・・Ocean Bright・・ ◆ウサギ覚醒◆

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8.青空にむかえ!

 その日の朝──それはとても快晴で、空は何処までも澄み渡っていた。
 部屋のカーテンを開けて、隼人は、その空を満足げに眺める。
 眺めていたのだが……それが次第に、心の奥にうずいている『虚しさ』が顔を出し始め、感覚として大きく感じてくる。
 それを認識し、振り払うように、その窓辺から離れた。

 カーテンは何故か……水色だった。
 先程、窓辺に立つまでは、隼人の部屋を爽やかな水色のフィルターをかけたように、朝日が透けて通り抜け、ぼんやりと照らしていた。

 この部屋に戻って最初にした事が……カーテンの購入だった。
 昨年、この島に転属してきたまま、サイズが合わないブラインドで誤魔化したまま……『彼女』の自宅に移ってしまったから、そのままだった。
 この官舎だって……もう少しで『解約』をするところだった。
 結局、忙しさに紛れてそのままにしてもらっていたが……それが──。

「こんな風に戻ってくる為に……残していたみたいだな……」

 隼人はボクサーパンツ一枚で眠っていたので、素肌の上半身に白いティシャツを着込みながら溜め息を落とし、ベッドに腰をかけた。

 なんだか──今の自分は、とてつもなくだらしがない顔をしている……と、自分でも思った。
 口が半開きで、目はうつろに、水色のカーテンを掛けている窓辺へと向けられ……そのまま。
 何を考えているかって? なにも……考えちゃいない。
 考えてはいけないのだ──。

 ただ──。

『カーテン……その内に一緒に選んであげる』

 この部屋に彼女を初めて入れた日に……彼女が言ってくれたあの言葉。
 忘れていない──。
 カーテンを選んであげるから、『危ない任務』から、絶対に帰ってきてね──。
 彼女が……そんな事がすんなりと言葉で表現できない彼女が言ってくれたあの言葉を忘れてなんかいない。
 だからだろうか? この部屋に戻ってきて……それが『哀しい』と分かっていても、隼人が選んでしまったカーテンの色は……。
 彼女の部屋、いつも一緒に寄り添って眠っていたあのミコノスの色彩を思わせる青い部屋の光彩を調整していた『水色のカーテン』。

 それの『光彩』が……隼人の眼に感覚に、日常に刷り込まれている事を、嫌と言うほど味わった。
 その光彩のない夕暮れも、夜も朝の日差しも……そんな官舎の自分の部屋は、変に居心地が悪かった。
 それで、哀しいが──買ってしまった水色のカーテンを、部屋に掛けると……妙に落ち着いた自分が否めなく、そして、落胆したのだ。

『カーテン……その内に一緒に選んであげる』

 そんな彼女の言葉が──『だらしがない顔』をしている隼人の脳裏をもう一度過ぎった。

『私の精一杯の愛しているを、ちゃんと受け止めてくれて、有り難う』
『ちいちゃくても私の愛しているをもう一度言うわ』

 そんな彼女の最後ともいうような振り絞った声も蘇ってきた。

 こんな状態には『してしまった』のだが、彼女は確かに、俺を愛してくれていた。
 ちっちゃくてもちゃんと愛してくれていた。

 その事実がある事は救いであり、そんな事実があったからこそ──どうにも哀しくて仕方がない。
 うなだれて座りこんでいるベッドの縁で、隼人は拳を力強く握った。

(まだ──今なら、間に合う!)

 そうだ! 昨日、達也が言った通りに、本能のまま『彼女を奪って、さらえばいいじゃないか!?』──急にそう思った。
 つい1ヶ月前、何があっても『俺は絶対に葉月は手放さない』と必死だった自分に、『忠実に』戻ればいいのだ──!!

