◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 30. パパは大丈夫 

 

 お、お父さん? ど、どういうこと!? 男性隊員たちも『うそだろ、これから毎回、大魔神の訓練!』と恐れおののいている。
 そのざわめきも振りきって、後藤中佐が続ける。
「そして。フランク大尉。シドのご帰還だ。任務負傷、入院の後、横須賀でリハビリをしていたが、本日から小笠原での業務に復帰だ!」
 それには男性隊員たちが『わっ』と湧いた。特に前列にいる金原隊長配下の警備隊員たちが、すぐにシドを取り囲んでしまう。
 心優もこの日が彼と久しぶりに会う日だった。沖縄の医療センターに入院して後、横須賀基地医療センターに転院。その時に一度だけ雅臣と一緒にお見舞いに行った。少し痩せてしまったシドが大人しく無口なままで、そばには彼の実母がいたので、あまりいつもの調子で話すことが出来なかった。
 またね。小笠原で待っているよ。横須賀で仕事に来た時も会いに来るね。
 そう伝えたものの、横須賀の医療センターは退院のための転院だったのですぐに退院してしまった。そのあとリハビリのため横須賀の訓練校で少しずつ身体を動かしていると聞いており、心優は彼が五月までには復帰するぐらいにしか知らされず待つしかない日々を送っていた。
 そのシドが父と一緒に小笠原に、しかも護衛部の訓練の時間に一緒に現れた。
 シドが男たちに『おかえり』ともみくちゃにされていたが、後藤中佐が『そこまで』と手を叩いて一蹴。男たちも真顔に戻って、元通りに整列する。
「今後は後藤と園田教官の二名の監督コーチと、城戸中尉の指導も交え訓練を行っていく」
 園田教官からひと言どうぞと後藤中佐が振ると、父が背筋を伸ばし、あの大声を張り上げた。
「大魔神らしく行こうと思う! ひとえに! 諸君が無事に帰還するのを願ってのことである! よろしく」
 父から敬礼をした。男達も一斉に敬礼をする。しかし心優は『うわー、お父さん、大魔神て自分から言っちゃった』と青ざめる。
 これからずっと大魔神にしごかれると思っただろうが、本当はプロフェッショナルな心意気を持つここの男たちはすぐに理解しただろう。『大魔神に鍛えられれば、任務でなにがあっても乗り越えられる』。大魔神の娘がそうして父親にぶん殴られ投げ飛ばされて、その結果、卑劣な者に打ち勝ち帰還したのだから、俺たちもきっと。そう理解しているはずだった。
 さらに父は、目の前に並んでいる金原部隊の警備隊員にも声を掛けた。
「無事に帰ってきて嬉しかった。厳しい任務だったと聞いている。ご苦労様だった」
 彼等にも再度の敬礼。金原部隊の男たちが凛々しく敬礼を返しても、中にはこみ上げるものがあるのか涙ぐんでいる男性もいた。
「さて。それぐらいにして、さっそく訓練開始とする」
 対戦式の訓練をするグループと、教官が手合わせをするグループ、そして城戸中尉、心優がシミュレーションのじっくり組み手を理解するグループと別れる。
 城戸中尉、お願いします!
 自分より若い護衛官や、先輩である目上の男性隊員もいる。
 でも彼等は心優がゆっくりと見せる技の解説を真剣に聞いてくれる。
「今日は警棒術について解説しようと思います」
 父から教わった警棒術が今回の任務で非常に役立ったことを説明する。
「わたしは一般女性からみると大柄です。ですが海外の男性やここで鍛えている男性と比べるとやはりそこは女性として力も勢いも劣ります」
 だからこその警棒術だと伝える。
「では。ゆっくりとした動きで、どのようにどこを押さえれば、敵の動きを思うように交わせるかやってみましょう」
 若い護衛官を相手に指名する。第一中隊の中隊長付きに新しく入ってきた若い隊員だった。だが初めて秘書室に抜擢されとのことで、その目が向上心に満ちている。
「お願いします」
 彼が敵役をしてくれる。
「まずわたしに拳で向かってきて」
 遠慮せず思いっきり。不安そうな彼の顔をみた途端だった。
 胸奥底からぐっと込みあげてくる。急にむかついて、しかも頭がふらっとしてきて、一気に床に引き込まれるようなだるさに襲われた。
 くらっとして身体がぐらついたのか、目の前の彼が『中尉?』と驚いた顔をしている。
 あれ、どうしちゃったのかな。わたし。だ、大丈夫だよ。すぐなおる……。
 そう言いたかったのに、心優はもう床へとしゃがみこんでいた。
「城戸中尉!」
 指導していた男性隊員たちがびっくりして立ち上がるのが見える。それを手で制して止めたいのに、それもできず、心優は床に横になってしまっていた。
 園田中尉が、城戸中尉が、どうした、なにがあった……。そんな男たちの声が遠く聞こえてくる。
「心優」
 はっきり聞こえた声、その声ではっと我に返ると、心優は黒い戦闘服の男に抱き起こされていた。
