◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 2. 大魔神キルコール 

 

 海の色が紺色に染まる宵の口、この日も心優は最後の仕事として、光太と一緒にミーティング室の片隅で向きあう。
「今日は鈴木少佐のことを話しておくね」
「鈴木英太少佐、バレットですね」
「そう。彼を見て、吉岡君はなにをかんじた?」
 うーん、と光太が唸る。
「日本人離れの体格、恵まれた身体能力、エースパイロットで、スワロー出身。悪ガキと言われているけれど、戦闘機パイロットとなればエリート。そして、ミセス准将との関係が、他の男性とは異なる、でしょうか」
「うん。そうだね。鈴木少佐が、御園家の家族の一員であることは知っているね」
「はい。ご両親も、ご親戚も、いらっしゃらない……ということですよね」
「そう。だから御園家が、鈴木少佐の身元引受人にもなっているほどなの」
 そこから心優は、御園家と鈴木少佐の深い関係といきさつを光太に語り、叩き込む。
 ご両親はすでに他界、引き取ってくれた叔母も数年前に他界。天涯孤独になった鈴木少佐を御園夫妻が弟のようにして受け入れ家族同然に付き合っている。鈴木少佐が『うちに帰る』とか『帰省する』と言えば、そこは御園家になる。
「鈴木少佐にとって、御園准将は、葉月さんは、上官以上に、お姉様なの」
 でも。彼自身が『ずっと一緒に空の仕事をしたい。俺が空の仕事をするのは葉月さんだけ』という信条を今日、捨てた。
 そのことも光太に告げる。光太も急にしゅんとてうつむいた。
「あ、だから。御園准将が涙を見せたんですね」
「そうよ。自分の手元から教え子が巣立っていく師の気持ちであったり、弟を見送るお姉様の気持ちであったとも思うんだ。だからこれからも、そういう気持ちを持って鈴木少佐が空に挑むということは覚えておいてほしいの」
「わかりました」
 鈴木少佐が、葉月さんに恋していたことがある。でも、いまはそのお嬢様の杏奈ちゃんと――。は、今回はやめておこうと心優は胸の奥にしまった。
 これから『知らなかった』ことで済まされないようなことは、こうして少しずつ教えている。
「あとね。御園准将の『お散歩』というものがあってね」
「お散歩?」
「秘書官を外して、ひとりでふらっと何処かに行ってしまうの。良く言えば、一人で基地の見回り、でなければ、悪い癖……かな」
「え、俺達の目を盗んで、ですか???」
「そう。休憩時間とかではなくて、突然、ふらっと」
 そんなこと許されるのかと光太も仰天している。
 これがここでは許されるんだよなーと心優も苦笑い。
「でも、業務の差し支えにならないよううまーく抜けるの。すっごいお上手だから目を離さないように。あるいは、そのお散歩に黙ってついていって『ついていくことを許してもらう』ようになること。特にわたしと吉岡君は、専属護衛みたいなものだから。気を許してもらえるように、准将の顔色や目線とかちょっとした言葉には敏感でいるように」
 御園准将がいなくなったら『まずここを探せ!』というものも、光太にはメモさせておく。グラウンドの芝土手、大好きなレモネードの缶ジュースがある自販機の場所などなど。
「これって、仕事、ですよね」
「ラングラー中佐なら全て記憶しているよ。いないと気がつくのも早くて、気がついたら二十分ぐらいで捜索して、准将を捕獲するかな」
「ボスを捕獲って……」
 そんな秘書室、聞いたことない――と、光太の唖然とした顔に、心優は『ほんとに、そうなるんだよ。この隊長室は』と笑ってしまう。
「さらに、ボスの好みも熟知すること。あとよく訪ねてくる上官の好みもね。細川連隊長がきたら、まずコーヒー。でも福留少佐のコーヒー目当てで来るから、トメさんがいたらお父さんに任せて。ミラー大佐はカフェラテ。わりとお砂糖入れるから多めに添えて。たまに准将と紅茶を楽しまれることもあって、お茶の葉の銘柄も詳しいから覚えておいて。コリンズ大佐もコーヒー、ブラック。夏の間はアイスがほとんど。季節の変わり目に確認して。橘大佐は……」
 次々と出てきた上官のお好みに、光太が『ひー』と言いながら、急いでメモを始める。
「橘大佐は気まぐれ、いちいち聞いてあげて。城戸大佐はまだ他の大佐より後輩なので、ご自分から望まれることはないから声かけてあげて、元秘書官なので、ご自分の好みより周りに合わせることが多いの。その時一緒にいるお客様の空気を読まれるから、こちらもその都度聞いてあげて。あと、御園大佐はカフェオレ。ご自分で淹れたいという方だし、奥様のご機嫌伺いがほとんどで、短時間でからかって帰るから、飲み物を出してくつろぐことはほとんどなしよ。海野副連隊長は、ブラックコーヒー。こちらも御園とはご家族同然なので、お嬢様の准将とは喧嘩を楽しみにくることがほとんど。どんなに激しい言い合いでも、最後にはきちんと丸く収まるから、間には決して入らないように……」
 あと……と、心優はさらに続け、光太は必死にノートに記録をする。
「御園准将はチョコレートが大好きで、冷蔵庫にご自分でお好きなショップのものを持ち込んで常備しているから、午後の中休みとか17時の終業後、残業前のお茶の時には必ず出してあげて」
