・・Ocean Bright・・ ◆楽園の猫姫◆

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1.彼の本気

 小鳥がさえずる声がする──。
 うっすらと閉じていた瞼を開く。
 外では眩そうな日差しが、窓を柔らかに覆っている若草色の厚手のカーテンに和らげられ、ぼんやりと穏やかなムードの部屋に優しく広がる。
 その柔らかい部屋の彩度の中、彼女の瞼に届いた光は、日光が傾きカーテンの隙間を縫って差し込んできた眩い光の筋だった。

 外は風の音。
 木々の葉が揺れる音。
 少し強そうな風の音だったが、窓辺に身体を向けると、天気は良さそうで、そして穏やかそうだった。
 彼女はけだるさを感じながら起きあがった。

 季節は十一月に入ろうとしている晩秋──。

 彼女は今……薄緑色のアップシーツにくるまり、大きなキングサイズのベッドに寝転がっていた事に気が付く。
 ふと見下ろすと、自分は素肌にシーツを巻き付けて眠っていたようで──全裸だった。

「──う、ん……?」

 そして隣には黒髪の男が、同じ様に素肌にシーツを巻き付けて眠っていた。
 彼もカーテンの隙間から時折、直に射してくる眩い光の筋に捕まった様で……。
 日に焼けている腕で眩しそうに目元を覆い、寝返った所だ。

「兄様──?」
「う……ん……」

 返事までけだるそうだ。
 それもそうだろう……と、彼の隣にいる葉月は溜め息をついた。

 葉月は改めて部屋を見渡した。
 こんな風にじっくり見渡すのはここに来て初めてではないだろうか?

 ここに来るなり──義兄とはずっとこの格好で、この部屋にいて……一歩も外に出ていない。
 一度、激しく思うままに求め合ったのは、ここに来た夜中で……眠ったのは日が昇りきっていたような気がする。
 その後からは、時間の感覚がない。
 わざとなのか解らないが、ここには時計が見あたらない。
 日差しの入り具合だけで、ある程度は、何日目のどれぐらいの時間なのか……そうとしか把握出来なかった。

 その間──葉月は寝ては起きて、起きては抱かれ、向き合っては睦み合い、そしてまどろんでいても義兄に身体を愛されていたおぼろげな記憶まであるぐらい──。
 ただベッドにいただけでもなく、夜中だろう時間に、義兄が一度、軽食を外に頼んで差し出してもくれて、そこでガウンだけを羽織って、彼と微笑み合いながら食事をしたりもした。
 あとはこの広い部屋に備わっている大きな浴場でも……。
 とにかく──葉月が赴く場所には、どうしてか必ず、片時も離さないとばかりに義兄は側に寄り添い、どうしてもそうなってしまう。
 そして葉月は、その時はそういう義兄の容赦ない求愛は、とことん身体でも心でも全身で受け止めたし、自分からも存分に彼を欲した。

 『溺れる』とはこういう事をいうのだろうか?
 そしてやっと義兄が、果てたのが……この日の昼? 日が高く昇りきった頃だった。
 そして……今、何時間眠ったか解らないがまだ明るいので、同じ日の夕方なのではないかと葉月は思った。

 こうして──もう起きる気力もなさそうな義兄から解放され? 落ち着いた葉月が指折り考えた所……。

『丸二日?』

 食事が、二度程あっただろうか? それから夜の気配を来たその時から後、もう一回感じた。昼間の気配も今を入れて二回。

 そんなに無我夢中に愛し合っていたのかと──流石に葉月も呆然とした。

 やっときょろきょろとあたりを見回し……あの肌触り良いシルクのガウンを探そうとベッドを降りようとした。

 片足を床に向けて降ろそうとした時だった。
 後ろについている片腕をがっしりと掴まれ、引っ張り戻される。
 その勢いで、葉月はまたベッドに寝転がってしまっていた。

「何処に行く──」
「! お兄ちゃま……起きたの? ちょっとシャワーを浴びに行こうと思って……」
「じゃぁ……俺も行く」
「お兄ちゃま……もういいから、ちょっと休んで……」

 葉月よりも彼の方が憔悴仕切っているように見えた。
 眠くて、眠くて仕様がない程に葉月がくたくたになっていても、義兄は精力的に向かってくる。
 たぶん──葉月が眠むれば諦めていたようだが、彼は眠りもしていないはずだ。
 その証拠に、葉月が目覚めると必ず起きていた。
 側にある大きなゆったりとしているソファーで、彼も黒いガウンを羽織りブランデーを飲んでいる時もあれば、煙草を吸いながら新聞を読んでいる時もあった。

