・・Ocean Bright・・ ◆黒猫が往く◆

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8.愛せる資格

 ──クシャ……──

 夕闇に包まれ始めている『大佐室』。
 そこで一人取り残された葉月は……手元にあるメモ用紙を無意識に握りつぶしていた。
 唇を噛みしめ、そして今にも溢れそうな涙を必死に堪え……。

(いい……? ちょっと冷静になって?)

 鎧を剥がされてしまった自分を慰めるように、葉月は話しかける。
 まるで──自分の中に『訳が分からなくて泣き叫んでいるお嬢ちゃん』と、今まで培ってきた『物わかりの早い平坦な女性』が同居している感覚に陥った。
 その『物わかりの良い彼女』が『お嬢ちゃん』をなだめている所だ。

『そう、そうよ──。兄様の言うとおりだわ。今まで、どんな事があってもここがあっての私だったはずよ?』
『違うもん! そんな事はわたし……願っていなかったもの! ただ、そこにいれば何とか前に向けただけ! 本当は戻りたくて仕方がないの!』
『何言っているのよ!? 例えば、もし? 事件が無くてあのまま幸せに過ごせていたとしても、きっと……義兄様とも姉様ともお別れをして一人歩きする日が来たはずよ! 今……軍人でいる私でなかったとしても、同じ事だったはずだわ!』
『嘘つき! 本当は……軍人なんてなるつもりなかったくせに!』
『仕様がないでしょう!? 肩を負傷して、プロにはなれない致命傷を負ったんだから!』
『でも! 私は諦めたくなかった! あんたが勝手に捨てたんじゃない、捨てたんじゃない! 勝手に飛行機に乗る事に夢中になったんじゃない!』
『だから──! ヴァイオリンが駄目になったから……』
『パイロットになれて、どうしてヴァイオリンは諦めたのよ! あのままヴァイオリンを続けていれば、今頃は──』

「違う!」

 栗毛を掻きむしりながら、葉月は大佐席に突っ伏した。
 今はそんな葉月を見つけて、いたわってくれる兄も同僚も『彼』もいなかった──。

『あんた、お兄ちゃまの事……ずっと待っていたでしょう? なのに……それも諦めたふりして、嘘ばっかり!』

「違うわ!」

『その嘘の上に、最高の本物を見つけちゃって、嘘の上の本物。ややこしいったらありゃしないわ! そうやって嘘の上に出来た本物に苦しんでいるなんて馬鹿みたい! ほら……彼、とうとう呆れちゃったわよ? 彼……あんたの“正体”を知っているんだわ! もう、やめちゃいなさいよ!』

「嘘じゃないわ!」

『連れて行ってよ! 早く──私をお兄ちゃまの所に、連れて行ってよ! 私が何度もこうして叫んでいるのに、あんたはどうして無視するのよ! 私を消そうとしても、そうはいかないわよ!!』

「義兄様の所になんか……いけないって言っているじゃない! 右京兄様の言っている事聞いていたでしょ!」

 葉月の脳裏に……ここ数日の『日常』が巡り始める──。

 ここ数週間、右京が度々訪ねてくるようになった。小笠原にくれば、こうして葉月の本部にも顔を出すようになっている。
 それが原因か知らないが、近頃は以前は葉月は遠巻きにしていた『若い女性本部員』が、妙に葉月にもにこやかなのだ。

『素敵なお兄様ですね』
『大佐、何かご用があったら、お手伝いしますからね?』

 葉月の事は、洋子と彼女に忠実な女性後輩以外は補佐男性に任せきりの彼女らが、そんな風に話しかけてくる。

『調子良いな……まったく』

 隼人はそんな彼女等の態度にあからさまに嫌悪感を表し──

『そうだ。なんだ今更──。手伝いたいなら普段もそう言えって感じだな。無視しろ、葉月。彼女等の指示だって俺達補佐と洋子姉さんがする事だ』

 いつもは『独身フリー』である達也になんとなくアプローチをしている彼女たちを、上手に仕事で使っている達也だが、そういう気構えを上手に使う気は今回はないぐらい呆れかえっている程の変化らしい。

