・・Ocean Bright・・ ◆黒猫の影◆

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3.黒猫来日

 冷房が効いている広い一室。
 リビングスペースとツインベッドが一室にまとまっている部屋で
 ジュールは毎度の如く、ノートパソコンとにらめっこ。
 重厚な造りの木造デスクで、彼は『相場』をチェックしている所だった。

 

「今、戻ったぞ。ジュール」

 玄関ドアがある短い絨毯廊下の向こうから後輩の声が聞こえてきた。
 ジュールは立ち上がって、振り返った。

「ご苦労。どうだった?」

 緩めていたネクタイをさらに緩めながらジュールは一息ついた。

「ああ……ジュールが言ったとおりになった」

 渋い顔のエドが既にソファーにジャケットを脱いで置こうとしている。
 ジュールも向かい側のソファーに腰をかける。
 持ち込んだエスプレッソメーカーを置いているカウンターに、エドはひとまず向かった。

「ジュールもいるか?」
「そうだな。カフェラテで──」

 エドのそれなりの気遣いに、ジュールもすんなり甘える。
 それにエドが入れるエスプレッソは人に入れてもらうなら最高の味だった。
 簡易コンロに火を入れて、エドは湧くまでそのカウンターに寄りかかって腕を組んだ。

「俺の言ったとおりとは?」

 黙っている後輩にジュールから尋ねてみる。
 すると……彼は黒地に銀色の斜線ストライプが入ったネクタイをフウッと緩め始めた。
 彼はシャツのボタンを外しながら、ジャケットを置いたソファーへと戻ってくる。
 エドは脱いだジャケットを手にしたかと思うと、内ポケットからある物を取りだした。

「突き返された」
「へぇ……」

 ジュールはエドが渋い顔で手にしている『白い箱』を見て、他人事のように眺めた。

「なんだ。ジュールは解っていたのか」
「ま。俺だったら……真一様と同じ気持ちになるだろうな?」

 ジュールはニヤリと微笑みながら、ふんぞり返りつつ足を大きい振りで組む。

「泣いていたよ」
「そうか……。しかし、お前も無理に渡さないなんて初めてだな」

 そこも、ジュールはエドにニヤリと笑いかける。

「うるさいな……」

 エドはプイッとそっぽを向けて、その箱を再びジャケットの奥にしまい込んだ。

「まぁ……俺もお前と同じ事をしたと思うけど?」
「……」

 エドは更に不機嫌になって、簡易コンロへと戻っていく。
 ジュールはそんな後輩の背中をニヤニヤと見つめる。
 先輩の自分の方が、そういうやり口は『上』。
 初体験をしたばかりと突きつけられてエドがむくれているのがありありと伝わってくるから──。

 エスプレッソメーカーの口から湯気が噴き出す。
 コポコポという音が、静かな二人だけのリビングに響いた。
 エドが火を止めて、側にあるカップに器用に注ぎ始める。

「ボスは?」

 エドがジュールに短く尋ねる。

「隣の部屋で子猫と本物の子猫と遊んでいる」

 すると……エドが溜息をついた。

「俺達も30分ほど前に帰ってきたばかりだ──。ボスがこの箱根界隈を車から眺めたいというから、御殿場とか回ってきたところ」
「アリスをここに放って?」

 エドが振り向く。

「ああ。アイツのご不満から逃げるようにね」
「アイツが到着するなり昨夜からずっと寝ているから置いて行かれたと解らないのかな?」
「子猫には通用しないだろう」

 そう……数日前、黒猫ファミリーは日本入りした。
 直ぐにこの箱根に来たわけではない。
 この後も、直ぐに移動だ。
 このホテルはジュール傘下のホテルで、春に純一を泊めたところ。
 今回も『お参り』の拠点として選んだ。

 その前までは、東京にあるこれまたジュール傘下のホテルで過ごしてからの移動。
 東京では、移動で疲れたアリスを休ませる為。
 買い物は少しだけしたが、純一は外には出なかった。

 アリスの買い物には、『マダムの護衛』の様にしてジュールが付き添った。
 だが……一時間もしない内にアリスは『帰る』と言い出した。
 優しいボスが寄り添っていないし、ただ、離れた位置からシークレットサービスの護衛の如く、ジュールが冷たい顔で見守っているだけなのでつまらなかったらしい。
 ジュールとしては、帰ると言いだしてくれて『手間が省けてシメシメ』だったのだが、アリスはそれから不機嫌だった。

