・・Ocean Bright・・ ◆楽園の猫姫◆

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8.午後のお客様

 もうそろそろ、純一の集中力が切れ、一息つきたい頃だった。
 机の前にある窓からは、柔らかい晩秋の昼の日差しが燦々と……。

 とりあえず、もう、義妹の前では吸えなくなった煙草を、一服。
 ゆっくりと吸いたいと思って火を点けたのだが──。

『聞こえなくなったな……』

 煙をフッと吐き出し、すぐに煙草を消した。
 エドが掃除をすると葉月をリビングに降ろしてから後、ヴァイオリンの音は聞こえなくなった。
 そう思い、純一は、すぐに書斎を出て、寝室を覗いてみたのだが……。

 義妹はいなかった。

 では──と、そろそろランチの声がかかるだろうと、リビングへと純一は降りてみる。
 リビングは思った以上に静かで、キッチンにはジュールが控えているだけだった。
 それで、葉月はどうしたかと……見渡すと……。

 ソファーに静かに座っているだけだった。
 テレビすらつけてもいないその静かな空間で、微動だにせずに──。
 純一は首を傾げながら、階段を降りきって、ソファーに近づくと……葉月は目の前の低いテーブルにヴァイオリンケースを置き、それを開いたままの状態で、ただ、照り輝く楽器を見つめているだけだった。

 その見つめる眼差しの『強い眼力』というのだろうか?
 それが……先程、窓辺で演奏をしていた時、ガラスに映っていた彼女の顔そのものであり、かなり力んでいるような顔だった。

「どうした?」
「!」

 静かに近づいていたのは確かだが、葉月がとても驚いた顔で、純一を見上げる。

「兄様──」

 何故かホッとしたような葉月の顔が、スッと力みが取れて、いつもの愛らしい義妹の顔つきに戻る。
 今度、ホッとしたのは純一自身であって、彼はそれが自分で意外に感じてしまっていた。

 純一は、葉月の隣にそっと腰を掛けた。

「葉月──最初から、そんなに真剣勝負をしなくてもいいじゃないか」
「別に、勝負しているつもりなんかないわ」
「楽しく弾いて欲しくて、これを贈った。なにも、これを生き甲斐にしろだなんて……俺は言っていない」
「お兄ちゃま……」

 葉月の眼差しが弱く揺らめく。
 なんだか涙腺が弱まっているのか、それだけで、彼女が涙で瞳を濡らす。

「兄様──音というものはとても正直で、すぐに自分の気持ちが出てしまうの、分かる?」
「んーそうだなぁ。音を操るなんて事はした事がないが」
「違うの、操るのではないの。心と一緒なの──」
「ああ、そうか……」

 そこは義妹が元々持ち合わせている芸術家肌という感性を垣間見せたので、純一はそっと微笑んだ。

「右京が言うな……自分の気持ちは自分で平気に誤魔化してしまうから、ヴァイオリンかピアノを弾くと、そっちの方が自分の本当の今日の気分を分かってしまう事が多いと……」
「うん、そんな感じ……」

 葉月がそっと──憂う眼差しで、ヴァイオリンに手を伸ばし、手持ちのアーチの部分を撫でる。

「ファンタジックな音じゃないと……美しくないと思う?」
「別に、美しいだけが芸術ではないだろう?」
「……私が音を呪っても?」
「……」

 意外と……純一がふと『そうではないか』と思っている所で、義妹もつまずき、気が付いているようなので、黙り込んでしまった。

「……」

 しかし、純一は暫く、暫く、ジッと考え……。

「だが、そういうマイナーな心情から見える美しさは、格別に美しく見えるのではないだろうか? マイナーな心情の中では曇っているかもしれないが? その暗闇から日差しの中に抜け出した時、再び与えられた日差しの美しさは、暗闇を知っている者には格別に美しく見えるはずだ。葉月……お前は、そういう美しさを表現出来るはずだ」
「……私はまだ、暗闇の中みたい」

