◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 42.ただいま、横須賀!  

 

 航海は長い。家族とも思うように連絡が取れず、いまどこにいるとも告げられず、いつ戻るとも明確にできず数ヶ月単位での任務。
 だから艦の男達も女達も、他愛もないことで遊びたがるもの。橘大佐が先導していた『園田少尉が大佐殿を選ぶか若き傭兵王子を選ぶか』なんて賭け事で盛り上がるように……。

 御園大佐が本日の午後、補給艦に乗り換え、一足先に陸に帰る。
 本日も心優は朝方早くに、シドと護衛の交代をした。
 徐々に明るくなっていく艦長デスク室の清掃を早めにして、自分のデスクと艦長のデスクの書類を整え、始業前に夜の間に各部署でアップされた必要なデーターを拾い上げ確認をして揃えておく。
 時計を見ると六時半。そろそろどちらかがこの艦長室にお姿を現す頃……。
 だいたいが奥様が先に起きてきて、その後、ご主人があくびをしながら艦長室にやってくる。奥様は軍人体質で決まった時間に目を覚ましてしまい、ご主人は若い頃から宵っ張りとのことで深夜まで事務仕事をしていることが多い。
 奥様にまずは冷たいレモンウォーターでも……。心優は氷を準備し、レモンをスライスして、ウォーターピッチャーにミネラルウォーターを注いで、ミセス艦長がやってくるのを待つ。
 六時半、六時四十分、六時五十分……。
 あれ? どうしたのだろう。心優は首を傾げる。
 ついに七時になってしまう。是枝シェフが朝食を持ってくる時間だった。今朝もご夫妻二人だけで食事をしてもらい、心優はカフェテリアで食事をする予定。
 早く行かないと、数が少ない和食のメニューがなくなってしまう。
 御園家の朝は洋食のようで、是枝シェフもそれに習って航海中はほぼ洋食で準備をする。
 確かに美味しい。優雅な朝を満喫できる。海外生活が長かったファミリーらしい朝食ばかり。でも心優は日本食が恋しくて恋しくてたまらない。夕食で和食も出る。そうではなくて、『日本の朝ご飯』が食べたい!
 しかも物資補給をしたばかりで、きっと目新しいメニューが出てくるはず!
「おはよう、園田。悪い……。遅くなった」
 眼鏡をしていない御園大佐が、あまり身なりも整っていない状態で現れた。
「おはようございます。いつもの起床時間ではなかったので、どうされたのかと案じておりました」
「あー、大丈夫。寝過ごしただけだ」
 寝過ごした? うん、御園大佐は夜更かしをするからそれもアリかと心優は思う。
「艦長はいかがされましたか」
「あー……、うん、寝てる、かな」
「そうなのですか。滅多にないことです。やはりまたどこか具合でも」
「いや、それは大丈夫!」
 妙に力んだ返答だった。しかも御園大佐はバツが悪そうに眼鏡をかけると、やっとなんとか心優にいつもの余裕の笑みを見せてくれる。
「いいよ、ここは。葉月も俺がたたき起こしておくから。もう今夜のうちに補給艦に乗り移ろうと思っているんだ。だから、昨夜のうちにいろいろと話していたら遅くなってしまってね」
「左様でございましたか。了解しました。それではお願いいたしまして、わたくしも食事に行ってまいります」
「おう。ゆっくりしておいで」
 ゆっくり? 食事が終わったら朝の仕事で忙しくなるのに? 機敏に行動しろと言いそうな大佐らしくないと思いつつも、心優の身体がいま一番欲しているものへとまっしぐら。日本の朝ご飯を目指してカフェテリアへ向かった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 やっぱりあった! さすが岩国基地から届いただけある。瀬戸内産の『釜揚げしらすの大根おろし』! しかも香川のダシ醤油付。
 デリカテッセンビュッフェになっているカフェテリアの朝食。和食コーナーにも金髪茶髪のアメリカンもちらほら。
「へえ、ミユはそれを取るんだね。よし、俺も挑戦しよう」
 並んでいた後ろからそんな声が聞こえてきた。
「ラミレス中佐、おはようございます」
 いつもブリッジで舵を握っている航海士長だった。彼もトレイを持って、白飯や温泉卵や筑前煮を並べていた。
「中佐も和食ですか」
