◇・◇ お許しください、大佐殿 ◇・◇

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 31. 幸福のツバメ

 

 その日は、真っ青な空。
 新居のゲストルーム、心優の後ろには黒いスーツ姿の男性が恭しい手つきでドレスの裾を広げてくれている。
 その彼が跪いたまま、ふと開いている窓辺へと視線を馳せた。
「こちらのお宅は、花と緑の薫りが素晴らしいですね」
「ありがとうございます。母がガーデニングが趣味で、いま教わりながらわたしも庭を整えているんです」
「薔薇の香りがします」
「沼津の実家の庭に母が植えていたものを分けてもらいました」
 よろしいことですね――と、あのミスターエドが目元をゆるめて微笑んでくれたので、心優はどきりとしてしまう。
「つわりは大丈夫でしょうか。うちの者が介添えしますので、遠慮無くなんでも申してください。彼女はナースとしての資格を持っておりますからご安心を」
 ミスターエドを静かにアシストしている女性も黒いパンツスーツ姿で、でも年齢は心優ぐらいの若い女性だった。
 彼女のほうが、いつもミスターエドが整えている冷たい顔をしている。上司の手前、笑ったりしないのかもしれないけれど。
「よろしくお願いいたします」
「エリーと申します、よろしくお願いいたします」
 黒髪に青い瞳の女性だったが優しい声だったので安心した。

 

 

 妊娠がわかってから、いろいろと状況は一変した。
 いや、いろいろと迷っていた心優だったが、おなかに子供がいると判って、かえって腹を据えた。
 雅臣もそう、御園准将も、御園大佐もそう。彼等が口を揃えた。『出産してから結婚式の準備をしたらいいではないか』と。そうすると一年向こうになってしまう……。
 生まれたベビーちゃんと一緒に結婚式もいいかもと一瞬思った。いや、違う。いまここだ。心優は思い改めた。
 一年先があるようで、そうではないことを、防衛最前線で知った。夫がギリギリのラインで責任ある職務に就くことを嫌と言うほど味わった。そして自分自身も、もしかしたらあそこで自分が殺されていたかもしれない。もしかしたらあそこでバディの光太が死んでいたかもしれない。もしかしたらミセス准将が懲戒免職になっていたかもしれない。そう思うと、同じような日々が必ず続くとは言い難かった。それが心優のいまの現実。
『いいえ、生まれる前に絶対に式を挙げます』
 ぼやっとしていた結婚式へイメージ。だからこそ、伊豆? 沼津? それとも浜松でする? 横浜で? とやりたいことがとっちらかっていた。
 こうしたいという想いと憧れがあるのに、いざ自分がやることになったら、まったくまとまらなかった。だから日程も決められないし、どこから手を付けていいかわからなかった。
 でも、もう迷わない。心優は決めた。
「臣さん、わたし。ここで結婚式をする」
 小笠原でなるべく移動をしない方向性で出来る範囲の結婚式をすることにした。
 雅臣も気にして聞いてくれた。『本島の綺麗な最新の式場でしたかったのではないか』と。花嫁としてやりたいことは譲らず、子供が産まれてからでもいいんだ――と。
 でも心優は首を振る。
「ここでする。そう、ここだったの。わたしたちの青があるところこだもの」
「青……、俺たちの青か」
