま。いま散らばっている薬は、とても質素な銀色のピルケースから飛び散ったもののようだった。艦長が誰にもわからないよう、でも常備している入れ物のよう。
「心優!」
 シドが来たかと思ったら、雅臣だった。
「あちこち走り回る前に、各セクションに内線しまくって御園大佐を見つけた。英太がいるパイロットの詰め所付近で聴取していたようだ。いま、すぐに戻ってくる」
 パイロットのセクションだったら、そんなに遠くはないが近くもない。
「臣さん、艦長デスク室の冷蔵庫から冷たいミネラルウォーターを一本持ってきて!」
「わ、わかった」
 心優が頼んだことを、雅臣もすぐに聞いてくれ走っていってくれる。
 シドが帰ってくる。洗面器だけではなく、バスルームから気を利かせてタオルも持ってきてくれた。
「ここに置いておく。エドはそこらへんにいると思うから、探して呼んでくる。たぶん、このまえみたいにそこから降りてくると思う。艦長室は誰も入らないようにしなくては」
「ラングラー中佐はいまは総務オフィスルームにいて忙しそうにしていたから指令室にはいないと思う。いなければ、……」
 ラングラー中佐が不在なら、誰に艦長室を任せたらいい? ハワード大尉はいなくなってしまった、同じ秘書室のコナー少佐? それともミセス准将と四中隊時代から同僚だったダグラス中佐? 木田少佐? でも艦長室に隊員が何かの用事で訪ねてきて、中佐や少佐が対応したら艦長はどこにいるのかなにをしているのかと疑問に思われる?
「心優、水を持ってきた」
 雅臣も戻ってきた。冷えているペットボトルを差し出してくれているのに、どうしたらいいか考えあぐねている心優が受け取らないので彼が訝しそうに佇む。
「心優――、どうした」
 雅臣も跪いて、迷っている心優を覗き込む。
「大佐。どうしたらいいですか。艦長のこの姿を悟られないよう、艦長室に誰も入らないようにしたいんです。でも入るなと強く拒否すると、何かがあったと悟られてしまう。艦長がいなくても、誰かが来ても何事もないように感じさせるにはどうしたらいいですか」
 雅臣の目が、途端に険しくなる。心優の上司だった室長時代の秘書官だった時の眼差しに。
「御園大佐に――といいたいところだが、奥様がこの様子ではご主人の隼人さんしか、奥様の体質については対処ができないだろう。橘大佐か俺が艦長室を代理で対応すればいいと思う。そうだな、こんな時は、先輩であって副艦長である橘大佐の方がしっくりするだろう。そして、俺が管制室を監督する――」
「大佐、お願いできますか」
「もちろん。わかった。橘大佐に知らせて、静かに艦長室の対応を固めてくる」
 雅臣がさっと対処に向かっていく。慌てて走っているとその姿だけで感じ取られると思ったのか、とてもゆったりした歩幅で去っていった。
 それをシドが静かにみつめている。
「ほら。あのオジサン、こう言う時にすんごい肝が据わってんのな。さすが、領空線ギリギリのところで、最北大国や大陸国のスホーイやミグと競ってきただけある」
 どこか悔しそうに、でも、その眼差しは敬意に満ちていた。シドも本当は雅臣のことはずっと前から一目置いてくれているようだった。
「俺もエドをさがしてくるな」
 シドは軽やかな足取りで駆けていった。
 床に息もしていないように青ざめているミセス艦長と心優だけになってしまった。
 でも心優は彼女を起こしあげる。大丈夫。気を失ってしまっただけ。こんな痛々しい彼女を心優は既に見ている。あの時も、彼女が痙攣をしながら過呼吸を起こして気を失った。ただ、あの時は気を失う前に薬を口に含んだ。今回は含む前に気を失ってしまった。
「艦長、御園准将――」
 声をかける。でもまだなんの反応もない。
 せっかく旦那様が側に来てくれたのに。一緒に眠ってくれると、本当は夫妻として一線を引きたい旦那様から職務の禁忌を犯すように同じベッドで寝ると言ってくれたのに。御園大佐も予感していたのに。その旦那様が留守の間にこんなことになるだなんて――。
 何を見て、何に襲われて、また彼女は恐怖に陥れられていたの?
 昨夜、侵入してきたあの厳つい黒い男がナイフを振りかざして心優を襲っていた時、もしかすると御園艦長は『幽霊という傭兵』と既に遭遇していたのかもしれない。
 意識の底にそれを鎮め、ひたすら艦長としての責務を果たそうと踏み耐えていたのかもしれない。でも、海東司令も来てくれ、護衛を無事に看護に引き渡し、こちらに来てしまった大陸国のパイロットも無事に引き渡した。拘束した不審者ももうこの艦にはいない。安心した時、緊張が解けた時、たかがゆるみ、そこに抑えていた恐ろしい幽霊がナイフを持って現れた?