 それから好きなチョコレートのショップは横浜の……、あと、アロマオイルを集めていらっしゃって、空母にも持ち込むから、あとヴァイオリンを持っていて、空母に持っていくのは従兄の右京さんから譲って頂いたもので、御園のお祖母様が孫の右京さんに贈ってくれたというヴァイオリン、それから良く弾かれる曲はこれで、洋楽とクラシックの音楽データーをあげるからひと通り聴いて勉強しておいて……。などなども伝える。
「うわー、みてくださいよ。もうノートびっしりになっちゃいましたよ」
「まだまだあるよ」
「ひー、やっぱ准将秘書室ハンパねえっ」
 それが秘書官です。ボスの生態を把握すること。さらに念を押すと、光太も諦めたようにして大事なことはメモにまとめている。
「今日はここまでね。明日は護衛部の訓練があるからね」
「はい。俺も、空母に乗るまでに空手の腕を磨いておきたいです」
 それを聞いて、心優は今週のうちに自分が空母で遭遇したアクシデントを伝えられるように、ラングラー中佐に許可を取ろう――と心に決めた。
「じゃあ、今日はここまで。お疲れ様」
「お疲れ様です!」
 お互いに敬礼をし、帰宅となった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 時間は二十時、官舎に辿り着いて自宅の四階を見上げたが灯りがついていない。
「臣さん。今日もチェンジでシミュレーション演習かな」
 今日、御園准将と話し合っていたボーダーライン向こうには絶対に触れてはいけない訓練に熱中しているのだろうと予測した。
 それでなくても、この一ヶ月。雅臣が先か、心優が先に帰宅するのか、わからない生活になっている。
 暗い自宅に入った心優は、ひとりで灯りをつけ、食事の支度にかかる。
 こんな生活に突入してから、週末にお惣菜の作り置きをするようになった。だから食卓の支度は簡単。
 作り置きの煮物や小鉢のおかず、簡単なサラダに、焼き魚、白飯に汁物。それを準備し終えて、一人で食べようかなと思った頃に、玄関の鍵が開いた音がする。
「ただいま」
「おかえりなさい、臣さん」
 まだ制服のままエプロンをしている心優を見つけて、雅臣がすぐに抱きついてきた。
「なんだよ、それ。制服にエプロンってすげえそそるだろ」
「でも、いまはだめだからね!」
「えー、なんでだよ」
 ぐっと顎を掴まれ、彼の目線に連れて行かれ、そのまま強いキスでふさがれる。
 でも、心優も……。大きな彼の背中にしがみつくように抱きついて、彼の口の中を熱く愛してしまう。
 あの女の子の、下心ありそうなお菓子。断ってくれたね。妻はアスリートだって堂々と言ってくれて、嬉しかった。
 だから、心優も彼を懸命に愛してしまう。
「あれ、心優だってその気だろ。そっちが先でも俺は」
「だめ、早く眠りたいから。明日は護衛部の訓練があるから、体調を整えておきたいの」
 そう言うと、雅臣が大人しく引いてくれる。
「そうか。わかった。大事だもんな、護衛部の訓練は」
「臣さんもだよ。きちんと食事を取って、ゆっくり休んで」
 『そうしよう』と、お猿さんも素直に諦めてくれた。今は――。
 よかった。ふたり揃って食事ができると、テーブルを整える。
「いただきます」
「いただきます」
 向きあっての遅い夕食。
「心優がお母さんに教わった作り置きの惣菜、うまいよ。味がしみてきてる」
「うん。メールでいろいろ画像付きのレシピ送ってもらっているんだ」
 心優も最近、こんな手料理が楽しくなってきた。旦那さんが美味しいって食べてくれるのって、すっごい幸せなんだなあと。
「吉岡はどうだよ」
「うん。葉月さんも和んでくれているみたい。吉岡君、すっごい航空マニアなんだよ」
「嬉しいな。きっとこれから訓練校の校長室で、パイロット候補生のために一生懸命になってくれそうだな」
「もともと素直だから、どこの部署に連れていっても、可愛がってもらえそうな雰囲気なんだよね」
 それは良かったと、自分が選んで御園大佐に勧めただけあって、雅臣も嬉しそうだった。
「とは反対に。御園科長室は、新人の女の子のことで大変そうだったよ」
 雅臣が溜め息をついた。
 あの、黒髪ロングの女の子のことらしい。
「そうなんだ……」
 一応、気のない返事で心優は流そうとした。話してしまえば、雅臣に嫌な話を聞かせてしまいそうで、また心優も悪口になってしまいそうで。夫なのに、言えない。
「親父さんが横須賀司令部にいる幹部なんだってさ。彼女のいままでの上官達に同僚は、司令部の中佐殿のお嬢様ということで無碍に出来なくて、その庇護に安心していた彼女が、いろいろとひっかきまわしていたらしい」
 やっぱり、自分の気持ち押し押しの女の子ってことじゃん――と、心優は青ざめる。その彼女が雅臣にロックオンしているじゃない。
「御園大佐のところなら、その庇護も効かないだろうと、まるでなすりつけられるようにして、九月新年度の御園大佐の女性教育枠にぶっこんできたらしいよ」
「御園大佐、よく引き受けたね……。細川連隊長がいつも選抜しているんでしょ。どうして選ばれたのかな」
「俺もそこがわからないところなんだよな。でも、その細川連隊長が引き受けたのだから、御園大佐も文句は言えないよな」
 その御園大佐の女性教育枠に選抜される女の子は、選ばれた時点で『有望株』である証明になることで有名だった。それをまた御園大佐が育てて、花形部署に送り出す。御園大佐の科長室で半年から一年ほど教育してもらえたら、エリートコース、またはエリートな男達がいる部署へ行けるともあって、密かに女の子達が憧れている『枠』でもあった。
 そこにどうして、彼女が……?
