◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 EX2. ドーリーちゃん、よろしくね(10)

 

 城戸家のテーブルに置かれた『婚姻届』。
 家族に見守られながら、記入する。雅臣と話し合ってきたことだった。
 仕事のスケジュールのため、ゆっくり式の準備ができないから結婚式は来年の予定。
 でも待てないから、入籍だけ先にする。その前に家族へご挨拶、そして、入籍の心積もりと覚悟を見届けてもらう。

「では、俺から」
 彼がいつも仕事で使っている万年筆を手に取った。
 大事な書類を書く時、国際基地のため捺印同様のサインをすることも多いため、彼もミセス准将のように上等な万年筆を秘書室長時代から持っている。
 彼がペンを持つと、目の前のご両親がとても緊張した顔になる。
 双子も初めてみる婚姻届だと、そっと身を乗り出して……。
「叔父ちゃん、結婚するんだね」
「叔父ちゃん、震えてる?」
「ふ、震えてねえよ」
 なんて言われながらも、雅臣は意を決したようにしてペン先を記入欄に置いた。
 雅臣の名が記された。
 いよいよ、心優の目の前にその用紙がやってくる。
「心優」
「はい」
 人のこと言えない。雅臣が差し出してくれた万年筆を取ろうとする指が震えていた。
「心優さん。頑張って」
「ゆっくりだよ」
 双子ちゃん達が心配そうに、でも、目をきらっとさせて待ちかまえてくれている。
 心優も笑顔で頷いて、万年筆を握った。
 彼の、隣の欄に。心優はゆっくりと、丁寧に。名をしたためる。
 最後に、雅臣と一緒にそれぞれの捺印をする。
 そのひとつひとつを、雅史お父さん、アサ子お母さん、真知子お姉さん、そしてユキとナオの双子もじっと厳かに見つめてくれている。
 心優もとても神聖な気持ちでいる。結婚式も、提出もまだだけれど。これが夫妻になるための最初の誓いのような気がして……。
 二人の捺印が済むと、雅臣が父親に婚姻届を差し出す。
「証人のサインと捺印をお願いします」
「お願いいたします、お父様」
 証人は両家の父親にお願いしてある。まずは城戸家の主にそれをお願いする。
 雅臣の父親も眼鏡をしっかりとかけ直し、自分で準備していた万年筆できちんとしたためてくれる姿。
「うわ、俺も緊張してきちゃった」
「ほんと。まさか立ち会えるだなんて思わなかった!」
 お祖父ちゃんが名前を書いて、捺印をするまで、双子もじっとじっと耐えつつ、でもわくわくしたかわいい顔でちょっぴり覗き込む姿も。
「そうだよ。ユキ、ナオ。おまえたちも、俺と心優が入籍するための証人だからな」
 もう雅臣は緊張から解けたのか、かわいらしく覗き込んでいる甥っ子ににっこりと優しい叔父さんの顔。
 そうか。ここにいるご家族みなさんが証人。そう思うと、いまが結婚式のような気もしてきて、心優もほんとに素敵な気持ちになってくる。
 書き終わり捺印も済ませた雅史父が、記したものをアサ子母と真知子姉に、そして双子にも見せる。それぞれが承知したとばかりにこっくり頷き、双子ちゃん達まで大人の真似で顔で真面目に頷いてくれている。
「結婚、おめでとう。心優さん、どうぞ末永くよろしくお願いいたします」
 雅史父が婚姻届を、雅臣へと返しながらそう言ってくれた。
 心優も深く礼をする。
「こちらこそ、まだ至らぬところが多々ありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
 心優の返答は済むと、雅史父がやっとお父さんらしいのんびりとした微笑みを見せてくれた。
「これで島の役場に提出をしたら、正式に結婚となるから。その日に無事に受理されたことを連絡するな」
「うん、待ってる。あとは両家の食事会か。それも来年の式の前ということだな」
「俺達の航海任務が終わってから、二人でじっくり準備したいんだ。慌ててするよりかはいいとおもって」
 雅臣の意向に、城戸家の家族も揃って頷いてくれた。
「そうだね。心優さんもじっくり決めたいだろうしね」
 とアサ子お母さんものんびりと構えてくれるので心優も安心する。
「食事会の会場だって予約するなら時間がほしいもんね。私だってドレスを選ぶ時はすごく迷ったし、すぐに決められないよ」
 真知子お姉さんも、女心がとても良くわかってくれる女性。家族の了承も得て、これで心優もじっくり決められそうだった。
「食事会だって。叔父ちゃん、うんとうまいところよろしくな」