 まぁ、元々職業柄──熟睡ができる習慣を持っていない人だという事は知っているのだが──それにしてもという感じで、まるで葉月が起きるのを待っていたというように、目覚めると直ぐに彼は葉月に触れに来る。

 やっと葉月がちょっと目を覚ましても、彼が眠り続けていたので、安らかに休めるようになったのだと安心していたのに……。

「……なんだかな。お前から目を離すと不安だ。どこかで転んで起きあがれなくなったりしているのではないかとか……それに突然、消えてしまいそうに思えて……」
「……子供じゃないし、すぐそこのシャワーじゃない。それに……」

 葉月は義兄の頬をそっと撫でて、彼の唇をやんわりと吸った。
 『何処にも行かない』──と、小さく囁いて。

 すると横になっている義兄に、強く引き寄せられ、固く抱きしめられる。

「俺は馬鹿だな。こんな風にお前を縛り付けるなんてどうかしている。お前がいなくなりそうだなんて……今まで俺がしてきた事を考えたら、言ってもいけない、感じてもいけない事なのにな……」

 抱きしめている葉月の耳元で囁く熱い息声。
 疲れているのか、煙草の吸い過ぎなのか少しかすれている。

「もう……なにも言わないで……兄様」

 葉月が彼を労るように、もう一度口づけると──それに負けないとばかりに義兄が丁寧に熱く、葉月の唇を愛し返してくる。

「……いや、やっぱり流石に疲れた」
「……」

 葉月が黙って見つめていると、彼は微笑みながら……また、寝息を立て始めた。
 葉月の手首を握りしめたまま──。

 一時……彼に抱かれたまま寄り添い、それでも──そっとそぉっと純一の手を手首から外して、ベッドを降りた。
 食事をした時、羽織っていたガウンがベッドの下にも見あたらなかった。

「えっと──」

 葉月は記憶を辿ろうと思い、色々な場面が甦ってきたのだが──どれがいつの事なのか分からなくて、額の髪をかきあげながら、顔をしかめた。

 確か、昼前? その時にソファーで冷たい水を一杯もらった時……そこでガウンを羽織ってくつろいでいたら、隣で自分をジッと見守っている義兄が『その水は美味いか?』なんて聞きながらも、指先や手はいつのまにか葉月の肌を愛撫していて? ベッドに連れて行かれたのでは──?
 いや? その睦み合いの後……シャワーを浴びて、せっかくガウンを着たのに。着た途端に、ゆったり広いパウダールームですぐさま義兄に抱きすくめられた事を思い出す。
 確か──そこの出窓で……降り注ぐ日差しに目がくらみながら、快楽を感じていた事を思い出す。
 ──けど、その時のあられもない自分を、冷静に思い出し……葉月は一人頬を染め、少し朦朧としそうとなって思い出すのをやめた。

 とりあえずソファーにあるかと思い、葉月は裸のままベッドの周りをぐるっと回って、窓辺前にある大きなソファーを覗き込んだが……なかった。
 もう仕方がないな──と、そのまま裸で歩き回る事に諦めて、バスルームに向かった。

 ドアを開けると、大きな鏡のドレッサー。
 ゆったりと外の景色が見える大きな出窓。
 ドレッサーはそこから降り注ぐ光に輝いていた。
 そこに化粧品が──葉月から見ても随分とランクが高そうな外国資本系列の物がずらりと並んでいる。
 クローゼットみたいな収納スペースもあるパウダールーム。
 化粧や見繕いをする間にしては、八畳はありそうな大きく細長い間取りで、先にはトイレと大浴場がある。

 そのドレッサーのスツールに、日差しに照り輝くアイボリーの品良いシルクガウンをやっと見つけた。
 ここだったのか……? と──何処でどう抱かれたのかも、後か先かも分からぬ程溺れきっていた事に、やっと柔らかい日差しの中、一人照らされて我に返る。

 そして奥にあるガラスドアを両手いっぱい広げて開けると──。
 湯気がフワッと立ち込めている御影石造りのバスルーム。
 少し広めの大きな窓が、白樺林を映していた。
 そして──白樺と杉の木の向こうにチラリと見えたのは……。
 『雪冠の富士』と『湖』だった。

