御園大佐こそ、なにをしだすかわからないんだから。
『葉月さんといい勝負。もしかしてちょっと上?』というのが、心優がいつも教えてくれること。
ミセス准将のそばに毎日いて、御園大佐は自分を少尉まで叩き上げてくれた恩師。雅臣以上によく知っている。
室長宛に内線です――。橘大佐宛に内線がかかってきた。
雅臣は事務処理をしている最中も、頭の中はもう『今日こそ勝つ』とコードミセスとの対戦対策で頭の中がいっぱい。
午前は雷神の訓練で空母艦にいるので、そこに集中している。だが午後は『はやくデーター投入の時間にならないか』と工学科にあるチェンジへ早く行きたくてウズウズしている。
「へえ、面白いですね。わかりました。俺も城戸と一緒にそちらに行きます」
誰と内線で話していたのか。橘大佐の口から自分の名も聞こえたので、雅臣は物思いから我に返る。
「どちら様だったのですか」
受話器を置いた橘大佐がにやっと雅臣を見た。
「工学科の御園大佐から。いまからチェンジを開放するから、すぐに対戦に来いだってさ」
「え、まだデーターの時間ではないですよ。データー室から仕上がったとの知らせもないし」
「それはまたその時間に。昨日、雅臣とコードミセスの対戦を見させてもらって、御園大佐はもう早く対戦させてやりたい、早くコードミセスを負かすところをみたいと待ちきれないんだってよ。雅臣にもじっくりと対戦する時間をつくってあげたいから、こちらによこすことはできないかと室長の俺に相談してきたってわけ」
昨日、その御園大佐が『惜しい』と泣いてくれたことを思い出す。雅臣がコードミセスと対戦するためにいろいろと配慮してくれたようだった。それは落ち着かない状態にいる雅臣にはとても有り難いことだった。
「でも、どうして室長まで?」
「昨日の時点で、もうコードミセスを読み切っていたんだってな。悔しいけど、やっぱりソニックだな。俺の教え子だから、悔しくても我慢してやるわ。だがその対戦、俺にも見せろ」
師匠として見届け人になりたいとの橘大佐の希望だった。
「松田も鷹野もよかったらついてこいよ。ソニックとミセス准将の幻対戦がみられるぞ」
雅臣はギョッとした。若い事務官の二人まで連れていこうとしている。
「ほんとうですか! 俺、ソニックのファンだったんです!」
「俺もです! このまえ、そこの滑走路から川崎T-4で城戸大佐がローアングルキューバンを見せてくれた時は、俺……、涙でましたよ! やっぱりソニックだって、またソニックに会えたって!」
若い事務官二人は普段は落ち着いた青年だが、空軍管理官をしているだけあって、心の中に少年のような航空ファン魂を隠し持っていたようで驚いた。
「ちょっと待ってください、橘室長! コードミセスは……」
コードミセスは極秘データーで、御園大佐の許可がないと『改変されたデーターだ』とは教えてはいけなかったのでは!?