「まさかフルコースのお堅いところ!? 俺達、まだテーブルマナーとかわからないんだけど」
「あはは。……えっと、どうかな」
 雅臣が急に困った顔になる。だからって焼き肉屋とかそんな訳にいかないし……と。
 でも心優はそれでもいいかなと思っている。だって、こっちにもすごい大食らいの兄貴と父親がいるんだもの。
「ユキ君とナオ君の希望も教えてね。わたしの沼津の兄貴と父親もすっごい食べるの。きっとフルコースなんて『やってられるか』と思う人達だから、でも、食事会ができる焼き肉屋さんとか中華とかもいいよね」
「ほんとー! そういうのがいいな」
「そのほうが俺達、緊張しない」
「みんなが楽しめるところにしようね」
 心優の気遣いに、双子だけではなくて、真知子お姉さんもホッとした顔をしてくれた気がした。
 きっとまた双子が厳かな席をぶっこわすのではないかと案じたのだろうなと心優は思ってしまった。食事会はそういう配慮もできるところにしようと心優は心に留めておくことにする。
「いやあ、めでたいね。ほんと来年の結婚式が楽しみだよ」
 お父さんも嬉しそうだったし、アサ子お母さんはちょっと涙ぐんでいるように見えた。
「えっと。最後に、俺からお願いがあるんだ」
 これで結婚と厳かな空気から和んでいたところだったのに。雅臣が急に緊張した面持ちで、家族にまた向かっていた。
 なんのお願い? 心優はなにも知らされていないので、彼がなにを言いたいのかわからず不安になった。そう思うほどに、彼が喜びいっぱいではなくて、不安そうな顔をしていたから。
「なんだい、雅臣。なにか心配なことでもあるのかい」
 アサ子お母さんも息子のその顔を案じたようだった。
 だが雅臣もそこで、父親と母親に真顔で向かった。
「これから。俺は責任者として航海に出て行くことになると思う。心優は御園准将について、いずれは陸勤務になると思う。もし、もし、俺になにかあった時は……」
 俺になにかあった時――。そのひと言で、心優も、目の前の城戸の両親も、真知子姉も双子ちゃんすらも、とてつもない緊張に見まわれた顔になった。
「俺にもしものことがあった時は。心優と、子供をお願いいたします」
 雅臣が深々と頭を下げた。
 海軍大佐殿が妻を娶る。その覚悟と心配は当然のこと。そしていつもおおらかな愛嬌あるお猿の兄貴で心優を安心させてくれていても、彼自身はそう思い、その気持ちを覚悟を持ってくれていたと知る――。
 だけれど。城戸の両親は慌てもしなかった。既に、海軍パイロットだった息子を何度も見送ってきたから。ただ艦に乗っていただけではない。外国の不明機との接戦を空で繰り広げてきたファイターパイロットの息子。いつなにがあってもおかしくない、そんな責務を背負っていた息子。その子供を何度も航海に旅立たせてきた親の覚悟はもうとっくの昔にできていたのだろう。
「わかった。陸のことはまかせなさい。おまえも覚悟を決めて海に行くのだろう。おまえに国防を託されるのなら、おまえにしかできないことなのだろう、任務を全うするように」
 立派な父親の言葉だった。
 雅臣も安心したようだったが、まだ表情は堅い。
「母さん。俺の航海は長い。時々、小笠原に様子を見に行ってくれると助かる」
「もちろんだよ。まかせな」
 頼もしいお母さんの言葉に、ついに心優は涙が浮かんできてしまう。
「姉ちゃんも、頼んだよ」
「わかった。もう家族になるんだ。困った時はいつでも頼って」
 お姉様、ありがとう――。心優は言葉にならず、でも、頭を下げていた。
「ユキ、ナオ。おまえ達も、これから大人になる。歳が離れた従弟妹ができるだろうから、兄ちゃんとして頼んだぞ」
「まかせて、叔父ちゃん。俺達も家族を守るよ」
「でも、叔父ちゃんも心優さんも、絶対に還ってきてよ」
 双子も頼もしく見えてきてしまう。
 そう心優にとって、もう家族になる。これから、大佐殿になにがあるかわからない。自分も。
「お父さん、お母さん。お姉さん、そしてユキ君、ナオ君。頼りにしております。どうぞよろしくお願いいたします」
「二人で頑張っていくから、よろしく頼みます」
 雅臣も一緒に頭を下げてくれる。
 向かい側に並んでいる城戸家の家族も、双子も、厳かに頭を下げてくれた。

 二人の名が記された紙。ついに心優は城戸家の一員となる。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「はあー、疲れた。朝早く、小笠原を出てきて、今日もいろいろあったなあ」