「細川連隊長にお考えがあるのだろうけれど、御園大佐も溜め息ついていたよ。時々『教育目的』ではなくて『矯正目的』で癖のある子がやってくるって」
「その時々な子になるの?」
「みたいだな」
「でも、それじゃあ……」
 心優はそこで慌てて口をつぐんだ。『私は憧れの枠に選ばれたのよ』と彼女は思っているに違いない。なるほど、それで御園准将秘書室にいる心優にもあの自信だったのかと納得するしかない。
 だけれど、今日、雅臣は『妻はアスリートだから』ときちんと妻として心優を立ててくれた。あの姿を知ったから大丈夫。あの時、大佐殿の顔なのに『妻は――』と言ってくれた臣さん、素敵だったし嬉しかったから。
 食事を終えても雅臣は片づけを一緒にしてくれるし、お風呂も準備してくれるし、心優を先に入れてくれる。
 ベッドでやっとひと息ついて、彼のシャワーが終わるまで待ちきれずにまどろんでしまう。すうすう気持ちよく眠っていたけれど……。
 ――心優。
 熱い素肌が眠っている心優の背中にひっついてきて、逞しい腕に抱きしめられていた。
 うっすらと目を開けると、風呂上がりで汗ばんでいる雅臣にみつめられていた。
「悪い、起こしちゃったか。くっついて眠ろうとしただけだよ」
 でも、心優はシャーマナイトの艶めかしい目を見つめたまま、自分から夫の大佐殿に抱きついた。
「心優?」
「だめだよ、わたしが……、だめ……。やっぱり臣さんがほしい」
 どうした? 雅臣の大きな手が、心優の額の黒髪をかき上げ、じっと心優の瞳を覗き込む。
「ペンダントと同じ色だ」
 彼が婚約に贈ってくれたブラックオパールキャッツアイのペンダント。それが心優の胸元にある。その石を雅臣がつまみながら、心優の瞳と重ねる。
「妖しい猫の目になってる」
「お猿さんが欲しいの」
「そんなに言うと、遠慮しないからな」
「いいよ……、うんと触って、愛して、お願い」
 雅臣からの熱いキス。一緒に深く重ねて、奥まで愛して、貪って……。そのままお互いに素肌になってしまう。
 今夜はもしかすると、心優の方が激しいかも。求めているかも。煽っているかも?
 彼の身体にきつく抱きついて、奥深くまで欲しがって。
「心優、なにかあったのか」
 あったよ。臣さんは、大佐殿は、わたしだけのものなんだから! 触らないで! わたしの夫なんだから。心優の言えない心の叫び。
 どんなにいい子の顔しても、やっぱり消えない女の気持ち。
 だけど、抱いて。愛して。ほら、わたしの気持ち、うんと綺麗になるから。
 そう心で唱えながら、夫を愛して、愛されて……。心優から果てる。
 もう、大丈夫。明日も、貴方の妻として頑張れるから。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 数日後――。
 次回任務で空母艦に搭乗する護衛官と警備隊の各責任者を集めたミーティングが行われた。
 陸部訓練棟にあるミーティング室。指揮を執るのは、前回の航海任務で警備隊長だった『金原中佐』。
 心優は光太と、そしてようやっと怪我が回復してきたハワード少佐と共に参加した。
 御園准将秘書室の護衛官数名と、あとは警備隊の隊員達。五千人を収容する空母艦の一切の警備を担うため、ほぼ一個中隊分になる。その中でも分隊から小隊とチームの細分化もされ、ランクもあり、一般警備から、金原隊長の直属となると、ほぼ特殊部隊クラスで艦長直属の警護チームになる。
 今回は、各々のチームの責任者が集められた。それでも一個中隊を細分化させたそれぞれのリーダーだけでも数十名いる。
 金原隊長の『直属チーム』は全員参加。その中にシドもいた。次回任務では、シドも指令室の所属になり、警備隊にも属することになっている。
 前回、ブリッジが狙われたことを踏まえての兼属配置だと聞かされている。
 しかし警備隊の男達は寡黙で、ざわつきなど一切ない。余計に空気が張り詰め、だからこそ、そこに男達の任務に対する清廉な空気ができていた。
 全員が集合したのを確かめた金原隊長が、男達を従える前方でマイクを手に取った。
「ご苦労。では、これから御園准将率いる艦隊の警備隊ミーティングを始める」
 手元の冊子を使って確認をする――との金原隊長の声に、誰もがもう卓上の冊子ページへと目線を落とした。
「その前に。皆に紹介しておきたい方がいる」
 金原隊長の一声に、また皆の視線が前方に集まった。
 金原隊長に付き添っている少佐へと視線が向くと、補佐をしている少佐がミーティング室のドアを開け、通路にいる誰かを呼んだ。
「今回は、特別な訓練を行うための指導者をお願いした。前もっての知らせが遅れたのは、私の是非にという説得が一昨日までかかってしまったからだ。ようやっと承諾をしてくださったので、紹介をする」