「うん。ミセス准将と同じ艦になった時の楽しみだよ。今日は物資補給で、きっとまた見たことがない和食が出るだろうって楽しみにしていたんだ」
「わたしもです」
「それで、その白いちっこい魚?? 白い雪のようなのは大根おろし?」
「そうです。これを干したものが『ちりめんじゃこ』と呼ばれています。お醤油をかけてそのままでも、ご飯にかけて食べてもおいしいです」
「よし、それにチャレンジしてみよう」
 同じ時間に出会ったので、そのまま航海士長と一緒に食事をすることになった。
 並んで食べていると、父親と娘のよう。
「昨日は大騒ぎだったけれど、ミユ、おめでとう……でいいかな」
「ありがとうございます。ですが、もう……本当に申し訳ありません。皆様がご家族と離れてぐっと堪えて航海をしているのに、個人的な城戸大佐との関係を目につくようにしてしまって」
「いやいや、なかなか楽しかったよ。ああいうのも、限られた海上生活をしている男達の楽しみ方でもあるんだよ」
「はあ……。でも、お恥ずかしい限りです」
 それでもラミレス航海士長は、優しく笑っている。
「ほら。橘大佐のせいだね。クルー達もミユを気にしている」
 本当にカフェテリアに来るクルー達が、ちらちらと心優を見たり、にっこり微笑んでグッジョブサインをくれたりしてる。もう頬が熱くなる。
「今回の航海での、話題賞はミユに決まりだな。傭兵を制圧し艦長を護った凄腕で空手家の新人護衛官。エースパイロットだった大佐殿のハートをメロメロにして射止めた女の子」
「もう〜。ほんとうにお許しください。こんなプライベートなことで話題になっては、任務遂行中になにをしているのかと艦長にも叱られてしまいます」
「まさか。ミセス艦長が実はいちばん喜んでいるんじゃないの。しかも、副艦長の橘大佐が認めた話題(噂)なんだから、いいんじゃないのかな」
 実は『流れてもいい噂』として橘大佐が『これ以上雅臣が他の男に嫉妬しないよう、心優ちゃんは先約済みってことで拡散しちゃえ』とわざと官制員クルー達にやらせたことだった。
 昨夜、それを橘大佐から聞かされて、雅臣と一緒に『なにをするんですか!』と抗議をしたけれど、雅臣はまんざらでもない様子で『まあいいか。腹括ろう』なんて言っていた。その後も、御園准将に呼ばれ『管制室のクルーから聞いたわよ。雅臣が盛大なサンセットプロポーズをして、約束のブラックオパールを貴女にプレゼントしたんですってね』と、とっても嬉しそうな笑顔で聞いてきた。プロポーズはその前に正式にもらっていたが、こうなると昨夜のサンセットプロポーズが正式のようにしてクルー達が盛り上げてしまっている。雅臣はもうただただデレデレしているだけで、『臣さん、大佐殿じゃなくて、クルーの前でもお猿さんの顔になっちゃってる』と心優はちょっと心配していた。
 ミセス准将が『雅臣ったら、やる時はやるわね。女の子にとっても疎そうだったのに』なんて、雅臣の男性としての本質を見抜いていたのでやっぱり雅臣よりずっと年上のお姉様なんだなあと、心優は感心するばかり。
 しばらく、呼び止められるたびに、このことをクルー達に聞かれたり説明しなくてはならなくなりそう。
 ラミレス航海士長との朝食を終えて食器を片づけ、そこで別れた。士長がいなくなったのを見計らったようにして、航空燃料給油係のパープルベストを着ている甲板要員の女の子達が心優を見つけて近寄ってきた。
「おはようございます。園田少尉」
「今朝はこちらで食事なのですか」
「おはようございます。今朝は御園のご夫妻だけで、ゆっくりお食事をとってもらうことにしています」
 非番の日、心優は時々共用のランドリーに足を運んで彼女達と交流していた。そこで、空母で働く女の子達の本音を聞いてミセス艦長に報告するとすぐに改善してくれたりするし、ミセス艦長も配下の女性達の意見を参考にしていることが多いためだった。
 彼女達も『園田少尉に相談すれば、艦長まで直通』ということを良くも悪くも心得ていて、でも、そのパイプを上手く使ってくれている。心優はそれでいいと思って交流してきた。
「少尉はお一人なのですか?」
 彼女達がキョロキョロと見渡す。どうしてなのか心優はわかってしまい、密かに苦笑い。
「フランク中尉なら、いま仮眠中なの」
 彼女達が一気に残念そうな顔になる。
 でもそのうちの一人が元気を取り戻したように笑顔になり、そのまま心優に詰め寄ってくる。
