御園大佐の行動も素早い。雅臣が『ミセス准将から、エース鈴木を奪う』と明かした途端、シミュレーション機『チェンジ』へと乗せられてしまう。
『城戸君、コックピットの準備はいいか』
既に雅臣は、シミュレーション機のコックピットに座らされていた。
まってくれ、まってくれ。そりゃ、確かに『コードミセス』のデーターを見せて欲しいとお願いしたが、『今日、対戦させてくれ』だなんて言ってない。
彼女のデーターがどのようなものか確かめてから、対戦したかった。なのに、御園大佐は『前もって見ておいても見ておかなくても同じだよ。話を早く進めたいなら、今日体験しておきな』とワケのわからないことを言い、雅臣を強引にシミュレーション機の箱の中に押し込んだ。
彼は二階にあるシミュレーションコントロールルームへと上がってしまう。
仕方がない。コードミセスがどんなものかもう体感してしまおうと、雅臣も破れかぶれな気分で、シミュレーション機のコックピットシートに座り、衿から黒ネクタイだけを引き抜いて、シートベルトを締めた。
『ヘッドマントディスプレイを装着できたかな』
コントロールルームにいる御園大佐の声が、シミュレーションコックピットの上部スピーカーから聞こえてくる。
「OKです。ベルト装着も完了です」
『では、離艦してみようか。コードミセスとの対戦をセットしておいた』
「ラジャー。エンジンをかけます」
もう戦闘機パイロットを引退はしたものの、このシミュレーション機では引退パイロットも、ファイターパイロットに戻れる。
ただ、重力がないだけ。コックピットは油圧式で回転するのでそこはリアルに遠心力に振りまわされる。だがそれぐらいの耐久性はまだ維持している。
重力がなければ、操作性はかなり楽なほう。ただ対戦するデーターもそこは考慮されてデーター化されている。
だが雅臣は既に手に汗を握っていた。久しぶりの操縦桿に汗の感覚。
エンジンスタート。コックピット、キャノピーの窓の外には甲板要員が群がる映像までもがリアル。
『いっておいで』
御園大佐の合図で甲板要員が海へと向かって『GOサイン』を突き出す。それと同時に映像もカタパルトを滑り出した。ガタンとした振動までもがリアル。
カタパルトのレールが見えなくなり、目の前は海と空。そこで雅臣は染みついた感覚のまま、操縦桿を動かし機首を上空へと向ける操作をする。そのまま座っているシートも空上昇をする角度へと傾く。旋回をする時も斜めに上手く傾く。
うまく上空へと乗った。
『もうコードミセスは動いている。ソニックがどう対応するか楽しみだよ』
御園大佐の楽しそうな声が聞こえてきた。だが雅臣はもう既にレーダーを眺め警戒している。
まだレーダーにはいない。
なかなか現れない。向こうはもうソニック機を確認しているのか、そういう反応をしているのか。彼女のデーターがどう雅臣を捕らえるのかまったく見当がつかない。
そもそも『御園葉月』というパイロットと共に空を飛んだことがない。彼女の飛行を生で見たことは何度かある。それでも小笠原と横須賀という異なった基地に所属していたため、頻繁に目撃したわけでもない。映像だって一部残されているだけ。そして彼女は雅臣よりも十期以上も離れた大先輩だ。雅臣が戦闘機パイロットとしてようやっと慣れてきた頃、彼女はもうコックピットを降りていた。雅臣が実力を開花させエースとして活躍していた頃も、彼女はすでに指揮官として異なる道を歩いていた。それだけの年の差がある。現役としての接点がほぼなかった。彼女の噂のみ、こうしたデーターでしか計り知れない。
ただ噂では『女だから男と違うことを考えて飛んでいる』とか、あるいは『あの女と飛ぶとろくなことがない。死神が見える』とまで揶揄する先輩パイロットが多かった。