 『どうぞ』。少佐の声に、ドアから金原隊長自らギリギリまで説得を粘ったという教官が入室をする。
 一部の男達がどよめいた。その教官を知っているから。そして彼等の目線が躊躇うことなく、心優へと向けられる。
 だが心優も入ってきた男性をみて、頭が真っ白になった。
 金原隊長がそばに来たその男を紹介する。
「横須賀訓練校で格闘指導をされている『園田克俊教官』だ」
 今度は一気に室内がざわめいた。そしてまた、男達の視線が心優へ集まる。
 『城戸中尉の親父さんか』、『ということは……』、『強靱な男も技で倒せる術を指導してくれる格闘家』。男達が口々に囁く声。
「皆もよく知っている城戸中尉のお父上だ。そして知っている者は知っているだろうが、特殊任務を行う隊員を育て上げてきた教官だ。その方に、航海出航まで厳しく、指導してもらおうと思う!」
 あの城戸中尉を育てた親父さんか。金原隊長、本気だな。男達のやってみたいという意欲を見せる顔に、どれだけしごかれるかと恐れる若い隊員もそれぞれ。
 でも心優は見てしまう。シドは腕を組んで、僅かに口角をあげ、アクアマリンの目を輝かせている。やり甲斐のある親父が来た、俺は心優の親父さんでも本気でやるぜ――という負けん気の顔だと心優にはわかる。ああ、そういう生意気が、お父さんを本気にさせちゃうのに!
「心優、知っていたのか」
 まだ傷が癒えたばかりのハワード少佐に聞かれ、首を振る。
「いまここで知りましたよ」
「うわあ、こええ。すごいよ、心優さんのお父さんのあの漂う強面感」
 光太はもう父をみただけで、逃げたそうにしている。
 父がマイクを手に取った。
「園田です。娘がいつも世話になっています」
 いきなり『娘』について触れたので、心優はびっくり。父親として近いところに来たなら、徹底的に避けると思ったから。
「ですが、いまからここに娘はいないと思うことにします。他の男性隊員諸君もそのように心得て欲しい」
 まあ、そう言うよね、普通は。よくある挨拶かなとちょっと気恥ずかしい注目に耐えていた心優だったが、父の視線が娘を捉える。
「そこの城戸中尉がどうしてシルバースターの勲章を叙勲されたか、この警備隊の隊員なら皆知っているな」
 強面の教官の口調に転じた。ここにいる金原警備隊のほとんどが、前回の任務で御園艦隊の空母に乗った者ばかり。彼等も不審者を捕獲し引き渡すまでの警備に、パイロット王子の警護にと苦心の経験をした任務となった。当然、そこで心優がどのような護衛に戦闘を行ったか知り尽くしている。
 その心優の功績を目の当たりにしてきた男達に、父は険しく告げる。
「運良く帰還したが、私から言わせれば、殉職に等しい。前回の御園艦隊で起きた空母での不審者侵入事件。今回の訓練を引き受けるに当たり、その現場に設置してあった監視カメラの映像を確認させてもらった。城戸中尉は不審者を制圧したものの、解きはなってしまった瞬間がある。その戦闘態勢は、まだまだなっていない! フロリダから配備されていたという極秘の特殊部隊員が最後に彼女を銃撃から守っているが、それすらも運が良く間に合ったに過ぎない。あんなものは勲章に値しない!」
 心優を指さし、厳しい叱責と批評。心優の額に汗が滲む。そして男達も絶句していた。
「その隙を、なくしていきたい。私は娘を前回の任務に送り出す際、空母は安全ではない、国籍不明の不審者が潜入することもあると伝えたが、その通りになった。空母は海に浮かぶ、丸裸の基地だ。君たちの警備にかかっている。隙があるとあっという間に、凄腕の傭兵に無惨に殺害される。殉職たるものがどのようなことか。まだ皆はわかっていないと思う」
 自分の娘に余計に厳しくする。そうすることで、訓練の統率を計ろうとしているのか。
 でも心優は唇を噛み、その叱責に震えていた。恐ろしくて泣きたいわけではない。その逆。もの凄く悔しく、その通りだからだ。
 シルバースターを叙勲できたのは、誇らしく嬉しく幸せだった。でも心の何処かで『ほんとうにこれで良かったのかな。たまたま……』という言葉を繰り返してきた。そのうちに夫の雅臣を始め誰もが『たまたまではない。瞬時に動けた成果だ』と言ってくれた。そのうちに心優自身も平気になってしまったのだと気がついてしまう。
 だが父は見逃していなかった。きちんと気がついていた。祝う気持ちは父の娘を労る気持ちだっただけ。本当は『プロの格闘家』としての評価は低いものだった。終わったことだから飲み込んで、お腹にしまっていただけ。
 そう。あれはわたしにとっても『完璧、パーフェクト』ではなかった。父がいうとおり、不審者に怖じ気づいた瞬間もあり初動が遅れた。不審者を制圧した後も、彼を解きはなち、護衛すべき御園艦長も大陸国王子も危機に陥れた。警備隊の少佐も銃撃されそうになった。最後、シドが来てくれなければ、心優は銃に撃たれ殉職していた!