「あの、管制室のクルーが昨日賑やかにしていたのですが、園田少尉と城戸大佐が結婚を約束されたって本当なのですか?」
 ああ、やっぱり。艦の中でも、男でも女でも、優秀なクルーであっても、『噂』ってあっという間だなあと、心優はげんなりしてしまう。
「そうなの。陸に帰ってからと思っていたのに、橘大佐が面白がって騒いでいるの」
「いいじゃないですか〜! 聞きましたよ。ブリッジの夕暮れの中、素敵なペンダントをプレゼントしていたって。城戸大佐ってロマンチックなんですね」
 あのお猿さんがロマンチック? 今回はたまたまそうなっただけで……。ううん、やっぱりお猿さん、頑張ってくれたんだと心優もその気持ちがやっぱり嬉しい。
 でも。女の子達が一緒に嬉しそうにしてくれるのは、祝福だけではないことを心優はわかっていた。彼女達が目を輝かせて、心優に確かめる。
「フランク中尉は気にならなかったんですか? 城戸大佐より若いし、金髪とアクアマリンの目をした王子様みたいで、でも凄腕の海兵隊員で、養子とはいえ大将のご子息なんですよ」
 やっぱり彼は王子様と彼女達が色めき立った。遠くから眺めていると、シドは凄く素敵な男性に見えるんだろうなあと思うし、実際に魅力的な中尉であることは心優も認める。でも!
「うん。わたし、年下の男性より、大人の男性がよかったの。城戸大佐は上司でもあったし、その頃から憧れていたから、フランク中尉はまったく……。時々、気が合わなくて喧嘩もしちゃうし」
「でも、フランク中尉と園田少尉は、とても息が合っているようにお話しされていますよね。フランク中尉、普段はとっても無口なのに……。それだけ気があっているのかなってみんなと言っていたんです」
「からかっているだけよ。女性をからかって楽しむところがあるのよ。あなた達も気をつけてね」
 えー、それでもいいから話しかけて欲しい! と彼女達は言いながらも、心優とシドの関係がなんでもないと知ると『城戸大佐とお幸せに』と祝福をして行ってしまう。
 はあ、シドなんか相手にしたら、どれだけの女の子が泣くことやら。危険な男だから夢見る女の子のうちにやめておいたほうがいいよ――と言いたいのに言えない。
 どんな年代の女性も経験してきた守備範囲の広い、強引な男だとまだ誰も知らないんだろうなと、彼女達がシドと接触しないよう祈ってしまいたくなる。
 でも女の子達は、シドが誰とも結婚しない間は王子様に恋をしていくだろう。シドは餌食にするんだろうなと思いついてしまうところが、もうシドという男を知ってしまった心優の感覚。やっぱりあの男は誰も自由にはできないだろうと思ってしまう。
 彼にも幸せになって欲しいのだけれど……。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 食事を終え、艦長室に戻ってみて、心優は目を見張る。
 いつも食事をしている窓際のテーブル、そこに食事が置かれたままになっていて、ご夫妻の姿がない。
 それでも、どちらかお一人だけ食事をしている食べかけのお皿だけがある。
 もしかして。御園大佐だけが食事を済ませていて、奥様はまだ起きていない? それとも食事をしていないだけ?
「おっはようございます」
 艦長室のドアが開き、そこへ白い飛行服姿の鈴木少佐が現れた。
「おはようございます。鈴木少佐。いかがされましたか」
「今日中に隼人さんが補給艦に乗り換えて陸に帰るって聞いたから、挨拶に来たんだけど……。あれ?」
 鈴木少佐もパイロット仕様の腕時計を見下ろして首を傾げている。
「葉月さんは? もうすぐミーティングの時間じゃないの、隼人さんもいないってどういうこと?」
「お二人だけでお食事をしていただいて、わたしはカフェテリアから帰ってきたところです。そうしましたら、お食事は済んでいないご様子で、お二人ともいらっしゃらないし」
 すると、鈴木少佐の表情が曇った。
「ま、まさか。また……? この前、なったんだろ?」
 心優も気がついて血の気が引いた。
 では、いまベッドルームでまたお二人だけで対処している!?
 鈴木少佐と顔を見合わせ、二人揃ってすぐさま艦長ベッドルームへと向かう。
 艦長ベッドルームのドアを心優はノックする。
