◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

TOP BACK NEXT

 EX1. お待ちください、ベイビーちゃん(3)

 

 日暮れ、薄闇に紛れるようにして、男二人は警備口で待っているタクシーに乗り込んだ。
「はあ〜、なんですかね。このスリル感」
 隣に座った金髪のシドは、タクシーに乗り込んでも妙に辺りを気にしている。
 これも海兵隊の性なのかなと思うほどだった。でも『スリルだ』と大きな身体を丸めているトラ猫王子を隣で見ているのはなかなか滑稽で、雅臣はつい笑ってしまっていた。
「若手ナンバーワンの海兵隊員がなにいっているんだよ」
「俺と城戸サンが一緒なんて、どう考えてもおかしいじゃないですか。しかも、まさかのあそこに連れていくことになるなんて」
「シドがそこがいいって言ったんじゃないか。他にないのか、本当に。いまから行くところが本当に行きにくいところなら、シドが行きやすいところでもいいんだからな」
 本当は、変なオジサン達の溜まり場にものすごく興味があるけれど。この御園ファミリーであるトラ猫がここまで嫌がると、雅臣もそれはそれで『そんなに嫌なところ?』と警戒してしまう。
「ダイナーなんて以ての外。寄宿舎にある倉庫バーは若い隊員達の騒ぎ場で、俺が行くならともかく臣サンが行くと若者がびっくりするし」
 俺、いつから若者じゃなくなったんだ――と臣サン密かにショック。でも、秘書官を必死にこなしている内にいつのまにか三十も半ばになっていたので本当のところ。
「ムーンライトビーチっていうショットバーは奥様が幹部と集う場で、ここは臣サンがお似合いだけれど、俺は子供扱いされるところで、Be My Lightというレストランこそ基地中の誰もが来ていて、俺達二人絶対に目立つ。あとの飲食店は軍人がいるだけで目立つ。あ、料亭があったな。連隊長御用達の……」
「あー、『玄海』という店か。パイロットだった頃、一度だけ葉月さんが連れていってくれたな。そこは敷居が高いな」
「でしょー。となると、この峠を越えた島の裏側にある漁村しかないんですよ。基地があるこっち側はまさに軍人がうろうろしているから」
 なるほど。基地の裏側、島の山をひと越えした海岸にある漁村か……と雅臣も納得した。
 そのタクシーがちょうど、峠を越えたところ。時間はそんなにかかっていない。だがタクシーでなければ来られないほどのところに、御園大佐はわざわざ行くのかと驚きだった。
 それほどに通ってしまう場所とは如何に。
 峠を越えるとすぐに海辺を走り出し、漁港へと辿り着く。タクシーが止まっただけで、雅臣はそこをみつけた。
「屋台?」
 赤提灯に『なぎ』と書かれている屋台が港でぽつんと営業している。
「将さんていう『大将』が、親父達の愚痴を聞いているってところっすかね。元は奥様がパイロット達と通っていたところみたいだけれど、いつからか御園の親父たちの集まり場みたいなんですよ」
 まさかの屋台! しかもまさに『親父が集まりそう』!
 タクシーを降りて、その屋台へと向かう。もう屋台にお似合いの親父さんがいる。タオルハチマキにジャージという姿の彼が、寸胴鍋の中身を怖い顔で覗いている。
「大将、久しぶりー」
 シドは既に顔見知りだからか、軽い調子で大将に声をかけた。
「おお、シドじゃねえか。任務から無事に還ってきたんだな。ご苦労さん」
「なかなか大変だったよ、今回は。あの奥様のお供も楽じゃないっすね、といいたけれど、なかなかやりがいがあったかな」
 トラ猫王子が少しだけ無邪気に見えたから不思議だった。その親父さんの顔を見ただけで、基地ではきついオーラを放っているシドが心を緩めてしまう、そんな場所?