「准将……。葉月さん……」
 緊張が解けて安心した瞬間に襲われるだなんて――。痛々しくて、心優の目に涙が浮かぶ。その人の額を、畏れ多いけれど、心優はそっと撫でた。
 冷や汗をかいていて、栗毛の前髪がしめっているのが、また涙を誘う。
 心優はそこまでは護衛に行けない。行けるなら、そこで小さいままだろう栗毛のお嬢様を心優が立ちはだかって、動けない葉月さんの代わりになって幽霊と闘ってあげるのに――。
 心優の中に、初めて――。『護る』という熱い想いが湧き上がってくる瞬間だった。
「……ないてるの、みゆ……」
 か細い声が聞こえ、心優はハッとする。
 栗色の睫毛が震えて、うっすらと目を開けている。
「艦長、ご気分は」
「また、気を失ったの?」
「はい」
「そう」
 それだけいうと、また艦長が目を閉じてしまった。そして途端に青ざめた顔になって、またガクガクと身体が震えだした。
「っく、はあっう」
 首元を押さえ、また艦長が息苦しそうな顔になる。
 うそ、続けて起きるものなの!? それって身体が持ちこたえることできるの!? 心優も蒼白となる!
「ううっ、アイツが、アイツが、眠くなった途端に、来て……、笑う……、やっぱり……おまえが、いたから、艦が、こうなった……・って!」
「違います! 艦長をののしるものは、幻覚です。艦長は立派に回避されました。艦長がこの艦に乗っていたからです。大陸国のパイロットも救われたではありませんか!」
「く、くるしい……だろ、楽にしてやるって……、あのときみたいに、あのとき……みた・・いに」
 また痙攣を起こし始めた。心優は今度こそ、『悪魔払い』の意を決する!
 先ほど適量で拾って握っていた錠剤を取り出す。ペットボトルの蓋を開ける。
「艦長、失礼致します」
 アルミ箔を破って錠剤をつまみ、御園艦長の唇をこじ開けて無理矢理に薬を押し込んだ。
 それでも荒い息づかいのまま。心優はそのままペットボトルを唇にあて、ゆっくりと水を流し込む。御園准将も心優がなにをしているのか理解してくれたようで、懸命に飲み込もうとしてくれている。でも唇の端から、冷たい水がとろとろと流れ落ちていき、彼女の襟元を濡らしてしまう。しかし、ようやっと『ごくん』と喉が動いてくれた。
 薬を飲み込んでくれた合図だった。
 ガクガクと震えていた身体が徐々に静かになる。苦しそうに歪んだ表情も、穏やかになって頬に赤みがさす。
「はあ、はあ……、あの人は……どこ……」
「いまこちらに来ます。大丈夫ですよ」
「はあ、はあ……、みゆ、ありがとう……、ありがとう……」
 彼女の琥珀の目が熱く潤んで、心優を見つめながら涙を流している。それを見ただけで、心優も泣きたくなってしまう。
「あなた、つれてきて……ほんとうに、よかった……。わたし、すごく、安心している……わかる?」
「はい。お役に立てて嬉しいです。これからも、ご主人がいない時には、頼って頂けたらと思います」
「でも、わたしがいるせかい……、あなたには似合わない気がしている……。ただ、そばにいて、なごませてくれたらいいと……」
「わたし、城戸大佐の妻になります。大佐はこれから御園と共に歩むことでしょう。妻として、その世界にいることはいけないことですか?」
 まだ荒い息づかいをしているまま、でも、心優のその告白に、御園准将がびっくりして心優を見上げた。
「もう、そんなことに、なっていたの?」
「はい。陸に帰ってからと思っておりましたのに、言ってしまいました」
 すると、力無いまま床にあった御園准将の手が、そっと心優の手を探して触れた。握ろうとしているのに力が入らないようで、でも僅かに握ってくれる。
「おめでとう、みゆ……。陸に帰ったら、お祝い、させてね」
 優しい母親のような眼差しで見上げてくれている。琥珀の目が今日はとてもあったかい。生きている目。もうアイスドールのガラス玉ではない。
「じゃあ、これからは、私と一緒に……陸から、夫と空と海を守らなくちゃね」
「はい、もうそのつもりです」
 艦長の妻となるからには、覚悟しなくてはならないことがどれだけあるのか。心優はこの航海で知った。御園の世界が似合わないなんて言われるほどに、ただただ無知な軍人だった自分はもう要らない。
 この人のように、傷ついても、心優はその世界で生きていかなければならない。夫を海に送り出し、陸で夫を待ち陸から彼を守り、彼の帰還を祈り、彼が安心してくつろげる家庭を作ろう――。
 きっと琥珀の奥様も、いまはそれを夢に描いて、過酷な艦長業務に耐えている。
 でも、これからは『妻として陸で護る』ことを二人で目指していくことになるだろう――。
「葉月――!」
 御園大佐がやっと現れた。
「あなた……」
 澤村ではない、御園大佐でもない。『あなた』。ミセス准将が夫を望むその声は、しとやかな奥様の声。