「澤村君が、良ければそいつらも連れてきていいと言ってくれたんだよ」
コードミセスを管理している御園大佐自らの許可だと聞いて、さらに驚かされた。
そんな驚きで固まっている雅臣を見て、室長デスクから橘大佐が近づいてきて雅臣にそっと耳打ちをする。
「松田と鷹野に、御園の秘密を共有させるための一歩なんじゃね。あいつらが口が本当に堅いかどうか試すのにいい機会ということなんじゃないか」
もちろん、口が堅いこと、ミセス准将をひいては御園という派閥を支持してくれていること。それを条件に選ばれた青年達。
それを見越してこんなことを判断する御園大佐に雅臣は絶句する。
「よし。行こうぜ。俺も楽しみだ」
自分たちも連れて行ってくれるだなんて嬉しいです! と、青年達は嬉々としてデスクを片づけている。
「ところで、コードミセスのことは噂では聞いていますけれど、御園准将『ティンク』のデーターなんですよね」
空部隊の事情はよく把握している先輩の松田からの質問に、橘大佐はちょっと笑ってすぐには答えない。
「女性パイロットとしてのデーターですよね。ソニックと対戦しても、ソニックには敵わないと思うんですけれど」
後輩の鷹野もそこはすぐに気がついたのか首を傾げた。
「俺も小笠原に来てコードミセスがあると知って、すぐに対戦したが『ぼろ負け』だったんだよ」
横須賀マリンスワローの隊長だった橘大佐が『女性パイロットのデーターにぼろ負け』だったと知った彼等が『うそだ!』と驚きに震えている。
「勝つのに五日かかった。いま、雅臣がそのコードミセスと対戦して勝てそうなんだってよ。対戦してまだ一日目だ」
そこはやはり悔しそうに顔をしかめた室長殿だったが、そこでまた、若い彼等が驚きの目線を一気に雅臣に集中させた。
「その対戦二日目を、いまから俺達にみせてくれるのですか」
「すごい。やっぱりソニックだ! ぜひ、見せてください!!」
すっかり興奮してしまった青年達も見届け人になってしまうようだった。
なんだよ。あの旦那さんは……。俺の対戦に、御園の組織を固めるためにまで使ってくれちゃって。やっぱり食えない人だなあと雅臣は御園大佐の手際に呆れてしまった。
だが、心優が言ったとおり! 雅臣はチェンジ棟に到着して、そこで待ちかまえていた御園大佐を見て、心優が言っていた『御園大佐こそなにをしだすかわからない』という真髄に遭遇する。
「おー、雷神室の全員でようそこ。待ってたよ」
にこにこ楽しそうな眼鏡の大佐の隣には、『英太』がいる。
どうして英太を呼んだのか。御園大佐がやることに、雅臣はいちいち驚きながらも、『英太、おまえ以上の男がいることを見せつけてやる』という場を作ってくれたのだと察した。英太にとっては意地悪いものを見せることになるというのに、御園大佐はそういうところは厭わない。しかも楽しそうに笑っているし……。心優の言葉がここで身に沁みる。あのミセス准将の夫だけあると痛感した。
しかもその英太が、いつもは生意気でも憎めない無邪気さをみせてくれているのに、今日は雅臣をじっと睨んでいる。
そういうところが、まだちょっと子供っぽい。それでもいざとなると英太も大人の空気をきちんと醸し出すとこは心得ていて、そういうところが憎めない。だが『俺はエースだ、パイロットだ』となると、そこへの想いは誰よりも一直線、そしてそのプライドの高さは誰にも負けない。そこは雅臣も痛いほどわかる。
ふん。おまえなんか、先輩が辞退しただけで得た雷神エースという称号にあぐらをかいて、なおかつ『コードミセスは泡沫のデーター、勝っても意味がない』と投げ出したガキンチョ。俺はな。あのまま雷神のキャプテンでいられたのなら、1対9コンバットを制覇し、コードミセスにだって負けやしない。負けたって逃げるものか!!
