―◆・◆ 裸婦 ◆・◆―

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タエコと雪子 1

 

 初めて感じた時のように、彼女の肌の匂いは優しかった。
 だが、どうしてだろうか。ほんの少し、その匂いが強く甘くなっていたような気にさせられたのは――。

 多恵子。
 彼女が毅然とした足取りで、謙が新しく揃えたインテリアへと向かっていく。
 気分も新たに、そしてきっと、彼女を上手く引き立ててくれるだろうと謙が急遽揃えたものだった。

 アトリエの真ん中には、新しいソファーセット。そして小さな丸いローテーブル。
 すべてアイボリーを基調に揃えた。
 以前から思い描いていたものだった。彼女の世代の、彼女達が使いそうな、好みそうなインテリアを揃えてみようかと。
 裸婦画となると、いろいろとアンティークなインテリアを使いたくなるものだが、そこは敢えて謙も試してみようかと、彼女世代の女性雑誌を参考にして目をつけておいたものだった。

 多恵子がその新しいソファーに立つと、思った通りにとても自然に溶け込んだ。
「素敵なインテリアですね。どうして、急に」
 裸になった彼女にも聞かれる。
「如何にも、タエコ世代。が、テーマかな。どうかな。多恵子さんが買いたいと思うような物だと良いのだけれどね」
 すると多恵子が笑った。
「こんなソファーが欲しいと、いつも思っていますよ。でも、うちは狭いし、」
 モデルが終わったら、多恵子さんにあげるよ――と言いかけ、謙は慌てて口を閉ざす。そんな、ある意味『ご家庭』からお借りしている女性を裸にして座らせたり寝そべらせたり、時には際どいポーズを取らせたソファーがアトリエと裸にした画家の匂いをひっさげて家族の団らんに入り込んでいくなど……きっとあちらのご主人は男として堪らないことだろうと思い至ったのだ。
 それでなくとも。快く、妻を裸にして貸してくれている男性。謙は頭が上がらない。そうだ。なにもかも、このアトリエであることは、全てアトリエの中だけのことで、外に出て行くべきは『作品』だけなのだ。
 それを心に再度認識し、謙は鉛筆をかざす。
「さあ、ポーズを」
 鉛筆の先でモデルを促すと、彼女の表情も変わった。
 多恵子が、新しいソファーへと腰をかける。肘掛けがある側に、自然な座り方、そしてそっと身体を傾け、腰を少し捻り乳房がこちらの描き手に見えるように。そしてそのラインが艶っぽく見えるように。顔を少しだけ背け、伏せがちな眼差し――。まるで『そんな顔をしていないで、こっちを向いてくれないか』と言いたくなるような、そんな表情を見事に作りだしていた。
「いいね、そのまま」
 なにも言うことはなかった。そして謙も分かっていた。何故、多恵子が今日という再開の日に、そのポーズを一番最初に選んだのか。
 それは多恵子が迷いを断ち切れないまま、戸惑いと不安でいっぱいの顔で、初めてこのアトリエに来た日に、謙が教えた最初のポーズだったからだ。
 あの時の彼女は、本当に冴えない女性だった。服装のことじゃない。雰囲気のこと。自分はなにも持っていないと嘆きがちで、自信なさげで、そして迷いと躊躇いに包まれていた平凡な女性。着衣で恐る恐るポーズを取っていて、とてもぎこちなく、マネキンのようだった。
 なのにどうだろうか。彼女の環境ががらりと変わったわけでもない。そして彼女がなにか特別なものを手に入れたわけじゃない。今でも至って普通の、一般家庭で夫と息子と共にささやかな日々を送っている主婦だ。それなのに、いまそこに、裸で座っているだけの彼女からは、あの夏と同じような物は一切感じることはなかった。