『箱根……?』

 この景色に、このバスルームで最初に気が付いた時にそう思った。
 富士の角度が、山中湖でみる角度でもなく、富士と向かい合っている形だ……山中湖なら、だいぶ富士が大きく迫って見えるはずなのだ。
 そうなると……湖は『芦ノ湖』と言う事になるのでは? ──と言うのが葉月の予想で、おそらく当たっていると確信していた。

 こうして、バスルームとベッドルームの窓辺から見る景色は──『ホテル』ではなさそうで、とても奥まった土地に建てられている一軒家だと葉月には想像出来た。
 つまり──『別荘』?

(兄様に……箱根に連れてこられたのは初めてね?)

 今までの記憶の中でも、箱根は初めてだった。

 シャワーのコックをひねって、熱めの湯で身体を流す。

「……」

 我に返って……傾き始めた秋の日差しに照らされる白い肌を見下ろすと、あちこちにちょっとした『あざ』が点々としているのに気が付く。
 義兄につけられた口づけの跡のようだ。
 側にある大きな姿見で、あちこち確認してみると、首筋は当然の事ながら──腕の裏や脇にも、胸先の側、背中に数カ所と、内股にまで。

「……」

 そして葉月は、左肩の傷に指を這わせた。
 これが一番……義兄に愛された時の特徴になるのだが……左肩の傷の周りにもうっすらといくつか跡が残っている。

 なんだか──急に頬が火照った。
 こんなに? と……自分がどれだけ我を忘れて、彼に全てを預けていたか……。
 義兄の有様に呆れている場合じゃない──葉月も何処か身体の奥で、抑えきれなくなりそうな熱い感触が、チクチクと疼いているではないか? だから──あんなに、彼に誘われるまま、同調ばかりしていた二日だったのではないだろうか?
 いい加減──この溺れてしまいそうな甘くて焦がれるような感触から、目を覚まさなくては……。

 頭がクラッと朦朧としそうになった。
 我に返って自分の有様に『のぼせた』みたいだった。

 やっと見つけたガウンを葉月は羽織る。
 胸元をきつく合わせ、腰ひもを結び、髪を手櫛で整えながらベッドルームに戻った。
 もう──日差しは傾ききって夕方の気配を窓辺に映し始めている。
 そして──義兄は……珍しくイビキをかいて寝ていた。

 いつだって熟睡せずに、葉月が目を覚ませば、フッと目を静かに開けるこの人には珍しい事。
 イビキをかいて寝ている姿をみるのは初めてではないけれど──葉月はちょっと呆れた溜め息をこぼしながら、ゆったりとソファーに座った。

 とても狂おしくて熱くて、息が切れて……それほど愛し合っていた事は、今でも胸の奥で甘く焼けるように疼いているけど──。
 やっと──いつも通りの、日常の呼吸が出来た気がした。

「……」

 柔らかい日差しが葉月をふんわりと包み込む。
 葉月はただ……何も考えずに、その日だまりに身を委ね、目を細めていた。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

「やはり平地とは違って、ここは冷え込んできたな」

 吹き抜けになっているフローリングのリビングに、金髪の男が薄コートを脱ぎながら現れた。

「ああ、ジュール戻ったのか。今夜も冷え込むらしいぞ──今、エスプレッソを入れる」
「ああ──メルシー。有り難いな」

 エドはそのリビングルームにある対面式の一段高いキッチンにて、なにやら調理中だった。

「……」

 ジュールは吹き抜けになっている天井を見上げ……そして側にある階段の先を見つめる。

「まだなのか?」

 ジュールがそう尋ねると、エドが困ったように肩をすくめる。

「時々、ボスが出てきて、飲み物か軽い食べ物をオーダーしてくるぐらいだな。そうだな、昼前かな? 冷たい水をと頼まれたきりだ。お嬢様はまったくだ」
「そうか……」

 流石にジュールも、ありありと顔をしかめてしまい、溜め息をついた。
 もう丸二日になろうとしているではないか?
 これではまるで『監禁』ではなかろうか? と、疑いたくなるぐらい……二階の大寝室にボスは彼女を連れ込んだきり、出てこようとしないのだ。
 だからといって、二人の『プライベートルーム』であるから、覗き込んだり、たたき起こしたり、踏み込んだりなんて……間違っても出来るはずがない。
 用事があるなら内線でと言う所だが……まったく仕様がない事に『何回かは無視』される始末だった。