彼女の過去を聞けば、その心情もわからないでもない。彼女と似通ったパイロットとしてすぐに思い浮かぶのも『英太』だった。いつ死んでもいいと思って飛んでいるパイロットもいる。そんな彼等の飛び方は、きちんとした心構えで飛ぶパイロットとは異なると聞いている。
二人が似ているなら、やはり二人のデーターを見て知っておかねばならない。『優等生なエース』と言われた雅臣にはまったくない心情で飛んでいたはずだから。
レーダーに点が出現した。
――来た。雅臣は構える。
あの人のことだ。俺とは違う飛び方をしているはず。そうだな。できる限り、高度移動で起きる重力負担を減らすこと。そして荒っぽいドッグファイトは真っ正面から受けないこと。相手に動きを読まれないこと。
「読まれないために、どう飛んでいたんだ」
レーダーに点はあるし少しずつ距離を縮めてきているが、雅臣がいまいる高度までは来ていない。
俺の真下にきて、ひっついてくるだけ。そんなコース取り。
英太からちらっと聞いたことがある。『葉月さんは一気に高度を上げてくる。一回きりの高度上げですぐにロックオンをするような位置取りを考えて一発で仕留めようとする。無駄な飛行はしないと決めているだけあって、もの凄く効率的。あれは参考になる』と――。
『城戸君、なにかかんじるか』
御園大佐の声が途端に不安そうになったので、雅臣はふと不思議に思った。
いえ、まったく――。そう返答しようとした途端だった。
ピーピーピーとコックピット内に警報音が響き渡る。
ハッとしたのと同時に雅臣は反射的に『背後をとられた、ロックオンされる』と判断した脳が操縦桿を傾け、即旋回、背後にきた敵機の視界から回避! の動きをとっていた。のに! その旋回した真横に何故か一機の戦闘機がいる。
――ぶつかる! いつ、どうして、そこにいた!? いま背後にいたのではないのか! どうして真横にいる!?
その戦闘機はF18ホーネット、尾翼にはスズメバチのイラスト。瞬時に見えた機体番号末尾は『2』。ビーストームというフライトチームの2号機といえば『ティンク』。つまり、御園葉月の機体。
『あぶない!』
シミュレーションなのに、御園大佐の切羽詰まった声が聞こえてきた。
だがギリギリ! ティンクの機体すれすれに右翼をかすめ、雅臣は旋回降下することができた。だがその直ぐ後をティンクにマークされ、彼女の機体が同じように雅臣と降下してくる。降下で回避するのに精一杯の雅臣の機体を彼女のデーターは上空から余裕げに見下ろすように追いかけてきて、ロックオン。
すぐにコクピットが真っ赤に点滅する。つまり『ロックオン後、即座に撃墜された』ということ。
勝負有り。一瞬の敗北。三分も経っていない!
「嘘だろ」
くそ! 操縦桿を悔し紛れにひっぱたき、シートへとがっくり身を沈め、雅臣は目を覆った。
すぐにコックピットが明るくなる。キャノピーに広がっていた青空も海も消え、無機質な機械の部屋へと戻った。
シミュレーション機の搭乗口となっているドアが開いた。そこに御園大佐の姿が。そんな彼が悔しがっている雅臣に呟く。
「第一戦で勝てた男は一人もいない。そんなデーターだよ」
それを聞いて雅臣は驚き、でも、エースだった自分だけでも『ただ一人の勝てた男』になれたかもしれないのに、なれなかった情けなさを再認識して、再度項垂れてしまう。
そんな雅臣を見て、さらに御園大佐が申し訳なさそうに教えてくれた。
「変なデーターなんだよ。まあ、俺の弟がすこしばっかり悪戯をしたデーターなんでね。うちの葉月自身であってそうではない、だから極秘にしている『最強データー』と言えばいいかな?」
ん? 『すこしばっかり悪戯をしたデーター』?
