4.黒猫ウォッチ

 

 『おじちゃん……。誰? 葉月ちゃんの知り合い?』

 

 同じ目線でジッと真一を見つめる…サングラスの奥の瞳。

その瞳だけがそっと…和らいだように真一には見えた。

彼が葉月の知り合いと思ったのは…細長い身体だが、

手が大きくて…肩ががっしりしていて…首もしっかり太くて…。

右京のような『芸術家肌』の体型ではない、軍人系の体型だったからだ。

すると彼がちょっとだけ口元を緩めた。

そして…転んだ真一の小さな腕を黒い革手袋の手で取る。

『お?解るのか?軍人だって…。』

そう言って彼がにこりと少しだけ微笑みながらくれた物…。

『御園大尉からの言づてだ。ふてくされずに頑張れって言っていたぞ。』

小学生の真一にはちょっとまだ大きい…黒いダイバーウォッチ。

そして彼は、『他の人には絶対内緒だぞ…』と、

黒い革手袋をした手でシー…と口元に長い指を一本立てる。

『…………』

真にしっかり・しつけられていた真一としては

葉月の名を語ったとしても、知らない人から物を貰うことには戸惑いがある。

でも…

『あ・かわいい…』

ダイバーウォッチの隅っこにニコニコした黒猫がデジタルで点滅していた。

『だろ?』

『葉月ちゃん…が?』

『………』

真一の問いに彼は何も答えずに、そのままスッと立ち上がった。

真一の首が後ろに倒れきってしまうくらい背が高い。

谷村のお祖父ちゃんよりも…右京よりも高かった。

『じゃぁな。ボウズ…早く帰れよ』

彼はそう言って…現れたときの冷たい無表情になってそっと夕闇の中消えていった…。

まだ、夜は冷たい風…。

真一はひとり…彼の背中が公園の外の道路に消えてゆくのを眺めるだけだった。

 

 

 『ただいま……』

ふてくされていた疲れと不思議な人との出会いでグッタリと谷村の家に帰ると…

『シンちゃん!何処に行っていたの?由子おば様と心配して捜しに行くところだったのよ!』

玄関に出てきた女性にビックリした。

『は…葉月ちゃん!』

平日の夜に来るなんて初めてのことだった。

肩まで髪が伸びた制服姿の葉月が心配そうに真一に駆け寄ってくる。

『ど…どうしたの??』

真一がどうしたことかと問いつめると…葉月は急に口ごもりながら答える。

『あ・うん…。ちょっと体調崩して訓練を暫く休んでいるの…。暇だったから…』

葉月が訓練を休むなんて珍しいことだった。

腑に落ちなかったが十歳の真一としては…

『じゃぁ!泊まるの?今日はお泊まり??』

『うん…。でも明日の夕方には帰るけどね?』

それでも嬉しくて靴を脱ぎ飛ばし…葉月の胸元に駆け込んだ。

『………シンちゃん?どうしたのその時計…』

抱き留めてくれた葉月が真一の腕を見て表情を止める…。

『あ…そうだ。御園大尉の言づてって…言ってね?

背が高くて…髪が短い…黒い手袋をしたおじさんがくれたんだ…

誰にも言うなって…言うの。でも?葉月ちゃんの知り合いなんでしょ?』

葉月が頼んで届けさせた物だから彼女には報告をする。

すると…葉月はひどく驚いた顔をして…『シンちゃん!』と、きつく抱きしめられた。

『葉月ちゃん??』

気のせいか…葉月が真一の肩先で泣いているような感じがした。

その上。いつも以上にきつく抱きしめられ…長いこと葉月は離してくれなかった…。

 

