◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 6.アイスドール崩し

 

 溜め息の金髪王子がカフェテリアのトレイを持って、厨房前の窓口に並ぶ。
 天丼定食が出てくる窓口でそれを受け取った。
 心優もそれに付き添っていたが、シドはものすごいむくれた顔をしている。
「大尉、お顔……。お母様に気が付かれてしまいますよ」
「うるせえ。おまえにこんなところ見られたくなかったよ」
 高須賀准将と細川連隊長の定食も、心優と光太が並んでトレイに準備している。
 御園准将と美穂夫人は仲良く軽食コーナーへと向かっている。雅臣が付き添っていた。
「ち、いつも突然なんだよ。あの親父さんは」
 あれ、心優の前では男っぽく『親父さん』なんだと知ってしまう。
 お父様と丁寧に呼ぶのは、やはり黒猫の私生児という臣下感覚なのかもしれない。
「すぐ帰られるでしょうから、それまでに……、ちゃんとお父様とお母様とお食事ぐらいしたら……」
「わかってる……。姉さんにまた叱られたくないしな……」
「姉さんって……。大将のお嬢様? フロリダにいる?」
「そうだよ。めっちゃやり手の秘書官だから、俺、まだ若輩扱いなんだよ。口もすごく立つから、口では勝てないな」
 これまたすっごい女性がシドのお姉様と心優は面食らう。いや、しかし、あの大将殿のお嬢様で、フロリダで秘書官となればそれはもう只者ではないだろうと心優も思う。
「たまたまだけど、姉さんも俺も、髪も目も同じ色なんで、本気で姉弟だと思ってる隊員も多いほどだよ。姉さん綺麗な顔して、毒舌でえげつないこと平気だから、男が怖がって近づかない『大将のブラックキティ』なんて呼ばれてる」
 大将のブラックキティ!! フランク大将の真っ黒いお嬢ちゃまという意味らしい。かわいいようで、でも如何にもやり手そうで、恐ろしそうなネーミング。光太じゃないけれど、心優まで『こわい!』と恐れおののいた。
「俺をいじめると、その姉ちゃんが数倍返ししてくるんで、……なんていうか、誰も寄ってこねえんだよな。俺の同期周り……」
 フロリダにいた時のシドの環境を初めて知って、だから、あんなに不器用にぶつかってきたのかもしれない? そう心優は思う。
「一人は慣れていたから、べつに誰ともつるむつもりもなかったんだけど。こっちが気にしなくても、あっちが気にする『大将の息子』というのはフロリダでは思った以上に威光があって、初めて表世界で暮らす俺にはどうコントロールしていいかわからなかった時期だよ。いまはだいぶわかってきたけどよ」
 ああ、そうだったんだ……。だから心優と最初にぶつかった時も、あんなに不器用だったのも頷けてしまう。
「でも、お姉さんに大事にしてもらっていたんだね」
「んなんじゃねえよ……」
 でもシドの頬が少し赤くなって照れた眼差しが、またサッと心優を避けた。でも耳、赤いよ?