 当然、葉月も今まで通り──なんら様子を変えるつもりはない。

 それなのに……大佐室に花が添えてあった日には驚いた。
 今までそんな事は一度もなかった。
 葉月という女性がいても、大佐室は葉月と隼人と達也の三人……いつも時間に追われているこの三人が雑然と使っていて、殺風景と言えば、殺風景だ。
 そこに……花瓶にピンク色の『ストック』が豪勢に活けられていたのだ。
 朝も大佐室の掃除は、以前は葉月と隼人だけがそれなりにしていたが、達也が来てからは、総合管理の男の子達が交代でしてくれていて、なんとか埃はない状態に保っていてくれていた。
 それが……『近頃、彼女たちが手伝ってくれるんですよ。花も……そのついでのようで……』と、テッドが困ったように報告してくれた。

『それって……私の従兄が原因なのかしら?』

 葉月が眉をひそめて、渋い顔すると、テッドが可笑しそうに笑った。
 葉月の側で……普通の青年のように──。

『調子……良いですね? ほんと……お兄様が一泊して次の朝、大佐室に来る事を狙って、目をつけてもらおうだなんて。まぁ、可愛らしいと言えば、可愛らしいですが? あれぐらいの可愛さじゃ、お兄様は満足しないお方でしょうね?』
『……』

 そんなテッドを葉月は不思議に見上げた。
 達也や隼人とは、異なる余裕に見えたのだが?

『そう……ね?』
『そうですよ。やらせておけば良いんですよ。そのうちに疲れてやめるのは目に見えていますからね──』
『そうね……』
『側近のお二人は、とっても呆れているようですが、同じ事お考えで放って置いているんだと思いますよ?』
『そう──』

 いつも通り、彼との会話には短い返答しか返せない葉月だが、テッドは益々口数多くなってきて、親近感が出てきたのは感じている。

『大丈夫。私達はちゃんと大佐に付いていきますよ』
『私達?』

 俺じゃなくて、『私達』という言い方に葉月は首を傾げた。

『ええ……私達、総合管理官ですよ。ほんと……海野中佐が来てから、やっと“本来のお役目”をさせてくれるようになって、張り切っているんです。遠野大佐が殉職した後、確かに……祖国の部隊に帰りたいと望んで去っていった隊員もいましたけど、こうして残っていたのも、あなたがきっと前に立って、私たちを活躍させてくれると期待していたからです』
『!』
『あなたは……そういう人だって信じていましたよ。そうしたら……ほら、やっとこんな風に四中隊が動き始めたじゃないですか? そりゃ……ここまでなるまでに、あなたが一人でフランスに行って澤村中佐を引き抜いたり、元相棒だったとかいう海野中佐を取り戻すまでには、私たちはなんにもお手伝いは出来なくて、後ろで見守っているだけだったのですが……』
『そんな──私があんな風に駆け回れたのは、留守にする本部をあなた達がジョイと守っていてくれたからじゃない!』
『大佐──』

 いつになく葉月は素でテッドに叫んでいたのだ。
 テッドもそれに驚いたようだが、すぐに笑顔になる──そう、気構えない青年の笑顔だった。

『良かった。そう言ってくれるから……頑張れるんですよ』
『……』

 そんな事、そんな労い──今まで言った事なんてない。
 葉月は今更ながら、彼等を大事に思ってきたつもりだったが、改めて……彼等一人一人があっての自分だと噛みしめさせられたのだ。

『お花が気に入ったのなら……私たちがこれから続けますよ』
『有り難う──』

 葉月の素直な笑顔に、テッドも自然と微笑みを返してくれていた。

『まぁ……お花の気遣いは、式典が終わるまでは彼女等にお任せかな?』
『あら? 私の兄様が通うまでって事?』
『きっとね。賭けても良いですよ? 彼女等、あっさりやめるって』
『意地悪ね』

 近頃、日本語が益々堪能になってきたテッドと、笑い合っていると達也がツイッと睨んでいるのだ。

『なんか勘違いしているのよね』
『あ。大佐も? 俺もなんだか……海野中佐に目を付けられているなって思っていたんですよ。そりゃ……大佐は素敵な女性だけど……』
『!』
『今はそんな余裕ないって知っているくせに──結構、嫉妬深いなあの先輩は』
『!』

 またもや、そんなテッドの『余裕』に葉月はおののいた。
 達也が自分という男を、葉月に近寄る『虫』として監視している事はお見通しのようだった。

(うーん、なかなか!)