 『青』と言っただけで、雅臣にもおなじように響くものがあったようだった。
「心優がそれでいいなら、俺もいい。なにより、お腹の子供に負担がかからないことを考えたら俺もそれがいちばんだと思う」
「お父さんとお母さんにも報告しておくね」
「俺も浜松の家族に言っておく。きっと心優が望んだことなら、どのような式でもうちの家族は喜んでくれるし、すっ飛んでくるよ。小笠原に来られるだなんて、また双子が大騒ぎしそうだな」
 帰還した時に約束どおりに、浜松の城戸家が揃って小笠原の港に迎えに来てくれた。会うのはその時以来だった。
 その時は心優の両親も一緒だったため、計らずとも、そこで両家が挨拶をするという形になってしまった。
 なによりも二人の母の泣きようが凄かった。恐らく、自分の息子と娘が乗艦していた空母が国籍不明のテロリストのような武装船に襲われそうになったことが大々的に報道されたからだろう。
 心優の母はもう、心優を見ただけで抱きついて泣いてきたし、あの気丈なゴリ母さんですら、息子ではなくて心優に同じように抱きついてきて、母二人に抱きつかれ心優の方が当惑したほどだった。
 しかも双子ちゃんまで『心優さん、怖くなかった?』、『大丈夫だった? 俺たちすげえ心配していた』と泣きつかれちゃって、後ろにいた雅臣が『俺はどうでもいいんかい』とむくれたりしていた。
 しかし雅臣の場合は男親が案じてくれる。こちらは城戸の義父が『よく護った』と静かに労っただけで、雅臣が制帽のつばで目元を隠したほどきわまったものがあったようだった。心優の父も、娘よりも副艦長を勤め上げた婿をまず労った。『大佐殿、ご苦労様でした。お帰りなさいませ』。婿を上官として敬礼にて迎え入れる。そこで父親同士も挨拶をするという形が既に済んでいた。
 そのため、心優が思い描いていた『食事会』はもうやらなくてもいいのではと、妊娠がわかった後に省略することになった。
 少しずつ家族が繋がっていく階段を踏みしめていくしあわせを感じるのも憧れるし、家族もそれを楽しみにしていたけれど、それ以上に『ベビーちゃんがやってくる』喜びがなによりも勝っていた。
 斜向かいの住宅に住むようになった両親も毎日楽しみにしていて、雅臣が浜松に連絡をしても受話器から大きな声と賑やかな声が聞こえてきた。アサ子母は『ドーリーちゃんだけだと大変だから、私がすぐに小笠原に手伝いに行く!!!』とまた火がつきそうになったが、雅臣がここでも改めて『これから仕事しながら子育てをするだろう心優のために、沼津のご両親が小笠原に移住することになった』と伝えると、これで心優が心おきなく小笠原で働けて子育ても出来るだろうと安心してくれたとのことだった。
 そうして、御園准将と御園大佐にも報告すると、すぐに心優が産休まで無理なく働ける体勢を作ってくれた。こちらもご自分の孫ができるかのように喜んでくれた。特に御園大佐。男親としてのなんたらかんたらを毎日雅臣に語ってくれるらしい。妊婦との過ごし方、赤ちゃんの世話の仕方もすでにレクチャーされているとのことだった。
 その後は、御園家の力を借りて、あっという間に式とお祝いパーティーの準備が進んだ。
 式はアメリカキャンプの教会で。ここでは静かに、立会人の御園夫妻と家族だけで行うことにした。その後はアメリカキャンプの集会場、食堂でパーティーをする予定だった。

