◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 27. ラスト・ミッション

 

 「艦長、十四時です。そろそろお時間ですよ」
 ランチタイムから一時間と少しの間のお昼寝が日課になった御園艦長。
 艦長室へ起こしに行くのも、同じ女性である心優の仕事になった。
「うーん、この時間のうとうとが治らない」
 ベッドではなく、いつもソファーで横になっている。きっとすぐに飛び出せるようにという気持ちは寝ていても忘れられないのだろうと心優は思っている。
「まだ夜型になりそうですか」
「まともな生活に戻さないとね」
「そうは言いません。夜は艦長が気を配ってくれているのですから。艦は24時間稼働、どのセクションも夜勤の隊員がいて、彼等も昼間に休息を取る。スクランブルだって時間関係なしですもの。その時、誰かが起きていて、誰かが寝ているだけのことです」
 御園准将が栗毛をぼさぼさとかきながらあくびをした。あああ、いつも優雅でお綺麗なアイスドールのお顔が……と心優は密かに苦笑いをしてしまうのだが、こういう葉月さんは横須賀で拘束中もだいぶ見たせいか、かえって和んでしまう。
「もう、最近、おまえは園田に助けられるようになって、甘えすぎと隼人さんに言われちゃったわよ」
「甘やかしていますか? わたし……」
 それは心外、御園大佐に注意されるほど奥様を甘やかしているつもりはない。
「ううん。心優が上手に助けてくれるようになったと隼人さんが感心しているのよ。テッドみたいになってきたって……」
「ええっ、わたしがラングラー中佐のように? とんでもないことです! まだまだ若輩です!」
 でもソファーで、今度こそ優雅な栗毛の女性の姿でしっとりとクッションにもたれる彼女が、遠く丸窓の晴れている空を見つめている。
 どこか寂しそうな眼差し――。
「だから。心優と一緒に、大隊長室を出て行っても安心だって、隼人さんも言っていたの」
「大隊長室を出て行っても、もちろんわたしもお供いたしますし、頑張ります。でも、まだまだ至らないことばかりですよ」
「そうかしら。もう雅臣の後ろをついて回っていた女の子じゃないもの。海軍大佐の妻になっている。そういう心構えから出てくるものが顕著だと言いたいのでしょう」
 上司だった彼の後ろをついていくだけの女の子ではない。大佐という男の妻になっていると言われ、心優は嬉しくなってちょっと頬が熱くなった。
「おめざめのアイスティーを置いておきますね」
「ありがとう。至れり尽くせり。こういうところもね、もう心優は完璧ね」
「これからも一緒ですよ。わたしも同じく、恐らくこれで艦で旅をすることは最後でしょう。しかし、夫がこれから生きていく現場を体験し知ることができて良かったです」
 そう、心優もこれが最後の航海になるだろう。上官のミセス准将が艦長を引退して陸に上がってしまえば、お付きの側近である心優が海に行くことはなくなってしまう。
 そして。本日の心優には『大事な使命』があって艦長寝室へやってきたのもある。ちょっと緊張し、ドキドキしながら、でも自然を装って――。
「艦長。城戸大佐からの提案なのですけれど、これで雷神と一緒に艦に乗るのは最後となりますから、白い飛行服をお召しになった姿で記念撮影をしたいとのことです。いかがですか」
「えー、別にいいけど。そんなこと。いままでも散々、広報活動で一緒に写真撮影してきたし」
 ほら、来た。御園大佐が言っていたとおり。『あいつのことだから、面倒くさがると思う。そこを園田がなんとかして、なんとかして……』と念を押されている。そのなんとかをしなくてはならない。
「撮影をするしないはともかくとして、わたしに雷神の飛行服を預けてくださいませんか。念のため、お洗濯をしてアイロンをかけておきます」
 『あいつ、アイロンがけ苦手だからさ。誰かがやると言ったらそれだけで写真とっても良いと言うかもしれない。園田、頼む』。御園大佐の声を反復しながら、心優はアイロンしますよとにっこり微笑んだ。
「そこのクローゼットにかけてあるから」
「かしこまりました。預かりますね」
 無事にゲット。心優はほっと胸を撫で下ろす。御園大佐が『これで駄目なら次の作戦だ』と言っていたけれど、なんとかなった。