 黒い戦闘服の胸に腕に抱えて起こしてくれたのは誰だろう? そっと見上げるとシドだった。
「シド……、おかえり」
「バカ、それは後で聞こうと思ってたんだよ。いま言うなよ」
「すごく気分悪い、吐きそう」
 なにげなく心優がそう言ったら、シドがとてつもなく驚いた顔に固まっている。
 でもおかしなくらい力が入らなくて、だるくて、立ち上がれない。
「どうした。城戸」
 父の声も聞こえていた。
 シドに抱かれたまま、心優は力無く父を見上げる。すごく怒った顔をしている。
「なんだ、生活環境が変わって、体調を崩したなど許さないぞ!」
 娘だからこそ、人一倍厳しくしようと覚悟してきた顔だった。どうしてお父さん小笠原に転属してきたの? それもまだ聞いていないのに。
「そんなたるんだ根性の者は教える立場にならなくとも良い。本日は後藤中佐に鍛えてもらえ!」
 体育会系らしい男の吼える声がびびびとそこら中の空気を震わせ、男たちが恐れている姿も見えている。
 だがそんな父のそばに、ひょいと光太が現れたのが見えた。
「あの、教官。生活環境が変わったからこそ、お嬢様がこうなられているんだと思います」
「はあ? 吉岡。もう一度、言ってみろ!」
「では遠慮無く。お耳を拝借」
 光太が父の耳にこそっとなにかをひと言呟いた。
 そして心優もこの時になって、自分でハッと気がついた。
 まさか、うそ。でも、そういえば……、アレがない!
 心優が気がついたのと同時に、父も驚いた顔でこちらをみていた。その大魔神が真っ赤になって娘を見ている顔ったら……と思ったら、ものすごい形相で父がこちらに走ってきた。
「どけ、シド!」
 娘を大事に抱いてくれているシドが突き飛ばされた、そしてぐったりしている娘を大魔神がぐわっと抱き上げる。
「行くぞ、心優! どうして黙っていた!!!」
 え、お父さん???
 しかし力がでない心優に為す術なし。父に抱き上げられたまま、心優はこの道場から外へと連れ出されようとしていた。
 だが父が入口前にしてはたと我に返り振り返る。
「シド、医務室教えてくれ」
「イエッサー。一緒に行きましょう、親父さん」
 あれ? シドと父が妙に息が合っている?
 光太が後藤中佐とひそひそとなにか話し合っているのも見えた。
 その光太もこちらに走ってきた。
 父とシドのそばに来ると、光太もそっと囁いた。
「後藤中佐も許可してくれました。大事にするようにとのことです。俺は城戸大佐の雷神室に知らせに行きますね」
「わかった。俺は親父さんと一緒に医務室に行く。雷神室の事務の兄さんたちに『ほんとのこと』はまだ言うなよ。倒れただけ言っておけ」
「ラジャー、大尉。……そして、待ってましたよ。お帰りなさい」
 光太がシドに敬礼をする。そんな光太の頭をくしゃっとシドが撫でて『ダイナーに行こうな』と一瞬だけ微笑んだ。
 男三人が心優を囲んで、さっと前に進んでくれる。
「おろして、歩けるって。お父さん」
「だめだ。あんなにふらついて」
「根性なしって怒ってたじゃん」
 こんなお父さんにだっこされた姿を隊員たちに見られたら、また何を噂されるかわかったもんじゃない。
 でも父がいまになって泣きそうな顔で、それを言葉にした。
「馬鹿もん、孫がそこにいるのに無理しろなんて言えるか」
 大魔神の涙だった。
「わたしも、さっき、やっと気がついたんだけれど……」
「はあ? 少しも気がついていなかったのか!」
「さっきのが、初めての吐き気だったんだもん」
 予感していなかったわけではない。いつそうなってもいいように、だから男性との真っ向勝負の組み手は遠慮するようにしていた。後藤中佐にも『子供を望んでいるので、激しい運動は避けます』と相談をして、だから、ゆっくりとシミュレーションの指導をすることになっていた。
 でも、体調の変化がまったく気がついてなかった。急激の変化だったから、心優だって驚いている。
「お父さん、降ろして。わたし、ひとりで医療センターの産科に行ってくるから。そこまでお父さん、娘についてくるの?」
 その姿を思い浮かべてしまったのか、大魔神が娘の妊娠を案じて産科までついてきたとなるのはさすがにどうかと思ってくれたのか降ろしてくれた。
「大丈夫か。また途中で倒れないだろうな」
「俺、ついていきますよ。臣さんが来たら心優を渡しますから」
「それもなあ。雅臣君以外の男となんておかしいだろ」
「俺は気にしません」
「俺が気にする」
 またシドと父が妙に息の合う会話をているので、心優は首を傾げてしまう。
「どっちにしても俺、まだ全開で訓練できないので、お嬢さんがまた途中でふらついて階段から落ちたりしたらどうするんですか」
 父が『うわわ、それはだめだ。絶対だめだ』と頭を抱えた。
「やっぱり父親の俺がついていく。シド、後藤中佐にそう伝えておいてくれ」
「わかりました」
「あー、それから。心優に、話してもいいかな」
