◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 44.どこにいっちゃうの、大佐殿?  

 

 夏の長期休暇に沼津の実家と、雅臣の浜松の実家に挨拶を終えたら、入籍だけすることになった。
 結婚式はどうするかまだなにも考えていない。
 雅臣と暮らし始めて、それだけでめまぐるしい。航海から帰還して一ヶ月があっという間に過ぎた。

 しとしとと雨の日が続いている。小笠原も梅雨の影響を受けて、珊瑚礁の海が少しだけくすんだピーコックグリーンの日々。
 長い間留守にしていた御園准将室も平穏を迎えつつある頃、心優はとても信じられないことをミセス准将から告げられる。
「来月から中尉に昇進するから、よろしくね」
「どなたが、ですか?」
 午後の業務が始まってしばらく。一息つきたそうにしていたミセス准将に、いつものチェリーのアイスティーを作っていた時だった。
「貴女にきまっているじゃない。勲章も授与されるわよ」
 え!? 心優は驚き固まった。
「ま、待ってください。わたしはまだ、半年前に少尉になったばかりです。それに、勲章だなんて!!」
「先日の航海任務での実績が認められたということよ」
 絶句する。こんなことがあっていいいのか。自分にはもったいないに決まっているし、まだそんな実力ではない。
「わたしには勿体ないものです。まだそんな実力はありません」
「貴女がそう思っても、本部がそれに相当すると判断したのよ。受けておきなさい、というか、受け取りなさい」
 まだ躊躇っている心優をみて、御園准将が溜め息をつくと、准将室の大きな木造のデスクから立ち上がった。そうしてティーワゴンの上でお茶を淹れている心優のところまでやってくる。
「貴女だけじゃないのよ。シドは大尉に昇進、彼も勲章を授与される。私を護って負傷したアドルフも勲章を授与されて、定例試験の時期より早めに試験を受けて少佐に昇格する予定なの」
 その時、心優はシドの言葉を思い出した。『小笠原に帰ったら大変なことが起きる。御園の一員になる。軍隊が実力重視の場所だってわかるはず』と――。
 このことだったのかと、やっと痛感した。ほんとうにこんな事が起きる。そしてこんなことができるのは御園准将の側にいるからに決まっている。この人とこの人に繋がっている上官達がどれだけの権威と権力を持っていることか。それを証明している。
「承知いたしました。あの、有り難うございます」
「貴女の実力が、ようやっと開花しただけでしょう。道場や試合という場所以外でその力をどう使えばよいかとても迷ったことでしょうね。でも、生々しい厳しい場所での開花であって、それは引き込んだ私としてはちょっと心苦しく思ってはいるのよ」
「いいえ。もよとり、武道たるものどうして存在するかと言えば、そこなのです。でも、いつかスポーツだけで済めばいいのにとは、航海中に思ったことがあります」
「そうね。私もそう思うことがあるわよ。私自身もどうして自らを傷つけるようなところへ身を投じてしまったのか……」
 そこで御園准将が暗い顔になる。
「それは傷つける者がいたからです。どんな形でも、傷つける者から護りたくて武装する。闘おうとする。それが武力になってゆくことは哀しいことですけれど、いまの世界では避けられないことでもあります。でも、なるべくならお互いを牽制するだけで終わらせる。お互いの国を護るに留める。それを航海で知りました」
 心優の言葉に、御園准将が目を丸くする。そして、暗かった顔から笑顔がこぼれる。
「心優、貴女、今の言葉を半年前に言えた?」
「いいえ、まさか。空手家という枠から抜け出せない状態のまま小笠原に来たのですよ。海の上の世界がどのようなものか、ようやっと知ったのですから」
「それだけ言えれば、知っていれば、解っていれば。中尉として充分よ。それに空手家ではなくて、もう将軍の立派な護衛官なんだもの」
 半年でそれだけ成長したのだと言ってくれる。そう言ってくれるのならば、心優も自信を持とうとは思う。
「護衛部の中佐から、これからは訓練官として参加して欲しいとの申し出があるわ。考えておいて。実戦経験がある隊員になったのよ。身体に叩き込まれている的確な技、そして任務の経験を護衛を目指す隊員に指南して欲しいと言っていたわ」