 タオルハチマキに不精ヒゲの大将が、シドの後ろにいる雅臣を見た。
「んー? 子猫にお友達か? お友達にしては、シドにはお兄ちゃんすぎる大人のお友達じゃないか」
「子猫っていうなよっ」
 ここでは、赤ちゃん扱いになってしまうらしい。なるほど、おじさん達の縄張りという匂いがプンプンしてきた。そんな雅臣は落ち着いて大将に挨拶をする。
「城戸雅臣と申します。雷神の指揮を、御園准将から任されています」
 そういっただけで、大将がものすごく驚いた様子で後ずさるというあからさまな反応を見せた。
「あんたか! 葉月ちゃんを泣かしたパイロット。雷神のいちばん最初の、キャプテンだっただろ」
 葉月さんを泣かせたパイロット――という認識に雅臣は目を丸くする。
「泣かせたといえば、泣かせたような……。ですが、雷神のキャプテンにと准将が抜擢してくれたというのは、自分のことです」
「そ、それ以上はいわなくてよし! つーことは、横須賀から来た『新しい大佐』だな」
 よく知っていてびっくりする。それ以上言わなくていいということは、雅臣が事故で雷神を去ったことも知っているようだ。
「そ、そうです。よくご存じですね」
「おっしゃー! やっと来たぜ、真のエースパイロット! 今夜はこれだな!」
 もう詳しく自己紹介をしなくても大将はなんでも知っているようで、雅臣の目の前にドーンと日本酒の一升瓶を置いた。
「えー、俺はワインがいいなあ」
 早速シドがむくれた。
「ワインなんてこじゃれたもんがほしい赤ちゃんは、峠を越えてアメリカナイズな基地に戻りな。こっちは昔っから日本なんだよ」
「じゃあ。おっちゃんの、おでんが食べたい」
 あのトラ猫王子が、だんだん子猫に見えてきて雅臣は目を擦りたくなってきた。
「よしよし。おまえ、よく来たな。今日は隼人君もこないんじゃないかな。純さんは仕事が明けないとこっちにはこないし、そうなるとジュールもお手伝いで忙しくてこないだろうな。エドはいまは横須賀にいるようだしな」
「マジで、よかったー。大佐とゆっくり話せる」
 なんだ、御園大佐はこないのか……とがっかりしてしまった。そこで雅臣は初めて気が付いた。俺、隼人さんに相談したかったのかもしれないと――。
「ほれ、大佐も座りな。まずはおでんでいいかな」
「はい。いいですね。まさか島暮らしで本格的なおでんに出会えるとは思いませんでした」
「おう、まずは新規ご来店のお祝いで、おっちゃんのおごりな」
 豪快な大将が、ガラスコップにとぷとぷと冷や酒を注ぐ。
「はー、親父くさ。俺、日本酒のクセがまだ慣れないんだよな」
 シドが面倒くさそうにガラスコップを持つ。
「だからまだ子猫ちゃんなんだよ。文句言うならこっちくんな」
「いただきます、大将」
 初来店サービスの一杯を手に取り、最後は年代が違う男三人、ひとまず『いらっしゃいませ、初めまして』の乾杯をした。
 さっそく出されたおでん盛りを食べたが、極上だった。
「うまい。こんなにうまいおでんを食ったの久しぶりだな」
 これは心優にも食べさせてあげたい――。そう思ったが、ここに来るのは確かに『気持ちが向かうかどうか』は難しそうな雰囲気。
 親父の店、御園が集まる、シドは子猫と子供扱い、基地の裏側で小さな峠を越えなくてはならない。
 だが、うまいおでんと、何も言わなくてもわかってくれている親父的な大将。そして静かに凪いでいる漁港。港も自分たちだけで静か……。
 ここで黙って酒を飲んで、うまいおでんを食べているだけで。それだけで、落ち着くような気がする。なるほど『男の場所だ』と雅臣もだんだんと親父達の気持ちがわかってきた。
「シド、葉月ちゃんは大丈夫だったか」
「んー、まあ。そこそこかな」
「そっか。いつまであの子は無茶するんかね。コックピットにいる時から、どこまでも自分を追いつめて」
 大将は自分の妹か娘を案ずるかのように、疲れた顔を見せた。
「大丈夫だって。今回は司令の配慮だったと思うんだけれど、旦那さんが途中で空母に配属されたんだ。高知沖で補給があったんで、その時に補給艦に乗って帰ったけれどさ」
「そうか。海東君もそこは心配だったわけだ」
 親父さんとシドのなにげなく続く会話。でも、雅臣はおでんのちくわを頬張りながら目を瞠っている。その、その、御園の極秘がつまった話をここで易々と。しかも壁もない野外で大丈夫なのかよ――という驚きだった。しかも親父さんなんでも通じているし、海東司令を『海東君』と呼ぶなんてどんな大物!