 日が沈み、さっそくお風呂をいただいて、雅臣の部屋でくつろぎの時間を迎える。
「へえ。臣さんのお部屋も、ロフト風なんだ」
「うん。輸入住宅ってやつ。当時は珍しかったみたいだな」
 なかなか前衛的な考え方をもっている大胆な判断も出来るお父様なんだとわかってきた。
 先ほどの『任務を全うするように』と息子に告げた時の厳つい顔は、厳格な父親そのものだった。
「いまはユキとナオが泊まる時に使っているみたいだな。ちょうどベッドがふたつある。どっちで眠る?」
 窓の方がベッドヘッドになっていて、同じようにベッドがふたつ並んでいた。
「じゃあ、いつもこっち側だからこっち」
「大きめだから一緒でもいいんだけどなあ。な、一緒でも」
 雅臣がちょっと寂しそうに口を尖らせている。小笠原でそうしているように、一緒に寄り添って眠ろうと言っている。
「だめ。ご実家だから節度を重視します」
「なにもしないって」
「するよー、臣さんったら」
「うん、自信ない。大丈夫だって、ここまで親もこないし」
「だめ。絶対だめ」
 自分の実家で雅臣は気兼ねしなくていいのかもしれないけれど、心優はそうはいかない。そこに甘えるつもりもなかったので頑と断った。
 ちぇ。なんか肌寒い気がする――と、夏なのにそんなことをいいながら、雅臣がベッドに先に入った。
「明日なんだけれど……」
 横になった雅臣が、ちょっと気後れした声。
「うん。わかっているよ。大丈夫」
 明日は、あの事故で亡くなった親友の仏前へいく予定。隣のベッドに腰をかけている心優は、なるべく彼の心を穏やかにしてあげたいと努める。
「……会ってくれるだろうか」
 何年ぶりなんだろう。雅臣の不安そうな声。あちらのご家族にも最後の焼香以来、一度も会っていないと心優も聞いている。
「会ってくれるよ」
 仏前でご挨拶をしてそのあとお墓参り。ご実家で受け入れてもらえなかったら、お墓参りだけするつもりだった。
 小学生の時からの幼馴染み。いちばん仲が良かった親友。パイロット志望だったのは親友の彼の方。なのに。適性があったのは誘われたからと一緒に候補生になった雅臣の方だった。しかも、誘われて受かってしまった雅臣の方がエースの素質を備えていた。彼を羨望の眼差しで、でも応援してくれた親友の彼。葛藤を抱え、それがついに、雅臣が雷神のキャプテンへと抜擢されたことを知った時に、爆発。どうして自分ではなかったのか、という悔しさが勝った瞬間。雅臣を道連れにして、自動車で無理心中をしようと事故を起こし、彼だけ即死。雅臣は一命を取り留めたが、コックピットに戻れない適性外の身体になってしまった。
 親友の裏切りと、死別。二度と話しようもない、確かめようもない、残された雅臣のもどかしさと苦悩。生き甲斐を奪われた苦しみ。ずっと彷徨って……。
 それだけで心優は泣けてくる。自分のことのように……。怪我をしてメダルの道を諦めた心優よりもずっと深い傷を雅臣は持っている。
「あいつのなにかを、もらいたいんだ。一緒に航海に行くなにかを」
 うん。そうだね。心優も穏やかに答えるだけ。
 そのうちに雅臣が黙って横向きになった。静かになったかと思うと、もう寝息をたてている。雅臣も今日は気が張って疲れたよう。心優も灯りを消して、隣のベッドに入った。
 でも。心優は眠れない。初めての家だからかな。それとも。今日もいろいろあったから? 元カレにまで会っちゃったし……、石黒准将との対面に、王子の話。真知子お姉さんといっぱい話して、婚姻届も書いた。
 ふう。眠れない。どうしよう。
 雅臣は自分の育った部屋だからなのか、すっかり寝入っている。
 ふっと空気が動いた気がした。ビクッとして心優は起きあがる。ドアは開いていないし、静か。
 コンコン。とっても小さなノックが聞こえる。黙って様子を見ていると、またコンコンと控えめのノックの音。
 あちらも遠慮しているとわかって、心優から出向いた。ベッドを降りて、そっとドアを開けると、そこにアサ子お母さんが立っていた。
「お母さん、どうされたのですか」
「ごめんよ。起きているかなと思って……」
 親はここまで来ないと言っていた雅臣だったが、そんなことはなかった。節度は守って当然だったと心優は雅臣に流されなかったことに胸を撫で下ろす。
「雅臣は寝付きがいいからさ。心優さんさえ起きていればと思ってね」
 そのゴリ母さんが息子がスヤスヤ寝付いてるのを確かめ、心優に言った。
「ハーレーに乗ってでかけないか」
 え、あのバイクに乗って。いまから?