 だが、しかし……と、隼人はふと我に返り、ベッドに背中から倒れて寝ころんだ。

「だから──何度も何度も、この道順を辿っては、“ここ”に来てしまったんじゃないか!?」

 寝ころび、握っていた拳で朝日を遮るように、目元を覆った。

 そんな『中途半端』で、何かで誤魔化したような『自分』が一番、嫌なのだ──隼人の場合。
 判っている事──『葉月が無理矢理消そうとしている気持ち』も『潜在意識』も、見て見ぬふりをして手に入れたとして、どうして? そこに真実ではない『暮らし』に満足できるだろうか?
 むしろ──その『妥協』をしてしまう事が、隼人には、葉月が振り向いてくれない事より、ずっと嫌だった。

 それは、葉月が隼人を騙している──云々より、隼人的には『以前の問題』なのだ。

『そこまで、自分を追いつめなくても──苦しいじゃないか。兄さん、いつか絶対、壊れる。人間は、皆、何処かで少しは狡いんだ。悪い事じゃない』

 達也はそう言ってくれた。
 何日も、何日も──『そこまで自分を白くする必要はない』とか言っていた?

 それでも『釈然』としないから……苦しくても、ここに帰ってきた、辿り着いたのだ。
 それはもう、達也も呆れながらも承知済であり、なにやらヤキモキしながら見守ってくれる姿勢に固まったようだった。

 

 急に──寝ころんだまま、身体が動かなくなったような気がする。

 朝の五時半だった。
 今日は、7時に出る連絡船に乗る為、その時間に桟橋にメンテチームは集合だ。
 そして、甲板に出て早々に本番機のメンテチェックと、段取りをメンバー達と息を合わせておかないといけない。
 澤村チーム、初の大舞台だ。
 7時半には、コリンズフライトチームが『本番前、最終演習』を行う事になっている。

 『本番』の当日を迎えていた。
 なのに──急にやる気がなくなったような気さえする。

『式典のフライトショー。これだけは彼女とやり遂げたい。この日は一緒にいさせて欲しい──』
『解っている。その日は外す心積もりは、最初からあったから心配するな──』

 先週、黒髪の細長い男と交わした『約束』を思い出す。
 隼人が、何故──『兄貴が本気だ』と判っても、ここまで自分を律してこられたのかというと、やはり『式典』があるからだ。

 メンテチームを組み、彼女の機体を自分の手と目で、空へと送り出す。
 これを夢見て──怖じ気づいていた事も、おぼろげだった事も、この一年、必死に手元に引き寄せてきた。
 その集大成がこの『葉月とのフライトショー』だ。

 その当日だ。
 この日の為に、やって来たのだ──律してきたのだ。
 だからこそ──。

──『これが済めば……兄貴が葉月を迎えに来る』──

 隼人にはそんな確信とも言える予想があるのだ。
 葉月は、まだどんな気持ちで待っているか知らないが──妙に落ち着いている所を見ると『もうすぐ来る』という事も、分かっているように隼人には見える。
 そして──彼女は『気持ちを固め』ている様だが……何処か、まだ『ここを捨てきれない』という迷い、それを隼人も見抜いていた。

 実は、そんな葉月を見守るだけにしているのだが、非常に『ハラハラ』している自分がいた。

『お前──ここで、納得できるようにしてくれないと、俺、ただの馬鹿になるんだからな。しっかりしろよ!』

 なんて──。

『葉月ちゃん、なんだか綺麗になったみたい……』

 真一のあの言葉、達也と顔を見合わせて驚いた。
 確かに──隼人も達也も、同じ事を感じていたのだ。言葉で確かめ合ってはいないが、達也がそんな葉月の変化に非常に戸惑っているのを、隼人は知っている。
 急に血が通ったように熱っぽい眼差しをし、瞳を潤ませ……そして時にはほんのり頬を染めては、ぼんやりというか恍惚な眼差しというのか? そんな葉月の艶っぽい顔つきを見ては、彼はそわそわしていたのだから。
 達也の『あー。俺どうにかなりそう。どうしよう、ああいうの弱いんだ。今、二人きりになったら、何かしてしまいそう』なんて発言を聞いた時は、流石に隼人もドッキリとして『そんな事、絶対にするな。ややこしくなる』なんて、本気で釘をさしてしまった程だった。