「左様でございましたか……。かしこまりました。考えておきます」
 小笠原の基地に帰還してからも、心優はまた様々な人に声をかけられる。
 空母で起きたことは機密事項にはなっているが、それでも基地の一部ではその事情を知っている者もいる。そして、その空気はなんとなく一般隊員にも伝わっていく。
『大陸国戦闘機墜落は、ミセス准将の空母の側で起きたらしい』
『空母でなにかあったようだ。非公開にされているが侵入者があったのではないか? それでハワード大尉が艦長の盾になり負傷して一足先に帰還。その時に侵入者を制圧したのが園田少尉……』
 基地の者は機密事項についてはおおっぴらに話すことは出来ないけれど、なんとなく誰もが知っている。
 だから外に漏らすことが出来ないが、基地の中で心優を見る隊員達の目が出航前と変わっていることに気がついた。
 それまで准将の側に付いているお気に入りの女の子が来た――と見られていたのに、男性隊員達がどこか畏れを抱いたようにして、敬礼をしてくれたり、丁寧な挨拶に会釈をしてくれるようになった。
 しかも『城戸大佐と結婚する』という話も既に知られており、大佐殿の妻になる人としても、どこか遠巻きにされている気がした。
 午後の業務を終え、夕方の業務に入る前に、心優は休憩をもらいカフェテリアに向かう。
 高官棟の五階にある。つまり空部大隊本部と准将室がある二階上になる。
 そこのエレベーターが開いて、フロアに出ると、向こうに雅臣と橘大佐が一緒にいるのが見えた。向こうもこちらに気がついた。
「ミユちゃん! お疲れ!」
 相変わらず調子が良い橘大佐の明るさに、心優も笑顔になる。
「お疲れ様です、橘大佐」
 二人の大佐は『空部隊本部指揮班、雷神室』という新しくできた一室にいて、心優がいる大隊本部とは少し離れた場所の部署にいる。
 それでも、元々エースだった二人の大佐が並んでそこにいるとかなり目立つ。
「雷神のミーティングは終わったのですか」
「おう、いまさっきな。最近、葉月ちゃんが雷神から徐々に手を引いているからさ、俺達だけでね」
 これも航海から帰還してきてから変化したことだった。それまで雷神といえば、御園葉月准将のものと言ってもいいぐらいに、彼女がいて当たり前、彼女がなくてはならないものだった。
 なのに。航海中も少しずつミセス准将はその気配を見せるようになっていたが、甲板の訓練も数日おきの見学になり指揮台にはもう立とうとしない。ミーティングも同じく二日に一回顔を出す程度で、雷神の指揮は橘大佐と雅臣に任せるようになっていた。
「英太がちょっと荒れているんだな。あいつ、葉月ちゃんがいない雷神なんてあり得ないと思っているんだよ」
 橘大佐が溜め息をついた。心優もそれは目に浮かぶほどわかってしまい、なんと返答して良いのかわからなくなる。雅臣もちょっと困った顔をしている。
「准将もわかっていて、突き放しているとは俺達もわかっているんだけれど。ちょっと手に余っているんだ。あいつ、スワローにいた頃からきかん坊だったし」
「だよなあ。この俺でさえ手に余って、葉月ちゃんに丸投げしちゃったぐらいだからなあ」
「准将もわかっていて、いまは黙っているんだと思います。わたしから一応、報告はしてはみますけれど」
 でもそこで大佐二人が『いやいや、報告はしなくてけっこう』と手を振った。そこはもう俺達の仕事と大佐の二人が揃って言いきった。
「英太もわかってるんだよ。姉貴がどこに行きたがっているか。どうしたいか。でもさ、一緒にいたいんだよ、空に。それは俺達も一緒。だけれど、彼女はいつも俺達の前を行く。艦を下りても空から離れても、きっと空をみているよ。きっともう……、俺達がまだみていない何かが見えていて、俺達をそこへ連れていく準備をしているはずだ」
 長年、パイロット同士で、艦では相棒だった橘大佐の言葉。准将はもう、どこへ行こうか決めていて、そしてもうそこを目指している。
 心優はまだ同じものが見えないけれど、それでも、彼女が艦を下りる準備をはじめ、そして次へ行くための準備を始めているのは肌で感じていた。
 艦を下りて、やっと陸に戻ってきて落ち着いてきたと思っていたのに。中尉になるとか、ミセス准将がなにやら始めようとしている空気に胸騒ぎが止まない。