 達也に監視されて、こんなに余裕な後輩は初めてだ。

『でも、俺──気にしません。大佐も気にしませんよね?』
『え? ええ……』

 その笑顔に、葉月だって余裕で答えるしかないじゃないか?

『澤村中佐がいる事ですし? 指輪をしている女には興味ありません。手間がかかる恋愛するほど暇じゃありませんから』
『あ、そう……』

 そのきっぱり具合と、なんだか職場で『指輪の仲』である事をテッドにさりげなく非難されているようにも感じ、葉月は少しだけ憮然とした。

『でも、お幸せに』
『……ありがと……』

 そこも余裕のにっこりでテッドは仕事に戻っていく……。
 彼からああして話しかけてくるのも、もしかすると? 下心の疑いを晴らす為なのか、仕事できっちりと渡り合いたいという意志を強調する為だったのか……どっちか解らないが、そういう目的もあったのだろう。
 葉月はそう思った。
 その証拠に達也は遠目で監視しているようだが、隼人は知らぬ存ぜずで、総合管理に関しては、テッドに物を頼む事も増えてきたようで、大佐室では葉月も初めてとして『信頼大』になり始めていた。
 葉月も一目を置くようになった『次なる重要補佐候補』の一人になりつつある。

 

 何故だろう? 思い出したのは……隼人でもなく達也でもなく、ジョイでもない。
 つい最近、やっと親近感が湧いてきた恋愛対象とはほど遠い、後輩との会話だった。

 葉月の元に、葉月を信じて集まってくれる同僚達。
 時には激しくぶつかったり、一緒に悔しがったり、時には喜びを分かち合い──。
 そしてその輪が、ちょっとの仲間だった数名から、色々な所に広がり始めている充実感。
 これは……隼人が来てから得た物だった。

 自分を信じて、一緒に歩いてくれる仲間達──。

「……」

 握りしめていたメモ用紙を……葉月はいたわるようにそっと指先で広げ、しわを伸ばした。

『お前がここで輝けるのは……補佐達のおかげだ。それを良く……覚えておけ。御園という名を掲げている澤村や海野、さらにジョイにこのラングラー大尉。皆がその為に必死になっているのだからな──』
『お前がここを捨てるという事は……“ただの女”になる事だ』
『その上で“兄貴”にも会いたいのなら……もう、ただの女になれと言っている──。ただし、その時は“全て”を捨ててもらう……今のお前が苦労して築き上げた地位も仲間もだ──』

 従兄と彼の声が繰り返される。

「義兄様との思いを貫く事は……それを捨てる事……?」

「……つまり? 本心ではなかった苦労は……本当の私には“虚像”を作っていると?」

 葉月は大佐室をぐるっと見渡した。

「嘘なんかじゃないわ。私は……ここにいるのに……嘘なんかじゃないわ」

 でも──徐々に分かってきた気がする……。

「ここも嘘じゃない。あれも嘘じゃない……でも、共にいられるのはひとつだけ」

──クシャッ──

 また、メモ用紙を握りつぶし、葉月はうなだれた。
 頭では分かっている。
 だから……ここにいるのではないか?
 けど──義兄とは別れられない。

『だって……義兄様は……ただの男の人じゃないの!』

 兄妹であって、同志であって……そして恋しい人。

 葉月の愛情という物、全てが詰まっていて向かっていってしまう人なのだ。
 その人と縁を切るなんて無理だ。絶対に無理だった。

「なんなのよ! 私にどうしろっていうのよ!」

 破れかぶれに、握りつぶしたメモ用紙を、思いっきり前に投げた時だった。

「わっ……」
「!」

 隼人が早速、帰ってきたので驚いた。

「ああ、佐藤大佐……忙しそうで、ちょっとだけしか話せなかった……」

 いつもの笑顔だった。

「……そう」

 唖然としている葉月を見て、隼人は笑いながら……床に転がってしまったメモ用紙へと歩み寄って腰をかがめた。

「また……ウサギさんは一人きり。ぐるぐるとしていたんだ」
「……」

 素っ気なかったり、優しかったり……葉月は反応に困る。
 隼人は拾ったメモ用紙を丸めて、笑顔のままそれを葉月に向かってヒョイと投げてきた。
 それを葉月は、上手に受け取った。