雅臣はいぶかしいまま、御園大佐の顔を見上げた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
『チェンジ』というシミュレーション機は、『彗星システムズ』というソフトプログラムを扱う会社と、御園大佐の実家である『澤村精機』がハード部分を担当した共同開発。
御園大佐の実弟『澤村和人』氏が、現在の澤村精機の社長。
がっくりと脱力しながらも、雅臣は一戦を終えただけで御園大佐に連れられて、工学科科長室へと戻ってきてしまう。
がっかりして項垂れている雅臣を応接用の長椅子に座らせ、御園大佐自ら珈琲を淹れてくれ目の前に置いてくれた。
そして御園大佐も自分のカップにカフェオレを作って、やっと雅臣の目の前へと座って落ち着く。
「あのデーターが極秘なのは、正式なデーターではないからなんだよ」
「どういうことですか」
「最初は弟が『義姉さんのデーターは俺が管理する』と言いだして、葉月の飛行映像と、葉月がチェンジに乗った時のデーターを収集して真面目に、他のパイロット同様にデーター化していたんだよ。ただ、ある日。弟が思いついたんだ。『義姉さんの体力とか関係なく、技能と脳パターンだけにしたらどんなデーターになるんだろう』と。つまり、男より体力が劣るから、では、彼女のデーターから『体力負担』を除外して『技能と脳と判断力』だけにしたら、どんなデーターができるのだろうと――」
それを聞いただけで、雅臣はゾッとした。
「つ、つまりあれは。御園准将が男のように飛べたとしたら、あんなことができる――というデーターなのですか」
「そこまでいわない。元々は彼女が『自分は女だから、こういう飛び方を選ぶ』と他の男性パイロットとは異なる体力の使い方になる高度取りと操縦を選択した上での行動パターンがベースになっているから。ただ、弟が『体力負担』というデーターを除去したら、あんなバケモノみたいな動きをするデーターができてしまったんだ。それはそれで、弟はめちゃくちゃ感動していたよ。義姉さんが男だったら、絶対にエースだったと嬉しそうだった。それを試してみたかったんじゃないかな。義理の弟として。弟の和人も葉月と初対面の時にひどいパンチをくらってるからさ――」
「パンチ……? ですか? まさか弟さんを殴ったとか」
あのじゃじゃ馬姉さんならやりかねないと雅臣は震え上がった。
その時を思い出したのか、御園大佐も懐かしそうに笑っている。
「いやいや。殴るまではしていないけど、似たようなもんか。あれは……。当時、弟は反抗期だったんで生意気だったんだよ。それを、葉月が投げ飛ばしたんだよ。しかも、初めて訪ねた俺の実家で、俺の家族の前で!」
はあ、よくやりますね! と、雅臣もやっぱりあの姉さんはじゃじゃ馬さんだとおののいた。
「まあ、でも。俺の実家、いまの母親は後妻で俺にとっては継母。歳が離れた弟とは腹違い。複雑なところがあって、当時はけっこう冷め切っていたというか……、ごたごたしていたんだ。でも、あのじゃじゃ馬台風があっという間に吹き飛ばしてくれたんだよな。そういう影響を弟はうけてしまって。義姉さんが女であるばかりに、とは常々感じてくれていたんじゃないかな」
それで、あの変なデーターができたという。
「そっか。だから高度上がりがめちゃくちゃ早かったのか――」
レーダーに現れ、低空飛行をしていたはずの機体があっという間にソニックの背後に来てロックオンをしたのは『急上昇の重力負担を無視』して上昇をしてきたから。
「そうだ。言うなれば、脳は葉月で、体力耐久性は、城戸君や英太のようなエース級の男が操縦しているのも同じ」
「判断力や操縦性の瞬発力と、戦略的には……。誰もコードミセスというデーターには勝てなかったということなのですね」
「最初はね。でもその正体を知った後に対戦方法と対策を練り直して再戦希望をしてくる男もいるよ」
「コードミセスに勝てたパイロットはいるのですか」
「二人だけ。橘さんとミラー大佐」
納得の先輩パイロット達だった。
「コリンズ大佐は……」
ミセス准将の面倒をずっと見てきた兄貴パイロット。彼は勝てなかったのか……、そこも雅臣は知りたい。
「元よりコードミセスというデーターパイロットであろうと、本物の妹分と未だに空を飛べたとしても、勝ち負けなんて興味がないみたいだよ」
妹分パイロットのデーターと対戦して、先輩として勝つということには、まったく興味がないということらしい。
「他に対戦を希望した者はどれぐらいいるのですか」
「望むパイロットは後を絶たない。基本、全て断っている。もし対戦したいのならば、雷神に選ばれること――と告げてつっぱねている」
