◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 43.カナリアの月へ行こう  

 

 艦長を始めとする指令室幹部のクルーは、意外にも他の一般乗務員がすべて護衛艦を下りてから、最後の下船となる。
 その間、そこに見えているのになかなか降りてこられない心優を見て、母がとても焦れているのが見て取れた。
 御園准将はやはり艦長を務めただけあって最後に降りたいというので、心優は彼女の前を歩いて桟橋へ、二ヶ月ぶりの陸(おか)へと一歩を踏みしめる。
「心優!」
 紺色のスーツ姿の母が飛びついてきた。心優を同じぐらいの背丈の母が子供の頃以来かというほどに、娘にがっしりと抱きついてきて驚いた。
「お母さん、ただいま」
「まあ、髪が伸びたわね」
「空母にも理髪店があるんだけれど、べつにいいかなって自分で前髪を切ったくらい」
「大丈夫? なにもなかった?」
 やはり母はなにも知らないんだなと思った。だから心優は敢えて晴れやかな笑顔を見せておく。
「うん。大丈夫。准将のお側にいるし、優秀な幹部の先輩ばかりだから無事に還ってこられたよ」
「はあ、よかった。ニュースで大陸国の戦闘機が東シナ海で墜落をしたけれど、側にいた空母艦が救助をしたというニュースがあって……。あなたの艦なんじゃないかしら、そろそろ東シナ海にいるんじゃないかしら、大陸国と何かいざこざにならなければいいけれどと思っていたのよ」
 そんなニュースが国内で流れていたのかと心優は言葉を失う……。でも、大陸国の戦闘機が墜落したならば、それは空母艦の出来事に決まっている。でも墜落と救助というニュースに留まっている様子。
 ありのままを伝えないのも平和を守るうちなのか。母の心配は娘がその側にいるという程度のようだが、それだけでもこんなに不安に思っている。
 そんな母を、逆に心優は背を撫でて労っているぐらい。そして心優は母の後ろで黙ったままの父とやっと目が合う。
「お父さん。ただいま戻りました」
 白い正装姿の父が、少佐の父が、そんな娘に敬礼をしてくれる。
「園田少尉、航海任務ご苦労様でした。そしてお疲れ様です」
 父が娘を立派な海軍人として認めてくれた姿。心優も改めて敬礼をする。
「園田少佐。有り難うございます。とてもよい経験になりました」
 母が『そこまで改まらなくても』と、やっと笑ってくれる。でも今度は父が浮かない顔。
「心優……」
 なにか言いたそうにして、でも娘を見下ろしたまま、まだ表情が堅い。
「やだ。お父さんったら、どうしちゃったの。もう心優は大丈夫ってわかったじゃない」
 それでも父は黙っている。そして、心優も悟った。父は今回の航海で、空母で何が起きたか知っている。知らされていると――。
「お父さんが守ってくれているんだなって……。最近、そう思っている。お父さんがカラダに叩き込んでくれたことが、役に立っているよ」
 遠回しに、その技が技能が自分を守り、艦長を護ったと告げる。すると父が泣きそうな顔になって、あの父がやっと心優をがっしりと抱きしめた。
「よくやった……、本当によく頑張った!」
 そして母に聞こえないよう、父が心優の耳元で囁く。『怪我はもういいのか』と――。心優も母に悟られないよう『うん』と頷いた。
 やっぱりいつまでも娘。心優も年甲斐もなく涙が出て困ってしまう。
 そんな父と母と帰還の対面。母が『休暇をもらえるのでしょう。沼津には帰ってこないの』とか『今夜は一緒に食事をしたいけれどだめなの』と聞いてくる。
