・・Ocean Bright・・ ◆ウサギ覚醒◆

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3.あの子を狙え

「ロイ──間違いない。あれから数日、このホテルを拠点にあちこち動き回っているみたいだ」
「そうか……」

 式典も三日後と迫り、連隊長室も来賓迎え入れの為に多忙な様子の中──リッキーのそんな報告。

「しかし、リッキー。やったなぁ……」

 ロイの手元には、小さな隙間から暗視機能が付いた小型カメラで撮影された写真が数枚。
 その中に、ウェーブがかかったロングヘアの女性が写っている物もある。

「フフ。まさか、あの気配をありありと感じさせた偵察が……“実は”、あの父島から出て行く事を予想した上で、次のアジトへの『確実な出発』を見逃したくない為のこちら側の『煽り』とは──これは、先輩も気が付いていないみたいで、俺達を上手く煙に巻いたと思っているだろうね──」

 リッキーは、ニヤリと勝ち誇った笑みをこぼした。

 今までは、ロイの意向が『即、追い返し』だった為、今回も今まで通りに、とりあえず『見かけたら、即、徹底的に追い返す』という姿勢を見せてきたのだ。
 だが──今回はちょっと違う。
 ロイは、『今まで通り、俺がかんかんに怒っていて、すぐに帰って欲しい気持ちはいつも通りだと、みせかけてくれ』とリッキーに耳打ちをしていた為、リッキーは純一と接触した際にそう告げ『ロイはいつも通り、早く帰って欲しいのだ』という印象を与えておいた。
 だが、今回のロイは、そうは見せかけながらも、実に上手く『純一の本心』を引き出す為に、押しては引いてとじっくりと攻めている。

 空母艦に潜入された時も、密かに尾行したつもりだが、念のため『尾行は気が付かれている』事を念頭に、次の作戦を組んだ。
 案の定、黒猫側は、『尾行』に気が付いていたらしく、いつあの別荘を飛び出しても良い支度を整えていたではないか。
 だが、リッキーの知らないうちに、あの別荘を出て行かれると困る。
 なので、『直ぐにでも出発したい』という気持ちにさせる為、あのように……彼等に『気配が判るだろう屋根裏偵察』を部下にさせた。
 ついでなので……ロイが気にしている『ニャンコちゃん』の撮影もしておいた──と、いう訳だった。

 リッキーの思惑通り、今は小笠原陣営とはいざこざしたくないだろう『黒猫衆』は、その晩のうちに撤退。
 その撤退を確認できるまで、リッキーは沖合にクルーザーを停泊し、後輩達と待っていたのだ。
 それを確認し──今度こそ、『本島へ定めているだろうアジト』を確認する為に、慎重な『尾行』を決行したのだ。

 その尾行は──今度は気付かれずに『成功』。
 今の時点では、リッキーの大勝利で、これは笑わずにはいられない心境だった。
 あのやっかいな金髪の坊やも……そして、先輩の裏もかいたのだから!

 そして──リッキーが突き止めたのは、房総半島にある、外国人優先の会員制リゾートホテルであったのだ。
 そのホテルは、リッキーが耳にした事があるホテルだったので、ロイにこうして報告していた。

「確か──このホテルが建設された時、御園のパパに勧められて……ロイが会員権を購入したホテルでは?」
「ああ。日本国内でも、外人専用で、その気配りが行き届いた素晴らしいリゾートホテルと評判が良い。美穂と娘を連れて良く出かけている所だな……」
「どうやら──かなり融通が利くみたいですね。彼等の場合──」
「そうか──亮介おじさんが勧めたという事は……純一の傘下かもしれないなぁ? 分かった。俺が会員であるから……必要なら、俺自身も動く」
「本当に?」
「ああ。それに──その『金髪のニャンコちゃん』とやらと、ちょっとばかり話してみたくてね」

 ロイがニヤリと微笑む。
 それに対し、リッキーは暫くは何かを考えていたようだが……。

「同感──。俺もちょっと興味があるというか……色々とね」
「なんだ? 悪戯は禁止だからな」
「当たり前でしょ。俺のタイプじゃないと知っているでしょ。ああいうナイスバディちゃん」
「……そうだったなぁ? 例外はいたかな?」
「皐月は別! それにロイと違って、俺は皐月の事は女性とは思っていないけど、『一番の親友』だと思っているだけだからな!」
「はいはい──」