 なにかが変わろうとしている気がして……。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「え、中尉に昇進!?」
 今夜も官舎の周りは蛙の鳴き声。暑くて窓を開け放しているので、余計に大合唱で聞こえてくる。
 でもいま二人はカレーの匂いに包まれ、二人一緒にキッチンに立っていた。
「そうなの。もうびっくりしちゃった……。いいのかな、本当に。勲章ももらえるんだって」
 勲章も!!! さすがに雅臣も驚いて心優の隣で固まってしまった。
 心優がごはんをよそって、雅臣がカレーをかけているところで、彼が鍋の前でそのまま止まっている。
「そんなつもり、なかったし。たまたまそうなっただけだし。ほんとうに、あの一瞬のことだけでもらっていいのかな……」
 まだ飲み込めない。でも、茫然としてした雅臣が我に返ると、懐かしい元上司だったときの室長の横顔になった。
「一瞬だったからだろう。本当に、あの時は一瞬だった。あの一瞬、俺も動けなかった。准将もきっと……隼人さんが言うように、心の底で縛られて若い時のような勇敢さも足止めされて動けなかった。あの時、ハワード大尉もいなかった。その全てが壊されそうだった一瞬のその時にもっと早く動けたのが、園田少尉だった」
 雅臣が、大佐殿が心優を見下ろす。
「俺もパイロットだったからわかる。一瞬がどれほど大事で恐ろしいことか。その一瞬を制したのに、一瞬のことだけで? 違うだろう。その一瞬で動けるよう、子供の頃から鍛練してきたんだろう。心優の軍隊での金メダルじゃないか」
 ハッとして、今度は心優が固まる……。軍の金メダル。本当の勲章の色はシルバーだけれど。
「だから、心優。いいんだ。いままでの自分の全てがあの一瞬にあって、心優は准将だけじゃない。殺されそうだった大陸国のパイロットも、動けなかった俺も、護ってくれたんだから」
 そして、心優が茫然として持っていたカレー皿を、雅臣がそっと取りさりキッチンに置いた。
「おめでとう、心優」
 彼が嬉しそうに微笑んでくれたから、心優もやっと笑顔になれる。
「ありがとう、臣さん」
 真っ正面から、優しく抱きしめてくれる。彼といると、彼にカラダを労ってもらえると、女性にしては背丈がある心優でも華奢な女性になってしまう。そんな彼に心優は甘えてしまう。
「そっかあ、これでますます最強な奥さんってことになっちゃうな。でも、沼津のお父さんも喜ぶと思うな! いますぐ知らせて来いよ」
「うん、そうする」
 胸に抱きしめて、黒髪を撫でてくれた雅臣の笑顔に促されるようにして、心優はダイニングテーブルの上に置いているスマートフォンを取りに行く。
「あ、お父さん。心優です」
 ダイニングからリビングへと歩いて、心優は珊瑚礁の海が見える窓辺に立って父に報告をする。
 はあ? なんだって!? はあ? なんだって? 父が同じ事を繰り返して驚いているので、心優は笑ってしまう。
『そうかあ……。やはり、御園の側にいると違うな。でもな、心優。それだけ責任が重くなるということなんだぞ。わかっているのか』
 手放しで喜ばない。そこにはそれ相応の重さがあること、苦しくなっていくこと。父はそれを忘れていない。また、それは娘を案ずるものであることは、心優も重々承知だった。
『あまりにもスピードがありすぎて心配だな。まあ、ミセス准将がいるから大丈夫だとは思うが……。あ、それよりな。おまえ、式場とかどうするんだ?』
「まだ決めていないよ」
『母さんがめちゃくちゃ浮かれまくっているぞ。最近はお母さんがドレスを着るのかってくらい結婚雑誌を買いあさってながめているらしいぞ。兄ちゃん達もおまえが結婚するって知ってひっくりかえっていたわ』
「失礼だな……、兄ちゃんたちったら。自分たちはさっさと結婚したくせに。妹の結婚でなんでそんなに驚くのよ」
『これで、妹が海軍で昇進して勲章をもらうと聞いたら、おまえ、兄ちゃん達が拝んでくれるかもしれないな。あはは!』
 なにごともスムーズに生きてきた兄達に比べ、心優はくすぶってばかりだった。そう思うと、やっと兄達のように生きていけるようになったのかなとも思う。
「心優、できたぞ」
 振り返ると雅臣がもう食卓を整えてくれていた。
『お、雅臣君の声が聞こえたな。いまから夕食か』