「ごめんね。お母さん。艦長と業務をしていた指令室の隊員は、横須賀司令部に航海業務の報告のために二日間残らなくてはならないの」
 それが事故と事件が起きたための『査問委員会』とは言えなかった。
「そうなの。残念ね……。お母さんも明日には沼津に帰る予定なのよ。その後に寄ることはできないの」
「うん……」
 帰ってすぐに彼と結婚の準備をすると言わなくては。色恋も音沙汰なかった娘が急に結婚するってどう思うのかな。心優は少し躊躇う。だけれど、家族の迎えもなく一人で離れていた雅臣と目が合い、ようやっと彼がこちらに歩み寄ってきた。
「園田教官、ご無沙汰しております」
 まずは雅臣から父へと声をかける。父もそこはキャリアを積んできた大佐殿からの声かけだったので、敬礼をして改めてくれる。
「城戸大佐。防衛任務、ご苦労様でした。この度は、空母への復帰、おめでとうございます。また、娘が横須賀の准将秘書室勤務の頃から大変お世話になっております」
 父の丁寧な挨拶に、母もハッとした顔で、白い正装服の大佐殿を見上げた。
「心優の母でございます。主人から城戸大佐のことはよく聞いております。横須賀の秘書室、または今回の小笠原の秘書室勤務になっても、空母でご一緒になったとお聞きしておりまして、お世話になっております」
「心優さんのお母様ですか。初めまして、城戸雅臣と申します。私こそ、頑張り屋の彼女に随分と励まされ、事故でコックピットを降りてから暫くは航海ができなかったのですが、元より望んでいたパイロットを護る業務に復帰することができました。それも、彼女のおかげなのです」
 父は知っているだろうが、急な大佐殿の過去を知らされた母はきょとんとしていた。
 でも、雅臣が心優の隣に並び、制帽を取りさった。そして、父と母の顔を交互に見つめて緊張した面持ち。
 ついに。臣さんが言うんだ。ついに父と母に知られてしまうんだ。心優も緊張する。
「園田少佐、いえ、お父さん。お母さん。彼女と結婚の約束をしております。どうか、私と結婚することをお許しください」
 軍人は敬礼をするもの。でも、雅臣は制帽を取りさった黒髪の頭をふかぶかと父と母に下げた。
 心優は両親の顔を見る。二人とも唖然としている。
「あはは。心優、なんだこれ。ただいまのドッキリなのか?」
「あら、やだ。海軍さんって航海から帰るとこういう遊びをするものなの?」
 母までうふふ――と、ちょっと困った顔で笑っている。
 逆に雅臣が唖然とした顔で頭を上げた。
「いえいえ。ドッキリでもなんでもなく、本当にお嬢様と一緒になりたいと思って、本日ご報告をしている次第です」
「城戸大佐ほどの男性が、うちの娘をですか? 一緒に秘書室にいたからご存じでしょう。道場で汗まみれになって空手ばかり、女らしいところなどひとつもなく育ってきたんですよ」
「お父さんったら。そこまで言いうの。……ですが、大佐さん。ほんとうにうちの心優よりも、もっと他の女性がいらっしゃるのでしょう」
「いえいえ。本気です! あの、その、」
 流石に雅臣が困り果てた顔を心優に向けてきた。
「どうすればわかっていただけますか。本気なんです。心優さんと航海の間にいろいろと話し合って、結婚しようと約束をしました。ですから、空母を下りたらすぐにお父さんとお母さんに報告しようと決めていたんです」
 そこでやっと、両親が黙った。二人揃って心優をじっと見て、そして背が高い白正装の雅臣を見て……。
「え、心優も、本気、なのか」
「はい。お父さん。大佐と結婚したいです」