「御園大佐。どうかされましたか? お食事がそのまま……」
 それだけでドアが開いた。
 ドアが開いたかと思うと、眼鏡の大佐がすぐにサッと部屋から出てきてドアを閉めてしまう。
「なんでもない。艦長が寝坊しているだけだ」
 しかも、鈴木少佐が一緒にいることに気がついて、あの大佐がギョッとした顔になる。
「英太。なんだ、こんな朝早くから訪ねてきたりして。おまえ、今日は非番なのか」
「そうだよ。しばらく指令室とブリッジは緊急事態体勢だったから、許可がないと近寄れなかったんだよ。ラングラー中佐に聞いたらもう大丈夫だって教えてくれて、しかも隼人さんが今夜はもう補給艦に乗り換えて陸に帰るって聞いたから会いに来たんだよ」
「それは、それは……。よっしわかった。俺とお茶をしに行こうな」
 そういうと、御園大佐は自分より背が高い弟分の少佐の背を押して、ベッドルームから遠ざけようとした。
「え、あ、葉月さんは? 侵犯措置以降、ゆっくり話せていないんだよ。また、危なかったんだろ。苦しかっただろうって、俺、話したくて」
「俺が帰る前に頼みたいことがあるから。英太じゃないと頼めないことなんだ」
「俺じゃないと? うん、わかったよ、もう」
 そういって白い飛行服のパイロットの弟分を御園大佐は連れ出そうとしている。
「あ、園田。悪い。艦長の寝起きが悪いんで後を頼んでいいか」
「それは構いませんけれど……」
 なんかいつもの御園大佐ではない気がする? そんな眼鏡の大佐が『悪いな』と心優に拝み倒して鈴木少佐と出て行ってしまった。
 心優はさらに首を傾げる。それでももう起きて食事を急いでしてもらわないといけない時間。心優は思いきってノックして、少しだけドアを開けてみる。その隙間から声をかけてみた。
「艦長、失礼いたします。そろそろ八時になりますよ」
 なのに。返事がない。これはおかしいと思ってドアを開けて部屋を覗いてみる。
 丸窓が開いていて、爽やかな春の風が入り込んできている。高知沖の潮風は温かで、春といえども今朝はもう初夏のような陽気。その下にあるベッドにも、明るい陽差しがこぼれている。
 でも心優はそのベッドを見て、何も言えなくなってしまった。
 そこに素肌の栗毛の女性が、白いアップシーツにくるまって、すうすうと眠っている姿が……。
 それを一目見ただけで、心優は察してしまう。それと同時に、あの眼鏡の大佐が今朝から様子がおかしくて、しかも鈴木少佐を慌てるように遠ざけたわけもわかってしまう。
 心優も他人事ながら、ちょっと頬が熱くなってしまった。
 昨夜、ご夫妻がこの部屋で愛しあったんだということに――。
 もう〜、御園大佐ったら。やる時はやるんだから。しかもわたしにこんなご夫妻の後始末を押しつけていった!
 しかしそれも信頼されている証拠、でもある。心優は気を取り直して、ベッドルームにお邪魔した。
「艦長。葉月さん。もう八時ですよ」
「う〜ん、頭いたい……」
「え、そうなのですか。頭痛薬でも持ってきましょうか?」
「いい。もう、起きられるから」
 そういって、素肌のまま栗毛の女艦長がむっくりと起きあがった。
 きちんと胸元を隠して起きあがってくれたけれど、それでも、明るい陽差しの中で彼女の身体のあちこちにある傷跡がはっきりと浮かび上がる。
 いつか心優が目の当たりにした左肩と胸元の傷だけじゃない。背中、肩にも銃創がある。腕にも傷跡が……。まるで彼女の戦歴のようだった。
 なのに。どうして? 素肌で白いシーツにくるまっている母親のような女性が、すごく綺麗に見えるのは何故?
「レモンのお水、持ってきますね」
「うん、ありがとう……、心優」
 夫との睦み合いの後を見られてしまっても、御園艦長は落ち着いている。
 レモンウォーターをベッドルームに持って戻ると、御園艦長は水色の薄い綿ガウンをさらっと羽織った姿で、ソファーに座っていた。
「頭痛がするとのことで、ミーティングはおやすみされたらどうですか。御園大佐にお任せしたらどうでしょう」
「そうする。あの人のせいでこうなったんだもの」
 心優に見られてもまったく動じていない。
「お水をどうぞ」
 レモンスライスが入っている水のコップを差し出すと、彼女がそれを一口飲んだ。やっと目覚めたスッキリした顔になっていく。
