珈琲を入れ、多恵子は先生に飲ませると、直ぐに買い物に出かけた。
先生が『僕も行く』と言いだしたが、『この雪の中、そんな消耗した身体で、しかも風呂上がりで、いけません!』と多恵子は目くじらを立てて、そのまま置いてきた。
申し訳なさそうな、そんな先生の子供みたいな顔がちょっと可笑しかった多恵子。玄関を出て直ぐに、抑えられなかった笑いを一人でこぼしてしまっていた。
外は相変わらずの天候で、多恵子はフードを被って風の中を前進する。
二丁先ということは、約二百メートル。それほど遠くはないが、こんな天気の日はただ歩くだけで凍り付く。
確かに。大きくはないがそれなりのスーパーがあった。そこに入って、多恵子はあれこれと野菜などを見繕う。
何が良いだろう。身体が暖まって、栄養がとれて……。ふとある物が目について、多恵子は迷わずにそれを籠に入れた。それに合わせた材料を揃える為にスーパーの中を歩いた。
程なくして、マンションに帰る。
ダウンコートのポケットから、藤岡氏が預けてくれた鍵を出した。
鍵穴に差し込む前。多恵子はふとそれをまじまじと見てしまった。なんだか奇妙だった。こんなふうに、人の家の鍵など持ったことない。
家の中に入り、リビングのドアを開けると、とても静かだった。
目の前のソファー。そこに毛布にくるまって眠ってしまった先生がいた。すうすうと寝息をたて、とても疲れた顔で眠っている。やっと何にも囚われずに眠れるようになってくれたのだろうかと案じながら、多恵子はそっと先生の様子を覗き込んだ。やはり何度確かめても疲れ切った顔。白髪交じりの無精髭が、いつになく先生を老けて見せている。いつもはそんな年齢なんか感じさせないのに。独り身だけあって生活感がない男性。だからなのか、その年代にしては目立つ贅肉もなく体型もスマート。定番のシャツやシンプルなカットソー、ジーンズがよく似合っている。そしてソフトな物腰で、どこかまだ青年のような純粋さをちょっと残したままの、そんな独りで生きてきた男性。多恵子とは十までとはいかないが、やや歳が離れている年上の男性。でも今、多恵子が見ている三浦謙はとても疲れ切っていた。もしその疲れた顔が彼にとって年相応というならば、少しだけ哀しさをを誘う気がした。何故だろうか。
そっとして多恵子はキッチンへと向かう。まだ散らかっているものを片づけながら、調理に掛かった。静かにそっと準備する。それを淡々とこなした。
「うん。あ、多恵子さん。帰っていたんだね」
「目が覚めましたか。眠っていてもいいんですよ。起きなかったら、作ったまま帰ろうかと思っていたところです」
丁度良い頃合いで、先生が目を覚ました。キッチンは綺麗に片づいて、そしてコンロの上には暖かい料理が出来上がったところだった。
「そんな。作りっぱなしで多恵子さんが帰ってしまったら、僕はもう面目なさ過ぎて、もう」
そんなふうに困っている先生の顔も可笑しくて、多恵子は笑っていた。
「うちはなんにもしない男二人がいる家ですから、慣れていますよ」
「ああ、でも。いい匂いだ。味噌汁だね」
多恵子はええと微笑んだ。
「カジカがあったんです。カジカ汁。先生、召し上がったことありますか」
「あるある! 本州でいうところのカジカとは違うんだよね。こっちでは海の魚。初めて食べたのは、やっぱり藤岡の家で。札幌に来たその冬にご馳走になったんだ。小型のアンコウみたいな……グロテスクなんだけど、すごい良い味出すよね。最初見た時、あのぬるぬるした皮はなんだと思ったけれど、煮込むとすごく美味い。それから肝、肝が美味い」
「まだ肝は入れていないんです。先生は、お味噌で溶いて肝味噌にするのがお好きですか、それとも」
「いや、そのまんま。煮えたのをかじりたいね。丸ごと放り込んでくれないか」
『良いですよ』と多恵子は最後の仕上げに掛かった。
「あー、そうか。もうカジカの季節かー」
どこか感慨深そうに、やっと先生がリビングの窓辺へと歩いていった。遮光カーテンを開け、レースカーテンだけになる。すると外を目にした先生が『うわ』と驚きの声。
「すごい雪だな。多恵子さん、こんな中を」
「道産子ですよ。慣れっこです。さあ、どうぞ」
いつものローテーブルに、出来上がったカジカ汁を多恵子は置いた。
それなりに食器に調理具が揃っているのは、ここで先生が過ごすことを見越してなのだろうか。ここが住まいではないことは知っていた。それでも偶に寝泊まりをしている様子もある。そして本当はどこに住んでいるか知ろうともしなかったと、多恵子は改めて思っていた。いつもモデルとしてここに来るだけの、本当にそれこそ契約した仕事をこなしてきただけ。先生とモデル、それだけだと思っていた。だから食器に調理器具にもあんまり気がつかなかったと言っても良い。