 これでよしと艦長室へ戻ろうと、艦長プライベートルームのドアを出て行こうとした時だった。
「アラート待機は三沢と千歳、築城と沖縄だったわね。スクランブルはあったの」
「はい。午前中に一回、築城基地から行ったそうです」
 この空母はつねにアラート待機を命じられているが、だからとてスクランブル指令が毎回来るわけでもない。
 だけれど、これは総司令部の意向がよく読みとれてしまう動きだった。つまり『この艦への指令は後回し、いまは他の待機基地から出動してもらう』と。
「与那国沖? 尖閣沖? それとも対馬沖? またあのあたりの何処かに来たんでしょ」
「今回は対馬沖だったそうです。報告では王子の機体番号は確認できています。ですが総司令部も海東司令も、あれほどのことがあって、機体番号と個人が一致してしまったから、もうあの機体には他のパイロットが当てられている可能性があるとのことです」
「毎日毎日、懲りずにギリギリのところに出現するのに?」
 また彼女の『釈然としないから』、『きっとこういうことが起きようとしている気がする』という勘が働き始め、そこに拘っているようだった。
 それはもう、夏目総司令も海東司令もわかっているようだった。『いちばん前線にいる御園艦隊も緊急時のために待機はさせるが、通常の対領空措置の状態であれば行かせない』と決めているのだろう。
 ――もう彼女と王子は接触させない。
 当然の処置だと御園大佐は言っていて『今度は俺と雅臣君で頑として抑えねばならない』との強い指令が指令室と艦長室の秘書官に下されている。
「ですが、あちらのお国も通常の防衛に戻っているだけですから、あのような危機なんて、王子から持ち込むようなことはないと思います」
 御園准将が黙って、心優が作ったアイスティーを飲んでいる横顔。なにか言いたそうで、今度は窓の向こう、海を睨んでいる。
「私がやったことは覚悟していたことだから後悔はしていない。でも、だんだん腹が立ってきてね。あの時は必死だったけれど……、こうやらざるえなかったという状態にさせられたことがね」
「そうですよね。あの時は迷う暇などありませんでした」
「ほんとうに腹が立ってきた。あの若僧ってね」
 王子のこと、今になって『私を前線に引っ張り出し、私に多大なるリスクを易々と背負わせた』と思っているのだろうか……。しかし、王子が会ったことがある指揮官を指名したのは間違っていなかったと心優は思う。特にその会っていた指揮官が『ミセス准将』。彼女でなければ、今回は日本国の最前線は突破されていたことだろう。突破されて、どこかが占拠されたかもしれない。小さな島や海域を――。
 大きな事件となったが、それでも危うい中でもバランスと取り戻せたのは、王子と御園准将だったからこそだと心優は思っている。
 そこを葉月さん自身も理解しているはずなのに。落ち着いてくると自分が喰らったリスクのほうが大きかったことを噛みしめているようだった。
 出航前に細川連隊長が厳しく指摘していたことを、心優は今になって思い出している。『二度と前線でおまえと対峙したくないから、おまえを外して恩返しをするのだろう。危険な前線にもう来て欲しくない。喧嘩はしたくない。そういう御園外しの可能性もある』。それが王子と王子の父親の密かなる作戦でもあったかもしれない。『あの女は外しておこう。この際、上手く利用して……』だったかもしれない。それはもう御園艦長も、あの時は必死で決断したが、落ち着いたいまになって思い描いていることだろう。
 そう考えつけば、やはり腹立たしいに決まっている。連合海軍の日本部隊からひとりの艦長を失ったのだから。
「それでは、失礼いたします」
 海を静かに睨んでいるミセス艦長をそっとして、心優はベッドルームから退室する。
 だが心優はそこでほくそ笑む。
 大丈夫。そんな奥様の気持ちをよく理解している旦那様がいま動いているから――と。

 

 その白い飛行服を胸に抱え、はやく御園大佐に報告しなくてはとプライベートルームから離れようと艦長室へのドアを開けようとした時だった。
「園田中尉、お疲れ様です」
 誰もいないはずの、女性だけのエリアで男性の声。でも心優はびくっと驚きながらも、嬉しくなって振り返った。
 やっぱり! 黒い戦闘服にスターライトスコープを額に装着して忍者みたいに静かに現れる栗毛の彼。ミスターエド!