「心優、ごめんなさいね。こんなみっともないプライベートの姿を見せてしまって……。そんなつもりじゃなかったし、毎晩そうなっていたわけじゃなくて、ほんと、その……あの……昨夜だけ……」
 やっとミセス准将がらしくなく頬を染めて口ごもった。
 アイスドールに血が通ったかのように初々しい薔薇色の頬になっている。
「よろしいのではないですか。御園大佐も我慢ができなかったのでしょう。また一ヶ月も奥様が防衛最前線で精神を律して任務を全うしようとしていると思ったら、ご主人として心配だったのでしょう。愛してあげたかったのでしょう」
「わかってるんだけれど……。だめって言ったんだけれど……」
 心優は何とも思わない。それが夫妻として普通のことで大事なことじゃないかと思うだけだし、これでミセス准将がまた頑張れるなら、一線を越えることをやってのける御園大佐によくやったと拍手をしたい程だ。
 そして……。ちょっぴり羨ましかった。そんな夫妻の姿が。
「鈴木少佐が早くお話したい様子でした。落ち着いたら艦長からお声をかけてあげてください」
「うん、わかったわ。私も暫く英太とは話していないから会いたかったの」
「ご主人がいる間、遠慮していたかもしれませんよ」
「そうね、きっとね」
 そこはちょっと申し訳なさそうな顔になった。もともとある鈴木少佐の想いを御園准将はきちんとわかっているのだろう。
「はあ、近頃は時々だけれど朝がだめになっちゃって……、寝不足になると覿面(てきめん)なのよ」
 そういって准将はこめかみを押さえて頭痛に耐えている。
「では、せっかくですから。ゆっくりしてくださいませ。お食事はこちらに取り分けて運んでまいりますね。指令室の男性達にはうまく誤魔化しておきます。ゆっくり身体と頭も目覚めたら、ゆったりとデスク室にご出勤ください。また明日からご主人がいない日が始まるのですから」
 テキパキと身の回りの世話をする心優を見て、准将がふっと笑った。
「テッドとは違うわね。やっぱり。テッドだったら絶対にこんな姿見せられないもの。彼も察しても、決して見ようとしないし見なかったことにするし、素知らぬ顔を必死にしてくれると思う。だからって、心優に見せてよいってわけじゃないけれど……」
 女性秘書官が側にいる場合と、男性秘書官がいる違いをそこにかんじているらしい。
「せっかく女性としての秘書官を必要としてわたしを横須賀から引き抜いてくださったのですから、そこは存分にお使いください。それに……わたしも……」
 心優もちょっと言いにくいなと口ごもる。それでも。
「わたしもこの航海中、艦長に女性としての気持ちを汲み取っていただいて、だから城戸大佐への想いが通じました。ですから、これからも女同士でお願いいたします」
「そうね。甘えてしまいそうね」
「こちらこそ、お母様として頼りにしております。いえ、お姉様としても」
「そんなに気を遣わなくていいわよ」
 艦長が笑って、やっとすっきりしたように薄いガウン姿のまま立ち上がる。
 もう一つの開いている丸窓まで行き、そこから入ってくる朝の潮風にあたろうとしている。窓辺に立つと、彼女の栗毛がさらっとそよぐ。白い肌にすっとした綺麗なカラダに、上品な水色のガウン。その立ち姿はまさに美麗な奥様だった。
 なのに瞳が、心優がよく知っている凍った琥珀に戻っている。
「心優。私の航海はもうすこし続きそうよ。これからもお願いね」
 男達にすべてを譲るまではまだもう少し時間がかかる。准将がまた空母の艦長として任命される時はまだやってくる。
「わかっております。これからも准将のお側についてまいります」
 さらに彼女が海に視線を馳せたまま告げた。
「次の航海では、雅臣を副艦長として連れていこうと思っている」
 心優は目を瞠る。この航海で雅臣が艦長として素質があると認められたことになる。
「妻になる女として、覚悟はできているわよね、心優」
「もちろんです」
 夫が海軍の空母艦艦長であって、妻の自分は海軍准将の護衛官。夫妻で防衛最前線に挑む軍人である以上、平穏ばかりの結婚生活ではない。穏やかな時間ばかりではない。その覚悟をもって、妻となれるか。軍人ではない、結婚する女としてミセスに問われている気がした。
「覚悟はできております。准将殿」
 心優は彼女に敬礼をする。
 それがソニックというパイロットを愛した女の覚悟。