そんなふうに、雅臣も後輩エースを睨み返してやった。
それは橘大佐も気がついたよう。
「雅臣を意識しはじめたか。コードミセスも、引退してしまった先輩エースソニックも、『実在する』とやっと感じているようだな」
こちらも元エースの橘大佐。パイロットとしての気持ちはよくわかってくれているのだろう。『やってやれ』と、雅臣の背を叩いて送り出してくれる。
「では、ソニック。二日目のチャレンジと行こうか。俺もパイロットになりたいと思ってこの世界に入ってきた程。城戸君はそれができなかった男達の憧れだ。もっと魅せてくれると期待している」
御園大佐の言葉に、隣にいる英太がまた面白くなさそうな顔をした。その言葉をかけられるのは、俺だけのはずなのに……というところか。雅臣ならきっとそう思い、歯軋りをしているところ。
「今日で全てを終えるつもりでいます」
ミラー大佐を越える日程で、真のエースを証明する。いま雅臣のやりたいこと、やらねばならないことはそれだけ。
―◆・◆・◆・◆・◆―
敵対するものが『なにであるか』判ってしまうと、逆にこれほどに親近感が湧くものなのか。
雅臣は今日、そう感じている。そして操縦桿を握りしめ、旋回と上昇降下を当たり前のようにしながらも、心の中ではその奇妙な感覚に囚われている。
「ぴったりくっついてくる」
昨日まで、あっという間に現れ、あっという間に撃墜され憎々しくおもっていた『コードミセスのティンク』。
なのに今日は雅臣が必死にかわすフライトをしているため、向こうもロックオンのチャンスを逃しているだけなのだろうが、ほんとうにシンクロするようにぴったりと上か横、あるいは真後ろにひっついて追いかけてくるだけ。
それだけ雅臣が回避できていると言うこと。
『飛行時間が二十分を越えた』
今日は御園大佐の声だけではなく、橘大佐の声も聞こえてきた。
『いいぞ、ソニック。ロックオンをされないということは、かわしているということ。後はおまえが追うほうに逆転することだ』
「わかっています、隊長」
いまは室長、同列の大佐。しかし雅臣は、橘大佐のことはいまでも『俺を叩き上げてくれた、スワローの隊長』と親しんでそう呼ぶことが多い。
吸いつくようにぴったりと相棒のようにしてティンクが常にそばにいる。それは不気味でもあって、でも、『同じ事を考えて飛んでいるんだ』という親しみ。
初めて知った。あのお姉さんは、俺と同じ感性をもって飛んでいたのだと。こちらもきっと『惜しい』と言わしめてきたのだろう。『女性でなければ』、そう言いたい男達がいるのも頷ける。それをいま雅臣は体感していた。
だが、だからこそ。この人になくて、俺にあるもので勝負をしなくてはならない。そう、これは所詮は『女性のデーター』。申し訳ないが、ここは男であるからこそのものを発揮させてもらう。
「できるのか、このシミュレーションで」
コックピットと同じ動作性を持つシミュレーション機。雅臣も何度か操作してきたが、重力がかからない分、操縦桿が重くなっている。シートが回転するので遠心力はかかるが負担は軽く、簡単に操縦できたと思ってもその分データーには空を飛んでいたらそんなものだろうと思える控えめの結果が出る。結局は、戦闘機操縦の疑似。本物の戦闘機だからこそできる操作と現象というものがある。それがこの疑似の世界でできるのか?
だがもうそれしか思いつかなかった。ぴったりとまとわりついてくる分身のようなティンクを追い払おうと悶々としているうちにそれしか思いつかない。
「いま操縦しているこの機種は、俺が乗るはずだった『雷神のネイビーホワイト』……。その機動力はあるはず。あちらは、旧型のホーネットだ」
いくぞ、ダメモトだ! 雅臣は操縦桿を握りしめ、ヘッドマウントディスプレイに映るデーターを読み込む。
海の水平線が消え、ティンクに『追いかけてもらうため』にわざとスピードをアップして高速で飛んでもらう。
俺の狙い目は『変態機動』。そこで『オーバーシュート』(相手を先に行かせ追い越させ、後方をとる)を狙う!
調子よくティンクが高速で追いかけてくる。今だ! 雅臣は操縦桿を捌く。機首がぐんと跳ね上がる。ここでギリギリの減速――。雅臣が座っているシートが垂直になる!
『プガチョフコブラか!』
橘大佐の驚きの声が聞こえてきた。
いま映像は、ティンクの機体の真上に、機首を跳ね上げ垂直になったソニック機というものになっているはず。そして雅臣も見た。垂直になっている機体の下方にティンク! 彼女が雅臣の機体の前に出た。ここで後方をとれば、こちらからロックオンが狙える。
ただこのプガチョフコブラという機動の弱点は、垂直になっている体勢中にロックオンをされやすいということで、空戦機動で有効というよりかは、戦闘機のその性能を魅せるための技とも言われている。それをこの実戦で賭けで使っている。
だが今回は相手はティンク一機。なんとかなるのではという雅臣の賭け。機首がふうっと落ちていき元の水平に戻るとそのまま機首が下を向き、すうっとゆっくりと降下していく。その降下する時、ティンクが目の前にいるか、いないか。
いた! 減速されたためゆっくりと木の葉のように機首が降下していくそこに、彼女がいる。今度は俺が彼女を見下ろしている!