 御園大佐も妻の側に駆けてきて、すぐさま床から抱きかかえた。
「悪い。もっと早くここに戻ってくるつもりだったんだ」
「ごめんなさい。一睡もしていなかったから、とても眠くなって、待ちきれなくて……。身体も温まってとても気持ちよくなってうとうとしちゃったの。そうしたら……」
 優しく抱き起こしてくれた夫の胸に、ミセス准将も柔らかに頬を寄せている。あんなに夫ではない、妻ではない、私と貴方は艦では別姓別々のものと拒否していたのに、結局のところミセス准将も夫が一緒に眠ってくれることを心待ちにしていたようだった。
「もう大丈夫よ、あなた。心優が薬を飲ませてくれたし……」
 そうして、御園准将が麗しく濡れた瞳で夫を見上げた瞬間――、また彼女が胸を荒げ始める。
「吐きそうか」
 奥様が口元を押さえながら、無言でこくこくと頷く。それを見て、心優はすかさずシドが持ってきてくれた洗面器を大佐に差し出した。
 御園准将が洗面器に顔を埋める。
「園田、もういい。あとは俺がするから出て行ってくれ」
「でも」
「誰にも見られたくない。わかってくれ」
 あの御園大佐が悲痛を滲ませた眼差しで心優に訴える。
 なにかお手伝いをしたい。そう思っていた。でも……。
「なにかありましたらお呼びください。失礼致します」
「他の幹部にももう俺達二人だけにしてくれるように言ってくれるか。緊急事態には応じる」
「了解しました」
 それだけ答え、心優は御園准将を見ないようにしてベッドルームを足早に退出する。
 ドアを閉めると、苦しそうな嗚咽が聞こえる。
『大丈夫だ。大丈夫』
 誰もが知っている『ミセス准将、ミセス艦長』は、凍った横顔で神懸かり的な指揮をする空母艦の女王様。なのに、あんな痛々しいお姿。
 見られたくない。夫の気持ちも、准将を支えてきた大佐としても、隠したいものなのだろう。
「園田少尉、遅くなりました」
 背後から急に声がして、ビクッとして振り返ると、今夜も艦長ベッドルームのドア真上にある通気口から、ミスターエドがいつのまにか着地した状態でそこにいた。
「准将をお願いします。お薬は飲ませました。また吐いております」
「すぐに処置致します。人払いをお願い致します」
「了解しました。どれぐらい」
「一時間で結構です」
 心優も頷きドア前から動くと、ミスターエドはまた音もなくドアを開け、すうっと入室していった。
『隼人様、離れておりまして申し訳ありませんでした』
『俺もうっかり離れてしまっていた。シドが抜けて、エドも警備を強化してくれていたのだろう。気に病むな。それより、頼む』
『かしこまりました。すぐに処置致します。お嬢様をベッドへ』
 艦長の秘密を閉じこめたベッドルームで、その秘密を死守している男達が動き始めた。
 心優はホッとして、プライベートルームから艦長デスク室へと向かう。
 艦長室には既にシドが戻ってきていて、橘大佐と話し合っていた。そのシドと目が合う。
「朝の四時にきっちり交代する。きちんと身体を休めておけよ。ここはもういい」
 クールな中尉殿の顔で言われる。
「かしこまりました、中尉。では、先に休ませて頂きます」
 艦長デスク室からプライベートルームへと向かう通路のドアで敬礼と一礼をして、心優は退室する。
 通路すぐ手前が心優の小部屋だった。開けっ放しになっているドアを閉め、心優は部屋に戻る。
 ベッドに腰をかけ、心優は星空の丸窓を見上げた。
 とても静か。さざ波の音がまた戻ってきた。
 あんなに忙しかったのに、もう艦長室は落ち着いている。
 この部屋で、先程まで雅臣と抱きしめ合っていたのに……。その甘さもすぐに消えてしまった。
「そうだ。痛み止め……」
 雅臣が持ってきてくれた痛み止めを、心優はやっと服用することができた。
 シドに言われたと通りに、眠くなくても横になる。
 御園准将は、いま、少しでも安心できたのだろうか? いま彼女のベッドルームは夫妻だけの空間。この世界でいちばんの存在である御園大佐に抱かれて、心安らかになれただろうか。
 あの旦那さんが来て正解だった。心優だけではどうにもならなかった。ミスターエドがいるとわかっていても、彼も空母を見守る使命を与えられていて、いつも側に控えているわけではないようだった。
 これからも、心優はこんなことに出会ってしまうのだろう。
 その覚悟……。
 今夜の風は優しい。まどろみも静かに訪れた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 アラームが鳴る前に、腕の痛みで目が覚めてしまう。
 もう丸窓は夜明けの茜に染まっていた。心優はゆっくりと起きあがり、薬を飲んだ時間を逆算して確かめる。
 服用しても良い時間だったため、ベッドサイドの棚の上に置いた薬とミネラルウォーターを手にとって飲んでおく。