 妙にムキになって、ロイのからかうような苦笑いを避けるように、リッキーが連隊長室を出て行った。

「確かに──男と女ではなかったな。皐月とリッキーは……」

 リッキーが言うように……皐月とリッキーはフロリダの幼なじみと言ったところで……オチビ軍団で例えると『葉月とジョイ』の関係にそっくりだった。
 リッキーの夢は、皐月の完璧なる『補佐官』。
 父親と同じく、御園を支える『補佐』になろうとしていたのだ。
 ロイは時には……そんな男女の関係が邪魔しない皐月とリッキーの信頼関係を羨ましく思いつつも……やはり、リッキーのように皐月を『一番の友人』という男女の匂いを無視した関係にはなれなかったのだ。
 やっぱり、ロイには美しすぎる女性の他何者でもなかった……。
 そして──皐月はいつだって、困った事はリッキーに相談していたのだから──。

 

 皐月が亡くなったと知った時の、リッキーの壮絶なる絶望した顔……その後の『落胆具合』は、ロイでも慰めきれないほどだった。
 ロイも落胆していたが、リッキーの落胆はロイより長引き、そしてひどいもので……誰もが彼にどんな言葉で元気づけようとしても、リッキーは立ち直らなかった。

 所が──皐月が亡くなって暫くし、葉月がフロリダに引き取られた。
 勿論、この時のリッキーと葉月は、鎌倉とフロリダという離れた土地での知り合いで、ただの顔見知りであるだけだった。
 幼い葉月の記憶にリッキーという兄様は、鮮明ではないかもしれないが、成人しているリッキーには、『皐月に似た愛らしい妹』という印象ははっきりとあったようだ。

『リッキー、葉月が引き取られて、数日前に亮介おじさん達と一緒に暮らし始めたらしいぞ。会いに行かないか?』
『レイ──に?』

 葉月が来たから『挨拶に行こう』とロイが、リッキーを誘ったのだ。
 流石のリッキーも、この時は『夢の相棒』と決めていた女性の妹が側にやってきたとあって、心動いたのか、出かける気になったようだったのだ。

 そして、そこでリッキーが目にしたのは──。
 もう生気もない冷めた眼差しをしている……死んだような顔をした少女だった。

『あれが……レイ?』

 ただでさえ、皐月の事でショックを受けていたリッキーだったが、記憶にある輝くばかりの愛らしい少女であった『親友の妹』までもが、酷い姿に変貌した事に、追い打ちをかけられるよな衝撃だったようだ。
 しかし、葉月の変わり果てた姿を既に見届けていたロイには、想像していたリッキーの反応だった。
 問題は、ここからである。

『こんにちは……ホプキンスのお兄ちゃま。ごきげんいかが?……』
『──!』

 葉月がリッキーを覚えていたのか、以前通りとはいかないが、冷めた眼差しを溶かすようにニコリと微笑んだのだ。

『どうやら……俺達、知っている“兄様”は平気みたいなんだ──』
『! 俺も?』
『当然だろう?』

『ホプキンスのお兄ちゃまは、ロバートおじ様みたいになりたいの? お兄ちゃまも、パパみたいになりたいの? お姉ちゃまがいつもそう言っていたわ』
『レイ──』

 その時から、少しずつ……リッキーが様子を変化させていた。

 また──ある日。

『なんだ。また、来ていたのか?』

 ロイが葉月にと、洋菓子を見繕って会いに行くと、そこにはリッキーが先に来ていた。

『ああ、レイとお話をしていたんだよね?』
『うん。リッキーお兄ちゃま、今日はクッキーを有り難う。とっても美味しかったわ』
『また、買ってきてあげるよ』

『なんだ。俺も買ってきたのにな──葉月はもう、おなか一杯か』
『わぁ! 今度はなぁに? ロイ兄ちゃま!』

『ハロー、レイ! あ! リッキーにロイじゃないか!!』

 御園家の庭に、またもや一人の軍人青年。
 今度は、黒髪の青年『マイク』だった。

『マイク〜! いらっしゃい♪』

 葉月はマイクを見るなり、とっても嬉しそうに微笑み、彼の足下に飛びついていった。
 飛びついたが、左肩は上がらない状態で、いつも右手で思い切り抱きついて、左手はぎこちなく動くだけ。