「俺にも容赦ねえよ。からかってばかりでさ……、無駄に正義感強くてさ、時々、危なかっしいの姉さんの方なんだからな……」
 もう。心優はにやにや。『へえ』とそれとなく流しつつも、お姉さんにも弱いんだシド、いいこと知っちゃったと思ってしまった。
 シドと心優と光太で、天丼定食を揃えると、着物姿の美穂夫人と御園准将もトレイの上にお好きな軽食を揃え終えたご様子。
「うふふ、滅多に基地の中には入れなかったけれど、このカフェでこのクラブハウスサンド食べるのが好きだったの。変わっていなくて懐かしい」
 着物姿の美穂夫人、カフェテリアにいる隊員達にすごく注目されていた。
「シド君、行きましょう」
 そうして、普段は『事情がよく見えない、大将殿の養子』であるシドと純日本人の夫人が母子として並ぶのも、これまた異様な光景で、隊員達には物珍しいものでしかない。だから皆が注目している。
 シドもさすがにこれは恥ずかしいのかと心優は心配したけれど。
「お母さん、そんなに食べられるのですか」
 今度は普段二人きりの時の呼び方なのか、シドがさらっとお母さんと言った。その方が美穂夫人は嬉しそう。
「もちろんよ」
「いつもは少食でしょう。余ったら俺が食べますから」
「うん、シド君。頼りにしている」
 美穂夫人がふっとシドの隣にくっついて歩き始める。そうすると、本当に母と息子に見えるから不思議だった。
 あ、そうか。二人はやっぱりもう、母子なんだと心優は感じることができた。二年、一緒に暮らしただけのこなれた空気が既にあって出来上がっている。ちょっと安心した。
 そんな姿をこんな人目がつく場所で見せたのも、よいキッカケだったのではないだろうか。フランク大尉は養子だけれど、あのようにして本当の親子のような絆をちゃんと紡いでいる養子だと理解してもらえるような気がしてきた。
 夫人とミセス准将に付き添っていた雅臣が、先にお二人が歩き始めたのを見計らって、心優のそばに寄ってきた。
「俺も来いって葉月さんが言ってくれたんだけれど、いいのかな……」
 そう聞いて、心優ははっきりと大佐殿に告げる。
「空海にアグレッサーをしてもらえるよう、フランク大将自ら手を打ってくださっている最中なんです。城戸大佐にとっても大事なことだから准将室に行くべきです」
 それを聞き届けた雅臣が一瞬だけ驚いた後は、途端に凛々しい大佐殿の顔になる。
「そうか。空海が来てくれるのか。だったら、徹底的にやれる」
 まだ出航前、でも出航前までにやらねばならぬこと。もうそこへ気持ちが向かっている、心優の旦那様は。
 これからこうして何度も、この海と空の男になった貴方を見送って行かねばならないのだろう――、そういう妻の気持ち。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 准将室まで到着すると、やはりドアを開ける時になってシドが天丼定食を持った姿で緊張した様子。
 でもそれもなにもかもわかっているとばかりに、美穂夫人が優しく付き添って、彼の背を撫でた。
 御園准将からドアを開けて入室する。
「ただいま戻りました」
 だが大将を筆頭に、細川連隊長に高須賀准将、そこにいる男達はもう手配に白熱していた。
「心優、シド、光太、そこに定食を並べておいて」
 准将のデスクにひとまず定食のトレイを並べた。
「葉月ちゃん、やっぱり私、ここで遠慮しておくわね。大事なお話中みたいだから」
 軍事会議の光景を見て、軍人ではない奥様が引こうとしたそこで、妻の意志を汲み取ったのか、ワイシャツ&ネクタイ姿のフランク大将が立ち上がった。
「葉月、ご苦労様。美穂、ありがとう。そこにいてもかまわない。入ってこい」
 あっけらかんと砕けたお兄さんではない、本当に威厳ある大将であって、夫である姿だった。
 それには美穂夫人も夫を敬うようにして、楚々と無言で、でも頭を下げて入室をした。
 そして、ついに。シドとフランク大将の目が合う。
 応接テーブルに集まっていた男達もさすがにシンとして、固唾を呑んでいる様子。
「お父様、突然すぎます。いつも、いつも」
 シドから言葉を発した。
「突然――と思われないと動けないことがある。誰にも悟られてはいけないからだ」
 意外な切り返しだったが……。大将がここにいること、必要だと思って、独断で秘密裏に動くには確かにそれは『人知れず動くこと』が必須、現れた時には『突然』であるべきものになるということ。シドもハッと目を見開き、納得できた顔に。『さすがお父様です』とでも言いたそうな顔。まるで、軍人として父が息子に伝えているよう。
「お父さん、フロリダでも懐かしい懐かしいとよく話してくれた『天丼定食』です」
 自分で持ってきたトレイをシドが持とうとした時だった。フランク大将からシドの目の前へと来て、ガバッとシドに抱きついた。
 シドがやっぱり『ひ』とした顔をしたのを心優は見てしまう。そういうのがどうも『突然』でシドにはびっくりしてしまうもののよう?
