◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 EX2. ドーリーちゃん、よろしくね(7)

 

 熱帯夜の熱愛、一夜明けた朝の准将室。
 なぜか同じような溜め息をつく女がふたり……。
 はあ、昨夜の臣さんすごかったなあ。最初からあんなになって。あれで終わりかと思ったら、その後もう一回攻めてきたし……。四十歳も目の前なのになんなの、あの底なしの体力。元パイロットでお猿な体質あなどれない!
 さすがの心優も今日はちょっとぼんやりぎみ。
「はあ……」
 もうひとり。万年筆の先を見つめて集中できない人が目の前に。
 ミセス准将も今朝はちょっといつもと違うご様子。
「こんなときにインクが切れるのねー」
 いつもなら、インクが切れたからと騒がず集中力を維持したまますぐに交換して、即座に元のペースに戻って書類を作成しているのに。
 今日はそんな万年筆のペン先を見つめてそのまま。
「スペアインク切れているなら、売店まで買いに行ってきますよ」
「ううん、あるの。よく気が付く人がいてね。そろそろだろ……? なんて顔でお土産みたいにして持ってきてくれるの」
「ああ、そういえば……」
 眼鏡の旦那さんがふらっと准将室にやってくる時、いろいろと手土産を持ってくる。女性が喜びそうなおいしいものの時もあれば、本当に他愛もない文具用品だったり、雑誌だったりいろいろ。その中に『愛用万年筆のインク』もそういえばあったと心優は思い出す。
「これって。あの人が、わたしが准将に昇進して、この部屋に異動してきた時に、お祝いで探してきてくれたのよね。大佐室にいたときから、こういう本物のしっかりしたペンが欲しいとは思っていたの……。あの人ちゃんと見ていた」
 隼人さんがプレゼントしてくれたものということらしい。
 この時、心優は『あれ』と思った。
 昨日、准将室まで押しかけて怒りまくっていた隼人さんとは、自宅に帰ってからどう決着つけたのだろうと。
「あの人、ものを探すとなったら頑固にこだわりまくって納得できるまで探すから――。ほんとうに、質のいい万年筆を探し当ててくれたのよね。そうこだわると頑固なの」
「……あの、昨日は大丈夫だったのですか? 御園大佐は、葉月さんが訓練校のお仕事を任命されることまだ知らないはずですよね」
「知らないはずなんだけれどね。私もほのめかさないよう気をつけているんだけれど……。どうも協力してくれてきた正義兄様に海東司令の方が『ほのめかし』を始めている気がする……」
「え、それって。連隊長と海東司令は、もう隼人さんに気が付かせようとしているってことですか」
「……かもね。私のポジションがほぼ固まったから、隼人さんが騒いでももうどうにもならないでしょう。それならそろそろ徐々に諦めさせるようにもっていくんじゃないの」
 諦めさせる? 奥さんを司令官にするためならどんなこともすると思っている旦那さんの夢を諦めさせるという意味らしい。
「わかってる。あの人がいうとおりに、優秀な部下で固めれば出来ると私も思う。でもそれは迷惑をかけるということでもあるのよ。それに、私ももう……辛いから……」
 彼女が時々見せるミセス准将らしくない、苦悩してきた女性の顔になる。そうなると、心優も切なくなってしまう。
「あの、わたし思うんですけれど……」
 生意気だと思いつつ。でもおなじ女性として感じていることを伝えたいと思った。
「どんなに俺のミセス准将と思って、どんどん輝くように応援するんだと旦那さんが決めていても、奥様が本当に辛そうにしている姿を見たら、ちょっと考え直してくれると思うんですよね」
「そうね、そうかも。でもそんなこと滅多にないから」
 あったじゃないと心優は言いたい。今年の春先に空母艦任務で航海をした時、ミセス准将は不明者侵入の男に襲われそうになったが艦長として毅然と対処した。でもその後、彼女は精神のバランスを崩し、それで体調を崩すことになった。海東司令がそれを予測したのか、ちょうどいいタイミングとちょうどいい言い訳を用意して、ミセス准将の世話ができる御園大佐を送り込んできた。
 体調を崩したミセス准将をひと晩世話をした夜明け。あの時の、静かにうつむいていた御園大佐の姿が心優は忘れられない。
 あんな妻を見ても、もっと頑張って、今以上の女将軍様になってくれ――と、妻を愛する夫は願い続けるだろうか? 心優はふとそう振り返ることが多い。
「奥様がほんとうに辛かったら、旦那さんも無理強いはしないと思うんです」
「そうかしら。なんだかずっと頑張れると押されてきた気がする。それに、そのおかげで心強かったし、パワーも出たし、信じて前に行けた。それは感謝しているの。でも、これ以上は――」
 さらに苦悩を刻む顔になったミセス准将が深い溜め息をついた。