 ロイはその様子を哀しく眺める日々だった。

『ほら、レイ。チョコレートを買ってきたよ。渚にお散歩に行って、一緒に食べようか?』
『うん!』

『おい、マイク。勝手に外に連れ出して良いのか?』

 まだアメリカに来たばかりで、部屋の外を出るのもやっとだと、ロイは亮介や登貴子、そして、親しくしている父親から聞かされていたので、軽々しく葉月の手を引いて、庭から連れ出そうとしているマイクに眉をひそめる。

『ああ。最近は、お散歩の“お役目”は任されているんだ。ね? レイ──毎日じゃないけど、一緒に良く出かけるよね』
『うん! フロリダのお外──怖かったけど。ちょっとなら平気!』
『英語も上手くなってきたね。レイは、一度教えたら直ぐに覚えて、とてもお利口さんだ』

 そういって、警戒心が強くなってしまった少女をヒョイと外へと連れ出したマイクに、ロイはあっけにとられたのだ。
 どうやら、その時点で、葉月が一番なついているのは『マイク』のようだった。

『アイツ、ほぼ毎日、来ているみたいで。すっかり、レイの虜なんだ──。まぁ……妹が出来たという嬉しさみたいだな』

 取り残されたリッキーが、面白くなさそうに呟いた。

『お前はこそ、どうなんだよ? ここのところ、良く来ているみたいじゃないか?』
『べつに? ……でも、なんだか……レイが笑っているとホッとするというか、なにか……満たされるというか……。それにマイクと同じ感覚かもしれないけど、構わずにはいられないというか……構うと、彼女がその分……癒してくれるというか……やっぱり、妹が出来た気分なのかな?』

 手をつないで、目の前のフェニックス通りを横断するマイクと葉月を、リッキーは遠い目で追いながら……そんな事を囁いた。
 そして──ロイも。

『……ま、分からないでもないな?』

 自分も手土産を持っては、葉月に会いに来ていたのだ。
 そんな自分の手にある、ドーナツが入っている紙袋を眺める。

『なんか。無性に腹が立ってきた! 俺もレイと散歩に行く!』

 つい最近まで、あんなに落ち込んでいたリッキーが、急に? マイクに対抗心を持ったのかどうか分からないが、活き活きしてきたようにロイには見えたのだ。

『──流石というか。皐月の妹も同じなのかな……?』

 ロイは……鎌倉でもそうであったように、皐月と違って女性という対象にはならないだろうが、アメリカに来ても、兄になるような男達を取り巻いていく葉月の……いや、『御園レディの魅力』という物に唸った瞬間だった。

 それからだった。リッキーが立ち直り、御園補佐という夢はともかく、それをマイクに譲るように、自分は『軍隊一優秀な男の補佐になる』と立ち直ったのは──。
 リッキーが選んだ男が、光栄な事に『ロイ』であったという事だ。

 

 話は随分と昔にずれ込んだが……リッキーが『ナイスバディちゃん』つまり『豊満なスタイルの女性が苦手』……というのは──。
 おそらく、『皐月』を思い起こすからだと、ロイは睨んでいる。
 リッキーにとって、皐月とは、手が出せない神聖なる『女性という形をした人』なのだ。
 畏れ多いという意味もあるだろうが、大事にしていた汚したくない存在だから、そういう女性に手が出しにくい、食指が動かない──という潜在意識があるようだ。

 実際に──ロイが見てきた限り、リッキーが選んできた恋人というのは、物の見事に地味であまり騒々しくなく、スッとした静かさを感じる大人しい女性ばかり。
  女性の自信に輝き満ちている女は苦手というのは、そういう潜在意識がまとわりついているのだろう。

 だが、一歩間違えると、この大人しい女性達は、リッキーという軍隊でも特別優秀な位置に置かれているアメリカ人男性に言い寄られて、最初は舞い上がってしまい、慣れてくるとすっかり、リッキーを束縛し、嫉妬心の鬼になってしまうようなのだ。
 恋慣れていない女性が多く、いつも直ぐに別れてしまうのをロイは何度も見届けていた。
 そんな彼女たちにとって、リッキーは『急激に効き過ぎる甘い毒』の様で、ロイにはそう見えてしまっていた。
 だから、ここ数年──自分が欲しているタイプの女性とはバランスが取りにくいと気が付いたのか、恋には縁遠くなり独り身が続いている。

