―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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雪降る街の住人 2

 

 自分でもわかっているけれど、溜め息しかでてこない。
 きっちりと片づいているダイニングテーブルが日曜の陽射しで、眩しいほどに反射している。淡い木目が、砂漠の砂模様のよう。頬杖で見下ろしている多恵子の目の前を、文様を描く風が通りすぎていくように錯覚。だけれどなんの動きがあるわけでもなく。同様に、多恵子の手元にある白い携帯電話もまったく動きなし。

 十日が経った時点で『まだかしら』と思っていたが、まだ待っていられた。
 油絵がそんな直ぐに出来るものではないことも、絵描きによってペースが違うことも、そして描く本人が『完成』と納得するまでの期間が決まっていないことも、重々承知だった。
 だけれど、あれだけ自分を投げ出した作品がどのようになっているか気になる。そして多恵子だってモデルとして『やり遂げた』という最終的な達成感を埋め込まないと『完成』とは言えない。

 ついに二週間が経った。
 でも。実は昨日、多恵子は思いきって自分から三浦先生の携帯電話に連絡をしてしまったのだ。
 結果は――『ただいま、出ることが出来ません』というアナウンスが多恵子の耳に返ってくるだけだった。その上、多恵子は堪りかねて、時間をおいたとはいえ三回も連絡してしまったのだ。勿論、結果は同様。
 多恵子の着信は、先生もわかっているはず。なのに、折り返しの連絡は一切なし。つまり、まだ先生は多恵子と接触するつもりがないのだ。

 絵を描くとなると手厳しい画伯だから、制作を共にしたモデルに対して無碍にすることはないはず――。多恵子はそう信じているのだが、こんな『待機』は初めてで、先生がなにを考えているのかさっぱりわからない。特に二週間も会っていないと、余計にわからない。
 自分から連絡をしてしまったばっかりに、相手の反応を待ちぼうけ。相手からの『待っていてくれ』という言葉だけで、ただひたすら待っているよりも、自分から行動を起こして待っている方が気が気ではなかった。
 ――さらなる溜め息が、テーブルの砂漠に落ちていく。

「うっとうしいなあ」
 リビングのソファーからそんな声。多恵子もはたとして、俯き加減の顔を上げる。そこでは夫の充が黒いジャージ姿で、日曜の朝刊を読んでいるところだった。
「先生が待てと言っているんだから、待っていればいいじゃないか」
「そうだけれど」
「まったく。人の女房を勝手に裸にして、放置か」
 仏頂面で呟く充の文句。多恵子はさらに大きな溜め息をテーブルに落とした。それは呆れる為に出た物ではなく、文句を呟く夫への無言なる返答だった。
 そうして多恵子はここ二週間、夫の『小さな文句』を無言でずっと返してきた。だがそこで今度は充の溜め息が聞こえてくるのも、毎度のお決まり。
「黙っていないで、言いたいこと言い返したいなら言えよな」
 ちまちました文句がちくちくと続くのは、もう仕様がない。裸になる仕事をしていることを秘密にしていた妻の自業自得。夫の気が済むようにさせようと決めていた。
 だけれど、充はそんな多恵子の態度にも不満そうだった。
 そう。佐藤夫妻の喧嘩は昔からこうだった。多恵子が黙ってしまうのだ。やがて充が疲れて折れてくる。だから充は言い返して欲しい。でも……多恵子はそれが実はできない小心者でもあるのだ。傷つけるのも傷つけられるのも怖い、小心者。そして夫の充もそこまで知っているから、だから余計に踏み込んでこなくなる。やがて夫妻は互いに疲れて停戦し、とりあえず歩み寄って何事もなかったかのようにして呑み込んでお終いにする。そんな繰り返しの十何年もの結婚生活。
 今回もそれと同じようになると多恵子は思っていたのだが、なんだか少し違うものを感じていた。多恵子が取る態度は同じで変わらないのだが。
 黙っている多恵子に恨めしげな目線を向けつつ、充が新聞を畳んだ。
「でかけるか」
「いってらっしゃい」
 ああ、考え事をするのに邪魔がいなくなる。せいせいだわと多恵子は思ったのだ。コンビニでも買い物でもドライブでも、貴方もここにいるのが居心地悪いなら気分転換にどうぞ、どうぞ。と送りだそうとしたのだが。
「お前も一緒にでかけるんだよ。着替えて化粧してこいよ。俺も着替えるから」
 『なんですって』と、多恵子はぽかんと充を見た。彼がちょっとばつが悪そうにして俯いている。
「なんだっけ。三条ほど向こうの通りにある、昔よくモーニングを食べに行ったあの喫茶店は――。まだあるのかな」
「あ、あるわよ」
 新婚当初、二人で時々通った店だった。名前は覚えていなくても、それは覚えてくれていたのかと多恵子は少しばかり意外に思いつつも、以上に充からの誘いに唖然としていた。
「まだモーニングはやっているだろ。ランチ代わりに二人で食べに行ってみようじゃないか」
「大輔は?」
「もう留守番が出来る中学生じゃないか。それに週末休日の夜更かしをしていたみたいだから、まだ寝ている。帰り際になにか土産に買って食べさせたらいいだろう」
 多恵子はさらに目を丸くした。言葉が出てこなかった。つまり夫は『二人だけででかけよう』と誘ってくれているのだ。まるで、デートにでも行くかのように。
 なんとも返事をしない多恵子が、ただ充だけを見ているのが耐えられなかったのか、彼がもう破れかぶれのように言い放った。
「行かないなら。俺だけ行ってくるからな!」
 頬を少しだけ紅くして、充は着替えに寝室に行ってしまった。
 暫し、多恵子も茫然としていたが、自分もすぐに動き始めた。出かける格好を整え、化粧をして――。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