 もうあの夜明けの隼人さんの姿を伝えてしまいたい。でも、きっと隼人さんもあんな姿は葉月さんに知られたくないんだろうなと心優は思っているから、勝手に伝えられない。
 すごくもどかしい。どちらの本音もこうしてそれぞれ見てしまっている心優だからこそ。でもまだ首は突っ込めないかなとはっきりした態度でつっこむことが出来ないでいる。
「それで……。昨夜は、なんとか誤魔化せたのですか」
「うん、まあ。あまり酷くは突っ込まれなかったんだけれど――。どうしておまえが訓練校のアグレッサー部隊を設立する仕事を任されているのかとは問いつめられたかな」
 そりゃ疑うよね――と、心優も思う。それをあの連隊長が隼人さんがいる目の前で堂々と明かしちゃったんだから、彼が疑問に思ってもしようがない。ほんとうにワザとほのめかしているとしか思えない。
「でも。空部隊で新しいことを始めるなら、それは大隊長の私が携わっても当然でしょうと誤魔化したんだけれどね。その後、どう思ったかはわからない。急に笑顔になって『怒ってわるかった』なんて謝るの」
「うわあ……。あの、旦那様のにっこりっていつも怪しいですよね」
「うん。怪しいと私も思ってる。ほんとうにそこで納得してくれたの? あなたそれぐらいで誤魔化される男じゃないでしょうなんて……。ばれてほしくないのに、そう思ってしまう私も大概よね」
 わかります……と、心優も頷く。それってなにかに気が付いて『じゃあ、暫くは騙された振りしておくか』という笑顔じゃないのと心優だって思う。
「では、激しい喧嘩にはならなかったのですね。安心しました」
 ひとまず休戦のようで、夏休みを迎えてしばらくミセス准将から離れる心優はホッとした。
 でもそんなミセス准将が、ちょっと頬を染めてお嬢さんの顔になっていたので、心優はどうしたのかと首を傾げる。
「なんか……。男の人の『ごめんなさい』ってずるいのよね。いつも」
 かわいいお嬢さんの顔になっていたので、心優も瞬時に察した。それに『好きな男性のごめんなさいは、ずるい』は、心優にもすっごくわかる!
「わかります、わかります。ものすごく腹が立っていたのに、そんな時にすんごく優しくなって、その……」
 かわいいお猿の顔になるの! と言いたいけれど、これは葉月さんには通じまいと思っていえず、もどかしい。
「あ、雅臣にもそういうことあるのね。でも、雅臣ならわかるわー。かわいい顔してごめんなさいと言って、そんな時はすんごく優しいお兄さんになるんでしょう」
 まさにその通りと言いたかった。では、葉月さんも? と返そうと思って心優はハッとする。ああ、だから葉月さんほっぺが赤いんだと。
 お嬢さんとお兄さんみたいな関係だから、きっと御園大佐はかわいい男の顔なんてしなくっても。きっとあれだ。『ごめんな、ウサギ』とかお兄様の顔で言って、お嬢さんをだっこしていい子いい子なんてやったんじゃないかな! だから葉月さんも『そういう私の弱いところをわかっていて、ずるい』と赤くなっているんだと予測した。
 つまり。そういう仲直りに持ち込まれたということらしい。
 それはますます安心した。
「では。ひとまず休戦というところでしょうか」
「うん。そうね。旦那さんもなにかを企んでいそうだけれど。まだお互いの弾は発射せずというところね」
「はらはらしますねー」
 本当ねとミセス准将が微笑んだが、もういつもの優雅に落ち着いた大人の顔に戻っていた。
「さて、続き続き」
 やっと万年筆のインクを交換し、いつものアイスドールの横顔に戻った。
「いよいよ心優も長期休暇ね。ゆっくりしてきなさい」
「はい、そうさせていただきます」
 雅臣との帰省旅行も数日後と迫ってきていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ゴリ母さんと双子が帰ってから一週間が経とうとしていた。
 でも、心優と雅臣が浜松に行くのも今度の週末から。もう目の前。
「間に合ったー。もう、ほんとに最近の流通の発展、素晴らしい」
 ゴリ母さんが帰ってから、心優は自宅に帰るとインターネットに向かいっぱなしであれやこれやといろいろ探した。
 それを後十日で入手できるかハラハラしたが、横須賀基地経由の便に間に合って、無事に心優の手元にギリギリに届いた。
 それをもう準備を始めていた旅行バッグへと忍ばせる。
 ベッドルームのパソコンデスクでそうして旅行で知りたいことをいろいろ調べていると、リビングでテレビを見てくつろいでいた雅臣が顔を覗かせた。
「心優。ちょっといいか」
「うん、なあに」
 パソコンから離れ、雅臣が手招きをするまま心優もベッドルームを出た。
 ダイニングテーブルになにかが揃えられていて、心優も座るように言われる。
 座るとすぐに雅臣が一枚の紙を差し出した。