「司令も、御園と提携していないと困ること多いんでしょ。そりゃあ、葉月奥様を大事に大事にしているよ」
「そうして葉月ちゃんも守ってもらっているわけだしな。ちょうどいいギブアンドテイクってところか」
 話の内容がわかりすぎるぐらいにわかるのに、雅臣は驚きすぎてまったく話に入れない不思議な状態。
 しかも雅臣がそれを聞いてもいい人物なのか、聞かせてはいけない人物なのか。そんな警戒も一切なし。それはつまり? 既に御園大佐やミスターエドから『城戸大佐という男はうちの仲間』と伝わっているということなのか? もう雅臣の頭の中はぐるぐる渦巻いている。
「シドも夢が叶って良かったじゃないか」
「は? 俺の夢? そんなもんないっつーの」
「なにいってるんだよ。おまえさ、子供の頃、『僕、日本に来たら忍者になる』て言っていたじゃないか」
 雅臣のとなりで、シドがコップ酒をぶっと噴いた。
「俺、おっちゃんにそんなこと言ったか?」
「言ったわ。かわいかったなあ。あんころのシドは、ママに連れられてここに来たことがあっただろう」
「うーん、覚えているけれど。俺、そんなこと言ったのか。マジか! うわ、恥ずかしい!」
「いまは、空母の艦長様を守る裏方の海兵さん。忍者みたいなもんじゃないか」
「やめてくれ、おっちゃん。そ、それ以上、俺がガキの時の話、大佐の前でしないでくれよ」
「あー、そうそう。城戸君、この子、時代劇の大ファンなんだよ。それで『僕、忍者になる』なんだよ。かわいいだろ」
 金髪青眼のフランス生まれの王子が、『時代劇の大ファン』。しかも子供の頃の夢が『忍者』。もう雅臣も駄目だった。『マジかよ!』とコップ酒片手に大笑いをしてしまう。
「わーっ! だからここに来るのいやだったんだよ! 初めてきた男にここまで俺のことを喋られるとは思わなかった!」
 『くそ、もう一杯!』と、シドが一気に飲み干したコップを大将に差し出す。大将もかまわずになみなみとコップに日本酒を注いだ。
 もう雅臣もおかしくて、おかしくて。まさか、こんなトラ猫王子が見られるとは思わなかった。
「だってさ。俺って、大人になったら日本の御園家を護衛することを前提に育てられたんだぜ。朝飯も納豆とか平気ででてきてさ。イタリアの離島だったんだぞ。なのに、納豆が当たり前に出てきて、エドにだし巻き卵とか食べさせられて。いまでは、どーしてだよう……。エドのだし巻き卵が『おふくろの味』になっちゃって泣けてくる!」
「すごい育てられ方してんな、シドは……。ミスターエドとかと一緒に暮らしていたりしていたんだ」
「うーん、まあ。母親も実業家なんで忙しい人だったから、黒猫の大人が必ず一人は俺と留守番をしてくれていて、みんなが俺の育ての親って感じっすかね。日本のことは黒猫の大人達に刷り込まれたようなもんですよ。時代劇のDVDをみて、日本の文化や歴史を視覚的に軽くまずは知るという感じでしたね。でー、俺、むっちゃ侍とか大好きになってしまったんですよ。着物の日本女性もめっちゃ憧れ。だから、アジアンビューティーとか、アジアンキュートな心優……」
 あっという間に酒で酔いが回ってきたのか、シドがそこでぽろっと『心優』とこぼした。そして、雅臣もギョッとする。