 いい大人になった青年に抱きつく金髪の大将殿。さすがに男達がぎょっとした。
「元気だったか」
「……は、はい、」
「艦を頼んだぞ。いいか、絶対に帰ってくるんだ。フロリダの、俺のところにだ。わかったな」
「は、はい、お父さん……」
 やっぱりすごいぎくしゃく感。フランク大将の熱血お父さんな触れあいに、シドはまだどうしても慣れないようで。でもそれが彼の子供らしくなれなかった心を癒しているようにも心優には見えてしまった。
「よーし、一回、休憩だ。天丼食おう!」
 またあっけらかんとした兄貴顔にもどってしまった。こういう砕けたことを厭わない、みんなの兄貴的な上官だったということが心優にもよくわかる。
「皆様の前にお届けして」
 御園准将からの指示に、シドと心優と光太、秘書官の三人で高官三人のところに天丼定食をお届けする。シドはもちろんお父様のところ、心優は細川連隊長に、光太は高須賀准将に。
 そしてミセス准将は日向中佐や自分の秘書官に『一緒にどうぞ』と買ってきた軽食サンドをおすすめした。
 でも美穂夫人だけは頑なに、会議をしていたテーブルには近づかず一歩下がっていた。
 シドがそれに気がつく。
 天丼定食を食べようと箸を持った養父を見て、お辞儀をした。
「お父さん、自分はお母さんを連隊長室へお連れします。そこで休憩していただこうと思います」
 お母さんへの気遣い。それにもフランク大将も頼もしそうに頷く。
「おう。じゃあ、シドに母さんを頼むな。美穂、二時間ほど時間をくれ。終わったら俺もおじさんのところへいくよ」
「かしこまりました、大将殿。わたくしは、連隊長室でお待ちしております」
 また着物姿でしとやかにお辞儀をする美穂夫人。そこにいる男達が奥ゆかしい日本人妻を見てうっとりしていたのは言うまでもない。
「いきましょう、お母さん。俺、ミルクティー淹れますね」
「うれしい、シド君のお紅茶ひさしぶりね」
 仲睦まじく准将室を出て行った。
「くっそ、俺も美穂みたいに懐いてほしいのになあっ」
 大将殿ともあろう麗しい金髪の男性が、豪快にがっつがつと天丼を食べ始めた。
 ハンサムな男性なのに、中身は熱血で豪快な海軍男そのもの。男達ばかりのその場がふっと和み、細川連隊長も高須賀准将も『いただきます』と食事を始めた。
 その食事をしてくつろいでいる今だとばかりに、御園准将が雅臣を伴ってフランク大将へ促した。
「大将、ソニックも連れて参りました。シドがお兄様のように頼っているようで彼を訪ねていました」
「え、シドが……」
 もぐもぐ食べていた愛嬌もどこへやら、急に箸をぱちりとトレイに置いてまた真顔に。
「あのシドが――」
「私も驚きました。基地の隊員に……なんて」
「へえ」
 フランク大将の青い瞳がきりっと色濃く輝き、座った姿勢からそばに来た雅臣を見上げている。雅臣が一気に緊張したのが心優にもわかる。
「お久しぶりでございます」
「おかえり、ソニック。また小笠原で飛行隊の指揮についてくれるようになって嬉しいよ」
「その節は……、多大なるご迷惑をおかけしました」
「迷惑だなんて思っていない。辛い出来事だっただろう。復帰を嬉しく思う」
「ありがとうございます」
 それでもフランク大将は雅臣をじろじろ。
「不思議だなあ。どういうつながりで、空部隊の上官とシドが?」
「自分というよりかは……」
 雅臣がずっと後ろに控えている心優を見た。
「妻がフランク大尉と格闘する際のよき訓練相手だからだと思います。私は彼女のそばによくいるので、よく会うこともありますし、前回の任務では同じ艦に指令室におりましたから」
「にしてもなあ――」
 あのシドが、慕う人間を見つけているなんて珍しいとでもいいたそうだった。
