◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 11. 雨のち……、出航

 

 出航当日、午前。
 心優は御園艦長と共に桟橋にいる。

 残念なことに雨が降ってきた。
 珊瑚礁の美しさはくすみ、明るい青色のはずの空がどんより暗い。

「急いでください。海が荒れたら艦長乗船が遅れてしまいます」
 一般隊員の乗船は早朝にすべて完了した。御園大佐も雅臣も数日前に一足先に乗船、艦の指令室での業務を開始している。甲板要員もパイロット達も、すべてのクルーがこの桟橋で家族と別れ、数日に分けて空母に搭乗している。
 最後、艦長一派が乗り込む。
 心優は既に横須賀に戻った父と食事をして別れたので見送りはいない。でも小さな雨粒が落ちてくる空を見上げ、今日思うのは、ゴリ母さんだった。
 行ってきます。アサ子お母さん。帰ってきたら臣さんと会いに行きます。
 そう誓って。息子がどんな重責を負うのか、口にしなくてもわかっているはずだった。またハーレーダビッドソンに乗って湖畔を飛ばして案じる母の気持ちを振り払っているに違いない。
 栗毛の息子とヴァイオリンケースを片手に持つミセス艦長が別れを惜しんでいるところ。外国映画のように、ふたりががっちりハグをしてしばらく離れないのを見ていると、心優もちょっと涙ぐんでしまう。
 光太も初航海とあって、急な転属でしばらく会えなかったご両親が、わざわざ小笠原入りをしてくれ基地に入る許可を得て見送りに来ていた。
 ハワード少佐も奥様と十歳ぐらいのお嬢ちゃんと。こちらも初航海、福留少佐も奥様とのお別れを惜しんでいる。おなじ秘書室のウィル=コナー少佐も同じく、まだ小さな赤ちゃんを抱いている綺麗な奥様としばらく抱き合ったまま離れがたそうにしていた。
「心優は父ちゃんと会ったばかりだしな」
 同じく、家族の見送りはもう別の日に終えているシドが隣に並んでいた。
「うん。シドもお父様とお母様に会えて良かったね」
「別に。見送りなんていらねえよ」
 いつものシドの冷めた目。でも心優もわかってしまう。こんな人目がつくところで大好きなお母様とお別れすると、シドも抑えられない感情が溢れて見られてしまうのがきっと恥ずかしいのだと。
「今度は猫隠れじゃないんだね」
「でも夜行性になるけどな」
「そうなんだ?」
「ま、指令室でおなじセクションの配属だからさ。よろしくな」
「こちらこそ。シドが一緒なら頼もしいよ」
 にっこり笑うと、シドが照れて背を向け先に連絡船へと乗り込んでしまう。でも家族の見送りがない者同士、一緒に乗り込んで隣に座ると、シドがちょっと嬉しそうに口元を緩めてくれる。独りじゃないと感じてくれたようだった。
 再度、クルーザー操縦士が声を張り上げる。
「急いでください。この後、波が立ってきますからその前に!」
 それぞれ家族と最後の別れをかわし、ようやっと連絡船へと向かってくる。
「お待たせ。いよいよね」
 ヴァイオリンケースを持つ御園准将がキャリーケースを引きずりながら乗り込んできた。御園秘書室、指令室の一行乗船完了。いよいよクルーザーが離岸。
 桟橋で光太のお母様とコナー少佐の奥様が特に前に出てきてずっと手を振っている。でも栗毛の少年は何度も母親を海へ見送ってきたせいか、後方にたたずんでいて落ち着いている。手を振りもしない。その姿が遠目に見ても、御園大佐に雰囲気が似て見える。容姿はお母様そっくりなのに、男としての雰囲気は父親そのものだった。
 屋根も窓もガラス張りの船内。曇天が重くのしかかってきそうなガラス屋根にぽつぽつと雨粒が落ちてくる。
「はあ、雨の出航になりそうね」