「では、雷神のパイロットは――」
「雷神のパイロットは誰も勝利を得いていない。一度きりでショックを受けて再対戦を諦めた者もいる。訳ありのデーターだから、俺が許可した信頼できるパイロットのみに対戦をさせて口止めさせている」
最後にどうしても気になるパイロットを雅臣は呟く。
「英太は……」
「チェンジにデーターのバンクを始めたころから、大隊長に就任した女パイロットのデーターは極秘としてきた。だから、英太も小笠原に転属してきた時に、絶対にミセスの飛行をデーター化してあるはずだから対戦させろ、出せ出せと駄々をこねて大変だった」
「あー、目に浮かびます。空となると負けず嫌いですからね」
「実際にデーターは存在していたのだが、その時は新参者の英太には当然『ない』と答えて、本物の葉月本人とチェンジに同乗する演習を体感させて納得させた。だけれど、英太と葉月が姉弟のような関係になって連携が取れ信頼関係が成り立った頃。コードミセスを明かして対戦させたよ。だが……」
勝てたパイロットは二名のみ。そこに英太の名はでなかった。
「もちろん英太は勝てなかったわけだが、彼自身は納得済みだよ。まるで泡沫のようなデーター。葉月さん本人そのものではないなら、勝っても負けてもなんだか悔しくないし、偽物に勝っても虚しいだけ――なんて、らしくないことを言っていたな。だから、城戸君も落ち込むことはない。コードミセスというパイロットは存在しないのだから」
はあ? 対戦相手が手を加えたデーターだろうと、負けは負け! 俺はいまでももんのすごく悔しい! それがエースてもんじゃないのか!!
あの悪ガキエースの英太が『仕方がない泡沫のような非現実的なデーター。葉月さん本人そのものではないなら、勝っても負けても意味がない』なんて、アイツの方が納得できたなんて、おなじエースを張った男として許せない心情!
負けに震えるエースの姿を見て、御園大佐は満足げに微笑んでいる。
「へえ。俺、ソニックという男を見直したよ。優等生なだけではないってね」
英太ならここで気持ちのまま吼えるのだろうが、そこは雅臣の方が大人。気持ちのまま吼えはしない。だが『負けて悔しい。どんな相手だろうとエースは勝つものだ』というプライド故に、収まらない悔しさで震えているのは雅臣の方!
「それでこそ真のエースだ。ミセスに立ち向かおうとする意地を持つ男は、やはりソニックしかいないってことだね。よくわかった」
その御園大佐が楽しい意地悪を思いついたからなのか、嬉しそうに笑っている。
「葉月は俺がたきつける。英太の説得はできるか」
雅臣は笑う余裕などない。それでも、心は決まった。
「任せてください」
絶対に勝ってやる。
―◆・◆・◆・◆・◆―
それでもパイロットとしてのプライドはズタズタだった。
あの人がただ者ではないことぐらい百も承知で、対決に臨んだ。そんなの空の現場では相手がどんな男かパイロットかも不明なまま『侵犯措置』に挑むのだから、不明な相手との突然対決なんて、現場では当たり前だ。
コックピットに乗って操縦桿さえ握ってしまえば、相手がどんなに不明でも『絶対に負けない』気持ちで飛ぶものだ。
なのに。判断も様子見も隙を与えられず。あっという間にロックオンされて、驚いて回避して焦っているだけの時に的確に撃墜された。
確かに『死神』のようだった。背後にいたのに。回避旋回した時には、向こうも接触されてニアミス爆破しかねない至近距離に躊躇なく詰めてきていた。あれをやられたら、そりゃあ、先にミセス体験済みの先輩方も『あんなのと一緒に飛びたくねえ』と言って当然のところ。
あの人、マジであんな思考で飛んでいたのか。華奢な骨格の女には高度上昇時の重力『G』の負担は相当のもの、男達のような力で押し切れる飛行についていけないからロックオンできるチャンスも少なかっただろうが、あの人から重力を解除したら、あんなことができていたのかと――。
あのデーターはバケモノのような動きをする。しかし裏を返せば『いまのあの人が甲板で指揮をしている脳そのものでもあるのではないか』ということだった。
彼女は指揮官となりパイロットを護る立場になったから、あんな危険な飛行を指示することはまずない。だが、彼女にはあのデーターのように『無駄を省いた一瞬での攻撃』を見出す目と判断力を持っているということ。
そんな彼女の手となり空を飛んでいるのは『雷神』。特に疎通しているのは『バレット』、英太だった。
その英太と彼女を引き離して、今度は俺が英太を飛ばす。
では、俺なら……。ハウンド(猟犬)として、英太をどう飛ばす? どうやってあの姉貴と対戦させる? 勝たせてやれる?