「妻と彼の、護衛部での手合わせを一度ご覧になったらいかがでしょう。よくわかると思います。自分も夫として、妻と彼がギリギリの格闘をする姿を見て、どれだけ相手を信じて本気の技を磨いているかよくわかりましたから」
「園田中尉――か」
 雅臣を見ていた冷たい湖面のような眼差しが今度は心優へ。ひんやりとした気を心優は感じ取る。
「初めての任務で、国籍不明の不審者を女ひとりで制圧。シルバースターを叙勲だったな」
 心優も『恐れ入ります』と一礼をする。
「わかった。その訓練、次はいつあるんだ」
「明日、午後にあります」
 心優の返答に、フランク大将は少し首を捻って考えている。
「せっかくだ。見ていこう。葉月、他の者には知らせなくていい。プライベートで来ているから」
「かしこまりました。そうですわね、知らせたところで驚かれて普段通りにならないはずですから」
 そう聞いて、心優も一気に緊張する。『どうしよう。明日、シドと手合わせするところをフランク大将が見学に来る』! シドはどうなるの? いつも通りにできる? そして心優自身も。
 そしてすっかり忘れていたことも! 御園准将が思い出させてくれる。
「いまちょうど、園田のお父上である横須賀の園田格闘教官が、警備隊の護衛訓練を指導してくれています」
「ほう! これは偶然だな。お互いの父親参観ってことか!」
 急に大将殿が顎をなぞってニヤリとイタズラっぽい笑みを浮かべた。
 そうだった、そうだった! 明日の護衛部の訓練は、お父さんも来るじゃない! もうーー!! どうしてこんなやりにくい状況になっちゃったの!? 心優の胸の内がざわざわ大騒ぎ。
「知らなかったな。シドも小笠原で、自分でなんとかやっているんだな」
 天丼を食べながら、やっと父親らしいほっとした顔を見せてくれる。
 その大将がもう一度、雅臣を見上げた。
「ところでソニック。ここで空海が来たら、どうしようと考えている?」
 飛行隊指揮官として問われたが、そこは雅臣もすぐに応える。
「艦に乗る前に、一度も防衛成功をさせるつもりもなく、おそらく最前線を任された二機は訓練設定上での侵犯を繰り返すでしょう。そういう訓練を施すつもりです」
 さらっと恐ろしいことを淡々と告げた雅臣を、大将も、そして高須賀准将も日向中佐も驚いている。
「大らかな兄貴のようだと思わせて、冷酷だな」
「彼等に知って欲しいのは、防衛を成功させる達成感ではなく、侵犯をしてしまう失態への責任、そして強引な賭けに引き込まれた時の『逃げ』です」
 その場がシンとした……。雅臣が考えているのは、雄々しいファイターパイロットの勇姿ではなかったのだから。
 だがそこで高須賀准将が頷いた。
「そうだ。彼等の強引な駆け引きはとても危険なものだ。そして大事なのはこちらから侵犯をしないこと、そして負けてもいい、事故を起こさないことだ。勇ましいだけの英断とみえるような誤断はいらない」
 日向中佐も続く――。
「自分もそう思います。自分だって雄々しくやり返したい気持ちがいまでも残っています。ですが、そこに踏み込み接戦に持ち込まれたら負けです。その時にはあちらに連れて行かれることでしょう」
 連れて行かれる? パイロットではない心優にはわからない感覚だった。
 だが日向中佐は言い切った。
「こちらの『負けたくない』という心理を煽ってきます。プライドをくすぐられるのです。男の、ファイターパイロットのプライドを。そして逃げる時に笑われるかのように突き放され屈辱だけ残されるが、事なきを終え着艦できる。こちら側のマイナス要因はそれだけです。それさえ耐えれば……。なにせ、あちらが侵犯をしても広報ではしていないと言う。こちらが侵犯をすれば大々的に国際の場で批判されることでしょう」
「それって……。英太にはとんでもなく難題ね」