 その日の午後、御園大佐は黒ネクタイと黒い肩章付の白シャツ制服に着替えて、空母艦を後にする。
 別れ際、奥様がいつもの澄ました顔になっているのをみて、ちょっと寂しそうに笑った眼鏡の顔が印象的だった。
「園田。今朝は有り難うな。うちのウサギを頼んだよ」
 無意識じゃないのかな? 彼の大事なウサギを託された。
 次にお二人が夫と妻の顔で会えるのは、横須賀の港。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ホットスクランブル!
 太平洋上を航行中でも、東シナ海や房総沖への侵犯措置への指令が飛んでくる。
「キャプテン。ビーストーム1号、2号、行けます」
「1号が措置、2号に撮影を。いつもの『ご挨拶』も忘れるなよ」
 そこに一人で立って出撃命令を飛ばしているのは、雅臣だった。
 その後に、御園艦長と橘大佐がやってくる。
「どう、雅臣。いつものスホーイかしら?」
「大丈夫です。今日は水曜日なので、急行なのでしょう」
「相変わらずだな。しかし、水曜日の急行に出会えるってことは、東に帰ってきたってことだな」
 橘大佐もそろそろ横須賀だと、どこか嬉しそうだった。
 東京方面へと決まった曜日に南下してくる北方の偵察飛行は、随分と昔からお決まりだった。
 しかしもうアジアの大陸国とのミグやスホーイ接触ではなく、北方大国のスホーイとの接触になってきている。
 空母はもう伊豆沖まで来ていた。
 そして雅臣も管制室を一人で任されるまでになっている。
『キャプテン。捕捉されました』
「やり返してやれ。いつものようにな」
『ラジャー、キャプテン』
 雅臣はパイロット達が憧れたエースパイロットだった男、その男が声だけでも側にいる、空母艦のブリッジから自分たちを見守ってくれている。その信頼がこの二ヶ月ですっかり出来上がっていた。
「ソニックの声が、どれだけ最前線に生身で向かうパイロットの助けになっているか。わかるかしら?」
 満足そうな艦長の笑み。
「コックピットではなくても、空を飛んでいる。そんなことあるものかと思っていましたが、間違いでした」
 無線のインカムヘッドセットをした雅臣のシャーマナイトの目は、パイロットと同じヘッドマントディスプレイのデーターを見据えている。
「彼等と一緒に、俺もいま領空線にいます」
「そうね。彼等と飛んでいるわ。私達……」
 二人が指揮カウンターで並んでいる姿を心優も見つめる。
 もうすぐ艦長と副艦長という師弟になる二人は、いま一緒に空へと飛んでいる。