「え、心優ちゃん。ほんっとうなの? 嘘じゃないの」
「うん。お母さん……。わたし、城戸大佐と結婚したい」
 『えっ!?』やっと両親が驚きたじろいだ。
「え、ええ? み、心優ちゃん?? 城戸さんは大佐さんなのよね?? あなた、そんなすごい上官さんの奥さんになるっていうの?」
「うん。城戸大佐をこれから支えていきたいの」
 何故か母が青ざめた。
「ま、待ってください。城戸大佐。うちの娘はなにもできない、最近、ようやっと軍人として働けるようになった、女らしさもない、空手選手あがりの事務官ですよ?」
 大佐夫人など娘には荷が重いと父が面食らっている。
 でもこんな時こそ、雅臣は、誰もを笑顔にさせてしまう爽やかな愛嬌ある微笑みを見せる。
「園田少尉は、いえ、心優さんは立派な秘書官で御園准将の護衛官ですよ。いずれお父様のお耳にも入るかと思いますが、今回の航海での彼女の働きぶりはとても評価されるものでした。ミセス准将がいつも彼女をそばに置いて信頼している女性護衛官です。女性としての気遣いも、指令室にいた男性隊員に聞けば、誰もが園田のことをよく言うと思います」
「そんな、娘はそんな出来のよい軍人では……」
「もしお父様がいままでそう思われていたのなら、心優さんはここ一、二年でとても成長されたのです。御園准将の側にいて、少尉まで叩き上げたのはあの御園大佐ですよ。それだけで彼女がどれだけのものを得たのか、おなじ横須賀基地にいるお父様ならお判りですよね。何も得ようとしない者は御園大佐は切り捨てますよ」
 父が黙りこくった。そして神妙な面持ちで俯いてしまう。

「お父様。私、とても嬉しく思っているのですよ」

 そんな女性の声が聞こえて、父が振り返った。そこには真っ白な正装姿の御園准将が立っていた。
「御園准将! この度は防衛任務、ご苦労様でございました!」
 あの女将軍様が現れて、さすがに父も驚いている。母も話で聞いているのか、また丁寧に頭を下げてくれている。
「園田少佐。素晴らしいお嬢様を有り難うございます。このたびの航海では彼女がいなくては無事に終われませんでした。長く男性の中で軍人として務めてきましたが、やはり側に女性がいると安心するものです。私も随分と年齢を重ねましたので、時折ほんのちょっと体調がよくない日があります。そんな時は彼女がよくお世話してくれて安心してすごしておりました」
「そんな滅相もない……」
「園田少佐の教えが、お嬢様を助けて私を助けてくださったんですよ。感謝いたします」
 栗毛の楚々とした准将からの静かな感謝に、父が茫然としている。
「城戸から結婚のお話をお聞きになられましたか? お父様より先に知ってしまい申し訳なかったのですが航海中に二人の決意を聞きまして、指令室でも祝福していたところです」
「では、本当に……」
 ようやっと父が『娘が結婚をする』と飲み込めたようだった。そして母は心優を見て微笑んでくれたが、でもどこか心配そうで複雑そうだった。
 それでも御園准将がにっこり微笑む。准将が微笑んだので父もちょっと驚いたよう。
「私、二人の結婚の立会人になりたいと思っておりますのよ」
 ね、あなた。
 准将は後ろにいた夫に振り返る。御園大佐がいつのまにかそこにいて、やはり眼鏡奥の黒い瞳でにっこり微笑んでくれる。
「是非、私達夫妻に、立会人をさせてください」
 御園夫妻が娘の結婚の立会人。ここまで来れば、父はもう何も言えないようだった。
 そして心優も御園夫妻が立会人のことまで考えてくれていたと知り、驚きを隠せない。でも、嬉しい!
