12.恐怖症

葉月との仕事の折り合いが徐々に付き始めて、

仕事でのパートナーシップが何となく落ちいてきた頃。

隼人はその日も葉月より先に帰宅して、いつも通りテキストに向かっていた。

また十時になって、一回集中力が切れる。

そんなときだった。

『ピンポーン』

隼人は『え??』と眉をひそめて振り返ってしまった。

(山中のお兄さんかな??)

人が訪ねて来るというなら今のところ山中だけだったが…

時間が時間だった。

(まさか…)

静まり返った夜の官舎…。

隼人はもしや…とうとう『彼女』がやって来たのでは??と

そうでないことを祈りながら玄関の覗き窓に目を凝らしてみた。

『!』

隼人はドアを開けようかどうか迷ったが…。

灯りがついているのに出ないわけにも行かず…とうとう…鍵を開けてしまった。

「ごめんなさい。夜遅く…」

栗毛の彼女が…ジーンズに白いシェイプのショートジャケットを来ている姿が

見たことない姿で隼人も戸惑ってしまった。

「どうしたんだよ」

声が、固い自分がやっぱり彼女を拒否しているのが解ったが…。

葉月が手にしていたリュックから何冊かの本を出した。

「今日。シンちゃんが遊びに来ていて。今。寮に送ってきたところなの。

これ…ついでにと思って…『参考書』」

葉月が差し出した分厚い書籍は『英語版』と『日本語版』が混ざっている4冊だった。

「なんだよ。部隊で渡してくれたら良かったのに…」

「そうなんだけど。さっき…。まとまったから…

早く持っていこうと思って…シンちゃんを送れば帰り路だから」

隼人はため息をついてその本を心では有り難く受け取ったが…。

玄関の先から一歩も葉月を入れようとはしなかった。

「付箋…。付けて置いたの。しおりが付いているところ。

隼人さんの回答を見て簡単に書き込んだ所はどの専門用語になるかって解るようにして置いたから」

『え!?』

隼人は受け取った参考書の所々にカラフルな付箋がしおりのように貼り付けてあるのにやっと気が付いた。

「これ…わざわざ??」

「うん。私も復習になったわ。ごめんなさい。照らし合わせるのに一週間以上かかっちゃって」

(それで…すぐには持ってこなかったのか…)