すかさず操縦桿を動かし、ロックオンの照準リングをティンクの機体にロックする。ここまでくればもう決まったも同然。
『マジか、マジかよ!』
橘大佐の驚きの声が響く。二日でコードミセスを制する。
それがいま現実となる。雅臣の目の前には、ティンクの尾翼。そこに照準合わせのリングが固定される。
「ロックオン、撃墜」
赤いボタンを押した。目の前の戦闘機の尾翼から炎があがる。空中で粉々に散って、海上へとひらひらと落ちていく映像がかえって痛々しく、雅臣は手放しで喜ぶことはできなかった。防衛パイロットはそういう痛みも覚悟して飛んでいるのだから――。
―◆・◆・◆・◆・◆―
そろそろデーター室から本日仕上がった演習訓練で抽出したパイロットデーターがあがる時間。
ちょうどいい、いまから准将室に報告へ行こうということになってしまった。
その時に英太が『俺も一緒に行きたい、行かせろ』と騒いだが、橘大佐に手綱を握られたが如く引き留められ『見ただろ。おまえも今からチェンジで演習だ。コードミセスとソニックのデーター両方と対戦するぞ』と抑えてくれた。
眼鏡の大佐の後を雅臣もついていく。教育隊棟から四中隊と五中隊棟、そして高官棟へと連絡通路を歩いていく。
その通路から見える珊瑚礁の海。夕のやわらかい青へと移ろいはじめる。こういう青の変化がここではよく見られる。
「どうした」
先を歩いていた御園大佐が振り返る。
「いえ。いつ見てもここの珊瑚礁の海は綺麗だなと……」
「そうだな。俺も好きだよ。夜も星が綺麗だ」
「ずっとここに住まわれているんですよね」
「ああ、結婚する時、彼女とここの住人になろうと決めたほど。どちらかが転属になってもここに家は残していつか戻ってこような――と話していたほどでね」
いま心優が聞きたかったことが聞けるのではないか。雅臣はふとそう感じた。自分が知りたかったことではないが、彼女が聞きたかったことを――。
「この島での子育て、どうされようと考えていらっしゃったのですか」
「子育て? どうしようかって?」
もうハイスクールに入学しようかという子供がいるお父さん。妻が航海で長期の留守をしている間。このお父さんが長男の面倒をきちんと見ていたという。家事もミセス准将よりも出来ると聞いている。
そんなお父さんの子育て計画はどんなだったのだろう?
だが御園大佐はそんなこと聞かれてもと不思議そうな顔をいている。
「そんなもの考えていなかったな。生まれて同時進行でどうしようかどうしようかと、そこで必死に考えてきた気がするな」
「そうなんですか? 御園大佐のことだから、ひとつひとつ前もってきちんとこなしてきたというイメージがありますよ」
「まさか! 子供ほど思い通りにならないものはないよ。娘なんか五歳で『島を出てレッスンをしたい』と飛び出していったんだから。あの時は葉月と大喧嘩したもんだよ。俺は音楽の道を行きたいなら早めに音楽家の従兄に預けた方がいいという判断だったけれど、葉月はまだまだ一緒に暮らしたい、そんなものはもっと後からでもいいんだと手放したくないようだった。でも娘の意志が強かったことと、彼女の従兄がそれを実現するだけの『力』を持っていたからいとも簡単に娘は出て行ってしまったよ。従兄夫妻の養女にという話もでたがそこはさすがに葉月も必死に阻止していたな。ま、俺も娘もちょっとそれは困るということで養女にはならなかったんだけれど」
「お嬢さんはそうして島を出ていったようですが、海人君の教育についてはどう思われてきたのですか」
「どうしたの、急に。もしかして……、園田と結婚して子供が出来て、で、どうするかという話でもしているのか」