 時間は二十二時。雅臣はぐっすり眠っている。
「湖畔を飛ばしてさ」
「いいですね。お願いします」
 夫になる彼に内緒で、お姑さんと夜中のおでかけ。
 そっとラフな服装に着替え、心優はゴリ母さんと一緒に家を出る。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 夜の湖畔は、初めてではない。
 でもこんな湖畔の風は初めて!

 レザースタイルの大きなお母さんの背中に掴まって、ヘルメットをかぶった心優は爽快な風に感動している。
 ガードレールの向こうに見える街灯りがキラキラしている。水面の夜明かりが光の筋になってついてくる。
 どんなカーブもお母さんはかっこいいハンドルさばきでこなしていく。そして心優もそれにつられて身体の重心を変えていく。
 二人の身体の動きがシンクロする時、お母さんと繋がっているんだと感じられるこの感覚。
 ある程度走ると、ゴリ母さんのハーレーダビッドソンは湖畔の展望台のような駐車場に停まった。
 浜名湖を眺めるためのパーキング。駐車している車はなく、ゴリ母さんのハーレーだけ。
 浜名湖の綺麗な夜明かりの景色を目の前に、ゴリ母さんとふたりきりになった。
「涼しいですね、ここ」
 ヘルメットを脱ぐと、優しい夜風。それも気持ちよくて、心優は微笑む。
 ゴリ母さんもヘルメットを脱いで、白金の髪を風になびかせ爽やかな微笑み。ほんとうに雅臣にそっくりだった。
「ひとりになりたい時に、よくここに来るんだ」
「そうでしたか。素敵な眺めですね」
「昼の晴れている日も、静かな夜の日も。ここにくると、落ち着くんだ」
 その人それぞれ、落ち着く方法がある。ゴリ母さんの場合、ハーレーダビッドソンを飛ばしてこの場所にくること。そこに心優を連れてきてくれたという感激……。
「心優さん、ありがとね。真知子が双子のことを気にしていたんだけれど、心優さんと話して気が楽になったみたいだよ」
「いえ、あの……。ほんとに、ユキ君とナオ君はかわいいです。身体は大きくてもう大人のようですが、まだ純粋で素直。だから真っ直ぐに行動しちゃうだけだと思うんです。まだこれからです。その真っ直ぐさが彼等を大きくしてくれる気がします。あの葉月さんに連隊長がなにかを見つけた顔をしているのをみてしまった部下としても、そう思っていますから、それを真知子さんに伝えただけです」
 するとゴリ母さんがちょっと驚いた顔を見せた。
「いやあ、ほんとうに葉月さんの部下なんだね。葉月さんも似たようなことを言っていた。だから気にしないように、あの特性が活かせる道を見つけてあげたいってさ」
「准将がそんなことを?」
 ゴリ母さんが微笑んで頷いた。でも、その後、直ぐに。哀しそうな眼差しで、湖の夜明かりへ遠くへと視線を馳せている。
「あの時。心優さんに食事に行くようにと伝えて、彼女と私の二人だけになっただろ」
「ああ、はい」
 心優はそこにいたかったのに。ミセス准将に人払いされてしまったあの時のことだと思い出す。
「特別に聞かせてくれたんだよ。空母で国境を警備するのがどのようなことかってね。雅臣じゃない、本当は心優さんが危なかったんだってね」
 ドキリとした。前回の空母航海では、不審者が侵入してしまいその傭兵と心優は刃物を振りかざしあう戦闘をした。そして、銃を向けられ危機一髪、秘密裏にシドが潜入してくれていたから助かったようなもの……。あのことを御園准将が、母親であって姑にもなるアサ子母には安心してもらうように話していたようだった。
「……あれは、たまたまで」
「そうかな。国境はきっとそれが常の場所なんだろね。国同士のせめぎあい。雅臣も空でそうして、護ってきてくれたんだろうとわかっていたけれどさ。それがどうしてうちの息子だったのかなとよく考えていた」
 またお母さんが湖畔の水面へと眼差しを伏せる。
 もしかすると、息子を案じるたびにここに来たのかもしれない。臣さんは放任主義で迎えにも来ないよと言っていたけれど、ほんとうはこうして落ち着いた姿を見せて逆に息子に心配するな思い切って行ってこいと安心させていたのかもしれない。でも不安だからこうして……。
 そして今度は嫁になる心優も同じ最前線へ行くことを案じてくれていたのかもしれない。
「でも。息子もお嫁さんになる心優さんも、絶対に帰還させる――と葉月さんが約束してくれた」
 あの時、そんな話をしていたんだと心優はやっと知る。