「心優、ここに来い」
 もう父の顔ではない父に、娘の名でわざと呼ばれた気がした。
「心優さん……」
 光太が心配したが、心優は『大丈夫』と立ち上がり、ミーティング室の前にいる父の元へ向かう。
 男達が座っているデスクとデスクの間の通路を行く。父と金原隊長がいるホワイトボードがある前方まで辿り着く。
「心優、そこに立て」
「はい」
 マイクを持った父が、心優を入口のドア手前へ立つよう指示した。
「ネクタイを外せ」
 嫌な予感がする。でも、相手は父という男性でなければ『少佐殿』のため、心優は素直に従い黒ネクタイをシャツ衿から外す。最前列にいる警備隊員に預けた。
「私が、不審者を演じる。構えよ」
 父がそう告げると、場が騒然とした。だけれど父の背後に控えている金原隊長は黙っている。つまり『打ち合わせ済み』。それを警備隊員にまず見せようという試みを望んでいると言うこと。
「了解です」
「では。構えが互いに整った時点で、開始とする」
 父がマイクを金原隊長に預ける。
 身長は雅臣より少し低めだが180センチ越え、体格は熊のような大型の男。定年前の壮年男性であっても、父は技と経験で若い教え子をなぎ倒す教官。そう聞いてきた。
 警備隊の男達も急な緊迫した『模擬実戦』に固唾を呑んでいる。『こんな狭い場所で、防具もなければ畳もない』というざわついた声が聞こえてくる。
 だが、実戦では防具もなければ、下はコンクリートなどの堅い地面か床。園田父娘が対峙するそのシーンこそ『実戦そのものではないか』、そこに気がついた警備隊員達も『園田教官が言いたいこと、やろうとしていること』の意図が通じたよう……。
 それは心優も同じだった。そして、心優は構える。父はネクタイを外さない。娘には『掴める場所を取っておいてあげよう』というハンディをくれたのか? だが、父も構えた。
 道場でそうであるように『開始』の声などない。構えた瞬間、飛び出せる方から即刻行けということ。
 それでも、心優は前に行けない。父がどれだけの腕前か、そして久しぶりに見る本気で構えた父の気迫に気圧されてしまったから。そう、あの時のように! 父よりも小柄だったけれど、中東系の四角い顔をしたがっしり傭兵と対峙した時も、こんなかんじで心優は躊躇っていた。
「心優、それが隙だ」
 ハッとした時には、目の前の大男が姿勢を低くしたまま、細身の娘へと猛ダッシュ。しかし心優も構えをそのままに、真っ正面から迎え撃つ!
 お父さんだからって遠慮しない! ここで一発でやられてたまるか! 格闘家としての血が一瞬で滾る。
 父が胸元を掴もうとしたその腕を、上蹴りで払いのける。
「ハッ!!」
「くっ」
 心優の胸元を制しようとした父の片腕がバンと横に跳ねとばされる。あの時とは阻止したものが異なるが、攻撃を阻止されたその『隙』こそが心優の好機!
 お父さん、もらうよ。あの時だって、それで一瞬を制した私が優勢になった。いまもそう! それにこれを教えてくれたのはお父さんとお兄ちゃんだから、できるに決まってるでしょ! 教わったそのままやってやるわよ!!
 その隙を制するのは娘の私、シルバースターを叙勲したのはたまたまだなんて言わせない!!
 傭兵をやりこめた時のように、手を払われ大きく防御スペースが開いてしまった腹、あるいは胸! そこにめがけて心優も懐を狙う――が、一歩踏み込んだ瞬間。
「あの傭兵と一緒にするな。甘い」
 低い声が耳元で聞こえ、訳がわからないうちに襟首を掴まれ、狙っていた大男の懐が遠のいていく。腕を払いのけられた父だったが、構えを直さずとも残っていた左腕でつっこんできた心優を上から掴んでいる。
 しまった――!
 気がついた時にはもう遅い。男の力は強く、そして的確で、無駄なくスマートな切り返し。
 わざとだ。わざと腕を払いのけさせ、空いたスペースに油断して入ってきたわたしを、待っていたんだ。狙っていたんだ!