 なんのことだろうと心優は首を傾げたが、シドが『いいっすよ』と優しく笑ったのに驚いた。
 あんな顔するんだって……。やっぱり父とシドの間になにかが起きている。
 まだ吐き気がするまま、心優は父の付き添われて歩き始める。
 暫くすると心配そうな父が、どこか躊躇った様子で言いにくそうな顔をしているのに気がついた。
「なに、お父さん。いいたいことあるんでしょ。シドと……話してもいいってなんのこと?」
「あのな、心優」
 どことなくしゅんとしているようで、こんな大魔神は誰にも見せてはいけない気になってしまうほどだった。
「どうしたの」
「実はな、ここ二ヶ月ほど横須賀のアパートでシドと一緒に暮らしていたんだ」
「はあ!? なに、それ!」
「シドが小笠原に帰る前のリハビリに、俺のところでの訓練を望んだんだ。あほか。病み上がりの男を預かるようなやわな部署じゃないと怒ったんだけれどな」
 それがどうして――と心優は呆然とした。あの横須賀の男やもめ独り暮らしの狭いアパートに、男がふたり一緒に住んでいたという。
「まあ、誰かがシドのリハビリ訓練をしてやらねばならないことにはなっていたんだよ。ただ部署違いというのかな。俺のところはもっと差し迫った緊急時を想定した訓練でスピーディーなものになる。ゆっくり体を慣らしてではないんだ」
 その父が『だけど』と呟いた。
「だが。なんだろうな。娘と婿と親しくしている隊員が負傷して帰ってきた。しかも娘をかばって刺されたと聞いた。どんなに大魔神と言われても、家族が関わるとこんなに心が揺れるものなのかと……この歳になって今更ながら弱いところを突かれた」
 娘が特殊部隊所属の男に刺されそうになった。シドがいなければ……。そう思うと父もゾッとしたに違いない。
「教え子が精神を壊して辞めたこともある。違う部署でまだ苦しみながら頑張っているのもいる。そんな若い男たちの行く末をなるべく守りたいと思って、苦い思いを噛みしめて、必ず帰ってくる男たちにしようと育ててきたつもりだ。それでも……、家族はやはり違う……」
「お父さん……」
 あの日。小笠原に転属すると、父に告げた日。父が『やめろ』と怒鳴ったことを思い出す。でも、あの時の心優は――。雅臣と一緒にいるのが苦しくて、ただそれだけの気持ちから逃れたくて。こんな自分が嫌でなんとか先に歩きたくて。心優はあんなに危険な世界が待っているとわからずに飛び込もうとした。いまなら、父が必死に止めようとした気持ちがよくわかる。
 ぼろぼろになって帰還する隊員もいたことだろう。そこで退官した者も見送ってきたのだろう。
 そうして傷ついて帰ってくる男がいる。父にとって今回は『シド』。しかも娘をかばって刺されたと聞いたら、それはもう血の気が引いたことだろう。
「だからな。父さん。小笠原にも横須賀にあるような『任務の記録を確認し、そこからこれからの対策を立て、訓練をする』という部署をもっと強化したいと思うんだ。後藤中佐と一緒にやっていきたい。陸部の武道訓練もここでやってみたくなって、転属願いを出した」
「知らなかった。どうして、教えてくれなかったの」
「決まるかどうかわからなかったしな。シドも最初は寄宿舎で生活しながら横須賀のリハビリ専門の教官がいるところで体力もどしていたんだが……」
 そこで父がちょっと照れた顔で黒髪をかいた。
「なんかな。基地の食堂で一人でメシ食ってる姿を見ていたら、なんとなくな。おまえから話を聞いていたし、つい『俺と一緒に体を戻してみるか』なんて声をかけてしまったんだよ」
「え、お父さんから!? あ、でも……すごく嬉しい。だって、シド本当は……」
「わかってる。寂しそうにしていたよ。本当は小笠原に帰って心優や雅臣君と一緒の毎日を過ごしたかったんだろう。でも動けない身体で帰っても迷惑になるだけ。そんな姿を心優にも見せたくなかったんだろう。心優をかばったんだ。わたしのせいでそんな身体になったんだと、男なら思われたくない。きっとそうだろうとおもってな。父さんもシドには感謝している。娘を身体を盾にして守ってくれたことを」
 大魔神がそんな男気にほだされたということらしい。
 リハビリの訓練教官から父自らシドをひきとったとのことだった。
「そのついでに。むさくるしいアパートでいいなら、一緒に部屋で暮らしてもいいぞ――になってしまったんだよ」
 えー! そこまで行っちゃうってどういうこと? まさかの『父とシドが同棲していた』なんて!
 でも。落ち着くとやっぱり心優にもわかってしまう……。シドは『日本人だったら、心優の父ちゃんみたいな親父のところに生まれたい』と言っていたほどだ。
 そして父も、娘世代の手のかかる息子みたいな気持ちになってしまったんだと思った。
「シド。嬉しかったんじゃないかな。お父さんみたいな親父の息子に憧れていたみたいだから」