「……俺の態度にお前は戸惑っているな……。申し訳ないけど、許してくれないか?」
「……私は何も言えないわ。困らせているのは私なんだから……」
「お前は俺を困らせていないよ。困らせているのは俺なんだから……」
「……それで、申し訳なくて私を避けているの?」
「いや……ウサギ覚醒の補助かな?」
「私の、覚醒の、“補助”?」
「もう……言葉じゃ駄目だ。お前は──」

 また、隼人がクスリと笑うだけ。
 その顔は、いつもの彼だった──。

「俺のウサギさん……葉月……」
「!?」

 いつもの笑顔で問いかける隼人を、葉月は訝しいまま見上げた。

「俺の事、愛してくれているね」
「? も、勿論よ」
「俺に信じて欲しいと必死だ」
「そうよ」
「俺も……愛しているよ」
「隼人さん──」

 あの素っ気なさはなんだったのだろうか?
 見間違いかと思うほど……隼人はとっても麗しい眼差しで、葉月を見つめて捕らえてくれている。
 これっぽちも、彼に対する不信は湧かない程、彼の誠実な気持ちが葉月に流れ込んできていた。

「そして──俺はお前を信じているよ。きっと、俺を愛してくれていると」
「当たり前じゃない……」

 いつにない、照れも、天の邪鬼な様子もなく、包み隠さず愛を言葉で伝える隼人に、葉月の方が照れて俯いたぐらいだ。

「じゃぁ……解ってくれているな?」
「解っているって?」
「お互いに俺達は信頼しあって、お互いを思い合い、愛し合っている……」
「うん……」
「そうなのだと、俺の目に……誓ってくれないか? 何があっても、そうだと──」
「……」

 『そうよ、その通りよ──』とばかりに、葉月も彼の瞳を真っ直ぐに見つめる。
 隼人も絶対に、葉月のその眼差しから逃げようとはせずに、強く、強く見つめ返してくれる。

 今──私達は、『誓い合っている』
 葉月の胸に……そんな風に安堵できる気持ちが広がってきた。

「強く、通じたよ。葉月の気持ち──。俺、受け取ったから」
「有り難う──」

 隼人はいつもの柔和な笑顔だった。
 葉月も頬を染めて、素直に微笑んだ。

「今の事、忘れないでくれよ……」
「うん──」
「約束だ──俺が、お前を愛している、信じている、結婚して、一緒に前進したい──。これを忘れないでくれ。俺も忘れない」
「うん……」
「式典は……航空ショーは、俺と葉月が築き上げてきた一年間の『最大の結果』だ。これは絶対にふたりでやり遂げたいから、何があっても、この式典だけは俺と一緒に参加して欲しい──。この日だけは……お前と頑張りたいんだ」
「ええ……勿論よ」
「約束だぞ。俺達の『誓い』──」
「ええ……隼人さん」

 葉月がホッとしながら、微笑んだ時だった。
 急に……隼人の顔が堅くなった。

「……だから、これは今は必要ない」
「──!?」

 そう言って……隼人がした事は!

 左手薬指にはめられている銀色のリングをはずした事だった!

「は、隼人さん──!?」

 葉月には彼が何を思ってそうしたのか理解が出来ない──!
 さらに、驚いて立ち上がったそんな葉月の隙を付くように、隼人が葉月の左手まで捕まえるようにさらっていった!

「ごめん……これがいけなかった……」
「やめて! いやよ!!」

 葉月は、捕まえられたその左手を、隼人から振りほどこうと力を込めたが、隼人の何かを決したような力は離してくれない!

「今、約束しただろう! 忘れない、信じる、愛している……それで充分じゃないか!」
「同じ事なら……! 何故、取り消すように返さなくちゃいけないの!?」

 まるで泥棒に指輪を奪われるかの如く、葉月はあからさまに抵抗した。
 でも、隼人は確固たる顔で、絶対に離そうとしない! それ以上に、もう、葉月の薬指に手をかけていた!