先生がテーブルに着いた。
「美味そうだ。多恵子さんも一緒に食べないか」
「そうですね。ちょっとお昼も過ぎてしまいましたし、頂きます」
多恵子も自分の椀を取り出して野菜たっぷりのカジカ味噌汁をよそい、先生の向かいに座った。
共に『頂きます』と声をそろえ、ひとすすり。ああ、今日のような冷えた日はこんな暖かい汁物に限ると、多恵子さえほっとしてしまう。同じように、目の前のげっそりやつれた男性も満足そうな舌鼓。
「美味しいよ。ありがとう。生き返ったなあ」
急にがつがつと食べ始めた男っぽさを目にして、多恵子はそっと笑う。でも……と、椀を置いた多恵子はやっと向かい合えた三浦先生に一言。
「先生。もうこんな無茶はしないでください。私、とても驚きました」
椀で隠れていた先生の顔が、ちらりとこちらを見た。動かしていた箸が止まり、そして持っていた椀を先生もテーブルに置いてしまった。
「いや。ついね」
バツが悪そうに、先生は多恵子の直視から逃げてしまう。
「時々、あるそうですね」
「もう当分はないよ。精根尽き果てた」
そういって先生は、それ以上は多恵子でも問われないでくれとばかりに強固で不機嫌そうな顔になる。口うるさい女に説教される鬱陶しさを秘めているのが多恵子にはわかっていた。でも多恵子は続ける。
「それなら構わないのですが。あの、私を描く為に……」
そんな無茶をしないで下さい――なんて、思い上がりかなと思い、多恵子はそこで口ごもってしまう。
やはり先生も口元を曲げ、箸の先で汁の中の野菜をかき回していた。
「描くことに関しては、いくら多恵子さんでも口出しはして欲しくないね。僕がやりたくてやっているわけで、そこのあたりは貴女はただのモデルに過ぎないよ」
「わかっています。でも……」
「そもそも。貴女があんまりにも強烈だからいけないんだ」
『ええ、どうして』と、急な抗議めいた言葉が心外で、多恵子は先生を見上げる。だが、先程まで不機嫌そうだった先生はもう、いつものように笑っていた。
「本当に、貴女という人には参るよ。僕に対していっぺんに『二人の女を相手にしろ』と言わんばかりに、くるくると表現してくれて」
「ですけど、どれも、意図していたわけではありませんよ」
「だからだよ」
そしてまた先生が真顔になる。そしてとりあえず一呼吸、椀の汁をすすると、先生が途端に画伯の顔になって多恵子を見据えた。その気迫に、多恵子は少しばかり後ずさる思い。
「気が付いていないんだね。多恵子さん。貴女はね、描くよりもモデルの方が才能があったということだよ」
「私に才能。まさか」
「描くことに興味があったのだから、まあ、絵画に対しての感性云々は既に下地は出来上がっていたわけだ。だけれどあまりにもご自分が平凡でありきたりと決めつけていたので『モデルなど綺麗どころの仕事』だと思っていただろうし、だから『モデルになれる』だなんて概念がなかったのも無理はない。良いきっかけだったと思ったらいい。それだけじゃないよ。モデルの素質以上に、貴女自身が『自分を知りたい』と強い欲求を持っていればこそ。だから貴女はたとえありきたりなことでも、こだわってこだわり続けて、そしてついに、あのワンピースを着て街に出てしまった」
――違うかな。
先生の突然の見解は、唐突に多恵子の胸を直撃。まるで一本の矢を、瞬時に打たれ命中させられた気持ちになる。
「先生。そう思って。あの日私を呼び止めた時、分かっていたから……」
あの日の狂気。先生と出会いの日であったとはいえ、思い返せば頬が熱くなるぐらい恥ずかしい捨て去りたい日でもあるのだ。
「私、あの日は――」
まるでトラウマのように、それ以上が言えない。
「かなりの極限状態だったのだろうね。でも、僕にはすごく強烈だったよ。そして当たったね。モデルになって、貴女は僕をここまでするほどに描かせてくれたのだからね」
そこは満足そうに先生は笑っている。でも、多恵子には、多恵子には……。
あの白いワンピースを着て青春と恋愛と若さを謳歌していた日々。
それをいつまでも心に着せて、多恵子は置き去りにされてしまったと常に思っていた。
心だけ置き去りのまま。現実、生身の多恵子は歳は取っていくし、ただ妻と母として家にいるだけで、そしてただ流されているのだと嘆いていて。
