―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

TOP BACK NEXT

肌に惚れる男 5

 

「では、始めましょうか」
 カウチソファーに座っている多恵子の傍へと三浦は歩み寄る。
 いつかのように、多恵子が気構え硬くなる様子はもうない。彼女も彼女なりにモデルとしての心意気を既に得ているようだった。
「足、開いて――」
 多恵子の小さな足を手に取る。ストッキングもソックスも取り払われた素肌。多恵子が言われるままに足を開く。いつかのようなポーズを、やはりあの時のように彼女の肌に触れず指一本で三浦は指示する。多恵子の肌が柔らかくゆっくりと動きながら、三浦の指先に操られるようにこちらが思うままのポーズを象っていく。
 多恵子もあの時と変わらずに指示に従ってくれる。あの時と違うのは、多恵子が慣れてきたことと服がない素肌であること。
 だが三浦は肌に触れずとも、彼女の肌を目の前にして思う。なんとも優しい匂いのする肌だと。いろいろな女性の素肌を見てきた。描いてきた。その女性それぞれの匂いがあるのは確かだった。やんわりとパルファムをつけてくる女性もいたし、高級そうなシャンプーの香りが際だつ女性もいた。その女性それぞれの女性らしい香りの嗜みがあった。だが多恵子にはその嗜みがうかがえない。ごくごく普通の手入れをしているのだろう。一般的な石鹸の香りがするようなしないような。それでも柔らかで優しい……そう、母性を思わすような匂いを感じたのだ。ここに来る前にシャワーでも浴びてきたのか。そんな微かな石鹸の香りだ。
 しかし三浦としては多恵子にはあまり気取って欲しいとは思っていなかった。

 ポーズが出来上がる。
 多恵子には、ソファーの上でぼんやりと座っている裸婦になってもらう。ぱっと見た時、緊張感なく単に座ってぼんやりとしている。そんなイメージで背筋に力を抜いてもらい、そして足の膝小僧もくっつけずにほんの少し緩めてもらう。そうすると少しばかり小股が開いてしまう。女性の神秘の部分である秘所を覆い隠す柔らかそうな黒毛がちらりと見えてしまうのだが……。三浦がそれを目に留めても顔色ひとつ変えずにポーズの指示をしているせいか、多恵子も狼狽えることなくやり過ごしてくれる。――これこそ、彼女の覚悟の証拠でもあるのだろう。

 女性として大事な部位には三浦は触れない。それでも手と足は取る。手の置き場所、指の形。足の向き、開き具合。それでも不謹慎ながら、やはり女性の素肌は良い感触だと、三浦も描きたい意欲が懇々と湧き出てくる。多恵子の肌はそれを促してくれるのは確かな程、ありきたりだろうが、女性の魅惑をちゃんと秘めている。
「ゆるりとしたポーズを描きたいのだけれど、実際はそれを二十分から三十分保つのは厳しいよ。最初は辛いけど、慣れていってくださいね」
「はい、先生」
「本番だから、僕も多少厳しくなりますよ」
「わかっております。至らないところは、遠慮せずに指示してください」
 多恵子の表情もかなりの緊張感を備えてきた。三浦画伯が自分の裸体をモデルに本番に挑む。目の前にはF10号のカンバス。既にアトリエ部屋にはテレピン油の匂い。イーゼルの周りには油彩絵の具にパレット、絵筆、オイルのボトル。それらを目にして、多恵子も昔のことを思い出しながら、油彩の世界が始まることを実感してくれているのだと三浦は確信していた。
「下書きを始めるから」
「はい」

 ゆるりとしたポーズ。それは主婦の多恵子が忙しいありきたりな日々をやり過ごしながらも、ふとした瞬間にたった独りで休憩を取り、くつろいでいる。主婦のありきたりな、それでも至福の安らぎをまずは描いてみようと思ったのだ。
 本当の主婦が本当にそんなポーズを取るかはわからないが、まずは三浦のイメージで。それもゆるりとみせているが、三浦が指示したポーズはそれなりに不自然であるはずだ。そのテーマを表現するためのラインは、決して自然体と一致してるわけではないのだ。そこがまた芸術の線と言うべきか。

