―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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ありきたりな女 2

 

 暑い日でも、夕方になるとすうっと肌寒くなるのが北の都市の気候。
 三浦が自宅マンションに辿り着いた時にはもう、空気はさらっと涼しくなっていた。戻った部屋もまだ夏だというのに、柔らかな夕の陽差しがやさしく包み込んでくれている。

 それでも部屋の空気を入れ換えるために窓を開ける。すぐ目の前は豊平川。サッカーフィールドや芝の広場がある広大な河川敷から、緑の匂いが微かに入り込んできたような気がした。

 羽織っていた綿のシャツを脱ぎ、下着代わりに着ているティシャツ一枚になり、そのまま冷蔵庫へ向かう
 広島出身の三浦からすれば扇風機も要らない気候だが、やはり窓を開けて入ってくる涼風は暑い街中から戻ってきた肌にはとても爽やかだ。そう思いながら、帰宅後の楽しみである缶ビールを手に取った。

 長いこと独り住まいの三浦。リビングにとりあえず置いてあるテーブルには数日分の新聞が散乱している。それでも一番上にあるその日の新聞を手にとって広げてみる。
 だが、ビールを飲みながら活字を追っても、今日はどうしても頭に入ってこなかった。

 どうしたことか。やはり、気になっているのか――。

 

 画廊の店主は三浦が久しぶりに見つけたモデルとして『あれが』と言わんばかりに呆れていた。ぱっと見ても彼女から何を感じたか一瞬では分からなかったのだろう。
 だが三浦としては、画廊で作品を鑑賞していた彼女の姿がまたどうしてかひっかかっていた。再会しても、彼女への漠然とした興味は薄れることはなかったようだ。
 やはり三浦の中ではなにかに駆られるものを彼女は持っているとしか思えない……。と、なんともドラマティックな出会いであったのではいかとこの歳になってうっかり流されそうになったのだが、それから数日して三浦はふと気がついたのだ。ただ単にあの年代の『あの種』の女性を描きたくなっただけなのではないかと。

 しかし、あれから彼女の返事がない。断る気配もなく彼女は『素敵な作品でした』と、その場しのぎのようなぎこちない笑みをみせると帰ってしまったのだ。
 何故、三浦も『返事を下さい』と言えなかったのか、そして、呼び止めなかったのか。まるで振られるのを恐れて、自分の気持ちを守るために『保留にしておきたい』と悪あがきをしている若者になったような気分だった。

 その上、画廊の店主が『絵に興味はあったようだが、一般家庭の亭主持ちのしかも子持ちの女が、ほいほい脱ぐことはないだろう』と言った。
 それは三浦も尤もだと分かっているのだが。さらに店主が言うには『はっきり返事が出来る性格には見えなかった。このまま連絡なしで分かってくれという意思表示で、逃げていったのかもしれない』と。だが彼は三浦と同じようなため息を落としながら『確かに新しい題材だったかもしれない。君が今まで描かなかった雰囲気はあった』とも言ってくれた。ぱっと見ただけではありきたりな女性だが、絵画を扱う商売人としてならふと感じるものはあったようだった。しかし残念だが、三浦もそう思う。簡単に脱ぐような女性ではない。彼女に限らず、きっと横断歩道で見かけた殆どの女性が同じように戸惑うことだろうから。だから覚悟をしていたままに、彼女を取り逃がしたことを受け止めようとしていた。
 だがどうしても諦められない。しかし街中を歩いていた時に思ったのだ。そうだ、なにも彼女でなくとも良いではないかと。街の中で彼女と同じようなものを感じた女性を探した。……幾人か似たようなものを感じた女性がいた。どうしたことかやはり彼女と同年代らしき熟れてゆく中年女性ばかりだった。――あの年代が描きたいのだろうか? 三浦自身、彼女の中から見いだそうとしたものがなんだったのか、取りこぼした砂を慌てて掻き集めるようにして、懸命に探している自分に気がつきはたと我に返ることもしばしば。