「お疲れ様です……」
 葉月さんに悟られないよう、息だけの声で囁いた。ミスターエドも跪いた姿勢のまま敬礼をしてくれる。心優も敬礼を返す。
「沖縄基地にフランク大尉を搬送後、メディックワンという医療部隊は解任、フランク大将の指示でフロリダに帰還したことになっております。また私が密かに警護をさせていただくことになりました」
「さようでしたか。心強いです」
 それは本当に安心できると心優も微笑んでしまう。
「お嬢様と隼人様の意向だったため、常にお側にいられない任務となってしまいましたが、私が離れている間、園田中尉が頑としてお嬢様から離れないとお側を護ってくださっていたとのこと。感謝いたします」
「お礼など要りません。わたしの使命ではありませんか」
「そうでございました。失礼いたしました。ですが、中尉がお側にいるならばと安心しておりました。これは本当でございます」
 この男性にこんなに感謝されるだなんて……。心優にはご褒美のひとつのようで嬉しくなってしまった。
 でも、ミスターエドに会ったのならば、いちばんに聞きたいことがある。
「あの、シドは……」
「はい。まだ重湯ですが食事ができるようになりました。園田中尉の活躍を報告したところ、彼も安心しておりました。貴女が無事で良かった……と」
「沖縄基地にずっと……いるんですよね」
 寂しがり屋のシド、目が覚めて、ひとりだけ陸に戻ってしまったと思いどうしているのか。心優は案じていた。
「まだ移動は無理です。ですが……、搬送されてすぐに母親が駆けつけて看病を」
「え、フロリダからフランクのお母様が」
「いえ、日本国内で仕事をしている実母のほうです」
 心優は驚き、そして、心配になった。
「それって……、沖縄基地の医療センターにいるドクターやナースに実のお母様が看病しているところを見られてしまうってことですよね」
「実母と名乗らずに世話をしております」
「実母と知られないようにということですか」
 ミスターエドが『はい』と頷く。
「息子が負傷して彼女も取り乱しておりました。そこはお腹を痛めて生んだ母親です。しかし養子に出した以上、フランクの奥様より出しゃばらないと彼女が決めております。ですが、フランクの奥様が自分が到着するまでに面倒をみてくれるのは貴女しかいないから行きなさいと仰ってくださいました。恐らく『わざ』と『私はすぐには駆けつけられない』と遅い日程で来られるのではないかと、奥様の配慮だと思っています。いまはフランク大将から頼まれた『ハウスキーパー』という立場で付き添っています。ナタリーもそれで……」
 このミスターエドが珍しく言葉を濁した。仲間だからと偏った発言はしたくないという様子を心優は見抜いてしまう。養子に出したからには実母であっても、母親面はしてはいけない。シドはもう美穂夫人の子息だから、出しゃばってもいけないということなのだろう。それでもミスターエドは生みの母の姿を見守ってきた。それが窺える。
 でも、心優の目に少し涙が滲んだ。
「でも、シドは喜んだのではないでしょうか。素っ気ない口ぶりでも、彼は黒猫の皆様のことは家族だと思っているようですから」
「いえ、それはとんでもないこと……、フランク大尉はもう、フランクの……」
 またミスターエドが口ごもっている。手ともで十八歳まで育ててきたのは、あの栗毛のパイロットのお母様であって、彼女と一緒に過ごしてきた黒猫の一員であるミスターエドも手伝ってきたのだろう。
「彼が、だし巻き卵は子供の頃からエドがつくってくれたのがいちばんだから、他人が作ったものは食べられない――と言っていたことがあります」
 ミスターエドがうつむいてしまった。うわ、どうしよう。こういう完璧な仕事をするおじ様がこんなふうに人間らしいところ見せてくれるだなんて。余計なこと言っちゃったかなと心優は焦った。
 そのミスターエドがうつむいたまま言った。
「園田中尉、あのきかん坊で我が侭なガキと仲良くしてくださってありがとうございます。いまあいつはいちばん楽しそうで幸せそうです。小笠原部隊で出会った先輩に仲間が大切な存在のようです」
「いえ、わたしのほうが何度も助けられているんです。今回だって、彼が……、ハーヴェイ少佐がわたしに触れないよう守ってくれたから……」
 涙が出てきてしまう。
 うつむいていたミスターエドが跪いたままさらに頭を下げてくれる。
「あいつが生まれる時、とりあげたのはこの私です。どうぞ、これからも『シド』をよろしくお願いいたします」
 それだけいうと、さっと背を向け、艦長プライベートルームの前へ。ドアを勝手にノックしている。