「大輔、お父さんと出かけてくるわね。お昼何か買ってきてあげる。何がいい?」

 ドアをノックして話しかけてみる。返事はなかったが、ううんと眠そうな呻り声だけが聞こえてきた。
 『開けていいよ』と小さく聞こえてきたので、多恵子はそっとドアを開ける。ベッドの上にこんもりと盛り上がっている羽毛布団の中から、ちょこんと大輔の顔が出てきたところだった。

「どこいくの……」
「近くに珈琲を飲みに行くの。お父さん、たまにはお店の珈琲が飲みたいのですって」
 適当な理由をつけたのは何故なのかと、母は自問自答。息子は『ふうん』と気のない返事をしたが、なにかを感じ取っているかのような顔で、でもぼんやりとした目つきで母親の多恵子をじっと見ていた。
「ハンバーガーがいい。テリヤキね。チキンぽいのでもいいや」
「いいわよ。側を通るから買ってくるわ。お留守番、お願いね」
「いってらっしゃい」
 またもぞもぞと息子は毛布に入ってしまう。いつもなら『もうお昼だからいい加減に起きなさい!』と目くじらを立てているところだが、今日の多恵子はそのままにして玄関に向かう。そこには既にカジュアルな格好に身を整えた充が靴を履いて待っていた。
「行こうか」
 この前、多恵子が見立ててあげたばかりの雪道対応のスポーツシューズ。早速、それを出して履いてくれたようだ。
 そして多恵子も雪道に合わせたブーツを履いた。
 二人は共に玄関を出た。