 純一は、ホテルの書斎に籠もっていつもの『お仕事』。
 エドはその手伝いに駆け回っている。
 誰も好きなようには遊ばせてくれないし、一番一緒にいて欲しい『ご主人様』が、一向に買い物に付き合ってくれないからだ。
 それからアリスはぶすっとしたまま部屋に籠もっていた。

『トウキョウって印象がなかった!』

 まず彼女の最初の感想──だ。

 箱根へと移動する『理由』をアリスは知らない。
 『行く先をいちいち尋ねるな』と純一に言われている。
 そして、『大事な人の墓参り』とは知らずに、昨夜、箱根入り。
 アリスは数日の『不満』を一生懸命我慢している様子で、昨夜も疲れたのか、食事も取らずに寝てしまう始末。

 朝も『出かける』と純一が声をかけても、拗ねているのか? 本当に寝入っているのか?
 ベッドでシーツにくるまったまま起きあがらないし、返事もなかった。

『丁度いい。置いていく』

 純一はあっさり……、エドもジュールも付き添いに残さずに、アリスを置いていったのだ。

 前回の様に『スイートルーム』は取らなかった。
 直ぐにここも立つ予定だから、広い間を取っているツインを二部屋押さえただけ。
 だが、この後は『房総』へ……またジュール傘下のホテルへと移動する。
 暫くはそこで『色々と計画』をする出発点にするつもりだ。

 置いて行かれてアリスは大変ご立腹であっただろう……。
 純一は帰る前に、まるで彼女を避けるようにして遠回りの帰路をジュールに望んだ。

(さてね……)

 しかし、ジュールの考えは少し違う。
 アリスは拗ねていたのでもなく、眠たかったのでもなく……

(わざと皆が出かけるチャンスを狙っていたとも考えられるな?)

……そう思った。

 そのご主人様がいない間に、彼女は『調べたい事』などもあっただろう?
 何故? この九月に毎年、ご主人様が出かけるのか……。

(ちゃんと起きて付いてくれば……あるいは?)

 純一は連れてくるつもりは半分はあったようだが、迷っていただろう?
 だから、アリスが起きないのを良いことに『丁度いい』と置いていったに違いない。
 もし……連れていったとしても……『古い知り合いの墓参り』ぐらいしかほのめかさず、お参りの間は、アリスはジュールやエド同様に車で待たされていたはずだ。
 でも、付いてくれば、アリスにしかできない『突っ込み』もあったかもしれないが?
 彼女にとっては、訳の解らない行く先よりかは、手元の情報だったのかも知れない。

「ジュール」

 そう考えている内に、手元に……後輩が入れてくれたカフェラテが置かれる。
 ミルクホイッパーで、こんもりと泡立ててくれた白い泡が帽子のようにカップに被っている。
 丁寧にシナモンパウダーも散らしてくれ、ジュール好みに仕上げてくれたようだ。

「うん、美味い」

 一口、口にして礼儀の一言は忘れない。

「サンキュ」

 英国人のエドは気が張っていないときは英語が口に出る。が……普段はフランス語で会話をしていた。

 

「エド……ボスにどう報告するつもりだ」
「まぁ……ジュールのように頑張るさ」

 エドは『どうすればいい?』なんて、先輩には頼ってこなかった。

「そうだな。ひねくれているから心してかかれよ」
「……見ていられない程だった」

 エドはブラックのエスプレッソを一口飲み干すと、陰らせた眼差しで窓辺を見つめている。
 外にはまだ砂埃にぼやけている夏の赤富士がそびえている。

「……やはり、自ら届けに来てくれると期待していたか?」
「ああ……可愛いばかりのお坊ちゃんは卒業という、意志が強い顔をしていた。目つきも……『お嬢様』そっくりで……」
「一年経った……。戸惑いもそろそろ乗り越えて、ご自分なりの意志が強くなっているのだろう?」
「ああ……ジュールが言ったとおりだった」

 そこはエドはグッタリと肩を落として、降参したようだ。
 ジュールも今度は笑わない。

「頑張れよ」
「ああ」

 彼も……『エージェント』の重さを噛みしめたようだ。
 エドなら戸惑いつつも、きっと、やり遂げるとジュールは信じている。
 『ボスの言いなり』でなく『子息』の意志をボスに告げる『役柄』を……。