 そっと葉月が力無く微笑んだ。

「どうして、抜けられないの? ついこの間、フッと抜け出たような感触はあったんだけど……今度は違う何かが……」

 独り言のように呟く。

「彼女が言うわ。私の今日の音は、呪われているから、もう弾かないで欲しいって言うの」
「葉月──」

 何処とも分からない視線を彷徨わせ、葉月は呟く。
 純一はそっと、隣にいる義妹の手を握った。

「……今朝、どういう訳か、お前は昔の事を思いだしていたな。そのせいだ……」
「……」
「今日は日が悪いのだろう。お前は、今までも、ちゃんと美しい音を奏でる時は、奏でていた……安心しろ」
「……」

 まるで人形に声を掛けている気分になってくる。
 義妹は時々、そうして何処かへ彷徨っていってしまうのだ。

「そうだ。どうだ? 気分が良ければ……俺と近場をドライブしないか? 客が帰ってからになるが……」
「お兄ちゃまと、ドライブ?」
「そうだ……ドライブだ。ジュールが良さそうな喫茶店を見つけたと言っていた、な? ジュール」

 純一は、葉月の手を握ったまま……キッチンに振り返る。
 ジュールがそっと微笑む。

「用事の帰りすがら、こっそりと一人で入ってしまったんですよね。小さなカフェでしたが、若いパティシエが独立させたお店とかで、ケーキは最高でしたよ。お勧めです」

 ジュールのその楽しそうに勧める声に、葉月がやっと笑顔を浮かべ振り返る。

「本当? そうね……そういうお店に入ってじっくり味わうって……あまり出来なかったから……」
「じゃぁ……決まりだ」
「天気も良い事ですし、良い気分転換になりますでしょう」

 やっと葉月が、ニコリと微笑み、その場が和んだ。
 そして、葉月がヴァイオリンをしまう。

 しまった途端に、何かから解放されたかのように晴れ晴れとした義妹を見て……純一はそっと胸を痛めていた。

「葉月──名器を扱えるアーティストになって欲しいと思って、贈ったんじゃない」
「え?」
「名器にも媚びない、お前の誇りある音を──その『彼女』と築いて欲しかっただけだ……。お前なら、技量云々の前に、感情を表現してくれるだろうと信じて選んだ。それだけだ──」
「兄様……?」

 純一はそれだけ言うと、ジッと見つめる葉月の透き通り始めた眼差しに耐えられずに、そこを立った。

「そうだ。今から来る客について、少し、説明しておこう……」
「お兄ちゃまのお仕事仲間?」

 なにかその場を誤魔化すかのように、純一は口にしていたのだが、葉月は笑顔で応えてくれる。

「ああ、ちょっと待っていろ」

 純一は、ダイニングテーブルに赴き、そこに束ねてある雑誌を一冊手にして、葉月の元に再び戻る。
 そして、同じように葉月の隣に座って、その雑誌を開いた。

「こいつだ──知っているか?」
「! この人! 知っているわよ! 近頃、有名な実業家じゃない!」

 葉月が驚くのも無理はない。
 純一が昨日、東京まで会いに行った『相手』は、ここの所、やっと時代の波に乗って業績をぐんぐんと上げているIT企業の青年実業家だった。
 テレビや雑誌でこの頃顔を知られるようになっているが、これが純一配下の『部下』だという事は……経済界裏の話となる。
 それに有名になってきたとはいえ、義妹が知っている確信があったのは、その男の『経歴』のお陰もあると、純一は思っていたのだが、案の定──。

「だって……この人、一番最初のお仕事が、横須賀基地の軍人……通信科にいたという経歴の持ち主だもの。それだけで、私の記憶に残ったんだから」
「はは、俺の後輩で──俺がそそのかしたんだ」
「ええ!?」

 軽やかに笑う純一の側から、流石に葉月が驚き、身体を引いた。

「昔、演習などの訓練で共にした事があって、それが付き合いのキッカケだった。話してみると、なかなか面白い男で──。軍という固い囲いの中で、決められた規則の中の一介の通信員より、外で冒険してみないかと誘ったら、一発だった。だけど──ここまでの苦労は並大抵ではなかったようで、だが、こいつは諦めずに、やりこなしてくれたのは……信じた通りだった」
「お兄ちゃまが……軍を辞めさせたの!? 信じられない!」
「まぁ……軍向きの性格ではなさそうだったんでね。あ、お前も──会った事はあるぞ? 確か──『若槻』は覚えていたな?」
「え!? 私は知らないわよ!? 覚えていないわよ!??」
「あはは! そりゃな〜お前はオチビで、右京がどれだけ仲間に見せびらかしていた事か……だったからな? だけど、若槻はしっかり覚えていて、時々、お前の事を口にする。分かるだろう? こいつも経歴を利用して、軍にも協力しているからな。お前の噂なんかも良く耳に出来るとかで?」
「あーなるほど? それで兄様のお耳にも直ぐに伝わってしまうってわけ?」
「おや? なんの事か? ま、そのルートも情報源である事は否定しないがね」
「なーるほどね」