「明日まで続いたら……仕様がない。決するか」
「そうだな──。ちょっとお嬢様の体調が心配だ」
「何故?」

 医師であるエドが、真顔でそういうと、流石のジュールも何が心配なのかと不安にさせられた。

「ジュールだって見ただろう? 移動中のお嬢様の体調の悪さ。吐いてばかりいた上に、疲れ切っていただろ?」
「お義兄様に会ってホッとされた部分もあるだろうが? 確かに……業務の過密度も、プライベートでの精神力も……そして、飛び出してきた事にしても……色々重責を感じ、疲労はされていたのだろうけど?」
「だから、すこしはゆったりとおやすみさせ、充分な食事を差し上げたい所なんだけど。たぶん……今、一日一食だ」
「うーむ」

 エドの医師たる心配ももっともであり、『一日一食』になるほど、縛り付けているの純一の求愛に……ジュールも唸った。

「よし──明日、俺からボスになんとか……」
「今夜も無駄かな」

 ちょっと呆れて疲れたような溜め息をついたエドは、そのキッチンで『トマトリゾット』を作っていたようだ。
 こうして、いつ二人が降りてきても良いように、エドをリビングに置いていたのだが──。
 エドが毎食作っても、今のところ差し出した時がない。
 それでもエドは諦めずに作っているのだ。

「アリスは……」

 ジュールは念のために、留守の間に間違いがなかったか尋ねてみる。

「隣の離れにいる。そこでちゃんと俺達分の家事をしているよ」
「そうか……」

 房総のホテルは引き払った。
 勿論、純一は知らない。アリスの事は既にジュールに任せきりの状態であり、今、純一の目の前は義妹しか存在していないのだから──。
 だから、まだ……アリスがこの箱根に来ているとは伝えていない。
 と、いうより──義妹との久しぶりの逢瀬に夢中で、事情を伝えたいのに、純一がそのとりつくしまも与えない状態が続いている。
 小笠原からの移動中も、葉月とアリスは一緒だったのだが、葉月は義兄の胸に抱かれるまま、疲労がピークだったのか、気分を悪くしながらも、ほとんど眠っていた。
 アリスの事は『部下だ』とジュールが紹介したが、純一はジュールが咄嗟に効かせた『でまかせ』ぐらいにしか思っていないようだし、葉月に至ってはそう信じているようだった。

 そして、当のアリスは? と、言うと──。

 小笠原のクルーザーを停めていたハーバーに、義妹を伴って純一が現れた時は、流石に愕然とした顔をしていた。
 だが……今回の『覚悟』は、本物の様だった。
 ジュールが部下だと紹介すると、きちんと文句のつけようがないお辞儀をやってのけたのだ。
 その風格は間違いなく『部下』の風貌で、ジュールは驚くと共に……『やはり』と、少しだけ微笑みたくなった程だ。

 ただ──やはり、純一の、あまりにも義妹に取り憑かれている様を見ては、ショックを受けていたようだが、部下として楚々と無言に控えている様子に、ジュールは哀れには思いつつも、こなしている様に安心した。

 そして──純一の許可を得る間もないまま、アリスを置いていた房総の部屋を引き払い、つい最近買い上げたこの箱根の別荘に連れてきたのだ。
 ただし……本棟になるこの家にはまだ、入る事を許可をしていない。
 隣にあるこぢんまりとしている別棟を『部下宅』に使用している為、そこにアリスを置いて、雑用をさせていた。

『……あの、二人はどう?』

 一度だけ、アリスが怖々とジュールに聞いてきた。

 もう二日も、部下としても出入りを許可されない事を、アリスもそろそろ不満に思っている頃だろう──。
 ジュールにも『彼女に会いたい』と思っているアリスの気持ちを知っていながらも、まったく姿を現さない程、二人が一室に籠もっている様子を知られるのは酷かと思い、『エドの手伝いもちゃんとする』と言っているアリスの言い分を、まだ聞き入れていなかったのだ。