「うん。彼がカレーを作って待っていてくれたの。秘書室にいるわたしのほうが帰りが遅くなることが多くて。でも雅臣さんも秘書官だったからなんでも一人でできるの」
『大佐殿に作らせるだなんてなあ……』
 たいしたもんだなんて、父が変な溜め息をついてそこで話が終わった。
 美味しそうな食卓ができあがっていて、心優は笑顔でテーブルにつく。
「臣さんの男カレー、大好き!」
 男の感覚で作られた辛口で濃いめ、お野菜ごろんごろんの豪快なカレーライス。心優が大好きなメニューのひとつになってしまった。
 いただきます。
 ふたりそろっての食事も、最近は当たり前になってきた。
「お父さんの笑い声って豪快だな。電話越しでも聞こえてきたよ」
「そうなの。その逆に怒る時も声が大きいから、それそれで怖くなっちゃうんだけれどね」
「まだご挨拶前だけれど、お父さんとお母さんも受け入れてくれてきたみたいでひと安心だよ」
「わたしはまだ不安かな……。ほんとうに臣さんのお母様に気に入っていただけるのか……」
 雅臣と二人で暮らしてみても、独り暮らしが長かった雅臣の方が家事も慣れている。逆に心優は寄宿舎生活が長かったので、いきなりの婚前生活に戸惑うことが多い。
 なのに。そこは大人の彼がきちんとフォローしてくれて、なんとか幸せな毎日を送っている。
 雅臣はもう秘書官ではなく、現場の指揮官になったので、なにもなければ割と早めに帰ってくる。逆に心優は准将室中心のスケジュールで動くので、残業も多く定時であがれることはほとんどない。
 しかも、嫁が夫より腕っ節の良い空手家で、それ一筋で来た女とくれば、母親はどう思うのだろうと不安だった。
「大丈夫だって。俺ももう三十後半で、しかも事故の後はひねくれて暗くなっていたし、実家を避けていたから。母親は『その子のおかげみたいね』って喜んでいるんだって何度言えばわかるんだよ」
「ちゃんと言ってくれた? 空手ばっかやってきたボサ子だって」
 清楚なお嬢様が息子を支えてくれていると夢みていたら気の毒になってしまうから、そこも心優は心配。
「ボサ子なんて言わないに決まっているだろ。でも、空手の日本選手団にいて、准将の護衛官で凄腕の女の子とは伝えている。うちの母ちゃん、楽しみにしていたけれどなあ」
「ほんとに?」
「ほんっとに。心優だったら大丈夫だって。自信持てよ。そっちこそ、うちの母ちゃんみて驚くなよ」
「どういう意味?」
「俺の母親だなあーって納得すると思う」
 なんか言いにくそうなので、心優は首を傾げるし、やっぱり不安になってしまった。
「それから。今日は心優に知らせたいことがある」
 美味しく食べていたのに、目の前の彼が急に改まった。ちょっと伏せた眼差しに、心優は胸騒ぎ。
「なに。臣さん」
 心優も食べる手をとめて、改まった。
「実は。来週から暫く、とある研修にでかけることになったんだ」
「え。なんの研修?」
 せっかく一緒に暮らし始めたのに? でも仕事なら仕方がない。心優は飲み込もうとする。
「悪い。御園准将からの指示ではあるんだけれど、言えないんだ」
「言えない……?」
 言えない研修と聞き、心優がすぐに思い浮かべたのは、研修に行くと言って実は極秘任務に就いていたシドが受けていた使命だった。
「それって極秘、なの」
「うん。家族にも言うなと言われている」
「シドみたいに危ない任務に行くの? それとも、臣さんだけまた艦に乗っちゃうの! なんの研修なの!」
 直属の上司である御園准将が、雅臣よりも毎日一緒にいる護衛官の心優には一切ちらつかせてくれなかった。それほどのところに行ってしまう?
「いや、フランク中尉みたいなそんな極秘任務ではない。これは言い切る。任務じゃない。ほんっとうに研修な」
「どれぐらい行くの?」
「うまくいけば、一ヶ月かな」
 うまくいけば? 意味がわからない。
「うまくいけばって、仕事のこと?」
「うーん、ともかく。これは俺も話をもらって『行きたい、やりたい』と思ったんだ。それに……。終わればそれはまた俺にとっては糧になるもの。一生に一度というか……」
「危ないことじゃないんだよね?」
「うん、大丈夫――」
 いつもの爽やかな微笑みをめいっぱい見せてくれたけれど、歯切れが悪かった。やっぱり不安だった。
 なんの研修? いつ帰ってくるの? 