 御園准将も溜め息。
 天候に合わせ、どうしてか船内は重苦しい空気だった。
 まるで、今回の任務はいまからこのような晴れない空につっこんでいくものだと物語るかのように。

 御園艦長がブリッジ艦長室入り。ついに空母が出航をする。
 その時にはもう波が荒れていて、大雨になっていた。甲板に打ち付ける雨音が、艦長室の開いている丸窓から聞こえてくる。
 潮の匂いに荒い波の音、そして雨の匂いと風。日中なのに甲板には照明がつけられる。
 艦長はデスクにおちついて、出航準備が整う報告待ち。心優と光太も入ってきたばかりの艦長室にて、自分たちのデスクを整えている最中。
 前回同様、艦長デスクのすぐそばに心優と光太で並ぶ形で配置した。
「心優、部屋はどう」
「はい。前回と同じお部屋ですので、かえって懐かしいです。また窓から様々な海と空の景色を見られると楽しみにしていました」
「光太はどう。指令室の男性同士の相部屋だけれど。大丈夫かしら。初めての航海で、先輩ばかりでしょう。ストレスがたまるぐらいなら、管制室クルーが寝泊まりしている階下の部屋を用意してあげるわよ」
「大丈夫です。秘書室の先輩達だから慣れていますし、それに最近、フランク大尉がよくしてくれるので頼りにしています」
 まあシドが? 葉月さんもちょっと驚いたようだった。
 最近見られるようになった、シドと光太のおつきあい。心優が結婚してダイナー通いが減ってしまうと、シドのおでかけのお供は鈴木少佐はそのままだけれど、光太も誘うようになったとか。
 ついこの間も『光太、女を紹介してやるから来いよ』なんて変なお誘いをしていて『変な遊びを吉岡君に覚えさせないでよ』と釘を刺したばかりだった。
 なのに男同士で、心優にはわからない夜遊びでつるむようになっている。
 でも光太はそれが嬉しいようで(バレットともお近づきになれて)最近はシドの後をついて楽しそうだった。男同士で仲が良いなら、女の心優も首は突っ込まないそう決めている。
「失礼いたします」
 副艦長の雅臣がはいってきた。ひさしぶりの旦那様。雅臣も副艦長としてまた一足先の準備に空母に入り浸りになってしまい、つい四日前に『たぶんもうここには帰ってこられないと思う。仮眠は艦内でできるから』と言って、官舎を既に旅立っていた。雅臣が空母入りする前夜はふたりで遅くまで熱く抱き合って、愛しあったばかりだった。
「管制、操縦、機関、甲板、警備、すべて準備が整ったとの報告が揃いました」
「わかったわ。ありがとう」
 御園准将が席を立ち、艦長室を出て行こうとする。その後を心優と光太もついていく。
 艦長室を出ると目の前はブリッジ管制室、操縦室。そこへ御園准将が入室する。
 管制室クルーが皆立ち上がり、ザッと敬礼をする。すでに御園大佐も秘書室のメンバーもそしてシドも揃って並び敬礼にて艦長を迎え入れる。
 御園艦長が指揮カウンターへ立つ。管制クルーがレーダーを眺めている席より上にあるため、そこから管制室を見渡す形になる。
 心優と光太はその背後に控える。そして雅臣は……。
「城戸副艦長、隣に」
「イエス、マム」
 すでに紺色の指揮官服を着ている大佐殿が、まだジャケット制服姿の艦長の隣に立った。
 艦内全放送に対応したヘッドセットが艦長に渡される。彼女がそれを頭につけ、マイクを口元に寄せた。
「こちら艦長。残念ながら、天候は雨。波もややあるが、」
 ミセス艦長が海の男達を従える時の声になっている。
 彼女の目がブリッジ向こうの波が立つ海へとまっすぐに向かう。
「関係ない。この空母は皆により護られ、前進する。諸君、配置につけ」
 ミセス艦長の低い声が艦内に響く。

「出航!」
イエス、マム!