「これ。基地内の役場出張所からもらってきた」
 それは『婚姻届』だった。
 役所になかなか出向けない隊員のために、基地の中には役場の出張所がある。ついに雅臣が入籍するための準備を始めた。
「両親の前で書き込んで、書き込んだものを心優の沼津の実家に見せて、それから提出しようと思う。帰ってきたら『城戸』になる。いいかな」
 心優はそっとその用紙を手に取った。初めて見る実物の……。まさか自分が奥さんになれる日が来るだなんて。紙を持つ手が震えてきた。
「うん。いいよ。はやくそうなりたい。けど、なんかドキドキして来ちゃった。大佐とおなじ名字になるなんて緊張しちゃう」
「それは俺もおなじだよ。沼津のお兄さんに会うのドキドキするし」
「兄ちゃん達は、はやく大佐に会いたいと楽しみにしているよ。エースパイロットが弟になるなんてって喜んでる」
「それならいいけれどな。それからな、心優。これを書く前に、きちんとしておこうと思うことがいくつか」
 改まってなんだろうと心優は首を傾げる。確かに城戸になったらいままでどおりとは行かないとは思うけれど、それも城戸になってから少しずつ対処するべきものかなとゆったり構えていた。
「御園夫妻のように、おなじ名字の夫と妻が近しい部署の隊員として働くことになる。籍は城戸になるけれど、基地ではどうする? 旧姓の園田で通すようにお願いしておくか」
 それは心優も考えていた。まだ小笠原基地に来て一年しか経っていない。その中で、今度は城戸中尉と呼ばれるとなるとどうなるのだろうかと。
 でも心優はもう決めていた。
「御園大佐とおなじでいいよ。ネームタグは城戸で、その時々に園田といい分けてもらうかんじでいいと思う。そのうちに、城戸中尉が普通になる日も来ると思うし」
「わかった。では、その意向は葉月さんにもきちんと伝えてくれるな」
「はい。わかりました」
「それから。これがもっと大事なことで……」
 さらに雅臣が心優にあるものを差し出した。
 彼が差し出したのは、城戸雅臣名義の預金通帳が数冊。けっこう持っていてびっくりした。
「これから家庭の家計は心優に任せる。近い将来子供も出来るだろうし、子育てに役立てて欲しい。それから、俺が航海などで長期不在する間も振り込みはあるが、留守の間なにかあった時にも使ってくれ。それから万が一の時……も、」
 雅臣が黙った。それが軍人として当然の覚悟。そして心優も海軍大佐の妻になるには当然の覚悟。
「わかりました。海軍大佐の妻になるのです、覚悟できています。城戸大佐、そして、雅臣さん。大事に使わせて頂きます」
 心優は頭を下げ、丁寧にその通帳を受け取った。なのに、雅臣が心配そうに『あっ』と引き留めようとしたので、心優も直ぐに受け取ったのが恥ずかしくなってパッと手放してしまった。
「えええっとな。その、ちょっとめくって、金額を確かめてくれるかな」
「え、いいの?」
「そりゃ。渡すんだからいいよ。でもな、その、金額……」
 え、なに? そんな見られるの躊躇うほどの金額なの? 
 心優は妙に落ち着きをなくした雅臣の様子を訝りながら、雅臣が最初に渡した通帳を開いた。
「え! なにこれ!!!!」
「えっと。こっちもな」
 二冊目の通帳も渡され、さらにその金額を確認。もう心優は泡を吹きそうになった。
「なんなのこの金額!!!」
「か、隠していたわけじゃないんだ。ほら、俺って、パイロットだったからその手当もあったし、幹部職になってからこうどばっと。それから仕事ばかりで、あんまり使わなかったし。官舎住まいで家賃かからないし、長いこと独身で自分の生活の分だけあればよかったし、そうするうちに、その金額になっていたんだよ」
 さらに。日常で使っているという通帳も見せてもらい、毎月の彼の給与の振込額を初めて知り、心優は『ああ、この人。ほんとうにエリートの大佐さんなんだ』と今までにない実感をすることに。
「……、そうだよね、大佐なんだもん。これぐらいもらっているよねと、わかっていたつもりなんだけど……」
 心優がしてきた貯金もこつこつだったが、増え方が全然違う。エースパイロットだったし、秘書室長だったし、いまは准将付き補佐で艦長候補の大佐殿。年収なんて心優の倍以上いっている。
「そんな男の妻になって、子供を育ててもらいたいと思うから……。あ、それから。もうちょっと広い間取りの家でも建てようかと」
「ほ、ほんとに?」
「うん、充分な蓄えだろ。この時のために、貯めてきたんだとも思っている。持て余していたけれど、よかった」
 雅臣がしみじみとその通帳を手にとって眺めた。
 そんな雅臣が懐かしそうにぽろっとこぼした。
「若い時、女に持ち逃げされたこともあったんで……、ちょっと慎重になって今になってしまったんだ」
 はあ? 女に持ち逃げされた!?