「……本当に、結婚、する気と言うことなのですね」
 手放しで喜ばない父を見て、御園夫妻も顔を見合わせた。
 御園大佐が父親の顔で言う。
「自分も娘を持つ父親なのでわからないでもないです。心配もございましょう」
 それは母も同じで、まだ喜びが湧かないようだった。
 両親の反応に心優は不安になる。結婚、許してくれないのかな……。
 そこで雅臣が父に神妙に告げた。
「すぐに許していただこうとは思っておりません。自分もこれから航海に出て行く身なので、ご両親としては心配でしょう」
 そこは父が首を振る。
「いえ。私も海軍の端くれです。娘が軍人になった以上、この覚悟を早くに持つべきでした。特に、秘書官となった以上は、むしろ上官殿に嫁にやったと思うくらいの覚悟が必要だったのです」
 それを今更思い知るとは、至らぬ少佐であって、父親であったといいたげだった。
「ですけれど。少佐も、海軍の隊員として、また父親としてのお気持ちもありますでしょう。本日は報告だけでもと思って伝えました。お許しはまた改めて沼津のご実家にご挨拶に出向いた時にいただきたく思っております」
 時間をおいて、お互いに娘の結婚のことを考えましょうと、雅臣はとても落ち着いていた。こんなところ、お猿さんは大人だった。
 それで父と母も納得してくれたようだった。
「ひとまず、結婚を前提に小笠原でも準備を進めたく思っております。夏にもう一度、ご挨拶にまいります」
 雅臣が深く頭を下げると、父と母もようやっと……。
「よろしくお願いいたします。城戸大佐」
「至らぬ娘ですが、よろしくお願いいたします」
 二人が雅臣に深く礼を返してくれた。
「よかったわね、心優」
「これからだな、園田」
 ミセス准将と御園大佐もほっとしたようだった。心優もミセス准将に微笑み返す。
「聞いちゃった。園田さんとソニック、結婚するんだ」
 白い正装姿のミセスと御園大佐の後ろから、背が高い栗毛の男の子がひょっこり出てきた。
「ソニック、ひさしぶり!」
 栗毛の貴公子のような男の子が、雅臣ににっこり微笑んだ。逆に雅臣はびっくりしている。
「わ、海人? おっきくなったなあ!」
「そりゃ、もうハイスクールだもん」
「ハイスクール!? 俺が以前、小笠原にいた時は、まだこんな小学生の男の子だったのに」
 雷神のパイロットとして小笠原にいた時から顔見知りのようだった。
「あれから四年でしょ。俺だってでかくなるよ。海野のところの晃はもっと背が伸びていて、もう海野准将ぐらいあるんだ」
「マジで?」
「うん。最近、後ろ姿がそっくりってみんなで言ってる。母さんがいちばん間違えるんだ。達也おじさんと晃を間違えて呼んで、達也おじさんがすごく機嫌が悪くなるんだ」
「ちょっと、海人。よけいな話はしちゃだめでしょ」
「うーん、母さんがいないあいだは、家の中が綺麗に整頓できるんだよね。母さんて無頓着だから、ここに置いてねっていうのに決まったところに置かないで、なんでも気分で置いちゃうから、探すのが大変なんだ。この前なんて、洗面所にクッキーの缶が……」
「もう、やめてっ!」
 お母さんが自分より背が高くなった息子の口を必死で塞ごうとしていた。
 あのミセス准将が、またらしくなく慌てる姿に、父が面食らっている。心優も初めての姿ではないけれど、今度は海人君と准将ママの関係に目を丸くする。心優の驚きは『海人君、姿はお母さんにそっくりだけれど、中身は大佐お父さんにそっくり! ウサギさんをおちょくる姿がそっくり!』だった。
 ついに心優の父が笑い出してしまう。
「いやー、ミセス准将殿も、息子さんには可愛いお母さんになってしまわれるのですね」
 少佐の父に言われ、あのミセス准将が真っ赤になったので、また周りにいる人々がその視線を集めた。
「海人のせいだからね」