「それは俺が決めたことだから良いのだけど……」

 エドはさらに肩を落として溜息を深くついている。

「──? 何か? 他に気になる事でも?」

 足を組み、ソファーの背もたれに片腕を乗せながら、ゆったりとカフェラテを味わうジュール。

「……」

 眉間にシワを寄せて黙り込んだエドにジュールは胸騒ぎを覚え、姿勢を正してテーブルにカップを置いた。

「どうした?」

エドはさらに躊躇った後……。

 

「……お嬢様が結婚を決めたらしい」
「──お嬢様が?」

 

 ジュールの背は一瞬、ピッと伸びだが本当に一瞬だった。

「ああ……真一様が教えてくれた。昨夜のことらしい。同居人の男と供に報告してくれたと。だから……ボスに伝えて欲しいと」
「? 真一様が何故? そんな直ぐにボスに?」
「……叔母とその男と一緒に自分も頑張ると伝えて欲しいと……。どうせ帰って来れない人なのだから、叔母を祝福できるだろうとか……。自分も帰ってこない父親は待たずに、その男と一緒に頑張るなんて言っていた」
「はぁ、なるほど? ボスへあてつけているのか……」
「……みたいだな」

(それは父親として当てつけているのだろうか?)

 ジュールはふと思った。
 『叔母を祝福できるだろう』という言葉が少し引っかかる。

「ジュール、そのまま報告しても良いと思うか?」
「え? ああ……」

 ジュールは生返事で答えていた。

「ジュール! 俺、真剣に聞いているんだぞ!? 真一様は父親への当てつけで言ったのかもしれないけど、ボスがこの事を聞いたら……!」

 エドは知っているから……ボスの『本心』を。
 だから聞かせるとボスがどうなるか心底心配しているのだ。
 だが──。

「面白い。そのまま報告しよう。お前が嫌なら俺から言ってやる」

ジュールはニヤリと顎をさすって立ち上がる。

「え!? 何を考えているんだよ? ジュール!?」

 緩めたネクタイをキュッと締め直す先輩を見て、エドも立ち上がった。

「何って? 何も?」

 ニッコリと微笑むジュールにエドは顔をしかめる。

「ボスが! ガッカリするだろ!? しかも息子にあんなに言われて! ジュールはいつもそうだが、ボスは本当は繊細なんだぞ!」
「繊細? あの人の何処が? 繊細どころか繊・荒いっつーか鈍感の間違いじゃないのか?」
「ジュール! お前、本気で言っているのかよ?」
「いやー。面白くなってきたなぁ?」
「ジュール! お前だってお嬢様が他の男と結婚しても平気なのか?」
「それも面白いなぁ?」
「面白いって何が!? 俺、知っているぞ! ジュールも本当は……」
「なんだ」

 エドが言おうとした先を解っているかのように……ジュールがキラリと目を光らせた。

「!」

 その眼差しは本気の眼差しのつもり。
 それを良く知っている後輩は、そのジュールの凄みに一気に固まった。

「いや……その……」
「……俺はボスとは違う」
「……」

「その男、今まで『たいした事ない』と適当に放っておいたけど、徹底的に調べてやる!」

 ジュールはジャケットを手にして歩き出す。

「そうだな……」
「そして、ボスに突きつけてやる。目を覚ます時間だ」
「ジュ、ジュール……」

 颯爽と黒ジャケットを羽織った先輩は部屋を出ていこうとしていた。
 エドはその後をあたふたと追いかけるだけ。

「報告は俺がする。どうせお前は『エージェント対策』で手一杯だろう? 出かけてくる」

 胸元のボタンを留めて、身を整えたジュールは赤絨毯の廊下に飛び出した。

「ええっと……ジュール!」

 エドはただただ慌てて付いてくるだけ。

 

 ジュールは隣の部屋のドア前に立ち、インターホンを押した。
 出てきたのは純一だった。

「なんだ……もう、出発の時間か?」

 こちらもネクタイを緩めた格好で、のんびりとした様子で出てきた。

「おやすみの所、申し訳ありません──。お時間はまだです。しかしながら、申し訳ありませんが私は出発までの少しの間、外出したいのですが」
「どうした?」
『ジュン?』