「こんな事をしてしまったから! お前が苦しんでいるじゃないか! 俺はお前を無理に捕まえてしまっていたんだ!」
「嫌! これは……」

『本当に嬉しかったの!』

 だが、その一言が、心よりの声なのに、声にならなかった!
 しかし、葉月は抵抗し、その抵抗する葉月に怯まずに、隼人は力づくで薬指からを引っ張るばかり──でも、葉月の抵抗も半端ではなく、隼人も思うように奪回出来ずにいた。

「──!? 何をしているんだ!?」

 そこへ右京が一人で帰ってきた。
 二人のもみ合いを目にして、その尋常じゃない様子に、大佐席まで駆け寄ってきた──!
 右京の声を聞いて……隼人の方が、ハッと我に返ったように、葉月からサッと離れたのだ。

「……」

 葉月は真っ赤になった薬指を確認する。
 『良かった』──まだ、指には銀色のリングがあって……葉っぱ色の宝石も輝いている。
 ホッと胸をなで下ろしたが、あんなに落ち着いている彼がこうまで強行に走った事が、『指輪を返せ』という意味であった事に、葉月はショックを受けていた。

(私が……完全に義兄様を忘れないから?)

 当然の理由ではないか? 当然の──。
 それでも、葉月はこの指輪をつけてもらった『最高の朝』は絶対に譲れなかった。 

 でも? と、葉月は指先を守るように包み込みながら、ふと考え直す。

(さっきの隼人さん……)

『お互いに俺達は信頼しあって、お互いを思い合い、愛し合っている……』

 それを強く見つめ合って、『誓った』のに……何故? 指輪の仲を解消しようと?
 隼人のあの言葉も、眼差しも、全て『本物』だった。真剣だった──のに?

「お兄さん。丁度良い……。俺、今日こそ、お兄さんに聞いてもらいたい事があるんです」
「なんだ──改まって……」
「こちら、来て頂けますか?」
「ああ……構わないが……」
「葉月も一緒に来てくれないか?」
「──?」

 我に返った隼人は、自分の波長に戻ろうと、深い呼吸をつきながら黒髪をかきあげている。
 そして──右京を応接ソファーに腰をかけるように促し、右京はその通りに、言われるまま腰をかけた。
 『こっちおいで──』と、隼人に手首を掴まれ、葉月は隼人の隣に立たされる。
 異様なもみ合いを目撃してしまった右京は、そんな二人の並んでいる姿を、心配そうに見上げていた。

「こちらを預かって頂けませんか?」
「それは……」

 隼人が右京に差し出したのは、自分がはずした銀色のリング。
 それを確かめて、右京はもう、何かを悟ったように驚きはしないが、躊躇はしているように葉月には見えた。

「すみません……ちょっと、彼女に対して横暴な事……」

 我を忘れていた事に、隼人はうなだれていた。

「それで……『婚約解消』ってことかな?」

 解りきったように静かに問いただす右京に、隼人は確固たる表情で首を振った。
 葉月は訳が分からなくて、首を傾げる一方だったが……まだ、左手は守るように右手で握りしめていた。
 そんな従妹の様子を、右京は見逃さずに、その仕草を見て暫く黙っていた。

「葉月は……そのつもりはないようだが?」
「今、彼女と約束しました。お互いにこの指輪を交わすまでの日々は……無駄でもなく、これからも信頼し、思い合って……愛していると」
「!」

 そんな言葉を惜しげもなく、従兄にきっぱりと隼人が言い放ったので、葉月は驚いて彼を見上げる。

「その形、今の形をこうしたい。それが俺の……今の心境です。これが俺の愛の形では……いけませんか?」
「澤村……お前って奴は……」

 そこで右京が感極まったように立ち上がった程だ。
 葉月にはさっぱり解らない。
 そんな風に首を傾げてばかり、眉をひそめてばかりいると、いつの間にか従兄が真剣で厳しい眼差しで葉月を見下ろしているのでハッとする。

「葉月──。その指輪を外すんだ」
「──! どうして!?」

 従兄まで……そんな事を──! 葉月は耳を疑った!

「今、お前達は指輪をするに値しない──。澤村だって外したくはないんだ。彼だって、必死の思いで今日までお前を想って、その上でこの指輪を渡したんだから──」
「だって──!」
「まだ、分からないのか? オチビ!」
「!」

 また従兄に強く言い放たれて、葉月は押し黙る。

「澤村は……お前を『自由』にしたいと言っているんだ」
「──自由──?」
「そう……もう一度、『一人』になって、自分がどうあるべきか考え直して欲しいと言っているんだ。だが、その指輪がある為にお前が無理をしている。それを見ていられない、俺のせいだと、彼は思っているんだぞ。そうだな? 澤村……」
「……」

 右京の念押しに……隼人は苦しそうに一時俯いていたのだが……。

「はい、そうです──」

 俯いていた顔を上げ、右京にハッキリと言い切ったのだ。
 葉月の頭は真っ白になる──!