衣替え。また若き日のお気に入りだった白いワンピースを着もしないのに夏になる度に大事に出して、意味もなくクローゼットの片隅に掛けていた。
あの当時に流行ったたっぷりとしたフレアの裾、ヴェルサーチを思わせる肩まで包み込む大きな襟、そして極太のベルト。大きな飾りボタン。お嬢様風。今では考えられないデザインだが、当時はボディコンを着ない女性なら、この雰囲気のものを選んで、皆がこぞって着ていたのだ。
たった数年のOL生活だったけれど、充と付き合うようになって、初めて大通りのデパートに行って奮発して買ったブランド物だった。
当時の多恵子は、流行っているままに、黒髪を真っ直ぐにするためにぴんと針金を施したのではないかという程の強いストレートパーマをあて、ワンレングスのロングヘアにカチューシャをして、そしてはっきりとした眉を描き、真っ赤な口紅を塗ってこのワンピースを着ていた。どこを歩いても、そんな女性達の華の中、多恵子も確かに属していることに胸を張れた。
そしてそのお洒落をして恋人の彼と落ち合う。その時の、充の嬉しそうな顔が忘れられない。友達に紹介してくれる時の、誇らしげな彼の顔が忘れられない。充が一番、多恵子に熱中してくれて、上機嫌だったのは、このワンピースを着た日だったり、あの頃なのだ。その後、直ぐに彼がプロポーズをしてくれた。
今はぶっきらぼうで『言わなくてもわかるだろ』とばかりに、そんな日常に溶け込んでしまった『夫』という単に傍にいるだけの男性になってしまっても、この時の充も若さに溢れていて、とてもはきはきしていたのだ。
そんな過去の栄光のようなものを、ふんだんにその白色の中に吸い込んでいる一着。
着もしないのに、いつまでも白くしておきたいからと、毎年、クリーニングにだって出していた。御陰で、黄ばむ染みもなく当時のまま真っ白にあのワンピースは保存されてきた。
あの日。残暑とはいえ朝晩は涼しくなってきた頃。そろそろ秋物を出さなくてはと、札幌の少し早い衣替えを一人で黙々とやっていた。
そしてまた、このワンピースを仕舞うのだと、虚しくなったその時。ふいに着てみると、中年になって変わったはずの体型がそれほど影響せずに、若き日のまま着られたことに多恵子は驚いていた。そのまま多恵子は一人、鏡の前でなにかを取り戻したかのように喜びに沸く。『もしかしてまだ、いけるのではないのか』と。それがどう考えても流行遅れであるとわかっているのに。それでも多恵子はなにかに取り憑かれたように、はたまた、そんな自分を甘やかすように言い訳をつけ、そのまま街に飛び出していたのだ。人々の好奇の目が突き刺さっても、どうせ誰も私のことを覚えていやしない。あっさりと忘れてくれるだろう。どうせ、どうせ。
半ば自暴自棄になって、その極限まで上り詰めた女は、札幌の中心でもある大通公園を目指して歩いていた。
――『モデルになって頂けませんか』。
あの一言で、多恵子は真っ白な回想から現実に引き戻された。そこに立っている見知らぬ男性だけが、奇妙に過去を彷徨っていた多恵子を捕まえてくれていた。
名刺を握らされ、多恵子の足下からふつふつと熱い血が頭まで上っていくのが判った。頬が急速に火照る。この滑稽な姿をしっかりと捕らえてしまった人に出くわしてしまった。誰もが流していっても、この男性だけは流さずに、この狂気な中年女を現代という背景の中、多恵子の頭、両手、両足をピンでしっかりと固定し存在させてしまっている。
男性が去った後あまりの恥ずかしさに地下鉄に乗らず、すぐそこでタクシーを拾い自宅まで帰った。そしてあのワンピースを脱ぎ捨て、床にたたきつけ……捨てた。クローゼットにそれが戻ることは二度となかった。
過去という幻惑との決別。それと共に、そんな多恵子を捕まえた男性のところへ行きたいという気持ちになっていた。何故、あんな奇妙な多恵子を捕まえたのか。画家だから? この滑稽さがなにか創作意欲を掻き立てたというのだろうか。自分の姿を見たいと思った。そしてワンピースを捨てた今、どんな自分がいるのかと思い……。
「あのワンピースを着ている多恵子さんは、奇妙だったかもしれない。でも僕にはあれが何かの『表現』に見えたんだと思う。だから呼び止めて、捕まえた。あれが出来てこそ。多恵子さんの中から、あの色香たっぷりの一瞬の偶然の婦人が飛び出してきたわけだ。捕まえておくのが大変だったよ」
私、これからこの心を気持ちを先生に預けてもいい。
そう思った。まだ先生に、描いてもらっていない自分がいた。それを今度は描いて欲しい。新しい欲求。
Update/2009.2.18