 いつもの生意気オチビの白けた眼差しに、純一はついに声を立てて笑い出していた。
 そんな『若槻社長』が、この別荘にやって来たのは、ランチを終えて午後直ぐの事だった。

 

「こんにちは。葉月ちゃん」

 紺色のスーツに、近頃流行の太めのネクタイをしてる彼は、義兄より若々しかった。
 『若槻 修』と自己紹介する彼は、葉月を目の前にして、ずっと前からそう呼んでいるかのように『葉月ちゃん』と言ったので、葉月は固まってしまった。

「あの……葉月です。いつもご活躍されているお姿を拝見させて頂いております。お会い出来て光栄ですわ」

 『初めまして』とは、言えない雰囲気だった。
 純一が、妙に気になる風に側に寄り添っているのだが、葉月はその横で、楚々と手を差し伸べ、彼と握手をした。

「こうして真っ正面向かうのは、十何年ぶりになるんだろうな? ね? 先輩、彼女……こんなに小さかったんだ」
「ああ、そうだったな」

 黒髪で、颯爽とした風格の若槻は、ニコリと爽やかな笑顔を葉月に見せる。

「私、申し訳ないのですが、覚えていなくて……」
「だろうね? 君はまだ小学生で右京先輩にひっついてばかりだったし」
「でも、若槻さんが……まさか兄達の知り合いだったなんて……驚きました」
「私も、あなたのようにお仕事を任されていた女性の頭の片隅に、記憶して下さるぐらいになれたんだと光栄ですよ」
「いえ……私は、もう……」

 『お仕事を任されていた女性』──その言葉が何故か一瞬、ずきりと葉月に突き刺さったが、流そうとした。
 それを感じたのは、葉月だけではないようで──。

「若槻──」
「あ、ああ……余計な事を。それにしても〜先輩もほんと隅におけないなぁ〜。念願叶ったみたいで?」
「うるさいな」
「あの時の女の子がね。あの時も可愛らしいお嬢ちゃんだったけど、こんなに綺麗になっているなら……そりゃ、先輩も我慢が出来なかったわけだ」
「黙れ」

 どうやら義兄は、この後輩には『本心』をちらつかせていたようで、若槻は分かりきったように、ニヤニヤと純一を見ては、葉月を確かめるように眺める。
 葉月がちょっと怖じ気づき、頬を染めながら俯くと──それを隠すように義兄が、葉月の前に立ちはだかった。
 それをまた──若槻は可笑しそうに、堂々と笑い飛ばしている。
 キッチンでお茶を用意しているジュールも、クスクスと笑い声をこぼしているのだ。

 この後、小一時間ばかり三人でお茶を楽しみながらの談話をする。
 若槻の気遣いなのか、葉月が笑い出しそうな兄達との昔話が殆どで、その後また仕事なのか、義兄が彼を伴って書斎に姿を消した。

 葉月は、ダイニングに一人座り直し、一息ついた。
 今日も、ジュールがロイヤルコペンハーゲンのカップに、蜂蜜を入れたホットミルクを入れてくれたのだが、それを最後まで飲み干す。
 兄達の知り合いという前提もあってか、それとも義兄が側に付き添っていたせいか……初対面の、しかも有名な実業家ではあったが、結構、構えずに楽しく会話が出来たし、想像していたより楽しかったので、葉月はホッとしていた。

「お疲れではありませんか?」
「ええ……」

 今日はキッチンで一人で立ち回っているジュールが話しかけてくれる。

「エドと……彼女は?」
「買い出しに出かけております。そろそろ帰ってくるでしょう」
「ジュール、彼女の事なんだけど……」
「……なんでございましょう?」
「……」

 兄達の残したカップを洗っているジュールは、微笑みを崩さない、表情は変わりやしない……。

「……ううん。何でもないわ」
「そうですか? 彼女が何か粗相をする事もあるかもしれませんが……」
「お話もした事ないのに、そんな事、ないわよ」
「新人ですから、大目に見てあげて下さいね」
「……」