『ああ、久しぶりに、色々と語らっているご様子だな』
『彼女、幸せそう?』
『……』

 ジュールは答えに詰まる。
 ジュールですら、まだ……『お嬢様』をここに迎えた時の姿しか見ていないのだから……。

『これを頼む』
『あ、はい……マネージャー』

 それを誤魔化すかのように、アリスにビジネス面での雑用を言いつける。
 時々、ジュールでも『おい』と言いたくなるような、世間知らずな初歩的ミスをアリスは犯すのだが、一度教えたら、次には間違えずにこなす様には、ジュールも驚いていた……いや、予感はあったのだが、こんなに吸収力があるのは、予想外だったのだ。

 ジュールが頼んだ、なんてことない書類の整理をアリスは真面目にしていた。

(かえって、気が紛れて良いかもな──)

 この離れのこぢんまりとしたリビングにあるテーブルは、やはりジュールとエドの仕事場と化し、アリスもそこで黙々とアシスタントをこなしている。

 そういう二日間であり……アリスもそろそろ何故、許可が得られないのかと、恐れることなく抗議してくる頃だろうとジュールは思っていたのだ。

 

──カチャ──

 そんな事を考えていると、カーブを描いている木造の階段手すりの先にあるドアが開いたので、ジュールとエドは揃って見上げた。

『!』

 エドがコンロの火を止めて、構える。
 そして──ジュールは、そこに現れた女性に……暫し釘付けになった。

「……」

 白い艶やかなガウンを羽織って、栗毛の女性が淑やかに現れたのだ。
 彼女も階段の手すりをなぞりながら……カーブの部分でやっと見渡せるリビングの様子を知って、立ち止まった。

「お、お邪魔致しております……」

 彼女がガウンの胸合わせをギュッと恥ずかしそうに握りしめる。

 何故か──エドはおろか、ジュールでさえ……言葉を発する事が出来なかったのだ。
 だからだろうか?

「あ、あの……具合は如何ですか?」
「!」

 いつもは何事にもそつないジュールの……惚けている様子にエドが気が付いてしまったようで、彼から彼女に笑顔で向かっていた。

「色々とご迷惑おかけしたようで……大丈夫です」
「眠れましたか?」
「はい──」

 ジュールは本当だろうか? と、エドの質問に彼女が笑顔で答ても、純一の諸行に対し、いつものように溜め息をおとした。
 そして、やっと……。

「如何されましたか? お義兄様は……おやすみなのでしょうか?」
「ええ──イビキをかいて寝ているわ」

 顔だけは昔なじみだ。
 ジュールが話しかけると、途端に葉月が慣れ親しんでくれている笑顔を見せてくれた。
 言葉はあまり……挨拶以外は交わした事はないが、葉月はそこは警戒はないようでジュールとしてもホッとした瞬間だった。

「イビキですか? それは珍しい」
「……でしょう?」

 そこで二人で揃って笑い声を漏らした。

「何かお困りですか? 何でもお申し付け下さい……」
「……」

 ジュールが階段の下まで、出向くと──葉月はそのカーブの位置で、気恥ずかしそうに俯いた。
 おそらく──この二日間、どうしていたのか──義兄の部下には誤魔化しようがない事を気にしているのだと、ジュールは判ったのだが……。

「仕様がないお兄様ですね。義妹様の面倒も放ってご自分だけおやすみだなんて……」
「あの──私の制服……がなくて」
「ああ……」

 つまり今、羽織っているガウン以外『着る物がない』ので、外に探しに来たのだと、ジュールに伝わった。

 それに制服は、エドによると……葉月が眠っている間に、あの美しい白い礼装軍服を純一が綺麗に揃えて『目のつかない所にしまっておいてくれ』と言って持ち出してきたとの事だった。

『まるで、制服があったらお嬢様がいなくなる……なんて思われているみたいで』

 エドのその感想には、ジュールも同感だった。
 とにかく制服は、葉月の目の付かぬ所にエドがしまい込んでいたから、葉月としては何処を探しても、今羽織っているガウンしか目につかないはずだった。
 ただし、一カ所だけ違う場所があるが、葉月がそこは気が付いていない事にジュールも気が付く。

「お嬢様、お召し物なら、パウダールームのクローゼットに何もかも揃えさせて頂いております。お好きな物をお選び下さい」
「そう……」

 何故か、彼女が沈んだ声。

「あの……制服にいれていた私の所持品は……」
「ええ、後ほど。お嬢様お出かけ用のハンドバッグに揃えさせて頂きます。暫くお待ち頂けますか?」
「……解ったわ。有り難う……」