「……つまり、別れたいって事!?」

 隼人の胸元に、葉月は食らいつく──!

「さっきの……誓いはなんだったの!?」

 彼の胸を揺すっても、隼人は葉月から視線を逸らして揺すられるだけ……。

「なんとか言ってよ!」

 その声は、今まで出した事もない大きな声だった。
 でも……隼人は何も言ってくれない……。
 言ってくれなかったのだが──!

「!」
『っうぐ……』

 その時には、葉月の唇は強くふさがれていた。
 両肩をしっかりと彼が握りしめ……そして、黒髪の頭をぐっと傾げ、力強く口づけているのだ。
 目の端では、流石に唖然としている従兄が硬直している。
 その従兄の目の前で! 彼が気後れすることなく葉月にキスをしているのだ──。

『はぁ……』

 そんな大きな息を吐きながら、やっと隼人が離れてくれた。
 葉月は……ただ力が抜けるほど、茫然としているだけ──。

「お兄さんの前で、誓った──。これでも、別れると?」
「……」

 ピンク色の唇を葉月はそっと、白い指先でさすった……。
 人目もはばからず、彼が強く吸ってくれた唇を──。

 その時、目の前の従兄は、ちょっと照れくさそうに栗毛の前髪をかきあげている所。
 そして──。

「本当に……申し訳ない」

 右京が深々と隼人に頭を下げているのだ。
 もう──葉月はなにがなんだか解らない。
 この男二人が、何で通じ合っているのか分からない。
 指輪を外したのに、愛していると誓ったという彼。
 そんな彼に詫びる従兄──。
 その間に紛れもなく自分が関係しているのに……もう、自分の事ではないように葉月は二人の間に立っているだけだった。

「やめてください。お兄さん──。俺、調子に乗りすぎていたのかもと……」
「とんでもない! こんな小さな従妹をこれだけ想ってくれていて、調子に乗っていた!? そんな風に言われたら、俺は土下座する!」

 そして、右京が本当に床に膝をつこうとしているので、隼人が慌ててそれを止める。

「そこまで……お願いですから。俺だってそこまでされたら……ここに居にくくなります」
「澤村……」

 隼人にそう言われて、右京が申し訳なさそうに立ち直る。

「俺、彼女の事見捨てませんから……。ただ、後ろで暫く見守っています。それだけなんです……」
「良く解った……。こちらこそ、葉月の心をこんなに複雑にしてしまったのは……俺達、兄貴なんだ。葉月を本当の意味で、女性として幸せにしようと……」
「解っていますよ……。今の状態、俺との事も、俺という男でなくても、こうなれば……当たるはずだった壁だったと思います。そこまで俺がこれた事、そんな自分を俺は俺自身で誇りに思う事にしたんです──」

 隼人の透き通っている輝く笑顔。
 それに右京がまた感極まったのか……まるで涙を堪えるかのような哀しい顔をして、力を落としたようにソファーにぐったり座りこんでしまった。

「なんの事か……わからないわ……何を言っているの? 二人とも……」

 茫然としている葉月は、起きている事が他人事のように呟いていた。
 そんな自分を、隣では黒髪の彼がそっと見下ろし、ソファーからは栗毛の従兄がスッと見上げた。

「……解らないか……」

 諦めたように、隼人が力無く笑った。

「まぁ……そんな所だと思っているよ。でも、大丈夫。俺は『待っている』から──」
「待っている?」
「……俺とお兄さんが言っている意味が分かる所まで……お前も早く来てくれるって……」
「分かる所まで──?」

 ただオウム返しをするだけの葉月を……やっぱり隼人はいつもの余裕ある笑顔で見つめてくれている。

「俺との誓い──忘れないでくれ……」
「……」

 その笑顔に術をかけられたかのよう……そして、その笑顔が遠くに見えて、葉月は見失わないようにただ彼の笑顔をじっと捕らえようと必死に見つめていた。
 そのうちに、隼人には無意識のうちに左手を取られていた。
 もう、茫然として、そして彼の笑顔を見失わないように必死な葉月は、それすらも分からなかったぐらい。