英太にとってはひとつの卒業ともなるだろう。
いつか、彼も彼女から卒業しなくてはならない。それは、雅臣も同様に。雷神のエースへと、初代キャプテンへと選んでくれた彼女に、やっと報いるのが『追い出し』だなんて皮肉だけれど。
その皮肉な決断の向こうに、雅臣は苦しむ姉貴の姿を描いている。
――楽にさせてやるんだ。安心させてやるんだ。ソニックとして一緒に空に連れていってやれなかった分。
「……臣さん、どうしたの」
もの思いからやっと抜け出し、雅臣はハッとする。
目の前には、心優の顔。風呂上がりの濡れた黒髪、そしてキャミソールとショーツという姿で、ベッドにあがってきたところ。
悶々としたまま、雅臣はいつのまにか自宅官舎のベッドルームで夜を迎えていた。
先に入浴を済ませてベッドで航空機雑誌を眺めていた雅臣だったが、そのページが進んでいなかったことに気がつく。
『お風呂に行ってきます。その雑誌、後でわたしにも見せてね』――と笑顔で彼女がベッドルームを出て行った時と同じページだった。
雅臣の隣へと寄り添ってきた彼女もそれに気がついている。
「臣さん。おかしいよ。今日、夕ご飯の時も上の空だったよね。やっぱりシドとなにかあったんでしょう。昨夜、あんなにお酒を呑んできたのも、本当はなにかあったんでしょう」
せっかくあのシドが案じていたことが心優の中で綺麗に消化されたはずだったのに。変なことで蒸し返されようとしていて、雅臣は慌てた。
「シドとは本当に偶然に呑みに行っただけだって」
「本当に?」
あの可愛い猫の目で覗き込まれる。今日も彼女の首には、雅臣が婚約の印として贈ったブラックオパールキャッツアイのペンダント。その石と同じ目で雅臣を心配そうに見つめてくれる。
そんな心優を、雅臣はベッドの上で抱きしめる。
「ごめんな……」
パイロットとしての悔しさ。雅臣にとっては男としても元エースとしても情けない、格好悪いばかりで、そんな姿を晒したくないだけ。彼女にはいつでもかっこいいエースパイロットの臣さんでいたい。
でも、それは間違いだったのか。心優の目に涙が浮かんでいたので、雅臣はギョッとしてしまう。
「いつも、臣さん一人で悩むよね。わたし、准将や御園大佐やみんなのおかげで中尉までなれたけれど、ほんとうは軍人としても経験が浅いことわかっている。だから、臣さんが大佐として困っていること気がついてやれないし、それを知って助けてあげることもできないのが辛いの……」
「いや、そんな……。そんなことではないんだよ」
困った。大佐として、下官である中尉の彼女には明かせない『極秘業務』のことで悩んでいると思われているようだった。そうではない。まったく違うことで、雅臣さえ決すれば、妻になる彼女に吐露できるようなものなのに……。
「だって。それがわからなくて、わたし、横須賀で一人で辛い思いを抱えて耐えていた臣さんに、酷いことを言って別れちゃったんだもの」
「だから。あれも、俺の言葉足らずと、人に心を明かす勇気がなかっただけで……」
「ううん。辛くて言えないことあるよ。あってもいいよ。ただそんな顔をしている臣さんを助けてあげられないのが辛いの。こうしてそばにいるだけじゃ、だめなこと?」