『ああ、マリみたいな女性がもう一人いないかな〜? レイもいい女になってきたけど、どぅーしても妹にしか見えないし』

 それが近頃のリッキーの口癖だった。
 『マリ』とは、水沢真理──水沢少佐夫人の事だ。
 彼女と、側近の一人である水沢が惹かれあってるのは、ロイも分かっていたし、職務に差し障りないように努力している付き合いも見抜いていたが、それをやり通して欲しい反面──実は……リッキーが真理をちょっと気にし、水沢啓《ヒロム》の存在を知りつつも、彼女とあぶなかしい『恋の駆け引き』をしているのも知っていたのだ。
 これは、オチビである葉月は……水沢の事は知っていても、リッキーの気持ちは知るはずもない事で……。
 だから、ロイはなんとなく──そんなリッキーが横取りにならないように、さり気なく真理にアプローチをしているのを知っていたので……葉月の『押し』になんとなく乗ってやれなかったという訳だったのだ。
 だが、真理の気持ちは最初から決まっていたようで、リッキーの危なげな『アプローチ』はロイから見ても、『お見事!』と言いたくなるような機転の良さで切り返し……だからこそ、そんな手際がリッキーに出来る彼女が、相棒と一緒になってくれない事を惜しく思っていたのだ。

 リッキーに今、合う女性と言えば、真理ぐらいだろうし……あのような女性がなかなかいない事も現状であった。
 それにリッキーも潔い。
 彼女が結婚を決めた途端に、きっぱりと『人妻』として大事に扱い、同僚としての一線をきっちりと引くようになり、彼女もホッとして結婚後も職務に励んでいる。

 そのリッキーが、ちょっとだけ──『金髪の美女』に心を動かされている。

 ロイはリッキーが去った一人きりの連隊長室で、部下が隠し撮りに成功したモノクロのスナップをもう一度、眺める。
 なかなかの美女だったのだが──ロイはちょっと片眉を吊り上げる。

「なんだか、違うんだよな? 純一の趣味とは……スタイルは抜群で身体は皐月に似ているが?」

 スタイルもさることながら、顔も絵に描いたような女神的な造りだった。
 むしろ──女神的というより、子供のような無邪気さを感じる天使といった方がいいような?
 だが──天使とか言う神々しさではなくて……なんかこう、もっとあぶなかしい何かを感じさせる眼差しの女性だった。
 そこはロイもスナップを一目見て、気になってしまったのだ。

 リッキーも同じなのだろう。

『純一先輩が、理由はともかく側にと置いてしまった女性』

 女性には素っ気ないが、一度気を許すと、あんなにも甘い純一。
 その彼が『一度、気を許す』というまでが『難しい』事なのだ。
 この金髪の女性は、理由やきっかけはともかくとして、純一の気を一時でも『緩めてしまった』という大変な経歴をお持ちだ? そこにまさかとは思うが、御園姉妹との共通点があるのではないか……と。
 ロイもリッキーもそこが気になるのだ。

 そして──純一は今度こそ、本気で葉月を『引き取ろう』としている中、この女性がどれだけの『愛人』であるのか……。
 そこは、ロイもリッキーも、もう純一が何を言っても止まらない、本気になった事を、確認し……先に起こりうるリスクはまだ考えていないとはいえ、葉月を『預ける気になった』からには、葉月の障害になるような女性は確認し、なんとかしておきたいという……兄心でもある。
 そして、純一がどのような『始末』をするのか見届けておかねばならない。
 酷い結末となり、それが『自分のせいだ』と葉月が責めるような結果にならないように──。

 その為の……『金髪美女』への関心と、対策をロイとリッキーは進めている所だった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 空軍ミーティングが終わった葉月は、皆とのティータイムの時間をずらすように、後からカフェテリアに向かった。
 そこには閑散とし始めている夕方のカフェで、ウォーカー中佐が一人、コーヒーを片手に待っていてくれた。
 どうやら、一息ついたコリンズ一行は、去ったばかりのようで、葉月はホッとしながら、自分の紅茶をオーダーした後、窓辺に位置取っている彼の席に近づいた。

「お疲れ様です。お待たせ致しまして……」
「いやこちらも……すまないね……驚かせて」
「いえ……」

 彼の前に腰をかけると、ウォーカーは、頬杖を付いて窓辺へと視線を馳せたのだ。
 何故か……彼の目尻の皺……そしてまたもや、頬と口元の皺が、笑わずとも、傾き始めた日差しにくっきり浮かんで見えたので……葉月は、ちょっと驚いて目を逸らしたくなったのだ。