隼人は驚いて急にその本が有り難く重く感じてしまった。

「シンちゃんも手伝ってくれたの。『何ページに貼って』ていうと

大尉に少佐になって欲しいからって頑張ってさっきまで貼ってくれていたの。

それでシンちゃん張りきって…『すぐ大尉に持っていってあげて』ってせかされちゃって…。

今度遊びに来たときにウチにあったら拗ねるでしょ?明日確かめに来たら怖いから」

「え!?真一君まで??」

『うん…そうなの』と葉月が恥ずかしそうにうつむいた。

葉月がしてくれたことももとより…叔母と甥っ子が二人で協力して仕上げてくれたことの方が

より有り難くなってしまって…隼人はとうとう…

「入りなよ…。何か飲んでいく??」と…葉月を中に誘い入れようとしていた。

しかし…隼人が元々願っていたように、葉月は即座に首を振った。

「試験勉強の邪魔になっちゃうし…。まだ他にも参考書あるから整理しておくわ」

「もう…これで充分だよ。なんだよ…。人より残業しているんだからもうゆっくり休めよ」

「別に…。家帰っても…他にすること無いの。書類だって持って帰って整理しているぐらいだから」

「だったら…なおさらだよ。もういいってば。これで…。残業している上に…外に訓練に出ているんだから」

「うん。大丈夫。慣れているから…」

「身体…壊すなよ。」

「うん…」

隼人が親身になって心配するほどに葉月は隼人から目をそらして

恥ずかしそうに微笑んでうつむくばかりだった。

「じゃぁ…。おやすみなさい。隼人さん…。頑張ってね」

やっと顔を上げてくれると…時々見せてくれる小さな女の子の顔がそこにあった。

「勿論…。真一君が手伝ってくれたならなおさらだよ♪」

「それ聞いたら…シンちゃん喜ぶわ。今日も隼人さんのこと散々聞かれたから…。

すごく…気に入ってくれてるみたい…。」

「ますます…頑張らないと…真一君に見限られちゃうな」

「大丈夫よ。隼人さんなら…」

「………」

そこでお互いが沈黙してしまった。

よく考えると葉月と久しぶりの仕事以外での会話だった。

『じゃぁ』と今度こそ葉月が車のキーを手にして背中を向けようとしていたのだが…。

「まって。葉月」

隼人の『葉月呼び』が驚きだったのか葉月がふと振り向いた。

「有り難う。使わせてもらうから…絶対に試験に受かるよ」

隼人は振り向いた葉月を…やっぱり抱きしめていた。

先日も…エレベーターで一瞬だけ抱きしめた。

隼人はその時も思ったが葉月を抱きしめると一瞬身体を強ばらせるのだ。

今もそう…。

葉月は隼人が抱きしめてもただ…棒のように突っ立って硬直しているのだ。

しかし…再会したときのようにすぐに葉月は心を許してその内力を抜いてくれると

隼人は思って…もう一度力を込めて抱きしめた。

その時だった。

葉月が腕を突っぱねて隼人の胸から離れていった。

突然の力で隼人は手に持っていたテキストを落としたし…

葉月は手にしていた車のキーを『チャリン…』とコンクリートの上に落としたのだ。

「ご…ごめんなさい!」

葉月も反射的だったのか、我に返ったように落ちたテキストとキーを拾い上げた。

逆に隼人は地面にひざまずいた葉月を見て茫然としていた。

『ショック』だったのだ。

こんなに拒まれるとは思ってもいなかったのだ。

しかし…隼人はすぐに冷静になることが出来た。

「ごめん。俺もいきなり…」

葉月は隼人の好意をはねのけた気まずさか…目も合わせてくれなかった。

「いいんだよ。気にしなくて…」

隼人もひざまずいて葉月の肩をさすると…

やっと葉月が潤んだような瞳で隼人を見上げてくれたのだ。

「わたし…」

「葉月。解っているから…俺は大丈夫だから。」

久しぶりに葉月の栗毛をそっと撫でると今度は葉月の方から隼人の胸にこつんと頭を当ててきた。

「嫌じゃないの…。」

「解っているよ。」

「嫌いじゃないの…。信じて」

「うん…」

その声が震えていたので…隼人は葉月をいたわるように栗毛を何度も撫でていた。

「夜は冷え込むようになってきたし…。早く帰ってゆっくり休めよ。気を付けて帰れよ」

「うん…」

葉月の冷え切った白い手を取って隼人はそっと彼女を立ち上がらせた。

「会いに来てくれて有り難う。有り難く使わせてもらうから」

隼人がニッコリ…気を取り直して微笑むと葉月も安心したようにやっと微笑み返してくれた。

隼人は葉月をそのまま下まで見送らずに帰した。

一応…階段の踊り場から葉月が赤い車に乗り込むまで見守っていたが

葉月は見送る隼人の方を何度も見上げるのだ。

手を振ってやると遠目だが葉月がニッコリ微笑んでやっと車に乗って去っていった。

(やはり…多少はあるようだな。『恐怖症』)

隼人は…葉月と肌の分かち合いをしたときから何となく『覚悟』はしていたが…。

幼いとき経験した事が彼女を苦しめていることを確信した瞬間だった。

姉が男に虐げられて亡くなったのだから当然の『トラウマ』であろうが

日頃はそんな影は少しもちらつかせない『じゃじゃ馬嬢』だから…確信が出来なかったのだ。

(なんだ。俺が警戒しなくてもアイツの方が警戒心強いジャン)