 襟首を掴まれ父の身体から離され突き飛ばされた心優が体勢を後ろに傾けてよろめいた瞬間、ネクタイを外した正面襟首を掴まれていた。
 あとは、お得意の柔道技……、じゃない、受け身も案じない『本当の戦闘時はこうだ』とばかりに、力任せに投げられていた。
『うわ!!』
『うそだろ!』
 男達も驚愕の声、そして宙に浮いた心優の身体は、すぐに落下する。男達がいるデスク群の中へ。心優が投げられたそこにいた男達がびっくりして席から立ち上がり逃げた。
 ガタガタガタガタ――と、机と椅子がなぎ倒され心優は床に落下する。巻き添えを食らった警備隊員も除けはしたが床に尻もちをついている男もいる。
「う……っ」
 なんとか咄嗟の受け身をして頭を守ったが、身体は強い打ち身。
『城戸中尉――』
『園田さん、大丈夫か』
 案じた隊員が手を差し伸べてくれたが、
「触るな! そこをどけ!」
 父のあのおっきな声が、怒声で響き渡る。その迫力におののいた警備隊員達が、倒れている心優からさっと退いた。
 立てずにいるそこへ父がやってくる。しかし傍に来たかと思うと、父は心優の細い身体の上に容赦なく馬乗りになった。ドンとお腹に重厚感と圧迫感。大男が乗っかったため、身をよじることもできない。
「くぅっ!!」
「どうした、それで終わりか。残念だ。これでミセス准将ががら空きだ。そこの男に命じれば、一発で艦長も殉職。護衛官失格だ」
「終わりじゃない!!」
 悪魔のような父の眼差しに、心優も懸命に抗う。周りを囲っている男達の青ざめている顔がいっぱい。その中に、眉間に皺を寄せているシドの顔もちらっと見えてしまう。
「どこを見ている。そんなに気を散らしている場合か!! 目の前の敵に集中しろ!!」
 シドに気を取られているその隙も気がつかれてしまい、父が大きな手を振りかざした。
 うそ、お父さん、本気――。
 馬乗りになっている父が真上から容赦なく、仰向けに制圧させられている娘の頬を平手で横殴りにした。
 パンという軽いビンタなんてものじゃない、本当に『バチン!』と力いっぱいの横殴り。さすがの心優もその痛さに目が眩んだ。
「傭兵ならここは拳だろう。手加減してやったんだぞ、心優は女の子だからなあ」
 痛さで目が眩んでいるけど、うっすらと見えた父の顔が、本当に悪魔で鬼の顔……。
 お父さん。そうなんだ……。こうやって、特殊部隊の隊員を育ててきたんだ。これが『園田教官』。
 ついに心優は力を抜き、降参してしまう。その意志を確認した父の攻撃はまだ終わらない。抵抗意志を失っているにもかかわらず、父が娘のシャツの襟元をぐっと左右に開いた。
 え――!?  またそれだけで、警備隊の男達がどよめく、ざわめく。『うそだろ』、『マジかよ』、『鬼だ』と震える声。
 たとえ娘であっても容赦しないとしても、女の隊員にそこまでするか。胸元までは避けられたが、第一ボタンと第二ボタンがちぎれた音が聞こえた。
 開いた女の首元、そこに父が手を突っ込み、なにかを見つけ掴み、それを素早くシャツの中から引き抜いた。
 父が掴んでいるもの。それは、銀色のドッグタグ。それを警備隊員達に見せつけ、ぐっと掴んで引っ張り上げた。
「お、お父さん!」
 父の手に、銀色のタグとチェーン。それが室内の灯りできらめきながら、心優の首元でぶちっと切れて高々と離れていく。
「これで、殉職。戦闘機でいうなら、キルコールといったところか?」
 そのドッグタグすら、父は遠巻きに囲んでいる男達の足下へと容赦なく投げ捨てた。
 以上。父は静かにそう言うと、馬乗りになっていた娘の身体から降りた。
 父が背を向け、金原隊長が黙って控えていた前方へ戻っていく。きっとここまですると話し合っていただろうけれど、金原隊長も沈痛の面持ちだった。
「心優!」
 仰向けに倒れたまま立てずにいる心優のそばにすぐに来てくれたのは、シドだった。
 彼が男らしく心優を抱き起こそうとしたけれど、心優はその手を払った。その気持ちも通じたのか、シドはそのままにしてくれる。
 心優も力無くやっと身体を起こしたが、頬が熱く、そして血の味もする。口元が切れいてるようだった。
 そしてシドが、心優のそばで跪いたままの姿勢で、あの父を既に睨んでいた。
「おまえの親父、すげえな」
 彼が小さく呟く。でも先ほどの生意気な顔ではなくなっていた。マジであの男に教わりたい。そういう畏怖を込めた、でもあの鬼畜の精神に挑んでやるという闘志の目。
「心優さん、大丈夫ですか」
 光太も駆けつけてきた。彼の手に引きちぎられたドッグタグ。拾ってきてくれたようで心優に差し出してくれた。
「ありがとう、吉岡君……」
 でも、なにもなくなった開いた襟元に手を当て、心優は青ざめる。
 ない。ブラックオパールのペンダントがない!
 婚約の石、雅臣からもらったキャッツアイ!
 すぐに父がドックタグを投げた方へとよろめきながら床を這う。
「心優」
 探す心優の後ろに、父の声。振り返ると、大きな手にその宝石がきちんと残っていた。
「これか」
「はい。少佐……」
 ドッグタグを引きちぎったけれど、その手に違うものがあったと気がついて、投げる前にそれだけ残してくれていた?