(もっと、若々しかったのに──)

 暫く目の前にじっくり向き合う機会がなかったからだろうか?
 ちょっとすれ違うだけの手振りの挨拶をした時でも、彼がこんなに老けて見える事はなかったから──。

「どうだい? ショーのコークスクリューは……こちらも、訓練風景を眺めさせてもらっているけど、磨きがかかってきたね」
「いえ──最初の頃を、ご存じでしょう? 基礎を無視した私とコリンズキャプテンの『無茶苦茶な飛び方』を。それを中佐がご覧になっていたかと思うと、お恥ずかしいばかりですわ。細川中将に、『お前達は期待はずれだった』と言われたぐらい……分かっていなかったのですから……。気が付かせてくれたのは、ウォーカーキャプテンのコークスクリューの演技をビデオで見てからなのですよ」
「でも、君とデイブは……飛び方を見つけたね。俺は、正直……君たちが、訓練の上でも『三回転』──これを成功させたのを確認して、驚愕だったかな……」
「──キャプテンほどの方が、驚愕だなんて。そんな畏れ多いわ」

 ウォーカーが、お世辞でも褒めてくれた事を、謙遜する為に、葉月は笑ったのだが──。
 目の前の彼が、あからさまに苦痛の表情を浮かべたので、葉月はドッキリとして、スッと真顔に戻した。

「誰も気が付かないんだ──」
「はい?」
「もう、正直。空を飛ぶ事に疲れてしまっているんだ」
「!!」

 苦痛の表情のまま彼が呟いたので、葉月はさらに驚いた。
 その顔つきで言った事は、嘘でも何でもなく『本心だ』と通じたからだ。

「ど、どうされたのですか……キャプテンが、そんな事……」

 それに何故? その『最初の告白』を葉月など小娘に打ち明けてくれたのかが、分からない。

「いや、君たちの三回転達成のせいではなくて……今までちょっとずつ感じていた事の積み重ねの最後の一枚だった……ってぐらいで」
「……」

 それでも──彼程のトップパイロットが、葉月とデイブの『いつもの勢いだけの確約もない無茶』をしていただけの事が『驚愕だった』と、その上で『コックピットを降りる』と言われたのは、葉月にとっても『驚愕』である!

「聞いたよ──。デイブも今回のショーを最後に、ビーストームを引退だって?」
「え? は、はい……」
「お嬢も──いったん甲板指揮へと降ろされるとか?」
「は、はい──」

 葉月は忘れかけていた事……今は考えたくない事を思い出さされて、俯いてしまった。
 すると、目の前の若おじ様が『ほぅ』と溜め息をついたので、再度、顔を上げる葉月。

「君もデイブも……悔しいだろう? パイロットとしての栄光は、そんな地位でも指揮への栄光でもなくて……いつまでもコックピットで活躍できる事だ」
「はい。そう……思います」

 葉月も同感だった。
 デイブだって、飛ぶ事が一番の誇りなのだから──。

「デイブはまだ……フロリダに帰るか、ここに残るかどうかで悩んでいるみたいだけど──」
「……」

 あれから、あの件については、デイブとは一言も話し合っていない。
 ──『全ては俺達のチャレンジが成功した後だ』──と、いうデイブのその気持ちが葉月にも通じていたから、お互いに『成功』の為だけの努力に重点を置き、引退と、指揮側への移行については触れないようにしてきていた。

 だが──デイブは先輩であるウォーカーにはそれなりに漏らしていた事を、ここで初めて知ったのだ。

「でもね……お嬢。俺もその気持ちはいつでもあるし、今だって捨てきれないよ。でも──身体と精神力が、気持ちと伴わないんだ。これをコックピット内で感じる事、痛感してしまう事が、一番──辛い。明日はもう、後輩達にばれるかもしれない、明日はもう、後輩達に追い抜かれるだろう──とね……辛いんだ」
「キャプテン──」

 その気持ちは、まだ二十代という体力が盛んである葉月には、理屈では解っていても、同感できる物ではなかった。
 そんな気持ちは、葉月でなくとも、パイロットの誰もが『いつかは来る』とぼんやりと思いつつも、その時が来なければよいと避けているが、将来には来るだろう現実だから、『考えた事もなければ、感じる事はまだ先の事』。
 そんな事に対して、軽々しく『その気持ち、分かります』とは言えるはずもなかった。