「臣さん、なんなのそれ」
 またうっかり言わなくていいことをぽろっ言ってしまった自分に、雅臣が我に返る。
「いや、それは! 俺がスワローに配属されたばかりの、二十代の若いころだよ」
「そんなわたしがまだ子供だった頃のおつきあいについて言っているんじゃないの。どうして持ち逃げなんてされたの」
 いやー……と、雅臣が情けなさそうに黒髪をかいてうつむいた。
「女にまだ疎かったんだ。男ばかりの基地にいて、男とばかり訓練をして、戦闘機に乗っている時間が多くて、スクランブル発進に備える日々。そんな中、かわいい彼女ができて舞い上がっちゃったんだよ。かっこつけたくてこの貯金を使って海外旅行でもしよう! なんて見栄張ったんだ。詳しくは割愛するけど、旅行の申し込みなどの諸々を任せていた彼女を信用して彼女が言う代金を渡したら、そのうちに連絡が途絶えて……。気が付けば、携帯電話も着信拒否……これって、と気が付いた時には遅かったとか……」
「ちょーっと臣さん!」
「だから、若かったんだって」
 若い時のお猿は隙だらけで、女の子にいいように手玉に取られていたということらしい。ほんとうに女の子には負け猿になっちゃうみたいで心優はびっくり。
「ひ、被害額は……」
「んまあ、ンン十万円かな」
 五本指以上の金額が出てきて、どこの超豪華ペア旅行ですか! と言いたくなる金額。
「ええ、やすやす手渡しちゃったの??」
「いやあ、あれこれ必要だからこれだけいるっていうんで渡しちゃって」
 もうこんなに騙しやすいお猿さんもいなかったことだろうと心優は彼の過去に泣きたくなる。でもそれだけ純なお猿さんだったとも言える。
 貯金の一部をおろして盗られたため、まったく全額というわけではなかったけれど。
「うそ〜、なんなのその女!! 犯罪じゃない!」
「俺よりも、海外旅行よりも、金だったみたいだな」
「もう、やだー……」
「一応、被害届を出すように橘さんに言われてそうしたんだけど、俺だけ騙したのか前科ナシで見つからずじまい。その時の俺を心優が知らなくて良かったと思っているほど、女に疎かったもんで……」
 出会った時は既に大人のお兄さんで、大人の上司だったし、いまも臣さんはかわいいお猿になるけれど、頼りがいある大佐殿で旦那さん。
 でもそれも若い時の失敗を乗り越えてということらしい。
「当時、上司でスワローの隊長だった橘さんにもめっちゃくちゃ怒られたな。どんな好きな女でも『金』については曖昧にしておけって……。特に俺達のような国防パイロットは金を持っていると思われがちだから、金のことについて明かすのは、どんな女も最後だって叩き込まれた。それでなくても、パイロットというだけで寄ってくる女もいるし、お国の仕事をしている男だと近寄ってくる金目当ての女も時々いるから、どんな女にも警戒心を持て――とバッサリやられたっけ」
 ああ、それで心優と結婚することになって最後の最後にこうしてくれたのかと納得した。
「だからって。心優もそうなると恐れて、いままで黙っていたわけでもないんだ」
「それはもう……。まだ一緒に暮らし始めて三ヶ月だもの。それに、わたしにも覚悟がいるので、妻になる決意を固めている今みせてくれたほうが、妻として受け取れるから」
「信じられる女は、妻になる心優だけだ。俺のことを大人の男だと頼ってくれるのは嬉しいけれど、若い時は女にやられてばかりの猿だったよ。だからこそ、俺が最後の女として心優を選んだということ覚えておいて欲しい」
 いままでいろいろな女性を付き合ってきたけれど。こういう恐ろしい目にもあったことがある猿だからこそ、信じられる女として心優を選んだ。そういう意味でも失敗を打ち明けてくれたんだとやっとわかった。
「臣さんが、ファイターパイロットとして、国防で身体を張ってできたものです。子供と家族のために使わせて頂きます」
「うん。楽しみだよ。これからこの家の中が賑やかになっていくかと思うと」
 また男前なお猿スマイルを見せてくれ、心優はもう愛おしいあまりに何も言えなくなってしまう。
「心優、もうすぐ俺の妻だな。そして俺は、心優と生まれてくる子達を護る父ちゃんになるよ」
 テーブルの上で手を握ってくれる大佐殿。しかも向かい側にいる心優の口元まで近づけてくる。そのままキスをしてくれる。
 うん。もうすぐ城戸心優、城戸中尉になるんだね。わたし。
 目をつむって、心優もキスを返す。海軍大佐殿の妻になる決意もキスの熱さに誓いたい。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 実家に帰るなんて何年ぶりだろう? 