まあ、そんなところですと雅臣は気恥ずかしいので小さく答える。
「その時、自分たちがどうなっているかわからないから。ほんとうに『その時、その時』だよ。ただ、葉月が子供と過ごす時間が人より長くない。そのせいで『なるべく手元に置いておきたい』という願望が強かったから、海人はアメリカキャンプのインターナショナルスクールに入れただけ。これで海人も本島に行きたいといいだせば、また考えていただろうけれどね」
つまり、どうあっても『その時の子供の様子で決まる』ということらしい。
「この島で子育てをしたいと思っているんです」
「そうか! へえ、意外だな」
御園大佐が急に飛び上がるようにして喜んだ。
「イマドキの若夫妻なら、いずれは本島の街中でと願うものだと思っていたから」
「俺ももちろんですが、心優のほうがすっかりその気なんですよ。ただ、どういう教育がここでできるかなとは、ぼんやりですが感じるようになってきました」
「あ、もしかして。橘大佐が気にしていたからとか」
「それもありますね。あの遊び人だったスワロー隊長が、父親としての考えを既にお持ちだったので、俺も近い将来、同じ事を考えるのだろうと思ったのです」
その途端、御園大佐にバンと強く背中を叩かれ、雅臣は咳き込みそうになった。
「大丈夫! そのうちにわかると思うけれど。この島とかアメリカキャンプの奥さん達のお節介がどれほどのものか。それが助けてくれるよ」
「アメリカキャンプの奥様達……ですか?」
「あ、それ以上に。うちの葉月が、園田の母親面して一生懸命になりそうな気がするな」
え、あのお姉さんが首を突っ込んでくるのかと、雅臣は密かにギョッとした。
「というかさあ。もしかして、もしかして。またこーんな小さくてほんわりしたベイビーを身近でお目にかかれることになるのか!」
台風姉さんだけではなく、こちらの子育てパパさんも目をキラキラさせている。
「ほんとうに、育児を手伝われてきたんですね」
「手伝う? 元々うちは、葉月の役割でもなんでもなかったよ。あれがいずれ航海にでていかなくてならなくなることぐらい予想済みだったから、『留守は俺の役割、イコール子育ては俺の仕事か』とわかっていたからな。あ、城戸君は葉月と同じで艦長候補なのだから、そこは俺ほどに目指さなくてもいいと思う。そこは園田がやりくりしなくてはならないだろうな」
「彼女がそこを不安に思っているんです。けれど……。そうですね。お近くに、葉月さんと御園大佐がいらっしゃるなら心強いです」
その御園大佐が今度はふっと溜め息をついて、優しい青色に変化していく珊瑚礁の海を遠い目でみつめる。
「俺と葉月とで頑張っていかねば――とは思っていたけれど、やってみると、本当にいろいろな人に助けてもらってここまでこられたと思っているよ。そんなに心配しなくても、いつのまにかそうなっているよ。城戸君と園田の結婚も子育てもきっとね」
そう囁く眼鏡のお父さんの横顔。それを見ていたら、ほっとしてきた。
「そうですね。その時は頼りにしてます。よろしくおねがいします」
「ベビーシッターなら得意だ。そっかあ。橘大佐のところもふくめて、またベビーちゃんを抱ける日がくるかもなあ。つい最近のような気がするのに、うちはいつのまにか幼少期が過ぎて、ちっちゃな子供が遠い存在になってしまったんだよなー。『おまる』とか『ベビーパウダー』とかいつまであるんだろうと思っていた時もあったのになあ」
感慨深そうな御園大佐がまた微笑むが、今度は子供達が親離れをしていく時期にきているのかどこか寂しそうだった。