今まで、葉月との『距離』に散々気を揉んだ日々だったが…

そんなこと…もう心配しなくても良いような気になったし

そんなこと…警戒していた男の自分に呆れたぐらいだった。

でも…

葉月が会いに来てくれたことはやっぱり隼人の心に何か影響を与えていた。

『嫌いじゃないの…信じて』 彼女の切実な声…。 

葉月から『好きよ』とか『愛している』とかはまだ聞いたことがなかった。

そう言う自分もまだ葉月にはそう言ったことはないのだが…。

隼人はそっと葉月の栗毛を撫でた手のひらを見つめた。

懐かしい手触り。忘れたことがない感触。

そして夜空を見つめるとマルセイユよりたくさんの星が煌めいていて

隼人はそっと微笑んでいた。

「おお?すごいなぁ。アイツ…ここまでやってくれたのか??」

隼人は部屋に戻って早速葉月が持ってきてくれた参考書をテキストと照らし合わせた。

葉月はやはり…若くして『中佐』になっただけあると隼人は唸っていた。

第一…。フランスで葉月に貸してもらった『フロリダ特校のテキスト』だって

それは参考になったし、葉月の『勤勉さ』が伺えたから

これだけやってのけることは驚きはしないが…やはり『さすが』としか言いようがなかった。

そこで隼人は時計が23時になっているのに気が付いて手元を止めてふと考え込んだ。

葉月が先程隼人を拒否したことをだ…。

隼人は葉月の肌を抱いて心配していたことが二つある。

一つは…男なら当然のことなのだが…『妊娠』していないかだった…。

『妊娠』しないようにするのがやはり…『礼儀』なのだろうが…

どうゆう事か…恥ずかしながらその余裕がないほどだったのだ。

勿論。葉月もお構いなしのムードだったので『つい…』と言うものだった。

しかし。あれから一ヶ月以上立っているが葉月の身体に変化はなさそうなので

こちらは日本にやってきて、まぁ…もう心配しなくて良いだろうと言うように落ち着いていた。

もう一つは…。

はやり…先程の葉月の『拒絶』だ。

実は…あの西日の中葉月を抱いたとき。

隼人はその時も覚悟はして葉月を抱いたのだが…『感じない』と言うことだった。

覚悟はしていたから驚きはしなかった。

葉月も手が震えていたぐらいだからリラックスしたと言っても

『初めて抱かれる男』にはそれは緊張していたのだろう…。

最初はまったく反応が無くて隼人も躊躇しつつも、男としてそこで慌てるわけには行かず

素知らぬ振りをして葉月を愛してやっと…それらしく反応してくれたのだ。

当然葉月とて…今まで恋人が何人かいたぐらいだから

『男嫌い』でも『男と付き合うことは悪いこと。嫌なこと。』とは思ってはいないのだろう。

隼人は今回のことで思ったが…

葉月に接するには『いきなり』はいけないと確信した。

『がっつく男ほど逃げるからな』

山中の兄さんがそう言っていたことをいまひしひしと肌で感じたほどだ。

葉月には『切り込み方』が必要なようだった。

ただ突っ込んでいくと条件反射のように葉月が拒む。

それが先程の事だったり…エレベーターでの事だったり…。

二回続けて隼人がいきなり切り込んだから葉月が今日は拒絶反応を起こしたようだった。

(ああ。気を付けないとな…。)

隼人は反省をした。しかし…

その…まるでまだ…『少女』のような恥じらいが残っている葉月のそんなところが

実は気に入っていたりしているのだ。

年上のミツコの色気に散々当てられたその反動かも知れないが…。

隼人も何処かしら女性には警戒心が強かったので…

『丁度いいかも』とは思ったが…。

(まさか…このまま拒絶されっぱなしってことはないよな??)

などと…急に不安になったりした。

葉月がフランスで最後に思い詰めたように隼人に身を投げ出してきたのは

やはり…『時間がせかしたから』としか思えなくなってきた。

あんなに警戒心が強い彼女が『鎧』のような制服を自ら脱いでくれたことは

『奇跡』かもしれなかった…。

(今度は脱いでくれるのかな?アイツ)

そう考えてハッとした。

いけない。いけない…と隼人は葉月と久しぶりに接したせいか

急に湧いた『煩悩』を振り払うように頭を振って

彼女とその甥っ子がまとめ上げてくれた参考書に集中力を注いだ。

『お前が泣いて拝み倒すかもな』

またジャンの声が聞こえる…。

『そうかもな。』

他の男に横からかすめ取られないウチに、葉月は俺の女と言えるだろうか??と

隼人はまたため息をこぼしてテキストをほったらかしてしまった夜だった。