「知らないよ。母さんが普段からつんと澄ましているからいけないんだろ。愛嬌ないとだめだよ」
 なんという生意気なおぼっちゃま。心優もクラクラしてきた。アイスドールだからこそ海兵隊員を束ねているお母さんに、ツンと澄ましているからいけない愛嬌大事なんて説くなんて。
「うわ……。俺がいない間に、海人君すっかりお父さんにそっくりになりましたね。びっくりです」
 雅臣も呆気にとられている。雅臣の記憶では海人君はちいさな小学生のままだっただけに、余計に驚くようだった。
「ソニック、これからも小笠原にいるんでしょ。英太と一緒に甲板にでるんでしょ。ソニックがバレットの教官みたいにしてアクロバットしているところ見てみたいよ!」
「それなら。今度の広報映像の英太の飛行は、俺が教えたアクロバットだ」
 うわ、マジで! やったー! 今度は無邪気になって飛び上がるので、やっぱりまだ子供なんだなとも思える。
 それでも、栗毛で琥珀の瞳を持つ日本人離れした顔立ちの母親と息子が並ぶと、なかなか優雅なもの。その栗毛の母子がまた黒髪の眼鏡のお父さんを真ん中にして、にっこりと幸せそうに微笑んでいる家族の姿。ミセス准将もやっと帰還できたんだなと心優も思える。
 そのミセス准将が賑やかさに紛れて、少佐の父にそっと何かを耳打ちした。
『お父様。査問の後にご報告したいことがありますので、よろしいですか』
 心優にはそう聞こえた。父が無言で頷いたのも見逃さなかった。きっと父には詳しい経緯を、准将は心優のために伝えるのだと思った。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 二日の査問委員会を終え、ふたりは小笠原へ帰る直行便飛行機に乗る。
 小笠原に着いたのは、日暮れだった。
 でも、雅臣と心優は二人揃ってスーツケースを引きずって、おなじところへ向かっている。
 基地の警備口を出て、海沿いの道を黙って歩いている。心優の目の前に、大きな背中の大佐殿。
 どうして黙っているのか。心優にもその気迫というか、意気込みとか緊張が伝わってくる。
 それは心優も同じだった。
 官舎に着いた。
「独り暮らしで子供がいないんで、最上階の四階なんだ。荷物は出航前に届いてある程度は整えに帰ったんだけれど、荷ほどきは終わっていない」
 アメリカキャンプを通り過ぎたところ、裏手に静かな林が広がっているそこに海に面して団地がある。そこが日本人官舎。幹部の独身男か家族連れの隊員が優先されて住むようになっている。
「埃っぽいと思うけれど、いいかな」
 雅臣が申し訳なさそうに、後をついてきた心優を見下ろした。
「大丈夫だよ、どこだっていいの」
 そういうと、雅臣が嬉しそうに笑ってくれる。
 なにがと確かめもしないのに、でも、お互いに解っている。
 これから、ふたりそろってどうなってしまうのか。どうしたいのか。そんなのひとつに決まっている!
 二ヶ月も我慢したんだから。だからって帰ってすぐにそれかと言われると、卑しい気もするけれど。それでも構わない!
 二人で階段を上がり、ドアの前に立った。雅臣が鍵を手にして開けた。
 ドアを開けると、人が住んでいるような匂いではなかった。どこか無機質でなにか物質的な匂いだけ。
 それでも海側の窓から優しい光がこぼれている。
 小笠原の夏、官舎裏の林から、夕蝉の優しい声と島特有の森蛙のひそやかな鳴き声が聞こえてくる。
「横須賀とおなじ間取りなんだね」
「官舎は日本全国同じ間取りだよ」
「そうなんだ。うん、でも。同じって嬉しいかも。だって、また臣さんと同じように過ごせるんだよね」
 あの時みたいに。そう囁いて雅臣を見上げた途端、彼がスーツケースを放り出して、また玄関の壁に心優をドンと押しつけた。またあの時と一緒!