「もしかして……。シド。それで、日本女性が好みとか……」
「いうなー! 気が付いても、言って欲しくないっす! 大人の男なら、そこはスルーでしょ、臣サンっ」
「さらに、もしかして……。酒、弱い……」
「城戸君。もうそれ以上は、子猫のことはそっとしておこう。ま、こうしておけば、生意気なことも言わないで大人しいからな。ほい、シド、もう一杯行け」
 子猫をぐだぐだにして、大人しくさせて、こっちは大人の話をしようという大将の狙いにも雅臣は目を丸くするし、あれだけ生意気なトラ猫王子が、日本酒三杯でぐだぐだになったのにも驚くしかない。
 シドはもう本当に子猫のように、大人しくおでんを食べる男の子みたいになっていたので、雅臣も笑いが止まらない。
 大笑いして気持ちがスカッとしてきたせいか、楽しそうにしている雅臣を見て親父さんが感慨深そうにこちらを見つめている。
「城戸君とは、初めての気がしないんだよな。会うのは初めてだけれど……。なんつーか、葉月ちゃんが城戸君を手放した時の泣きようが異常だったもんで、印象的だったというか」
「え、葉月さんが俺のことで、ですか?」
「ああ、もう。事故で大事な大事な部下を失った、手痛く小笠原から追い出したて、ここで管巻いて呑んだくれてさ……。あの子がああなるのは滅多にないこと。隼人君と一度別れちゃったことがあって、その時に戻りたいけど戻れない、彼が好きだけれど近づけないという状態の時があってね。あのもどかしーい時に一度、呑んだくれてぶっ潰れて。結局、隼人君が迎えに来て面倒を見るという。それ以来じゃないかな」
 大佐嬢だったミセスと御園大佐が、一度別れたという噂は、若きパイロットだった雅臣も聞いたことがある。その後、ふたりがどうなるかというのも基地では注目されていた話題でもあった。
 そして雅臣も、大事にしようとしていた女性隊員を泣く泣く手放したことがある。いまはすぐそばにいるけれど、心優を手放してしまった時の痛手……。それを、葉月さんも、俺のために感じて、男と別れた時ぐらいの気持ちで、泣いてくれていたんだと初めて知ってしまう。
「隼人君からも聞いているし、デイブ……、えっとコリンズ大佐からも。そして、ブライアン、ミラー大佐からもな。誰の口からも、城戸君のことは聞いていてね……」
「そうでしたか。つらい事故でしたが、当時は大人になりきれず、上官の皆様には大変な迷惑をかけたと思っております」
「かけりゃ良かったんだよ。小笠原でさ。葉月ちゃん、その覚悟はしていたよ。でも、城戸君自身が甲板に拒絶反応を起こしているのを目の当たりにしたのが、彼女に決意させたんだろうね。だってさ、彼女だって、拒絶反応……。知ってるんだろ?」
 ミセスのPTSDのことを暗に仄めかしているとわかった。この大将は御園ファミリーに等しい。雅臣もわかってきた。だから信じて、静かに頷いて返答する。
「本当は、城戸君の痛み。いちばん分かる人間が、その時の上官、葉月ちゃんだったんだよ」