 それでも、多恵子もだいぶ慣れたなと三浦は思う。一ヶ月間、着衣でスケッチだけしてきたが、それでもポーズがなんであるかを多恵子は知り、そしてどうするべきかの心構えもきちんと習得していた。
 そんな多恵子の悠然としている様にも安堵し、三浦はようやっと側から離れイーゼルへと向かった。

 ついに木炭を手にし、下塗りを施したカンバスに向かう。
 ざっと裸婦多恵子の全容を描き出す。
「多恵子さんは、息子さんもご主人のいない一人きりの昼間。ふっと独りで休憩している時は、どんなことをするのかな」
 木炭を動かしながらの唐突な質問に、それなりの目線を整えてくれていた多恵子が少し驚いたように三浦がいる方向を見てしまっていた。
 だが三浦は続けた。
「ご主人と息子さんの為にこしらえた夕食を終えた後、食器の片づけ、それが終わって独り。多恵子さんはソファーに座ってテレビを見るのかな」
 そんな問いかけ。多恵子が何かを応えようと口を開きかけたのだが、木炭をひたすら動かす三浦は所定の視線を忘れて画伯の質問に答えるため画伯を見ている彼女を、ふいに睨むように見てしまう。そんな三浦の気迫の目と多恵子の目が合う。だが、彼女はハッとした顔になり、急に……使命を思い出したかのように所定の目線に直ぐに戻った。
「珈琲を飲むのかな。雑誌を見るのかな。奥様向けのドラマを見るのかな。夜はサスペンスドラマ? それとも流行のドラマ? バラエティ番組?」
 三浦の独り言は続く。そして多恵子は決して答えなかった。
 ――通じたと思った。
 多恵子の目線が三浦の初期設定を覆す目線に変わっていく。ポーズも少し変わろうとしていた。ただし微弱に。三浦の設定を最低限崩さないよう、でも多恵子は『その気分』になろうとしてくれていた。
 誰もが同じ忙しい日々を送る。自分と同じように大変な思いをしている主婦はいっぱいいて、自分だけが弱音を吐くわけにはいかない。ただただ家族と幸せに過ごしていくために。夫のため子供のために家と外を駆け回る主婦。なにもかもがやって当たり前といわれる中で、ふと手が空いた瞬間。一人きりで過ごす主婦の、たった独りのくつろぎの一瞬。 
 見事に多恵子が、多恵子らしくそれを表現し始めていた。
 そう。それが見たかった。三浦には想像が出来ても、本当のことはわからない。でも、そのラインで表現したい。しかし三浦の想像だけでは真実味のない造形物として終わってしまう。だが、そこに多恵子という現役主婦の命が吹き込まれる。
 多恵子のどこか疲れたような、でも、ホッとしたようなぼんやりとした目。一カ所を見ているのに遠い目。まるでテレビの画面を追っているのに、見えているのに、ストーリーを追っているのに、それでもその向こうにあるまた始まる明日は何をすれば良いかと心構えを整えているために、向こうを見据えている目。結局、何もかも忘れられずに、夫や子供のための明日の準備を考えている主婦。三浦にはそう伝わってきた。
 ――見事だ。やはり彼女には表現する力がある!
 三浦はそう思った。絵を描いていたせいもあるだろうし、彼女自身、まだまだ絵心を棄てずに、どこかで表現したいという願望を持ってくれている証拠だと思った。