 管制室全体、敬礼をするクルー達の姿。
 心優も敬礼をし『イエスマム』と声を張り上げる。
 大きな空母だからすぐに動いたかどうかは普通の船と違ってすぐに体感することはない。
 それでも艦が波間に向かって動き出した。
「さて、ひとまず艦長室の業務に戻りましょう」
 いつもの葉月さんの声に戻っているし、穏やかな表情にも。心優もほっとして彼女のそばに付いていく。
 なのに。光太がまたぶるぶる震えている。
「うわ〜。かっこよかった〜。うわ〜、俺、ほんとに艦長殿の出航号令の真横にいた〜、うわ〜、管制室かっこえー、一斉の敬礼しびれる〜」
 今日から毎日空母空母ともうのぼせあがっていて心優は苦笑い。そんな光太に言わずにいられない。
「吉岡海曹、ここ現場だからね。気を引き締めてね」
「イ、イエスマム」
 心優にきちんと敬礼をして、近頃良く見せてくれるようになった男らしい真剣な眼差しに戻ってくれた。
 でも御園准将はやっぱりそんな光太を見てくすりと笑っている。結局、こういう光太が場を和ませてしまうから大目に見るしかない。
 艦長室に戻ると、そこはいつもの御園准将室とおなじ空気になる。
 それでも各部署のリーダー達が入れ替わり立ち替わり出航後の報告にやってきて、夕方までは心優も光太も艦長室のお手伝いで多忙を極めた。
「はあ〜、毎度のことながら、人数の多さに目が回るわー」
 さすがの艦長も何千人も収容する空母の長が仕事となると、各所責任者と疎通を図るのが大変そうだった。
 それでも挨拶に来るリーダー達は『お久しぶりです』と笑顔になり、『またご一緒に出来て嬉しいです』と、日頃はなかなか話せないミセス准将と会えて嬉しそうだった。
「光太。今日、挨拶に来たリーダーの記録、ちゃんと残しておいて」
「なにをお話ししたかも簡易的ですが記録してあります」
 気が利くサポートもラングラー中佐から引き継いだものだった。
 外の丸窓は雨のせいか、夕暮れは見られずにいつもより暗くなるのが早い。丸窓にはときどき雨が吹き付けてくる。
「心優、窓を閉めて。光太、お茶にしましょう。ミルクティーをお願い」
 訪ねてくる隊員が途切れた頃合いで、准将が夕方のお茶をご所望。
 光太も慣れた手つきでミルクティーを煎れている。
「お待たせいたしました」
「ありがとう、吉岡海曹。あなたも好きなものを入れて、城戸中尉と休みなさい。三十分、休憩よ」
「ありがとうございます」
 ティーカップを片手に、艦長がほっとひといきついている姿を見て、心優と光太も顔を見合わせる。
 二人一緒に指令室の給湯室にて好きなドリンクを準備する。
「艦に乗っている気がしないですね。部屋はかわりましたが、いつもの准将室にいるかんじです」
「そうだね。そう感じられるなら大丈夫そうだね。あとはあれだね、今夜はわたしが起きているからいいよ。初航海の吉岡君はしっかり夜は休んで」
「申し訳ないです。心優さんが上官なのに」
「気にしないで……。わたし、前回の初航海で艦長が眠らない体質だということを知らなくて、初日の夜に気遣ってもらってひと晩ぐっすり眠ってしまったから。吉岡君も気にしないでほんと」
「そのかわり、明日は心優さんが仮眠の間は任せてください。でも今回は艦長ご主人の御園大佐も一緒だから、早い内に眠ってくれるといいですね」
「たぶん。海東司令もそのつもりでわざと御園大佐を配属したんだと思う」
 艦が無事に運行できていることを確信できるまでは眠らなくなってしまう御園艦長。また三日や五日も眠らなくなると業務に支障がでてしまう。
 指令室の男達が第一難関と構えているところだった。
 休憩を終えると今度は夕食が運ばれてくる。
「御園艦長、お久しぶりです。この度も私が担当させて頂きます」
 横須賀にいる是枝大尉シェフが挨拶がてら運んできてくれた。艦長専属厨房の責任者。また彼の素敵な食事が食べられるのかと心優も嬉しかったが……。
「園田さんもお久しぶりですね。あ、じゃなくて、ご結婚おめでとうございます。城戸中尉」
「ありがとうございます。ですが夫の城戸大佐とおなじ部署に配属されたので、ブリッジセクションでは園田と呼んで頂くことになっています」
 わかりましたとシェフの素敵な笑顔を変わらずに見せてくれた。