 弾丸、鉄砲玉と名付けられたほどのエースパイロット。あの悪ガキが煽られて『大人の気持ち』を持つことができるのか。そういう課題も出てきてしまったようだった。
 しかしここで、雅臣も言いきった。
「いえ、英太で行きます。アイツでなくてはダメです」
「接戦をしかけらたら嬉々として向かっていくバレット(弾丸)よ」
 いままで彼をコントロールしていたミセス准将でさえ懸念しているのに、雅臣はそれでも真顔で首を振って否定する。
「大丈夫ですよ。たとえそうなっても、英太だからこそできることがあります。エースの彼にしかできないことです」
 そこにエース同士なにか通じるものがあるのか、雅臣は堂々としていた。
 そんな雅臣を見て、フランク大将が頷いた。
「うん、ソニックを信じよう。なんといっても、エース同士。その想いがあるのだろう」
 雅臣がさらに答える。
「まずは空海が来てくださるのなら、徹底的に打ちのめすことから痛みを覚えさせます」
「わかった。いいだろう。ソニックに任せる。相手の動きを経験してきた日向中佐と連携してやってみてくれ。岩国の空海も頼んだぞ」
 『イエッサー!』 海の男達が敬礼をする。
 その時が刻々と近づいてくる。
「よし。そうとなれば、強引でもなんでも、こっちも空海がこられるようにしよう」
 その数時間後、フランク大将の手腕で、岩国の空海が小笠原に数日滞在できるぶんだけのスケジュール変更を完了させてくれた。
 海の男、そしてパイロット達。男達の熱気でざわついていた准将室も夕方になって静かになる。
 心優と光太は高官達が引き上げた後のテーブルを片づける。
「いやあ、今日も凄かったですね……。俺、ほんと毎日興奮しています」
「そうだね……」
「……心優さん? どうかしましたか」
 心優はなんでもないと微笑んだ。でも光太には見抜かれてしまう。
「旦那さん、城戸大佐。大らかな兄貴ぽいなと俺も思っていたけれど、空の男になると違うんですね……。そして、すごい最前線に立つことになる大佐殿なんですよね」
 光太に心優の杞憂を言い当てられる。
「バレットになにかがあれば、それは大佐の責任。そう思って奥様として心配しているんですよね」
「だから……、大丈夫だって……。これも妻の務めなんだ。そう決めて結婚したんだもん」
 光太が黙った。かけるうまい言葉がない――というある意味誠実な反応。でも彼が笑ってくれる。
「立派ですよ。ソニックが選んだ奥様ですもんね。俺も、そのソニックに奥様を任されたのでそばにいますからね」
 自分が居ない時の相棒。雅臣が結婚のプレゼントとまで言って、スカウトを仕掛けてくれた相棒。心優もやっと笑顔になる。
「うん、ありがと吉岡君」
「そろそろ、心優さんこそ、コータでいいですよ」
 『考えとく』とさらに心優は笑う。
 でも。そんな護衛秘書官が片づけをしている中。もうひとり、物思いに耽っている人がいる。
 准将デスクのゆったりとした皮椅子。正面ではなく、西日が差し込んできた窓辺へと向いてじっと珊瑚礁の海を見つめること、三十分ほど――。
「あのバレットだからこそできること? あの英太に逃げ? わからない……」
 いつにない怖い顔をしていた。そして心優も感じている。
 違う。雅臣と私が見ているものが違う。
 初めて噛み合わないものを感じているようだった。師弟の間にも波乱の予感がする。
 雅臣はもう葉月さんに振りまわされおろおろしていた男の子ではなくなっていた。
 そう、もう彼女を支えられもする、代わりにも成れる男になろうとしている。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 官舎に帰ると、今夜は雅臣が先に帰宅していた。
 もう玄関ドアを開ける前から心優にとって嬉しくなる匂いが!