 いつか彼が艦長として航海に出て行くようになったら、こんな気持ちになることは覚悟しておかなくてはと思っていたのに。
 まさか、艦から降りて一ヶ月で、大佐殿が何かを任命されてわけのわからない研修に行ってしまうだなんて。
 覚悟が出来ていないうちの、見送り。そして、熱愛まっただ中の婚前生活に浮かれていた心優は、急激な寂しさに襲われてしまう。

どこにいっちゃうの、大佐殿? 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 翌日、心優はすぐさまミセス准将に問うてしまう。
「昨夜、城戸大佐から聞きました。研修に行くけれど、どのような研修か家族にも言えないと」
 朝一番。朝の准将室ミーティングも終わって、御園准将がデスクについてすぐだった。
 彼女は綺麗な栗毛を朝のそよ風に揺らして、いつもの如く楚々とした横顔で万年筆を握って静かなまま。
 いつもの綺麗な琥珀色なのに、凍っている眼差しをみせられる。
「そうよ。きつく言っておいたの。大事な研修だから、たとえ妻になる婚約者にも言ってはだめよと……」
「どうしてもですか。メールぐらいにして、電話も控えて欲しいと言われました」
 心優がいちばん納得できないのはそこだった。航海に極秘で行くわけでもない、危ない極秘任務でもない。ただの研修。なのに電話は控えて欲しい。土日に帰ってくることもできない。どこで研修かも言えない。さらに、心優から休日に会いに行くこともダメだと言われたのだ。
「会いに行ってはだめなのですか……」
「ごめんなさいね、心優。研修の間、雅臣にはそこ一点に集中して欲しいのよ。そいうい意味では気が抜けない研修なの。息抜きに婚約者に会うような余裕が逆に隙になっては困るので、一ヶ月程度なら思い切って会うのはやめなさいと厳しく言いつけたのは私自身よ」
 全て、ミセス准将の差し金だった。信じられない。でも雅臣とここまで結ばれたのも、このミセスのおかげでもあった。そのミセスが『ここは一ヶ月我慢』と言いきるには、余程の研修なのだろうと心優は悟った。
「心配です。なにもわからないって」
「大丈夫よ。一ヶ月だけ我慢して」
「わかりました……。あの、城戸大佐の研修については他の方もご存じではないのですか」
「この研修に雅臣を行かせるかどうかの相談は橘さんにして、橘さんも賛成してくれたわよ。でも彼も口外は控えると言ってくれている。手配はテッドに頼んだわ。テッドもこの研修の重要性をわかっているから、知っているのは私を含めて三人だけ」
 そしてその三人は決して雅臣の行き先は言わないと決めているという。絶望的だった。
 もう、待っているしかないらしい。
「雅臣が留守の間、貴女は貴女の仕事をしてもらうわよ。しっかりしなさい」
 そういって、ミセスが立ち上がる。艦に乗っていた時とは違って、いまのミセス准将は優雅なタイトスカートの制服姿。その綺麗な立ち姿で彼女が応接ソファーの上に置いていある、綺麗な黒い箱へと歩み寄る。
「こちらにいらっしゃい」
「はい」
 心優も気を取り直して、ひとまず雅臣と離れてしまうことは忘れようとする。
 ミセス准将は綺麗な黒い箱をテーブルの上に置くと、その箱の蓋を開けた。
 そこには、シックで素敵な黒色のワンピーススーツが入っていた。シックでノーブルだけれど、綺麗で可憐なビーズがジャケットの縁とウエストラインに刺繍されているものだった。
「来週末、海東司令に会いに行くわよ。プライベートのお誘いだけれど、貴女も私のお供でついてきてね。その時は私服なの。これは私からのプレゼントよ」
「あの、司令に会うために?」
「そうよ。貴女のために、私がエドに誂えるように頼んだの。エドはね。お医者が本業だけれど、いちばん稼いで成功させた事業は美容サロンなの。美的センスがとってもいいのよ。そのエドが貴女に似合うように選んでくれたから間違いないわね。私のお洋服のコーディネイトもエドがいつもしてくれるの」
 あのミスターエドはお医者様であるのに、事業は美容サロンで、影のお仕事は諜報員って、どんだけ多能な男性なのと絶句してしまう。