 そして──彼の優しい指先が、スッと薬指から指輪を抜き取ってしまっていた。
 やっと気が付いて、何もなくなった薬指を葉月は見下ろしたが……もう、何も感じなかった。

「お兄さん──お願いします」

 隼人が、右京に小さなリングを差し出していた。

「解った。確かに──」

 右京の手のひらには……大きなリングと小さなリングが二つ、握りしめられた。

「本当の意味で、彼女と『ペア』になれると『お互い』に確信した時──受け取りに行きます」
「ああ……大事に取っておくよ」

 二人の男は笑顔でその約束を交わしている。
 『私』は何処に? 『私』が入る隙はどうしてないの? 葉月は……ただ、そう自分に問いかけているだけ。

「それで……申し訳ないのですが……」
「なんだ? お前が納得できるまで、俺もどんな事でも協力する──」

 右京の気前よい確固たる声。

「……俺、今日から『官舎』に戻ろうと思っています。お兄さんの許しが出たら、そうするつもりだったので……」
「そこまで──!?」

 流石の右京も、その申し出には驚いたようで……珍しい素っ頓狂な声を出していた。
 葉月もそれには固まってしまった。

「ここまでさせてもらう俺のけじめです。でも……彼女をこうして『放る』みたいで、そこは心苦しくて……特に夜は心配で」
「そうか……ああ、俺に付いていて欲しいと?」
「ええ……今日の宿泊先をキャンセルさせてしまいますけど……」
「……それは構わないが……」

「……いつ、戻ってくるの?」

 消え入りそうな声で葉月は呟く。
 もう取り乱しもしない葉月の意外に冷静な様子に、男達の会話が止まる。

「葉月の決着が付くまでだよ──」

 やっぱり、隼人は余裕で微笑んでいた。
 葉月も『決した』。
 この彼は言い出したら、ちゃんとやり通す男だ。
 だから──もう、止めても無駄なのだと。
 無駄と分かっても、こんな状態がいつまで続くのか……葉月には途方もない事に思えたから尋ねたのに、『決着』なんて、いつ着く?
 義兄と会える保証なんて何処にもないのに!?

 そうしてやっぱり納得いかなくて、憮然としている葉月を見下ろしている隼人が……そこは何か確信したようにこういった。

「今まで葉月の事を見捨てなかった義兄だろ? こういう状態を知ったら、必ず、来る──。困っているお前を見かねて、絶対ね……」
「──!」
「澤村……お前、そこまで……!」

 その為の『別居』!?
 隼人のその決意に、葉月はもう……なにも言えず、今度は自然と涙が溢れ出てきた。

 もう──隼人に信じて欲しいという本心の願いから出てしまった、必死の嘘……『義兄には会わない』という言葉もいらない。
 もう──隼人から受け取ったはずの『形』であった指輪に、無理に誓わなくても良い。
 私は──『自由』。
 『自由』だけど──彼は深く、深く……私を愛してくれている。
 もう──充分であって、つい最近の様に、彼の負担になるからと『義兄には会わない』と言い張らなくてもいいのだ。

 頬には止めどもなく涙が、するすると落ちていくだけだった。

「葉月──いってらっしゃい」
「隼人さん──」

 彼が輝く笑顔をこぼしていた。

「そして……結果はどうであれ、待っているよ。だから──俺との約束、忘れないでくれ。そんな男と、ちょっとした約束をしていたって……。その程度でいいよ。この一年、お前と一緒にあっち行ったりこっち行ったり、色々あったけど楽しかった。それだけで、俺は充分、お前といたこと……幸せだった。だから、式典だけは……俺と一緒に空を飛ぼう」
「……うん、うん」

 泣きながら、そう頷く事しか……その笑顔に対して出来ない。

「それに、お前を捨てた訳じゃないから。お兄さんが居ない日に眠れなかったら、携帯で連絡してくれたら、いつでも駆けつける。お前だって官舎にくればいいじゃないか?」
「うん……」

 葉月が素直に頷くほど、隼人は嬉しそうに笑ってくれるのだ。
 とてもじゃないが……こんな人、見た事がなく、有り難すぎて、葉月がここにいる事の方が申し訳なくなってきたぐらいだ。