 そして、葉月がくるりと踵を返すと、今度はエドが前に出た。

「お嬢様? お腹は空いていませんか? お好きな物、お作り致しますよ」
「……有り難う。ええ……良い匂いね。着替えたら降りてきても……いい?」
「ええ、勿論。お待ちしておりますよ!」

 エドの笑顔に、葉月も少しニッコリと微笑み──しっとりとしたガウンの生地にかたどられた身体の曲線を、淑やかに残すかのように階段を登っていった。

「……うわぁ……お嬢様、なんだか色っぽかったな。やっぱり軍服の時とは全然違うな〜」
「馬鹿言うな──」

 エドの妙にからかう声。
 勿論、ジュールが惚けていた事への当てつけだと解っているから、いつも通りの冷たい横顔でいなした。

『ふぅむ』

 自分の持ち物がなにもかも──知らない間に『没収』されているかのような顔だったとジュールは思った。
 確かに──エドに言われて、ジュールが葉月の所持品を保管する役になった。
 葉月の制服に入っていた持ち物に、とんでもない物があったから、エドが慌てたのだ。

 とりあえず、ありきたりな所で『財布』、『携帯電話』。
 ところが、内側の胸ポケットから『指輪』が出てきたとの事で、エドが顔色を変えてジュールに持ってきたのだ。

 あの『海の氷月』だった。

 確か、鎌倉の右京が管理していると聞かされていたのだが……。
 彼女がそれを持っていた……という事に、ジュールにはある憶測が走ったが、ここでは不確かなので明言は避ける。
 とにかく、それをジュールが預かっている。

 それと『携帯電話』。
 これも純一が、恐れている物の一つかもしれない。
 当然、中身など失礼なので覗いてはいないが、念の為、電源を切らずに手元に置いて監視してみた。
 ところが──メールもなければ、電話連絡も一度もないし、着信も残っていないのだ。

『小笠原側は、今頃、騒然としているはずなのに……』

 ジュールとしては、あの隼人ならば、誰よりも落ち着いて承知しているだろう……という事は判っているので、彼からは連絡はないだろうと踏んでいた。
 あるとしたら、隼人が説得しても納得しないだろう、もう一人のお供『海野中佐』や、事の次第を知って心配しているだろう『ジョイ』が、試しにかけてくると思ったのだ。
 それから──甥っ子の『真一』も。

 さらにもっと……ジュールが恐れているのは『小笠原連隊長組』からの『追手』だ。
 葉月が連れ去られ、大佐の席が不在になっている事態に、皐月とは結婚出来なかったとはいえ、形だけでも義兄同様にしているあのロイが義妹の携帯電話に一度も連絡してこない事が、ジュールには不思議で仕方がなかった。
 どちらかというと、ジュールとしては『フロリダのご両親と鎌倉親族』の方には、まだ『いい訳が出来る』と踏んでいるのだが──?

 だが──純一が心配している程にしては、誰からもかかってこない。
 今のところ──。

 その内にこの携帯電話は、純一の命で『解約』され、葉月には新しい物を手渡すか……もしくは、もう日本国内では契約させないかもしれないと、ジュールは思っていたのだ。

「お嬢様は、何がお好きかなー」

 エドが妙にうきうきとキッチンで料理に張り切りだした。
 今夜の手料理が無駄にならなくなった事にホッとしたのだろう──。

『それにしても……ボスったら、もう……』

 ジュールは額を抱えて唸った。
 分かってはいたのだが……ここまで『本性丸出し』とは、ジュールもなんだか顔が赤くなりそうな気分だった。
 そんな先輩をエドは不思議そうに眺めているだけだった。

 だが──これでジュールも『決心』した。

 ボスは本気だ。
 もうジュールがお尻を叩かなくても、彼特有の手際で本当に義妹をさらっていくだろう──。

 『だが……?』 と、しかしながら、ジュールは顎をさすって、まだ拭いきれない『判明しない不安』があるような気がするのだ──。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 暫くすると──葉月が着替えて降りてきた。

「本当に、沢山のお洋服が用意されていて驚いたわ」
「お気に召しましたか? エドの傘下にコーディネイトの事務所がありましてね。彼とそのスタッフがお好みを考えた上で集めて、その中からボスが見立てたのですよ」
「そうなの!? 皆さん、色々な事されているようで、いつも驚かされるわ。でも、素敵なお洋服ばかりだったわ」