 水を飲んだら目が覚めた。薄着で眠っていたので、きちんと訓練着を着込んで身支度をする。
 小部屋を出て、隣にある艦長のベッドルームを見たが、とても静かだった。きっと落ち着いたはず……。そう思いたい。
 艦長デスク室に行く。夜明けのほのかな茜に包まれているだけで、灯りがついていなかった。
 シドがいない。その代わり、艦長デスクの皮椅子に座っている人がいる。その人は丸窓へと椅子を向けていて、心優には背中しか見えない。
 ほおづえをついていて、でも俯いている。もしかして、眠っている? 心優はそっと艦長デスクへと歩み寄り、正面からその人を確かめた。
 その人は眠っていなかった。眼鏡をしたままの顔で俯いて、でも眼差しは丸窓の茜をみつめている。
「おはようございます、御園大佐」
 彼は心優の気配をとっくに感じていたのか、いきなり声をかけられたような驚き方はしなかった。
「おはよう、園田」
「フランク中尉はおりませんでしたか」
「もうすぐ園田が起きる時間なら、それまで俺がここにいるからと、もう就寝させたよ。俺も、一人になりたかったんでね……」
 紺色の指揮官服の衿が胸元まで開かれていた。着崩れしているその姿が、とても疲れ果てているようにも見えた。
「艦長はおちつかれましたか」
「うん。さっき、眠った。あの後、暫くは吐いていた。園田の部屋で世話になった時とおなじだよ」
 あの時の痛々しさを思い出して、心優も俯いてしまう。
「蒼い月だったよ、今朝は」
 蒼い月? 心優は首を傾げる。
「夜明けに、白く透けて沈んでいく月が蒼く見えるんだ。葉月は、なにかを確かめるかのようにして、夜明けの月を追いかけて家を飛び出すことが時々ある。その時、空母の甲板に行くこともある」
「それは、小笠原で、ですか? 夜明けに、空母になんて行けるんですか」
「行けるさ。海辺や港、峠の上にいくこともあるけれど、空母の時もある。准将に上りつめ、空母の甲板を指揮している彼女の特権だ。小笠原の船舶班連絡船の操縦士達もよく知っていて、夜明けに葉月がヴァイオリンを片手に現れると何も言わずに空母まで連絡船で送ってくれる。夜明けに彼女がなにかのセレモニーをしている。そう言われているよ」
 そこで御園大佐が少し黙った。話が終わったのかと思って、心優も顔を上げたのだが、彼がまた話を続ける。
「はっきり覚えている。葉月がこの儀式を始めた夜明けを。彼女を二度も殺そうとした男の刑が執行され死去した。その知らせを聞いた夜、葉月は初めて、いままで届いていた男からの贖罪の手紙の封を切ったんだ。夜明けまで食い入るように読んでいた。彼が服役している間、その手紙が何通届いても葉月は封を切らなかったのに。その男が逝ってしまってようやっと、彼の本当の気持ちに向きあう気になったのだろう。読み終わったら家を飛び出していた。俺も気付かれないように後をつけていったら、葉月は空母艦の甲板へ向かっていた。そこでヴァイオリンを弾き始めたんだ。蒼い月に向かって……」
 犯人と向きあうその気持ち。どのようなものだったのかと、心優も密かに思い馳せるが、到底及ぶはずもない。その思いは夫である御園大佐にもあるのか。
「先ほども眠る前に、その月が丸窓から見えていた。葉月も気がついて、『いつもの私の月だ』と言った途端、安心したように眠った。彼女にとって、あの蒼い月は『終わりであって、始まり』なんだろう」
 幽霊という男がいなくなる。闇が消えていく夜明け。そして、もうその男がいなくなった夜明け。夜と朝の狭間に見える儚い蒼い月。なんだか心優にも、その意味がわかる気がする。
「それを見ると安心するのだろう」
「左様でございましたか……。ひとまず、落ち着かれたようで安心致しました」
「うん」
 うんと言って、御園大佐はちいさく微笑むと、とてつもなく寂しそうな哀愁漂う横顔を見せる。
 そのまま何も言わなくなった。ただ、茜をみつめて。
「よろしければ、シャワーでも浴びたらどうでしょう。わたしがデスク室に待機しておりますから」
 紺の指揮官服の袖口が汚れていた。嘔吐する奥様のお世話で、汚してしまったのだろう。そう思ってのシャワーを勧めてみた。
 それでも御園大佐は黙って、ただただ夜明けの茜をみつめている。
 あまりにもそのままで、何も応えてくれなくなったので、心優も途方に暮れた。それなら言われてはいないけれど、珈琲を淹れてみようと心優は御園大佐から離れた。
 心優が珈琲を淹れている間もずっと、御園大佐は夜明けの空を眺めているだけだった。蒼い月はもう空にはない。茜も消えた。青空が広がっている。その変化を憂う眼差しでただただ……。
「いい匂いだな。ありがとう、園田」
「いいえ……」
 珈琲の香りに気がついてくれ、やっといつもの余裕ある微笑みを浮かべ、御園大佐が艦長デスクの正面へと向き直った。
 パソコンの電源を入れ、奥様の准将がまとめている書類を確認している。