 葉月は少し黙った。

「本当に『新人』なのかしら?」
「……」

 笑顔は崩さないジュールの、ほんのちょっとの沈黙。

「そうですよ。今回の日本滞在も勉強と言う事で、初めて同行させたものですから……お嬢様の目に余る事もありますでしょう」
「そういう事ではなくて……」

 本当に、ニッコリと笑顔を崩さない。
 だけど──葉月には分かる。
 そういう笑顔は、心の色を垣間見せない為の笑顔。

(マイクとリッキーがそうなのよね。特にリッキー)

 葉月は唇を尖らせた。
 リッキーの本性を葉月は知っているのだが、彼はいつだって『ニコニコお兄さん』なのだ。
 むしろ、ロイの方が怒る時ははっきり怒るので、オチビの葉月でも歯向かいやすいといえば、そうなのだが。
 リッキーにはするりと交わされる事が多い。と、言うより、リッキーは、ロイみたいに直ぐに怒る前に、上手く葉月をなだめてしまう……というかなりの上手屋だった。
 だから、まだマイクの方が、葉月にとっては『同感覚で馴染みやすい』部分はある。
 あのリッキーの『完璧振り』という心情を知っているから、まだ、葉月も親しめる部分はあるものの、そういう彼の心情を知らなければ、皆、彼の笑顔を、途中から疑心暗鬼に恐れ始めるという『解読不可能』の畏怖に陥るのだ。

 ジュールもまさにそれで……リッキーのように側で毎日親しんでいる彼ではないからこそ、葉月は、それ以上は何も追求出来なくなった。
 追求は出来なくなったのだが──。

「気になる事があれば……疑うままでなく、正直にボスにお聞き下さいませ。『私からは、なんとも言えません』──」
「!」

 これにも驚いた。
 今度のジュールの眼差しは、真っ直ぐで──そして、笑顔は消えて冷え冷えとしていたのだ。
 まるで『そうして欲しい』という様な……? 葉月が思っている事、予想している事をすっかり見抜いた上での進言に思えたのだ。

「……お嬢様の事ですから? なにもかも、お見通しされたかもしれませんね」

 葉月の驚き顔の意味すらも──彼は読みとってしまったようで、葉月はすっかり術にかかったように硬直していた。
 ここまで、詳細を語らずとも『通じ合ったのなら』──誤魔化しは必要ないという彼の突然の転換にも、葉月は身動きが出来なくなっていた。

「……あなたって昔からそう……。何もかも見通してしまう怖い人」
「おや? 買いかぶりですよ」

 ホッと諦めたような一息をやっとつけた葉月の呆けた一言にも、ジュールはニコリと笑うだけだった。

 それから、暫くして──義兄と若槻社長は、また楽しそうな会話を交わしながらリビングに戻ってきた。

 

「先輩、イタリアへはまだなのでしょう?」
「ああ、まだ用事がいくつか残っている。帰る日程が決まったら知らせる」

 彼が帰ろうと、コートを片手にした時、純一に尋ねる。
 その時、彼がチラリと葉月にも視線を向けた。
 まるで──イタリアへまだ帰らないのは、葉月がいる為とでも言いたそうな目線で、葉月はそれを見逃さない。
 そんな葉月の視線にも、若槻は気が付いたようで……ちょっと誤魔化し笑いを向けられ、彼の視線は義兄に戻った。

「参ったな──。なるほど、先輩が可愛がるわけだ」

 しかも──今、葉月の目線を知った彼はその驚きを隠さずに、感心したように純一に笑ったのだ。

「だろ? オチビだと思っていると、痛い目に遭うぞ。俺も何度、骨を折らされた事か」
「まぁ……失礼な、兄様」
「あはは! そんな所も、ご馳走様。いえ……これは楽しい出会いだったかもな。“葉月ちゃん”──また、会える事を楽しみにしているよ」