「今回から吉岡海曹も一緒なのですね。お食事アンケートに答えてくださってありがとうございました」
「初めまして。二ヶ月間、よろしくお願いします」
「男性の割には、あっさり和食系がお好きみたいですね」
 その和食好きが護衛男性隊員の割にはすっきりした体型にしているようだった。
「では準備させて頂きます」
 是枝シェフが以前通り窓際にあるテーブルへと食事を並べる。二人分の食事。
 それに気がついた御園艦長が是枝シェフに問う。
「三人分ではないの。それとも心優と光太が交代で付き添うことにしたの」
「お食事アンケートで園田中尉からのリクエストで記されていました。初日の夕食はご主人様と二人でさせてあげたいと。その意向を受けました次第です」
 葉月さんが心優を見た。
「心優、ここは基地と同じなのよ。夫とのことは気遣わないで」
「気遣ったわけではありません。艦長と指令室長で確認事項もいろいろありますでしょう。私と夫もそうでしたが、もう何日も顔も会わせていない状態でしたから、きっと准将と大佐もそうだっただろうと思って」
 そして心優は光太の顔を見上げる。彼も承知済みでこっくり頷き微笑んでくれる。
「吉岡海曹も初めてなので、中央ホールのカフェテリアを案内させてください。あとコンビニや娯楽室も案内してあげたいです。わたしたちは今夜は外で食べますから」
「御園大佐を呼んできますね」
 二人で打ち合わせていたことだったから、光太も葉月さんが意地を張る前にさっと艦長室を出て行ってしまった。よし、次はわたしが出て行ってしまえばいい。
「カフェテリアに行ってまいりますね」
 心優に囲い込まれた驚きに戸惑っている准将だったが『もう、しかたがないわね』と頬を染めて頷いてくれた。
 ウサギさんの気持ちが変わらないうちに心優もさっと艦長室を出る。管制室で航海の進行を監督していた御園大佐を光太が捕まえてきた。
 はあ? そんなこといいって。
 お願いします。二人分しかないからどちらにしても三人で食べられないんです。俺、空母の初カフェテリアに行ってみたいんです。
 光太がぐいぐいと御園大佐を引っ張ってきた。わりとこういうこともしっかりやってくれて、もうほんと頼もしい相棒になってきてくれている。
「さては園田だなっ」
「相棒が初航海なので、案内も必要ですから。夕食の時間にそれを当てただけです」
 心優の仕業とわかって顔をしかめた御園大佐だが、心優と光太が『お願いします』と揃って頭を下げると折れてくれた。
「くっそ。わかったよ。俺も……噂の是枝さんの食事、気になっていたし……」
 奥さんと食事より、そっちが気になるなんて反応。でも澤村大佐もちょっと気恥ずかしそうにしながらも、結局は奥様とひさしぶりにゆっくり向きあいたかったのだろう。そのまま艦長室に入っていった。
「よし、わたし達も行こうか」
「是枝シェフの食事も楽しみでしたが……。空母のカフェテリアめっちゃ楽しみにだったんです!」
 コンビニも! と光太が拳を握って興奮し始める。
 艦長室をそっと覗くと……、ご夫妻が是枝シェフを挟んで楽しそうに向かい合って座ったところだった。
「大丈夫そうだね。ハワード少佐に艦長室の護衛をお願いしておいたからいまのうちに行こう」
「行きましょう、ランチは配給の弁当だけだったので腹へりました〜」
 初めての空母カフェテリアへ、そして心優にとっては久しぶりの空母カフェテリア。バディ同士、こちらもちょうど今後の話し合いをしながらの夕食になった。

 食事を済ませると就寝時間が迫ってくる。
 艦内、就寝時刻。シフトが入っていないクルーは各々のベッドで就寝、あるいは休息時間となる。光太も素直に今夜はベッドルームへ下がってくれた。
「お疲れー」
 御園大佐が艦長室を訪ねてくる。
 まるでそれが当たり前とばかりに、艦長室のソファーにノートパソコンを置いたり、脇に分厚い工学書を置いたりして、自分の場所を整えはじめている。
「指令室はいいの」
 デスクでまたいろいろな資料の読み込みを始めたミセス准将が夫に話しかける。
「うん。ウィルに任せている。俺、ここにいてもいいだろ」
「別にいいけど……。なんなの、こんなところいても落ち着かないでしょ」