「本日、ここは俺が責任を持つ。准将は発熱したということにしよう。実際にそうだし……。度重なる非常事態を切り抜け、気が抜けたのだろうということにしてくれ」
 途端に、大佐の顔になった。しかも艦長席にどっしりと腰を据えて、その威厳も醸し出している。
 今日、心優の直属上司はこの人になる。
「かしこまりました、御園大佐。管制室と指令室に周知してまいります」
「うん、そうしてくれ」
 御園大佐のデスクにカフェオレを置く。
 彼はもうマウスを握って、艦長業務の準備を始めている。工学科にいる人なのに、艦長業務をすぐに引き継げる力もあるだなんて……。奥様がやっている仕事をきちんと把握しているようだった。
「確認を終えたら、シャワーを浴びて着替えるから、その間は艦長室を頼む。朝食は是枝シェフには艦長室に届けるだけに留めてくれ。艦長は熱を出して胃腸も弱っていると言って、優しい食事を頼んで欲しい。朝の八時半に指令室のミーティングを行う」
 次々と出される指示を、心優も急いで手帳にメモをして、『かしこまりました』と頷く。
 御園大佐が心優が入れた珈琲カップを持つと、ようやっとホッとした表情に緩んだ。
「葉月が言ったとおりだ。なんだろう、園田に話してしまうなんて……」
 それは光栄のようで、でもとても重たいものだった。御園家の話は覚悟して聞かなければならない。そしてこれからも続くのだろう。
 でも心優には覚悟ができている。だから、ここではそっと笑って見せた。
「なかなか聞けない御園ご夫妻のお話ですね。一般隊員として忘れてしまいましょう」
 そういうと、御園大佐がちょっと面食らった顔になった。そしておかしそうに笑った顔。
「なんだ。この航海の間、随分と変わったもんだな。あー、葉月があんな苦しそうに吐いているのに、嬉しそうに教えてくれたよ。そのー、城戸君と、陸に帰ったら……って」
「え、ええ……。そうなんです」
「だからなのか。凄い覚悟を決めた女の顔だな。この男と決めた大人の女の顔だ。いい顔だ。俺も祝福するよ。帰ったら葉月と一緒にお祝いをさせてくれ」
 嬉しかった。このご夫妻にいちばんに祝福されることが。でも、まだここで浮かれてはいけない。
「有り難うございます。その前に、無事に帰還しなくてはなりません」
「真面目だなー。つまんないじゃないか。そうだ。管制室の彼に珈琲でも持っていきな」
「いえ、結構です。そんなお気遣いはほんともうやめてください。奥様の准将もさんざん気遣ってくださって、それで彼と約束するまでに至ったのですから」
「へえー。あの葉月がそんなお節介していたんだ。じゃあ、俺もお節介やりたい!」
 あの御園大佐が無邪気に張りきる姿に、今度は心優が面食らう。
「はい、これは上官命令な。行っておいで〜。俺、後ろからニヤニヤ眺めているから」
「え? や、やめてください。そんなこと」
「はい、早く行く! 行かないと無理難題押しつける」
 御園大佐からの無理難題!? ある意味、奥様の御園准将より、こちらのおじ様上司のほうが心優は末恐ろしく思うことがある。特にその策士っぽい意地悪な微笑みが一番怖い。
「で、では。お言葉に甘えて……」
 本心は嬉しかった。昨夜は雅臣からプロポーズをもらったばかりなのに、その余韻に浸る間もなかった。しかも『大佐、どうしたらいいですか』とお願いしてから、雅臣は『艦長室の対処は任せろ』と頼もしい大佐殿の顔で引き受けてくれてから、管制室にこもりっきりで顔を合わせていない。
 本当は、会いたかった。
 珈琲をもう一杯準備をして、心優は艦長室を出る。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 管制室のドアを開けると、指揮カウンターのレーダーとモニターを監視するところで、雅臣がパイプ椅子に座って眠そうにしていた。
「城戸大佐。お疲れ様です」
 雅臣が心優に気がついた。
「おう、おはよう。きちんと眠ったのか。痛み止めは飲んだのか」
「はい。痛み止めを服用したら、すぐに眠ってしまったようです。フランク中尉と交代したところです。大佐はいかがですか。お疲れでしょう」
 こちらをどうぞ――と、心優は珈琲カップを差し出した。
「ありがとう。ちょうど欲しかったところだよ。あと一時間したら橘大佐が仮眠から起きる時間だから、俺と交代してくれる」
「そうでしたか。あと少しですね」
「うん。『そちら』もなんとかなったみたいだな」
 雅臣が小声で囁いた。心優もこっくりと頷く。
「心優は……、横須賀であれを見たんだよな……」
 御園准将の発作を目の当たりにするのは、雅臣は初めてだった。彼もショックだったのか、気落ちした様子で溜め息をこぼした。
 でも心優は、決してそのような仄めかす会話もするべきではないと心得え毅然と応える。