ピーチ色のキャミソールに、シンプルなボーダーラインがあるグレイッシュカラーの綿ショーツ。いまが夏だということもあるが、心優は雅臣と寝る時はそれだけの薄着で隣に寄り添って眠ってくれる。
同じく薄着でいる雅臣の胸に抱いている心優の肌は温かく、そしてとても柔らかい。風呂上がりで濡れている髪は洗ったばかりでいい匂い。そして肌もしっとりと雅臣の皮膚に吸いついてくる。
それだけで充分、雅臣には安らぎだった。横須賀でもそうだった。『これさえあれば、俺はこれから、この子とやり直せる』と思っていたのに。どうしても煮え切らなかった自分の態度で彼女を傷つけた。そして彼女に酷いことを言わせるまで追い込んだのは、大人であるはずなのに上司であるはずなのに、男としては情けなかった雅臣自身だった。
もう、彼女を心配させてはいけない。不安に陥れるぐらいだったら……。
ずっともやもやしていたものを、雅臣はついに吐き出す。その為に、いまにも欲情しそうな色香を放つ彼女を胸元から離してしまう。
でも、彼女のブラックオパールの瞳をじっと雅臣は見つめる。
「俺な。葉月さんから英太を奪おうと思っているんだ」
え。ミセス准将の側近である彼女の息が止まる。
「英太と一緒に、あの人に勝とうと思っている。つまり、あの人を甲板から追い出そうと思っている。直ぐにではない。これからその勝負をして、安心してもらおうと思っているんだ」
「それって……。准将に気持ちよく陸に帰ってもらうため……?」
「そう。その行動にこれから移ろうと思っている。心優は……。葉月さん側の人間だから、俺が思っていることを妻として知ってしまうと、御園准将秘書室の作戦もあるだろうから板挟みになって困ることもあると思うんだ」
さすがに心優もそこは思い巡ったのか、躊躇うようにして何も言わなくなった。
「それで、今日。パイロットの間では極秘になっている『コードミセス』というデーターを見させて欲しいと、管理責任者である御園大佐にお願いしに行ったんだ。まずは葉月さんのパイロットとしての思考回路を知ってから対策を練ろうと思ってさ……」
また。沸々とした『悔しさ』がこみ上げてきた。まるでフラッシュバックのようにして、背後にいたはずなのに真横にニアミス覚悟で詰めていた死神的飛行を思い出して、雅臣は黙り込んでしまう。
「臣さん……?」
心優がまた心配そうに、うつむく雅臣の堅い表情を覗き込んでいる。
腹をくくって、雅臣はひと息ついて、妻になる彼女にはっきりと告げる。
「その、コードミセスという『御園葉月』のデーターに、あっという間に撃墜されてしまったんだよ。この俺が! エースだった俺が!」
最後は悔しさいっぱいに、声をめいっぱい張り上げてしまっていた。だから、心優が叱られたかのようにしてビクッと怯えた顔になる。
「わ、悪い。あのな……。たとえ、シミュレーションでも、相手が誰であろうと、悔しいもんは、悔しいんだよ。彼女は尊敬する指揮官だけれど、パイロットとしては俺の方がエースだったんだ。彼女がもし男として飛べたとしても、誰であっても、英太にだって絶対に勝てると俺は思っているんだ。いまでも!」
それがエースってもんだ!