 窓辺には富士山が見える。高速で過ぎていく新幹線。
 心優の隣には、制服姿の大佐殿。
 真っ白な夏シャツに黒い肩章の制服を着ているせいか。やっぱり周りの人達の視線を感じる。
 でも、そんな心優も今日はタイトスカートの制服姿だった。だから余計に目立つようだった。
「最近の新幹線、早いな。このスピードだとカタパルトぐらい行きそうだ」
 雅臣はすぐに空と置き換えてしまうよう。でも心優も窓辺を見てしまう。
 やっぱり懐かしい。沼津にちかい三島駅を通り過ぎてしまったけど、富士山の形が自分が見て育ってきた形だった。
 まずは浜松基地へと挨拶へいく。その為に、新幹線を降りたらレンタカーで行くことになっていた。
 運転は雅臣がしてくれるという。臣さん、車で事故に遭ったはずなのに、そこは大丈夫なのかなと心配になってしまう。
 心優も運転できると言ったのだが、俺がすると聞かなかったのだ。それがまた気になって……。
 無事に浜松駅に到着。予約していたレンタカーも待機してくれていて、ふたりは長い休暇のために詰め込んできたお互いのトランクを積んだ。
「ついこの前も来たばっかりなんだよな」
 運転席に大佐殿が乗り込む。シートベルトを締める雅臣を見ながら、心優も助手席に乗り込んだ。
「そういえば、そうだったね。あの時はなんの研修か教えてもらえなくて、ほんと臣さんどこにいるんだろうって心配だったんだけれど、まさか実家近くの基地にいたとはね……」
「でも。過密スケジュールの研修だったし、数年ぶりに空を飛ぶとなるとだいぶ気が張って、やっぱり実家に知らせる余裕も気力もなかったよ。また母さんを心配させてもなあと思って」
 だから近くに実家があっても帰らなかったし、連絡もしなかったという。
「この前も、こうしてレンタカーを借りて基地まで行ったんだ。運転の感を取り戻しておこうと思って。これから島でも運転が必要になるだろ」
 ああ、それで。感を取り戻しておいたから、俺が運転でも大丈夫ということだったらしい。それを知って心優もホッとする。
「浜松基地の連隊長兼司令の石黒准将に挨拶してから、俺の実家な。基地から十五分ぐらいのところなんだ」
「わたしも浜松基地の教育部隊に数年いたけれど、だったら、アサ子お母さんとは近くにいたってことになるんだね」
「ほんとうだな。双子もびっくりしていたよ。どこかで心優さんとすれ違っていたかもって。まあ、あいつらまだ小さかったと思うけど」
 そう笑いながら、雅臣がエンジンをかけた。余裕で楽しそうなので心優も安心して、助手席でシートベルトを締める。準備ができると、ミニワゴンタイプの車が発進する。
「浜松基地で研修中、久しぶりのコックピットは緊張したの」
「そりゃあしたよ。でも、覚えているもんだな。六年ぶりだったのに。それに浜松ではT-4で練習していたから、なんか初心に返ったような気分で乗れたよ」
「足、痛かった?」
 雅臣がアクセルを踏んでいる足を見て黙った。心優はしまったと口をふさぎたくなる。その足は、こうして車に乗っている時に怪我をしてパイロットではいられなくなったのだと――。
「うん、上空で。これはダメだなと諦めもついたよ。きちんと申告した時点で、もう不適正になった。でも御園准将と石黒准将揃っての許可があったから、最後に一回だけT-4に乗るための訓練は許されたんだ」
「じゃあ、石黒連隊長のおかげでもあったんだね……」
「そう、無事に飛べた報告は既にしてあるけれど、顔を見てお礼を言っておきたい。ああ、そうだ。心優のことも覚えてくれていて、結婚すると報告したらとても驚いていた」
「え、わたし……。ただ空手の練習をして、お稽古の相手をして、新人事務官の後輩に簡単な事務を教えるぐらいの仕事しかしていなかったのに」
「だけれど。横須賀訓練校で武術教官をしている父親がいて、お兄さんが櫻花日本大柔道部の監督となれば、その娘で妹で空手の全日本選手団にいれば、連隊長だって覚えているよ」
 うわー。どうしよう。浜松基地ではただただなんの向上心も持たずに日々を過ごしていたのだから。心優は雲の上のおじ様だった、白髪交じりの短髪おじ様を思いだす。接点なんてほぼなかった。でも向こうは覇気のない心優をもどかしい思いで見ていたかもしれない。そんな連隊長に久しぶりに会うことになるかと思うと、ちょっと緊張してきた。