「あと五年──若かったら……来年こそは、君たちが試みた挑戦を、『自分が塗り替える』──そんな情熱を持って静観していたと思う。だが……今回はそうではなかった。もう……出来ないと思った途端に、終わったんだと思ったんだよ」
「そんな──」
「いや、お嬢とデイブのせいにしたくなく、こうして正直に話している。解ってくれないか?」
「でも……」

 うなだれた葉月を見て、そこは寛大な大人である笑顔を、ウォーカーが浮かべたのだ。

「それでね──俺の引退は、もう揺るがない決意なんだけど、デイブと君の指揮側への移行の話を聞きつけて、ちょっと相談したくてね──。それが今日の『本題』だ」
「え?」

 にっこりと、今度はいつもの精悍な笑顔を浮かべたウォーカーの様子の変化に驚いて、葉月は顔を上げる。
 彼は、今度は……葉月がいつも感じていた『誰よりも凛々しいトップパイロット』の顔に戻っていたのだ!

「引退と決めたからって、このまま老け込むつもりもないのでね」

 ウォーカーがニッコリと葉月にウィンクをしてくるではないか?
 葉月が首を傾げていると……彼はクスクスと楽しそうに笑い出す。

「まだコックピットは降りたくないだろう、若い後輩達のサポートに付こうかと……」
「はい?」

 葉月は彼が何を言い出したのか解らなくて、眉をひそめた。

「実はね──まだ俺一人の考えなんだけど、ある事を思いついてね。これは──お嬢みたいな大佐クラスの指揮官じゃないと、実現できないと思うんだ」
「な、何でしょう……?」

 葉月はちょっとおののきながら、笑顔を浮かべる。

「デイブをフロリダに返さない作戦って事」
「うちのキャプテンを?」
「ああ、デイブは……いや、子供達がここに残りたがっているそうなんだ。だけど、デイブはここでの役所を見いだせずにいる。それに俺も──もう数年は小笠原の後輩達を見届けてから帰国したい心積もりで……つまり、俺もすっかり小笠原の人間って事」
「つまり──?」

 そこでウォーカーが言い出した事に……葉月は驚き、そして……。

「わ、解りましたわ……検討してみます」
「そ。安心した──。検討するって事は、やや見通し付きそうなのかな? 流石、大佐嬢。こういう事はお嬢ならと思ってね……」
「私でなくても──」

 近頃襲ってきている『虚無感』があったため、葉月は素直にそう呟き、俯いた。

「あれ。お嬢らしくないな──去年のメンテ体勢改革、あれはお見事だったと、パイロット達の間でも評判だったのに」
「そんな事もありましたわね……」

 昨年の今頃だろう。
 山本少佐の理不尽なやり口に、隼人と懸命に対処していたのは。
 葉月としては、隊長としてはある意味意義ある経歴になったかもしれないが、裏側で起こった事に関しては、知られていないだけに、苦いばかりの思い出もある。だから、ちょっとばかり顔をしかめてしまった。

「お嬢とデイブに手伝ってほしいんだよ。パイロットの先輩としてのサポートは俺が……でも、指揮官としての権力というか、広い行動範囲を許される力を持っているかどうかとなると、やっぱり俺はただの一パイロット。そこはデイブも一緒だろう。これは……同じパイロットで最高の指揮位置についているお嬢でないとダメなんだ」
「……」

 また……涙がこみ上げてきそうになって、葉月は自分で驚きながらも必死にそれを堪えた。

 ここで……自分が必要とされている事を再確認できた気がして──。

 でも? と、葉月は首を傾げる。

 何故? 『必要とされていない』なんて……考えるようになったのだろうか? と。
 それがウォーカーが提案した話に驚く事より、気になってきてしまったのだ。

 いつもなら『面白そう、私、やってやるわ!』と、自分でもすぐさま飛びつきそうな提案だったのに──。
 『お嬢でないとダメなんだ』と言われて、涙が出るほど嬉しかったのに──。

 そこで、『検討する』という事と、次にいつ話すかという事まで約束をしてウォーカーとを別れた。

 でも──葉月の中で『やる気』と言う物、『やってみたい』という情熱、そして……『完全に乗り気にならない』。
 そんな『虚無感』は、まだ健在だった。

──どうしたのかしら? 私──

 そう思うと、また何故か意味もなく涙が出てきそうな気分だった。
 まるで……彼がコックピットを降りる、と言った気持ちが……今なら『解る』とでも言いたくなるような……そんな気分だったのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 つい半月前のこの場所は、『幸せ』を感じていた場所。
 そして──ある日突然、『不安』を運んできた場所。