「でもな。それがな。あいつ、なんでも出来るんだよ。洗濯もしてくれる。料理もできる。それがまた美味い。掃除もちゃんとしてくれてなー。お父さんが逆に助かってしまった」
 なにしてるのよー! と心優は今度は親友にだめな父を知られたようで恥ずかしくなってきた。
「あいつ、たぶん。なんでもできるように大人たちに厳しく躾られてきたんだな。だから休みの日は少し羽目を外せるように、沼津に海釣りとかに連れていったらすごい喜んでくれた。その時の無邪気な顔、心優に見せたかったよ」
 父がほんとうの父親みたいな優しい顔になった。そして心優には涙が滲む。
 見てみたかった。そんなシドの顔。
「ありがとう……、お父さん。シド……、ほんとうはもっともっと大人たちに甘えたかったんだとずっと思っていたの。ほんとうはフランスのお母様も、お母様と一緒に育ててくれたおじ様たちも、フランクのお父様もお母様もお姉様も大好きなの。でもどうやって甘えていいかわからないままきちゃったみたいで」
「シドも少しだけだが、そんな話をしてくれたもんで。父さんも少しだけでも力になれたらと接してきたつもりだ」
「それで。お父さんの小笠原転属希望が叶ったから、二人一緒に帰ってきたの?」
 すると父がまた黙った。
「どうしたの、お父さん? なにかあったの?」
「あのな、心優」
 うん、なに? 父の顔を心優から覗き込んだ。
 何故かこんな時に父が大魔神のぎょろっとした眼光で心優を直視した。心優もびくっとしてしまう。
「母さんとここに住むことに決めた。おまえ達の新居の向かいに越す予定だからよろしくな」
 はあ!? ここに母と住む!? しかも新居の向かいに越してくる!?
 吐き気がして、それでなくとも力が入らないのに。心優はさらに脱力しそうになってふらっとよろめいてしまった。
「心優!」
 父が支えてくれ、心優は父の胸元につい寄りかかってしまった。
「いろいろ襲ってきて、わけわかんなくなってきた」
 もしかして妊娠!?
 お父さんが小笠原に転属!?
 シドと同棲!?
 お母さんと小笠原に引っ越してくる!?
 しかもお向かい!?
 くらくらしたまま、父の腕に捕まって、心優はなんとか立っている。ほんとうに目が回りそう!
「ど、ど、どうしてそんなことに。相談してくれなかったの」
 すると父がどこか心苦しそうにうつむいた。
「葉月さんの異動で忙しそうだったのと、俺の異動が決まるかどうかわからなかった。ただな、俺もそうだけれど、母さんも心優のそばに行きたいと言っている」
「お母さんが……?」
「やっぱり母親だよ。俺と心優が業務上どうしても伝えられないこと、母さんはなんとなく察している。それに今回はコーストガード襲撃事件は公に報道された。心優が搭乗していた空母が武装漁船に襲撃されそうになったと聞いただけでも気が遠くなったことだろう。その空母がその時に空で対戦していた。その指示をしている艦長の側で娘が護衛している。もう涙を流して新聞を読んで、情報番組も毎日片っ端から確認してテレビの前から離れなかったと武郎が教えてくれた」
 沼津で母と同居している次男兄があの時の母の様子をそう伝えてくれたと聞いて、心優は申し訳ない気持ちになってくる。
「それで母さんも悟ったのだろう。雅臣君の仕事がどれだけの重責あるものか。そして夫のさらなる上官を護衛している娘。そして大佐の妻になる。そばにいてやりたいと強く思ったのだろう。そんなお父さんとお母さんの気持ちが小笠原へとひとつになったんだ」
 でもそこで父が笑って言ってくれる。
「それもあるんだろうけれど。母さん、おまえの新居で庭の手入れをしたり泊まって手伝いをした時、小笠原の空気が気に入ってしまったんだと。心優のそばで、新しい潮の街に住んでみたいってさ」
「そうなの……。ほんとうに、来てくれるの?」
 それは助かると心優だって思っている。それに両親がそばに来たら、これほど心強いことはない。
「沼津で同居している武郎の子供も大きくなったしな。嫁姑が上手くいっていないことはなかったが、母さんはいまは心優のそばで手伝いたいそうなんだ」
 次は沼津の庭にある薔薇を持ってくると言っている。
 父がそっと心優の頭を撫でてくれた。
 あの懐かしい薔薇が心優を包んでくれる日がまた来る。それは父と母がいる場所に匂い、心優にとっては。
 それがやってくるという。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 基地とアメリカキャンプの間にある敷地が医療センター。
 基地隊員と家族の病院でもあって、島民にも利用してもらっている。
 滅多にこないこのセンター、しかも初めての産婦人科。
 そこに行くと、女性ばかりが待合室にいた。それを見た父がやはり『ムリ、帰る』と心優に無理をしないよう釘を刺して退散してしまった。
 IDカードで受付をして、心優はじっと待った。じっと。