「ほんとうに、頂いてしまってよろしいのでしょうか。こんな素敵な服、着たこともないし、自分で選んだことも買ったこともありません」
 すると、准将がいつも澄ましているのに、とても楽しそうにクスクスを笑い出して暫くずっとそうして止まらなくなったようだった。心優も首を傾げるだけ。
「あ、ごめんなさい。だってね。エドは、私を始めに、軍服さえ着ていればいいと思っていた『私達』の『はじめての私服選び』をずうっと担当してきてくれたんだなと思って……」
「どういうことですか」
「まずは、ジーンズばかりだった私が民間の方と会う時のお洋服を選んでくれて。そして、テッド。テッドが私の側近になって私服の仕事に連れていく時になって、彼も軍服以外のおでかけ着はなーんにも持っていなかったの」
 え、そうなんですか! と心優は驚く。御園准将の隣にいる部下として、それは完璧な中佐殿。彼のスーツ姿を見たことがあるが、それもまたカッコイイ素敵な男性になる。でも、若い時はそうではなかったということらしい。
「英太もそう。初めての私服でのお仕事、広報に連れていくことにしたけれど、なんにも持っていなかったわね。そんな時はエドが登場。彼がすべてコーディネイトしてくれたわね。そうそう、隼人さんも全然興味がなかったの。でも隼人さんのお洒落の師匠は、私の従兄の兄様なのよ。香水なんて選びもしなかったのに、いまは兄様並みに季節ごとに探しているもの」
 そうして誰もが少しずつ『自分に似合うもの、着たいもの』を見つけてきたのだと准将が教えてくれる。
 だから心優も、これをスタートにして探してみなさいと諭された。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、こちらを着てお供させて頂きます」
 その箱を受け取ると、ミセス准将もとても嬉しそうだった。
 でも。心優も受け取ると心が躍った。シックで大人っぽいワンピーススーツ。お仕事で着る初めての私服スーツ。これを着て、美麗な准将の秘書官として司令殿とプライベートのおつきあいにでかける。
 それこそ秘書になったような気もして、今度は髪型が気になったり、メイクをどうしようとか考えてしまった。

 おかえりなさい!
 いつ帰ってきたの!?
 お母さんなら、いまいるよ!

 そんな声が准将室の外から聞こえてきた。准将と顔を見合わせ、二人揃ってドアへと目線を向けた時だった。
 准将室のドアがノックもなくザッと開いた。ここでそんな大それた開け方をする人間はいるはずもない。しかし、そのドアが開いて隣にいた准将がとてつもなく驚いた顔になる。
「ママ、ただいま!」
 長い黒髪をさらっと揺らした、紺と白のストライプ柄のワンピース姿の女の子が駆け込んできた。一目散に制服姿の准将へと抱きついてしまう。
「あ、杏奈!」
 一目見て、心優も誰だかすぐわかったほどに。でも初めて当人を目の当たりにして、やっぱり心優は驚きを隠せない。
 写真で見た彼女は御園大佐にそっくりで、でもあどけなさを残しつつも大人びたお嬢様だった。しかし、心優は目を瞠る。女の匂いって……、最初から持っている子は持っているんだ! それを彼女は一瞬で彷彿とさせる匂いを放っている。
 女の子の甘い清々しい匂い。それを振りまいて、彼女がママに抱きついて離れない。
 しかも彼女の背中には、大きな弦楽器のケース。チェロが一緒だった。
「杏奈。あなた、帰ってくるのは来週じゃなかったの?」
「右京おじ様に待てない――って騒いで、一週間早くしてもらったの。だって、いつも夏休み短くされちゃって、レッスンにあてられるから」
「またおじ様と喧嘩をしてきたの?」
 だけれど、杏奈は悪戯っぽい顔をしてニンマリ。
「家出作戦を決行したの」
「家出作戦!? 杏奈、あなたなにしたのよ!」
 あの准将が面食らっている。しかも杏奈のニンマリ顔が、これまたパパがママを丸め込む時の意地悪い顔にそっくり。
「まず、藤波のおじ様のところにお世話になって、その次は、パパと同期生だったジャンおじ様とご家族にお世話になって、その次はママとパパのお友達でお仕事仲間の岸本吾朗おじさまとセシルおばさまのところで二日かくまってくれたかな。ばれる前に次のお世話先に消えちゃうから、もう右京おじ様たら疲れたみたいで『わかった。もう日本に帰省しよう』ってことになったの」