 金の鎖が切れてしまっていた。男達の手前、父は無言だったけれど申し訳なさそうな目をしているのが、娘の心優にはわかった。
「大丈夫です、ありがとうございました」
「なくすなよ」
 雅臣からもらった婚約の石だと、沼津に帰った時に見せていたから……。
 だめだった。情けないけど、涙が出てしまった。
「これからよろしくお願いします。艦長を絶対に護りたいです」
「わかった」
 もう男達もシンとしていた。
 しかし、警備隊の男達の空気も一変。彼等の目が、特にシドを含めた特殊部隊チームの男達の目の色が燃えていた。
 この教官に徹底的にやってほしい。そんな闘志の目。
 娘にも容赦しない気持ちでやってきた。そして以前とおなじ気持ちで空母に乗るのは甘いということを徹底的に教えたい。そんな園田教官の先制だった。
 その後、心優の父親は『大魔神』と呼ばれるようになっていた。娘を容赦なく張り倒した、大魔神のキルコール。この出来事もまた、明日までには小笠原基地で広まってしまうことだろう。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 親父さんは『叙勲に値しない』というが、やはりあの父親だからこそあの空手家の娘が育ったんだ。
 城戸中尉のシルバースターは、父親の功績でもある。叙勲に値するものだった。
 警備隊の男達がそう話していたのを聞いたと光太がいう。
「俺、一人で工学科に行けますよ。その顔じゃあ……」
「いいんだって。選手だった時もよくあったんだから。ここで女の子がそんな顔でなんていって、いつもの仕事を控えるだなんて、またお父さんにぶん殴られるよ」
「いや、でも。御園准将がその顔なんだからやめなさい。光太に行かせればいいと言ってくれたのに」
「ぜったいにイヤ。御園准将だって、連隊長に張り倒されても頬を赤くしてきちんといつもどおりに仕事しているもの」
 連隊長がミセスをぶったたく? 小笠原って怖いと光太がたじろいだ。
「そういうところだって。女として大事にしてくれるところもあるけれど、女であっても軍人である以上甘えてはいけないところもある。それが今日、父が見せたものだよ」
「……かもしれないですね」
 また心優の横で、光太が溜め息をつく。ここ最近の『かっこいいとテンション上がることもあるけど、かっこいいの裏にある過酷さとの表裏一体が辛い』という顔。
 それでも工学科へ行く道の途中、心優の顔を見た隊員の誰もが驚き『どうしたの』と聞かれれば、『父親の園田教官と警備隊の模擬実戦でこてんぱんにやられた』と素直に答え、『聞いたよ! ほんとだ、お父さんの本気すごいな』と、大魔神のキルコールを耳にした隊員達も心優の顔を見て唖然としたり……。
 今日も工学科まで、御園大佐が揃えたこれまでのスクランブル映像などの資料を取りに行く。
 階段を上がりきり、角を曲がる。今日は誰もいない。いなかったけれど、工学科科長室のドアが開き、あの黒髪の彼女が出てきた。
 彼女もお使いに行くのか、小脇にいくつかの書類封筒やデーター資料のジップパックを持っている。
 その彼女と目が合い、正面に向きあう。彼女が心優の顔を見て、とてつもなく驚き後ずさった。
「ええっ、園田さん。その顔、どうしたんですか」
 父の張り倒された頬は少し腫れ、口元は切れて黒ずみ血の痕、そこに准将が絆創膏を貼ってくれたばかり。
「警備隊の護衛訓練でね」
「えー、信じられない!! 女の子なのにそんな顔になっちゃうの!?」
 甲高い声に、仰々しい驚き方。心優の隣にいる光太の方が先にムッとした顔になる。
「それに、ボタンがちぎれているじゃないですか」
「あ、これも警備隊の……」
「女子力、ほんとになくなっちゃうんですね。護衛官って。お疲れ様です」
 労ってくれているような言葉を付け加えてくれても、棘ある言葉に、哀れむ目。女として可哀想――という彼女の、でもどこか勝ち誇った黒目が心優をきらっと見上げている。
「あの!」
 光太が一歩前に踏み込んだが、心優はそれを制した。
 いいのよ。悔しくもなんともないから。そっと耳元に囁くと、光太も渋々退いてくれる。
 こんな彼女の女を軸にした憐れみなんてぜんぜん悔しくない。いま、心優が悔しいのは『護衛官失格、キルコール』をされたこと。
「園田さんて背も高いし、男みたいですね」
 華奢な彼女が下からくりっとしたかわいい瞳で覗き込む。彼女と並べば、心優は確かに背をだいぶ越している。光太がそれより少し上。その青年と違わぬ長身のため、彼女と並ぶと確かに心優から華奢なものは消え失せる。
 くっそ――。光太の堪忍袋の緒が切れそうで、心優はヒヤッとしたがその瞬間。工学科科長室のドアが開いた。
「こら、春日部! 俺の話を最後まで聞かずに飛び出すんじゃない!」
 眼鏡の大佐殿がしかめ面で出てきた。
「あ、園田。来てくれたんだ。準備できているから……」
 そう言って、御園大佐が心優の顔を見て、眉をひそめた。
「どうした。その顔……」
 どうやら、工学科までは『大魔神のキルコール』の話はまだ伝わっていないようだった。
 心配そうにして、御園大佐が心優の目の前まで来てくれる。
「今日、護衛部の訓練ではなかっただろう。准将室でなにかあったのか」