 彼女は、とりあえずゆったりとしたかったのか、グレーのニットワンピースを選んで着たようだ。
 身体の線が程よくエレガントに出るもので、デザインはシンプル、胸元に小さなリボンがあしらわれているだけの物。
 それでも彼女が、その品だけで着こなしている様子に、ジュールは満足が隠しきれなかった。

 そして、また──そんな満足そうなジュールを、エドが密かにニタニタと見ているのだ。
 いつもの冷たい横顔に戻す。

「何も食べずに“お休み”だったようなので、沢山、召し上がって下さいね」

 義妹の体調も考慮しない純一の諸行に、ジュールの一抹の腹立たしさが頬にぴくりと現れたが、それを笑顔で隠し、食事が出来るダイニングテーブルにエスコートした。

 このリビングには当然の事ながら、ゆったりとしたスペースの応接ソファーの空間と、ダイニングテーブルを置く余裕もばっちりある間取りで、木造のバルコニーにも、オープンカフェさながらの席が設置されているのだ。

 エドがシックにコーディネイトしたそのダイニングテーブルの椅子をジュールは引いて、葉月を招いた。

「メルシー、ムッシュ」

 葉月が──昔ながらの少しあどけない笑顔を見せてくれる。
 そして、ジュールを見れば、フランス語で答えてくれる所も……なんだか懐かしい。

「ジュールとお呼び下さい」
「ええ……ジュール。あの……」
「なんですか?」
「お食事──軽くて構わないの。少しで良いわ──トマトの香りがしたから、それが食べたいわ」
「それだけで?」
「それと食後に、ミルクティー……いつも私が来ると振る舞ってくれる、あなたが入れてくれるあの美味しいミルクティーを久しぶりに……」
「! かしこまりました……あの」
「それだけでいいの。ちょっと……胃が荒れているみたいで……」
「承知いたしました」

 この二日間の事を振り返っても、もっと食してもらいたいところなのだが──葉月がそっとこぼした控えめの笑顔と『あなたの美味しいミルクティー』という言葉に、まるで呪文をかけられてしまったように……ジュールはそこで退いてしまったのだ。

「ほらな──リゾットで正解だ。きっと胃が重いだろうと思っていたんだよな〜。これなら食べやすいだろうと思っていたんだ」
「流石だな」

 キッチンに向かうと、ジュールと葉月のやりとりを聞いていたエドは、葉月が今作っている物を食べたいと言ってくれた事に得意そうだった。
 ジュールはフンと鼻であしらいつつも、自分もロイヤルミルクティーを入れる準備に、結構な気合いを入れ始めていた。

「どうぞ……お嬢様」
「有り難う──エド」
「いいえ……あの、宜しかったらジャガイモのポタージュもありますが……」
「あら……美味しそうね。それも頂こうかしら……」
「はい、是非」
「お上手なのね……。岬であなたに怒られながら、潜入した事が嘘みたいだわ」
「いえ……あの、怒っただなんて」
「いいえ……あなたの的確なサポートで仲間を救えた事、本当に感謝しているのよ。お礼も言えないまま、あなたはいなくなってしまったから……」
「……もう、そういうお話しは……お忘れ下さい。どうぞ」
「そうね……ええ、ご馳走になります」

 ジュールが紅茶葉を選んでいると、ダイニングではそんな会話が。
 エドにも警戒心がないようで、葉月は笑顔でエドとなんなく会話をしている。

(どうやら──すぐに慣れてくれそうだな)

 自分との接し方もエドとの接し方も──ただお喋りをした事がないだけで、それでも昔なじみ顔見知りという『慣れ』は、既に彼女の中で確立されているようで、ジュールはホッとした。

 エドが差し出したトマトリゾットを、葉月が美味しそうに頬張り始める。
 『美味しいわ。うん……とっても美味しい』と言う、葉月の笑顔に──エドは喜びを隠せない様子でキッチンに戻ってくる。

 エドが妙にニコニコしてしまうのも分からないでもない。本当に、不思議な女性で……。

(似てきたな……お祖母様に)

 スッと涼やかな雰囲気が先立つ葉月は、自由奔放で情熱的なお祖母様とは第一印象は違えど──あのように楚々と座って、品良く食事をしている仕草にたたずまい、指先の流れに、目線の伏せ方や輝かせ方……笑い方。
 それが本当に、孫娘にも受け継がれている様に──ジュールは魅入ってしまっていた。