 つまり──そんな『艶っぽい彼女』のぼんやりと遠い眼差しに、二人の側近男が引き込まれながらも……そこにいる葉月には、二人は見えてなくて、ここにはいない遠い男を想っているのだ。
 そして、今まで誰にも明かさずにひっそりと抱えてきた『気持ち』が、ほわっと桃色だか薔薇色だか分からないが、そんな色を周りにふんわりと放っているようなのだ。
 それほどの変化……いや、奥に押し込めていた『ウサギ嬢様の正体』に、隼人は自分の手が起こす事が出来なかった悔しさを噛みしめ、そして、達也はすっかり魅せられ、当てられている。

 なのに──彼女はそんな夢から急に覚めたように、今度はしっとりと瞳を曇らせ、濡らしている。
 唇をキュッと噛みしめて、そして──目が覚めたウサギはまた楚々としたいつもの氷の姫様に戻ってしまう。

 今の葉月は、その繰り返しだ。

『とっとと、兄貴の所にいっちまえ!』

 隼人は心の奥で、そうして葉月を煽っている事もあれば……

『……やっぱり、ここも彼女が築き上げた大事な場所なんだ』

 と、ここに残ってくれる事を期待してしまう自分もいる。

 だが──絶対にして欲しくない事は、『無理に本心を消す』事だ。
 彼女が純一という一の男に、正真正銘、踏ん切りがつくのなら──隼人だって抱きしめたい。
 今すぐにでも抱きしめたい。

 だけど──あれだけ恍惚と遠くを見据えている『美しき変化』をしている彼女を見ると、絶対にそれはなさそうなのだ。
 それなのに──もしや? 『部下を見捨てられない』なんて理由で、『我慢』をしてしまう事を隼人は一番恐れていた。

『だめだ。そんな仕事と自分以外の人間の気持ちは二の次だ! 葉月、自分の為に、自分の為だけに考えるんだ!』

 迷いを見せている彼女に、隼人が一番、念じているのはそこだった。
 もう、今までみたいな手引きは絶対に出来ない。
 してはいけない。
 今度こそ、彼女自身が考えて、彼女自身が自分でヒントを見つけて、隼人の手引きなしに、糸解きをする時なのだ!

 そうしてハラハラしながらも、黙って平静に……見守ってきた日々も、意外と隼人の心を振り回してくれるばかりで、別居しても、彼女の行く先ばかり案じる日々で虚無感なんか感じる間もなかった。
 我ながら──どうして、どうして?? こんなに彼女の事ばかり考えてしまうのだろう?
 自分でも呆れるのだが、隼人は知っていた──『これが本当に愛してしまった』という事なのだと。
 それこそ、達也が言っていたように『理屈』もへったくれもない。
 彼女があんなに他の男の事を考えていても、今まで通りに、彼女がちゃんと歩くかどうか? 引っ込まないか、後戻りしないか……なんて心配ばかりだ。

 

 それが──この朝になって、今、たった今……虚しさとか悔しさとか寂しさとか、そんな物が急に隼人を襲ってきた。

 この式典の当日まで──これが隼人の『活力』だった。
 これが終わったら──? もしや──?

 気が遠くなりそうだ。

『本当に、葉月がお前さんの日常から姿を消しても、本当にそれでも良いのか?』

 静かな黒い眼差しをした彼の一言も蘇る──。

(これが……そうなのか)

 この気持ちと感触──これが『理論で賢く理解している事と、現実で起こる事を心で感じるのは違う』と彼が言っていたが、この事なのだろうか。
 覚悟はしていたのだ──隼人自身が納得して選んだ事、苦しくてもこの状況を甘んじて受け入れる事が『覚悟の始まり』のはずなのだ。

 そのまま、隼人はベッドに横になっていた。
 本当なら、今頃は、真っ赤なメンテ服を今日は直接着込んで、管制塔に直行の予定なのだが──。

 