「さあて。いまからその艦長ママをどうにか動かさないとな。もう私は演習からは退く――なんて言っているから、その気持ちを覆さないといけない」
「どうされるのですか。俺が一緒についていってもよろしかったのですか」
「もちろん。ソニックにもみせてやるよ。澄ました顔をして、本当はあいつも根っからのファイターパイロットだったということをね」
穏和な眼鏡パパの顔をしていたのに、今度は急に『旦那さん、悪巧み中』の意地悪い眼差しになってしまった。
澄ました顔をしていても、その腹の中はわからない。とんでもないことをアイスドールの顔で急に言い出す。そうして男達を翻弄させる彼女を感情的にさせるのはお手の物の旦那さん。
それだけに、いまから准将室でどんなバトルになるのかと、雅臣はちょっと不安になる。
―◆・◆・◆・◆・◆―
空部隊大隊本部、隊長。御園准将室を訪ねる。
御園大佐がドアをノックすると、立派な秘書官の顔つきになった心優がでてくれ中に入れてくれた。
雅臣はいつも思う。軍隊はどこにいっても男の匂いで溢れていて、女性の匂いは彼女達とすれ違う時に感じる程度。なのに、このミセス准将の部屋にくるといつだって爽やかな花の匂いがする。
ここ最近は特に。この部屋に心優という女性がお側付き秘書官として常駐するようになったからなのだろうか。
「お忙しいところ失礼いたします。御園准将」
眼鏡の夫が、妻が事務仕事をしている木造のデスクへと敬礼をすると、恭しく頭を下げた。雅臣も同じく、『お邪魔いたします』と挨拶をする。
「お疲れ様。いがかされたの。二人揃ってなんて珍しいわね」
ハンコとサインをつけねばならない書類がたまっているのか、彼女は万年筆を動かしながら書類を見ながら話しかけてくる。
そんな相変わらず微笑みもみせない、抑揚もなく淡々と尋ねる妻を見て、御園大佐はふっと致し方ない笑みを緩く浮かべている。
「あなたのソニックがですね、あのコードミセスと対戦して、見事に制覇したんですよ。しかも二日で!」
万年筆を動かしていたその手がピタリと静止したのを雅臣は見る。だが、彼女はそれでもこちらを見なかった。だが、彼女のそばで書き終わった書類をまとめている心優はとても驚いた顔をしてくれ、そっと微笑み雅臣をみつめてくれている。『臣さん、勝てたんだね』と彼女も喜んでくれているのがわかった。
ミセス准将はいつもの凍った顔のまま。どう感じたかなど垣間見せもせずに、そのまま次の書類を上にして英文を読み込んでいる。
「そう。さすがじゃない。ミラー大佐より早かったというわけね」
「さようでございます、准将。私も対戦を見守っていましたが、たった二日間の十数回の対戦でしたが、いやーすごかった!!」
彼女の関心を引こうが如く、御園大佐がオーバーに喜んで大声を張り上げた。夫の妙なオーバーリアクションに気がついたのか、やっと視線だけこちらをちらりと向けた。すぐにその目線は卓上に戻ったが、そこから彼女のペン先が動くことはなかった。動かない……と雅臣も眺めていると、そこでミセス准将がペンを置いて席を立つ。
「あんなデーターに勝ったとか勝たなかったとか、まったく興味がないわね」
そばに立ってアシストをしていた心優の横をついっと通り過ぎると、如何にもつんとした横顔で席から離れようとしている。
「あんなの私のデーターでもないし、英太がいうとおりに存在しないものだもの」
雅臣は愕然とする。この人がこんなふうに考えているから、あの英太が『あんな非現実的なデーターに勝っても無意味』と悪ガキの牙を落とされ大人しくさせてしまっていたのかと!