 

 ミスターエドが腕時計を確認する。
「それではお時間ですね。キャンプに向かいましょう」
 エリーのエスコートで心優は海辺の新居の外に出た。
 夏の暑い陽射しが肌に突き刺したが、すぐにエリーが真っ白なレエスの日傘を心優にかざしてくれる。
「城戸大佐とご家族は一足先に教会に向かわれています。あ、お父様をお呼びしてきますね」
 斜向かいの家も薔薇が咲き誇り揺れていた。両親の新しい住まい。ミスターエドが呼びに行くと、父が黒いスーツ姿で出てきた。
 ミスターエドが準備してくれた車の前で、白いドレス姿で待っている娘と目が合う。
「心優……」
「お父さん……」
 お互いに言葉に詰まってしまう。父の目にもう涙が浮かんでいるのを見てしまったから、心優も泣きそうになってしまう。泣いたら、メイクが崩れちゃうからと心優もぐっと堪えているところ。
「さあ、行くか」
「お願いします、お父さん。あの、」
 よく言うあれを言ったほうがいいかな……と心優は父を見た。
「今日まで育ててくれてありがとうございました」
 ありきたりだけれど、特に……この前の任務では父の言葉や気持ちに生き方が娘としても、仕事の師匠としても身に沁みた。生きて還ることの尊さと厳しさを教えてもらった。
 だけれど父はふっと笑っているだけ。
「十五になった時に家を出て行ったけれどな。その道を疑わずに心優という娘が世界を目指して出て行った、その日が父さんがいちばん寂しかった日だ。あの日から、おまえはひとりで頑張っていた。その道を失っても、心優、この小笠原に辿り着いたではないか、雅臣君と一緒に。これからも、雅臣君と行くんだ。父さんと母さんは後ろにいる。安心しろ」
 堪えられない涙がひとすじ、ふたすじ流れる。
「ただ、楽な道を選べなかったな。俺も軍人だ。言っておく。夫が現場にいる時は国民が優先だ、家族はその次だ。しかしその国民の中に家族がいる。だから最前線で踏ん張る夫のことを忘れるな」
「はい。私が夫の家を護ります」
 『よし』。父の目元の涙が乾き、黒目が満足そうに輝いた。なのに、どうしたことか、あのミスターエドが目頭をハンカチで押さえていたのでビックリしてしまう。
 嘘でしょ。シドが卵焼きはエドのがいちばんと言った時も涙を流さなかったのに?
 日傘をかざしてくれているエリーが若いながらも、ふっと笑っていた。そして心優の耳元にちらっと囁いてくれる。『実は涙もろい方なんです。心優様のこと気に入ってくださっている証拠。それにもう歳ですしね』なんて、怒られそうなことを言ったのでこれにもびっくりして心優も涙が乾いてしまう。
 海からざっと風が吹いてきて、心優のベールを流した。エリーがなおしてくれる。
「心優様、さあいきましょう」
 ミスターエドの運転でアメリカキャンプをめざす。