──ピンポーン──

 チャイムが鳴る。
 しかし、隼人には聞こえているが、聞こえていない状態に等しかった。

──ピンポーン……ピンポン、ピンポン!!──

 チャイムは鳴りやまず、そして、徐々に鳴る間隔が狭くなってくる。

『おーい! 兄さん? まさかキャプテンが寝坊って事はないよな〜。なぁ〜兄さん? 起きているんだろう〜。寝ているなら、押し入っちゃうよぉーー?』
「……」

 やはり、達也だったか……と、隼人はなんだか急に起きあがる気力が湧いた。

「なんだ──早いじゃない……か!?」

 渋々としながら、玄関を開けると──そこには、白い正装服をパリッと着込んで準備万端の達也が立っていたのだ。
 黒髪も今日は綺麗に櫛を入れて流しているし、香水の香りがいつもつけている香りではなかった。
 あまりの立派さに、隼人はあっけにとられていたのだが、達也も何故か同じようにぽかんとした顔で隼人の全身を見下ろしていたのだ。

「いやっ! 隼人さんたら、私の前でそんな、はしたない格好!!」
「あのな〜……」

 途端にいつものふざけた女言葉(おそらく葉月の真似でもしているのだと、隼人は思っている)で、女の子のように両手で顔を覆った達也に、隼人は顔をしかめる。
 確かに素肌にティシャツ一枚、それに、身体にフィットするグレー色のボクサーパンツ一枚の姿で出てきたのだから。

「まだそんな格好だったのかよ!? メンテの集合時間、七時だろう? 俺も早めに出て最終チェックなんだ。ジョイとテッド達も出てくるからさ。なんなら、俺の車に乗せてあげようと思って」

 そう──つい最近、ついに達也念願の『新車』が小笠原に届けられたのだ。
 達也は早速、通勤に乗り始め、隼人は出勤も帰りも良く乗せてもらっていたのだ。
 本当にまるで……『葉月』が『達也』と入れ替わったような生活になった……と、言っても良いくらい、達也と過ごす時間が多くなっている。

 先程の『俺を律している』という話では『式典に辿り着くまでの気力』が源であったと言ったが、この男相棒が『側でなにげなく見守ってくれる』という事も大きな活力であった……事も大きな支えだったと言えると隼人は思った。

「サンキュー。今すぐ、支度する。入ってくれ──」
「あーい」

 立派な男に変身していると思えば、達也はそんな風に隼人の前では本当に気兼ねがない後輩みたいにして、甘えて入ってくる。

「ちぇ。朝飯も食っていないみたいだな。ありつけると思ったのに」

 達也は上がるなり、綺麗な台所を見てがっかりとした溜め息をついている。
 隼人は部屋に入って、やっと作業服を手に着替え始めた。

「ちゃんと礼服も準備したのかよ?」
「しているよ。スーツカバーに入れておいている」
「それならいいけど……」

 達也も何か予感があったのだろうか?
 隼人の急な『やる気のなさ』──。
 心配そうに、着替えを始めた隼人の部屋を覗き込み、入ってきたかと思うと、準備してある礼装のスーツカバーをチェックして安堵しているようだった。

「昨夜──家族とどうだった?」
「ああ。御園一家が玄海で食事だったから……俺達はBe My Lightで。親父が結構、あそこを気に入っているんでね。弟も美沙さんも喜んでくれた」

 すると、達也が深い溜め息をついた。

「本当なら……『玄海』で両家揃っての、めでたい食事のはずだったろうに……」
「……」
「あ──俺、こういう所、遠慮しないから。でも、気に障ったのなら許してくれな」

 そして、それを言われると隼人も痛い所なのだが、達也は『ワザと言った』とばかりにツンとしていた。
 彼としてもまだ『間に合う』と思って、隼人が葉月を必死に引き留めるのを望んでいるのだろう──そして、その『間に合う』の期限が、あと僅かしかないから、煽るように平気で口にしている事も、隼人には通じている。

 

 昨日──隼人の家族を大佐室へ案内すると、そこにはロイの連隊長室で一時の談話を終えた御園夫妻が、澤村一家を出迎えるように戻ってきていた。

 陽気で立派な中将将軍の父親。
 そして──清楚で聡明そうな静かなたたずまいの博士母。

 その上品で華やかな『夫妻』の側には、紺色の学生服を着込んでいる孫『真一』まで仲良く寄り添っていて、父親の和之はともかく、継母の美沙と和人は圧倒され、言葉を失っていたようだった。