 奥様のそばにいる護衛官の負傷。訓練でなければ、業務上なにかあったとすぐさま察するところが、やはりミセスの旦那様。
「いいえ。今日から始まった警備隊のミーティングで」
「今日はただの話し合いだけのはずだ」
「横須賀から来た園田教官に、甘い気持ちがどれだけのものかと……。徹底的にやりこめられました」
「え、園田教官!?」
 御園大佐ですら知らなかったようで、驚きおののいている。
「奥様の准将は昨日にはご存じだったようですが、父のたっての願いで、当日まで娘には知らせないで欲しいということで、私も本日知りました」
「それで……。徹底的に? 隊員達の目の前でか」
 『はい』。小さく微笑みながら、心優はまた泣きたくなってうつむき加減に頷いた。
「やだ。園田さんのお父さんて酷いですね。信じられない!」
 その顔にしたのは父親に殴られたからと知った彼女が、またあからさまに驚いた。
 その瞬間。眼鏡の大佐の青黒いホークアイが鋭く彼女へと光る。
「春日部、もう一度、言ってみろ」
「え、」
「なにが信じられないのか、答えろと言っている」
 御園大佐が冷ややかに奥様を叱る時と同じ目になっている。心優でさえ、そして光太も震えあがっていた。
「あの、でも、私は、父に叩かれたことなど……。娘を叩く父親なんて……」
「父娘それぞれだ。格闘家の父親が、どんな危険があるかもわからない国境の最前線へ出向く娘を弟子として送り出す。身を護って帰ってこられるようにと、敵の男以上の力で身をもって教えたと思えないのか」
 大魔神のキルコール。その情報はまだ届いていないだろうに。心優の顔の傷と痣が、父親がやったものだと知っただけで、そう考えてくれる御園大佐の奥深さに、心優はまた泣きそうになるが、彼女の前なので堪えた。
「俺は、『愛』だと思う。わからないならそれでいい。その遣い、早く行ってこい。それとこれも、第一中隊の後は、配送課だ。遠い配送課の用事を避けたくて、俺が頼む前に飛び出しただろ」
「あの、配送課に行くとすごく遠回りです。まとめて届けられないのですか。明日の午前に郵送物回収の時でもよろしいのではないかと」
「そうか。では、俺が行く。できることをできないというならそれでいい。第一中隊だけ行ってこい」
 彼女が凄く怯えた顔になった。それでも、言うことを聞きたくないとばかりにふるふると震えている。
「もっと効率の良いやり方が……」
「その効率は俺が考えている。従えないのか」
「いまどき、こんな手渡しなんておかしいです。データーでのやり取りもできるはずですよね」
「ここではそういうやり方なんだ」
「父に進言します。小笠原でもっと効率の良いやり方にするように徹底指導してもらえるように! 司令部にいるので考えてくれるはずです」
 あの御園大佐に『司令部』を盾に堂々と意見する彼女に、心優はギョッとした。まるで上官を従えようとしているかのような態度、しかも当たり前といわんばかりに。
「ほう、司令部に進言してくれるというのか。それは有り難い。では、お父上にそう言ってみろ」
 割と柔軟な御園大佐の受け止めに、彼女の笑顔が輝く。
「では、早速――、父に」
「だが、司令部から指示が来ても俺ははね除けるし断る。中佐如きのおまえの父親の言うことなど、大佐の俺がどうして聞かねばならない」
 いつにない御園大佐の権威を振りかざす切り返しに、またまた心優は仰天する。隣の光太も『うわ、すげえ』と茫然としている。
 それは春日部さんも同じく。『中佐如きの父親』と言われ、口をぱくぱくしていた。
 なるほど。確かに、これは御園大佐の下では、彼女の父親の庇護は効きもしない。
「父は司令部の、司令総監のそばにいるんですよ!」
 えー、今度はお父さんの上官を盾にしてきた! 心優と光太は一緒に絶句しドン引き状態!
「では、その司令総監の言葉が俺まで直々に届くように連絡をしろ。話はそれからだ」
「ほんとうに進言しますからね」
「はいはい」
 面倒くさそうに御園大佐が切り捨てた。こんなぞんざいな扱いをする御園大佐も珍しい。
 でも彼女はぷりぷりふて腐れながら、お遣いに出掛けていった。
 そして御園大佐が脱力した情けない顔に。
「こりゃだめだ。俺でも無理だ。世間知らずすぎる。これはお父さんの春日部中佐が、細川連隊長に『どこにも行き場がない娘を預かって欲しい』と泣きつくはずだ」
「え、そうだったのですか。春日部中佐直々の申し出だったんですか」
「そうだよ。司令総監のそばにいる中佐に恩を売っておけば、これから海上の艦隊になにかあった時にこちらの意もうまく汲んでもらえると、正義さんがその条件を狙って引き受けたんだよ。ま、適当に流せと言われているからいまのところその方針」
 やっと彼女が来た意図を知り、心優は納得する。そして、彼女を預かることで司令中枢にいる秘書官中佐から司令総監に快い進言をしてもらう戦略でもあったのだと。
 そう知った以上、心優もうまく受け流さなくてはならないと言い聞かせる。

 

 

 

 

Update/2016.11.29
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