 彼の変に隠さないカラッとした接し方が……葉月は気に入って、やっと素直に微笑んでいた。

「私も、また──お会い出来る事、お待ちしております」
「やった。認めてもらえた」
「あら……社長様程のお方が……」

 葉月が笑うと、若槻も楽しそうに笑い出す。
 純一もホッとしたように、ひっそりと微笑んでいた。

 二人は肩を並べ、仕事のような会話を交わしながらリビングを出て行く。
 葉月はそれを見送った。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 若槻を見送る為に、純一は庭に出る。
 彼がフッとバルコニーに振り返った。
 昨日、東京で会合した際も、先程の書斎でも、あらかた説明した物の……彼自身、どこか釈然としていない顔と溜め息。
 純一を心配しているような固い表情を、再度、向けてきたのだ。

「先輩──本当に彼女を連れて帰るおつもりで?」
「ああ」
「……おめでとうと言えばいいのかな?」
「言わなくてもいい。そう言われるべきではない関係だ」
「……僕は、激励しますけどね。右京先輩はどうなのか? ロイ先輩はカンカンだろうけど、今回は変に肯定的だな。諦めたかな?」
「……指輪を持っていた」
「! 葉月ちゃんが? あの海の氷月を?」
「ああ……」
「そっか。近日──右京先輩に会う予定なんですけどね。僕が知っているという事でも構いませんか?」
「ああ、そのつもりで──葉月にもお前を紹介した。俺も来週、右京に会うつもりだと、伝えておいてくれるか?」
「了解……さて、先輩は、右京先輩にどう言えるのかな? 今回は僕は『妊娠』については、素知らぬ振りをさせてもらいますよ」
「悪いな──色々と気遣ってもらって。右京には俺から説明する」
「……だけど、一言。どうあっても先輩は……父親にはなれないと思うな。それと真一君を捨てた心情を忘れちゃいないでしょ? そして、やはり、時がどんなに経ってもその絆が自分達を引き寄せてしまうのだという抵抗出来ない本能を、先輩が一番解っているでしょう?」
「──厳しいな。お前までジュールみたいに」
「おや? 彼ならこれぐらい、もう先輩に説教していると思ったのに?」

 その時、若槻は意外そうな驚き顔をしたのだが──。
 そう──純一も、ジュールが『その件だけ』は、口うるさく説教しない事を不思議には思うのだが……。
 あの弟分の事──純一の事だけでなく、どうも、『あの子』の事に関してもかなり念頭に置き、今はただ、流れに任せ『波が動く』のを淡々と待っている気がするのだ。
 それは……今は静かに自分を抑えていそうな義妹の『爆発』を待っているのか?
 それとも? とうとう身を引いてしまった『隼人』の本来あるべき『我慢の限界と恋人への情熱』が、再度、押し寄せてくるのを待っているのか?
 それとも? この純一が、『明日にでもすぐに葉月を連れ去りたい』と、焦るのを待っているのか?
 そんな兄貴分の純一にも悟られないように、物事を上から平らに傍観している静かな時期を保っている気がするのだ。
 それか──葉月の子供の事についても、今は彼なりに、慎重に噛み砕き……『こうするべき』という確固たる方向性が見定められたら、口うるさくなるような気もするのだが……。
 しかし──ジュールはどうも、純一がふと頭の隅に、隠している事に気が付いて、純一がその決心をするのを黙って待っている気もする。

『ボス──ご自分でしっかりされるおつもりで?』

 そんな顔を、朝方していた事を純一には通じているつもりだったが、ジュールは純一の本心を探ろうとはしてこなかった。
 だからこその若槻という後輩の、ジュールより先にしてくれる進言は、ここに来て純一の心を揺り動かす。

「……オチビを手放す気はないし、今度は正直に気持ちを伝えたいと覚悟はしていたんだが」
「でも──先輩は、彼女を抱えて堕ちきれない。そういう人だと僕は思いますよ。けど、それも覚悟なら、それはそれで僕は応援しますからね」
「ああ……有り難うよ」

 秘書も従えずに、一人で運転してきた彼が、大きめの国産車の運転席に座った時──また……。

「澤村精機の息子でしたよね? 葉月ちゃんの『潜在的願望』の為に手放すなんて、どえらい事考えつくなと驚きましたけど──。純一兄様に任せたくなる程、限界だったのかね? 惜しいなぁ。もうちょっと堪えていたらな〜」
「……」