「今の顔。とても良いよ、多恵子さん」

 三浦の気分も高揚し始める。こんなモデルとの息の合方、手応えは久しぶりだったからだ。下書きは一気に加速した。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 途中、ようやっと三浦の集中力が切れ、休憩を取ることにした。
 あまりにも乗っていたため、所定のワンポーズのタイムを大幅に過ぎていたことに三浦はやっと気がつく。
「多恵子さんも、遠慮せずに言ってください。僕は集中するとこんなになってしまうし。貴女が疲れてしまったら、これから困りますから」
 だがポーズを解いた多恵子の動きはぐったりとしていたが、それでも頬をほんのりと紅く染め微笑んでいる。彼女も気分が高揚し、そしてやり甲斐を感じ達成感を得ているように三浦には見えた。
「いいえ。私も時間を忘れていました。もう、ずっとドキドキして……」
 胸のあたりを片手で押される仕草、紅く染めた頬。ころんとした黒目勝ちな目が喜びに和らいでいる。多恵子も興奮しているようだった。
 やはり、ありきたりではあるが、彼女にはどこかしら無垢なものを感じる時がある。どの中年も通ってきた道の中でもある程度は汚れていくのだろうが、最低限で済んだ大人と言うべきか。
 裸婦という仕事に取り組めたことを、そんなふうに誇りに思ってくれるのなら、もう安心だと三浦も嬉しくなってくる。
「お茶にしましょうか」
 筆を置き、三浦も肩の力が抜ける。気のせいか、歳のせいか? 久しぶりに力が入っていたのか右肩を重く感じた。やれやれ、習作は重ねても本番が久しすぎて多少のブランクでもあるのかと情けない気持ちになった。
 アトリエ部屋のドアを出ようとして、多恵子へと振り返ると、彼女が少し戸惑っている。今日着てきた服をどこまでもう一度身につけたらよいかと、ブラジャーを持ったり、キャミソールを持ったり。そこで三浦もやっと気がついた。
「すみません、僕も気がつかなくて」
 そこで三浦もケヤキの椅子や独り掛け用のソファー、そしてストールやシルクの布などのモデル用のアイテムを保管している棚から、古びたガウンを一枚取り出した。
「もっと早く言っておけば良かった。いや、僕が準備しておくべきでした。モデルの女性は大抵、準備中や休憩中はガウンを着用するのですよ。皆、それぞれに持っていてね」
「そうでしたか。私もわからなくて……」
「いえいえ。まあ、僕が習作で依頼したモデルさん達は皆、キャリアがある程度ある女性ばかりでしたから。僕も彼女達任せだったので……」
 素人の多恵子にそんなことが思いつくはずもなく、三浦はうっかりしたと思いながら、スペアで置いているガウンを広げた。
 だが、そのガウンの汚いこと。しわくちゃで、所々に何色もの油絵の具が染みこんでいた。流石に多恵子も目を見張って絶句している。三浦はそれを思いっきり丸めて直ぐに隠したい気持ちになったが、これしかない。
「す、すみません。やはり、こうした所がですね、がさつでやもめ暮らしの男なんですよ。しっかり者の主婦である多恵子さんには叱られそうですね」
 でも、多恵子はやんわりといつもの笑みを見せてくれる。
「構いません。まだお仕事が残っていますから、私も脱ぎ着が簡単に出来る方が良いです。そちらをお借りします」
 三浦の手から、多恵子がそれを取りさらっていく。そして彼女は躊躇うことなく、薄汚れたシルクのガウンをさっと羽織り腰ひもをきっちりと締めるとソファーから立ち上がった。
 胸元の袷もきっちりと整え、すっと立った多恵子は、いつものきちんとしている着衣の彼女に戻った。そのすっきりとしている様も、既に三浦にはまた何かを描き出したい気持ちにさせる姿として見えた。
「お茶を煎れますね。今日もアップルティーがいいかな」
「他にもあるのですか」
 多恵子の期待を秘めた問いに、三浦はやや得意げに「あるよ」と答えていた。

 二人でキッチンに並び、多恵子に揃えた紅茶缶を見せた。
「まあ、いろいろ揃えてくださったのですね」
「うーん。そんなに種類があるとは僕も知らなくてね、迷ってしまったんだ。結局、お店の若い娘さんに勧められるままに買ってしまったよ」
 多恵子の為。数々揃えてしまった。それはまるで、多恵子のことをそれだけ思って買ってしまったことがばれてしまったかのような気分で。
 だが多恵子は紅茶缶を手にして、ちょっと呆れた顔を見せていた。
「まあ、先生ったら。それでは、お店の女の子の思うままに買わされたってことではないですか」
「でも、どれが多恵子さんの好みかわからなくてだねえ」
「駄目ですよ。私など本当にどれでも構わないのですから。先生ったら、お買い物に慣れていないみたいだわ」
 あの控えめな多恵子に殊の外はっきりと言われ、三浦はやや面食らっていたのだが。
「でも、嬉しいです。今日はこのピーチティーを開けても良いですか」
 いつものにっこり柔らかい笑顔をすぐに見せてくれる。三浦も勿論『どうぞ、どうぞ』と多恵子に缶を開けさせた。
 それどころかもたついている三浦を見かねたように、多恵子がコーヒーポットをさっと火にかけカップを手にしてしまう。
「いや、やはり手慣れていますね」
「そうですよ。私の本業ですから。先生はそちらでお待ちになっていて下さい」
 いつのまにかお茶入れのポジションを奪われ、三浦はキッチンから追い出されしまった。
 なるほど。主婦も強い時には強いのだなと実感させられる。それでも三浦もソファーに座り、お茶が来るのを心待ちに微笑んでいた。