 純一がドアを開けている廊下の向こうに、金髪の美女が猫を抱いて覗いていた。

「ジュールだ。奥に入っていろ」

 彼が振り向いてそう言うと、アリスは素直に姿を消して行く。

「なんだジュール。何か嬉しいことであったのか?」

 ジュールのいつにない微笑み顔に純一が眉をひそめている。

「ええ……『相場』が大当たり。確かめに外へ出かけたいのですが?」

 ジュールはニッコリと微笑んだ。

「……」

 純一が少し何かを考えながら首を傾げる。

「いいだろう。俺も東京に出てきたが為に、やっておきたい仕事はあるからな」

 だから……お前もあるだろうという様に、とりあえず純一は納得してくれたようだ。

「お陰様で……。必ず、出発時刻には戻りますので……」

 ジュールが頭を下げると、純一がふと頭だけ廊下に出した。

「どうした? エドじゃないか? いつ戻ってきた」

 ジュールの後をひっついて様子を見ていたエドは、ボスに声をかけられてハッとしたように身を固める。

「はい……今し方、エドも戻ってきたので入れ替わりで出かけようと思いまして……」

 まだ若い後輩をジュールはフォローする。
 ジュールは頭を下げながら、肩越しにチラリとエドを『威嚇』したが、彼はもう先輩の意向に同意したのか、表情を引き締めた。

「ボス。お会いしてきましたが、お話は後ほどが宜しいでしょうか?」
「……いや。直ぐにそっちの部屋へ行く」
「かしこまりました。お待ちしております」

 エドとボスのやり取りを確認して、ジュールは動き出す。

「では、行って参ります」
「羨ましいな。どこの相場が当たったのやら?」
「それは企業秘密です」
「言うようになったな。お前も──」

 しかし、純一は部下の成功として労うように微笑みながら、一端、ドアを閉めた。

「エド、頼んだぞ」

 出かけようとするジュールの後を、またエドが焦ったように追いかけてくる。

「ジュ、ジュール。どうするんだよ?」
「フランス、フロリダ、東京の『部員』を一斉に動かす」
「動かすって?」
「三日で調べ上げる。その男の『軌跡』をな? 相手を知るには先ず『ルーツ』。それでボスに突きつけてやるんだ」
「そんな事をしても、ボスはびくともしないと思うけどな?」

 ボスに対する男などいないとばかりにエドは言い、エレベーターの前まで引っ付いてきた。

「箱は開けてみないと解らないとね? 箱に付いている『おまけ』は『結婚』。これはかなりプレミアムなおまけだぞ? それを貰ってボスがどうするか見たいだけだ」
「ったく……ジュールはどうしていつも、そうなんだよ」
「ふん、後から来たお前にはまだわからないだろうな?」

 ジュールは鬱陶しそうにしてエレベーターのボタンを押す。

「今まで思うままのボスを俺は黙って見守ってきたんだ。もどかしいほどの彼をね……。あの人がどっちに転ぼうがそんなのどうだっていい。俺はお嬢様を可哀想に思っているだけだ」
「ジュール……」

 そう言いきった先輩を見て、エドがやっと見送る姿勢に退いた。

「行ってくる」
「ああ……」
「お前は真一様の方をなんとかすればいい」
「解っている」

 自動ドアがサッと閉じる。

 エドの『覚悟』を決めた凛々しい顔つきが消えていった。
 ジュールは一人、溜息をつく。

「ああは言ったが、ボスは予感していたのかもな……」

 だからの『長期滞在希望』だったのだろうか?
 だが……。

「怖くて見られないなら、見せてやろうじゃないか?」

 ジュールは拳を握る。

 彼の脳裏に……悲しい眼差しをした栗毛の女性が浮かぶ。
 それが艶やかなマダムであったり、涼やかなマドモアゼルでもあったりだった……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「そうか……ボウズがね」

 ジュールが出ていった後、部下二人の泊まり部屋に純一が一人でやって来た。
 エドは再度、ボスのためにエスプレッソを入れて、差し出し……一人悠々とソファーに腰をかけている彼の横にたたずんだ。

 ボスは、目の前に置かれた白い箱をジッと見つめていた。

「しかし……それならそれで良いのだが……『もう、いらない』という返事か」

 純一がフッと微笑んで、その箱を手に取った。

「こんな子供だましの様に、時計を毎年渡すぐらいでは、喜ばない年頃かもな」
「いいえ……ボス!」

 エドは一歩、踏み込んで彼に詰め寄った。

「なんだ」

 彼の冷たい眼差しが、スッと上へと向いてエドを貫く。
 エドはその眼差しには逆らえない性分。
 ハッと元の位置に、引き下がった。

「……そうではなく。私がお届けしたのが気に入らない様子でした」
「ほぅ──」
「それなら、『時計は欲しい』という事ではないか? それが解るなら何故、上手く渡さなかったのだ? 俺は今、来日していない様に言ったはずだ──」
「そうですが……」