『初めまして! いや、娘がご子息に随分とお世話になっておりまして、お礼申し上げます』
『葉月の母です。初めまして──隼人君がフロリダに来て下さった時は、本当に素敵な一時を過ごさせて頂いたのですよ』

 亮介と登貴子の優雅な自己紹介と挨拶に、対等に受け答えしている父和之を見て、隼人はホッとしていた。
 美沙は、やはり若い故か、夫の和之の背中でおどおどしている風もあったが、登貴子の柔和な話しかけに、いつの間にか肩の力も抜けたようで、両夫妻がソファーで揃って、緊張感がみえつつも、穏和な雰囲気での会話が始まっていた。

『和人兄ちゃん! 久しぶり!』
『おう! やっ、これが医学生の制服? かっちょえー!』
『和人兄ちゃんも、粋だね〜! 女の子にもてるでしょ! このっ』
『まぁね』

 青少年達は、座るのも落ち着かない様子でお互いをつつきあっては楽しそうに打ち解けていたのだ。

『カフェに行かない? 俺がおごってあげる』
『おごりじゃなくていいよ。でも、行く!!!』

 結局、葉月がミーティングから帰ってくるまで待ちきれなかったのか、青少年二人は達也の付き添いで早速、基地探検に出かけてしまうほど、楽しんでいたようだ。 

 無事に両親の対面が済んだのだが──『今夜ご一緒に、お食事如何ですか』という亮介の気の良い誘いを、父和之が、やんわり断っていた。
 隼人は、そこを上手く察してくれた父に感謝していた。
 『家族水入らずで、葉月君と過ごして下さい』と言う和之の落ち着いた態度に、亮介の方が妙に圧されているようにもみえる。
 こう言う時に、隼人は『親父はすごいな』と思ってしまうのである。
 ああいう周りに流されない威風堂々としている所が──。
 それで隼人は救われていた。

 ミーティングで帰ってきた葉月も、構えていただろう。
 緊張した面持ちで、大佐室に帰ってきたのだが……両家の両親が穏和に向き合って笑い合い、紅茶を味わっている雰囲気を見届けてホッとしていたようだった。

『やっぱり、お父さん──うちを食事に誘ったよ。俺の親父が水入らずを理由に断った』
『──そう』

 葉月は少し沈んだ表情を一瞬浮かべたのだが、本当に一瞬で、いつもの無感情令嬢の冷たい顔でそれだけだった。
 その後、和人が戻ってきた為、葉月はまた……和人の生意気な口に楽しそうに笑いながら受け答えして、真一を伴って管制塔にある整備中の戦闘機が並ぶ車庫へと出かけようとしていた。
 勿論──隼人も一緒に行った。
 二人は何気ない、いつもの『仲の良い恋人同士』の振りをして──。
 和人は大喜びで、コックピットに乗せてもらったり、特別にもらった撮影許可にて、存分に整備中の機体をデジカメで撮影し、本当に楽しそうだった。

『明日はもっと楽しみ! 葉月さん、何号機?』
『二号機よ。最初に飛んでくる二機の左側よ。尾翼に“2”とペイントされているけど見えるかしら?』
『オペラグラスでみえるかな?』
『達也から、訓練用の望遠鏡貸してあげられるように頼んであげるわ』
『やった! 頑張ってね、葉月さん! 事故がないようにね! 俺、応援している!!』
『有り難う』

 弟と彼女の息は──連休に出会った時のまま、ピッタリだった。

 そんな家族との滞りない彼女との関わりをみてしまうと、やっぱり隼人の心はズキッと痛んだ。
 しかし──笑顔を努めている葉月も……無感情で平静な振りをしているが、同じだろうと隼人は思い、なんとか堪えたほどだ。

 そんな対面を見届けた達也は、益々『不機嫌』なのだ。

『あそこまで両家が打ち解けているのに……こんなことってあるか?』

 と、言うのだ。
 でも──彼は滑走路で、隼人に向かって割り切ったように『もう多くは言わない』と言う姿勢で、なんとか流してくれている。

 そんな昨日の対面だった。

 