 

 医療センターと基地を結ぶ渡り廊下は、島らしい植物に囲まれた自然の道の中を行く。
 潮風にざわめく木々の音。小笠原にはたくさんいる小さなかわいいカタツムリ、大きな南国の葉にちょこんと見える。そして心優が好きな赤やピンクの百日紅が揺れている。
 まだ絶不調、重い足取りで心優はその道を行く。
「心優!」
 その声に心優は顔を上げた。
 渡り廊下の向こう、緑の道を雅臣がものすごい形相で駆けてくる。
「臣さん」
 息を切らして、額には汗が光っていた。空母で訓練中だっただろうに、知らせを聞いてすぐに駆けつけてきてくれたのだろう。
「橘さんが、すぐ、行けって、行かせてくれて……」
 訓練を抜けてきたということらしい。膝に手をついてはあはあと息を切らしている。
 でもすぐに心優の両肩に彼の手が飛びついてきた。
「どうした。訓練でどこか痛めたのか。古傷が再発したとか、それで、もしかして、俺みたいに……俺みたいに、もう護衛が出来ないとか現場に立てないとか、そんなこと……!」
 雅臣がすぐに思いついたのがそれだったらしい。自分がいちばんに活躍している世界を奪われたことがあるから、いま心優はいちばん活躍している居場所を失わないかと自分のことのように心配してくれている。心優にとっていちばん応援してくれる人、旦那さん。お猿さん。すごく泣きそうな顔してくれているから、心優もうっかり涙が浮かんでしまった。
「ううん、違うの」
「だったら、どうして!」
 どうしてこんな切羽詰まったように、心優が倒れたと報せをくれたのだとまだ安心できずに雅臣の顔が強ばったまま。