 純一が反応を抑えていると、若槻は一人でハンドルを撫でながら、喋り続けた。

「しかし、妊娠している状態で送り出すのはね……」

 彼が呆れたように溜め息を落とす。

「葉月は、相手に何も言わずにピルをやめていたらしいからな──向こうも分からなかったんだろう……」
「どうかな? 一緒に住んでいた上に、彼女が避妊していたと安心しているだけの男だったのかな? 男として、彼女が万が一、避妊をしていない可能性がある上での交渉をしてるならば、常にその可能性について念頭に置いておくべきだったと僕は思うけどね。それなら手放すはずはないと思うけど……解っていて手放したのなら、僕は返すとしても、その後も男としてどうかと思うけどな……。それにこればかりは、葉月ちゃんにも責任がある。今までのような特別扱いは出来ないでしょう? いや、あの器量の女性に惚れられちゃったら、僕だったら特別扱いしちゃうかな〜なんて!」

 おどけて喋っていた後輩だが……急に──『その点、先輩はどうなのか』──と、言う眼差しを若槻が向けてきた。
 その視線は先程まで、葉月の肩の力を抜こうと軽やかな微笑みと雰囲気で和ませていた後輩の顔ではなかった。
 この時代の波に乗ったとか、『成り上がり者』と言われている後輩ではあるが……それでもそこまで登り詰めてきた、彼本来のきつく鋭い内面が垣間見えた瞬間だった。

「──分かっているよ」

 純一のいつもの短い返答──どこまで解っていて、どこまで考えているのか? と言うもどかしい顔を若槻が灯したが……。

「お好きなように──。何度も言いますけど、僕は先輩についていくよ」
「ああ、俺も頼りにしている。今回も無理な願いを聞いてもらって」
「お安いご用。僕が何回か倒産させても、先輩は僕を信じてくれたから──」
「これからも、だぞ」

 純一がそういうと、若槻はやっと笑顔を見せ、ドアを閉めた。
 そして──颯爽と銀色の車が去っていった。

 純一はふと、一人溜め息をついて……一呼吸置いてから、中に戻ろうとする。
 二階に人影を感じたので、見上げると……そこに葉月が立っていた。

(俺達の様子を気にしていたのか……)

 そんな純一の目線に気が付いたのか、葉月はサッと逃げるように窓辺から離れていった。
 幼い頃から、妙に勘が良い義妹だ。
 年上の兄達がする事を、ひっそりと観察しては、素知らぬ振りをして自分は何も分からないという顔をしている時がある。
 若槻が軍とも繋がっている事で、純一が影で……若槻を通じて、このような状態になった自分をどう扱うか密かに軍側に?……などという考えもあっての『観察』だろうと、義兄である純一には判った。
 純一はそのまま、義妹がいる二階の寝室へ直行した。

 

「お兄ちゃまが言う通りに、面白い方ね」

 ソファーに座って待っていたかのような葉月のサラッとした微笑み。
 その顔も、自分が二階からこっそりと兄達の様子を見ていた事が『ばれちゃった』と降参している顔なのだ。
 純一は……ただ微笑み、葉月の隣に腰をかける。

「もう少ししたら……夕方までドライブだ」
「うん……気分は大丈夫よ」
「よし──じゃぁ、これを渡しておこう」
「なに?」

 純一はサイドボードに用意していた白い箱を取りに立ち上がり、葉月の目の前でそれを開ける。

「クローゼットにもいくつかバッグがあったかと思うが──俺のお勧めだ。お前の所持品を詰めておいた」
「可愛い……」
「なんだか右京が選びそうな趣味だけどな」
「ううん、純兄様が選んでくれた事、嬉しいわ。有り難う──」

 葉月がそっとそのバッグを嬉しそうに取りだして、今すぐ出かけるかのように、手に提げたり肩に掛けたりして喜んでいた。
 そして……やっと中身を確かめるように、蓋を開けている。

「指輪も入れておいた」
「そうそう。これが一番、心配だったの。兄様の事だからちゃんと保管してくれていると安心していたけど……」

 葉月は『それを持ってきた重大さ』と言う事を、純一の前ではちらつかせなかった。
 それどころか……その巾着を取りだし、純一に差し出したのだ。

「私が持っていると怖いから……今度は兄様が預かってくれる?」
「……だが」
「金庫とか、あるのでしょう? 私のバッグに常に入っている方が危ないじゃない……」
「……それも、そうだな。そういう事なら……ジュールが金庫番になるが」
「ええ、彼なら信頼出来るから大丈夫。宜しく伝えてね?」
「……」