 白いテラス、波打ち際だけこのホテルが照明をほんのりとあてているので、そこだけ……繰り返し、繰り返し、白く泡になる水色の波。
 その先は、絵筆で塗り込まれたような夜のとばりへと吸い込まれ、見えるのは、数々の小さな星の明かりだけ。

「ふぅ……」

 シャワーを浴びた後、彼女は金髪を結い上げ、一人……冷蔵庫にあったシャンパンを開け、グラスに注いで飲んでいた。
 半月前、この部屋に一緒にいた『彼』は今はいない。
 この豪勢な部屋は、アリスが一人で使わせてもらう事に──。

『俺は、今日から忙しく、外に宿を取っている──お前はここで留守番だ。毎日、ジュールとエドが交代で来るから、大人しくしていて欲しい』
『分かったわ』

 アリスが素直に承知すると……なんだか、純一が驚き、でもホッとしたような顔をした。
 それに、アリスは頬を引きつらせる。

(義妹と会うのね!?)

 父島の滞在を終えて、純一が『仕事は終わった』と言った時……アリスは少しだけ、期待をし、その僅かな期待に、存分の希望を込めてしまっていた。

『サワムラとも義妹とも決着がついた!』

 そう思いたかった。
 実際──純一と部下の二人が、軍側の作業着を着込んで帰ってきたあの日。
 三人は何かを達成したかのように、清々しく帰ってきたのに……それだけではないような『戸惑い』みたいな『噛み合わない』雰囲気を数日間、漂わせていた。

 エドは時折、作業をしている手を止めては──遠い目で考え込んでいる。
 そして──ジュールも同じだが、こちらはこちらで……何か迷いが吹っ切れたように、休む間もなく『何かに対して、懸命に走り回る程の手配に必死』といった様子で、誰よりも迫力ある行動力を発揮していて、アリスが近寄ると、火傷でもしそうな? 跳ねとばされそうな? そんな近寄れないオーラを放っていた。

 そして──『ご主人様』の純一は……。
 また──部屋に籠もったきり、でも──ジュールとひそひそと、何かしら忙しいが為に、『籠もっている』と言った感じであった。

 『終わった?』とは言い切れないような、忙しさや、様子の変化をアリスは感じていたのだが、それでも純一が『もう、ここには用はない』とばかりに、逃げ出すようにあのちっちゃくて、住みにくい別荘を退陣した。

(航空ショーはどうなっちゃったのかしら?)

 まぁ……アリスとしては、義妹とサワムラが関係しているだろう催し物になど……行かなくて良いのなら、その方が気持ちが良かった。
 元々、戦闘機が轟音をとどろかせて飛び回るだけのショーなんて、興味なんかないのだから。
 これで、サワムラとは『ケリ』がついたから、『航空ショーなんて見に行かなくて良くなった』と純一が言い出せば、それで良いのだし……それを祈っている。

 父島を出て、アリスはホッと──何かから解放されたように、胸の重みがのいていく気分を味わっていた。
 あの島にいるだけで……すぐそこにあると判明した『見えない脅威』が、日々、アリスを圧迫し続けてきていたから──。

 また──半月前、日光や能登への温泉旅行をしても、『帰ってくる拠点』として使っていた白浜のホテルにファミリーは戻った。

『イタリアへ帰る準備をするの?』

 元のスイート部屋に純一と一緒に入室して、アリスは直ぐに尋ねた。

『いや? まだ、やる事が残っている』
『! それってなに?』
『そうだなぁ。航空ショーを見に行くとか──』
『!』

 とぼけた口調で、顎をさする純一の態度に、アリスはカッとなった。

『馬鹿じゃないの! 目の前の島である行事に行く予定なのに!? また、こんな離れた本島に戻ってしまって? それで、また? あの遠い南の島へ行くって言うの!?』

 まだ『ケリがついていない』事を知ってカッとなったのではなく! 
 そんな面倒な手間をかけてまで、その航空ショーにこだわっている、イコール、まだ、サワムラを気にしている事。イコール、サワムラの側にいるだろう義妹にこだわり、あまつさえ、こんな手間を『黒猫たる男』がかけている事……そんな馬鹿馬鹿しいまでの純一の『健気さ』を初めて見たような気がして……。
 誰に対しても、無表情に冷たい顔、『自分がボスだ』という堂々たる揺るがない威厳──それがアリスが愛している『純一』だった。

 それなのに……それなのに!
 彼の一声で、誰もが顔を青ざめ、緊張するほどの権力を持っている男なのに──!