 アメリカキャンプに入場して、ミスターエドの車が教会の前に到着する。
 とても静かだった。パーティの時間までは基地の招待客も来ない予定。
 教会の中に入り、式の前に牧師と面会する。これから夫妻として生きていくためのお話を聞いて、それから式に入る。
 その牧師とお話をする小さな部屋の前に、真っ白な正装制服姿の雅臣が待っていた。
 海軍軍人の最高の正装。白と黒の制帽に、金ラインと星がついた黒い肩章。肩からは金モールを提げて、胸元には色とりどりの記章バッジ、白い手袋を握りしめてそこにいる。
「臣さん、お待たせ」
 心優がそう微笑みかけたのに、雅臣はびっくりしたまま固まっていた。
「臣さん……?」
 エリーとミスターエドがすっと会釈をして退いてしまい、姿を消してしまった。
 教会の奥のお部屋の前で、二人きりになる。窓辺にはキャンプの金網フェンス、でも向こうが青い珊瑚礁の海。青い空。窓が開いているからさざ波が聞こえてくる。
 とても静かな静かな窓辺で二人きりになっていた。
「心優、ほんとうに綺麗だ。いや、その、そうだとわかっていたんだけれど、想像以上だ」
「わたしも、自分でびっくりしているの。でも嬉しい。こんな綺麗になれるって思っていなかったから」
 雅臣がそっと近づいてくる。海が見える窓辺で、彼がそっと心優のベールに触れた。
「つわり、大丈夫か」
「うん。コルセットをするんだけれど、緩くしてくれたし、……その、わたし、あまり必要ないって言われた」
「だろ。ドーリーだもんな。うちの母さんが楽しみにしていた。はやくドーリーちゃんのドレス姿見たい見たいて」
「双子ちゃんたちもカメラ持って張りきっていたね」
「ああ、朝から大騒ぎで。心優とお腹の子供に負担がかかったらいけないからと、園田のご両親の新居でお世話になったけれど、賑やかだったらしい。俺たち家族の写真をいっぱい撮ると張りきっているてさ」
「浜松のお父さんも、臣さんに結婚のお祝い持ってきていたね」
 園田の家で宿泊していた雅史義父が、あのゆったりとした調子で息子の新居を訪ねてきた。そして『これお祝いだ』と雅臣にプレゼントを置いていった。
 レコードを聴くプレイヤーと、お父さんの大事なコレクションから何枚かを息子に譲るために選んできたとのことだった。
 だけれど雅臣はすごく驚いていた。『父さんの大事なコレクションだろ。いいのかよ』と、だが義父は『子供に聴かせてやってくれ。祖父ちゃんも祖母ちゃんも父ちゃんもママも聴いて、孫も聴く。また浜松でこの曲知っているーと言って欲しいよ。楽しみたいよ』とのことだった。
 音楽が側に育ってきただろう雅臣が感激して『大事にする』とそのレコードを抱きしめていた。
「変わった父さんだけど、あ、母さんも。よろしくな」
「こちらこそ、大魔神の父は厳しいかもしれないし、母は軍のことは疎いけれど、よろしくね」
「頼もしいお父さんだよ。小笠原で一緒に働けて、すぐ目の前に住んでくれて、留守にする時も心強い。心優のお母さんは家を明るく彩ってくれるし、料理が美味い。毎日楽しみだ」
「私も、雅史お父さんの穏やかで優しくて、でも隠している男らしさ好きだよ。それと、アサ子お母さんのこと大好き。頼もしいお姑さん。アサ子お母さんと一緒に陸にいる家族を守っていくから安心して」
 見つめ合う眼差しが熱く、いますぐキスをしたいけれど、神様に誓う前だからお預け。雅臣がおでこにちょんとだけキスをしてくれた。
「お説教はいらないでしょうかね」
 なかなか部屋に入ってこない新郎新婦を待っていた牧師さんが部屋から出てきていて、窓辺でお互いの家族も大事にすると交わし合っていたふたりを待ちかまえていた。
 式前の牧師様からのお話を聞いて、先に雅臣が式場へと向かった。
 ドレス姿のまま、お話を聞くお部屋のソファーで待っている心優の側にある窓辺からも海。
 わたしたちの『青』、この日にこの『青』が用意されて嬉しかった。きっと忘れない。あの日、御園准将が見せてくれた護るべき『青』も、わたしたちが日常を紡いでいくここの『青』も、わたしたち夫妻の『青』。
「心優様、ご準備整いました。どうぞ」
 介添えでエリーが、白い手袋をしている心優の手をとってエスコートしてくれる。
 教会お堂へ入るそこで、礼服スーツ姿の父が待っていた。
「お父様、お願いいたします」
 心優の白い手が、エリーの手から父へと渡された。
 扉の向こうから、音楽が聞こえてきた。優しいパイプオルガンの音。
 エリーとミスターエドが扉を開けてくれ、心優は父と腕を組んでそこに向かう。
 ドアが開くと、列席には浜松の雅史父、アサ子母、二列目に真知子義姉と夫の史也義兄と、今日は紺のスーツでおめかしした双子ちゃん、雅幸と雅直がぐっと我慢の顔で大人しくしてそこにいる。
 沼津の家族の席には、黒いフォーマルスーツ姿の母と、後方には長男兄とその家族と、次男兄の家族、甥っ子に姪っ子が駆けつけてくれていた。
 そして、祭壇の片隅には、厳かに紺のスーツ姿の御園准将があった。隣には黒いスーツ姿の眼鏡の旦那様もいる。