「お嬢様、私です」
『エド? 開けて良いわよ』
 また音もなく入室していく。
 とりあげたのは医師の自分だった。ではない――、『家族として取り上げ、仲間と一緒に育ててきた』。気持ちがもう叔父様のようだった。
 きっと必死で救命してくれたのだろう。自分がとりあげた小さな命だったはずだから。
 もうそこに誰もいないけれど、心優は呟く。
「はい。これからも彼と頑張ります」
 よかったね、シド。本当のお母様がすぐに駆けつけてくれて。俺は黒猫の跡継ぎ要員のために育てられたんだ――とふて腐れて言っていたけれど、違うよ。大人たちに可愛がられていたじゃない。それを本当は知っているくせに――、忘れられないくせに。お母様が駆けつけた時の顔を忘れちゃだめだよ。
 そしてそのうちにフロリダからも『シド君』と美穂お母様も来てくれるはず。大好きなお母様ふたりに囲まれて、照れながらも、ちゃんと甘えられている姿が心優には見える。
 だからなのかな。心優にはなんの声も届かない。
 でも無事で元気になってくれるのならそれでいい。また小笠原で会えるから。一緒に過ごしていけるから。
 いまはいっぱい、甘えたかったお母様ふたりに甘えたらいい。その姿は想像しないことにしておくよ。きっと見られたくないだろうからね。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 数日後。奄美大島沖を航行中。
 昼下がりに艦長デスクについた御園准将を確認し、大佐殿ふたりが行動を起こす。
「失礼いたします、艦長」
「お疲れ様です、艦長」
 眼鏡の御園大佐と、背が高い雅臣が一緒に入室。そして、御園艦長デスク正面へと並んだ。
「どうかしたの」
 事件後、艦は滞りなく航行をし穏やかな毎日になっていた。
 なのに真顔の大佐がふたり、なにかを進言するかのような緊張感でそこに並べば、ミセス准将も構えてしまうに決まってる。だが心優と光太は『いよいよだ』と密かに頷きあい、そして素知らぬふりで補佐デスクにて大人しくしている。
「こちら、園田から私が預かっておりました。洗濯とアイロン、私がしました。お返しいたします」
 白地にネイビーブルーの縁取りがしてある飛行服、その綺麗にたたまれているものを、御園大佐が艦長デスクに静かに置いた。
「ああ、心優に預けていたのに。貴方がやってくれたの。写真撮影ですってね。いつの予定なの。雷神のパイロット達になんと伝えているの」
 雅臣が提案した『写真撮影』のために、雷神の広報用の飛行服を綺麗にしてくれたと、御園准将は信じ切っていた。
 心優にも緊張が走る。そうではないから。御園大佐が水面下で準備をしていたものは『写真撮影』なんかではない。それを告げようとしている。だから御園大佐も『手強い奥様』に対峙する覚悟の顔になっている。
「三日後の、午後でかまいません。これをお召しになって、甲板までお願いします」
「うん、わかった。ネイビーホワイト十機を並べて撮影するの? それとも艦の甲板を背景にしてくれるの?」
 記念撮影はすっかりその気になってくれている。なのにそうではないから、ではそれを聞いてどうなるのか心優はとてつもなく緊張……。
 眼鏡の御園大佐が暫く黙っているので、ミセス艦長が訝しそうにして座っているそこから、立って見下ろしている夫の顔を見つめている。
「背景は……、空と雲と海だ」
「ああ、甲板の尖端で撮るってこと。甲板のエアボスに許可取っているのよね。きちんと着艦するものがない時間にしてくれたのでしょうね」
「いいえ。甲板ではありません。コックピットです」
 ついに言った。心優だけではない、隣の光太も邪魔はすまいと息を潜め、雅臣も御園大佐の隣で緊張した面持ちで反応を待っている。
「コックピットに座って? 私だけ? 雷神のパイロット達は下に並ぶの?」
「もう率直に言いますね。鈴木の7号機、バレットと一緒に上空に行って頂きます」
「は?」
 あの葉月さんが、きょとんとした顔のまま静止した。いつもならここで旦那様が『手強い奥さんに勝った』とにんまりと笑いそうだったが、今日はそうではない。至極、神妙なもので、表情を変えずに妻に告げる。
「葉月。行ってこい。飛べる準備はすべて俺と雅臣君で整えておいた」
「なに言ってるの。飛べるわけないでしょう!!」
 御園艦長が憤りながら、デスクに手をついて立ち上がる。
「どうして私が飛ばなければならないの!」
「未練なく艦を降りて欲しいからだ」
 静かな眼鏡の眼差しで、御園大佐は答える。いつものからかいもおちょくりもナシ。今日は夫としても大佐としても『ミセス准将のために真剣』だった。