「兄さん──辛いだろうけど、こればっかりは自分でやり遂げるって決めていたんだろう?」
「ああ──」
「今日は俺が兄さんの側にいるから……」

 紅いメンテ作業服に着替え終わった隼人を……達也が切なそうに見つめていた。
 そんな彼の『仔犬』みたいな無垢で優しい眼差しを、ここのところ良く見るようになり、隼人はその度に微笑んでしまうのだ。

「達也の家族も──招待できたら良かったのにな」
「無理無理! 言っただろう? うちは『ワイン様』が一番なんでね。今この時期は、収穫が終わって仕込みに大事な時期なんだって。式典がこの時期じゃなきゃ一度は来てくれていると思うけど」
「その内に、何かを理由に、親父さんだけでも小笠原に招待しろよ」
「まぁね〜……今、こういう状況だと、うちの親父も納得できないだろうな〜。親父も葉月ちゃんファンだから」
「そっか」
「落ち着いたらな。そうしようと思っているよ。俺も──親父とじっくり向き合って話し合いたい事とか色々あって、『そろそろ』ね」
「──『そろそろ』?」
「ああ、いや。こっちの事」

 急に達也の顔が強ばり、隼人は首を傾げたのだが──。
 彼なりに何か『解決したい』事があるかのような決意にも見えなくもなかった。

(もしかして──母親の事かな?)

 行方不明だと聞いているが……。
 葉月には口にするなと釘をさされているし、自分で口にしておいて、やっぱり達也はそれっきり黙り込んでしまった。
 その顔つきが天真爛漫な彼らしくなく、今度は隼人が気遣って、そっとしてみたりする。

「よし、行こうぜ!」
「ああ──目が覚めた」

 達也と話しているうちに、隼人も『やり遂げたい事』と決していた『強さ』が戻ってきた──。

 官舎を出ると、遠く澄み切った秋の空が何処までも青く広がっていた。

「朝方は涼しくなってきたな。甲板の上は暑いだろうけど、兄さんのデビュー戦だもんな!」
「ああ……そうだ。俺達のデビュー戦だった」

 デビューだが……彼女を飛ばすのはこれが最後かもしれない。

 隼人は空を見上げ微笑む。
 微笑むが──そこにはやはり多少の『虚しさ』が『やる気』の中に混じっているのは否めなかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『おっす!』
『おはよう!』

 本部に入ると既に、総合管理官の青年達も白い正装姿で、忙しそうに……そしてそわそわとしていた。

「お、ジョイの正装姿初めて見た。決まっているじゃないか〜」
「そう? 隼人兄も本番だねー頑張ってね! 観客席で接待しながら応援しているから」
「サンキュー。親父さん達は?」
「ああ、うちはロイ兄の家に宿泊しているんだ。昨夜は遅くまで付き合わされてさー。こっちはホストで朝早いって言うのにー」

 そんなジョイが何故か疲れた顔をしているのだ。

「そう言えば……親父さん達は大佐室に来なかったな?」
「え!? ああ……今日はくるんじゃないの〜?」
「?」

 隼人がなにげなくそう言っただけなのに、ジョイが何故か取り繕うように慌てたように見えた。
 すると、達也がテッド達となにやらニヤニヤしているのだ。
 隼人は首を傾げながら、大佐室に入ろうとすると、達也が追って隣に並んだ。

「昨日さ〜テッド達とフランク准将に挨拶に行ったら、何があったと思う?」
「さぁ?」

 隼人がなんだと訝しんでいても、達也はニタニタしながら、妙に怯えているようなジョイに向かって肩越しに振り返る。
 ジョイはビクッとしながら、視線を逸らしたじゃないか?