「あ、杏奈……。あなた、あのお兄ちゃまを……、」
 なぜか准将がくらくらっとしたように目元を伏せてほんとうにふらついていた。
「ジャンヌ姉様は……?」
「ジャンヌおば様はいつも私の味方だから、おばちゃまにだけは行き先を連絡していたの」
「……ということは、右京兄様が一人だけで振りまわされていたってわけ?」
 杏奈が、こんな時は無邪気な笑顔で『うん!』と元気よく答えた。
 心優は海人の時同様に、今度はお嬢ちゃんのやんちゃぶりにクラクラしてきた。
 どうやら大人と対立しようとしても、かなり知恵が回るらしい。
「おじ様、最近、また厳しいの。必要以上のレッスンをさせようとするんだもの」
「クラシックの世界に入った以上、練習がいちばんだってあなただってわかっているでしょう」
「わかってるけど……。でも、私、曲をつくりたいんだもの……」
 すると、御園准将がしゅんとしてしまった娘を、柔らかく抱きしめる姿。
「おかえりなさい、杏奈。いいのよ。ここにいる間は好きに過ごしなさい。曲もいっぱい作ったらいいじゃない」
 ママの胸元で、黒髪の女の子がまた子供の顔になってうんと頷き、ぎゅっとママに抱きついた。
「もう……。反抗期ね。あのお兄様を困らせるなんて、たいしたものね」
 抱きついてきた娘の黒髪を、准将が優しい顔で何度も何度も撫でると、彼女がどんどんどんどん赤ちゃんのように甘えてママから離れなくなった。
 心優も側でみていて、やっぱりまだ幼い女の子なんだなあと微笑ましくなる。
 暫くすると彼女からハッとして心優を見上げた。
「もしかして。お姉さんが、海人兄さんが言っていた空手家の少尉さん!」
「はじめまして、杏奈ちゃん。お母さんの護衛を務めております園田です」
 彼女の黒い瞳がぱあっと輝いて、心優をじっと見つめてくる。うわ、すごい麗しく綺麗な瞳。黒色なのに少し青く見えるラピスラズリみたいな目!
「すごい! あのシドにも負けないって聞いているんです!」
「いえ、そんな。フランク中尉ほど強靱ではありません」
「もう、杏奈。やめなさい。それから、いま皆さんは仕事中。ここにいたいなら、そこで大人しくしていなさい。あとでお父さんを呼んであげるから、一緒にカフェテリアでランチをしましょう」
「ほんと!? パパとママとランチ出来るの? うん、わかった。大人しくしてる」
 そういうと、彼女は自分できちんとチェロケースを持って准将室の応接ソファーへと大人しく座った。それからは一切、一言もママに話しかけず気配を殺すようにして静かに本を読み始めた。しかもフランス語横書きの文庫本。
 今度はその姿がとても大人びている。横から見せる佇まいが、姿はお父さんにそっくりなのに、雰囲気は麗しいママにそっくりで、なぜだか心優がドキドキしている。
 お母さんがちょうど飲んでいたチェリーのアイスティーをそっと置いてあげると、『ありがとうございます』と楚々とした微笑みを見せてくれる。大人の微笑みだった。
 これは、鈴木少佐がちょっと気にしちゃうのも無理ないかなと心優は妙に納得していた。
 お転婆そうなのに、杏奈ちゃんは大人しい。パパとママとランチの時間が来るまで静かに静かにしているせいか、心優も気にしないで事務作業に勤しむ午前。
 そろそろランチタイムかな。准将が事務作業に没頭しているようなので、一声かけようとした時だった。准将室のドアからノックの音。
「失礼します!」
 まだ白い飛行服姿のままの鈴木少佐だった。
 午前中は甲板で演習訓練をしているはず。それを終えてもパイロット達はシャワータイムで着替えているはずの時間だった。
 つまり着替えないで、空母甲板訓練から陸に帰ってきてすっとんできたということになる。さすがに准将も眉をひそめた。
「なあに、英太。着替えもせずに」
「もう我慢できねえ! どうして甲板にこないんだよ!!」
 心優もついに来たか――と構えてしまう。雅臣からも『そろそろ准将まで直談判に行きそうな勢い』と聞かされていたからだ。