「心優さんはいずれ陸勤務になるとも教えてくれたよ。ただ雅臣については、これから責任者として就任するからいままでどおりに信じて見守ってほしい。自分も陸から艦を護るからと話してくれたね」
「わたしもそのつもりです。御園准将はそれができる方です。准将のおそばについて、陸から雅臣さんを護りたいとずっと思ってきました。そんな妻でありたいと思っています」
 やっと。ゴリ母さんがにっこりと微笑んでくれる。
「うん。心優さんならきっと大丈夫、ううん、でも心細いこともあるだろうね、だからさ……」
 そこで湖をみつめて一緒に並んでいたお母さんが、このまえのように、心優をぎゅっと豊かな胸元に抱きしめてくれる。
「だから。ちゃんと還ってくるんだよ。ママになって子供達をひとりで守らなくてはならない留守番の時も我慢しすぎないこと。私も一緒に孫を守っていくからさ。海軍大佐の妻と母親を一緒にやっていこう」
 ひとりじゃない。海軍大佐の妻として、母として。心優は初めて知る。このお母さんはもうずっとずっと前から『ファイターパイロットの母親、大佐殿の母親』としての自覚を持ち、覚悟を持ち、息子に『普通の当たり前のお母ちゃんの姿』に整えて何度も海に空に見送ってきた人なんだ。『待ち人』を見守ってきた女性としてずっと先輩の。
「お母さん、うん……、嬉しいです。心強い……です」
 心優も今夜は遠慮なくゴリ母さんに抱きついた。
 ひとしきりあったかい胸に抱きしめられ、ゴリ母さんも気が済んだように離れた。
「わたしのドーリーちゃん。嬉しいよ、一緒にここに来られて。女同士の秘密だよ」
 お母さんが本当に人形を撫でるようにして、大きな手で心優の頭を撫でてくれる。
「はい。秘密、ですね。わかりました。……海に出たら、この湖の夜の姿を思い出しますね。お母さんのことも」
「うん。待ってる。ドーリーちゃんの白いドレス姿、絶対に見たいからね。約束だよ」
「はい」
 またゴリ母さんにぎゅっと抱きしめられる。
 わたしのドーリーちゃん。ほんとうに娘になったようで、心優は嬉しくて泣きそうになってしまった。
 それからしばらく、ゴリ母さんと一緒にハーレーダビッドソンを眺めて『ハーレーもいろいろあるんですよね』とか『いまは走り重視のスタイルにしているよ。マシンのデザイン重視の時期もあったけどね』と、いろいろとハーレーを触りながら、眺めながら、マシンについて話に花が咲いた。
 でも。また途中でゴリ母さんが深い溜め息。ハーレーダビッドソンのシートを愛おしそうに撫でつつも、また寂しそうな目。
「えっとさ。真知子から聞いたと思うけれど。前に雅臣のかわいい恋人にとんでもないことしちゃってさ」
 またその話になり、心優は神妙に構えた。塚田夫人の話はこのお母さんにとっても古傷のようだったから。
「私ってさ。こんなだからさ。真知子がよく使う言葉でいうと『女子力』?ってやつがまったくだめでね。綺麗なワンピースを汚しちゃったのに。ちょっと仲直りしたくて。こうして女同士でふたりきりで話したくて……。この場所を紹介したくて……。かわいい服じゃなくなったあの子に『バイクに乗ってでかけよう』なんてデリカシーなく誘っちゃったんだよね」
 真知子姉さんが言っていた『ダサイ服を買ってきて着替えた後』のことらしい。
「あの子もいっぱいいっぱいだったんだろうね。バイクに乗ろうと誘ったら……。すごい凍り付いた顔を一瞬ね……。私も自分の感覚ばっかり独りよがりに押しつけちゃって悪かったから、ほんっとに女の子ぽいあの子にあんな服を着せた後にバイクって……困ったんだろうし、だめだったんだろうね。だから……。また、お嫁さんにそんなデリカシーのないことをしちゃうんじゃないかと怖かったんだ」
 やっとやっと。アサ子お母さんがどうしてあんなに気遣うかやっとわかった。ゴリ母さんも仲良くなりたくて自分の一番いいものを紹介したかった。そしてカノジョさんにとっては、それまでただ女の子らしくしてきた中では『そばになかった世界』だったから突然触れることになって戸惑っただけ。
 でもそれが家族になると意識すると、とんでもない溝を刻んだのかもしれないと……。
「そうでしたか。でも……。塚田中佐は私にとっては素晴らしい教育係の上官でした。あの男性が選んだ女性、そして支えている女性だと思っています。もし雅臣さんとあのまま上手くいってもきっとそんな奥様になっていたと思います。ただ……、生きていく上で、結婚するって……、わたしだってまさか、ずっと大人の上司だと思っていた雅臣さんと結婚できるなんて一年前にはまったく思っていませんでした。そうなれる人となれるのかなって……。自分だけじゃなくて、御園准将と御園大佐を見ていてもよく思います」