「未練なんて……」
「ないならいい。最後に空と海と、おまえがすべてを賭けて護った海域を上空から見てこい。『見納め』だ。俺はそれが必要だと考えた」
 そしてあの御園大佐が、いまにも泣きそうに頬を歪め、眼差しを伏せ続けた。
「これが、最後に貴女に贈れる『花道』です。行ってください」
 夫だからこそそれを願って奔走したはずなのに。最後、そこで御園大佐は夫ではなく『澤村』という部下の姿で御園准将に頭を下げた。
「俺からもお願いします。俺も葉月さんにもう一度空を見て欲しいです」
 俺をここまで戻してくれた貴女だから。
 雅臣のその言葉に、心優も夫と共にここまできた道のりを思い出してしまう。その雅臣の想いが心優にもわかる。だから心優もデスクを立つ。
「わたしからもお願いします。おこがましいのですが、わたしにも見せてください。艦長と一緒に護った海域を最後にわたしにも」
 光太も立った。
「俺もお願いします。最初で最後の航海だと思いますので、自分もどんな海域だったのか見てみたいです」
 若い護衛官ふたりに頭を下げられると、御園艦長は少し表情を和らげ、すとんと椅子に座ってしまった。
 まだどうにも思い切れない様子で、デスクに肘を突いて栗毛をかき上げながら項垂れている。唸っている。
「静かに去りたかったんだけど……」
 御園大佐がまた部下の顔で答える。
「准将はそうお考えだと思っていました。ですが、その心の奥に別れがたい『青色』があるのではと感じています」
「別れがたい、青……」
 こんな時に夫と妻が通じるような些細な言葉と会話。
「戦闘機のコックピットなんてもう、二十年も離れているのよ。しかも英太の操縦? 勘弁して」
「英太はもうその気ですよ。雷神に転属してきた時は『葉月さんが操縦するホーネットと一緒に飛びたい』と切実に願っていただろう。それは無理だと理解して諦めた。でも、自分の操縦するホワイトで飛べるならとその気になっている」
「それってもう駄目じゃない。断ったら、英太が暴れて面倒くさいことになるじゃない。ひどい、そこまで追い込む形でいま報告するなんて」
「英太はもうそこまでガキではない。葉月さんの気持ちに従うと言っている。それにおまえ、一年に一回は適正検査をしていただろう」
「それは……」
「わかっている。エルミネートになるとわかっていて、でも、もしかすると緊急時になにかしらの『操縦』が必要になるかもしれない。そういう密かな準備をしているとわかっていた。後部座席に乗るぐらいの準備はしていただろう」
 そこで御園大佐が脇に抱えていた書類数枚を、艦長デスクに並べた。
「飛行計画、そして御園葉月准将が受けていた適正訓練の記録証明、総司令部からの許可書だ」
 すべてが整っていた。これを御園大佐は奥様に内緒で準備していたのだった。適正訓練の証明は心優が小笠原のラングラー中佐に、ボス御園准将の職務履歴などの確認をお願いして証明書の手続きをしてもらった。御園大佐が『秘書室の者でないと……』と心優に依頼したのはこのこと。艦長に知られないよう嘘をつけるか。旦那様が密かに準備しようとしている『花道』だったから、心優もボスには内緒で手配したのはこれだった。
「総司令部が……許可してくれたの? しかも……」
 今回の飛行許可をするという書類を手にした御園准将が、最後に見えるサインを見て黙ってしまう。
「海東司令と夏目総司令のお二人がサインしてくれた。誰も文句は言えないだろう。これでも行かないと言うのか」
 先日、自分の判断で迷惑と負担を掛けたばかりの上官ふたりの名が出て、さすがにミセス艦長も考えあぐねている。
 そんな妻に御園大佐がもうひと押し。
「総司令部をまとめている中将だからひと言も言わないが、海東君は言っていた。『ほんとうは御園准将がすべてを投げ打った判断は正しかったと思っているはず。以上に、外すことになったことさえ心を痛めているはず。だからこそ、最後の海と空を元パイロットである中将も、そして上官である司令官の自分も贈りたい。これはそんな気持ちの許可だ』。そう言っていた。今回の判断でおまえは退くという処分となり、決して評価はされない。だからこその、夏目さんからのご褒美だと思わないか」
 決して評価はできない実績。被害を最小限に抑えたものの、指揮官としては痛手だけが残る結果。だからこそ……、最後に……。そんな夏目中将の気持ちを、ミセス艦長は受け取ってくれるのか。
「わかったわ。でも、気持ち以上に身体の問題……考えさせて」
 それだけいうと、ミセス艦長はデスクから離れ、ベッドルームへ向かうドアへと消えてしまった。項垂れて思い悩む様は意外であって、気持ちが酷く揺れているのが心優にも見て取れた。