 三条先の通りへ向かう。一条、あるいは一丁でだいたい百メートル。条と丁の縦横、碁盤目の区画割りになっている札幌市。三条ぐらいなら歩いていこうかとうことになり、充と並んで歩いた。
 すっかり丸坊主になった街路樹の根本には溶け残りの雪。春が来るまで地面を真っ白に染める根雪には早いが、雪が降っては溶けて、降っては溶けてを繰り返す時節。日陰の雪だけが溶けずに、まだらになって残っている。
 多恵子が住んでいる街の街路樹に七竈はない。でも時折、一軒家の庭や病院の裏庭などにひっそりと一本立ちで佇む七竈を目にすることが出来る。
 その七竈を見上げた時、ふと『先生』の顔を思い浮かべてしまった。
 先生。どうしているのだろう。もう二週間も。連絡しても、多恵子に会ってくれる意志もなく――。ふとその一本立ちの七竈の樹木を見上げ、多恵子は知らず知らずのうちに立ち止まっていたようだ。
 充の声がした。
「芸術はずるいよな」
 唐突に耳の中につんと入ってきた声に、多恵子は夫と歩いていた世界に引き戻される。そしてその声へと顔を向けた。そこにはふてくされた顔の充がいる。スポーツメーカーの黒いベンチコートを羽織っている彼が、ちょっと恨めしそうに多恵子を見ていた。
「先生のこと、考えていただろ」
「ナナカマドの実が綺麗だと」
 咄嗟に出た言葉を多恵子は口にしていたが、図星だった為にそのまま黙り込んでしまった。なんともわかりやすい言い訳に態度。夫にはすぐに見抜かれてしまうばかり。そのままそこで俯いてしまった。
 だが充は呆れた顔をしながらも、そっと多恵子の隣に戻ってきてくれた。そして多恵子と一緒にその七竈の実を見上げてくれる。
「俺には、そこらへんにいつもある木ぐらいにしか思えていないもんな。でも、お前と先生はきっと、毎年気にして赤色を楽しんでいるんだ」
 多恵子は充の顔を見た。なんとなくその七竈と妻を重ねているのだろうかと、そんな気がして。
「それが、芸術はずるいと関係あるの」
「俺が関与しない興味が薄い世界、そこで二人が波長を合わせ向き合っている。夫の俺ではない、他の男とね。でも『芸術だから』という一言で許されるものなのかとね」
「――責めているのね」
 やはり、こうして二人きりで気分転換になるだろうと外に出てきても、夫の猜疑心に苦悩は晴れない。当然と言えば当然だが、なにもかもが彼にとっては文句になってしまうのだろう。だから多恵子はまた、ふんわりした白いマフラーの中に口元を覆い隠し、いつも通りにそれきり黙り込んだのだが。
「産婦人科医と一緒と思えばいいかもな」
 なにそれ? と、多恵子は目を丸くして充を見上げた。
 彼はそのままずっと七竈の赤い実を見上げている。どこか致し方なさそうに目を細め、ただひたすら赤い実を見ている。
「大輔が生まれるまでお前の身体を預けていたのは、産婦人科医という男性だったわけだ。俺、なーんにも感じなかったなあ。だってお前と生まれてくる大輔を大事にしてくれる人だからな。裸婦画家も、それと一緒と思えばいいのかと、そこまで考えてしまったんだよ」
「でも産科医は妻と子供を守る為の理解だったでしょうけど、画家は違うでしょ」
 多恵子から、その問題を差し出してみた。画家は確実に裸婦に対して異性的感情を持って描いている物なのだと。
「だから納得できない。人の妻を内緒で裸にしてさ、それは『芸術だから』の一言で、男の目でお前を何度も何度も見て描いていたんだろ。そしてお前も納得ずくで肌を差し出していたんだ」
 その通りなので、多恵子はまた黙り込む。だが充は続けた。
「でも、俺だって少しは芸術とやらが何かわかっているつもりだ。裸婦画を見たことあるしさ。そういう芸術性はわからなくても、女性の美というものを画家が追い求めているのだとわかっているつもりだよ。実際に女の身体は綺麗だなとか、色っぽい絵だなあと、それぐらいは感じるしさ。それが男達にとって美であることも確かだよ。そんな意味では俺も、お前に付き合った美術展で見知らぬ女の裸の絵を何度も目にしていたわけだ」
 だけれど、自分の妻の場合はそうはいかない。多恵子の頭の中に、そんな夫の最たる不満が思い浮かんだのに。
「先生にとって、女性の、モデルの裸体は――もしかすると男達が下世話な目で見る『女体』なんかじゃなくて、単に『女の顔』と思っているのかもなあ」
 急に芸術家を理解したような言葉、でも、致し方ない思いを秘めたような小さな溜め息も一緒に落ちてきた。
 だけれど、意外な言葉に多恵子は丸い目で充を凝視してしまう。『貴方の口から、そんな表現が出るなんて!』そんな驚きもあった。
 そして充はちょっと恥ずかしそうに頬を染め、多恵子を見つめ返している。どうしてか多恵子はそんな夫の眼差しに胸が熱くなってくるのを感じてしまった。
「そう思うことにする。だからモデルは続けたらいいだろう。ただし、わかっているよな。一線を引くことは。お前も流されないようしっかりと身を守ることも」
 その言葉にも驚き、多恵子は本当に言葉も失い、身動きもなくしただ彼の隣に立っているだけになってしまう。
「ミチ……?」
 やっと出た声も掠れていた。そして充がさらに照れくさそうな顔になると、今度こそ、いつもの彼のように顔を背け、さらには多恵子を置いて歩き始めてしまった。
「大輔の奴、昨夜、遅かったみたいだけどさ。お前の声、聞こえていなかったかハラハラしたなー」