 ふたりが立会人として控えてくれていた。
 パイプオルガンの音に合わせ、父とゆっくりゆっくりと、白い正装姿の大佐殿のところまで近づいていく。
 家族が見守る中、ついに父のエスコートで心優は雅臣の目の前に辿り着く。
 父の手が、白いサテンの手袋している娘の手を、婿殿へと向けた。
 だが父がそこで雅臣に告げる。
「娘をよろしくとは言わない。娘は大佐の妻になる。その覚悟を持ってお渡ししますよ、大佐殿」
 婿殿ではない。父にとっては婿より以前に大佐殿なんだと、改めて思った。
 父が娘の手を差し出す。その手を、白い手袋をしている雅臣が受け取ってくれた。
 その瞬間、心優も夫を見上げ告げる。
「最前線へ向かう大佐の妻になる覚悟、できています。よろしくお願いします」
 それまで、パイプオルガンの音に合わせて穏やかでしあわせそうだった雅臣の表情も一変する。空母のブリッジで雷神を指揮している時の顔になった。
「前線にいても、この彼女の手は握ったまま行きます。決して離しません。彼女と、そして、皆様、家族の元に必ず帰還します」
 白い手袋の雅臣の手が、大きな手がぎゅっと心優の華奢な手を強く握ってくれる。
「さあ、夫妻の誓いも必要だ」
 父に背を押され、雅臣と腕を組んで祭壇の階段を上りはじめる。
 海軍最高の正装をしている白い夫と、白いドレスの妻が寄り添って神前へ向かう。
 夫の正装は白、心優も軍人ならばおなじ正装はするが、今日このドレスを着て、いま大佐殿と祭壇への階段を上っていて思う。これは妻の最高の正装。華やかに美しくなる日だと憧れていたが違う。この日、最高の気持ちと姿に整えたからこそ忘れてはいけない。この大佐殿と、雅臣という男性のために整えたこの日の気持ちをいつまでもずっと永遠に、彼方まで、この人が海にいる間も保ち続けよう。その儀式だ。
 夫妻の誓いのサインをする時。御園夫妻も祭壇へとサインにやってきてくれた。
 今日は主役の雅臣以外は、軍の正装はしないと隊員達はスーツでくるようにしてくれた。だから御園夫妻もスーツ姿だけれど、シンプルながらもやはりお二人はとても品を漂わせていている。
 ふたりの前でご夫妻がサインをしながら、囁いてくれる。
「おめでとう、雅臣君、園田、いやもう城戸だな。海軍の夫妻になる誓い、聞こえたよ。俺たち夫妻もいることを忘れないように」
 眼鏡の大佐がおめでとうと言いながらサインをしてくれる。
 そしてミセス准将がペンを持つ。
 ミセス准将はそこで少しサインをせずに思い耽っていた。
「どうした。葉月。皆様、お待ちだぞ」
「ごめんなさい。あの、泣きそうで……」
 ペンを握ったままじっとしていたのは涙を堪えていたからだということらしい。
「誓約書、汚しちゃいそうで」
「な、なにやってんだよ。こんな時に……、まったく、」
 基地では誰よりも立派な肩章と胸章をつけて堂々としているミセス准将が、今日はそうしてお嬢様みたいに頼りなげな顔をしていた。
 ほら、俺が拭くからと、彼女の目元を旦那様が押さえているという甲斐甲斐しさの中、御園准将がやっとペンを動かし始める。
「もう、雅臣のことはすごく心配したのよ。もう、ほんとうにソニックのくせに……、」
 またそこで葉月さんがうっと嗚咽を漏らしたから、御園大佐が慌てて目元をハンカチで押さえたり。
「戻ってきたら戻ってきたで生意気で、まだ手がかかると思ったらあっという間に立派な飛行隊指揮官になるし、私のコードミセスやっつけちゃうし……、だから安心して艦から降りてやったわよ。あとを頼んだわよ!」
「おまえ、ここで言う事じゃないだろっ」
 プライベートのお式でまで、基地の上官モードになっている妻にあの御園大佐があたふたしていたが、雅臣は彼女がいっていることがよくわかるようで神妙な面持ちでしっかりと頷いている。
「そして、心優……。私の前に現れてくれてありがとう。貴女がいなくちゃ、私は任務を全うできなかった。おなじ女性、貴女が私を支えてくれたこと忘れない。これからは私が支えるからね。思うままに妻として生きて欲しい」
 心優の目を見つめる琥珀の瞳、涙が溢れていたけれど、ミセス准将ではない……、まるで心優の姉のようで母のような時の優しい眼差しを見せてくれる。でもあのミセス准将が微笑みながら、涙をぽろぽろこぼしてくれているから、つい心優も涙ぐんでしまう。
「御園准将、御園大佐。立ち会いをしてくださってありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」
 雅臣が厳かに礼を述べた側で、心優ももう言葉が出てこなくて、そのまま夫と一緒にお辞儀をした。
 最後、牧師を前に神前に誓う時。
 もう心は決まっている
 白い正装の夫と共に、もうこの日限りの白いドレス姿で心優は雅臣と共に告げる。
「誓います」
 その言葉を揃えた時、心優の目の前にはどうしたことか、あの最前線の海が見えていた。
 何が起きるかわからないことは、心優自身が体験してきたこと。その道を選んだもの同士、海軍大佐の夫とその妻として今日から生きていく。