「俺がいるとおまえが落ち着かないなら出て行く。おまえも集中しているだろうし、こうして二人で海の生活をするのは初めてだ。おまえの艦長としてのいままでのペースもあるだろうし」
 御園艦長デスクから見ると、ソファーに座っている御園大佐は背を向けて見える形になる。眼鏡がちらっとしか見えない後ろ姿。パソコンを開いてすでにキーボードを打ってなにかのデーターをまとめている。当たり前のようにそこに座ったのも、おそらく『小笠原の自宅でその距離で奥様のそばにいるから』だと心優も悟った。
「うーん、鬱陶しくなったら伝えます。たぶん、大丈夫」
 葉月さんも徐々に奥様モードになれているのか、邪険にはしなかった。
「ということだから。園田、おまえも就寝していいよ」
 びっくりして心優は大人しく眺めていたデスクから立ち上がってしまう。
「ですが、これは護衛の業務です。大佐は大佐で指令室長の――」
「園田、俺が宵っ張りだって知っているだろ。だったら、夜中の一時に交代してくれ。それまでやすんでろ。俺が葉月を見ているから」
 『葉月』と言った。御園大佐は宵っ張り、早く眠ることがないと聞いている。
「気にするな。俺は自宅にいる時と同じ事をしているだけだ。その分、護衛官の英気が養えるならそれでよし。園田には俺では出来ない護衛もあるだろう。その時のために温存できることは温存しておけ。指令室長の命令だ」
 命令とまで来た! 公私混合のようなそうではないような。心優はおもわず自分のボスである艦長を見てしまう。でも葉月さんはちょっと照れていて、でも、言いにくそうにしている。本当は艦長として『澤村は指令室へ帰りなさい』と言いたいに違いない。言えないなら、心優が彼女のためにすべき事もわかってしまう。
「ありがとうございます。では、これにて休ませて頂きます。0時から1時の間に一度こちらに戻ってきます」
「了解。お疲れさーん」
 お言葉に甘え、心優は以前同様艦長のベッドルームに隣接している補佐官の小部屋へと下がった。
 懐かしい部屋にまた戻ってきた。丸窓にはどんよりとした夜空と激しく打ち付ける雨。独りになってほっとしたけれど、なんだか急に寂しくなってきた。
 シャワーを浴びて、小部屋に戻ろうとした時だった。
『葉月、チョコレート持ってこようか』
『うん。あなたも食べるでしょう』
『俺が食べると、帰還するまでにもたないぞ』
『じゃ、食べないで』
『だろう。俺よりチョコレートを大事にしな』
 珍しく葉月さんが笑う声が聞こえて、心優はひとりで目を瞠っていた。
 うん、やっぱりふたりきりにして正解だったかも。葉月さんが意地を張るかもしれないけれど、なるべくそうしてあげよう。御園大佐がああして上手く場を作ってしまうのも、意地張る奥様をウサギさんにしてしまうのもお手の物。心優はそれにのればいいだけ。
 海東司令の配備は間違いなかったと思う。きっと効果絶大に違いない。これで今回の厳しい任務をミセス艦長も乗り越えられると信じて。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 深夜に御園大佐と交代をしてから、心優は朝まで艦長室に控えた。
 相変わらず、御園准将は今回の乗員クルー全てが掲載されているファイルをパソコンに開いてじっと眺めているだけ。
 たまに心優が紅茶を煎れたりする。
 だが今夜は激しい雨。月でも出ていれば穏やかにほの明るい丸窓も、今日は雨飛沫ばかり。静かにしているとごうごうとした波の音に雨の音。妙に不安になってくる。
 やがて。朝が来る。
 雨はあがらなかった。朝になっても薄暗く重い雲、そして変わらずの雨。夜明けを確かめようと丸窓まで出向いた心優は溜め息をついた。
「雨、やまなったわね」
 ミセス准将の言葉に、心優も頷く。
「夜明けにはやむと思っていましたのに」
「でも、今日も雨予報だったからね。覚悟はしていたわ」
 覚悟というその言葉の裏で、彼女がなにを思っているのかわかっていたから心優もうつむく。