「俺が研修している間も、心優の元上官だった教育隊の中佐からも声を掛けてもらったかな。園田がものすごい発展を遂げて化けたので驚きました。城戸大佐が採用してくれたおかげですと喜んでいたな」
「いやー、もうやめて。わたし、浜松ではほんとうにうじうじしていたの」
「もう誰もそうは思っていないよ。なんたって、シルバースターの勲章をもらった任務で功績をあげた護衛官だもんな。しかも、あのミセス准将の!」
 そうだけれど……。なんか、顔合わせづらくなっちゃったなと心優は気後れしてきた。
 そうして浜松基地にいる間、マリンスワローにいて雷神にもいた雅臣が操縦するたびに、その飛行を見た隊員達にすごく声を掛けられたらしい。そこでどうしても元々浜松基地にいた心優のことも聞かれてしまうことになっていたとか。
 ソニックは相変わらず人気者。もうコックピットから降りることが決まっても、そのT-4でアクロバット練習をすると隊員達がすごく湧いたとのことだった。
 わかるなあ、小笠原でも、心優と雅臣がT-4に乗った時。基地の建物の窓際にたくさんの隊員が身を乗り出していたから。特に男性隊員から見たら、それこそ雅臣はエースでヒーロー、俺達大好きソニックになってしまうんだから。
「浜松を出て二年だろ。その間に、すげえステップをしたんだから自信を持ったらいいよ」
 運転をしてる雅臣が、大きな手で心優の頭を撫でてくれる。それだけで心優もうんと微笑んで頷けた。
「ああ、ちょっとコンビニに寄っていいか。小さな電池が欲しいんだ」
「うん、いいよ。わたしも喉渇いたな」
「俺も。冷たいコーヒーが欲しい」
 新幹線を降りてすぐに車に乗ったので、ここでちょっとひと息とコンビニに寄った。
 浜松基地はもう目と鼻の先だけれど、石黒准将に緊張して会う前にひと息つくことにした。
 ここらへんは基地の街なので制服姿も珍しくないのか、コンビニに入っても店員が驚くことはなかった。
「わたし、飲み物見てくるね」
「うん。じゃあ、俺は電池を――」
 それぞれの売り場へと別れた。
 心優は奥にあるペットボトル飲料の大きなケースまで。そこで『香りがいいお茶がほしいな』と探していた。
 パパ、パパ。あれがいい。
 わかったから。まずは飲み物からな。なにが飲みたい。
 オレンジジュース。
 小さな女の子が走ってきた。そうして心優のそばまで来て、小さな手をケースのガラスについて、オレンジシュースを探している。
 いいな。小さい女の子。かわいい。裾がふりふりのお洋服に、キッズスキニーをはいている。わたしも女の子が生まれたら絶対にこんなふうに女の子らしくさせてあげたいと微笑ましく眺めていた。
「パパ、あった」
「どれ」
 夏の紺色カットソーに、バミューダーパンツという、如何にもお休みの日スタイルのパパがやってきた。
 その男性を見て、心優の背にじわっとした汗が一瞬で滲んだ。向こうも夏の制服姿の心優に気が付いた。
 お互いに目があって、お互いに青ざめていた。
「心優……?」
「武野海曹……」
 おなじ目線の、おなじ背丈の男性が目の前に。
「どうして、ここに。小笠原にって……」
 別れた女はいま小笠原にいると知っている。そして、心優も。
「転属されたのかと……」
 元カレだった海曹の男、元上官だった男がまだ浜松にいた。
 しかも小さな女の子の『パパ』になっている。
「パパ、どしたの」
 小さな女の子が、武野の足のそばでちょこんと首を傾げ、心優を見上げている。
「パパの、基地の、おしごとのひと?」
 パパも海軍の隊員。おなじ制服姿を見慣れていることだろう。
「うん、そうだ」
 武野は笑顔でそういうと、娘の小さな頭を愛おしそう撫でた。
「パパになられたんですね。ご結婚されたということですよね」
「うん、三年前に。娘は翌年に生まれた」
 そうきいて心優の心がずきんと痛んだ。三年って……。心優が彼と別れたのは四年前。つまり別れて直ぐに付き合っただろう女性と即結婚して、すぐに子供も生まれたということになる。
「実は。いま曹長なんだ……。あのあと呉に転属になってそこで昇進して、妻に出会ったんだ」