 

 式が終わると、御園大佐がにやにやしていた。
「覚悟しておけよ〜」
 お先に――と、御園夫妻が先に教会から去っていく。
 ミスターエドとエリーが家族も一緒に外に連れて行ってしまう。
 エリーが介添えにやってくる。
「お外でフラワーシャワーとライスシャワーをいたしますのでどうぞ」
 フラワーシャワーは雅臣と最後のフライト、川崎T-4に登場する時に結婚も決まっていて、上官や同僚たちにやってもらっていた。
 それを家族にしてもらうということらしい。
「双子にいっぱい投げつけられそうだな。気をつけなくちゃな。心優も階段落ちないよう気をつけろよ」
「お米って痛いのかな……。お花だけでいいのにね」
 なんて言いながら、教会の外に出る扉の前に立った。
「では、参りましょう」
 またミスターエドとエリーが扉を開けてくれた。潮風がふたりを包み、目の前には珊瑚礁の海。そして、いっぱいの歓声!
 ソニック、おめでとう!!
 城戸中尉、おめでとうございます!
 教会の階段には家族、その向こうにはスーツ姿の男性にドレスアップをした女性達がいっぱい群がっていた。
 雅臣と一緒にギョッとする。
「え、え、パーティ会場で集合だったよね?」
「ああ、そうだったはず……ていうか、俺の上官たちがそんな大人しいはずないかっ」
 また雅臣が入籍したとき同様に『絶対に橘大佐と御園大佐の仕業』と額を抱えて唸った。
「心優さん、おめでとうございます! めっちゃ綺麗っすよ、めっちゃ綺麗!! うわー、俺、泣けてきた……」
 スーツ姿の男性陣の先頭に、光太がいた。もう泣き崩れて大変で、隣でシドが支えているのも見えてしまう。
 シドも真顔でこちらを見上げている。スーツ姿の彼を初めて見た。きっとエドが上等なものを誂えてくれたのだろう。やはり若い男性隊員の中では、いちばんかっこよく見える。そのシドがじっと心優を見つめてくれている。微笑みもせず、でももう心優ばかりを欲していた思い詰めた熱い眼差しではなかった。そしてシドと雅臣も目があったのを心優は見る。
 そこでふたりが交わしたのは敬礼だった。シドが微笑み、雅臣も笑っている。
「シドも家族と思っていいよな、心優」
「うん。小笠原ではそうして過ごしていきたいね」
 シドは既に園田の家に、父に会いにばかり来て、ついには母が『シド君』と呼ぶようになり、たまに一緒に晩ご飯を食べているとのことだった。
 夕食後、御園家の小さな道場で、父がシドに稽古をつけるのも日常になってきている。
「さあ、待ちきれなかった皆様のところへどうぞ」
 エリーに促され、心優と雅臣が腕を組んで階段を下り始める。短い階段は家族のフラワーシャワーで祝福され、心優は花の匂いに包まれる。
「ライスシャワーの意味がわかってきたぞ……」
 雅臣が構えた。絶対に絶対に橘さんのイタズラだと呟いたその時、階段を下りきった雅臣に向けて、雷神のパイロットたちと橘大佐が両手いっぱいに握りしめていたお米をバシと投げつけてきた。
「おめでとう、ソニック!! これでもくらって、しあわせになりやがれっ」
 黒い礼装姿の橘大佐がお米を散々投げつけると、紺のスーツ姿の鈴木少佐やクライトン少佐のコンビも楽しそうにお米を投げつけてくる。
「くっそ、もう、そんなことだろうと思った!!」
 米が当たれば当たるほどしあわせになるんだと橘大佐が適当なことを言って男性隊員たちを煽って、みんな大好きソニックの男性たちがどんどんお米を投げてくる。
 その楽しそうな様子を見たもんだから、ユキナオの双子ちゃんたちも俺たちも俺たちもと仲間に入って大騒ぎになった。