「なんなの。橘さんと雅臣でも充分、手厳しくて高度な演習をさせてくれるでしょう」
 准将がいつもの涼やかさでデスクを立とうとした。
 すると、その鈴木少佐の前に、黒髪の彼女が立ちはだかっていた。
「英太、まだ、ママがいないとなにもできないの?」
 黒髪のお嬢様が、背が高い大人の彼を見上げている。しかも、突きつけた言葉に心優はギョッとしてしまった。
 さらに心優がギョッとしたのが、そこで鈴木少佐が彼女を見ただけでサッと准将室のドアを閉めて早々に姿を消し、退散してしまったことだった。
「あ、英太が逃げた!」
 黒髪の彼女はそういうと、彼女もドアを開けて飛び出して行ってしまった。
「あー、また騒々しくなりそう……。頭が痛いわ……」
 何故か准将が額を抱えて溜め息。
「ごめんなさい。心優。杏奈を連れて帰ってきてくれる? 私の娘だと誰もが知って大事にしてくれるけれど、やっぱりまだ子供で、でもあのように子供のような身体ではなくなってきて、でも無防備であぶなっかしいの。あれでもまだ十四才。ここは大人の男も多いから一人で出歩かないよう言い含めているけれど、いつもあんななの」
 それもそうだ。あんな匂いのする女の子が男ばかりの場所でふらふらしていたら、いくら御園准将の娘でも一瞬でかどわかすことだって可能だろう。
「かしこまりました。お嬢様がどこかに行きたいというならば、わたしがそれとなく護衛します」
「ありがとう、心優」
 そのために心優を外に出してくれた。心優も急いで追いかけた。本部の階段を下りたすぐ下の階。そこに白い飛行服姿の彼と、黒髪のお嬢様を見つける。
「待ってよ、英太」
 彼女が大人のお兄さんに追いついて、白い飛行服の腕をひっぱったところだった。
「ママのところにいろ。いつも言われているだろ。男ばかりなんだから、ふらふらするなって」
「なんで逃げるの」
「いま俺は仕事中!」
「ママのところに、ワガママを言いに来たのも仕事なの?」
 大人のお兄さんの顔を、彼女は果敢に覗き込む。逃げようとするお兄さんと無理矢理に目を合わせようとしていた。
「う、うるさいな」
「いつまでも、ママだって甲板にいないよ。……はやく、楽にしてあげてよ……」
 十四才の彼女はもう、ママが何で苦しんでいるか知っている。苦しみの根元を知っているかどうかはわからないが、でも、ママが何かしら抱え精神を崩すことがあることをきちんと理解している。
「わかってる」
 鈴木少佐が、やっと黒髪の女の子の顔を見下ろした。
 そこでしばらく二人がそのまま黙って見つめ合っているのを、心優は息を潜め階段の踊り場から見下ろしていた。
 目を擦りたくなる。鈴木少佐と彼女がそれほど歳も離れていない男性と女性に見えてしまったから……。
 無言で視線で語り合っている様に見える。
 やがて、鈴木少佐が黒髪の彼女の頭を撫でた。
「おかえり、杏奈。今夜、隼人さんの家に泊まりに行くな。その時、ゆっくり話そうな」
「この前の航海の話も聞かせてくれるの」
「うん。ママがおまえの曲を聴いて、優しい顔をしていたこともな」
「わかったよ、英太」
 彼女から白い飛行服のお兄さんに抱きついていた。それはそれで可愛らしいのに、そんな彼女をあの鈴木少佐が愛おしそうにぎゅっと抱き返したのを見てしまった……。
 やっぱり。鈴木少佐はもう、ミセス准将への気持ちに整理をつけて、いまはあの彼女へと気持ちが向いている。心優はそう感じて、見なかったことにした。
 『じゃあな』と鈴木少佐が離れてから、心優は杏奈に声をかけようとしたが、彼女は鈴木少佐の背中をいつまでもみつめている。
「杏奈ちゃん」
 黒髪の彼女がやっと我に返って、階段から下りてくる心優を見上げた。
「母のところに帰りますね」
「どこか行きたいなら、わたしがついていくよ」
「いいんです。父にも早く会いたいから」
 家族にはちょっと甘えた顔をするのに、そうでなければ大人の顔。

 

■ 今夜は完結、二話同時更新です。最終話45話へどうぞ! 

 

 

Update/2015.10.7
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