「ジョイの妹じゃない、可愛い子ちゃんが同伴だったんだぜ?」
「へぇ?」
「ジョイったら……隠れるように葉月に紹介していたんだぜ? あれは親公認と見たね」
「──えっ!!」

 今度は隼人が驚いて振り返ると、そこにはもう……ジョイは逃走するようにいなくなっていて、テッド達に、来賓を迎えに行く指示をしているのだ。

「そ、そうなんだ」
「あれだな。俺達にからかわられるのが嫌なんだな。すんごい可愛い子だった。くっそ〜俺が口説きてぇってくらいにね」
「へぇ!」
「あれは葉月は知っていたな。ああいう所、あの二人はほんと姉弟みたいに結束して、俺達にも漏らさないんだ」
「へぇ〜! ジョイにもね!!」
「そろそろいいんじゃないか? ジョイだってもう25なんだから」
「じゃぁ──そっと見守ってやらないと、ジョイはこういう事を外部に知られる事になれていなくて、変な意地を張って勿体ない事にならないように」
「まぁ──そのつもりだけど。ジョイも彼女に対してまんざらでもないようで? 昨日、二人きりで基地を廻っていたから、結構、人目に触れていたと思うね」
「そりゃ大変だ。ジョイファンの女の子達が泣いているな〜」

 驚きを交えつつも、二人揃って大佐室に入ると……。

「おはよう」
「!」

 大佐席後ろの大窓前に、葉月が立っていた。
 紺色のかっちりとしたショー用の飛行服を着込んで……。
 その姿が、あまりにも凛々しかったので、隼人と達也は揃って黙り込み、見入ってしまっていた。

 肩まで伸びた栗毛の細い毛先が、朝日に透けて金色に染まっていた。
 立て襟つめの紺色のジャケット、襟には白いスカーフを織り込んで、足のサイドには白いラインが入ったスラックスに、黒い飛行ブーツをきっちりと履き込んでいた。

「お、おはよう……」

 二人揃って、返事をする。

「いよいよね……」

 彼女はそういうと、疲れたように革椅子に座りこむ。

「お前──大丈夫か? ちょっと顔色悪いぞ? 本番前なのに──」

 確かに、葉月の顔色は……色白であるのだが、いつもより頬に赤みがないように思え、隼人が見入っている間に、達也が大佐席にすっ飛んでいった。

「大丈夫よ。昨夜もぐっすり眠ったもの。本当よ──ただ、朝、起きあがるのがちょっとだるかったわ。おかしいわね?」

 葉月は致しかたなさそうに、微笑みながら、額に被る前髪をかきあげていた。
 彼女も──隼人と同じ何か……やる気のなさを感じていたのだろうか?
 隼人はそう思った。
 達也も同じくそう思ったのだろうか? 大佐席に突っ走っていっても、彼女と向かい合ったまま心配そうに黙って見下ろしているだけだ。

「こういう事は、今まで訓練をしてきた中でも、何度もあった事よ? それを超えて、訓練をしてきたんだから。なんてことないわ──」

 そういいながらも、葉月は席を立つ気配を見せず、ぐったりと座りこんだままだった。
 流石に隼人も心配になって、側に駆け寄った。

「その慣れない服のせいじゃないか? 随分とデザイン重視の固そうな服だって評判だし」
「うん……でも、搭乗する時は、スカーフは外しても良いという指示はもらっているから……。キャプテンと幾人かのメンバーは飛行後、航空ファン相手のサイン会に出るのよ。その為の衣装みたいな物だって、皆言っているから──ただ、来賓の前ではきちんと着ておけって監督に言われているから……」

 そうなのだ。今日は国内の航空ファンも沢山やってくるとみられている。
 何故、葉月がそのサイン会に出ないかと言えば、それは細川の判断らしく、大佐という地位にあり女性という事で、もし出るなら、警護をつけるぐらいの警戒が必要になるから……との事だった。
 それで、キャプテンのデイブと、男性メンバーが数人選ばれて、そのサイン会に臨むのだが……。
 葉月としては、不特定多数の……おそらく男性が多いだろうサイン会など出たくもないようで、その指示にはすんなり従ったようだった。
 デイブは残念がっていたそうだが……隼人と達也もそこはホッとしたのだ。
 こんなに若い女性パイロットがサイン会に出るとなると、ただの航空ファンだけでは済まない事も起きるかもしれない。
 事が起きてからでは遅いだろうから賛成だった。