 心優には女性隊員たちからいっぱいのフラワーシャワーばかり。彼女達も今日は制服ではなくて、めいっぱい綺麗にお洒落をしてきてくれてとても華やいでいた。
 いっぱいの祝福を受けて、最後尾。御園大佐と御園准将がおめでとうと優しく花びらのシャワーをしてくれる。
 だけれど、そこに。紺のディレクターズスーツ姿の眼鏡の男性がひとり。真顔で立っていた。
「ソニック、そして城戸中尉、おめでとう」
 細川連隊長だった。しかも何故か、ヘッドセットをしているし、そこに機材が揃えてあって、同じくブラックスーツ姿のダグラス中佐が苦笑いで待機していた。
 葉月さんが連隊長の隣で呆れている。
「いちばん張りきっていたの、この兄様だから。一度やってみたかったんですって」
 雅臣と一緒に『なんのことですか』と尋ねたら、ふたりの目の前で、細川連隊長がディレクターズスーツ姿で手を空に向けて上げた。
「スタンバイOK、こちらキャンプ教会。目標はソニック」
 目標はソニック? なにやら物騒な指示だと、雅臣と心優が眉をひそめたその瞬間。
 どこからともなく飛行機の轟音が聞こえてきた。
 そこにいる誰もが空を見上げる。教会の屋根、いちばん上の十字架を見上げていたら。六機の戦闘機が飛んできた。
「え、え、あれって……」
 雅臣が驚きで固まっている。そして心優も見覚えある機体に胸がドキドキしてきた。あれはまさか。
「GO、ナウ!」
 連隊長の一声で、教会の十字架の真上で六機が扇状にブレイクする。尾翼には燕と朝日のペイント。
「嘘だろ。マリンスワローだ」
 雅臣が活躍していた飛行隊だった。
「祝いに駆けつけたわけではないからな。『たまたま』ソニックの結婚式の日に、小笠原で訓練することになっていたんだよ」
 いつもは凍った眼差しばかりの細川連隊長が妙に得意げに言うが、その隣で葉月さんが『嘘よ、嘘。頑張って呼び寄せちゃったのよ。自分がこれやりたかったんでしょう』と言うと、お兄様が不機嫌な顔になる。
「長沼君も相原君も、ソニックの結婚式ならば――と、燕の後輩たちもソニックを祝いたくて飛んできてしまったんだよ。なんたって海上の燕だからな」
 よし、もう一回だと、細川連隊長がヘッドセットのマイクに指示をしている。もう一度教会上空へ来て欲しいと。
 雅臣はとても嬉しそうだった。自分が妻と海と家族を護ると誓ったその日に、自分をここまで運んできてくれた海の燕が飛んできてくれたから。
「おい、広報どうした。ソニックと中尉とスワローを映してやれ」
 心優と雅臣の目の前に、広報部の隊員たちがカメラを急いでセッティングしはじめた。
「ほら、撮ってやる。来るぞ」
 連隊長の勧めに甘え、心優と雅臣は見つめ合って微笑む。
「よし、念願だった撮影だ」
 雅臣がドレス姿の心優をざっと抱き上げる。心優ではなく、それを見守っていた女性隊員たちが『きゃあ』と沸きたつ声を揃えた。
 戦闘機の音が近づいてくる。燕が六機飛んできた。
「俺たちの青、そして最高のドーリー、そして俺の燕」
 連隊長のGOの声で、また教会の真上でスワローの六機が扇状にブレイクする。
 大佐殿とわたしの上を燕が通り過ぎていく。青い海と真っ白なわたしたち、そしてマリンスワロー。
「最高だ、心優」
 たくさんの人がいるのに、そこで大佐殿に抱き上げられたまま、ちゅっとキスをされた。
 でも心優も目をつむってそのまま。もう一回、マリンスワローがお祝いに頭上に真っ白なスモークを扇状に描いてくれたことも、 双子ちゃんたちが、スワローだスワローだと騒いで駆け回っていたことも、男性隊員たちにいっぱいお米を投げつけられたことも、女性隊員たちにいっぱい写真を撮られたことも、まったくわからなかった。