 それはいつも海東司令が恒例で行う『お見送り』のことだった。心優も前回の航海で初体験、空母の甲板に乗員が一斉に正装で並び、向かいには護衛艦で来てくれた海東司令直々のお見送り。任務の総大将、空母航空団司令(CAG)直々のお見送りに志気が上がる。ずっと海の上で艦長を何度も経験した男が陸から見守ることになっても、海上という現場に出向くクルーをどれだけ大事に思っているかが伝わるものだった。
 そのお見送りが、この雨では行われないだろうという御園准将の予測。
 天候が崩れているとはいえ、朝を迎え明るくなった艦長室。さっそくドアからノックの音。
 心優が出迎えると、副艦長の雅臣だった。
「失礼いたします」
 入室すると艦長デスクの前で敬礼。
「おはようございます」
「おはよう、雅臣」
「そのご様子ではまたお休みにはならなかったようですね」
「うん……。頭が冴えてる。いつもそう」
「ほどほどに、無理をなさらずに」
 だからといって、この人は眠らないだろうなと雅臣もそれ以上は眠らない艦長について触れようとはしなかった。
「横須賀司令からの伝達です」
 そのひと言だけで、御園艦長が顔を上げる。
「――中止なになったの」
 雅臣も残念そうにうつむいた。
「はい。いまから接近する頃の時間帯も横須賀沖は雨とのことです。クルーを濡らしてまでするものではないとの海東司令のお言葉でした。ですが、その海域まで護衛艦で出向くことはかわらないとのことです。汽笛を鳴らすとおっしゃっていました」
「そう……、わかったわ。ありがとう」
「では、のちほど。今後の予定についてお邪魔いたします」
 雅臣が報告のみで艦長室を去っていく。まだゆっくり話していない。もう城戸大佐になっていて、妻の心優のことは余計に気にしないよう気をつけているのがわかった。
 心優も気を取り直して、デスクに座る。各部署から昨夜の報告が転送されてきているので、それを艦内LANにて拾い上げる作業をする。
「それでもわざわざ、護衛艦で来てくれるのね。海東君らしいわ」
 ちょっと素がでているようなので、心優も和んでしまう。
「海東司令もクルーの姿を確認してお見送りしたかったでしょうね」
 話しかけたが、御園准将は黙ってデスクトップPCの画面を眺めているだけ。もう他のことを考えているようだった。そんな時は無視されているようでも心優も気にしないで放っておく。
 彼女が確認しているのはパイロットや甲板を管理するエアボスや管制クルーが利用している艦内専用の天気図と天候予測だった。
「海東君が示した海上はここ。時間は……。雨は……」
 そう呟いていた御園艦長が心優にも告げた。
「ちょっと部屋に戻っているから。少し休むわ」
 びっくりして心優はデスクを立ち上がる。え、休む?? 眠るってこと?
「ご、ごゆっくり……」
 でも前回も心優がそばにいたことで、少しだけ部屋で休んでいたこともあった。そんな気持ちになったのならと思って、心優もそのまま見送った。
 遠く、ドアが閉まる音がする。ほんとうにお部屋に入ってくれたようだった。
「朝食まで一時間か。お掃除しようかな」
 艦長がお休みの間に、一日の始まりのために、朝食までに。心優は掃除を始める。その頃になると、光太も紺色の訓練着に着替えて『おはようございます』と艦長室へやってきた。二人一緒に掃除をする。
「よかったですね。艦長が少しでも眠る気になってくれたようで」
 光太もまったく眠らない艦長の話を聞いて構えていたようだったが、少しでも眠っていると知って安心したようだった。
「でも、ぐっすりじゃないと思うよ。いつも椅子に座ってうとうとしても数十分で目覚めちゃうからね」
 その通りだった。そんな会話を交わして掃除を終えた頃、一時間もしないうちに御園准将は艦長室に戻ってきてしまった。
 しかも出てきたその姿に、心優と光太は驚かされる。
 彼女が真っ白な正装の準備をして出てきたからだった。
「あの、艦長……。海東司令のお見送りは中止になったのでは」
 もう中止の伝令が艦内に伝わっているはずなので、どうあってもクルーが甲板に集まることはもう出来ない。
 でも御園准将は白黒の制帽をデスクに置き、ジャケット片手にまた元の椅子に座ってしまう。
「いいの。私がそうしたいから」
 そこで心優は初めて。『艦長たる長の心持ち』を知ってしまう。