「後で、わかりました。それも知らずに、先に知った部下だった彼女を引き抜かれた時、葉月さんを恨みました。俺から奪っていくのかとか、やっぱり俺はもう眼中にはない用なしで、まだ未熟な俺の部下なら伸びしろがあって育てられるとみせつけているのか――とか。だいぶ荒れました」
「まあ、知らなかったんだから仕方がないよな。そこは、葉月ちゃんもわかっていたと思う。そう思われて、恨まれて然るべき道を上司として選んだってことをね」
 だんだん、やるせない気持ちになってきた雅臣は、手元のコップ酒をあおった。
「城戸君をつっぱねる決意をするまですごく悩んだみたいだな。『あの子は、私と一緒になった。ある日突然、これこそ自分の生き甲斐、誇りというものを他人の憎しみを全身に受けて奪われた。その痛み、生半可なものではない。どうにも消えない。一生付き合っていく。だから、わかる。きっといま、あの子は甲板にいたら駄目だ』と言っていたね。ほら、葉月ちゃんもヴァイオリンを奪われただろう。動けない手でヴァイオリンを弾けと言われるほど残酷なことはない。飛べなくなったのに、空に飛んでいく部下や後輩を心から応援できるのだろうか。否、私ならできない。だから、あの子は『いまは』甲板から降ろすてね」
 雅臣は黙りこくる。あの時の、痛みに哀しみがぐわっと蘇ってきた。同時に、空を飛べる後輩達への羨望も、前に行きたいのに拒絶する精神と身体。あげくに、横須賀に帰れと突き放されたミセス准将への暴言。過去の自分を思い出すと居たたまれなくなる。
「俺にもおかわり頂けますか」
 空になったコップ酒をカウンターの大将へと差し出す。
「いいんだよ。それがあって。ようやっとここに戻ってこられたんだろう。頑張ったんだろ」
 雅臣のコップにも溢れそうなほどに、日本酒を注いでくれる。雅臣も、今夜はなんだか変な気分になってきた。嫌な気分ではなくて……、こう溜め込んでいたものが、いまここで飛び出していく予感のような、奇妙な気分。
 ああ、これかあ。それで御園大佐はここにくるのか、よーくわかった。しかも、なんだかんだいって、航空隊の大佐殿達も通っているじゃないか。しかも、葉月さんまで。
 御園の男がよく足を向けるのだろうが、そうではない。御園の溜まり場というわけではなくて、あの人達の『軍人ではない兄貴』がここにいるから来るんだ。
 これじゃあ。まだまだ青年まっさかりの子猫王子は、大将の手のひらに乗せられてぐだぐだするはずだ……と、雅臣はすでに目が据わっているシドを見る。
「おい、トラ猫。まだ子供はいらないって彼女と話し合っているから、遠慮せずに思いっきり訓練の相手をしてやってくれよ」
 雅臣もコップ酒を一気呑み。あおって、シドの背中をバシリと叩いた。
「ああ、くっそ! 心優のかわいいおっぱいに、俺の好きなバニラアイスをのっけて舐めてみたかったなー」
 またとんでもないことを言い出したトラ猫王子の大胆発言に、今度は雅臣が酒を噴き出しそうになった。
「はあ? これから夫になる男の前で、よくそんなことが言えるな」
「これくらいのやっかみ、いいだろ。いつだって心優のかわいいおっぱい触れる男なんだから、さー」
 というか。確かにあのかわいいおっぱいに、アイスを乗っけて舐めてみたい。雅臣もそんな気持ちになってしまったではないか!