 シンプルでいて、そして、基本的なポーズだからこそ。あの夏の日と、今の多恵子の違いがよく伝わってくる。
「口元に、軽く曲げた人差し指を口づけるように添えてくれ」
 指示を出すと、多恵子が従う。しんなりと、そして謙が指示をしなくとも、目元も表情も僅かに変えてきた。
 思わず、溜め息が出た。感心の溜め息だ。もうなにも言うことはない。
 そのまま4Bの鉛筆で、スケッチブックにすらすらと、裸の多恵子を描く。でも謙は『裸』には見えなかった。裸以上に、彼女の表情から目を離すことが出来なかった。
 おそらく惚れ惚れとした目で、彼女を見つめていると――自覚していた。
 それだけ多恵子は、とても女らしくなっている。そしてそんな自分に彼女は自信を持っている。『プライド』――多恵子の中に、裸でも化粧気がなくても、そして何も飾る物をつけていなくても、明らかに『堂々と出来る自分』をひっさげて、このアトリエに、そして三浦謙の目の前に戻ってきたのだと強くこちらにも伝わってくる。
「次のポーズ」
 ある程度、スケッチをして、謙は休憩を入れずにすぐさま、多恵子に次を求めた。
 今までは描き手である謙から指示を出していた。そしておどおどしながら裸のモデルを懸命に努める彼女の手を取って足を取って、ポーズを取らせてきた。そしてモデルの多恵子はただそれに従うだけだった。しかしその中でも、彼女はきちんと『こだわり』を持って、どうすればいいのかを不器用ながら探してくれていた。そうして彼女は謙に『日常』を描かせ、『ガウンの母』を描かせ、そして『偶然の婦人』を持って、彼女から謙に筆を握らせるまでに至った。
 そして今、彼女は謙に指示されなくても、自らポーズを取る。
 今度の多恵子は、床に素肌の尻をぺったりとつけて座り込み、そしてソファーに腕を伸ばして、くったりとそこに頭をもたげる。床に座り込みソファーにもたれる気怠そうな顔。どこか憂鬱そうで、どこかに逃げたそうにして、今にも眠ってしまいそうな顔。そのポーズにも覚えがある。謙がいつか教えた物だった。だが多恵子は教えた時のままの姿は見せない。そこにモデルとして持ち込んできた『多恵子の感性』をきちんと上乗せして、三浦謙に見せている。
 それにも謙は文句なしに頷いて、鉛筆を紙の上に走らせる。
 『次、次』。謙がそう言うたびに、多恵子は次々と見覚えのある基礎的なポーズを取った。基礎的で三浦謙が自ら教え込んだ物を、彼女は今日のポーズとして見せてくれる。
 クロッキーではあるが、いつものワンサイクルのタイムを無視し、謙は絶え間なくモデル多恵子にポーズを要求した。しかしそのスピードにめげることなく、多恵子は謙を満足させる『表現と表情』でなんなくやりこなす。見事だった――。
 見事なだけではない。どのポーズにも明らかに『色香』が漂っていた。本当に彼女が『偶然の婦人』を経て、『女』になってここに戻ってきたのが、よく解るほど。
 多恵子はもう、おどおどした自信のない中年女ではなかった。年相応の自分と向き合って、だからこそ、今の自分も美しくあろうと今まで以上にこだわりを持って胸を張っている女性。それこそ不惑の年齢を前にして、新たに花を咲かせようとしている『女盛り』を見せつけてくれているようだった。
 では、少し走りすぎたので、ここら辺でとりあえずのインターバル、最初の休憩を取ろうと最後のポーズを謙は要求する。
「もう、ワンポーズ。これを描いたら、少し休憩をしよう」
「はい」
 多恵子の声も落ち着いてる。自信にプライド。だからとて、嫌味ではなく、それが彼女自身を今、綺麗に磨き上げている。ぴんと背筋が張った立ち姿だけでも、とても艶美で、それだけでも謙は見とれてしまうほど……。