「申し訳ございませんでした。至らぬ自身をいま怨めしく思っております。ラングラー中佐ならきっと……」
 心優はまだこの艦長の気持ちに寄り添い切れていない未熟な側近だと痛感してしまう。
 それは光太にもすぐに伝わったよう。この艦長は雨が降っていようが、海東司令とその姿を見せ合わなくとも、護衛艦で彼がそこまで出向いてくれるのなら、姿も気持ちも晴れている日と同じ『正装』なのだと。
「だから、いいのよ。私のそんな気分だから放っておいて」
「わたくしと吉岡も着替えてまいります」
「だから。中止だから。あなた達はいつもどおりの業務でいいから」
「わかりますよ。わたし。『葉月さん』がなにを考えているのか。わたしは貴女の側にいるいちばん側にいる護衛官です! お供させてください」
 葉月さんがなにを考えているか。毎日一緒にいるわたしにはわかる。そう言っただけで、真っ白なタイトスカート姿の彼女が目を見開いて、デスクから心優を見上げている。
「わかったわ、心優。ありがとう……。一緒に来てくれるのね」
「はい」
 ふと優しく微笑みうつむくミセス艦長に、心優もにっこり微笑む。女同士の疎通がまだわからない光太は『どういうこと』と首を傾げているだけだった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 ミセス艦長と同じく。心優も真っ白なタイトスカート姿の正装に整える。白シャツに黒ネクタイ、白いテーラードジャケット、黒い肩章に金の星。白い手袋に白黒の制帽。それを手にして艦長室へ戻る。
 光太も意図を理解してくれ、艦長護衛官として立派な正装制服に着替え終えていた。
「艦長、見えてきました」
 丸窓を開けた光太が、肉眼でそれが見えてきたと報告する。
「いきましょうか」
 イエスマム。心優と光太はデスクを立った艦長の後ろについていく。
 艦長室に備えてある大きなパラソルを手にしたのだが。
「風が吹いているからいらないわ」
「ですが、濡れてしまいます」
「かまわない。なんか、わかるの……」
 なにを思っているのか。いまでも彼女の考えなど到底読み切れない。読めてしまえば彼女はもうミセス准将でもアイスドールでもなくなってしまうから。
 艦長室を出て、甲板へと向かう階段を下りる。
 甲板へのドアを開けると、まだ雨が吹き込む。こんな雨の中、二十分もいれば濡れて体調を崩さないか。心優は案じてしまう。
 甲板に並んでいる戦闘機も雨に濡れてしっとり輝いている。甲板要員もレインジャケットを着込んで雨の中動き回っている。
 その甲板の向こうに護衛艦が停泊してるのが見えた。どんどん近づいてくる。
「この速度なら、あと十分ほどで並ぶわね。その時に行くわよ」
「イエスマム」
 護衛艦が見えてきたから、甲板要員達も動きを止め、護衛艦の方へと向きなおり敬礼をしている姿が見られた。お見送りは中止になってもそこまで海東司令が来てくれたのは確か。その気持ちへの敬礼。
「あと、五分です」
 光太がミリタリーウォッチを眺め、時間を確認してくれる。
「なにしているんだ。外は雨だぞ」
 背後からそんな声が聞こえ、心優ははっと振り返る。そこに御園大佐がいた。
 しかし心優は旦那様に見つかってしまったことより、もっと驚かされる。何故なら、御園大佐も真っ白な正装に着替えていたから。
「そんな気がした。中止でも大人しくはしていないだろうと……。俺も、海東君のことわかる」
 『わかる』。妻も夫も『わかる』から、着替えて外に出るとなにかを確信しているようだった。
「だったら俺も行かせて頂きますよ。なにせ副艦長。お供させて頂きます」
 雅臣も素敵な真っ白な正装姿になって階段から下りてきた。
「なんなの。私だけでいいと思っているのに」
「おまえ一人では目立たないだろ。ずらっと並んでやろう。せめて艦長と指令室で」
 自分も行きます。私も――と、指令室に配属されているハワード少佐もコナー少佐も福留お父さんも、そして凛々しい海兵王子になったシドも正装に着替えて出てきた。
「か、艦長!」
 光太が叫んだ。その声につられて彼が指さす先を見ると、これが偶然なのか艦への思し召しなのか、雲間から光が射しこみ、切れ間からは青空が見えてきた。しかも雨が小雨に! 護衛艦も目の前!