「広島の方?」
「うん。あのあたりの出身。それで去年、また浜松に帰ってきた」
 それでも彼は心優と目を合わさず、遠慮したような笑みを見せるだけ。
「そうでしたか。おめでとうございます」
「……嫌味かな」
 彼の頬が引きつったのを心優は見てしまう。心からの言葉だったが、心優もわかっている。
 彼はさっさと心優と別れて結婚もしたし、子供にも恵まれたし、昇進もしている。
 でも。心優からのおめでとうは素直に受けられない。何故なら……。
「そっちは准将付き補佐の大佐と婚約。しかも中尉に大躍進。御園准将の抜擢で、大隊長秘書室の護衛官。空母任務での功績でシルバースター。そちらこそ、おめでとうだろ」
「あ、ありがとうございます」
「俺と別れて大正解だったな」
 言葉にどんどん棘を感じる。でも、でも、心優を捨てたのはそっちなのに。その後のことは、彼がどうなっていようとも、心優だってこの二年必死でやってきただけのことなのに。
「でも……。そういう素質があるのはわかっていた。おまえが俺の下にいるとき、もったいないなと思っていたんだ」
 やっと……。彼から優しい声を聞く。しかも彼はうつむいて、本当に心優を見てくれない。
「俺じゃあ、だめだったんだな。もともと、もっと力量ある上官でないと扱えない素材だったってことだよ……。見合うところに行くことができたんだよ、おまえ」
「武野、さん……」
 彼を名で呼ぶことはなかった。いつまでも上官の武野さん。心優もなかなか素直になれたかったのは確かだった。
「心優?」
 そこへ、背が高い彼が来てしまった。こちらも制服姿の大佐殿。
 雅臣が心優の背後に来ると、武野がびっくりして目を瞠った。
「き、城戸大佐……」
 誰もが知っているソニック、ついこの前まで航空機訓練で研修に来ていた大佐殿。それはもう武野も知っているようだった。
 でも雅臣は知らないので、きょとんとしている。そして心優もさらに汗が滲んできた。のに、その汗がさあっと冷たくなっていく感覚。
「知り合い?」
 雅臣に聞かれ、心優は答える。
「浜松勤務時代に……、その、上官だった、武野さん、いまは曹長です」
 しどろもどろに紹介すると、それだけで雅臣の顔も強ばった。
 きゃー、臣さん。絶対に気が付いた。わたしの元カレだって!
「そうでしたか。心優がお世話になっておりました」
 制服姿のなのに、『心優』と言った。つまり制服姿でもプライベートのつもりという雅臣の意思表示。しかも『彼女がお世話になって』なんて、既に夫の口ぶり。
 そして武野は一気に緊張した面持ちになった。
「は、初めまして城戸大佐。あの、つい最近研修に来られていた時『ソニック』の飛行に感動していた一人です」
「いや、もう久しぶりだったので、あんなみっともないアクロバットしかできなくて」
「い、いえ……。同僚達と身を乗り出して見ていました。スワロー出身の飛行かと思うとそれだけでもう……」
「ありがとう。あれで諦めがついたけれど、最後に……彼女を乗せて一緒に小笠原で飛べたのでもう満足です」
 そういって、雅臣が彼の目の前で心優の肩を抱いて引き寄せた。もう、それも心優は元カレの前でどうしていいかわからず身体がかちこちに固まったまま。
 臣さんの愛嬌笑顔がすごく不自然? 秘書官時代に見せていた『腹に一物あり、でも笑顔の室長』みたいな微笑みに心優には見える。
「一緒に、乗った? まさか、T-4に?」
 でも武野は、雅臣の話を聞いてすごくびっくりしている。
 心優もただ黙ってこっくり頷くだけ。
「え、ソニックが操縦するコックピットに??」
「は、はい。御園准将が城戸大佐の最後の戦闘機操縦だからと、一緒に乗せてくれました」
 うわ、嘘だろ――と武野が絶句している。
 そうしてしばらく武野も黙ってしまった。
「心優、行こうか」
 そして雅臣も意に介さず。元カレと会ったからとて、それ以上なにを話すのだとばかりに、急に冷めた目つきになった。
「武野さん、それでは。失礼致します」
 また彼は心優に顔を向けず、目も合わせてくれず。そうして逸らしたまま。これが最後、そうもう会わないし、関係のない人になる。これでいい。