その晩の夕食は谷村の家で、葉月と祖父母と一緒に食事をする。

右京は『演奏公演』とかで出張でいなかった。

『…どうした?真一…その時計は…。』

実は…貰ってすぐに気に入ってしまったのだ。

葉月も何も言わないから腕にしたまま食事に出ると

宏一がその腕に不釣り合いな時計を見ていぶかしそうに尋ねた…。

すると真一が答える前に葉月がすかさず口を挟んだ。

『中学生になってもつけられる物を…と思って…フランスから取り寄せたんです。

丁度。詳しい隊員がいましたので、彼の出張のついでに頼みました。』

葉月の言葉に、

真一は『ふーん。あのおじさんフランスにお仕事に行ったのか』と

妙に納得をしながら茶碗のご飯を無言でつついた。

『嬉しいがね…葉月ちゃん。うちは真一を普通に育てたいんだよ。』

宏一が急に渋い顔になる。

谷村と御園は仲は良い親戚付き合いをしているが…財力の差はかなりある。

『こんな小さい頃から、高級品に慣れさせては…』

宏一は葉月や右京が真一に何かをくれるといつもこう言って渋々しているのだ。

由子は大人しく夕飯を食べるだけで一切口は挟まないタチだ。

ただし…遠くから来るフロリダの御園祖父母が真一を甘やかすことには

祖父・宏一もあまり口は挟まないようだった。

葉月は、『スミマセン…気を付けます。』と

少し…しょんぼりとうなだれながら宏一のお小言を聞いている。

『僕がほしいって言ったの!葉月ちゃんを怒らないでよ!』

真一がいつも最後にこう言うとお祖父ちゃんはピタリとお説教をやめる。

『シンちゃん…別におじ様怒っているわけじゃないのよ?』

コレも葉月が必ず最後に言う。

それが過ぎると、いつのも仲の良い義理伯父と、義理姪に戻るのだ。

『葉月ちゃん、一杯・私とやるかね?』

『あら。おじ様…私、最近パイロットの兄様方に鍛えられているのよ?』

『まぁ。葉月ちゃんったら…いつの間にか大人の仲間入りね!』

祖父母と葉月がまとまって楽しそうにすると真一もホッとした。

今でこそ…葉月は『中佐…一個中隊の隊長』として祖父母に信頼はされているが

このころは、葉月はまだ。成人したての『力無い娘』として祖父母も見ていたようだった。

祖父がそう小言を言ったからどうかは解らないが…。

この後葉月は、真一と一緒に入る風呂の中でも…一緒に眠るベッドの中でも…

『いい?シンちゃん…。その時計は、まだシンちゃんには大きいから…。

決して大人になるまで付けちゃダメ…。解った??』

と、何度も言い含められた。

その時は、葉月がまた、お祖父ちゃんに叱られたらいけないからと

気には入ったが眺めるだけにして、言い付けられたとおりに机の奥に閉まったのだ。

でも、大きくて黒いスポーティな時計…。

ニコニコの黒猫さんが点滅する時計。

『ふてくされずに頑張れよ』

葉月がそう言っていたと言ったが真一にはそうは思えなかった。

(あの人…本当に小笠原の軍人さんなのかな?)

葉月も知っているようだったが、あの驚き方を見ては真一も疑問が湧く。

そう…初めて疑問を持ったのはこの時だった。

 

 

 そのおじさんが、葉月とは深い知り合い…子供の真一はそう思っていたが、

葉月に彼のことを聞くと妙にぼやかしてハッキリとは答えてくれない。

『あのおじさん…今度何時小笠原に来るの?』

『知らないわ。私も滅多に会わないお仕事をしているみたいだから。

時計を買ってもらうために、お話ししただけ。』

訓練を怠らない葉月が、平日にひょっこりやってきた日に出逢ったおじさん…。

真一の心に深く残る。

『御園大尉の言づてだ』

そう言っていたのに…どうせ鎌倉に来たのなら葉月が持ってくればいいのに…

何故?あのおじさんが持ってきたのか?

葉月にそう聞くと、彼女は困ったような顔をしながらも

『訓練で忙しい予定だったから、早く届けたくておじさんに頼んだの』

としか言わなかった。

つじつまの合わない話が…この頃から多くなったように真一は思っている。

あのおじさんが現れてから、何かが食い違っているような

小さな疑問はやがて幾年かかけて、真一の中で大きく膨らんだ。

その小さな小さな記憶の集まり。

葉月に何度か問いかけたが、彼女はそれ以来彼のことは

『時計を頼んだこと以外は知らない』と言い張り、

『おじさんに頼んだことを誰かに言ったら叱られるから言わないで』と

かなりキツク言い含められた。

葉月のその時の表情は、真一が子供という気遣いをのけた真剣そのものだった。

だから、真一は大好きな葉月の言うことを聞いた。

谷村の祖父母にも、右京にも御園の親戚にも言わなかった。

葉月とおじさんと真一だけの『秘密』

そうゆう事にした。

でも…。

『秘密』にしても、一番知っていそうな葉月が頑として詳しくは教えてくれない。

本当に…ただ、時計を頼んだ面識が少ないおじさんなのかもとも思ったが…。

やっぱり。

『頑張れよ』と…。

無表情なのに仕草や、言葉の暖かみが不思議とあって忘れられなくなっていたのだ。

(フランスね…。遠いところにお仕事に行ったんだモン…当分は逢うことないかも?)

机の引き出しから、時々黒いダイバーウォッチを出しては

ニコニコと点滅するデジタル黒猫を眺める。

その時計を見るたびに、夕闇の中ふてくされていた自分に『頑張れよ』と

短い一言を残してくれた『黒手袋のおじさん』を思い出す。

新しい…頼もしい存在だった。