 御園大佐が溜め息をつく。
「身体の問題か……」
 そういわれたら言い返せないとやるせなさそうだった。
 そして隣で黙って見守っていた雅臣を、眼鏡の大佐が見上げる。
「そういうもんなのかな。雅臣君もそうだった? 小笠原では軽飛行機を操縦する時も、俺が隣に乗っていても急旋回なんか平気で葉月はやっちゃうんだけれどな」
「俺も数年ぶりだったので不安でしたよ。特に耐Gですよね、耐えうる体力であるのかどうか。それと俺の場合は操縦を覚えているかどうかです。操縦方法や順序ではなく、『感覚』が残っているかどうかという意味で、コックピットに乗ってみないとわからないものでしたからね」
「浜松基地の石黒さんからも聞いているけれど、コックピットで操縦していた者は覚えているもんだと言っていたよ」
「そうでしたね。ですが、葉月さんは二十年です。操縦はしないと言っても、エース級の男が操縦する新型戦闘機に乗るわけですから、自分が戦闘機乗りだった頃とは違う。まして自分の身体は女であるとなれば躊躇うと思います」
 心優も不安になってきた。葉月さん行かないと言うかもしれない。もちろん、それが本人の気持ちならば、それを尊重するべきだとは思っている。
 それでも御園大佐が少しだけ笑って、艦長デスクにそのままになっている書類の一枚を取り上げた。それは『いつ、ここを飛ぶ』と示す飛行計画だった。
「でもさ。これはちょっと無視できないと思うんだ。これもじいっと見ていただろう」
 雅臣もにんまりと、勝ち誇ったように微笑み返している。
「気がついたんでしょうね。ということは、さすが旦那様。奥様が胸の内でくすぶらせているお気持ち、当たっていたということですね」
「絶対にその気になると思うんだ。少し時間がかかりそうだけれど、三日後までには心を決めてくれるだろう」
 心優と光太は一緒に首を傾げるだけ。まるで、その飛行計画が『ミセス准将をおびき寄せる餌』みたいに大佐殿ふたりが笑っている。
 いったいどういうつもりの『餌』なのか?
「その時の艦の指揮は、全面的責任のため俺が執る。でも、雅臣君は英太のコントロールと通常の飛行指揮を頼むな」
「もちろんですよ。御園大佐の読みが当たると良いですね」
 今度こそ、御園大佐がいつもの胡散臭いにんまり笑顔を見せた。
「きっとそうなる。そうでなければ、こんなこと起きもしなかっただろう。オトシマエつけておこうじゃないか」
 落とし前ってなに!? 心優は途端に恐ろしくなってきた。本当に御園艦長のための『お空の散歩』なわけ? 加担しちゃったけれど大丈夫?
 やはりこの眼鏡の大佐は怖いと、久しぶりに震えてしまった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 御園准将の気持ちが固まった。
 『わかった。空に行く』だった。

 その日の午後は晴天。雲ひとつない、穏やかな冬の青空。
 その人は、白い飛行服を着込んだその身体に、慣れた手つきで耐Gスーツを装着する。
 やはりパイロットだったんだなあと、側で見送ろうと甲板にいる心優は眺めていた。
 その隣で、光太が指令室の広報用カメラを持ってシャッターを切っている。
「光太、こんなところ撮らなくて良いから」
「どうしてですか! ティンクが空に行くんですよ。在りし日の姿かと思うと、俺、感激です! 俺、准将とコリンズ大佐が航空祭でしたコークスクリューのDVD持っているんですからね!」
「もう、撮るのはいいけど。広報に見せないでよ」
 光太が黙って、でもにこにこしながらシャッターを押す。返事をしなかったということは、『俺、知りません』という意味なのか。御園大佐や雅臣のそばにいて、光太もますます准将の扱いが上手くなったような気がしてきた。
 耐Gスーツを纏う栗毛の女性が甲板を歩き始める。『いってらっしゃい、艦長!』、『懐かしいです、艦長』と甲板要員たちも見送りの声を掛けてくれる。
 目の前には白い戦闘機、翼の縁にはネイビーライン。尾翼には白昼の稲妻。機体番号は『7』。緑ジャケットの甲板要員たちが機体下に数名が集まり、カタパルトシャトルに車輪を固定する作業をしている。
 ついに耐Gスーツを身につけた御園准将が、コックピットへ。梯子に手を掛けた。
「いってらっしゃいませ、御園艦長」
 心優は敬礼をして見送る。光太もカメラ片手に敬礼をする。
「届けるわ。あなたたちと一緒に護った海域を」
 御園艦長が敬礼をしてくれる。