「お、臣さん?」
 あの時は室長だった上司が間近に迫ってきてドキドキしていた。彼の指が当たり前のようにして黒いネクタイをほどいた。いま心優はそれを思い出している。
 そして、あの後のいままで感じたことがない、熱くて、灼けるような、ベッドの熱愛。
「はじめて一緒の夜は、まだかわいい猫の顔だったのにな」
 雅臣が心優の顎先をくいっと上向きにする。
 彼の黒いネクタイがふっと揺れる。そうして心優の目を上からじっと覗き込んでいる。
「いまは、女っぽくて欲しそうな顔してる」
「臣さんのせいじゃない……。慣れていないわたしにいっぱい……、」
 教えたくせに。カラダにかんじさせたくせに。覚えさせたくせに。
「いっぱい、なんだよ。……やらしいこと、だろ?」
 そうだけれど、それをあからさまに言えるはずもないから、心優は頬が熱いままそっと目を逸らしてしまう。
「じゃあ、もう俺と一緒に楽しめるよな。教えられるばかりのボサ子ちゃんじゃないだろ」
「なに、急に意地悪になって」
「待てないんだよ。艦から降りたら、いつもこんなだよ。海の男の渇望、知らないだろ」
 それはわたしもだよ……。息だけの声で、心優もつい漏らしていた。聞こえたのか、雅臣は心優の鼻先でにっこり余裕の笑みを浮かべている。
「じゃあ、いいな」
 そういって、雅臣がまた玄関先で心優を抱き上げた。また靴を履かせたまま!
 ひょいっと軽く抱き上げてくれる大佐殿。あの時はただただ連れ去られるボサ子ちゃんだったけれど、今日の心優は驚きながらも、でも、ぎゅっと彼の首に抱きついた。
「嬉しい。あの時、みたい……」
 雅臣の額に自分の額をくっつけて、心優は涙ぐんだ。
「わたしにとって、あの日々がいままでいちばん幸せな時だったから……」
 それを取り戻した。心優は泣いて、雅臣に抱きついた。心優を両手に抱き上げたまま、雅臣はそっと耳元に口づけてくれる。
「これがずっとだろ。今日から……」
「うん」
 彼の首に抱きついて、心優は彼の肩先にもたれる。そのまま雅臣が大きな手で、心優の黒髪をするすると撫でながら歩き出す。
 またひょっこりと片側を引きずる歩き方……。
 横須賀と同じように、雅臣がいちばん奥にある部屋のドアを開ける。夕の茜に染まるその部屋には、懐かしいベッドがあった。
 そこに心優ははじめての時と同じように、ぽーんと放られる。
 ベッドにはきちんとベッドカバーもしてあった。でもそのまま雅臣が制服姿のまま、制服姿の心優の上へと覆い被さってくる。
「今日から、ここで、いいな」
 寝かされている心優の目の前で、彼が黒いネクタイをほどく。そして、大佐の黒い肩章と金星がついている白シャツのボタンも手早く外して、ザッと脱ぎ去った。
 はじめての時。彼のこのパイロットの肉体を見て、きゃーっとなったことを心優は思いだしたが、何度見ても惚れ惚れしてしまうので、やっぱり心優は今回も『きゃー』と感動してしまう。
「なんだよ、もう。いい加減、見慣れろよ」
「だって。……その、久しぶりに見たから……」
「あ、そっか。空母の資料室の時は、脱がなかったもんな。それは、こっちもおなじ。全部を見るのは久しぶりだ」
 心優の真上、すぐそこに大佐殿のシャーマナイトの目がある。その目が柔らかい茜の中、濡れた石のように綺麗に光ってせつなそうに揺れている。
 心優の伸びた頬の髪をそっと静かにかき上げると、彼が目を閉じた。心優も、静かに瞼を伏せる。すぐ感じた、柔らかくて熱い彼の唇。
「心優、待ち遠しかった」
 わたしも……。言いたいのに、優しいくちづけが熱烈な激しいものに変わっていく。
 熱い吐息が心優の口元にふりかかる。濡れる感触と熱く絡め取られ、奥まで愛される激しさに、心優は呻くことしかできない。
「っん、ん、臣……さ、」