 

 伊豆大島が見えてくると、横須賀はもうすぐ。

 

今年の桜は早かった。心優がいない花見もいままではあったが、それでも母さんが今年は今まで以上に寂しがっている。
沼津の家の庭には、母さんの薔薇が咲き始めた。いつになったら心優が帰ってくるのかと、母さんは季節の移り変わりがいまは辛いようだ。
メールだって送っても届かない時がある。心優の返信が半月後に来たこともある。手紙はもっと時間がかかるとお父さんが言うし、電話だって通じない時がある。こんなの『送ることができる』だけで、届かないなら意味がないと機嫌が悪い。
父さんも海軍の端くれ。航海はそんなもんだと母さんを宥めている。
横須賀の帰還には、母さんと行くからな。御園准将と橘大佐、そして城戸大佐にもよろしく。

 

「もう知らせも届いたよね。お父さん」
 太平洋上の航行は順調に進んだ。艦長の電波遮断も僅かになり、メールが送りやすくなると父からそんなメールが届いた。
 父から送ってくれることは初めてだった。母がそれだけ心配しているのだろう。
 怪我をした腕も癒えて、傷跡が少し残っているだけ。
 母には艦で起きたことは業務上伝えることはできないが、伝えたとしても『もう空母には乗らないで』と泣きつかれそうだから、どちらにしても言えないなと心優は溜め息。
 父は知っているのだろうか。知らされているのだろうか。こうしてメールを父から送ってくれたのがちょっと気になっている。
 ――ミユ、支度はできたのか?
 ベッドルームの外から、シドの声。
「はい。ただいま」
 ひさしぶりの白いシャツ、黒いネクタイ。鏡に向かい、心優は白いジャケットを羽織る。そして黒いつばの白い制帽を被る。最後に白い手袋をはめて部屋を出る。
 その時、心優の片手にはスーツケースとボストンバッグ。
 小さな小さなベッドルーム。お気に入りは空が星が月が夜明けが夕暮れが見えた丸窓。ドアを開けて外に出る時、心優は振り返った。
 ついにこの部屋を後にする。本日、正午に横須賀港、横須賀基地に帰還する。
「おまたせいたしました」
 艦長デスク室に行くと、そこにはまばゆい『真っ白正装服』に整えた上官達の姿が揃っている。
 御園艦長はもちろん、もうすぐ婚約者に会えると男前に整えた橘大佐。ラングラー中佐も奥様と息子さんが迎えに来るんだと、今日は怖い顔ではなくてパパの顔になっている。さらにシドも。伸びた金髪の前髪を綺麗に横流しにしてかっこつけて、引き締まった肉体を真っ白な制服で包みこんだ黒ネクタイ黒肩章の姿は、やっぱり王子様。これはまた女の子達が大騒ぎだなと心優は苦笑いになってしまう。そして、心優が最後に惚れ惚れみとれてしまうのは、やっぱり旦那様になる雅臣殿。なんといっても、愛嬌ある爽やかな笑顔、エースパイロットのまま保ってきた肉体の凛々しい立ち姿。
 そんな心優の視線に、誰もが気がついて、やっぱりニンマリした顔を揃えられていた。
「葉月ちゃん。お出迎えの時の並びは、中央が葉月ちゃん、両隣が俺と雅臣。で、雅臣の隣はもちろん心優ちゃんで決定だよな」
「そうね、異存なし」
 シドは未だに面白くなさそうな顔をするけれど、ラングラー中佐は『いいですね』と優しく笑ってくれている。
 雅臣も嬉しそうで、心優はまだちょっと照れくさい。けれど、大佐殿の隣で敬礼をして横須賀に帰れることは感慨深く、そして、やっぱり幸せ……。
「あと一時間で横須賀沖よ。まず迎えの護衛艦に乗り移り、護衛艦で横須賀港に入ります。そこで家族の出迎えがあるので、また甲板に整列するように」
 この空母は港には入れないので、横須賀沖で停泊。任務を終えるがフロリダ基地港のドックに入るため、そのためだけの航行をする。この艦を下りる時に、フロリダ基地出身のアメリカ人艦長と交代をする。
 フロリダから来た隊員達はその艦長と共にフロリダに帰還する。ここでお別れだった。今朝も心優はカフェテリアに出向いたが、そこで仲良くなったアメリカ人の女の子達と涙の別れをしてきたばかり……。
「私達指令部と管制室にいたクルーは、すぐには小笠原へは帰還せず、明日からの査問会に行きます。そこで一ヶ月前の侵犯措置と不審者侵入時の査問が行われます。思ったままを見たままを報告して結構です。それで大丈夫です。後のことはわたくしが引き受けます」
 『イエス、マム』指令部の男達が声を揃える。
 その査問の為に横須賀に二泊することになってしまった。それぞれ寄宿舎の部屋を用意されている。出迎えの家族に港で出会えるけれど、査問が終わらなくては基地の外に出してもらえない。
「査問後、私達は十日の休暇が与えられるけれど、皆はその後はどうするの。私は横須賀の実家に寄ってから小笠原に帰るわ」
「自分は家族と共にすぐに小笠原に帰ります。准将が留守の間に秘書室を整えておきますのでご安心ください」
 ラングラー中佐は査問が終わってすぐに直行便で帰るという。
「俺は真凛の実家に挨拶をして、俺も横須賀が実家なんで母親に会ってから小笠原に帰る」
 橘大佐も家族との時間を過ごしてからの小笠原帰還。
「自分も家族に会ってからにします。あとで御園のおじ様にご挨拶に行くと伝えてください」
 シドの家族とか実家の形態がよくわからないけれど、シドも横須賀で用事を済ませてから帰るとのこと。
 そして、雅臣は――。
「査問が終わったら、園田と共にすぐ小笠原に帰る予定です。一緒に暮らす準備をします」
 心優も一緒に頷いた。
 そこで御園准将がちょっと心配そうな顔をする。
「あなた、浜松のご両親はどうされているの。それから……、お節介だと思うけれど……。心優のご両親には……?」
「港ですぐにご挨拶するつもりです」
 そこにいる雅臣の先輩方が面食らった。
「おい、雅臣。俺だっていまから彼女の実家に日を改めてご挨拶に行くんだぞ。おまえも沼津まで行った方がいい」
「母にはもうメールで伝えています。園田のご両親は本日の帰還出迎えで港に来るとのことなので、日を置かずに伝えるつもりです」
 そして雅臣が笑顔でミセス准将に伝える。
「夏の長期休暇で、園田を連れて浜松の実家に帰ろうと思っています。その時に挨拶に行きます」
 雅臣が実家に帰る決意をした。心優を連れて結婚の報告をすると。
 やっとミセス准将が安心したのか優しく微笑んでくれる。
 真っ白な正装姿の凛々しい大佐殿。彼が白い手袋の手で、心優の手を握ってくれる。
「さあ、帰ろう。心優。お父さんが待っている」
「はい、大佐」
 そんな二人を、准将も橘大佐もラングラー中佐も、そしてちょっと口を尖らせているけれど見守ってくれているシドも。笑顔でこれからの二人の出発を見届けてくれる。