「艦長ですが、発熱の症状がでたので、本日は御園大佐が艦長室の代理をいたします。艦長も度重なる非常事態に一睡もせずに対処されたので、疲れが出たようです。本日の指令室はその体勢で行くとの、御園大佐からの伝達です。八時半から指令室でミーティングを行います」
「あ、そうなんだ……。うん、わかった」
「艦長にご用がある場合は、御園大佐か艦長室に控えているわたくしかフランク中尉までお願い致します」
 雅臣もハッとしたのか、表情が引き締まった。
「わかった。俺が甘かった」
「いいえ……。そのことは、またいずれ聞いて頂きたいです」
「了解。もうここは心配しなくていい。園田は艦長室に戻れ」
 雅臣も管制室を護る指揮官の顔に戻ってしまった。ほんとうは会いたくて来たのに……。心優から一線を引いてしまった……。
「失礼致します」
 大佐の横顔で頷く雅臣から、心優も背を向けてしまう。そうしたら振り返った視線のその先、管制室のドアをこっそり開けてこちらを見ている眼鏡の男性と目が合ってしまう。
 本当に御園大佐が、ニヤニヤとのぞいていた! 心優は急いでドアへと向かう。
「大佐ったら。おやめくださいっ」
 管制室のドアを閉めてから、心優は御園大佐に食ってかかる。
「いやー、奥さんから『横須賀で恋仲だったと思う』と聞かされていたし、横須賀から園田を引き取った時も城戸君ったらちょーっと未練がましかったんだもんな。その二人が、ついにと思うと、オジサン感慨深い」
 またそういって胡散臭い微笑みを見せながら、心の中では任務中に隙を見せる雅臣を見てみたいと面白がっているに違いない。もしかすると『お猿な雅臣』を知られてしまうかもしれない?
「ちっとも甘い雰囲気をみせてくれなかったのが残念だなあ」
「見せませんから。もう御園大佐ったら、そうして面白がって。ご自分だってお若い時は一線を引かれていたんでしょう」
「でも、崩壊したから」
 崩壊……。なんだか心優は納得してしまう。こうして奥様の危機を嗅ぎ取って、空母艦まで駆けつけてしまった旦那様。そうして任務中の奥様のプライベートルームにずかずかと入っていって、最後はきちんと危険な状態に陥った奥様の側にいて離れなかった。
「ですが。私と城戸大佐にそれはできません」
「だよな。これからだもんな。でも、最後は自分たちが夫妻であるからこそ、その職務を全うしていけることを忘れないで欲しい」
 御園大佐のその言葉が、心優の胸を貫いた。
 とても説得力がある一言だった。それは御園大佐と御園准将の姿そのものではないだろうか。
 心優もそっと頷く――。
「はい。大佐と奥様のお姿、忘れません。お二人のことを思い出して、彼と一緒に全うしたいと思います」
「うん。これからだな。俺達も応援するよ」
 自分を空母に乗れるようにしてくれた恩師のいまの微笑みは、温かなもの。心優もつい嬉しい笑顔を見せてしまった。
 管制室のドアを閉めた通路でひっそりと御園大佐と話していたのだが、そのドアの向こうから騒々しい官制員の声が聞こえてくる。
『ADIZに五機確認』
『さらに、後方より五機、確認。間もなくADIZに侵入』
 官制員の報告が聞こえてくる。
『中央司令よりホットスクランブル』
 その声が聞こえ、心優と御園大佐は顔を見合わせた。途端に、艦内に『ホットスクランブル』の艦内放送が響いた。
 それまでふざけていた御園大佐の眼鏡奥の眼差しが鋭くなる。
 御園大佐がドアノブを握り、管制室へと颯爽と入っていく。
 心優も後追うと、雅臣がすでに無線のヘッドセットをつけて、指揮カウンターに立っている。
「よし! 雷神4号ミッキー、雷神8号ジャンボを出撃させろ」
 雅臣の声が管制室に響いた。
 御園大佐も官制員からヘッドセットを受け取り、雅臣の隣に並んだ。
「五機、五機か。先日は十機、十機の二編成で来たんだよな」
 御園大佐の確認に、後輩である雅臣もうんと頷く。
「一昨日の大量出撃では、西方から十機、北方から十機で、接触をしたのは北方の十機。西方十機はなんの接触もなく撤退という流れでした。そのうちに北方十機が挑発の末、一機がバーティゴを起こして侵犯となりました」
「了解――。おかしいな。こちらの空母はまだ侵犯機が墜落爆破した現場調査中で、一昨日と同じ位置で停泊中だ。侵犯パイロットの引き渡しもまだ終わっていないし、向こうの大陸国と横須賀司令部が交渉中で、互いに刺激をしないよう注意が必要な段階。なのに、またこうして接触を図ってくるとは……どういうつもりだ」
 御園大佐の見解に、雅臣もさらに頷いている。
「自分もそう思います。引き渡しが終わってから、いつもの駆け引きが復活するだろうと思っていたのですが……」
 今日は爽やかな青空、晴天。先日のような怪しい天候ではない。攻撃しようと思えば、もうバーティゴも起こりにくい状況。
 あちらに裏をかかれたのか?