「ただいま!」
 キッチンを覗くと、青いチェックシャツに白いデニム、そしてエプロン姿の雅臣がいる。
「おう、おかえり」
「うわー、やったあ。今日は臣さんの男カレーだね!」
「そろそろ、心優が食いたいという頃だと思ってさ」
「当たってる、当たってる!」
 半月に一度は食べたくなる旦那様のカレー。心優は嬉しくなって急いでベッドルームへと部屋着に着替えに行く。
 お腹周りがらくちんなスウェットワンピースにカーディガンが定番になっていた。ルームソックスを履いてベッドルームを出ると、もう食卓が整っている。
「よし、食おう」
「いただきまーす」
 この時間が大好き。帰る時間も違うし、妻の自分が料理をできないことも多い。でも独身生活も長く、秘書官もしていた雅臣はなんでも一通りできるお兄さんでほんと助かる。
 でなければ……、きっと心優は退官をしていただろうとも思う。
「今日もいろいろあったな」
 ひとくち頬張った雅臣がしんみりと呟いた。
「本当だね。特に、フランク大将が私服姿でいきなりくるのは、ほんと心臓が止まるほどびっくりしたよ」
「俺は横須賀にいたから、横須賀で何度か会うぐらいだったけれど、あの頃から若いのにどんどん前に突き進むパワフルな人だったよ」
「それぐらいじゃないと、三十代で中将なんてなれないよね」
「俺のこと冷酷と言っていたけれど。あの人は情があるけれど、切り捨ても恐ろしいほど凄いらしい。なにせ……、御園准将のお姉さんの死を招いた軍の落ち度が許せなくて、その歪みを正すために俺が先に偉くなると決意した人らしいからな」
 御園のタブーが出てくると、肌で感じられる世代ではなかった心優でも気が重くなる。
 そして雅臣も黙ってしまう。ここから先、話したいことがあったとしても、新婚夫妻の貴重なふたりきりの時間にそれ以上の重たい話題は避けたいという気持ちだと心優もわかっている。
「葉月さんだけれど……。あの後、どうだった?」
 え? 雅臣も感じている? 師匠であるミセス准将がどう反応するかわかっているかのようだった。
「あ、悪い。上官の様子は家族であれ、秘書官はぺらぺら喋らない――だったな」
 確かに。たとえ雅臣でも『御園准将秘書室』だけの極秘情報は言えない。だけれど、これは違うと心優は判断する。
「いつもの葉月さんじゃなかったよ。なんか違うと、暫く考え込んでいたよ」
「そっか……」
 雅臣が深い溜め息を落とした。わかっていてやっているくせに、でも、そうなると『辛い』という顔。
「英太が逃げるなんて違うと思う……みたいなことを言っていたかな」
「そりゃな。いままではそうだっただろうな」
「臣さん……なにをやろうとしているの?」
 雅臣がカレールーばかりを掬う仕草を繰り返し、心優に、妻に、上官の秘書官に言うべきか、彼の方が迷っている。
 いつかと同じもの、空気を心優は感じた。
「臣さん……。また葉月さんになにかを仕掛けるの?」
 スプーンの動きを止めた雅臣が、ふっと笑う。そしてそのまま暫く黙っている。
「臣さん?」
「酷い部下になるだろうな、俺。でも、それが葉月さんのためであって、俺からの恩返しだから」
「どういう意味?」
「アイスドールの仮面を剥ぐんだよ」
 そんなこと、できるの? アイスドールという名を付けられたほどの准将が、その仮面を取られたらどうなるの? どうして雅臣がそこに思い至ったか妻としてもわからない。
「……ごめんな、心優に言おうと思っていたのに。まだうまく言えない。英太次第だ、いや、俺と英太がどうなるかだな。まずは空海と英太の対戦からだ」
 大佐殿が、ほんとうに大佐殿になっていく。意味がわからなくても。心優はいまそれを見届けなければいけない。妻として。そしてミセスの秘書官として。

 

 

 

 

Update/2017.1.19
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