 わざとなのか、素なのか判らない義妹のあっさりとした『依頼』に、純一は腑に落ちない心境で、『御園の家宝』の一つである指輪を預かる事に──。

「後は……」

 そして、葉月が財布と携帯電話を取りだした。
 財布はそのまま中にしまい、そして、携帯電話はおもむろに、テーブルの上に置いてしまったのだ。
 それも自然な流れのように──葉月は何も思っていないかのように、そう置いたので、純一は何を考えているのかという心情を探るまでもなく、そのまま見つめているだけに留めた。

「素敵なハンカチーフがクローゼットにいっぱいあったわね! お出かけの前に、選んでおこうかしら」

 葉月はその水色のバッグを嬉しそうに振りながら、パウダールームに行ってしまった。

「……やれやれ。なんのつもりか……」

 純一は、その置き去りにされた携帯電話を見つめるだけ。
 電源は切ってバッグに詰めていたのだが、少しは気にして覗くかと思ったが、まったくだった──。
 それとも──? あの義妹の事、本心を覆い隠すという意地なのかとも思えなくもなかったし、純一の昨夜の愛の告白に対して、もう軍の同僚達と繋がっている携帯電話などいらないという意思表示をしてくれているのか──。
 しかも義兄を試すかのように、目の前に携帯電話だけ置き去りにして、姿を消すとは……純一は頬を引きつらせた。
 そう……こういう何気なく大人を試すような妙な所が、義妹の恐ろしい所だと、純一は溜め息をつき、携帯電話をそっとして葉月を追いかけた。
 それも『お兄ちゃま覗いたわね』と言う確信を持たせない為の速攻の行動であり、そう義妹に動かされている自分に──純一は、唇を噛みしめたが、最後には笑ってしまっていた。

「元気そうだな。それなら、もう今すぐ行くか?」
「ええ、良いわよ。ジュールが言っていたカフェに連れて行ってね」
「ああ」

 クローゼットを開けて、葉月は輝く笑顔で水色のコートを取りだしていた。
 その笑顔。
 この俺様を、試して平気な顔して、動かしてしまう様な事をする──俺の義妹の掴み所がない笑顔には、昔からどうも適わない。
 そして油断させてくれない飽きさせない楽しさがある……と、純一も微笑んでいた。
 ……微笑んでいたのだが、やがて、純一の顔から笑みは消えてしまっていた。

 

☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆

 

 その頃──小笠原基地も昼下がりの業務中……。

「おっす」
「コリンズ中佐ー!」

 隼人と達也二人で、大佐室を守る事三日目……葉月が飛び出してからは、五日目。
 ランチタイムが終わって周りが落ち着き始めた頃、大佐室にデイブが現れたのだ。

「如何されましたか? この時間に珍しいですね」
「もう、甲板に出られないからな」
「あ、そうですね……」

 やはり納得していないデイブのむっすり顔に隼人は苦笑いをこぼした。
 確かに、デイブは今週から本部業務に押し込まれ、訓練から外されたのだ。
 もし、葉月がここにいたのなら、彼女はまだ『総監代理』とかいう、新しい役職への挑戦が待っていて……まだ細川に従いながら甲板に出ていただろうが、コックピットからは降ろされ、デイブとしては、こういう時期には、葉月は丁度良い話し相手でもあって、同等に『現場隊員』として外された仲間になっているはずだったのだ。

 いつもそうして、葉月と肩を並べては『ああしてやれ、こうしてやれ』という大胆な方向付けを見いだして周りを驚かす二人。
 流石のデイブも、葉月がいないとなると、そうも出来ないようで、ここの所、夕方、四中隊大佐室に暇つぶしに来ては、不機嫌そうで──そして、たまに、隼人と達也も胸突かれるぐらい、寂しそうな顔をするのだ。