──プルップルッ──

 そこで内線が鳴っていた。
 隼人の席の内線だった。

 隼人が気分を切り替えるかのように、大きな息を吸って素早く取りに動く。

『ええ。僕ですが……あ、そうですか。すぐにお伺いします』

 そう言って内線を切ると、先ほど、葉月の大佐席に置き忘れたバインダーを再び小脇に抱える隼人。

「話はそれだけ……。じゃぁ、佐藤大佐、手が空いたみたいだから、もう一度行ってくるよ」

 彼はいつも通りの彼に戻っていた。
 重荷が取れたかのように……何かの使命を終えたかのような晴れやかな笑顔だった。
 近頃、一人で考え、素っ気なかったのはこういう事をきっと考え抜いて、一人で決心していたのだろう。
 もう、葉月にはそう理解が出来た。

「澤村──本当に有り難う。後は従妹の事は……『俺達』が……」

 また、右京が深々と頭を下げていた。

「はい。お任せします……お願いしましたよ」

 隼人はまた……笑顔で大佐室を出て行った。
 葉月は、隼人から『兄達』に手渡された……そう思えた。

 隼人が出て行って、右京がまた……力無く座りこむ。

「葉月──ここに座れ……」

 右京はとても疲れたように、深い溜め息をついてうなだれていた。
 葉月は言われるまま、従兄の隣に座った。

「もっと早く──お前の思う通りにさせていたら、あんな風に一人の男を追いつめなくても良かったのかもしれないな……」
「……」
「でも、解ってくれ。俺もロイも……そしてきっと純一も、お前にはこういう形で男に任せるのが一番だと疑わなかった。だが……お前は絶対に、純一を忘れなかったな……。それも本当の愛だったんだろう……。それに気が付くのが遅かった俺達を許してくれ──」
「お兄ちゃま……」
「それに……こういう『本当の愛』という素晴らしい物を俺はたった今、澤村に教わったよ。お前を本気で愛してくれる男が現れたのなら、せいぜい、葉月を必死に捕まえてくれているぐらいにしか思っていなかった。こういう事になると何故? 俺は気が付かなかったんだろうな? 予想できなかったんだろうな? それが出来れば……澤村にこんな事……。笑ってはいたが、あそこまでなるのにかなり一人きり……苦しんでいたに違いない……。それも笑えるなんて、本当に……お前の事。でも──もう、止められないな……」

 こんな風に従兄が、心底申し訳なさそうに苦悩の表情を深く刻んでいる。

「……私も……割り切り悪くてごめんなさい。頭では分かっていたんだけど……」
「いいんだよ、葉月──。お前もそんなにまで、人を愛していただなんて……。忘れられない程なら、お前も本気だって事だ。なのに──お前ときたら、ほんっと無感情に流すから……気が付かなかったんだな……。『リトル・レイ』──そうだろう?」

 従兄の目には涙が浮かんでいた。
 そして……葉月の頭を引き寄せ、従兄は慰めるように、葉月のつむじにいつものように頬ずりをしてくれている。

「お兄ちゃま……私、解ったわ」
「……そうか」
「隼人さんが言っている意味が分かる所まで……私も絶対に行くわ」
「……そうだな……」
「今までは……私が隼人さんを試していたのかも……。でも、もう隼人さんはとっても遠い所に突き抜けて飛んで行っちゃった……。海猫じゃなくて隼になっちゃったんだわ……」
「……?」

 そんな事を真顔で……何処を見ているとも解らない視線で呟く葉月を、右京が訝しそうに見下ろす。

「今度は……私が試される番。私にはまだ……あの人を愛しても良い『資格』がないのだって……彼の笑顔が教えてくれた──」

 途端に葉月は顔を覆って泣き崩れる。

「葉月──」

 声を出して、従兄の腕の中で、存分に泣いた。
 そんな小さな自分を、従兄は優しく抱きしめてくれる。

 もう──泣いても隣で抱きしめてくれるのは『彼』じゃない。
 今までそうだったように、葉月を守ってくれていた『兄』の一人。

 私は……ついに放り投げられた。
 『真実』というフィールドに裸で放り投げられた。

 もう──鎧はない。
 彼が持って行ってしまったから──。

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