 彼女が梯子を見上げる。少し躊躇っているように見えた。二十年ぶりの戦闘機コックピット、そして空。軽飛行機で飛ぶ空とは違うことは、ファイターパイロットだったこの方がいちばんよくわかっているからなのだろう。
 でもそのコックピットではもう、鈴木少佐が待ちかまえていた。
『艦長、時間が来ます』
「わかってる。いま行く」
 管制からも甲板の着艦離艦スケジュールどおりにして欲しいための催促がきた。
「葉月さん、行くよ」
 既にコックピットに乗り込んでいる鈴木少佐も、梯子の下にいる姉貴を呼んだ。
 御園准将が梯子を登っていく。その後に機体整備士がついていく。後部座席に座るとサポートの整備士が御園准将にシートのベルトを装着し各装備への接続をセッティングしている。
 最後に光太が梯子にいる整備士にデジタルカメラを預け、准将に渡すように頼む。
「それで俺と心優さんに空と海を見せてくださいね! 撮影ボタン押してください。きちんと映像送信できるか確認します」
 光太が下からコックピットへと叫んだ。
「ラジャー。このボタンって教わったんだけれど」
 御園准将がデジカメのボタンを押す。光太が手元に準備していたタブレットにその映像が無事に送信されているのを確認。
「准将、OKです! 楽しみに待ってます!」
「うん、わかった。待っていてね!」
 と、デジカメ本体をひゅっと勢いよくミセス准将が持ち上げる。その途端に、ぷちとした音。タブレットの映像も真っ暗になる。
「うわわわわ、そんな勢いよく引っ張ったらダメですよ。准将ったら。整備さん、お願いします! 准将がデジカメの送信ライン外しちゃいました」
 梯子を降りようとしていた整備士さんが苦笑いをしながら、また梯子をあがって後部座席でラインを再接続してくれる。
「ええっと、このボタンが電源で。これがズーム……」
 また高い位置に持ち上げてカメラを確認しているので、隣で光太がハラハラしている。
「もう〜、ホーネットを操縦していたくせに。なんで家電に弱いんだよー」
 まだキャノピーが開いたままのコックピットを見上げて、心優はくすくすと笑ってしまう。
「ほんとうだね。でも、リラックスして搭乗できたみたいでよかった。ほら、アイスドールの顔ではないもの」
「うん、あれは俺達と横須賀で素で過ごしていた時のお顔ですね」
 ようやっとヘルメットを装着したミセス艦長へと、また光太がレンズを向けてシャッターを切る。
「英太、OKよ」
「ラジャー、では行こう。ようやっと葉月さんと同じ空――か」
「私もまさか英太の後ろに乗れるとは思わなかったわよ。もうループ回転の6Gでも無理だから、9Gとか絶対にしないでよ。悪戯しないでよ!」
「わかってるよ。葉月さんが男みたいな姉さんでも、一応女性ってことだし、胸を負傷したことあるんだから、んなことしないっつーの」
「男みたいってなに」
「自覚しているだろ。いっつも周りの男達びびらせてるくせに」
「ムカツクわね。フレディのスプリンターに乗れば良かったかもっ。絶対にレディファーストで優しくしてくれるもの!」
 すっかり姉貴と弟分のやりとりになっているうえに、あのミセス准将が弟分にムキになっている。でも今日はもうそれでいいのではないかと心優は思う。
 整備士が甲板へ降りてきて、梯子が外される。ついにキャノピーが閉まる。
 甲板要員の合図で白い戦闘機にエンジンがかかる。真っ赤に燃える噴射口。そして翼のフラップ動作確認。すべて甲板要員との手合図、コマンドサインで順次確認作業が流れていく。
 カタパルトシャトルの確認をしていた緑ジャケットの甲板要員が戦闘機の下から散っていく。
 心優と光太は許可を得て、黄色ジャケットの航空機誘導士官が担当する『カタパルト・シューター』の隣へと移動する。
 黄ジャケットの航空機誘導士官と鈴木少佐がコマンドサインで確認を取っている。そして心優と光太のヘッドギアには管制室とコックピットの通信が聞こえる。
 発射準備のすべてが整った。
『ティンクを上空へ連れて行きます』
 鈴木少佐がこちらに向けて、敬礼とグッジョブサインを見せてくれる。
 後部座席にいるミセス准将も敬礼をしてくれている。
『行ってくる』
 心優と光太は身をかがめながらも敬礼を返し『いってらっしゃいませ』と騒音の中でも叫んだ。
 心優の隣にいるカタパルト・シューターの隊員が戦闘機から放たれる激しい気流に耐えながら、低い姿勢で跪き、ついに甲板尖端、青い海へと向けて腕を伸ばす。
『GO、Launch!』
 カタパルトシャトルがガタンと音を立てると、スチームカタパルトの白い蒸気を蹴散らすようにして、瞬く間に白い戦闘機が甲板を走り出す。