 エドは俯いて、口ごもる。

「何を話した──」

 エドの顔を見ずに、純一はエスプレッソを静かに口に付ける。

「ですから……時計を差し出すと『いらないから、返して欲しい』とそれだけで……」

 エドは自分から請け負ったとは言え、ボスの為にも坊ちゃんの為にも……どう言えばよいのか解らなかった。

「ハハ──」

 純一が軽く笑ったので、エドはフッと顔を上げて首を傾げる。

「エド、お前は手先は器用だが、感情の方はイマイチだな。そこはジュールの方が喰えないぐらいだ」
「はい?」
「いや……もう良い。お前が言いたいことはだいたい解った」

 そういうと純一は笑いながら、その白い箱をベストの内ポケットに差し込んだ。

「ご苦労だったな──。一休みすれば良い」

 純一は静かな微笑みを浮かべたまま、エスプレッソのカップを片手に立ち上がった。

「あの──?」
「考えておく。俺に持って来いと言うボウズの注文だな? まったく生意気な注文をしやがるな……俺は運び屋じゃないぞ。どこかの運送屋と同じだと思っているな?」
「ボス……!?」

 言わずともボス自らが動いたので、エドは驚いた。

「俺に喧嘩でも売りたいのだろう? 母親そっくりだ」

 純一の眼差しがフッと陰ったが、彼は穏やかな微笑みは浮かべていた。

「ボス……」
「お前のエスプレッソは美味いから、もらって行く」

 純一はカップを軽く掲げながら、部屋を出ていこうとしていた。

『やっぱり親子なのだ……』

 なんと言わずとも通じ合っているようで、エドはそう思った。
 もっとあれやこれやと考えていたのに、エドの初めての『取り次ぎ責務』は、あっさりと終えたかのよう──?

「ああ、悪いが……。アリスがエステだの、ネイルだのとサロンに行きたいと、うるさい。エドの傘下で何とかならないか?」
「このホテルには、エステもサロンもサービスがあるはずですが?」
「気に入らないらしい……」

 純一は困った顔で苦笑いをした。
 エドも『まったく』と顔をしかめたくなったが、ボスの為に堪えた。

「……かしこまりました。東京あたりから出張できる者を手配してみますが……。ここは本日、出ますので、房総の方への出張になり明日以降になりますが……」
「構わない。そこは言い聞かすから。悪いな──。俺は、この手は苦手だ」
「いえ……お任せ下さい」
「邪魔したな」
「いいえ……仰せの事が全う出来ず、申し訳なく思っております」

 エドは純一が出ていくドアを先に開けて、彼を通した。

「まぁ、良い。ボウズを甘く見ていた」

 純一はニヤリと笑うと、なんだか楽しそうにして上機嫌に出ていった。

 

「──??」

 エドは眉をひそめる。
 なんだか拍子抜けした。

(いや……まだ、終わっていないぞ? 滞在中に絶対にボスに届けてもらわないと!)

 ボスはまだ『考えておく』と言っただけだ。
 真一の手元に届いて初めてこの責務は完了するのだ。
 エドはもう一度、気合いを入れ直す!

「しかし……ジュールもボスも。やっぱり適わないなぁ……」

 ほぅっと力を抜いて、エドはやっと一人きり、のんびりとソファーに座り込んだ。
 そんなエドは、ただいま30歳。
 まだまだ、年上の先輩にも大人のボスにも適わないのだった──。

「ご子息が怪我をしていないか心配していた事は、伝えてやりたかったな……」

 だが、真一がそこは知られたくないという顔をしていた。
 その『少年』の気持ちはエドも男として解るので伏せたのだが──。

「ボスは反応はしないだろうけど、心では喜んだだろうけど?」

 言えば……ボスは勝ち誇るに違いない。
 それを知っただけで真一の挑戦状は無意味のように満足をして、届けに行かないような気がしたのだ。

「難しいな」

 さらに……黙っていたが、ジュールが今から引っかき回すかと思うと、溜息が出てきた。

「本当にどうなるんだよ? この来日」

 任務でもなければ、仕事でもない。
 故にまだ、新参者扱いのエドは戸惑うことばかり──。

「そうそう……サロンだったな」

 エドは系列サロンを経営している所から、なんとか手配しようと、自分専用のノートパソコンを取り出す。

 東京に従えている美容サロン会社の資料を呼び出す。
 そこから、今抱えている『エステ』の種類と、ネイリストをリストアップする。

「あれで結構、目が利くからな……アリスは」

 そこは話が合うので、エドは抜け目ない選択に目を光らせる。

「近頃、東京にも良いネイリストが増えたようだな──」

 アリス好みとエドの一押しを目に付けて、作風のサンプルをプリントアウト。
 出張エステも系列から商談を持ち込む手配を指令を出してピックアップする。
 それで子猫が満足する方向で話を進めることにした。