 唐突に話を切り替えたように思えるが、その切り替えた内容が内容で、多恵子はさらに驚いてそこに立ちつくしてしまっていた。実は、この週末も夫妻はしっかりと睦み合う時間を持っていたからだ。だからこそかもしれない。充の心が裸婦に対してほぐれてくれたのも。そして多恵子も、そんな夫の眼差しや気持ちに触れて、心が熱くなってしまうのも。
 夫妻はひとつの問題に対しては対戦中ではあったが、しかしながらその反面で互いに肌と肌を重ねることで歩み寄り、なんとか繋ぎ止めようと互いの手を掴み取り抱き合うことを繰り返していた。
 その睦み合いの中で、夫が言葉に出来ない嫉妬を燃えさせてたことも、独占欲に駆られていたことも、多恵子は肌を通して知った。そしてそれを諫めるように多恵子も充に信じて欲しいと抱きついた。そんな夜が幾夜かあった。
 それが夫妻という物なのだろうか。言葉ではなかなか上手く消化できなかったのに。肌と肌、唇と唇を必死で重ね合わすことで、言葉を交わさなくても互いを信じている存在だと確信することが出来ていたのだと。夫の急な理解の過程には、きっとそれがあるのだと、二週間の日々の間で夫がそんな答を出してくれたのだと、多恵子は急にそう思った。
 数歩先に行った充が振り返る。
「別に。俺は俺で、多恵子と二人きりの世界がちゃーんとあるし。それが俺と多恵の軸だろ。しかも俺達夫妻だけの軸。それが俺の基盤で、妻のお前も基盤。先生がそれごとお前だと思って描いてくれているなら、それで良いと言っているんだ」
 振り返った充は、多恵子から離れてしまったのに、またそこから七竈の実を見上げていた。まだか弱いだけの木枯らしに、小さく震えている真っ赤な実を。
「俺にモデルをしていると教えてくれた次の朝。お前、すごい顔で言っただろ。俺と抱き合うことと、アトリエでのポーズはまったく違う。好きな男と抱き合う女を感じさせる為のポーズをしてムードを作って、画家に描かせるんだと」
「言ったわね、そういえば」
 夫の目が、多恵子に戻ってきた。彼がいつにない真顔で多恵子に言った。
「あの時。本当にお前が『モデル』に見えたよ。お前が『モデル』になれるだなんて、信じられなかったけれど――。でも、お前のプライドってやつ、初めて見た気がした」
 だから。夫としてもやもやと納得できないことはあったけれど、少しは考えてみようと思った。それに多恵の気持ちを、急に知ることになった気がして――。おざなりにしていたけれど、お前をもっとしっかり見てみようと思った……。充の口から静か溢れこぼれてきた言葉が、木枯らしに乗って、多恵子の耳にまでしっかりと届いた。
 だから不満に思っていることは、ぐちぐちしても、俺の気持ちだから我慢せずに言ってみた。お前の中に閉じこもっていた熱いものを受け止めたいと思って、だからお前の肌に抱きついてみた。そしてお前が俺の何を見てくれているのか知ろうとした。全て『モデル』がきっかけ。
「こう言ってはなんだけどさ。結婚した時そのまんまの使い古しの恋愛を、ずうっと惰性でしてきたんだなと俺も反省したよ。俺だってさ、本当は『結婚後なんて、こんなもんかもしれない』と色々と諦めていたんだからさ」
「そうなの」
 男はそこのところ、どう感じて日々を過ごしてきたのか。多恵子は考えたことがなかった。しかし多恵子が女の性をくすぶらせていたように、男である夫も、男だけの事情を抱えてくすぶっていたのかと初めて知った気がした。
「それってどんなものなの?」
 そして多恵子はそれを知りたいと思った。実際に、充ぐらいの年代になった男性がなにを思い何を考え、何を密かに思い悩むのかなど、想像もつかないからだ。
「だからさ。そういうことも含めて、これからちょっとだけでもこうして二人きりになってもいいかなあと思ったわけ。大輔もこれからもっと俺達の手から離れていくからな」
 俺達の恋愛第二期。頑張ってみるか?
 そんな誘いが目の前に差し出されていた。充の笑顔と、そして彼の躊躇いのない手のひらが多恵子を誘っていた。
 なのに。嬉しくてその手を取りたいのに。多恵子はどうしてか泣き始めていた。嬉し涙ではなかった。
「ミチ、ごめんなさい」
 そんな妻の泣き顔を見て、困惑顔の夫が目の前にいる。彼が当たり前のように、また妻の目の前に急ぐように戻ってきてくれた。
「な、泣くなよ」
「ごめんなさい」
 秘密にしていたこともそう。そして一人の女として勝手に『男と夫』を決めつけていたこともそう。もっと早く、もっと素直に、もっと彼に自分から近づいてみれば、あるいは――。あのワンピースを着て、街中に行くことなどなかったかもしれない。あのワンピースはとうの昔に捨てていただろう。
 多恵子はそんな充の腕にしがみつくようにして、彼の胸の中に額を預けた。そして涙が流れるままに彼に詫びた。
「私、裸になる場所を間違えていたわね。間違えていた。もっと早く、ミチの前でなにもかも裸になっていれば、先生に出会わなかったと思う」
 そうすれば、貴方の前でだけの『裸婦』でいられたのに。貴方、ごめんなさい。泣き崩れる多恵子の黒髪を、充は黙って撫でてくれる。
「もう、いいから」
 お前だけじゃない。俺も、悪かったんだよ。
 そんな充の力無い呟きが、多恵子の耳に優しく流れ込んできた。

 

 

 

Update/2009.2.8
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