二人きりの甘い空気が常に漂っていたベッドルーム。それが今夜はシンと静まりかえり、窓からは生ぬるい夜風がふっと入り込んでくるだけの素っ気なさ。
彼女がびっくりした顔のまま固まっていて、何も言わない。
今夜こそ、心優といい匂いの中抱き合って、とろんとした夜を貪ろうと思っていたのに。雰囲気台無しだった。
「あの、」
心優がやっと声を発した。猫の目が、きょとんとしている。
「エースって、やっぱりすごいね。いま……。臣さんじゃなくて、鈴木少佐が目の前にいるのかと思っちゃった」
「あいつと一緒にするな。アイツ、葉月さんの犬だ。葉月さんには勝てなくてもいいと思っている腰抜けになっているんだよ」
また心優は驚いたように、目を瞠っている顔。
「鈴木少佐がもう悔しくないと思っていることなのに、臣さんは凄く悔しかったの? そんな臣さん、初めて。びっくりしちゃった」
なのに、次には心優が嬉しそうに、薄着になっている雅臣の胸元に抱きついてきた。
「凄い。臣さんって、ずっとパイロットのままなんだね。本当にエースなんだって、かっこいい!」
彼女を困らせると思っていたのに。彼女が嬉しそうに抱きついていたので、今度は雅臣が困惑。
「え、えっと。えっとなあ……。うん、その。大声出してごめんな」
「ううん。やっぱりエースさんって、負けず嫌いなんだね!」
それこそエースだと心優は讃えてくれる。
そうか。これが、もしかすると――『妻』てヤツなのかなと、雅臣は初めてそう感じて、やっと心優を優しく抱き返していた。
なのに。今度は心優からサッと雅臣の身体から離れてしまう。あれ、いまからいい雰囲気を取り戻そうと思ったのに?
「臣さん。わたしも大事な話があるの。わたしも、言いたくて言えなかったことがあるの」
キャミソールとショーツだけの姿なのに、心優は仰々しく雅臣の目の前、ベッドの上で正座をして改まっている。
「な、なんだよ。どうしたんだよ」
突然、心優は正座で雅臣に頭を下げた。
「城戸大佐。お願いします。御園准将が安心して去れるように、気持ちよく追い出してあげてください」
「え……?」
これから敵になろう対戦相手『ミセス准将』のいちばん側にいる秘書官である心優からの願いに、雅臣はさらに困惑した。
だが、顔を上げた心優は真顔で、雅臣に詰め寄ってくる。
「准将室の秘書官だから、たとえ夫になる臣さんにも言えなかったんだけれど。『城戸大佐がやろうとしてること』を聞かせて頂いて、准将の護衛官側近として独断だけど、『あることを』伝えるべきだと決意しました」
「ま、待て! 言うな。秘書官は上官の内事情はたとえ家族でも漏らしてはいけないんだ。そこは承知で結婚するだろ。俺の、葉月さんに喧嘩を売る行動とは、機密性が違うだろ」
「確かに、もの凄い機密的なことだよ。でも、わたし、臣さんのこと『大佐殿』として伝えたいといま思っているの」
「だめだ、聞かない。絶対に聞かない。言うな! 言うなら俺は今夜、別々に寝る!」
耳を塞いでベッドを降りようとした。だからなのか、雅臣が逃げてしまうと思った心優が慌てるように告げた。
「准将は新設される『小笠原訓練校』の初代校長に任命されることが内定しているの。海東司令がそうしているの」
聞いてしまった! でも、雅臣はそれを聞いて呆然としてしまい、元の自分の寝床ベッドの上へとぺたりと座り込んでしまう。
「それ。本当か」
「本当だよ。知っているのは、わたしと准将と、ラングラー中佐。あとは細川連隊長ぐらいじゃないかな。あ、あと駒沢少佐もなんとなく察しているかもしれない」
「なんで駒沢君がここで出てくるのかな」
「准将が校長室の新しい秘書室の側近にしたいと、引き抜きを狙っていることを彼本人に仄めかしたから。駒沢少佐はそれが訓練校長の秘書官だとは思っていないけれどね。それに御園大佐も知らないと思う。隼人さんは奥さんの葉月さんをいずれは司令部へと願っているでしょう。葉月さんは逆にご主人の御園大佐をこっそり大隊長候補にしたいために、ご自分の進退はギリギリまで明かさないつもりみたい」
うわ、また凄い内事情、葉月さんの極秘作戦を聞いてしまった。雅臣は逆に真っ青になってしまい、今日負けた悔しさも吹っ飛んでしまった。