 まあ、こういう創作たるものを生業にしていると、なにかしら鮮烈な閃きを感じてはなかなか握りしめる実感を得るまでに至らずに捨てていく日々だ。
 今回もきっとそれだ。どうしてもあの年代の女性が描きたいという閃きと新しい創作意欲だったのならば、最終的にはモデル事務所を頼ればいい。彼女たちは慣れているが、中にはその世界に染まりきっていない初々しいモデルもいる。美術学校のデッサン授業や素描のモデルを依頼されて出張するバイト的なモデルが多い。主婦も多いと聞く。そんな脱ぐことに抵抗のない、仕事にしている女性からでも見いだせることもあるだろう。――と、そこまで思った時、三浦自身そこまでの考えに至った自分を自分で慰めているような情けない気持ちになり、いつのまにかため息を落としていることに気がついた。

 それほどに、脱いだことのない女性を描きたいのかと――。

 いったいあの昼下がりに、彼女からなにを見てしまったのか。
 返事も聞かずに物言わぬ彼女を見送ってしまった。惜しい、惜しい、惜しいなあと、三浦は臍をかむ思い。豊平川を滲ませる夕暮れの中、缶ビールを傾けていた。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「来てくれよ。彼女がまたやってきたんだ」

 画廊の店主からそんな連絡。三浦は信じられない思いで、手に取るものもとらずに自宅を飛び出した。
 自宅近辺の地下鉄を乗り継いでいる間も、三浦はわけもなく緊張していた。久しぶりの一般女性のモデルのせいか。何人も裸婦を描いてきた男とは思えない狼狽ぶりではないだろうか。三浦自身、そんな自分が慌てている一方で、着実に年齢を重ねてきた落ち着きあるもう一人の自分が冷ややかに笑っているのを感じている程に。

 画廊に着くと、本当に彼女がいた。
 店主の彼がいつも接客で使うテーブルで、彼が煎れただろう紅茶を傍らに彼女が画集を眺めていた。
「三浦先生。お忙しい中、申し訳ありません」
 三浦を見つけると、彼女はきちんと起立し一礼してくれた。だが目が合うと、彼女は申し訳なさそうに顔を背け囁いた。
「いえ……。まだ決めかねております。そんな中、いつの間にかこちらの画廊に足が向きまして。もう一度、先生の作品を見せて頂きたいとお店に入れてもらいました」
 先日よりも喋る彼女。言葉は囁く程度なのに三浦の方が圧倒されて黙ってしまっていた。まさか、自分はモデルになるかもしれない女性を目の前に緊張しているのかと。どうみても普通の中年女性である彼女に迫力などあるはずもなく、ましてや、自分で声をかけておいてなんだが、独特のオーラがあるわけでもない。彼女は今日も、誰もが着ているようなシャツを着て、一主婦として楚々とした佇まいのままだ。
 ふと彼女の背後に出てきた店主が、三浦に向けて首を振る。『迷いがあるならモデルは無理だ。君から決着を付けろ』と。だが三浦は……。
「あの、私が描いているのは確かに裸の女性です。つい先日、偶然に声をかけた女性にいきなり『脱いでくれ』とは言えません」
「ですが。先生の感性が一番生きるのは、やはり裸婦だと思います」
 彼女が三浦を真っ直ぐに見る。
 それは彼女の声同様に、はっきりとした輪郭を持ったりんと鳴るガラスの音のよう。自信などどこにもないと自身で分かり切っている女性のやんわりと弱い眼差しなのに、三浦にはっきりと何かを訴えているようだった。
「私、とても光栄に思っております。ですがやはり、いくら芸術でも脱ぐことには抵抗があります」
「当然のところでしょう」
 だが、彼女は迷っているのだ。
 興味はあるのだろう? 裸婦像がどのようなものか知っている、分かっている。だがいざ自分がそれになれるかと言ったら、彼女は今はなれないのだと。
「では脱がなくても結構です。ただそこに座って、じっとして、私の指示に従うだけの。婦人像でも構いません。貴女ぐらいの年代の女性を題材にしたいだけですから。私にも何が描けるか分からない段階です。まずはお互いに『お試し期間』ということで如何でしょうか」
 彼女の表情がふんわりと緩まり、ほっとした顔になる。
 モデルはやってみたい。その意志があれば充分だと三浦は考える。今はただ『脱がなくても良い』とそう言っておくしかないだろう。

 何故か、店主が勝ち誇った顔をしている。
 話がまとまった祝いのように、彼は浮かれた様子で、彼女におかわりの一杯を、三浦には労いの一杯を持ってきてくれた。

 

 

 

Update/2008.10.23
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