 海の男の渇望がそこに顕れている。それは唇だけではない。彼の大きな手も迷いがない。
 心優の腰にあるスラックスのベルトを外し、いつかのようにショーツもスラックスも一緒に掴んだ雅臣が、一気に引き下ろし、力任せに心優のつま先から抜いてしまう。
 その手際の良さと力強さ。前はただただ驚いていたのに、もうそこまでされたら心優も待てない。下は彼が脱がしてくれたなら、わたしは……と、心優はネクタイをほどいてすぐに制服の白シャツのボタンを外そうとした。
 なのに、雅臣はもう心優の足首を掴んで大きく開いていた。彼の目線が、開いた足と足の間にあるそこに一直線。猿の狙うものはそこだけ。わかっているのに、心優はその獰猛さに一瞬怯む。
 怯んだのも迂闊で、お猿は女の足の間に遠慮もなく割って入ってくると、足と足の間、心優がいつも薄く整えているそこへとすぐさま顔を埋めてしまった。
「っや、もう……っ」
「ほんっとに全然変わっていない。俺の好きな、心優の……」
 爛々と目を輝かせ嬉しそうに頬を緩ませたお猿。その彼の熱い舌先が、すぐにまとわりついた。
「っんあ」
 あまりにも急激な愛撫に、心優はベッドに後ろ手をついて背を反った。
 折り曲げた足と足の間、そこに上半身裸のお猿が果敢に攻め入ってくる。
 急激、そして男の渇望。海からやっと陸に帰ってきた男が抑えていたものが、いま心優のそこ一点に注がれている。
「あんっ、はあ、はあ、ああん。お、臣さん、臣さん……」
 抑えられないのは心優も一緒だった。海の男の渇望? それなら海で闘ってきた女だって、陸に帰ってきてめいっぱい男に愛されたい!
 ぐいぐいと熱くねっとりとした舌が入り込んでまとわりついて、でも、心優もかんじるまま欲しいままに、彼の黒髪をかきむしって引き寄せて欲しがった。
 はあはあと心優の息も上がる。
 女の渇望もかなりのもの。ようやっと取り戻したわたしの彼。その人に愛されたくて愛されたくて、でも職務優先と必死に抑えてきた。
「ああん、お、臣さん……、わたし……」
 自分でも分かる。雅臣が獰猛に責めているからだけじゃない。待ちに待っていた愛撫に、どうしようもなく敏感に反応している。
 カラダの芯がほてって、下腹がきゅんと感じて、そこから熱いものが溢れていくのがわかる。
「すごいな、心優……、こんなに、もういいかな」
 なにもしなくても、もう心優のカラダはお猿を欲している。だから、心優もかまわず告げる。
「い、いいよ。お願い……、これ以上は……ダメ。それだけで、わたし……」
 いっちゃう……。
「臣さんと、ひとつになって……それで、わたし……、」
 果てたい。
 息を荒げながら、心優はうっすらと濡れる瞳で足の間にいる彼を見つめた。
「わかった」
 一度離れた雅臣が、心優を見下ろしながら手早く制服スラックスのベルトを外し脱ぎはじめる。
 心優も気持ちが急くまま、首元のネクタイを外し制服のシャツを脱ぐ。
 徐々に薄暗くなる夕闇の中、ふたりはついに素肌になる。裸になった心優を見下ろしている雅臣の目が真剣すぎて、少し怖い。いつもの愛嬌で、軽く笑って、なんなく心優の素肌に触れてきたお猿じゃない。
 雅臣が見つめて動かなくなったのは、心優の胸元。そこへと彼が手を伸ばした。
「つけてくれているんだな」
 裸になった心優が身につけているのは、もうそれだけ。彼がくれた『猫の目』。あの時のような夕闇の空。そして、彼を見つめる心優の眼差し。同じだと言ってくれた約束の石。
「いま、おなじ目になっている」
 そういって、雅臣が裸の心優に覆い被さってくる。そこからは、心優が待ちかまえいていた猿に抱きつかれる。
 足を開かれ、またそこに雅臣が割って入ってくる。もう彼は熱く固くなっているものを自分で握りしめて、心優のそこ一点を見定めて押し当ててきた。