 でも、そんな心優を武野の足に掴まっている女の子がじっと見つめている。
「かわいいお嬢様ですね。さようなら」
 女の子に手を振った。
「バイバイ。おねえちゃん」
 かわいく笑ってくれたので、心優も微笑む。
「バイバイ……」
 名前がわからない……。
 だからそのまま会計をしている雅臣の背を追いかけようとした。
「き、綺麗になったな」
 え? びっくりして、心優は思わず振り返る。
 今度の武野は、心優の顔を見てくれている。
「俺の時に、そうなってほしかったよ」
 そう、なれるとわかっていたら、心優だって頑張って……。ううん、違う。雅臣に出会って本気になった。そう気が付いて心優は初めて、自分も悪かったんだと痛感する。
「うじうじしていたから、わたし。前を向かないわたしなど、あなたになにも与えてなかったことでしょう」
「俺も、本気にさせれやれなかったんだ。それに……。本気になった心優なんて、きっと俺のところにはいなかったと思うよ」
 涙が出てきた。どうしよう……。自分も悪かったし、彼がどうして自分を嫌になったのかも、『つまらない』と言われた訳もいまならわかる。それに少しは気に入ってくれたからつきあってくれていたこともわかったから。
「武野曹長、お世話になりました」
「園田中尉。これから様々な任務に就かれることでしょう。どうぞこれからは気をつけて、ご活躍楽しみにしています」
 彼が心優に初めて敬礼をしてくれた。そう、わたしはもう彼より上に行ってしまったから……。でも本当にいま彼は心優を今まで以上に敬ってくれている。
「武野曹長のご活躍も楽しみにしております。……どうぞ、お幸せに」
 心優も敬礼を返す。でも最後は、元部下として深々と頭を下げた。
 わかっているだろうに。会計を済ませた雅臣はこちらを見ることもなく、冷めた横顔のままコンビニを出て行こうとしている。
 心優も急いで彼の後を追った。
 もう、うじうじすんなよ。結婚、おめでとう。
 最後に聞こえた武野の声にまた涙が溢れてきた。
 雅臣がさきに運転席に乗り込んだ。心優もすぐに助手席へ。
 車の中に入りシートに座ると、雅臣がハンドルを握ったまま溜め息をついた。
「もう、だからな。元カレいるのかいないのかって聞いたんだって」
 すごく不機嫌な顔になっている。シドと親しくしていたってこんな顔見せたことがない。それはやっぱり実質的に心優と異性関係があった事実を感じてしまったからなのだろうか?
「転属したけど戻ってきていたんだって……。でも。未練なんてなかったよ。臣さんに出会って全部消し去ってくれたから。あの、涙が出たのは、その……、」
 過去の嫌な思いが昇華されたから……。
「良い別れができたなら、それでいいじゃないか」
 フロントをまっすぐに見つめ、雅臣がどこか切なそうな眼差しで呟いた。
「俺は。浜松基地に連れてきて、元カレとばったり会った心優が、辛いことを思い出したら嫌だなと思って気にしていただけ。もし過去の心優をけなしたら、そいつをぶん殴っていたと思う」
 そこで雅臣がやっと素っ気なく出てきたコンビニへと振り返る。レジで娘と会計をする武野の姿が見えた。
「いいヤツだったみたいだな。でも、お互いに分かり合えず、か。あるよな、そういうこと――」
 そんな経験はお猿さんの方がいっぱいしてきたはず。だから、切なく感じてくれているのかも。
「まあ、そのおかげで心優に出会えたしな! さって、行くか!」
 シャーマナイトの瞳が、きらっと光って前を向く。いつもの愛嬌たっぷりお猿スマイルになった雅臣が元気よくエンジンをかけ、車を発進させた。
「あ、お茶……買えなかった」
「あ、俺も、アイスコーヒー忘れていた」
 元カレと遭遇して、本当に欲しかったものをすっかり忘れて、コンビニを出てきてしまったらしい。
 元カレが目の前に現れた威力ってスゴイ……。臣さんまでこんなになっちゃう。
 でも、会えて良かった。心優の目も浜松の青空へ。そこにはもう中等練習機、川崎T-4が飛んでいた。

 

 

 

 

 

Update/2016.7.11
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