 しかし、今日は昼一番に、大佐室に来てしまった。
 不機嫌な顔は変わらないが……なんだか妙に瞳を輝かせ、隼人を睨んでいる? ような気がしたのだが……。

「あの……なにか?」

 ただの不機嫌ではない──。
 隼人を見つめるデイブの眼差しが、怒っていると、やっと感じ取れた。

「サワムラ、聞きたい事がある。ツラ貸せ!」
「はい?」

 そうしてデイブは隼人に席から出てくるように顎ひとつで促してくる。
 達也はパソコン画面を見つめながら、静かに見守ってくれているが、デイブの様子が尋常ではない事は、彼も判っているようで、そっと構えているのが判る。
 二人で、そっと視線を合わせ、隼人は静かに席を出て、デイブの前に立った。

 向かい合うと、隼人の方が断然、背丈はあるのだが、下から睨み付けてくるデイブの青い眼差しは、流石に迫力がある。
 隼人でも、ヒヤッと背筋を後ろに反りたくなる程、気圧されてしまった。

「いくつか、聞きたい事がある」
「はい……」
「今、嬢は何処にいる」
「お伝えした通り、鎌倉の親戚の家ですが」
「本当だな?」
「え、ええ……」

 ヒヤッとした──『おかしい』とデイブに嗅ぎつけられていたからだ。
 目の端に、達也がこそっとパソコン画面に隠れたのが見えた。
 そういう追求が自分に来ると困るな……という彼の心情だろう。
 それ程、デイブの気迫は異様なオーラーをメラメラと放っているように思えたのだ。

「確かに、今まで嬢は『突然』、飛び出す、いなくなる。周りを驚かせる──そういう勝手も何度かやって来ていたが? それもこれも、ある程度止む得ない事情や、軍人としてという仕事が関わっていた。しかし……今回はっ! なんだか“おかしい”!」
「……そうですか? えっと、中佐が私より、彼女の体調の悪さは、目の当たりにしていたではありませんか……」
「なんだと? もう一度、言ってみろ?」
「?」

 隼人は眉間にシワを寄せた。
 デイブの方が葉月の体調の悪さを目の当たりにしていてのだから、彼女が突然、両親と親戚の勧めで休養に入ったと言えば、一番に納得してくれると思っての『いい訳』だったのに……。
 実際に、この『いい訳』で、一番最初に『そうか、ああ、そう言えば、そうだった』と納得してくれたのが、この目の前の金髪の中佐だ。
 それが──手の平を返したように、隼人をもの凄く……今にも叱りとばしそうな勢いで、先程以上の気迫で隼人を下から睨み付けるばかりだ。

「もう一つ聞く。サワムラ──黙っていたが、嬢の指から、指輪がなくなっていた。そして、お前の指からも……何があった」
「!」

 この問いには……隼人は思わず、息を止めてしまった……。

「俺から見ても、指輪をした後の嬢はとても幸せそうだった。見た事もない、柔らかい眼差しに微笑みを浮かべるようになっていた。お前に愛されて、幸せなんだと確信出来ていた。なのに……『何があった』?」
「……別に……なにも。ああ、『急ぎすぎたから、もう少し、ゆっくり考えよう』と言う話になって、それから……職場での目もあるからという事で、二人で──」
「誤魔化すなっ!」
「!」

 ついにデイブに怒鳴られて、隼人は半歩後ずさった──。

「ええとぉ……俺、ちょっと外に用事が……行ってきます」

 達也が出て行こうとしていたのだが。

「ウンノ! お前もここにいろっ」
「……うぃっす……」

 達也は『ひっ』と言うような引き顔になり、大人しく、そして小さく隠れるように席に座る。
 そして、デイブの燃える眼差しは、隼人に戻ってきた。

「サワムラ──これでもな、俺も女房と揃ってずっと嬢ちゃんを見てきたんだぜ……」
「……」
「嬢がうちの女房と、どういう話をしていたか……最近、こうなってからサラと話し合っているうちに、『思わぬ事』にぶち当たってなぁー」
「奥さんと葉月が話していた事? で、ぶち当たった? とは?」

 隼人は眉をひそめた。
 確かに──葉月は、サラと二人だけ、女同士の交流を交わしていた。
 その時に、葉月が……彼女に女性として何を話していたかは……隼人は知らない。
 女性同士だから……と、首を突っ込まなかっただけなのだが、そう言われると何か気になる。

「嬢には……なんでも忘れられない男とやらがいるらしいな?」
「!」

 隼人はまた……驚き、固まった。
 何故なら──葉月が、女同士とは言え、そんな事を隼人以外の人間に口にしていたからだった──。

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