 彼女が静かに食事を進めていた。

 ジュールもエドも……余計な事は話しかけない。
 今のところは──それは冒険のような物で、暫くは、二人揃って彼女の様子をうかがっていたのだ。

──カチャ──

 また、階段の上からドアが開く音。

「──なんだ、ここに来ていたのか」

 今度は純一がガウン姿で降りてきた。

「お兄ちゃま。エドのお料理、とっても美味しいのよ。今、頂いていたの」

 葉月の笑顔が一段と輝いて義兄を迎えたので、その変化にジュールとエドは流石に顔を見合わせ、驚いた。

「ほう? 美味そうだな。エド、俺にもくれ」
「は、はい!」

 そして純一は、まるで以前からそうして二人で向き合っていたかの如く、自然と葉月の向かい席に腰を下ろした。

「食欲は戻ったのか?」
「うん……もう、いっぱい眠ったし、この美味しそうな匂いに誘われちゃったわ」
「それなら良いが……」

 『食欲は戻ったのか?』の一言に、ジュールは眉をひそめ、エドも手元を止めた。

「ボスが食べさせなかったのではなかったのかな? お嬢様、それほど胃腸が弱っていたのか……」

 エドがふとそう呟く。
 ジュールもそうだが、ボスが彼女を離す間も惜しくて食事を怠っていたのかと思っていたのだが……。

「少し落ち着いたら、ボスに相談して診察でもして差し上げた方がいいかもな」
「そうだな。ま……これから少しは精神的にも落ち着かれるだろうけどな」

 ジュールの診察提案に、エドも頷いた。

「今からジュールが、あのミルクティーを入れてくれるのよ」
「そうか。お前は、アレがお気に入りだな」
「そうよ。残念な事に──私の部下達は誰も彼程の物を入れられないのよ。あの『隼人さん』でも……!?」

 葉月の顔色が変わる。
 動かしていたスプーンの手元は止まり、笑顔が消え失せ、怯えたように義兄の顔を見つめていた。

『うわっ』
『……』

 エドは額を叩いて目をつむったが……ジュールは静かに様子を見守る。

「それは残念だったな。合格者なしか──ジュールの独走はまだ続きそうだな」
「……お兄ちゃま」

 純一は、特にあからさまな反応はせずに、ただの会話の一端だったかのように聞き流していた。
 それで、ジュールもそっと微笑む。

 すると──向かい席にいる純一がスッと、葉月が止めている手元のスプーンを奪ってしまった。

「リゾットは美味いか?」
「なぁに? お兄ちゃまの分もすぐに来るわよ?」
「葉月──」
「なに?」

 葉月の手首を静かに引き寄せ握った純一は、ふざけてスプーンを取り上げたのではなかったようで、とても静かで真っ直ぐな視線で葉月を見つめていた。

「イタリアに行くんだ」
「!? イタリア? どうして?」
「俺は今、そこに住んでいる」
「!」

 葉月が黙り込む。

「大丈夫だ。フロリダの親父さんにおふくろさん──それから右京には俺からきちんと説明する。許されなくてもだ──それでも俺はお前を連れて行くぞ」
「お兄ちゃま──本気なの?」
「俺は本気だ。そこでお前と暮らす。何も心配せずに、任せて欲しい。出発までに少し時間がかかるから、その間はここでゆっくり休めばいい」
「──」
「もう、お前は充分に頑張った。これから──自分の好きなように生きていけばいい。もう『命がけ』には気が済んだだろう?」
「……うん」

 二人の会話をジュールは静かに聞いていたが、エドは『すっげぇ、やっぱりボス本気』と、今更ながら驚いていたりするので、横で呆れた。

「ジュール、葉月にあれを……」
「かしこまりました──」

 それを言われてジュールは直ぐに、リビングを出る。

『命がけか……』

 彼女のそういう所もちゃんと見ているボスに──なんだかジュールはやっぱり彼には適わない何かを感じずにはいられなかった。
 そして──葉月も、なんと言わずとも解っている義兄に、素直にこっくり頷いている。

 少し元気がない所は気になるが──それも出てきたばかりで、まだ頭の中では『隼人さん』が活発に動いて口から出てきても仕様がない時期だろう。
 今すぐには彼女もここには染まり切れないだろうが、ボスのあの様子では時間の問題だろうと、ジュールは思っていた。

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