 

 数十分後、エドは純一の部屋を訪ねてみる。
 子猫とボスはソファーでテレビを見ながら黒子猫とくつろいでいるところだった。

「エド!」

 ボスから話を聞いているのか、アリスはエドを見つけるなり飛んでくる。
 エドは呆れた顔をしながらツンとプリントを渡した。

「きゃぁー! さっすがエド! これ、綺麗〜!!」

 ボスとお揃い、ベルサーチのカッチリとした黒ワンピースを、上等に着こなしているアリスは金髪をサラサラと揺らしながら、エドが持ってきたプリントをさっさかとめくっていた。

「これ! エド!! これがいい!!」
「ああ、新鋭のネイリストらしい」

 エドの一押しをアリスが気に入ったので驚いた。
 アリスはどちらかというと、自分の好みは譲らない。

「ねっ! ジュン、みてみて! このサクラとか金粉とかジャポン風」

 アリスはエドの前からピョンピョンと猫のように飛び跳ねて、ソファーに座っているご主人様の所へとゴロゴロとじゃれ始めた。

「ほぅ……漆塗りに蒔絵みたいだな……」

 日本語で呟いたご主人様にアリスは首を傾げだようだが……深紅や漆黒のネイルに金粉を散らしたゴージャスなデザインをアリスは気に入ったらしい。

「ね? ジャポン風……素敵でしょ?」
「わからんが? いいのではないか? 小さな爪にこんな事が出来るとは技だな」

 ボスが眉を曲げながら、不思議そうにプリントを覗いたので、エドは可笑しくて少しばかり微笑んだ。

「エステもこれね! ちゃんとしっかりやってくれるんでしょうね?」
「失礼な。近頃の東京でも、業績はばっちりの経営者を据え置いているぞ」
「ぴっかぴかになりたいのよね!」

「エドに任せれば間違いない。しかし……それ以上磨いてどうするつもりだ? 普段は自己管理で充分、それを怠るのが一番の敵というのが、お前の持論なのに」
「そりゃ、ジュンのおかげで自宅でも高級な商品を使わせてもらっているけど? いいじゃない! ここは自宅じゃないもの!」
「好きにしろ──」

 あいかわらずの子猫の反発に、純一は呆れた顔をしたが一瞬で、そんな文句も『痛くもない』とばかりに、いつもの素っ気ない顔に戻る。

 ボスの一言に、アリスはニンマリと微笑んだのだ。
 エドには何かを企んでいるような顔に見えたのだが?

 

(絶対に見劣りはしたくないのよ! 私はジュンの女よ!)

 アリスはメラメラと燃えながら、エドのプリントを握りつぶした。

 だって……この日本の空の下。
 ここに絶対に『義妹とボウズ』がいるのだ!
 何処で鉢合うか解らないじゃないか?

 だから……アリスは磨くのだ!

 ぴっかぴかに磨いて、どんなに彼女が輝いている女性でも、絶対に見劣りだけはしたくない!

──『俺の側にいる女は一流でないと困る』──

 拾われて、絶望感のあまりに見繕いもしない日々を過ごしていたアリスに、純一がそう言った。
 それからは元のように女を磨くことに務めてきた。
 だが……以前とは違う心構えで。
 決して見せびらかす為の磨くではなく『自分』と『見て欲しい人』だけの為に……。
 だから自宅手入れだけで充分満足していたが……。
 その一流の男の側にいる女として決して見劣りしないように──。
 アリスは先ず、そこから『作戦開始』をする事にしたのだ!

 これは張り合いでもなんでもなく、アリスの最低限の『プライド』で『誇り』の為!

 そんなアリスを純一とエドが、何かを探るように眺めていたが。
 男には絶対に解らないだろうと、アリスは再び……ひとりほくそ笑んだのだ。

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