「御園大佐。ひとまず、通例対処を通します。御園艦長もそのようにされていました」
「いいんじゃないかな。それに、俺は艦長代理ではあるけれど、空の指揮は城戸君の方が熟知していると思うから任せる。だけれど、最終判断は俺の責任になると思うから、やろうとしていることは報告をしてくれ」
「かしこまりました。艦長代理」
 艦長代理――。雅臣の隣に、眼鏡の男がインカムヘッドホンを装着した姿で並ぶ。
 その姿は奥様に負けず劣らずの威厳を放ち始めている。そして雅臣も! これはもしかして、『将来の二人』の姿ではないかと心優は錯覚してしまう。こんなふうにして、御園大佐が艦長になることもあるのかもしれない。
「キャプテン、ミッキーが五機を確認しました」
 官制員の報告に、雅臣は指揮カウンターのモニターを見下ろす。雷神4号機ミッキーのカメラが捕らえたのは、大陸国の戦闘機五機。
『キャプテン、目視で確認しましたが、こちらには向かってきません』
「そのままだ。そのまま見失わないよう、撮影を続けてくれ」
『ラジャー。キャプテン』
 御園艦長もいない。橘大佐もいない。でも、雅臣はもう一人でパイロットと共に空を護っている。
 雅臣の指揮は順調だが、それでも御園大佐はまだモニターを見て不思議そうだった。
「なんか変だな。こちらを挑発するつもりなら、侵犯してやるぞとばかりにギリギリまで寄ってくるのに、近づいてこない。でもこちらで目視できる位置で平行飛行を見せている。なにか言いたいことでもあるのだろうか」
 首を傾げる御園大佐だったが、その次の瞬間、雅臣がギョッとした顔になった。
「御園大佐、見てください」
「ん? どうした」
 雅臣がモニターに映っている大陸国戦闘機の編成を指さす。
「この並び方……、もしかして……」
「ん?」
 御園大佐はまだわかっていないようだったが、パイロットの雅臣は何かに気がついている。
 心優も彼等の後ろからそのモニターを覗いた。先程まで五機でただ水平に飛んでいた編隊が、今度は綺麗なデルタ形態に並んで飛んでいる。
 やがて、その五機の戦闘機が揃って片翼が下になるよう機体を回転、こちらの雷神4号機へとキャノピーを向ける形で『展示飛行形態』を見せた。
 御園大佐も気がついた。
「まさか……。これって……」
「どういうつもりなのでしょう。俺達に展示飛行のアクロバットを、見せるつもりなのでしょうか」
 対立国に展示飛行を見せる? 領空線ギリギリの国境で? 心優も目を丸くする。
 だが、御園大佐はすぐに何かを悟ったのか、心優へと振り返った。
「園田。艦長を連れてきてくれ」
 え!? 心優は声を失う。だって、今日はあんな艦長を見せたくなくて、必死に隠そうとしていたのに?
「ですが、艦長は……熱が出ていて……」
「いいから、連れてこい! 今すぐだ!」
 滅多に大声を張り上げない御園大佐が吼えたので、官制員達もびりっと電撃に撃たれたような驚き顔になったほど。
「かしこまりました。お連れします」
 訳がわからない。でも、大佐の厳しい命令だから逆らえない。それとも逆らうべき?