 その速さ、機体の轟音、気流の激しさに心優は目をつむってしまいそうになる。でも必死に海へと目を開けて、真っ赤に燃える噴射口のバレット機を見送る。
 ゴウとエンジン音を唸らせ、稲妻のように空へ――。
 晴天の青空に、真っ白な戦闘機の尖端もまばゆく輝いている。
 鈴木少佐のバレット機はあっという間に甲板尖端から離艦、機首を上げ上空へ向かっていく。
「うっわー、やっぱネイビーホワイトは綺麗だなあ。白鷺みたいだ!」
 雲も少ない青空の中、真っ白な戦闘機が上昇していく。それは本当に白い水鳥がまっすぐに空へ上っていく姿そのもの。光太がカメラレンズを向けシャッターを押す。
 そのあとすぐ、隣のカタパルトからバレット機の相棒、クライトン少佐のスプリンターも後を追って離艦していく。
 上空で二機が並び、遠い空へと姿を消した。
 ミセス艦長はいま空の上。戦闘機コックピットの中でなにを想い、なにをその目に映しているのだろう。
「大丈夫かしら、葉月さん」
 いまになって心優はちょっと心配になる。若い時の身体と二十年経った女性の身体の違いでの戦闘機搭乗は大丈夫だったのだろうかと。
「管制室に戻りましょう、心優さん。映像を送ってくれるはずですし、通信も出来ますから」
 カタパルトシューターの隊員にお礼をして、二人一緒に管制室に戻った。
 急いで戻る途中、心優は違う気持ちが湧き上がっていた。
 御園大佐が提出した飛行計画。あれが奥様のためになるのかならないのか。また夫が出した飛行計画の意味をわかって躊躇っていたコックピットに搭乗した葉月さんがどうするのか。
 管制室へ戻ると、指揮カウンターのモニターには、ヘッドセットをしている御園大佐と雅臣が並んでいた。
「お疲れ様。いい写真は撮れたか」
 眼鏡の大佐へと、光太がさっそく撮れた写真をカメラのディスプレイに表示させて見せた。
「なんだ、楽しそうな顔をしているな。良かった」
 写真に映る奥様のその様子だけで、御園大佐が優しい眼差しを見せた。
「しかし、どうなるかな。雅臣君、ちょっと構えておこうか」
「イエッサー。そのつもりで、甲板にスコーピオンとドラゴンフライを控えさせています」
 ふたりの大佐はじっとレーダーを見つめている。
 暫くして御園大佐から、上空のバレット機へと話しかけた。
「ティンク、久しぶりのコックピットはどうかな」
 ザザと無線の雑音が聞こえたその向こうから『大丈夫、快適』という声が聞こえてきた。
「御園大佐、艦長から映像が送られてきました」
 官制員の報告に御園大佐が『モニターへ』と指示をする。
 御園大佐と雅臣が見ている管理モニターに映し出されたのは、珊瑚礁の海。そして島――。心優と光太は『小笠原みたいに綺麗、でも広大』と感動する。
 雅臣がそんな二人に言う。
「まだまだ、石垣、与那国あたりの上空から見える海の色合いは、任務で飛行していたとはいえ、素晴らしく感動できるものだよ」
 夫の大佐殿も現役時代には任務に当たったことがある海域。心優はますます見たくなってくる。
 そして雅臣のシャーマナイトの目がきらめいた。
「だからこそ。護らなくてはと思う。きっと葉月さんもそれが頭にあって、艦乗りになっても必死だったんだと思うよ」
 その海域をパイロットではない自分達も上空から見たい。それがもうすぐ叶う。しかし、その前に……。
「近づいてきたな」
 御園大佐がふっと意味深な笑みを見せる。
 雅臣はもう真剣な顔つきになっていて、青い珊瑚礁ではなくレーダーを見ている。
 そして。心優と光太も構えている。『御園大佐が空のお散歩、艦を去る貴女への花道』としてここまで奥様を見送ったのはどうしてかわかっているから。
 レーダーに点が出現する。
「御園大佐、来ましたよ」
「来たか」
 管制員も忙しくなる。
「与那国、尖閣沖、ADIZに不明機確認」
「横須賀中央指令センターより、スクランブル指令」
 緊急発進、スクランブルの指令が久しぶりにこの艦に来た。なのに、御園大佐が勝ち誇った笑みを見せている。
「お願いしたとおりにこっちに回してくれたな。海東司令に感謝だな」
 なにもかも『根回し済み』の、旦那様の作戦開始だった。
「絶対に王子だ。葉月に会いに来ているんだ」
 再度、妻のミセス准将と王子が接近する。
 管制室にも緊張が走る。
 今度はコックピットとコックピットという至近距離の上空。どうなる。
 これが御園大佐が艦を去る妻のために準備していた『花道』。

 

 

 

 

Update/2017.12.20
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