「あー、臣サン。俺のアイデアを、今度やってやろうとかって顔しているでしょ。ひでーなー。最低大佐!」
「するわけないだろっ。なにいってんだよ」
 いや、したいなと思った。やってみようかなと確かに思った。
「そっちも、俺の妻になる女を妄想でも勝手に使うな! 妄想でもおっぱい舐めるの禁止だからな」
「はー、妄想なんかしなくても。女には困らないし?」
「そうだ、そうだ。そっちで我慢しろ。心優は絶対に、渡さない。触らせないからな。押し切って触っても駄目だからな」
「んな、こと。これから先のことなんかわからないのが男と女っしょ。ねえ、おっちゃん」
 大将もそんな二人のやり取りをみて、平気な顔で『わはは、そうだな。その通りだな』と高みの見物のようにして笑っている。
 でも、そうして。お互いに気が済むまでやり合うのをそっと見守ってくれているようだった。
「あのソニックだから、俺だって、我慢してるんすからね。十代の時に見た、城戸サンのスワローアクロバット、めっちゃかっこよかった。特にテイクオフしてから直ぐの! めちゃくちゃ低空からの、急角度急上昇のハイレートクライム。『すげえ無茶すんな』ってやつを観客の目の前でやってのけたあのテクニック。あれすごかったー。エースの成せる技だった。心優が城戸サンを好きだってわかった時、あの男かーって、ショックだったもんなー」
「え、そうなんだ? 俺の展示飛行とか見てくれていたんだ」
 あのトラ猫王子が、もう顔を真っ赤にして酔っぱらって……。カウンターにしょんぼりと顔を伏せている。
「広報映像の、コックピットの城戸サンもめっちゃかっこよかったもんなあ。ソニックのアクロバット、ほんと、俺も好きだった」
「そっか、あ、ありがとうな」
「ソニックでなければ、マジで奪っていたからな!」
「うん、わかった。……ていうか、その、これからも心優のこと、よろしくな」
「あー、くっそ! なんだよ、もう!!! おっちゃん、酒!」
 はいはいと、大将が今度はどうしてか真顔で子猫のコップに酒を注ぐ。
 はあー、俺もどうして! 真っ正面から『あんたの妻になる女、狙っている。好きなんだよ』とかいう男に、『これからも妻をよろしく』なんて言わなくちゃいけなかったのか!
「大将、俺もおかわり」
「はいよ」
 やけくそになる場所、なれる場所。きっとここにはまたくるな。雅臣はそう思った。
 思ったけれど。何杯酒を飲んだか、覚えていない。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ハッと目を開ける。布団の上だった。そして、ヒヤッとした。
 俺、呑んでいたのでは? ここ、どこだ?
 でも。『コックピットの俺』が壁に貼ってあるから、ここ、俺の家だよな? そうか、俺、ちゃんと帰ってきたんだな。
 でも。俺のコックピットの写真を引き伸ばして作ってくれたポスター……。ベッドルームではなくて、和室に貼り替えたよな?
 ここ和室? 俺の家だけれど、なんで俺、今日は和室で寝ているんだ?
 心優は――。痛む頭を抱えながら、雅臣はむっくりと起きあがる。
 畳に敷かれた布団の上だった。こっちで寝ることなんてない。ここは心優の母親が小笠原に遊びに来た時に泊まっていく部屋で、その為の布団。
「屋台にいたのに? あれ?」
 見下ろすと、ネクタイは外れていたが、しわくちゃになっている白シャツとスラックス、制服を着たままだった。
「んー、」
 誰かの手が、雅臣の手に触れた。人肌、暖かい人の体温。
 なんだ心優、俺と一緒にそこにいたのか。声がした方に振り返って、雅臣はギョッとする。
 そこで横たわっているのは、金髪の男! おなじくしわくちゃになった制服姿のままで眠っているシド!