「園田。艦長に、展示飛行が始まると言うんだ。いいな」
 もう訳がわからないけれど、心優は艦長室へと戻る。
 ベッドルームをノックしても返事がない。ドアノブを握っても内から鍵をかけられていて入ることもできない。だから心優はノックを続けた。やがてドアが開くと、憔悴しきったミセス准将が辛そうにそこに立っていた。
「心優……、どうしたの。ホットスクランブルの対処、橘さんと雅臣だけでは駄目だったの?」
「特に侵犯する様子はみせませんが、そこで展示飛行のようなものを始めようとしています」
「展示飛行?」
 御園艦長も不思議そうだった。
「御園大佐が、管制室にくるようにとおっしゃっております」
 奥様の御園准将が黙り込む。夫の意図が計りかねず、でも、夫が言うならばなにかあるのかと考えあぐねている。本当はこんな疲れ果てた姿など、今日は誰にも見せたくないはずだった。
「わかったわ。すぐに行く」
「よ、よろしいのですか」
「あの人が『いまここは艦長が必要、絶対に』と判断したのよ。待っていて」
 よろめきながら、ソファーの上にある紺の指揮官ジャケットを着ようとしている。見ていられず、心優は躊躇わずにベッドルームへと入ってしまう。
「失礼いたします」
 彼女がジャケットに袖を通すのを手伝った。疲れた足取り、顔色の悪い肌、乱れた髪。それでもミセス准将はベッドルームを出た。心優も後をついていく。
 それなのに、管制室のドアを開けた途端、ミセス准将の表情が変わった。瞬時に、いつものアイスドールの揺るがない眼差しになる。
 姿は疲れ果てているのに、それだけで、いつもの艦長に見えてしまう。
「御園大佐、どうしましたか」
「お熱があるところ、申し訳ありません。見てください」
 ミセス准将もモニターを見下ろす。そして彼女も一目で驚いた顔になった。
「ミッキーとジャンボ。艦長によく見えるよう撮影をしてくれ」
 雅臣の指揮どおりに撮影される映像は、高度をグッと下げた海上へと移っている。
 しかもその映像で、領空線むこうの海上でアクロバットの演技が始まっている。
「なに、これ。どういうこと……?」
 流石のミセス准将も困惑している。
 でも雅臣と御園大佐はもう余裕の笑みを見せていた。
「先ほどまで上空でデルタ編成を見せていたのですが、彼等の誘いに乗って追っていくと、高度を下げて海上まで降ろされました。そうしたら、展示飛行が始まりました」
 雅臣の笑顔の報告にも、ミセス准将は戸惑っている。
「艦長へのお礼ではありませんか」
 御園大佐の報告にも、ミセス准将はまだ飲み込めない様子だった。
「キャプテン。国際緊急チャンネルから通信が……。発信元を告げませんが、こちらの空団宛に呼んでいます」
 官制員の報告に、雅臣と御園大佐が『やっぱり』と意志を揃えた姿で頷いている。
「艦長にヘッドセットを」
 御園大佐の指示に、すぐにミセス艦長にヘッドセットが渡された。
 ミセスがヘッドセットをつける。
「こちら日本国、」
 艦長がいつも通りに、こちら空団の名を告げる。
『ありがとう』
 あちらからの声が届いた。
 日本語でそれだけ告げると、それっきり……。それ以上の声はもう届かなかった。
 どこの空団とも告げず。それだけ。
 どこの誰か判ったら困るのかもしれない。対立している国にお礼なんて言ってはいけないのかもしれない。
 でも、それで、充分なのだろう。
 官制員も、舵を握っているラミレス航海士長も、雅臣も嬉しそうに微笑んでいる。
「艦長、よろしかったですね。ほら、見てください。綺麗なあのレインフォールを」
 垂直に降下し、五機がそれぞれの方向に開花、上昇する。雄大な滝のような飛行から、レインフォールと名付けられた飛行。
 御園大佐も嬉しそうに微笑んで、力無く立っている奥様艦長をそっと支えるように抱き寄せた。でも誰も、そんな大佐と艦長の姿に驚きもしなかった。まるでそれが当たり前のようで、そして自然に溶け込んでいる。
「見てください、艦長。あれはサンライズでは!」
 雅臣も繰り広げられる展示飛行に、パイロットとして興奮してしまった様子。
 サンライズは、レインフォールの反対。今度は垂直に五機ともに上昇し、上空で開花する演技。その対照するものを組み合わせた演技は、見応えがあった。
「レインフォールにサンライズ……。やってくれるわね……」
 艦長はそれをじっと見つめている。そして目元を指で押さえている。そこに小さな滴が光ったのを心優は見逃さなかった。
 悪魔に襲われても、向こうの国とギリギリのせめぎ合いの対立をしても、でも時々空には真っ白なものが舞い降りてくる。ミセス艦長に笑顔が戻る。

 

 

 

 

Update/2015.9.8
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