 コンロにかけたポットが蒸気を上げるまでの間が持たず、三浦は座っていたソファーから背にあるキッチンへと振り返る。
 薄いシルクのガウン姿で、ティーポットやカップの準備をてきぱきとこなしているしっかり者の奥様を暫く見ていた。こういう女性の姿を間近に見るのは久しぶりのような気がした。
「多恵子さん」
 そんな多恵子の背に、三浦はなんとなく話しかけていた。
「はい」
「そのままでいてくださいね」
 なんのことだろうかと戸惑う顔をこちらに見せ、多恵子は忙しく動かしていた手元を止めてしまった。
「そのままの、僕が見つけたままの多恵子さんを描かせてくださいね。変に飾らなくても貴女は充分、僕に描かせる魅力を持っていますよ」
 自分でも何故、唐突にこのようなことを言い出したのか三浦にもわからなかった。多恵子もいきなり『魅力』と言われ、気恥ずかしそうにしながら戸惑って俯いてしまった。
「ほら……。こういう芸術というか特に裸婦像を描くとなると、なんとなく自分の美に対して責任を感じ始めたりして。そんなものは一切いらないと言うことです」
 美術モデルをよく理解していないモデルの中には、描き手に創作力を与える表現を掴もうとせずに、ただ単に自分を磨き始めてしまう者がいる。初心者に多い。描いてもらうには自分が美しく輝いていなければいけないと勘違いしたまま成長しなければ、それならばカメラモデルや写真モデルの仕事をしてみては――と、三浦も時にはきつく言い、事務所に突き返すこともあった。美術モデルとはなんたるかを掴める者と掴めない者がいる。素人の多恵子がもし、勘違いをしてしまったら――。三浦は居ても立ってもいられない。
「肌を良く見せようと、いきなりエステに行って磨いたりしないでください」
 いつもはこんなことはいちいちモデルには言わない。
 だが、ガウン一枚持っていないモデルである多恵子。そして彼女がそんなことはしないだろうと信じているのに、三浦は続ける。
「いきなり髪型を変えたりしないで下さい。急に流行の髪型にしようとパーマをかけたり、今の綺麗な黒色を明るい色に染めないで下さい。せめて僕のモデルである期間だけは、僕に相談してください」
 でも言わずにいられなかったのだ。多恵子を描きたいから。描き続けたいと今日、なおさらに思ったから。また臆病になって、まだ裸婦に孵化したばかりの彼女を駄目にしたくもないし、逃がしたくなかった。だが、いつのまにか多恵子は三浦に『はい』『はい』と素直に返答してくれている。
「今まで通りのお手入れをしてください。多恵子さんはそれで充分、僕に描かせているから」
「はい、先生。出会った時のままの『ありきたりな主婦』である私であれば良いのですね」
 そして多恵子はやはり、アトリエで通じた時のように、三浦が言わんとすることを察してくれていた。そして安心させてくれるその柔らかな笑顔も共に。
 ほっとした三浦は、そんな多恵子に自然と言っていた。
「僕は既に貴女の肌に身体に惚れています。僕はね、肌と裸体に惚れて描く男なんです。惚れなければ、描けないんですよ」
 だから、今ある自分に存分に自信を持って挑んで欲しい。そんな思いを多恵子に伝えていた。
 まだこれから何をどのように描くかは、描く時にならないとわからないから。どう描くよ。とは、的確には多恵子に言うことが出来ない。
 ただ、多恵子とこれから挑む創作には、今の多恵子が必要だと言うことは伝えておきたかった――。

 多恵子は嬉しそうに頷いてくれた。
 リビングにふわりと桃の香りが漂い始めた。多恵子が煎れてくれた紅茶の香り。そこはかとなくほんのり淡く。まるで多恵子の肌の匂いのようだった。

 

 

 

Update/2008.11.13
TOP BACK NEXT
Copyright (c) 2000-2008 marie morii (kiriki) All rights reserved.