「和人君があんなデーターを作りだした時は、なんてことをしてくれたんだと思ったけれど、私のパイロットとしての素質を試してくれた義弟としての気持ちは嬉しかった。でも、あれは結局は架空。そんなデーターに勝ったとか負けたとか、お好きな方々が一喜一憂すればいいだけのこと。そう思っている」
ツンとしたまま、栗毛をさらっとなびかせミセス准将が外に出て行こうとしていた。心優も慌ててついていこうとしていたが、雅臣もまだ話は終わっていないと焦る。
「ですが、准将!」
前のめりになって引き留めようとしたところを、御園大佐がさっと片腕をだして雅臣の前進を止めた。今度はにこやかだった旦那さんの目が鋭くなっている。
「へえ。おまえがそんなにムキになるって、久しぶりに見たよ」
冷めた旦那さんの声に、ドアノブを握ったばかりのミセス准将の手がそこから離れた。そしてそっと夫へと振り返る。
「ムキになんかなっていないけど」
その通りの、毎度のアイスドールの目に声。でも夫はそこで勝ち誇ったように微笑んでいる。そして雅臣にそっと耳打ちをした。『あれでもムキになっているんだよ。話さずに逃げようとしているのが気にしている証拠』と――。びっくりした雅臣は目を見開いて、無表情なのにそのうちは『悔しがっている』という彼女を凝視してしまう。
「いやー、すごかった。『化け物ティンク』のデーターと、ソニックの飛び方がシンクロしているのかと思うほどのエアチェイス。つまり化け物になったティンクとソニックは対等だったということだ。おまえが『ソニックを是非に雷神の第1号パイロットに』と望んだだけある。つまりおまえが男だったら、ソニックみたいなパイロットだったということだもんな」
雅臣もそれは対戦後にひしひしと感じていた。あんなに飛び方が似ているとは思わなかったからだった。そして、どうして俺に白羽の矢を立ててくれたのか、それもいまになって納得した。
「おまえの『雅臣君』を引き抜くのには、英太を引き抜く以上に骨を折ったもんな。これだけのエースを横須賀基地だって手放すわけがない」
自分が雷神に引き抜かれる時の話が出て、雅臣はドキリとする。自分は選ばれてあたりまえぐらいの自信があったし、それは当然の結果だったとも思っている。パイロットの男達も憧れの雷神に引き抜かれた雅臣を羨んだし、『やっぱりな』と認めてくれたものだった。でも、それだけではなかった。横須賀基地も惜しんでくれていた。その分、小笠原が提示する条件への要求も高かった? それはいったいどんな条件だったのか。
「長沼さんとの攻防戦も一年以上かかった。結果、あの人を御園家のパイプで、准将になれる尽力と推薦を約束するという条件でソニックを手放してもらった。長沼さんはそうして御園の力を上手く引き寄せる駆け引きをよく知っているからな」
あの長沼准将が将軍になるための力を得る間には、俺との交換があった? 雅臣はそれを知りさらに絶句する。ソニックを手放し代わりの対価は、彼を将軍にのしあげなくてはならないほどの力を御園側は要求された。それが御園大佐がいう『骨折り』。それだけの根回しをこの大佐とお姉さんが頑張ってくれ、それほどに望んでくれていたということ。
「横須賀空部隊にしても、それほどの『価値がある男』。それを手に入れた時の、おまえの喜びようを俺も覚えているし……。失った時のおまえの絶望も覚えている……。俺も泣いた。おまえのようなパイロットがまた生まれてしまったこと、おまえを空に飛ばせてくれる男がいなくなってしまったこと」
自分が知らなかった裏事情と、どれだけこの人達に望まれていたかと雅臣は初めて知る。まさか。元上司だった長沼ボスが准将になったのは、俺を小笠原へと手放してくれたから――? それだけの価値が自分にあったのかという驚きも。
「おまえが惚れに惚れていた男だけあったよ。あれを空で見られなかったのは残念だ。本当のティンクとソニックが空で対戦をしても、おなじような驚きがあったと思う。そのおまえの『雅臣君』がいまどこに行こうとしているか、なにを見ているのか、おまえ知っているのか。知らないだろう。おまえはもう前しか見ていない。後ろに誰もいないと思っているからだ。でもどうだ。おまえの後ろにも『怪物』がいたぞ」
夫が懇々と説く間、ミセス准将は背中を向けているだけで出で行こうとはしない。つまり、気になって聞いているということ。
彼女が聞いてくれるなら――! 雅臣はそう思い、ここでやっと御園大佐の前に出る。彼ももう止めない。
「准将。英太がやりのこしている1対9の制覇をさせてやろうと思っています。彼といま対等に闘えるファイターは、相棒のスプリンター。もしスプリンターが英太の1対9を阻止した場合には、彼にもなにかエースに匹敵する称号を与えてください。そうすれば、英太はもっと伸びると思います。お願いします!」
彼女がドアノブを握った。無視をして出て行こうとしている。心優も彼女のそばで立ちつくしているが、ハラハラして雅臣を見たり准将の横顔を伺っている。
それでも、彼女がドアノブを回してしまった……。
「准将! 指揮を任された以上、俺はやりますよ!」
ようやっと。彼女が肩越しに振り返る。琥珀の瞳がじっと雅臣を捕らえている。その目、雅臣はひさしぶりにゾッとさせられた。
「勝手にしなさい。もうあなたに任せているんだから」
言葉は素っ気ないのに、その目が俺を睨んでいる?