 甲板で艦長の交代式を済ませ、アメリカ行きを任せる金髪の准将と御園准将が交代をした。
 それと同時に、艦を下りる者は本日全員護衛艦へと乗り移る。空母は明日から艦載機の入れ替えをするため、暫く停泊をしてからフロリダへと帰路の出航をする。
 今日は雷神のパイロットも相棒である戦闘機を置いての下船となる。まずは査問委員会へと彼等も招集されていた。
 鈴木少佐も真っ白な正装服で、今日はひとまず艦を下りる。相棒の『バレット機』は明後日に雷神のコックピットに乗り込み空母から発進し、そのまま雷神機のフライトで小笠原に帰る予定だった。
 あの日を思い出す。真っ白な正装をして、初めて甲板に立った日を。すれ違う護衛艦から見えたお世話になった上司の敬礼と、父の敬礼。そして、見送りの汽笛。
 まだ春が来たばかりの三月だった。でも、今日の甲板は暑い。横須賀の陽差しはもう初夏。
「全員、整列!」
 ラングラー中佐の掛け声で、下船する隊員が甲板や上階のデッキへと並ぶ。
 御園艦長を中央に、両脇には大佐殿二名。その大佐殿の隣に心優も並ぶ。
「ほら。見えてきたわ」
 アイスドールだった艦長の頬が緩む。凍っていた琥珀の瞳が温かな潤みをみせる。
「全員、敬礼!」
 今日は『ただいま』の汽笛が青空と海原に響き渡る。
 護衛艦が人々が群がっている桟橋へと徐々に徐々に近づいていく。近づいてくると、家族が出迎えている先頭に見慣れた眼鏡の人がいた。その人も今日は白い正装で、こちらに敬礼をしている。艦長の家族が先頭、御園大佐がそこにいた。その人の隣には若白髪の海東司令もいて彼も真っ白な正装で待ちかまえている。
 彼等の表情がわかってくると、眼鏡の大佐の隣には栗毛の少年が静かに立ってこちらを見ている。御園家長男の海人だった。御園大佐の隣にはさらに、少しお腹が大きくなっている女性も立っていた。
「真凛……」
 橘大佐が彼女を見つけた瞬間だった。初夏の清楚なワンピースを着ている彼女は基地で心優が見ていた仕事真面目でキャリア女子の彼女の雰囲気ではなかった。すっかり優しい女性の顔になっている。
 彼女も橘大佐を見つけたのか優しく手を振っている。
「真凛!」
 いてもたってもいられなかったのか、橘大佐が敬礼を解いて制帽を手に取り派手に振り始めた。
「ちょっと橘さん。海東司令がいるのに……」
 そういった御園准将も次には悪戯っぽい笑みを浮かべて『私も』と制帽を取りさってしまう。
「海人ーー。ただいまーーー!」
 御園准将自ら、敬礼をといて息子の名を呼んだ。
「もう。いいんじゃないかな。俺も見つけた」
 心優の隣で規律正しく皆を整列させていたラングラー中佐までもが制帽を手にとって、桟橋に叫んだ。
「小夜、友朗ー。パパ、帰ってきたぞーーー!」
 指令部幹部が叫び始めたため、他の隊員達も次々と制帽を手に振り、家族の名を叫んでいる。
「心優。あそこだろ」
 隣にいる雅臣が、制帽を被ったままの凛々しい横顔でそっと心優に身をかがめて囁いた。
 心優も雅臣の視線の先を見る。そこに白い正装をした体格のよい父とスーツ姿の母が並んでこちらを見ていた。御園大佐や海東司令と並ぶのは遠慮したのか後方にいた。
 母はもう泣きそうな顔でこちらを見ている。父もどうしたのか神妙な面持ちだった。
「ほら。心優も手を振ってやれよ」
「臣さんは……。お母様は……」
「うちの母親は俺がパイロットの頃から航海に出て行くことに慣れていたから、もういちいち出迎えなんて来ないよ。そのかわり、夏は心優を連れて浜松に行くと伝えたら喜んでいたから、よろしくな」
 家族の出迎えがない大佐殿。でも、彼は晴れやかな笑顔で制帽を取りさり、心優より先に沼津の両親へと心優が見つかるようにと振ってくれる。
 心優もやっと制帽を取りさり、青空へと振りかざす。
「ただいま! お父さん、お母さん!」
 無事に還ってきたよ。殉職しそうだったけれど、なんとか帰ってきたよ。心優の目から涙が溢れる。
 父と母も気がついてくれ、二人一緒に手を振ってくれる。
 雅臣と一緒に心優は笑顔で制帽を振る。
 桟橋は家族で溢れ賑やかな歓声に包まれる。初夏の青空が懐かしい色。この人と出会った横須賀に帰ってきた。
 心優は叫んだ。
 ただいま、横須賀!

 

 

 

 

Update/2015.9.15
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