「なんだよー、聞かなければ良かった。これからどう知らない顔をすればいいんだよっ」
「できるでしょ。臣さんたら、いざとなったら秘書室長だった時のように、なんでもにっこりお猿の愛嬌と微笑みで乗り切っちゃうでしょう」
「対:葉月さんは別だよ。あの姉さんだと俺は敵わないんだよ」
「そうだったね。臣さん、葉月さんになるとなんだか弱いもんね。でも、臣さんだってもう気がついてるじゃない。『そろそろ安心してもらおう。その為にはエースのバレットを俺が引き受けよう』ってことなんでしょう。葉月さんに安心して甲板を去ってもらうための準備なんでしょう。それならわたし、間に挟まれたとしても協力するよ!」
心優に負担がかかるのが心配だった。だが、心優が協力してくれるなら、これほどの協力者は他にいない。
「わかった。なるべく心優の負担にならないようにするし、俺は俺でやってみる。ただ、これから俺も『空の対戦』となると今夜みたいに素っ気なくなることも増えると思うし、葉月さんもそうだと思うけれどお互いに口もきかなくなるかもしれない。本気の対戦はそうして集中するもんなんだ。だから……」
「いいよ。当然だよ。わたしだって試合で負けた時は一晩中悔しくてギリギリしてきたもん。悔しがらなくちゃ、勝てないじゃない。対戦中の集中力を高める時間も大事。口をきかなくなっても、葉月さんは臣さんの師匠だし、臣さんも葉月さんの教え子にかわりないでしょう」
勝負事なら、心優も充分な経験者。世界を狙うために心身の全てをそこに注いできただけあって、そこはエースパイロットだった男のプライドをすぐに察してくれる。
そんな心優を、雅臣は改めて胸元へと強く抱きしめる。
「臣さん……」
「やっぱり、俺には心優って女が必要で、いちばんのパートナーだ」
彼女が雅臣の胸筋のところに頬をそっと寄せて、静かなキスをしてくれた。
それだけで一気に『お猿スイッチ』が入ってしまう。
「心優――」
彼女を柔らかいベッドの上に押し倒し、お猿は勇ましく彼女の上に覆い被さる。
もういつでもめくってくださいと言わんばかりの、一枚きりのキャミソールをたくしあげ、そこにふるんと顔を出した乳房へと雅臣はすぐに吸いついた。
「っんあ、お、臣さん……たら……」
やっとやっと、彼女と雅臣のまわりにふわっとした熱い甘さが漂った。
嫌がらない彼女も雅臣の黒髪の頭をぎゅっと抱きしめると、欲しがるようにして胸元へと押しつける。もっともっと愛して……と欲しがってくれている合図。
「アイスクリーム、あったかな」
かわいいおっぱいをみつめて、ふとそんなことを思い出してしまうお猿根性。
「え? なんでいまアイスなの?」
この状況でアイスクリームが出てきて、どうなるかだなんてまったく思いつかないところが、また心優のかわいいところ。もうその顔を見ただけで『俺がよこしまでした、すみません』という気持ちになってしまう。
ううん、なんでもない。ちょっと食べたくなっただけ――と誤魔化しながら、雅臣は彼女のくちびるを吸った。
彼女を裸にして、肌のあちこちにキスをして、二人一緒に熱い身体を重ね絡み合う。いつまでも離れないくちびるを愛しあって、時々、その猫の瞳を見つめて彼女と吐息を混ぜ合う。
いつもは、まだまだ何も知らなさそうなかわいい女の子の顔をしているのに。ここ最近、雅臣と抱き合う夜を重ねる心優は、深夜になると途端に大人っぽい顔で色めく。
もともとスタイルの良いしなやかな身体は、女の子達が大好きなアメリカ製の着せ替え人形のように綺麗で、身体が大きめの雅臣とは相性もいい。
そんな心優の中に力強く入り込んでひとつになって夢中に愛していると、そう、あんな死神に出会ったことなんか消えてなくなってしまう。
これからもきっと。心優がいるだけで、雅臣の心をえぐってきたものが刻まれたとしても、もう立ち止まることもないだろうと思えるほどの。
「夫と妻って……。ベッドの大きさ分だけでも一緒にいられるなら、それでもう充分……なんだって……。わからなかったけれど、本当だね……」
雅臣に押し込まれるように愛されて喘いでいた心優が、ふとわけのわからないことを呟いた。夢中だった雅臣は聞き流したつもりだったが、なんだかその言葉が妙に胸に残ってしまった。
Update/2016.1.26