 そんな多恵子が、次はどのようなポーズを取るのだろうかと胸を躍らせながら謙はスケッチブックの紙をめくる。――僕は他にどのポーズを教えただろうか。次は僕が教えたどのポーズを取ってくれるのだろうか。どのポーズも今日の多恵子は、とても僕を期待させ、ときめかせてくれる。在りし日のありきたりな女が、ありきたりの中でこんなに綺麗になって。――そんな胸のときめきを抱きながら、多恵子が取ったポーズを確かめ、顔を上げる。
 だが、ワンサイクルの最後に多恵子が選んだポーズは、謙が今までさせたことのないポーズだった。
 彼女の裸体がソファーから離れ、謙が座っているイーゼルの近くにあった。その至近距離で、多恵子は尻を堂々と謙に見せるよう、後ろ姿でそこに立っている。
 そして彼女が肩越しに、ちらりと謙を見る。その目線もまた、伏せがちに。でもしんなりと謙だけを求めるような眼差し。腕の影からは見えそうで見えない乳房を包み込む指先、それがちらりと見える後ろ姿。
 後ろ姿と、艶っぽい眼差し、そして堂々としたその尻を目の前に見せつけて、まるで謙を誘っているようだった。
「うーん。まあ、いいかな」
 何故、僕が戸惑う? 一瞬、そう思い、多恵子を責めたくなったのはどうしてなのか。謙自身が狼狽えていた。
 艶美な乳房がみえるわけでも、特に艶っぽく腰をくねらせているわけでもなく、ただすっとそこに後ろ姿で立っているだけなのに。その乳房を包み込んでいるほんの僅かな指先が、彼女の愛らしい丸みをこちらに想像させようと駆り立てているようだった。そして目の前にただ置かれただけの尻なのに、なんだか目の前に来ただけで妙に迫力があって、迫られているようで――。
 そんなことを思いながら、多恵子がそれとなくしただけの後ろ姿に、ときめき以上のざわめきを覚えながら、謙はスケッチを進める。
 ――そうか。シンプルなポーズほど、多恵子の色香はよりいっそうに強く感じるのだな。と、痛感させられる。
 そして多恵子もそれが解っているようだった。ここまでは謙に教わってきたポーズで、絵描き三浦謙の受け止め方を窺っていたのだろうか。そして最後は、モデルとして試みようとしている多恵子なりの独創性を突きつけてきたようだった。
 それも、謙が育ててきた裸婦モデルとしては、文句のつけようもない自己性と表現力。満足だった。
 さっと描く中、そんな多恵子を見ているうちに、ふとした閃きがまた謙に舞降りてくる。
 イーゼルを前にしていた椅子を立ち上がり、謙は後ろ姿で立っている多恵子の元へ歩み寄る。
 そこでなにもつけず、飾らず、ただ無心にポーズを取っていた多恵子を見つめた。やっと多恵子がモデルの顔から、いつもの彼女らしいほんわりとした表情になり、訝しそうに謙を見上げてきた。
「髪を結い上げてみようか」
 多恵子の黒髪をひとつに束ね、謙はそれを多恵子の頭のてっぺんまでねじり上げてみた。
 そこに白いうなじが表れ、謙の胸の鼓動が高まる。細くて白く、そして今にも多恵子特有の自然な石鹸のような香りがしてきそうな微かな体温。それを感じ取り『描きたい』と言う欲望に駆られた。
「飾り気のないヘアゴムとか持ってきているかな」
 今日も彼女は、あの白いふわふわとした髪飾りをつけてきていた。どうしたことか、近頃、彼女はあれがお気に入りのよう。夏の日のシフォンブラウスのように、彼女にとって、今、一番自分を盛り立ててくれるアイテムなのだろうと謙は思っていた。
 しかし、今日の多恵子には飾りは欲しいとは思わない。
「黒いヘアゴムなら予備で持ってきています」
「じゃあ、それでうなじが出るように結い上げて」
 多恵子は素直に『はい』と返事をすると、そのまま裸で、手荷物があるリビングへと出て行った。