「あ、そうかもね。葉月さんの旦那さんがメガネのガリ勉そうな男の人でびっくりしたかな。あの連隊長さんのような怖そうな男性が旦那さんてイメージだったから」
「まさか! メガネの静かな理系男子にみえるかもしれませんが。相当なやり手なんですよ。葉月さんなんていっつもやられていてお嬢ちゃんみたいにされちゃうんです」
「へえ! ……ああ、でも。私もそうだもんね。まさか、あのお父さんと結婚できるとは思わなかったかな。絶対に、私のような女を嫁にと望む男はいないって諦めていたから」
 ああ、その感覚もすっごくわかると、今度は心優がお母さんに抱きつきたくなってしまう。
「わたしだって。横須賀基地で雅臣さんの部下になったばかりの頃は、空手家ボサ子なんてあだ名つけられちゃうほど、女子力なかったんですよ」
「ええ、うそだあ。いまはすごくかわいいドーリーちゃんじゃないか」
「それは、あの葉月さんのおかげです。ミセス准将の隣に相応しい女性になりたいと思って。でも、葉月さんも若い時はチェックのシャツにジーンズだけだったと言っていましたよ」
 ゴリ母さんが信じられない――と首を振った。
「そっか。じゃあ……、あのカノジョさんとはご縁じゃなかったんだね。ああなるしかなかったってことだね」
「塚田さんの奥様になられましたけれど……。きっとカノジョさんも、気にしているのではないでしょうか」
 ゴリ母さんがそこではっと我に返った。そんなふうに考えたことがなかったとばかりに。
「そっか。じゃあ、こっちもいつまでも気にしていたら、カノジョさんも忘れられないってことだよね」
「誰のせいでもないと思います。双子ちゃん達だって大人になって気にしてしまいます」
 うん、わかった。
 ふっきれた瞳をゴリ母さんがやっと見せてくれる。
「アサ子お母さんも、わたしには遠慮しないでください。わたし、ハーレに乗せてもらえて嬉しかったです。カーブの風、すっごく気持ちよかった!」
「そうそう。心優さんがうまく重心移動してくれるからさ。こっちもついつい調子に乗っていつもの運転をしちゃったじゃないか」
 私も気持ちよかったよ! と、ゴリ母さんも爽快だったと笑ってくれる。
「いつもの、いままでのアサ子お母さんでいてください」
 二人で微笑みあった。お互いに柔らかに打ち解けて心地よい時間を過ごす。
 最後に。帰る前にと自販機の前で飲み物を買って喉を潤している時だった。
「ああ、そうそう。心優さんを外に連れ出したのは、もうひとつ大事な話をしておきたくてね。できたら雅臣には聞かれたくない場所でと思って」
 また心優は緊張する。雅臣に聞かれたくないとくれば……。
「明日、行くんだろう。健一郎君の実家に。ついていってくれる心優さんには、話しておこうと思ってね」
 その男性の名は『伊東 健一郎』。雅臣の幼馴染み、親友だった人。
「健一郎君の、家族のこと。伝えておくよ」
「はい」
 心優も気を引き締め、ゴリ母さんの険しい表情に向かう。アサ子母も気張らないと言えないという顔をしている気がする。
「事故のあと、こちら家族同士の付き合いも疎遠になっているんだ。あちらのお母さん、息子を亡くした上に、ずっと馴染みのあった雅臣がパイロットでいられなくなったことも、望んでいた職場を退いたことを知って、すごく気に病んでね。母親同士、私も仲良くしてもらっていたんで、なんとか距離を縮めようとしたけれど……。これも余計なお世話になったみたいで、決裂しちゃったんだ」
 幼い頃から仲が良かった息子同士、そして母親同士。母親達の間でも哀しい嵐があったようで、心優の気持ちも一気に沈み、心が痛む。
「ほぼ、追い返されると思う。覚悟して行って欲しいんだ。また雅臣も傷ついて帰ってくるだろうね」
 そしてゴリ母さんにがっしりと肩を掴まれ、心優をまっすぐに泣きそうな眼差しで見つめてくれる。
「頼んだよ。心優さん」
 わたしのドーリーちゃん。これから雅臣を支えてほしいと託される。
 心優も強く頷いた。そう妻になるのだから――と。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ゴリ母さんが言う。