 

 夫が白いドレスのわたしを抱き上げている青い写真。
 夫がわたしにキスをした写真もそのとなりに。

 

 

 薔薇の香り、揺れるピンクと白の百日紅。心優は今日も叫ぶ。
「どこにいるの! 翼、光!」
 家中探すが、どこにもいない。
「まさか、どこか遊びにすっとんでいった?」
 息子ふたりが見当たらない。長男六歳、次男四歳。アメリカキャンプの幼稚園に通わせている。やんちゃざかりだった。
 訓練校校長の秘書室の仕事を終え、帰ってきてみればこのありさま。お迎えはお祖母ちゃんかお祖父ちゃん。ママが帰ってくるまで、おばあちゃんのおうちでおやつを食べて待っているようにいっていたのに、母がちょっと目を離した隙にいなくなったのとのことだった。
 自宅に戻ってきているのかと思えば、やはりいない。
 庭にでるリビングの窓を開けるが、やはりいない。
「もういくら島の田舎だからって、まだ六歳と四歳だから目を離さないでと言っているのに……」
 城戸家の血が濃いのか、あのユキナオ双子ちゃんに勝るやんちゃさで、心優は毎日目を回している。
 しかし目星はついた。きっとあそこだ。
 案の定、庭先の道の向こうから、息子たちの声が聞こえてきた。そしてふたりを連れている黒髪の女性が一緒にいる。
「もうだめでしょ。ママが帰ってくる時間でしょう」
「ねえ、アンナ。アンナが食べていたチョコ、もっとほしいよ」
「アンナ、ピアノききたい。アンナの絵本もっと見せてよ。カイト兄ちゃんの飛行機の本もみたいよー」
 息子ふたりが、綺麗なお姉さんにまとわりついて歩いている。
 心優は慌てて庭から舗装されたアスファルトの小路に出る。
「杏奈ちゃん、今日も? ごめんなさい」
 艶やかな黒髪の彼女がしとやかに微笑む。そこに花の匂いがこぼれるようだった。
「ううん。いいの。どこかに行っちゃうより、うちに来ていたほうがいいでしょう」
「本当に毎日毎日、ごめんなさい」
「毎日、家にいるからいいのよ。気にしないで心優さん。それより、負けちゃってチョコレートをあげちゃったの……」
「こちらこそ、我が侭ばかりだったでしょう。こら、翼、光! お姉ちゃんはおうちでお仕事をしているのだから邪魔をしちゃだめって何度言えば!!」
 こええ、ママが魔神になったと言い始めたので、心優はまた血が上る。
 息子ふたりが着ているポロシャツの首根っこをひっつかんだ。
「こっち来なさい。祖父ちゃんのところに行こうか」
「うわー、ごめんなさい。ごめんなさい」
「だいまじんじいちゃんのところは、いやー。ごめんなさいいいい」
 心優はそこでようやっと力を緩める。なんだかずっと前にどこかでみた光景だと毎回思う。ゴリ祖母ちゃんならぬ、大魔神祖父ちゃんが誕生していた。
 あの後、心優は男の子を二人出産。この六年、子育てに追われつつ、御園葉月校長の秘書室、側近護衛官として務めていた。
「心優さん。今日も母は遅くなりそうですか」
「ううん。一時間ほど残業したら帰ってくると思うよ。杏奈ちゃんと晩ご飯のお当番だって楽しみにしていたから」
「わかりました。あの、ほんとうに毎日でも大丈夫ですからね」
「ありがとう。助かります」
 御園家はいま長男の海人が家を出てパイロットの訓練に励んでいる。その替わりに、どうしたことか音楽留学をしていた杏奈がフランスから小笠原に帰ってきて一緒に過ごしている。
 たまに本島に出向いて演奏の仕事をしているようだったが、今は小笠原で過ごしたいと音楽を作りながら暮らしているとのことだった。
 夕方になり、いつも開け放している庭の窓辺にその男が現れた。
「うーっす。翼と光いるかー」
 金髪の制服姿の男が、庭先で革靴を脱いで、遠慮もなしに上がり込んできた。
「おかえり、シド。翼と光なら稽古しているよ」
「よっしゃ。俺も行ってくるか」
「あんまりしごかないでよ」
「なんだよ。チビの内から仕込んでおかないと、特に翼、あいつ絶対に魔神祖父ちゃんやおまえみたいなファイターになれるはずだから」
「だから、まだそこまでしなくても……」
 上がり込んできたと思ったのに、もう窓辺にシドの姿はなかった。
 道場から元気な声が聞こえてくる。
 毎日、園田の父とシドの稽古も続いていて、最近は息子たちも稽古を始めるようになった。
 シドが言うとおりだった。心優の目からみても、長男の翼は体格も良く、筋がある。きっと父もそう思って稽古をしているはず。長男本人も感じるものがあるのか、お祖父ちゃんやシドみたいになりたいと稽古に励んでいる。
 薔薇の薫りがする庭、そのウッドデッキに心優は立つ。
 結婚して七年が経っていた。大佐殿は艦長を務めるようになり、御園准将は少将に昇格。いまはミセス校長と呼ばれている。
 お祖父ちゃんと、シド兄と、子供達が稽古をしている間に、心優ママは夕食の支度。
 今日はお魚をフライにしよう。
 そう思って、買ってきた魚をまな板に置いた瞬間だった。
「うっ」
 急に胸がむかついた。そして、いつか味わった目眩。
 キッチン台に手をついたまま、心優は床にへたれこんでいく。
 嘘、気が遠くなる。どうして? 翼の時はこんなんじゃなかった。
 いや、どうして? 臣さん、どこ? 早く帰ってきて!
 そのまま目の前が真っ暗になった。

 

 

 

 

Update/2018.2.5
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