「だったら……今から、そんなにきっちりと着込んでいないで、もっと楽な格好で、そこで横になっていろ」

 いつもの調子で隼人が強く言うと、葉月が結構……素直に立ち上がったのだ。

「そうするわ。達也──時間になったら、起こして」
「あ、ああ……」

 時間は七時前──隼人はもう桟橋に向かわねばならない。
 葉月も横になると言っても、十何分程だろうが、長いスカーフを襟から抜き取り、ジャケットを脱いでまでソファーに向かった。
 そして──本当にいつにない素直さで、ソファーに横になってしまったので、隼人と達也は顔を見合わせた。

「大丈夫か?」
「ええ……私の火事場の底力を知っている? 本番に強いのよ」
「ああ……知っている。けど……」

 葉月はジャケットを毛布代わりのように、身体の上にかけ、本当に辛そうに横になってしまっていた。
 当然──顔色もあまり良くない。

「行って──もう、甲板に集合でしょう? きっちり飛ばしてよね」
「も、勿論だ」

 青白い葉月の顔であるが、言葉はいつも通り気強かった。

「今日──あなたに飛ばしてもらうのすごく楽しみにしているの」

 彼女が微笑んだ。

「分かっている。じゃぁ──甲板で待っている」
「うん──」
「達也──頼んだぞ」
「あ、ああ……」

 出かける隼人の代わりに、達也が葉月の側にひざまずき、付き添う形に──。

『朝飯──食ったのか?』
『食べられなかった……』
『ダメじゃないか。お前らしくない……結構、体調管理には気を遣っている方なのに。それとも、まさか? 緊張とか?』
『違う……わ。分からないけど、食欲ないの』
『いつから……?』
『起きた途端によ』

 そんな二人の会話が、隼人のデスク横にあるついたての向こうから聞こえてきた。
 隼人は紺色のキャップを被って、出かける準備をする。

「達也──ホットミルク、出来ればミルクで暖かいココアでも飲ませてやってくれ。気分も胃も少しは落ち着くだろう」
「分かった。飲むか? 葉月──」

 隼人が堪りかねて提案した事に、達也が動こうとしていた。
 そして、葉月は達也の問いに、素直に頷いている。

「有り難う──隼人さん、達也。本当に大丈夫よ……」
「あまり前だろ? お前……ここで欠場なんてしてみろよ。俺、お前が吐きまくってもコックピットに乗せに引っ張り込んでやるからな」
「だから──私の本番の強さ、知っているでしょう」
「ああ」

 その葉月が浮かべた『不敵な微笑み』──それは幾度となく、隼人を前へと押してきてくれた信頼出来る笑顔だった。
 隼人もその笑顔に負けない確固たる自信をみせる笑顔を返し、大佐室を出た。

 そうだ──彼女のあのワケの分からないエネルギーにも支えられてきた。
 彼女はやると言ったら、きっちりやって来たのだ。
 仕事の面では、隼人がリードしてもらってきたではないか?

 だけど──と、隼人は振り返る。
 そんな事ばかり、彼女は強くなってしまい……自分は置き去りだった。
 だからこそ──今度は自分の事を考えて欲しいのだ。

 でも──今日だけは、飛行機乗りである『誇り』を存分に発揮して欲しい。
 隼人は、扉が閉まった大佐室に振り返る。

 大丈夫──彼女は、絶対に……ちょっとやそっとでは、コックピットから逃げない。
 そういう確信はあった──。

 

 

 隼人の葉月への『信頼』は保たれた──。

『フライト、集合──!!』

 いつもはカーキーグリーンの飛行服に身を包んでいるコリンズチーム。
 その彼等が、今日は皆、凛々しい紺色の衣装と紺色のキャップを被って集合する。

 その中に……きちんと葉月もいつもの機敏さで、デイブの隣に並んでいた。

「さぁ──いよいよだ。フライトの最終予行演習だ。メンテ──行くぞ!」
『ラジャー!』

 柔らかくなった秋の朝の日差しが降り注ぐ甲板を、隼人は走り始める。
 もう──起きた時に感じた『迫り来る虚無感』はない。

 目の前のカタパルトに、全ての気持ちを乗せ──ウサギさんに空に持っていってもらうのだ!
 青い青い広い空に──全てを吸い込むように、彼女が持って行ってしまえばいい……隼人は、そう思った。

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