 パイロットを夢見ていた息子がパイロットになれず、親友で一緒にテストを受けようと誘った雅臣の方がパイロットの才能を持っていた。パイロットの夢に破れた息子が必死になって他のことで邁進しようとしている姿も支えてきたはず……。
 息子の切ない姿を見守ってきたのに、その夢に喰われてしまった息子を失った母親の気持ちをよく考えて。
 そして。健一郎という男性と雅臣がどれだけ仲が良かったかも、城戸家によく遊びに来ていたこともアサ子母は教えてくれた。

 

 真っ白なシャツ、肩には金の星と黒の肩章。そして黒いネクタイに、グレイッシュホワイトのタイトスカート。
 正装で行くべきか、パイロットの姿を匂わせないためにも私服で行くか。雅臣を話し合った結果、大袈裟にせず、あからさまに気遣ったことも匂わせず『普段どおりで行こう』と決めた。
「心優、昨夜、母さんとどこかにでかけただろ」
 朝になり、雅臣といつもの制服姿に整えていると、黒いネクタイを結んでいる雅臣が背を向けている姿で呟いた。
「え、……うん。ハーレに乗せてもらったんだ」
「やっぱり。やると思った。絶対に心優を乗せたいと思っているだろうなって。どこまで行ってきたんだよ」
 女同士の秘密。だから心優はあの駐車場のことは言わない。
「そこらへんを走ってきただけ。気持ちよかったよ。ハーレーの話もいっぱい聞かせてもらった」
「つきあわせて悪いな。でも、ありがとうな。母さんの大好きなバイクの話も受け入れてくれて」
 ああ、息子って。息子って。なんにも知らないんだなと初めて思った。
「ううん。楽しかったよ。これからのことも、困ったら我慢しないで言うんだよと何度も言ってくれて、頼もしかったよ。臣さんの実家に来られてほんと良かった」
 微笑むと、雅臣がいつになく泣きそうな顔になっていたので心優はびっくりする。
「臣さん……?」
 大きな手が心優の頬に触れる。
「いや、安心しただけ。もう小笠原に帰りたいぐらいだよ。あ、もちろん。心優の実家に行くのも伊豆に行くのも楽しみにしている」
 でも。あの官舎でいつもどおりの生活がいちばんいい。雅臣がそういいながら、心優を抱きしめた。
 なんだか臣さん、センチメンタルになってるのかな――と思ってしまった。
 朝食は四人で。真知子姉と双子は近所の自宅に戻ったため、今朝は雅史父とアサ子母、そして雅臣と心優の四人でとても静かだった。
 朝の音楽は、お父さんの懐かしどころなのか《Nothin's gonna stop us now / 愛はとまらない》という曲が流れていた。
 昨夜の賑やかさとはうって変わって、ゴリ母さんはお父さんの隣でしとやかな様子でゆっくり落ち着いてごはんを食べている姿。
 そして両親ふたりは、雅臣と心優が制服姿でいるにもかかわらず、なにもいわなかった。
「行ってきます」
 雅臣がでかけようとするところで、雅史父とアサ子母が玄関で『気をつけて』とだけ添えて見送ってくれただけ。
 それでもただならぬ緊迫した静かな空気だったと、心優は緊張しっぱなしの朝ご飯だった。

 レンタカーに乗って、昨夜注文しておいたお仏前にお供えする花束を受け取り、いよいよ伊東家へ。
「寒い……」
 おかしいな。夏なのに。心優はふとそう思った。
 雅臣が車のクーラーを切った。
「今日も暑くなるっていうからさ。ちょっときつめに入れたんだ。悪い」
 それが彼が車に乗って、初めて喋った言葉だった。それだけ彼がものすごく気構えて余裕がないのが心優には伝わっていた。いつもの愛嬌あるおおらかなお猿さんじゃなくて、ひんやりしている室長だった時のような横顔ばっかり。だから寒いのかな? とも思ってしまうほど。
 いちおう冷房対策用の制服ジャケットを持ってきたので、心優は肩章付きの制服ジャケットを羽織った。
 クーラーじゃないなあ。もしかして、昨夜、バイクに乗った風で身体を冷やして? ふとそう思ってしまった。
 車を使ったのは、花束を取りに行くのと、最後に墓前へ行くため。でも雅臣が運転する車は、城戸家からそんなに離れていない通りの住宅地へと入っていく。
 ついに車が止まり、雅臣が言う。
「ここだ」
 一緒に車を降り、雅臣が花束を持つ。
 心優も一緒に雅臣の隣に並んだ。
 白い夏ツバキが咲いている庭、そして緑の大きな木もある大きめの一軒家。
 玄関のチャイムを前にすると、庭の大きな葉がざざっとざわめき、風が心優と雅臣の黒いネクタイを翻した。
 やっぱ。寒い?