どっと汗が滲んだその瞬間、その隙に、ミセス准将がふっと外に出て行ってしまった。心優もこちらに一礼をして側近として彼女を追いかけていく。
「あはは、大成功だな」
彼女が出て行って、御園大佐が高らかに笑った。だが雅臣は額に滲んだ汗を拭うだけ。
「はあ、でも怒らせてしまいました。……任されているとはいえ、生意気な提案をしたと……」
「違うな。燃えたんだよ。あの女の奥にある芯が」
え? 雅臣は眼鏡の大佐を見つめ返す。
「だって、そうだろう。英太をエースにしたのは葉月だ。でも、結局は1対9での決着ではエース獲得ではできなかった。周りがその実力についていけず辞退が連発したからだ。それは他のパイロットの辞退を含め、彼等を選んだあいつもそこまでの結果を悔しく思っていたんだろう。それを、私の雅臣君がやろうとしているんだ。焦るだろ」
意地悪い顔をしていたのに、今度はどこか感慨深そうな穏やかな笑顔。彼女を見守っているというような、そんな優しい微笑み。
「なくしていなくて安心した。あいつだって、城戸君のようにいつまでもコックピットに乗っているつもりで、ファイターパイロットのつもりでいるんだよ。誰にも負けたくないし、男にはもっと負けたくないし、惚れた部下だからこそ簡単に越えられたくもないんだろ。俺だってそうだもんな。そう簡単には越えさせない。そうして越された時こそ、心から譲るもんだと思うよ。自分から譲ったつもりで、まだその段階でもなかったと気がついたんじゃないかな」
「あれで、悔しがっているんですか? わかりにくいなあ」
「あいつの炎は、情熱的な赤ではなくて、冷たい蒼色だからな」
冷たく燃える静かな炎ということらしい。でも。最後に睨まれた目は、雅臣にも通じた。わかりにくいあの人は、わかりにくいだけで、腹の中は俺達と一緒。負けたくないファイターパイロットのプライドをいまも携えている。
「俺の弟がコードミセスを作ってしまった時、なんてことをしてくれたんだと思いながらも、自分が男だったら、本当は誰も勝てない、私の周りにいる名だたる男達も勝てなかったんだと……密かに誇りに思ったんじゃないかな。でも、そんなもの架空だから胸張ることは自分からはできないだろう。だからいつも第一声が『私はなんとも思わない』、そんな葉月の言葉を、葉月を見て育ってきた英太がその気にしているだけのことだよ」
なるほどと――雅臣も英太がどうしてそうなったのか、やっとわかった気がした。だからこそ。彼が信望している女王様を甲板に引き出して、ファイターパイロットとしての本来の姿を最後に残して欲しいと思う。
「あとはしれっと甲板に出てくるのを待つのみ。あいつが久しぶりに甲板にやってきて、スプリンターの監督を願い出たら、俺達の勝ちだ」
楽しみだ、俺も久しぶりに甲板に行ってみようかな――と、御園大佐がさっそく、うきうきしている。
「面白くなってきたなあ。英太も近頃は安穏としているから、昔みたいに焦って慌てて怒ったりなんだりして、悪ガキらしく大暴れしたらいいんだ」
あいつはいつだって手に負えない悪ガキだけれど。あれ以上になれと? つまり雅臣自身がもっと暴れさせてやらなくてはならないという意味にもなる。
雅臣の頭の中に、また心優の言葉が蘇る。
御園大佐こそ、なにをしだすかわからないんだから。
Update/2015.3.28