(どうして? 義妹は……ジュンをこんなにダメにしちゃうの!?)

 それが悔しくて、堪らなかった!
 アリスから見ると、もう純一は彼女しか見えていないほど……彼女に会う為なら『どんな手間も惜しまない』と……強靱な『黒猫ボス』ではなくなっている気がして愕然としたのだ。

 そして──そんなふうに、いきり立つアリスを見下ろして、致し方なさそうに溜め息をついたのだ。

『それほど怒るのなら──お前はもう、俺の気持ちは充分、理解していると言う事だな』
『──!』
『……今、ここで……じっくり話し合っても構わないが──』
『……』

 そこには覚悟を決めている澄んだ黒い瞳が、アリスを真剣に見下ろしていた。
 久しぶりに純一と、一対一で向き合っていたが、彼の眼差しは『本気』だった。
 なにもかも覚悟したという『本気』だ。
 それに対して……アリスは……。

 目を固くつむっただけだった──。

 そう……彼ほどの覚悟が出来ていなかったのだ!
 今の自分をみたら……きっとジュールがまた憤慨するだろう──アリス自身がそう思うほど、自分で初めて『覚悟』という物の意味を痛切に知った様な気がしたのだ!

 ジュールとエドが激励してくれた『アリスの覚悟を応援するモーニング』。
 それをしてくれたのも、この房総のホテルだった。
 あの時の『覚悟』は……今思えば『ただ、知りたいから前に行くだけ』の小さな決心だった事に過ぎない──それを今、アリスは切々と感じる。
 『覚悟』の痛さを──今、初めて知った!

 そして──。

『今は……いい。ジュンの好きなようにして……それで……』
『言われなくてもそのつもりだ。悪いが──当初から言っていたように、二人の女性以上にはならない。俺は……今回は、義妹と真っ正面向き合ってみたい。今まで、それが出来なかったのだが──俺は本気だ』
『解っている──』

 情けない事に……『完全に義妹と向き合って結果が出るまで』……アリスは純一からの決定的な『別れの言葉』を避ける事にしてしまったのだ。
 もしかしたら? ジュンと義妹はうまく行かないかもしれないじゃないか?
 そうなったら、また純一の側に……愛人でもいる事が出来るじゃないか?

 今ここで、完全に切られたくなかった──。
 だから──向き合う事を、避けてしまった。

『そうか──だが、俺はもう四六時中、お前の側にはいられない。むしろ……お前の事は暫くは放っておく事になるだろう。ジュールとエドに全てを任せるつもりだ』
『解っているわ』

そして──この晩。

『俺は、今日から忙しく、外に宿を取っている──お前はここで留守番だ。毎日、ジュールとエドが交代で来るから、大人しくしていて欲しい』
『分かったわ』

 と、いう『契約』を交わしたのだ。

 だから──たった一人でのんびりとこの豪勢な部屋を使っていた。
 美味しいシャンパンに、行き届いたサービスは、ジュールやエドが不在でも完璧のホテルだ。

 だけど──何故だろう──。

 アリスはピンク色の泡をちらちらと揺らしているシャンパングラスを傾けて、シャンデリアの明かりに透かす。
 涙が出てきた。

 こんな洒落た贅沢を独り占めに出来ても、心には風が吹きすさぶばかり。
 ここに……一人きり。
 こんな寂しい事はなかった。

──どうすればいいの? このまま捨てられるの? ──

 でも、ここで何もかも諦める事は、義妹に対して、負けを認める事になる。
 それだけは……いやだった。
 でも──相手はベールに包まれたままの女性。
 年齢も容姿も解らない。

 だけど、アリスが大切に思っている、自分の居場所『黒猫のファミリー』の男達を、彼女はいとも簡単に魅了しているじゃないか?

 何が違うのだろう?
 それだけでも──アリスは知りたい。

 だから──涙を拭って、シャンパンを飲み干した。
 そんな一人きりの夜……。

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