「行くわよ」
 アイスドールのガラス玉の瞳が、空へ光へそして海を見据えた。
 そのドアから、真っ白な正装姿を揃えた『艦長と指令部幹部』が甲板へと向かう。
 前回もそこに艦長は立った。戦闘機が飛び立つカタパルトそばのキャットウォークに。
 小雨の中、艦長がその位置に立つと、その両脇に自然と御園大佐が、副艦長の雅臣が立つ。
 御園大佐の隣には指令室の一同が続き、雅臣の隣には護衛官の心優と光太が並ぶ。そして光太の横にはなぜかシドが並んだ。
 護衛艦が真横に見える位置に来た。小雨の中、白い制服がしっとり湿っていくのがわかる。
 そして心優はハッとする。あちらの甲板にも真っ白な正装服で隊員が幾人か並んでいる。この前と同じように!
 海東司令も雨の中、中止でも出てきていた!
 これか。葉月さんと隼人さんが言っていた『わかる』は、『海東司令も外に出てくるとわかる』という意味だったのだと気がついた。
 さらに心優はデジャブに陥る。また最後尾に真っ白な正装の大男がいる。
「うそ、なんで。お父さん、また……なんで、護衛艦に乗れちゃっているの……」
 この前、雅臣と食事をした翌日に『二人とも気をつけて』とお父さんの顔で見送ってくれ別れたばかりなのに。
「教官だ」
 光太が身を乗り出した。
「ほんとうだ。心優のお父ちゃんだ」
 シドまで――。
「海東司令のお見送りだ。一同――、」
 今回は雅臣がその声を張り上げた。
「一同、敬礼!」
 その声に、制帽を目深にかぶった指令室一同は敬礼をする。御園艦長と海東司令の目線がまたまっすぐに結ばれているのがわかる。今回はその真横で、眼鏡の大佐が見守っている。
 心優も敬礼をして、じっと父を見つめる。隣にいる雅臣も父を見つめてくれていた。
「今回は娘じゃなくて……。教え子を、訓練で鍛えた警備隊の無事を祈って見送りに来たんだろう」
 その通りなのか。父は娘と婿と目線があったとわかると、光太とシドに向かってガッツの拳を高く掲げて見せていた。
「教官!」
「教官、おやじさーん!」
 光太とシドにも通じたようで、二人も敬礼をといて揃ってガッツの拳を返している。
 そのうちに、外に出られる者がぱらぱらと甲板に出てきてしまう。正装でなくともそれぞれの装備の格好で、その場で護衛艦に向けて敬礼をしている。管制ブリッジの窓にもクルー達のその姿が見えた。
 空母と護衛艦がすれ違う。高い波しぶきが打ち付けられる船体。でも、もう雨がない。
 海の天候も気まぐれ。雨がやんだかと思うと、さあっと青空は開けてくる。
「再度、敬礼!」
 艦長の号令に、護衛艦へ向けてクルー達が敬礼を揃える。遠く離れていく、護衛艦。白い正装で見送る男達がいつまでも敬礼をしてくれているのがわかる。
 荒い波の音の中、護衛艦の汽笛が響く――。護衛艦が小さくなっていく。
「雨やんだな」
 御園大佐が青空を眼鏡の顔で見上げた。
 振り返ると、東京方面の空はもう晴れている。そして、真っ白に輝く戦闘機ネイビーホワイトの向こうに虹が見えた。
「めっちゃレアなアングル。うわー、カメラが欲しい!!」
 光太がすぐに騒いだので、指令室の男達がどっと笑い出した。
「そうね。ウィル、光太に記録用のカメラでも準備してあげて。広報が喜ぶかもしれないから」
「了解です。よし、コータ。虹が消えないうちにカメラを指令室に取りに行くぞ」
「やったーー! イエッサー!!」
 元気な男の子の姿に、小雨でしっとり濡れた御園准将が夫の大佐と楽しそうに微笑んでいて、心優もほっとする。
 そんな中、ずっと隣いる雅臣が……。皆の目が光太に集まっているのをいいことに、そっと見えないように心優の手を握ってきた。
 でも、心優もにっこり見えないようにして手を握り直し、格好いい正装姿の雅臣を見上げた。
「虹、きれいだね。臣さんと一緒にみられて嬉しい」
「俺もだよ。いい出航だ」
 雨のち、虹。きっと無事に還ってこられる。
 臣さんと還るよ。お父さん待っていて。還ってきたら一緒にヴァージンロード歩いてね。

 

 

 

 

Update/2017.3.1
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