 それだけで心優は背を反りたくなる。渇望していた愛している男の塊の感触……。カラダが覚えている牡猿の質感と熱が、キスをしたようにそこに触れている。
「っん、あっ、あ……」
 なのに雅臣はすぐに入ってこない。キスでいうなら、そこで舌先で舐め回されているようにして、尖端で心優から溢れているとろみのある蜜を絡めようとしている。
「やっ、やめて……、やだ……、」
 舌先で愛されているくらいの……。
 もう、それだけで心優のカラダの芯が燃え上がって、終えてしまいそうだった。
「……いや、おみさん……、おねがい……」
 はやく、前みたいに、勢いよく愛してよ。
 そんなことをわたしに言わせたくて、こんなに焦らしているの? 言葉に出来ず、でも、心優は怨めしそうな眼差しで雅臣を見上げていた。
 そんな心優を、雅臣は満足そうな笑みで見下ろしている。
「臣さんだけよ、おねがい、わたしだけ愛してよ」
「もちろんだ。おまえだけだよ」
 そこで雅臣がちょっと躊躇ったようにして俯いた。
「臣さん?」
「信じてくれないかもしれないけれど……。俺、あんなに毎日、女の子と愛しあったの、心優が初めてだったんだよ」
 言葉通り、心優はすぐに信じられなかった。でも、雅臣はそんな嘘はつかないというのは信じている。
「だから、油断していたのかもな。だから、これから、ほんっとうにおまえだけだってわかるぐらい愛してやるからな」
 真上にいる彼がやっといつもの愛嬌あるお猿の微笑みになって、ちゅっと心優にキスをしてくれる。
 心優もたまらなくなって、覆い被さっている雅臣の首に抱きついた途端に、カラダの芯を貫かれるようにして熱い塊が奥まで入ってきた。
「あんっ、臣さん!」
 海の男の渇望。それは、相当なもの。
「心優、心優……心優っ」
 艦から降りたら猿になる。理性を保って艦に乗っている大佐殿が、女だけを求める動物になる。
 薄い夕暮れだったのに、やがて、素肌でもつれあう二人を見つけたとばかりに、大きな月が東の窓に見えてきた。
「ああっ、あん、臣さん。す、すごく……いい」
「俺もだ。心優……、」
 元パイロットの鍛え抜かれた大きな身体が、細い女を襲うようにして両手をシーツに押さえつけ、男の思うままに心優の中を出たり入ったりしている。
 それでも心優は嫌ではなかった。月の灯りの中、犯されるようにしてカラダを従えられても、お猿さんはちゃんと覚えてくれている。心優がどこを感じて、悦ぶか覚えてくれている。
「はあん、あん、臣さん、そこ、ダメ……。ああんっ」
 大きなパイロットの手は、鍛えてきた心優の手よりもずっとおっきい。その手で押さえつけられて、勢いで熱い塊をカラダの奥まで埋め込まれて。でも、お猿のねっとりとしたいやらしい舌先は、熱く心優の胸先や、首筋、耳の裏、口の中、そして、下腹のへその脇もちゃんと愛撫してくれる。
 心優の女の肌に、しっとりとした汗がじんわりじわじわと滲み出てきているのがわかる。喘いでいる喉もカラカラになるほどに、心優は喘いでいる。
 カナリア色の月灯り。月光に晒され解き放たれた渇望が弾け飛んで、思うままに貪る牡猿と……、心優は思った、わたしは牝猿。
「かわっていなくて、俺の心優のままで、嬉しいよ」
 お猿はお猿が普通だからなのか、余裕の愛嬌笑顔のまま。
 こんなにされて、ちょっと悔しいけれど、心優はもうそんな余裕はない。海の上にいた牝猿はそのままシーツの上で喘ぎまくって淫らに果てる。
 カナリア色の月にみつめられて、心優はしばらくその光の中につれさられたような錯覚を起こした。

 南の島の月、潮騒。島ジャングルの生き物たちの声。
 これからここで、彼と一緒に暮らす。

 

 

 

 

Update/2015.9.29
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