「う、」
 うわー! なんでおまえがここにいる!! ここ俺の家! と叫ぼうとしたら、青い目がぱっちり開いた。彼も雅臣をみつけて凝視している。
「うわーーーー! なんだ、これ!!!」
 雅臣が叫ぶ前に、がばっと起きあがったシドが叫んだ。
「なななな、なんで臣サンがここにいるんだよ」
「俺だって、どうしておまえが俺の家にいるんだよ」
「え、臣サンの……?」
 シドが辺りをキョロキョロと見渡す。官舎の一室、和室で、壁にはスワローパイロットの広報ポスター。
 彼の顔色が見る見る間に青ざめていく。
「嘘だろ。俺……、絶対にきちゃいけないところに来た!?」
 片想いをしている彼女の愛の新居に来てしまったという彼の衝撃。でもかろうじて、彼女と大佐殿が愛しあっているベッドルームではない。
「なんで、臣サン。俺の自宅は、丘の御園家マンションだって知ってたんだろ」
「聞いてはいたけれど、昨夜、どうやって帰ってきたか覚えていない」
「俺もだ。どういう経緯でこうなった。というか、男と寝ていて目覚めるだなんて最悪だ。しかも、城戸大佐と心優の自宅だなんてっ」
 シドがすっかりパニックを起こしているが、雅臣もなにがなんだかわからない。
 すると、和室のふすまがすっと静かに開いた。
 そこには夏シャツ制服にスラックス姿の心優がいた。彼女の冷めた目線……。それだけで男二人は『そうか。俺達は酔って前後不覚になって、ここに帰ってきたのか』と悟った。
「城戸大佐、フランク大尉。おはようございます。お食事が出来上がっておりますよ。お風呂も沸かしておきました。あと一時間で出勤時間です。早めの支度をお願いしますね」
 基地でそうであるような秘書官の顔で言われた。それだけいうと、心優はすうっとふすまを閉めていなくなった。
 雅臣の背に、さあっと冷や汗が滲む感覚。それはシドも同じく。
「どーすんだよ、臣サン。俺達、二人で会ったことがばれないようにって漁村に行ったのに。二人で酔っぱらって、しかもここに帰って来て心優に知られるって。無駄になってんじゃん」
「あー、そ、そいうことになるのか!」
 飲み過ぎて重い頭を抱えながら、雅臣はさらにがっくりと項垂れた。
「嘘だろー。心優のあの顔、めっちゃ怒ってるじゃん。俺と臣サン、どうして会っていたのか絶対に勘ぐっている」
 どうして会っていたか、言わなくちゃだめ? いわなくてもなんとかなる? トラ猫王子のパニックは続く。
 だが、雅臣は腹をくくった。
「なんとかする。シドは余計なこと言うなよ。俺がなんとかするから」
「聞かれたら、正直に答えるってことなんすか」
「わからない。心優と正面切って話さないとわからない」
「俺が心配していた件だけは、絶対に言って欲しくない」
 そこは男として、そして、心優が哀しまないためにも死守せねばならないことは雅臣もわかっている。
「安心しろ。そこは言わない。言わないが、なんとかする。どうする、一度、家に帰るか? 帰るなら俺の自転車を貸してやるけれど」
 シドが腕にしているミリタリーウォッチを眺めて唸る。
「間に合いませんね……」
「シドも腹をくくれ。うちで風呂浴びて、メシ食っていけよ。俺のシャツ、貸してやるから」
「うわー、女が結婚生活する家で酔いつぶれて、風呂借りて、夫のシャツ借りて出勤って最悪じゃねえかよ」
「まだ結婚していない」
 同じじゃないか! とシドがじたばた布団の上で暴れ出した。なんだこのガキンチョは、おまえは本当にシークレット隊員の『チャトラ』なのかと首を締め上げたくなってきた。
 再度ふすまが、勢いよく開いた。
「シド、うるさい! 臣さんも早くして!」
 またドンときつくふすまが締められる。
「怒ってる。心優がマジで怒ってる」
 トラ猫王子が、さぐられたくないことが彼女にばれるのではないかと、すっかり怯えている。
 そして雅臣も、溜め息……。
 (二度目の)どうしてこうなった。
 まさかの、恋のライバル(?)トラ猫王子を家に連れて帰ってきてしまうだなんて。
 心優はどう思ったのだろう? 絶対に近寄らないだろう男を雅臣が連れて帰ってきてしまったこと。また一緒に呑んだくれていたことも。

 

 

 

 

Update/2015.12.1
TOP BACK NEXT
Copyright (c) 2015 marie morii All rights reserved.