 緊張している心優は肌寒さを感じていた。
 雅臣が深呼吸をする。そしてついにカメラ付きインターホンのチャイムボタンを――。
『はい』
 女性の声。
「おひさしぶりです。雅臣です。お元気でしたか」
 女性の返答がなく、沈黙のまま。でもがちゃりと受話器を置いて切ったような音もしない。
『マサ君?』
「はい。お久しぶりです。健一郎に会いたいんです。会いに来たんです」
『……マサ君、もう考えたくないの』
「会わせてください。会いたいんです。すごく、会いたいんです!」
 インターフォンに詰め寄って必死な雅臣の姿に、心優はもう泣きそうになる。
『つらいの。そういう制服姿のあなたを見るのが。立派になられたそうね。大佐になったと聞いたわ。充分でしょう。もう……。あなたにも忘れてほしいの』
 どんな思いだったことか。息子が成れなかったものになった息子の親友。パイロットではなくなっても、その息子の親友は違う道を歩んでもその栄光を掴んでいる姿。
 やっぱり制服で来るべきではなかったもしれない。でも雅臣もそうだし、心優も話し合った時に同じように思った。『偽らない、取り繕わない、いつもの俺達の姿で行こう』と。
 そして雅臣も、ここまで来られるのに何年もかかったのだから、そんな簡単には引き下がらない。
「連れていきたいんです。一緒に行きたいんです。次の航海には健一郎も一緒に。誘いに来たんです。俺と海に行こうって、一緒に空を護ろうって……!」
 ついに、がちゃりと受話器を置かれた音がしてしまう。
 シン……と静まりかえる。インターホンからはなんの声の気配もない。
 またざわざわとした大きなざわめき。また風が心優と雅臣を煽る。今朝、城戸の家を出てきた時は暑い夏の朝だと思っていたし、こんなに風は吹いていなかったのに。
 その風が肌に当たると寒い。さっきの風よりずっとざわざわざわざわと吹き続けやまない。心優の腕に鳥肌が立つ。その瞬間。
 目の前の大きなドアがそっとゆっくりと開いた。でも小さな隙間だけ。
「おばさん!」
 小さな頃に雅臣はそう呼んでいたのだろう。子供のような呼び方。
 僅かな隙間は暗く、でもそこに品の良い小柄の女性がそっと覗いている目だけが見えた。
「マサ君……」
「お願いだよ、おばさん!」
 それでもドアを大きく開けようとしない伊東のお母様。
 また風は吹く。玄関にもその風がヒョウと入り込んだのを心優は見る。大きめの緑の葉がするりと入ってしまった。そのせいなのか、奥様が驚かれたせいなのか、ドアがふっと大きく開いた。
「うるさい風ね、まったく」
 庭のざわめく緑葉樹を彼女が恨めしそうに見る。
 開ける気がないのに開いてしまったとばかりの致しかたなさそうな顔。でもその木を見て、どこか泣きそうな顔をしている。
「健一郎なのかもね。どうぞ、雅臣君。……待っていたのかもしれないわね、あの子」
 ついに玄関奥へと促してくれた。
 もう雅臣の目には涙が浮かんでいた。
「おばさん……。俺……」
「ほら。もう相変わらず泣き虫ね」
 泣き虫!? お猿さんってもしかして子供の頃は泣き虫さんだったの? ちょっと意外すぎて心優はびっくり固まってしまった。
「あら。そちらの方は……?」
 心優に気がついた伊東夫人に、一礼をする。
「園田と申します。小笠原の基地でおなじ空部隊に勤めております」
 それでも女性連れだったことを訝しんでいるお顔。雅臣がはっきりと告げた。
「彼女と結婚するんです。健一郎を紹介したくて連れてきました」
 まあ……。
 奥様がすごく驚いた顔を見せ。また暗く翳る眼差しになる。
 片や息子は二度と帰らぬ人で、片や親友は昇進を遂げ、結婚をする――。それを目の当たりにするのは辛いことだと心優も思う。
 ほんとうについてきて良かったのか。

 

 

 

 

Update/2016.10.29
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