 帰ってきた多恵子が、無造作に髪を結い上げる。
 そこに現れたうなじをひと眺めした謙は、多恵子の両肩を包むように自分の手を置いて、彼女の顔をまじまじと眺めた。
 先程まで、毅然としていた多恵子。なのに謙に穴が開くほど見つめられたせいか、いつもの彼女のようにふっと恥じらいを見せ始める。だが今度は謙が『絵描き』として歴とした気持ちで、黒髪をアップにした多恵子を確かめる。
「うん……。これでいいだろうと思ったのになあ。意外と寂しく見える」
「寂しい……ですか」
 今日の彼女に飾りは要らないと思ったが、実際にただ結い上げただけでは、急に物足りなくなったと感じた謙。うなじから漂う色香が抑えようもないほどに、多恵子を取り巻き始めてしまったのだ。なにかその色香を受け止める何かが、欲しい。
「貴女を引き立てるアクセサリーが欲しいところだねえ。できれば、少し重厚感がある、大人になった女性だからこそつけられる『本物』がいいなあ。今のタエコにこそ似合いそうな。何がいいかな……」
 そんな独り言をいつのまにか呟きながらも、謙は多恵子の顔を覗き、首筋を眺め、最後は両肩を包んだまま全身を見下ろした。多恵子が『先生』と小さく呟くのが聞こえた。『そんなに見ないで下さい』とでもいいたそうな顔。そんな時は、モデルではなく、多恵子なのだなと謙は微笑んでしまう。これが、あれだけ大胆に謙の目の前に、でんと尻を見せつけてきた女とは思えなかったから、今度は可笑しくなってくる。
「そのまま動かないで」
 その笑みを噛み殺しながら、謙は多恵子のうなじをもう一度眺める。
 そこに鉛筆の尖った先端を近づける。黒髪を結い上げたうなじの、髪の生え際。そこに尖った鉛筆の芯を宛う。そして櫛の代わりに、すっと細い黒髪を、後れ毛になるように細く引き出してみた。すると、多恵子がびくっと肩をすくめた……。謙もそれに気が付いて、鉛筆の先端を多恵子のうなじからとりあえず離してみる。
「ごめん。もしかして苦手なところだったかな」
 多恵子から返事はなかった。ただ案の定、彼女の白い肌が可愛らしく粟立ち、乳房の先もきゅっと固くなってしまい、それ以上に髪を結い上げたせいか、謙の目の前にある小さな耳が真っ赤に染まっていたのだ。
 だが謙は素知らぬ顔で、後れ毛をあと少し引き出し、そして多恵子の頬に沿うような横髪も引き出した。
 ほんの少し恥じらっている多恵子の顔を謙は両手で無理矢理上に向かせる。そしてもう一度、謙は多恵子の顔を覗き、彼女の黒目を見つめた。同じように多恵子も謙を見つめ返してくれる。まだほんわりとしたいつもの多恵子の顔で、でも、その顔で懸命に謙の今の顔や目の色を探してくれているのが解る。画伯がなにを考えているのか、多恵子が謙を追ってくるのが良く伝わってきて、それが非常に心地よい。
「うん。これで行こう」
 絵描きの顔でそう言ったせいか、やっと多恵子の顔も毅然としたモデルへと戻っていった。
「今日はこれでとりあえず描いてみよう。今の後ろ姿をもう一度。次のスケッチの日には、僕がイメージしたアクセサリーを見繕っておくから、今日の感触を忘れずに」
「はい、先生」
「続けよう」
 謙がイーゼルに戻ると、多恵子も先程の堂々としたモデルに戻り、大胆な尻を見せる後ろ姿を整えた。
 うなじから漂う色気が、よりいっそうに『タエコ』を大人の女に仕立て上げる。
 眼差しも、仕草も、そして内側から滲み出てくる透明感に溢れた彼女の気構えも。それが三浦謙の指先を動かし、さらに描かせていた。
 だが、謙は鉛筆の先を懸命に動かしながらも、そっと思い返している。
 多恵子がふと反応した生え際。そこにそっと触れただけの……多恵子の感じ方。それを密かに愛おしく感じたのは気のせいなのだろうかと。
 その日のスケッチが終わり、謙はこの日の為に新しく降ろしたスケッチブックの表紙裏に、白コンテで『タエコ』と記す。
 今日からこのスケッチブックに、ありったけの『タエコ』を掴み取って書き写していく意欲の表れだった。

 

 

Update/2009.3.8
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