 

「八週目だって」
え? 雅臣が首を傾げながら、心優を見ている。

心優も涙が出てきた。
「おなかに、あかちゃんいた」

 

 雅臣の膝ががくんと折れ、彼が力が抜けたように跪いてしまったから心優の方が驚いた。
「お、臣さん。大丈夫? えっと、わたし怪我なんかしていないよ。でも、貧血が酷くなっているんだって。だから訓練中に……」
 彼を落ち着かせようといろいろと説明しようとしていたら、雅臣が跪いたままぎゅっと心優に抱きついてきた。
 しかもちょうどおなかの位置、そこに雅臣が顔を埋めて泣いている。心優にもその熱さが伝わってくる。
「臣さん、あの」
 力いっぱい心優に抱きついて泣いていた。
 ほんとうの男泣き。あの臣さんが、頼もしい大佐殿がそんなふうに泣くだなんて予想外だった。

 その雅臣が言った。
「俺、生きていて良かった」
 大袈裟だと思うかもしれない。でも心優にはわかる。
 この前『それぐらいの夢は見て、空を飛んでいた』と彼が言ったから。

 雄々しく空を往くファイターパイロット。
 地上の人々も、現役パイロットでさえも、彼が敬愛している上官たちでさえも、『ソニック』はヒーロー。
 にっこり愛嬌あるお猿の微笑みは誰からも愛される。
 でも。そんな彼の『影』に心優は寄り添ってきた。

 栄光のエースパイロット。
 過酷な空と、他国籍との危険な駆け引きに晒される国防最前線。精神をすり減らしても、対国と空の脅威と戦闘機の操縦桿を握りしめる責務を果たすのは、コックピットのシートに座れた自分達だけしかいない。そうして『生きて還る』ことに必死だった日々もまた、彼等にとっては安息ではない。
 親友の裏切りと、死別。そして、失ったエースの日々。
 前途洋々だったファイターパイロットの道を閉ざされ、願わぬ道を歩み始めたソニック。
 どんな思いで独り、歩んでいたのだろう。心優に出会うまで――。

 消えてなくなりたい日があったはず。
 だから。生きていて良かった。

 心優も涙をこぼしながら、おなかに抱きついている雅臣の頭を抱いた。
「臣さん、パパになるんだよ。良かったね」
 まだ彼が泣いている。こんな大佐殿、誰にも見せたくない。
 でも。心優はそのまま彼を抱く。
 この子がわたし達のところに来てくれたから、もう、パパは大丈夫。
 もう影に囚われないで、輝くソニックのまま、わたし達のところに還ってきてくれるよ。

 そして心優も。
 ママも護っていくからね。あなた達の世界を。

 

 

 

 

Update/2018.1.18
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